萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第50話 青葉act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2012-07-18 23:50:24 | 陽はまた昇るanother,side story
時よ、水の廻りに



第50話 青葉act.1―another,side story「陽はまた昇る」

デスクライトのあわいブルーに救急法のファイルを開く。
このページを開くのも1ヶ月ほど経って、内容の大半は頭に入ってくれている。
もう何ヶ所かチェックペンを引いた跡も鮮やかで、ペンでの書き込みも増えていく。
この書き込みの分だけ、英二に教えられた記憶が温かい。

…やっぱり、一緒の時間は良いな、

ふっと心に想うことへ微笑んで、大切にページをめくった。
このファイルを英二が作りあげた現場に、今週末は一緒に行ける。
この今夕に決めたばかりの予定が嬉しい、けれど内山には申し訳なかった。

「…結局、いつにするのか決められなかったな?」

今週末は大学の講義が無いから、内山からの誘いを予定に入れられた。
けれど山岳救助隊の自主トレーニングに、関根たちと参加することが決ってしまった。
その翌週からは大学の講義が毎週入ってしまうから、内山と食事する時間をとることが難しい。
どうしたら良いかな?そんなことを考えている裡、扉がノックされた。

「周太、勉強してたんだ」

開いた扉から大好きな笑顔が入ってきてくれる。
この笑顔が今夜も一緒にいてくれる、うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、してたよ?…このファイル、全部頭に入れたいんだ、」

ほんとうに全てを記憶したい、このファイルには英二の7ヶ月間の努力が刻まれているから。
この努力が自分への真摯な想いに満ちていると、ファイルを読むほど心に沁みて泣きそうになる。
けれど、英二には笑顔を憶えていてほしいから、今も笑っていたい。
そんな想いの向こうから、きれいな笑顔が訊いてくれた。

「周太、なにか質問ある?」
「ん、あのね、止血リンクの作り方なんだけど。あと、上腕の稼働について、もういちど教えてくれる?」
「うん、いいよ、」

きれいな笑顔で頷いて、ベッドに並んで腰かけてくれる。
壁に凭れて肩寄せてくれる温もりが幸せで、嬉しい気持ちのなか教わる勉強は感情の記憶にもなっていく。
こんなふうに1ヶ月間ずっと、記憶と知識を与えてくれた婚約者が愛おしい。
そして尚更に、置いて行かなくてはいけない現実が、痛い。

…ごめんね、英二

ぽつり、
心に想いこぼれたと同時に、カーテンの向こう窓を水滴が叩く。
水滴の音は瞬く間に数を増やし、雨音が小さな寮の部屋を満たし始めた。

ざああっ…ざあっ、

激しい夜来の雨が降る。
夕方に見た暗色の黄昏どおりに雨が訪れた。
自分の代わりに空が泣いてくれている?そんな想いに周太は微笑んだ。

「雨、降って来ちゃったね、」
「うん、夕方の空の通りだな、」

雨音に立ちあがり、英二はカーテンを開き空を仰いだ。
暗い夜の彼方から白い矢が窓を叩く、見上げる白皙の横顔は心配だと想いが滲む。
その心配の相手を今、自分も同じように想ってしまう。周太はベッドから降りると、そっと広やかな背中を抱きしめた。

「光一なら大丈夫…きっとね、山っ子は山に護られてるよ?」

とくん、

背中越し、鼓動が1つ心を敲く。
ほら、やっぱり英二は今、大切なザイルパートナーを想っていた。
こんなふうに心を理解できたことが嬉しい、嬉しい想いごと抱きしめる腕に、ぎゅっと力を入れた。

「英二、心配になっちゃうね?…でも雨の後なら、強盗犯があまり動かなくて良いかもしれないよ?」
「…どうして周太、俺の考えが全部解かるの?」

きれいな低い声が驚いたよう訊いて、抱きしめている腕に掌を添えてくれる。
ふれる温もりが気恥ずかしくて嬉しい、けれど部屋は今、あわいブルーの薄闇に沈んでいる。
これなら赤い首筋も見えないはず、羞みを隠してくれる夜に力を借りて、周太は正直に微笑んだ。

「ん、わかるよ?だって…夫のことなら解らないと、困るでしょ?」

夫のことなら、なんて言うのは気恥ずかしい。いくら婚約者が相手でも。
けれど婚約者を「夫」と呼ぶことは将来への約束、先があることへの誓い。だから言っておきたい。
こうした言葉ひとつごとの約束が、英二の心に「いつか」があると信じられる余裕と、安堵を育てるはずだから。
きっと「いつか」周太は無事に帰ってくる、そんな安心があれば別離の瞬間も英二は、希望を見つめられるはずだから。

「周太、それ、すげえ嬉しいんだけど。ね、もう一回言って?」

嬉しそうに笑って英二は、くるり身を翻して周太を抱込んだ。
長い腕に抱きしめられて見上げて、切長い目を見つめて周太は笑いかけた。

「あの…夫のことならわからないとこまるでしょ?」
「可愛い、周太。俺、夫になるんだよね、君の。ね、周太?」

幸せな笑顔が華やいで、きれいな低い声が弾んでくれる。
こんな顔でこんな声を出してくれる、うれしくて気恥ずかしくて、幸せで周太は素直に頷いた。

「ん、なるね?…だっておよめさんにしてくれるんでしょ?」
「はい、」

幸せに笑って頷いて、カーテンを閉じた長い腕が抱きあげてくれる。
ふわりベッドに運ばれ抱きよせられる、抱えてくれる白いシャツの胸元に固いものが頬ふれた。
ふれる小さな輪郭に微笑んで、そっと周太は訊いた。

「お父さんの合鍵…ちゃんと持っていてくれてるね?」
「うん、これは俺の宝物だから、」

切長い目がすこし誇らしげに笑んで、長い指で胸元から鍵を引きだしていく。
細い頑丈な革紐に結わえられた銀色の鍵を、白い指に添えて見つめながら英二は笑ってくれた。

「この鍵があるから俺は、周太を護れるんだ。お母さんのことも、家も。そう、お父さんが許してくれてる、って信じられる、」

この合鍵は、父が亡くなった瞬間もその胸に提げられていた。
父も英二と同じように首から提げて大切に持っていたから。そんな父の習慣を知る前から英二は、こうして同じように持っている。
どうして英二はどこか父と似ているのだろう?いつも不思議に思うこと、それを今も見つめながら周太は微笑んだ。

「ん…お父さん、英二のこと好きだよ?…俺が英二のこと、だいすきだから、ね…」
「周太、」

幸せな笑顔が名前呼んで、唇に唇が重ねられる。
ふれる温もりの優しさに、心ほぐれて穏やかな時が流れだす。
そっとキス離れて、ふと周太は訊きたいことを尋ねた。

「あのね、英二?俺、内山との約束をキャンセルしたよね、こういう時って、どうしたらいいかな?」
「うん?ああ、事例研究の話をするんだよな、」

ちょっと考え込むよう英二が遠くを見た。
その顔が心なしか薄赤い?熱でもあるのだろうか、すこし心配になって周太は白皙の額に掌を当てた。

「どうしたの、周太?」
「顔、ちょっと赤いから…熱でもあるのかと思って、でも大丈夫かな?」
「うん、大丈夫だよ、」

当てた掌に切長い目が微笑んでくれる、その様子は元気そうに見えた。
熱は特にないかな?安心して額から離そうとした掌を、長い指の手が包みこんだ。

「周太のこと、好き過ぎるって熱ならあるけどね、」

そんなこと言われたら恥ずかしい。
ほら、首筋が熱くなってきた、きっともう赤くなってしまう。
もうこんなに気恥ずかしいのに、白皙の手は周太の掌を端正な口許に運んで、そっと手の甲にキスがふれた。

「…っ、」

熱が頬にも昇ってしまう、もう額まで熱くなってきた。
きっと真赤な顔になっているのが恥ずかしい、どうしよう?
恥ずかしくて俯いた首筋に、やわらかな熱が触れて声がこぼれた。

「あ、」
「周太、可愛い…感じてくれるんだね、」

きれいな低い声が耳元で囁く、幸せそうで艶麗なトーンに心惹きこまれてしまう。
惹きこまれる首筋を熱い唇がなぞりだす、熱の軌跡がすべりおちてシャツのボタンが外された。
今日はまだ月曜日、それなのにこんなことするの?途惑って周太は英二を見つめた。

「まって、英二?月曜日だし、声聞かれちゃったら、」
「大丈夫だよ、周太?ほら、」

切長い目が優しく微笑んで、そっと耳を澄ます。
ふっと訪れた静謐の底は雨音に包まれて、廊下の音もデスクライトの音すら聞こえない。

「雨で音が消されてるだろ?声も音も聞こえない、だから周太、許してよ…ふれさせて?」

端正な貌が誘惑に微笑んで、きれいな低い声がねだってくれる。
こんな笑顔で誘われて断れる人なんて、いるのだろうか?
もう熱が心にまで廻って頭ぼうっとする、微熱に浮かされるよう周太は素直に頷いた。

「はい…痕つけないなら、いいよ?」
「うん、痕つけないようにする…周太、」

呼ばれた名前が、あまく響いて熱のキスが唇ふれる。
窓ふれる激しい雨の音も優しい音楽に変わって、こぼれる吐息を隠して包む。
こんなふうに触れ合うことは許されない警察学校の寮、けれど雨音に包まれて誰に気付かれることもない。
黄昏に呼ばれた雨に、ふたり今夜を守られて。

夜来の雨、きっと朝の緑は瑞々しい。



御岳渓谷は晴れていた。
真青な空のもと稜線は瑞々しい、風ゆらす梢が銀に光る。
登りあげた岩の上で大きく一息ついて、瀬尾が笑ってくれた。

「出来たよ、俺にも…ね、出来た、」

あまり運動は得意ではなさそうな瀬尾にとって、ザイル確保も無しで登攀するボルダリングは「挑戦」だったろう。
周太も初めて頂上に着いたとき嬉しかった、同じように今日も嬉しい気持ちで友達に笑いかけた。

「ん、ボルダリングって、出来ると嬉しいよね?」
「うん、すごいね?自分の手足だけで登るって…感動するね、」

息弾ませたボーイソプラノが、嬉しそうに笑っている。
ふたり並んだ岩の下から、後藤副隊長が透る深い声で呼びかけてくれた。

「瀬尾くん、気分はどうだい?」
「はい、最高です!」

即答して笑った瀬尾に、深い瞳が愉しげに微笑んだ。
そして後藤も岩に取り付くと、あっという間に登りあげて横に並んでくれた。

「自分だけの力で登るって、気持いいだろう?」
「はい、なんだか少し自信がもてます、」

すこし緊張した面持ちで、けれど嬉しそうに瀬尾は答えている。
ずっと警察官に憧れていた瀬尾にとって、後藤副隊長も憧れの対象なことは月曜日に話していた。
あのときの言葉を思い出して、周太は口を開いた。

「後藤さん、瀬尾は後藤さんの本も読んでいるんですよ、」
「おや?救助隊の本かな、奥多摩の本かな?どっちにしても恥ずかしいなあ、」

照れくさげに首筋を撫でながら、頼もしい笑顔が首を傾げる。
その隣で瀬尾も気恥ずかしげに、けれど明快に答えた。

「どちらも読みました、それで救助隊の本を今日、持って来たんです。あの、サインをお願い出来ますか、」
「俺が、サインするのかい?いや、これはちょっと照れくさすぎるなあ、」

ますます後藤は照れくさい顔になって、けれど笑顔は温かい。
きっと後藤なら承諾してくれるだろうな?この旧知の山ヤに周太は信頼と笑いかけた。

「後藤さん、瀬尾は後藤さんにお会いするの、楽しみに来たんです。サインして頂けませんか?」
「周太くんにお願いされると、しない、って訳にはいかないなあ、」

気さくに笑って後藤は頷いてくれた。
そして岩から降りると、瀬尾が差し出した本に後藤は照れながらサインをしてくれた。

「下手くそな字で恥ずかしいがな、まあ、許してくれよ、」
「こちらこそ図々しくすみません、ありがとうございます、」

幸せそうに本を受けとると、瀬尾は頭を下げた。
日焼けした頬をすこし赤らめ撫でながら、後藤は英二たちの方を指さし微笑んだ。

「じゃあ、そろそろ宮田と国村のテストを始めるかな?ふたりとも見学するかい?」
「はい、したいです、」

つい即答して周太は頬が熱くなった。
これでは「英二を見に来ました」と言っているみたい?恥ずかしさに俯きかけた隣、瀬尾も楽しそうに笑ってくれた。

「俺も見学したいです。宮田くんは学校でも今、すごいんです」
「ほう、宮田は何がすごいんだい?」

大きな岩の方に歩き出しながら後藤が尋ねてくれる。
それに瀬尾も嬉しそうに答えてくれた。

「みんなで背筋力のテストをしたんです、そうしたら319.8kgで。みんなで、すごく驚きました」
「そうか、宮田、そんなに背筋力が上がったんだな?大したもんだ、まあ、毎日、国村と色々やってるからなあ、」
「やっぱりトレーニング、ハードなんですね。宮田くん、機動隊のフル装備での訓練でも、全然息切れしなくて、」
「うん、それくらいなら宮田には軽いだろうな。あいつ、標高3,000mで80kg背負ったまんま、氷の壁を登るんだから、」
「平地で80kgでもキツイのに、すごいですね?」
「だろう?でなきゃ8,000mになんて登れないからなあ、」

嬉しげに頷く後藤の笑顔は誇らしげで、英二への想いがにじみだす。
こうして英二の同期から成長を聴けることは、後藤にとって幸せだろう。
なんだか温かい想いで2人の会話を聴いているうち、英二たち3人のいる岩場へと着いた。

「国村、宮田。忍者返しの岩に移動だ。ちょっと見させてもらうよ、」

声に振向いた3人は、誰もが長身で細身だけれど逞しい。
いつも英二と光一は背格好が似ていると思ってきたけれど、こうして見ると関根も似たような姿でいる。
なかでも英二は一番背中が広いかな?そう見ていると瀬尾が、こちらに来た関根に笑いかけた。

「関根くんって、なんか宮田くんや国村さんと似てるね?」
「そっか?俺、あんなにカッコいい体型かなあ?だったら嬉しいけどさ、」
「あの2人ほどは、関根くんはスタイルよくないけどね、」
「お、瀬尾、結構言ってくれんね?あははっ、」

歩きながら話している瀬尾と関根は、全くタイプが違うけれど仲が良い。
いかにも育ちの良い大人しそうな瀬尾と、快活だけれど大人びて「叩上げ」という言葉が似合う関根は正反対だ。
けれど2人とも本質的に人懐こいところが似ていて、大らかな優しさが2人とも温かい。
どっちも良い友達だなと会話を聴いていると、ふわり花の香が頬撫でた。

「周太、1か月ぶりだね。ココんとこ色々ありがとね、」

救助隊服姿の光一が、すこし気恥ずかしげに笑いかけてくれる。
この「色々」の意味が周太にとっても気恥ずかしい、首筋が熱くなりながら周太は微笑んだ。

「俺は、なんにもしてないよ?でも、光一が元気そうで良かった、」
「うん、俺は元気だよ?まあ、本音ちょっと寂しいけどさ、ごめんね?」

光一の「寂しい」が自分にもよく解かる、だから申し訳ない気持ちにもなってしまう。
それでもここは正直にワガママ言う方が良い、きれいに笑って周太はワガママを言った。

「寂しいの、我慢してね?今、俺は英二と一緒で幸せなんだから、良いでしょ?俺のこと好きなら、うれしいでしょ?」
「そりゃね、君が笑っているのは嬉しいけどさ?でも俺だって英二と一緒にいたいからね、今夜は3人一緒に寝ようね、」
「ん、いいよ。でも、ちょっとは遠慮して?英二は俺のこんやくしゃなんだからね、」
「嫌だね、遠慮しないよ。英二は俺のアンザイレンパートナーで愛されてるからさ、えっちしたいって言われるくらいにね」
「それは俺がいなくなってからにして?」

お互い言いたいこと言合って、周太は大切な幼馴染に笑いかけた。
けれど透明な目は強張ったよう瞠られている。

…どうしたのかな?

不思議に見上げた視線の先、無垢の瞳に光がきらめいた。
そして透明なテノールが低く哀しみ抑えるよう呟いた。

「…いなくなってから、とか…言われるの嫌だね…いなくならないでよ、」

河原を歩く登山靴が止まる、雪白の貌が俯けられて、白い手は救助隊制帽のひさしを下げこむ。
目深く被った制帽の蔭から涙こぼれるのを見つめて、すこし伸びをすると周太は涼やかな目許を指で拭った。

「ごめんね、光一。そういう意味じゃないから。ふたりがそうしてるとこはみてられないってことだから、」
「そういう意味なんだね?…ちゃんと一緒にいてくれるよね、ずっと。約束したよね?」

いなくなってから。
この言葉の意味の重たさは、光一の心にも重く涙を含ませる。
そのことに気付かされている今、あらためて山っ子の想いを美しいと愛しく思う。
こんな想いが与えられている今が嬉しくて護りたくて、周太は約束で綺麗に微笑んだ。

「ん、一緒にいるよ?すこし離れなきゃいけない時はくるけど、でも、必ず帰ってくるから、」
「うん…でも俺は、離さないよ?だって、君は俺に時計をくれたよね、それも『MANASLU』をくれたんだ」

周太の笑顔に無垢の瞳が微笑んでくれる。
そして透明なテノールが、静かに約束を誓ってくれた。

「あいつが君から離れそうでも、俺は君を離さない、特別な山の秘密だから…信じてよ、」

底抜けに明るい目が真直ぐ見つめてくれる、無垢の真摯が心照らしてくれる。
どうしてこんなに想ってくれるの?どうしてこんな自分を「山の秘密」で愛してくれるの?
この不思議を見つめながら周太は素直に頷いた。

「ん、信じてるね?」

どこか不可思議な光一の想いは人の尺度では解からなくて、自分もどこまで解かっているのか解らない。
けれど、どこまでも真直ぐに与えられる想いなら、真直ぐ受けとめたい。
この想いに微笑んだ周太の目の前で、雪白の貌が幸せな笑顔にほころんだ。

「約束だからね、周太?俺の、山桜のドリアード。ずっと君を護るよ、」

御岳の清流の水音に、山渡る梢の風音に、山っ子の約束が微笑んだ。



(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第50話 青嵐act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-07-17 23:57:49 | 陽はまた昇るside story
見つめる。現実と夢と、想い



第50話 青嵐act.3―side story「陽はまた昇る」

薄暗い朝靄のなか、蹲った男の頭部を押えた手から血がこぼれていく。
凶器らしきものは持っていない、さっと様子を見取って光一は英二に訊いた。

「小屋に移す?」
「いや、なるべく動かさない方が良い。頭部だから、」

頭部の損傷が打撃によるものだと、脳への損傷が怖い。
そして男性には微かな震えが見られる、もし痙攣なら脳が損傷した可能性が高い。

「救急用具を取ってくる、」

言って、小屋へと振向くと周太が立っていた。
いつの間に背後にいたのだろう?
すこし驚いた英二に、その掌に抱えた救急用具一式とヘッドライトを差出し、言ってくれた。

「手伝う、指示出して、」
「ありがとう、」

微笑んで頷くと、拳銃をホルスターに納めて英二は救急用具とライトを受けとった。
渡してくれる周太の顔は緊張に堅い、こうした怪我人の現場自体が初めだから無理もないだろう。
こういう時は仕事させる方が人間は落着く、顔をのぞきこんで英二は周太に指示を出した。

「周太、ツェルトを持ってきてくれ。保温する、」
「はい、」

頷いてすぐ小屋の中に取りに戻ってくれる。
その足音を聴きながらヘッドライトを装着すると、英二は片膝をついて救急用具のケースを開いた。
感染防止用グローブを嵌めていく隣、手帳を広げながら光一も片膝ついて英二に微笑んだ。

「始めるよ?」
「よろしくお願いします、」

お互い山岳救助隊員の顔になって、男性に向き直った。
気配に男性がこちらを見てくれる、その目を見つめて光一は事情聴取を始めた。

「声が聴こえますか?どうされました?」

光一の声に反応して、ゆっくり男性の目が瞬く。
すこし荒い息を吐きながら、男性は口を開いてくれた。

「急に殴られて…財布を盗られました、」

秩父山系の強盗犯が、奥多摩に来た。

瞬時に脳裏閃く可能性に、そっと息を呑んだ。
もう4月から危ぶまれていた犯罪発生が、現実になったかもしれない。
心裡に息を呑んで用具のセッティングをしていく隣、冷静なテノールの声は男性に尋ねた。

「あなたの住所と、お名前を教えて頂けますか?」
「Tと申します、家は杉並区荻窪…あの、あなた方は、」
「青梅署所属の山岳救助隊です、今は夜間の入山は規制されていますが、なぜこの時間に?」
「はい…朝陽を撮影したかったんです、それで夜、日原林道に車を停めて…小雲取の山頂で男がいて…話しかけられて、殴られて」

彼の目的と状況は整合する、おそらく嘘は無い。
犯人の手口も秩父山系の強盗犯と似ている、おそらく同一人物だろうか?考えながら英二は仕度と観察を進めた。

「Tさん、犯人の特徴は?」
「50代位の男です、登山客のように見えました…ヘッドライトの灯りだけですが、」
「右と左、どちらに足音は遠ざかりましたか?」
「左です…七ツ石山の方へ、」

男の答えは整然として言葉も明瞭、意識障害は少ないことが看てとれる。
見た目の出血は激しいけれど脳への打撃は大丈夫かもしれない、すこし安心しながら英二は、光一に声を掛けた。

「始めていいですか?」
「よろしくね、先に無線を入れるよ。受傷は頭部だね、」
「はい、打撲の裂傷だから、動かすのは慎重にした方が良い。そのこと伝えてくれますか?」
「了解、処置よろしくね、」

返事しながら光一は無線を繋いだ。
無線連絡の会話を聴きながら感染防止グローブを嵌め終えると、英二は負傷者に笑いかけた。

「すみません、脈拍を見せて下さい。右手からよろしいですか?」
「はい…お願いします、」

彼の右手をとり脈拍の確認を始める。その拍動がやや弱く、掌は冷たく汗ばんでいる。受傷と襲われたショックだろう。
顔面は鼻血は出ているけれど、殴られた痕跡が青痣に見えるから打撲が原因だと考えた方が良い。
耳からの出血も無く吐瀉の形跡もまだ無い、これなら脳までの打撃は重度では無いだろう。
けれど時折に震えがはしる、今の気温は10度以下と低い為の震えか、痙攣なのか判別し難い。
観察をしながら脈拍を15秒計測し終えたとき、ツェルトを抱えた周太が傍に片膝をついた。

「ツェルトを掛けます。あと、数値を教えて、」

震える被害者の体にツェルトを掛けると、登山ジャケットのポケットから手帳とペンを出してくれる。
いつもなら光一が計測メモを担当するけれど、今は無線連絡に忙しい。
この1ヶ月ほど周太は英二から現場の救急法を教わっている、きっと代わりが務まるだろう。
そう判断して英二はパートナーとして周太に微笑んだ。

「では、よろしくお願いします。脈拍29、」

言われた数値を周太のペンがメモしてくれる。
それをのぞきこむと、きちんと×4の数値を書いてくれていた。
こうした計測では15秒の回数に4を掛けて毎分での数値を記録する、その基本を周太は実践してくれた。
この1ヶ月に学んだことが身に着いているな?嬉しく微笑んで英二はリフィリングテストを始めた。
右手示指の爪先端を5秒間つまみ、ぱっと放す。その爪床のピンク色が戻るのに4秒かかった。

「4秒、」

短く周太に計測値を告げ、心裡に英二は溜息を吐いた。
リフィリングテストは毛細血管再充満時間の計測方法として、循環の初期評価に使う。
脱水や外傷、ショック、低体温などで組織還流が影響を受けた場合、爪床の色調が戻るのに2秒以上かかる。
そして彼は4秒、受傷状態とショックが思い遣られる。それでも英二は負傷者に微笑んだ。

「はい、大丈夫です。いちばん痛い所は、どこですか?」
「頭です…あと、肩を少し、」
「解かりました、では頭から看させて下さい、」

問いかけながら頭部の髪をかき分け看ると、大きく裂傷が開いている。
感染防止グローブの指先から血液が滲みだす、まだ受傷後の時間経過が少ない。
こんな様子からも彼の証言が嘘ではないと解かる、軽く頷いて英二は周太をふり向いた。

「周太、念のためグローブを付けておいて、」

指示を出しながら仕度しておいた清拭綿を取ると、そっと傷の周りを拭った。
裂傷の周りが腫れあがり打撲の痕跡が看てとれ、清拭綿には赤さびた汚れが付着した。
この色調と粒子は、おそらく金属製の錆だろう。

―斧か何かで、殴ったんだ、

凶器の内容は逮捕時の証拠として重要、その凶器が何かは受傷状態から解かりやすい。
この今も看て取れた凶器に凶暴性が想われて、密やかに奥歯を噛みしめてしまう。
ツェルトを抱えてきた藤岡に目配せすると、そっと英二は告げた。

「おそらく犯人は金属製の鈍器を持っている、そう国村に伝えて、」
「了解、」

すぐ意味を察して頷くと、無線交信中の光一へと藤岡は伝言してくれる。
無線で話しながらも光一は頷いて、犯人の凶器についての報告も入れた。

「被害者の受傷状態から、犯人は金属製の鈍器を持っている可能性があります…はい、…解かりました、」

きっと犯人は血染めの凶器を所持したまま、まだ山内のどこかにいるだろう。
おそらく逃走したであろう七ツ石山方面だと奥多摩小屋がある、そこの宿泊客たちが外へ出ていないと良い。
思わず小さなため息吐いた時、藤岡が小屋の壁際にテントマットとツェルトを敷いてセッティングしてくれた。

「宮田、処置が終わったら移すだろ?」
「うん、ありがとう、」

声に振向いて頷いた向こう側、関根と瀬尾がシュラフを片づけ出発の準備をしてくれている。
出来る協力をしてくれる様子に微笑んで、セットしておいたシュリンジを取ろうとした時、周太が手渡してくれた。

「はい、」
「ありがとう、」

ずっと傍らで英二の手元を見、処置を予測してくれている。
こんなふうに周太が助手を務めてくれる日があると思わなかった、この予想外に微笑んで英二は被害者に声を掛けた。

「すみません、頭の怪我を洗いますね、」
「…はい、」

シュリンジで創傷内の洗浄していく、思ったより傷は浅いが腫れている。
やはり強打されているけれど、骨の陥没は無いらしい。これなら脳への打撃も少ないだろう、そうであってほしい。
祈りながら厚手のガーゼパッドで保護すると、止血リンク中央に患部が来るよう当て、しずかにネットをかぶせた。
この受傷具合を周太は横から見、手帳に書きこんでくれる。その様子を嬉しく思いながら、英二は被害者に微笑んだ。

「もうじき救急隊も来ます、がんばってください」
「…はい、」

痛みに顔を歪めながらも、少しだけ彼は笑ってくれた。
この様子なら脳の損傷は無さそうだ、観察しながら英二は血の付着したグローブを外し、使った清拭綿と廃棄袋へ入れた。
すぐ新しいグローブに嵌めかえて肩の受傷状態を確認する、こちらは軽い打撲の様で腫れも痣も出ていない。

「頭と肩の他に、痛い所はありますか?」
「大丈夫です、」

返答が確りしてきた、震えも大分治まっている、これなら大丈夫だろう。
すこしほっとしたとき、処置を終えた様子に気づいた藤岡が声をかけてくれた。

「移動していい?」
「うん、頭部を動かさないよう注意してくれ、」

頷くと関根と瀬尾も来て、藤岡を手伝って被害者を動かしてくれる。
ツェルトの上に移動すると彼の体を、慣れた手つきで藤岡がツェルトに包んで保温してくれた。
感染防止グローブを外しながら英二は、周太に指示を出した。

「頭高仰臥位にしてくれる?あの畳んであるツェルトを入れてあげて、」

頭部の怪我や脳血管障害などの場合、意識と呼吸共にある傷病者は頭を持ち上げて上向きに寝かせる。
この頭高仰臥位をするために、予め藤岡が畳んだツェルトを用意してくれてあった。
それを周太と藤岡とで、負傷者の頭部下に入れてくれる。

「こんな感じでいい?」
「うん、ありがとう、」

微笑んで頷きながら英二は、感染防止グローブを廃棄袋に入れた。
廃棄袋は二重のビニール袋になっており、輪ゴムで漏れないように固く縛る。
こんなふうに血液等が付着したものは医療用廃棄物扱いとして処分する。
用意の消毒シートで爪の中まで拭いてから救急道具を片づけを終えると、ちょうど無線を切った光一が言った。

「宮田、犯人の逃走ルートだけでも確認に行くよ、」
「わかった、」

返事しながら小屋に戻ると救急道具をザックへと仕舞い込む。
そして、いつも救助隊で使う引継用紙を出して、すばやくポイントだけ記入すると周太に渡した。

「周太、もし救急隊の方が見えたら、これを書いて渡してくれる?」
「ん、空いてる所を埋めればいいんだね?」

生真面目な目が書類を見つめながら聴いてくれる。
きっと周太なら用紙の趣旨を理解して記載出来るだろう、信頼に英二は微笑んで頷いた。

「そうだよ、さっき周太がメモしていた内容を書けば大丈夫、頼むな、」

笑いかけて小屋の外へ出ると、光一も藤岡との打ち合わせを終えた所だった。
その傍らで瀬尾が被害者に話しながらスケッチブックを広げ、隣から関根がLED灯で手許を照らしている。
似顔絵を書いているのだろうか?そう見ていると光一が七ツ石山方面を指さした。

「じゃ、まず小雲取から行くよ、」
「うん、」

歩きだし見渡した尾根は、夜明けの空に彩られ始めていた。
黄金と朱の赤い色彩まばゆい暁がふる、明るみだした山は目覚めだす。
いま日曜の朝、いつもなら朝陽を撮影するハイカーで賑わうはずが、今は無人に静まっている。
この静寂の底に今、犯罪は潜んで山内どこかを彷徨っていく。

「…山で血を流させるなんてさ、」

低いテノールの呟きが怒りのまま、山風に翻った。



被害者の証言通り、小雲取山頂から七ツ石山方面へ向かう足跡がある。
けれど、昨日からの晴天続きで乾いた尾根道は、踏み跡が浅く消えやすい。
これでは鑑識が足跡を採取する前に、風などで消えてしまう可能性が高い。

「さすがに鑑識の道具までは、持ってないしね、」

からり笑って光一は手帳を取出すと、足跡をスケッチして特徴をメモしていく。
英二も携帯のカメラ機能で撮影し、メジャーを出すと足跡の長さと幅を計測した。

「26.5cmだと普通の靴なら25.5cmだから、身長はそんなに高くも無いかな、」
「だね、50代位だったら平均的かな、」

手帳をポケットに納めながら立ち上がると、また歩き出す。
やはり足跡は不明瞭で、ほとんど肉眼では解からない。
途中、奥多摩小屋に立ち寄り様子を尋ねると、小屋主が教えてくれた。

「連絡をもらう前に足音を聞いたよ。今、勧告が出ているのに危ないと思ってな、窓から見たら人影が見えた。
朝靄ではっきりは見えなかったが、そんなに大柄でも無かったよ。七ツ石山の方へと歩いて行ったようだが、普通の速さだったな」

やはり七ツ石山方面に犯人は逃走したらしい。
ともかく奥多摩小屋には被害が出ていないことに安堵しながら、しばらくハイカーを留めるよう依頼して小屋を出た。
そこに英二の無線が受信し、すぐ出ると救助隊副隊長の後藤からだった。

「おう、宮田。いま、おまえさんたち何所だい?」
「はい、奥多摩小屋で聴きとりを終えた所です。七ツ石山方面に向かったと、ご主人からの目撃情報です」
「そうか、解かった。でな、消防のヘリが飛んでくれるぞ。5時40分に五十人平だ、運べそうかい?」

被害者の運搬について後藤は訊いてくれる。
雲取山頂避難小屋から奥多摩小屋前の五十人平ヘリポートまで平均的スピードなら30分程。
今の時刻は4時52分、48分間で人員も6名いるなら大丈夫だろう、すぐ判断して英二は山頂へ踵を返した。

「はい、スタンバイ出来ます、」
「頼んだよ、いま山岳救助隊と刑事課で山狩りに入った。おまえさんたちは、搬送が終了したら唐松谷林道から下山してくれ、」

歩きながら短い連絡に切ると、光一は藤岡と無線で話している。
聴覚の鋭い光一は後藤との無線内容を聴きとっていたのだろう、すぐ無線を終えると英二をふり向いた。

「藤岡たちがすぐ動かせるよう、スタンバイしてくれる。周太なら藤岡のサポート入れるよね?」
「うん、ひと通りは頭に入ってるはずだ。現場は今回が初だけど、」

歩くと言うより走って尾根を登りあげ、5時17分、雲取山避難小屋に英二たちは着いた。
すでに小屋の前では連結ザックによる搬送準備が出来ている、その傍らに膝まづくと英二はサムスプリントを出した。

「失礼します。念のため、頸椎固定をしますね、」

声をかけながら、サムスプリントの全長約15cmの部分を折り曲げる。
ここを顎先に当て、長い方を首の隙間から通して緩く巻く。次に喉の上と両耳の隙間をつまんで潰し、隙間を埋め込む。
これで頸椎固定が出来、頭部への衝撃を減らすことが出来る。

「よし、じゃ運ぶからね。関根くんと藤岡、瀬尾くんと周太で向かい合いに。じゃ、いくよ、」

光一の指示で連結ザックを持ち上げると、五十人平へと歩き始めた。
関根たち3人にとって現場での救助活動は初めてで、もちろん連結ザックでの担架も初めてになる。
それでも順調に運んで五十人平ヘリポートへ着いた。
すでに五十人平では奥多摩小屋の小屋主が発煙筒を焚き、ライトを空に向けてくれている。
間もなくにプロペラの音が聞こえだし、ホバリングの風が届き始めた。

「3人は小屋のなかに入って、」

光一の指示を聞いて、周太が畳んだ用紙を英二に渡してくれる。
さっき渡していった引継書を周太は纏めておいてくれた、英二は頷きながら微笑んだ。

「ありがとう、周太」
「もし不備があったら、ごめんね、」

すこし緊張した面持ちで微笑むと、踵返して関根と瀬尾と奥多摩小屋の中に入っていった。
すぐにホバリングの風圧が大きく翻りだす。ツェルトで被害者を保護しながら待機するうち、ヘリコプターは降り立った。
救急隊員に引継書を渡し口頭でも説明をする、もう顔馴染みの隊員は引継書の筆跡に軽く首を傾げた。

「これ、宮田くんと違う筆跡が混ざっているね?」
「はい、同期が書いてくれました、」
「そうなんだ?でも上手くまとめてくれてあるね、ありがとうって伝えてください、」

笑って救急隊員は被害者を収容すると、ヘリコプターに戻って行った。
朝陽きらめく機体を見送って、光一が後藤副隊長に無線を繋ぐ。
短い連絡が終わる頃、奥多摩小屋の扉が開いて小屋主が声をかけてくれた。

「おつかれさま、みんな朝飯もまだだろう?握飯だけど、食って行ってくれ」

言われて空腹を思い出す。
左手首のクライマーウォッチは5時45分、起きてから1時間半ほどが経過していた。
ありがたく礼を述べて小屋に入ると、3人とも座って握飯を頬張っている。
運ばれてきた握飯を受けとり、一緒に座って食べ始めると関根がほっと息吐いた。

「俺、この1時間ちょっとでさ、今までの現場を全部合わせた以上に、体験した気がするよ」
「うん?そうなんだ?」

指に付いた米粒を舐めとりながら、光一が相槌を打ってくれる。
その相槌を快活な大きい目を向けて、関根は素直に頷いた。

「前に遠野教官が怪我したのは見たけどさ、あそこまで血塗れの人間を直接見たのは、初めてだよ、俺。
応急処置の現場も初めてだし、しかも山の中だろ?道具も満足にないのに搬送して、ヘリをあんな近くで見たのも初だよな。
でさ、おまえらマジで足速いよな?さっき戻ってくるとき、すげえスピードで駆け上がってきたろ?すげえ現場だよな、ここ、」

素直な驚きを率直に言って、関根は握飯の残りを口に入れた。
その隣で瀬尾も食べ終えると、ザックを開きながら微笑んだ。

「それ、俺も思ったよ。ほんとに厳しい現場だな、って。俺の署も事件が多いけど住宅街だし、軽犯罪が多いから」
「そういうの、取締りとか大変だよね?」

テルモスの茶を飲みながら光一が相槌をする。
テノールの声に応えながら瀬尾はスケッチブックを取出した。

「でも命の危険までは少ないから。それで、これ、役に立ちますか?」

開いたページには、50代男性の似顔絵が描かれていた。

「これ、瀬尾くんが描いたの?」
「さっき国村さん達を待っている間に、被害者の方から聴いてね、」

ペンで精密画のよう描かれた顔は解かりやすい。
よく特徴を掴んだ顔立ちと表情にインパクトがある、これなら特定しやすいだろう。
けれど「ヘッドライトの灯りだけですが、」と被害者は話していた、それでこうも細部が描けるだろうか?不思議に思って英二は訊いた。

「瀬尾、被害者の方は、暗がりで顔がよく解からなかったんだよな?よくこんなふうに描けたな?」
「うん。だからね、暗がりで描いてみせたんだ、」

ボーイソプラノの声が笑って、教えてくれた。

「関根くんにLED灯を持ってもらって、スケッチブックに当る光を、ヘッドライトに照らされた時の雰囲気に再現したんだ。
それなら被害者の方が目撃した条件と同じになるから、雰囲気的な特徴が思い出しやすくなるな、って思ってね、そう描いてみたよ」

優しい笑顔が話すことに昨夜、光一から訊いた話に「暗がりか?」と考え込んだ瀬尾が思い出される。
きっとあの時から考えていたのだろうな?そう思った隣で周太が教えてくれた。

「瀬尾、ゆうべ『暗がりだから顔がハッキリ解からない』って光一に聴いてから、考えていたらしい…すごいよね?」
「うん、すごい。これ、きっと役に立つと思う。光一、どう?」

先輩であり上司でもある光一に、英二は尋ねてみた。
底抜けに明るい目は微笑んで頷くと、テノールの声は瀬尾に言った。

「この似顔絵、奥多摩交番に着いたら預らせて貰えるかな?手配書に使うことになると思う、」
「はい、もちろん。役に立ったら良いんだけど、」

嬉しそうに頷いた瀬尾の顔は、すこし誇らしげで男の顔だった。
このことが瀬尾の似顔絵捜査官の夢に繋がると良いな、そんな想いで見た向こう光一がからり笑った。

「役に立つよ。たぶんね、今日は犯人見つからないだろうからさ。きっと手配書が必要になるからね、」

きっと言う通りだろうと英二も思ってしまう。
今日、犯人が逃走した石尾根は幾つもの分岐があり、ルートの限定は正直なところ難しい。
しかも仕事道や水源林巡視路に入られたら尚更解からない、それを山岳救助隊と刑事課だけでは網羅しきれないだろう。
ただ、この山塊周辺に犯人の行動範囲を封じ込めることなら、出来るかもしれない。


この日、犯人は見つからなかった。



blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第50話 青嵐act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-07-16 23:51:51 | 陽はまた昇るside story
東京最高峰より、親愛なる夢と想いに



第50話 青嵐act.2―side story「陽はまた昇る」

午後18時。雲取山頂避難小屋は、今日も無人だった。
すっかり馴染みの小屋に入ると満足げに見まわして、からり光一は笑った。

「うん、ちゃんと皆、勧告を守ってくれてるね?」
「勧告?」

光一の言葉に瀬尾が首傾げた。
そんな様子に登山訓練から参加した藤岡が口を開いた。

「今な、秩父と奥多摩には無人小屋とテント泊は避けるように、って勧告が出ているんだ、」
「あ、それって宮田が言ってたヤツだろ?ハイカーを狙った強盗犯だよな、」

関根が思い出したよう相槌を打ってくれる。
その相槌に英二は微笑んで頷いた。

「うん、それ。埼玉県警でもまだ、犯人は捕まっていないんだ。だから警戒中、」
「被害者の人達は、犯人の顔は見ているんだよね?」

ザックを小屋に降ろしながら、瀬尾が訊いてくれる。
瀬尾は似顔絵捜査官を目指しているから、手配書の似顔絵が気になるのだろう。
この質問に振向いて、微かな不服に笑んだ光一が答えた。

「それがね、夕方や明け方に襲われるケースが多いんだよね。で、ちょっと暗がりだから、顔がハッキリ解からない、ってワケ」
「そっか、暗がり、か…」

考え込むよう瀬尾の手が止まる。
なにを瀬尾は考えているのだろう?気になりながらも英二はシュラフを広げた。
シュラフは英二のと光一と、藤岡と関根のと、4つある。

―この4つで6人、どうやって寝たらいいかな?

周太と一緒に寝たいけど、そうしたら光一は寂しいだろうし?
でも、どうしよう?そんな心配をめぐらす英二に、テノールの声が可笑しそうに笑った。

「おまえね?誰と誰が一緒に使うとか、考えてるよね?」
「あ、やっぱり解る?」

お見通しなんだな?
そう素直に笑った英二に、すこし呆れたよう光一が微笑んだ。

「俺のは3人でも入れるね、だから俺とおまえと周太で使えばいいだろ。で、おまえのは瀬尾くんに貸してやんな、」
「うん、ありがとう、」

ほっと微笑んで、けれど同時にすこし心配になった。
いつも3人一緒に寝ると英二をはさんで、光一と周太は取りっこを始めてしまう。
あの調子で今夜も同期の前でされたら、ちょっと困るだろうな?
そんな心配に首傾げた英二を、すこし心配そうな黒目がちの瞳が覗きこんだ。

「ね、英二?…あの、いっしょかな?」

それって「一緒に寝られるかな?」の意味ですよね?

そんなこと気にしてくれるなんて、やっぱり幸せで嬉しい。
恋する相手に「一緒が良い」って言ってもらえたら、誰だって嬉しいだろう?
恋人の質問が嬉しくて英二は幸せに笑った。

「うん、周太。一緒だよ?光一もだけど、」
「ん…よかった、」

安心したよう微笑んだ顔が、可愛い。
こんな質問でこんな顔されたら、どうしよう今すぐキスしたい。
そんな願望につい顔近寄せた途端、横から頬を小突かれた。

「ほらっ、エロ顔になってる場合じゃないね。晩飯の支度、始めるよ?」

小突いた白い指を頬にさしたまま、光一が笑っている。
いま止めてもらって良かったな、ほっと息吐いて英二は微笑んだ。

「うん、ごめん。行こう、周太。トラベルナイフは持って来た?」
「ん、持って来たよ?」

楽しそうに笑ってザックから出すと、はい、と見せてくれる。
使いこまれたトラベルナイフは、周太の掌で年季が艶めきを放つ。
この刃物の経年に、どきりと英二の鼓動が鳴った。

「これってさ、お父さんのなんだよな?」

穏やかな声が口から出てくれる。
それでも予感に鼓動が心を叩いていく、そんな英二に黒目がちの瞳が微笑んだ。

「ん、お父さんのだよ?…いつも山で使っていたんだ、これで果物を切ったり、ね、」

このナイフで馨は、ページを外した?

真相はわからない、けれどそんな気がしてしまう。
家の書斎に置かれた『Le Fantome de l'Opera』から、ページを切り落とした刃物。
それは馨が使い慣れた刃物だったろう、とても綺麗に背綴じは外されていたから。
この「使い慣れた刃物」は、いま周太の掌に載っている?

―周太はもう、気づいた?

トラベルナイフと本の関係を、もう気づいたかもしれない、聡明な周太だから。
こんな事実予想に密やかな息ついて、それでも英二は微笑んだ。

「外、出よう?周太、」
「ん、」

素直に頷いて立ち上がってくれた。
ふと気がつくと、もう他の4人は外に出て2人きりになっている。

これってチャンス?

ほら自分って、こんなんだ?
いまトラベルナイフに周太の「危険」を感じたばかり、それなのに即、恋の奴隷モードに切り替わる。
こんな自分は馬鹿だと呆れながらも、扉に背を向けて婚約者を自分の体に隠した。

「周太、」

名前を呼んで、唇にキスふれる。
すぐ離れてしまうキス、けれどオレンジの香が口移されて優しい。
この香は周太がよく口にする蜂蜜オレンジのど飴、そんな馴染みが幸せで嬉しい。

「…周太のキス、甘くて美味しい」

そっと離れて囁いて、幸せが笑ってしまう。
うれしいな、そう見つめた先で周太の頬は薄紅にそまりだした。

「…みんなのいるときにだめでしょ、ばか…あかくなっちゃうからこまるんだからばか…」

こんな恥らいながらツンデレ発言、ちょっと反則に可愛い。
もうほんと色々したい、けれど微笑んで英二は婚約者の機嫌を取った。

「大丈夫だよ、周太?ほら、夕焼けが始まるから、みんな顔が赤く見えるよ?」
「そう?…でも英二、みんなのいるときはだめ、言うこと聴いて?」
「はい、言うこと聴きます。ね、周太、きれいな夕焼けみたいだよ、」

笑いかけながらも内心「色々したい」が廻ってしまう。
そんな内心を呼吸ひとつに治めながら外に出ると、雄渾な黄昏が空気を変えた。

「…きれい、」

つぶやいた周太の横顔が、薄紅と黄金の光ふるなか微笑んだ。
黒目がちの瞳が見つめる彼方、まばゆい太陽は山嶺の向こうへ光と沈む。
オレンジ、緋、紅、赤、そして淡い紫から紺碧の夜が蒼穹に降りていく。
空と稜線の境界を光の雲が流れる風は、この雲取山頂まで光に染めあげる。

「今日は佳い夕焼けだね、みんなラッキーだよ、」

からり笑って光一が、いつの間にかデジタル一眼を構えていた。
黄昏の靡いていく山頂、ときおり静謐にシャッター音が響く。
かしゃん、音響く間合い穏やかに、関根と藤岡の話し声が聞こえた。

「東北の空って、きれいなんだろ?」
「うん、空気が透明ってカンジで、きれいだよ。空がデカいしさ、」

関根も藤岡も日没を見つめている、その眼差しはどこか郷愁に切ない。
きっと、ふたりは故郷で美しい空を、山で海で見つめていたのだろうな?
そんな想いと微笑んだとき、周太の隣で瀬尾が笑った。

「すごい、東京にこんな空があるなんて…俺、知らなかった…よかった、」

優しい目から、光ひとつ零れ落ちた。
この涙の意味は分かるような気がする、穏かに英二は笑いかけた。

「俺も最初、驚いたよ。でも、これも東京なんだ。なんか、うれしいよな、」
「うん、うれしいね。ここに来れて、俺、よかった、」

どこまでも大らかに壮麗、こうした山の光彩が自分の生まれ育った「東京」にもある。
それを瀬尾も自分も知らずに育ってきた、世田谷の住宅街と都心が「東京」なのだと思っていた。
自分たちの街は整然として美しい、けれど空はこんなに広くなく、光の色もくすんで自分の夢すら不透明だった。
どこか箱庭のような美しい街は住みやすくても、心ふるわすことは無い。その箱庭から出て、この空を知ったことが嬉しい。

「宮田くん、連れて来てくれて、ありがとう。俺、きっと…警察官にならなかったら、ここに来なかった、」

瀬尾の声が笑ってくれる、頬には一筋の涙の軌跡を残したままで。
涙にも明るい「警察官にならなかったら」この言葉に瀬尾の想いが響いてしまう。
この今「警察官」でいる瞬間が、瀬尾にとっては永遠の時にもなるのだろうな?そんな想いの隣から、そっと周太が微笑んだ。

「瀬尾、また登りに来よう?俺、ここが好きなんだ、」

周太が「先」の約束を瀬尾にした。

この意味と希望が英二の心を打つ、どうか自分が想う意味であってほしい。
どうかこの約束が、周太にとって瀬尾にとって、希望ある「先」への道標になればいい。
そんな祈りの向こう側で、瀬尾は涙の軌跡を光らせた。

「うん、一緒に登ろうよ、湯原くん。5年経っても、一緒に、」

5年後に瀬尾は、警察官を辞職する。
実家の後継者に選ばれて、家を会社を護るために、辞職する。
ずっと憧れ続けた警察官の道、それでも自分に与えられた責任と義務の為に、瀬尾は決意した。

“5年間を警察官として精一杯に自分を鍛えて、生涯の支えにする”

その想いに瀬尾は今、精一杯に警察官として自分を鍛えていく。
ほんとうは、瀬尾は運動があまり好きではない、初任科教養の最初にランニングで倒れたこともある。
けれど今日、体力勝負になる山岳救助隊の自主トレーニングに瀬尾は参加した。
そんなふうに瀬尾は今、「警察官」であるうちに出来る努力へ向き合おうとしている。

確かに瀬尾は、あと5年間という時限付でしか警察官でいられない。
その5年間を、企業経営の後継者として過ごす方が良いという考え方もあるだろう。
それどころか最初から、警察官にならずに企業家として勤めた方が良かったという意見もあるだろう。
けれど、例えば今この「警察官」である瞬間に「東京」の雄大な素顔を見つめたことは、瀬尾にとって大きな意味がある。
ずっと箱庭のような世界で守られ育った瀬尾が、自分の夢と意志で警察官の道に立ち、そこで出会った真実。
それらは瀬尾という人格を深く掘り下げて、広く大きな背中に育てるだろう。
その背中があればこそ、家を会社を守ることも出来得る。

それを瀬尾は知っている、それが英二にも解かってしまう。
なぜなら英二自身が同じように自分の意志で立ち、自分を鍛え育てることで、伴侶と家を護ろうとしているから。
どこまで根が深いか解らない「50年の束縛」すら断ち切りたいと今、努力している。だから瀬尾の想いが解かる。

―瀬尾の5年間が、豊かになると良いな

心裡、そっと友達への祈りが温かい。
どうか瀬尾が5年間、こうした出会いを沢山積んでいけますように。
そんな想いの向こう奥多摩の黄昏は、瀬尾の涙と言葉を明るく煌めかせていた。

それぞれの想い佇む東京最高峰に、今日最後の光を投げかけて、太陽は眠りについた。



LED灯を小さくしてシュラフに入ると、ほっと英二は息吐いた。
こうして山で眠るのは1ヶ月ぶりになる、ときおり響いていく山の音が心地いい。
夜風が渡っていく梢の葉擦れ、雑踏は遠い山懐の深い静謐。こうした山の感覚の懐かしさに英二は微笑んだ。

―もう俺、山が自分の場所なんだな

ずっと世田谷の住宅街で育った自分が「山」に居場所を見つめている。
こんな自分の今が不思議で楽しい、けれどこの居場所にずっといることは、今はまだ出来ない。
そんな想いに天井を見つめたとき、そっと温もりが懐に寄添った。

「…周太、」

寄添う温もりの名前を小さく呼んで、英二は微笑んだ。
ちょうど周太は英二の影になって、隣の関根達からは見えない。
さっき「みんなのいるときはだめ、」って言ったのは周太だったのに、くっついてくれるの?
そう目で訊いた英二に、気恥ずかしげでも周太は幸せに微笑んだ。

「ないしょ…ね?」

こんな内緒、ときめきます。

ひと息に幸せになってしまう、ときめいています、どうしよう?
ときめきに鼓動早めながら小柄な体を、そっと抱き寄せてしまう。
腕の中すこし身じろいで見上げてくれる、黒目がちの瞳が愛しくて見つめて。
ここが今どこだか忘れかけた時、ふわり花の香が頬撫でて肩に腕が回された。

「その内緒、俺も混ぜてよね、」

透明なテノールが笑って、周太をはさみこんだまま光一が抱きついてくる。
ふたりの懐はさまれた小柄な体が、押されて英二にくっついた。
愛する2人まとめて密着されて、英二は困惑しながらも微笑んだ。

「ちょっと、光一?くっつきすぎだろ、」

光一の密着も困るけど、周太の密着はもっと困る。
この2人とも自分が手出ししたくなる相手、それがまとめて密着されたら堪らない。
しかも同期が一緒にいる時にスイッチ入ったら大問題だろう?けれど無垢の瞳は幸せに笑んで、テノールが愉快に笑った。

「くっつくのイイだろ?おまえ、スキンシップ大好きだしさ、問題ないね、」
「それは好きだけどさ、でも、なんか今は困るんだけど」
「なにが困るワケ?本当は両手に花ってヤツで、うれしいクセに。きっとイイ夢見られるんじゃない?」

うれしいけれど困る、こんなだと理性と自制心の訓練になってしまう。
唯でさえ初任総合に入ってから毎晩、周太か光一の隣で我慢大会しているのに?
本当に「イイ夢」見る行動に出たら困る、どうしよう?そんな困惑のなか、周太が身じろぎして光一を見上げた。

「光一?ちょっと苦しい、すこし離れて?」

言葉はすこし素っ気ないけれど、黒目がちの瞳が可笑しそうに笑っている。
そんな瞳に光一も楽しげに笑って、尚更に周太ごと英二にくっついた。

「嫌だね。今夜は俺、こうして寝たいんだ、」
「だめ、遠慮するって自分で言ってたでしょ?」
「それは2人きりのときだね、今夜は皆いるんだしさ。せっかく3人一緒のシュラフだし、楽しまなくっちゃね、」
「楽しむならちょっと離れて、苦しいって言ってるでしょ?俺のこと好きなら言うこと聴いて、」
「言っただろ?こいつと周太から離れる以外は言うこと聴くってね、だから『離れろ』は聴けないよ、」
「ばか、光一のばか、ちょっとあっち行って、」
「嫌だね、そんなことばっか言うなら、キスして口封じしちゃおっかね?」
「いやっ、やめて光一、ばかばかえっちへんたいっ」

また始まってしまった。

ほっとため息吐いた英二の、胸元と肩とを2人分の腕が抱きしめている。
さすがに男2人にしっかり抱きつかれたら、ちょっと苦しいかな?
困りながら英二はふたりに笑いかけた。

「なあ?せっかく今夜は皆いるんだし、皆で話そうよ?」

この提案、聴いてくれるかな?
そう見つめて笑いかけた先、周太も光一も素直に微笑んだ。
初々しい可愛い貌と、端麗な雪白の貌と、それぞれに綺麗な笑顔が見つめてくれる。
この2人への愛しさは同じようで、けれど違う感情で見ているとあらためて想ってしまう。
そんな感情を見つめる英二に、ふっと光一が頬よせて素早くキスをした。

「…っ、」

ちょっと待って?いま皆もいる時なのに?
たしかにLED灯だけの小屋は薄暗くて、皆には見えないかもしれない?
けれど今この懐には周太もいるのに?そんな途惑いの眼前で、底抜けに明るい目は悪戯っ子に微笑んだ。

「ほら、俺ってね、おしゃぶり光ちゃんだから。許してよね、」

こんなこと光一がするの、どれくらいぶりだろう?
呆気にとられながらも英二は口を開いた。

「…光一?なんか、キャラ戻っちゃったのか?」

剱岳の夜からずっと、光一からふれることは減ったのに?
これじゃ前に逆戻り、どうなっているのだろう?こんな途惑いと見つめる秀麗な貌は、嫣然と微笑んだ。

「いま2人きりじゃないし、周太もいるだろ?こういう時に何しても、おまえからはエロできないね。だろ?ア・ダ・ム、」

そのとおり、ご明察。

特に今は懐に婚約者がいる、この純粋な瞳の前で戯事は難しい。
ある意味で今は周太を人質にとられている状況、これはもうお手上げだろうな?
ほっと溜息に笑って観念したとき、腕のなかで小柄な体が身じろいだ。

「光一、どいて?ここ、俺の寝場所なの、」

懐から声をあげて、周太が光一と英二の顔の間に割っている。
そんな周太に秀麗な貌は唇上げて、愉しげに笑いかけた。

「だね、でもココで寝るとね、間違えて俺、周太にキスしちゃうかも、」
「…っ、こういちのばか。ここに俺がいなかったら、いろいろするきでしょ?英二が抵抗できないからって、」
「当たり前だね、楽しめるときは楽しまなくっちゃ勿体無いだろ?ホラ、周太にキスか英二にキスか、選んでよ?」
「どっちもだめ、無理はだめって言ったでしょ?へんたいえっち光一、」

余計に取りっこが酷くなった。

困り果てて溜息ついた背中を、とん、と小突かれた。
小突かれ素直に振り向いた英二に、隣の関根が可笑しそうに言ってくれた。

「宮田、やっぱりモテるんだな?俺達のことは気にせずに、三人で楽しんでいいからさ?じゃ、オヤスミ」
「え、ちょっと待ってよ、関根、」

呼びかけたのに「遠慮はいらないよ、」と言って、快活な笑顔はくるり背を向けた。
そして向こう2人の会話に加わると、3人で楽しそうな会話が始まった。

「あの3人、マジ仲良いんだな?3人一緒だと、いつもあんな感じ?」
「うん、いつもあんな感じだな。宮田ってさ、愛されキャラで、いじられキャラなんだよなあ」
「あ、それ、なんか俺も解かるな?宮田くんってカッコいいのに、ちょっと隙があるからかな?」

俺のこと会話の種にするなら、この状況を助けてよ?
そんな想いため息吐いた懐で、相変わらず2人はしがみついている。

「光一ったら、そんなにくっつかないでよ?俺がつぶれちゃう、」
「くっつきたいね、俺は。それとも3Pしちゃう?」
「…っ、ばか、こういちのばか、そんなこというならもうしらない、ばか」

今夜も眠るまで、ずっとこんな感じかな?
この状況、いつになったら変わるのだろう?そんな先々に想い馳せてしまう。
ほんとうに今ちょっと困っている、けれど、ふたり大切に抱きしめて、しがみついてくれる懐は温かい。



がたり、

物音に英二は、静かに目を開けた。
まだ夜明け前、避難小屋のなかも黎明が蹲って暗い。
細めたLED灯の光にゆっくり瞳を動かすと、小屋の扉が細く開いている。

誰かが、小屋の扉を開こうとしている?

そっと左腕を動かし見た文字盤は、午前4時20分。
こんな時刻に避難小屋に来る「誰か」は、3つのパターンだろう。
まず1つめは動物、奥多摩に住む鹿やツキノワグマ。
次の2つめに朝陽を狙ったカメラマンの休憩、けれど今は勧告が出ているから入山は少ない。
そして3つめ「緊急を要する者」なにかアクシデントがあった場合。
これに関係して今ならば、4つ目の選択肢がある。

『夕方や明け方に襲われるケースが多いんだよね』

まさに今は明け方の時刻、この危険性を考えるべきだろう。
考え廻らしながら時計から目をあげると、透明な目がこちらを見ていた。

「…とりあえず、行こっかね?」

低く微かなテノールが告げながら、笑っている。
微笑んで頷いたとき、ふわり顎にやわらかな髪がふれて英二は懐を見た。
薄闇を透かす視線の先、しっかりと自分の腕のなかに周太を抱きこんでいる。
こんなふうに自分は寝ても覚めても、この婚約者を抱きしめていたい。

―でも周太、行ってくるな?

見つめた人に微笑んで、静かに腕を抜くと起きあがった。
その隣でも青いウェア姿が音も無く立ち上がる、その右掌には特殊警棒が握られていた。

「…光一、拳銃は?」

そっと尋ねた声に、底抜けに明るい目が悪戯っ子に微笑む。
いま山岳救助隊は警戒体制の為、特に入山時は拳銃の携行を命令されている。けれど光一は拳銃嫌いだ。
なんだかもう、答えは予想がつくな?ちょっと笑った英二に、低くテノールが答えた。

「…わすれたね、」
「…うそつけ、」

小声の応酬に笑って英二は、登山ジャケットの懐に右手を入れた。
ショルダーホルスターから拳銃を抜きながら、左手は弾丸を取りだし一発だけこめる。
こうした作業も光一の射撃訓練に付合ったお蔭で、すっかり手馴れた。
こんなふうに自分がなるなんて誰が想像した?そんな考えに心裡で笑って、扉近くに進んだ。

がたん、ごとり…

小屋の扉の外、誰かがいる。
そっと隙間から外を窺って、光一は英二に耳打ちした。

「人間、負傷してる、」

互いの目を見、うなずくと小屋の扉を開く。
そして開かれた扉の前には、頭部から血を流した男が蹲っていた。



(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第50話 青嵐act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-07-15 23:46:48 | 陽はまた昇るside story
青の色彩、空も山も想いすらも



第50話 青嵐act.1―side story「陽はまた昇る」

机にオレンジの光、射す。
ゆるやかな黄昏は学習室を充たし、広げた資料はオレンジ色に染まりだす。
ふと目をあげた窓に金色の雲が流れていく、その色彩がすこし黒ずんでいた。
こんな空のときは湿度が高く上空の風が強い、きっと雨が降る。この予測に英二は内心、溜息を吐いた。

―今夜は雨か、奥多摩はどうだろう?

夜間の天候不順は、特にテント泊の場合は影響が大きい。けれど今、奥多摩は勧告が出ているからテント泊は少ないだろう。
それでも今5月、寒気と暖気が交差する季節の変わり目は界雷と、それに伴う集中豪雨や雹も怖い。
単に雨が降るだけでも翌朝の濃霧と地盤の緩みに注意が必要になる、雨後の山は土が水含んで崩れやすい。
そうすると滑落、道迷いなど遭難の可能性も高くなる。

―明日は出動、無いと良いな…あまり、単独で現場に行かせたくない

いま英二は警察学校で初任総合の研修中でいる。
だからパートナーの光一は単独行での救助活動になってしまう。
いま同じ理由で単独の大野と臨時で組んではいる、けれど大野と光一では体格が違い過ぎてザイルパートナーにはなれない。
たしかに、光一は英二の配属前は単独だったから馴れている、それでも心配にはなる。

「…このあと、雨かな?」

穏やかな声に話しかけられて、英二は振向いた。
振向いた先で黒目がちの瞳は微笑んで、すこし心配そうに周太は言ってくれた。

「雨だと、遭難とか心配だね?…光一なら大丈夫だろうけど、」

自分が考えていたままが、言葉に変えられた。
それに驚きながらも嬉しくて、英二は婚約者に微笑んだ。

「周太。俺の考えが、解かるの?」
「ん、なんとなく、ね…」

優しい笑顔で頷いて、ふっと周太は言葉を呑みこんだ。
なんだか気恥ずかしげな顔、けれど羞みながら婚約者は続けてくれた。

「だって…わからないとこまるでしょ?」

ほんとうは「夫のことなら解らないと」って言っているよね?

こんなの嬉しい、こっちこそ困ってしまう。
嬉しくて愛しくて、キスしたくなりそうで困る、ここは学習室なのに?
でもキスしたい、どうしよう?

そんな幸せな「困る」が意識を廻ってしまう。
ちょっと自室に戻ろうって誘おうかな?そんな考えに口開きかけた時、声が掛けられた。

「おつかれさま、湯原。ちょっと良い?」

やっぱり、来たな?

婚約者の名字を呼んだ声に、英二は目をあげた。
あげた視線の向こう佇んだ精悍な笑顔に、つい心裡しかめっ面をしてしまう。
俺が一昨日から気にすることを話しに来たな?そんな予想の隣、素直に周太が笑いかけた。

「おつかれさま、内山…なに?」
「今度の外泊日のことなんだけど。ごめん、宮田、勉強の邪魔して、」

邪魔してるの、それだけじゃないんだけど?
そんな内心の声を押えて、英二は笑いかけた。

「いや、大丈夫。今度の外泊日、って今週末の土曜?」
「うん。湯原と昼飯、一緒しようって約束したんだ。この間の事例研究のこと、詳しく教えてほしくてさ」

素直に答えて内山は笑ってくれる。
いま言っている「この間の事例研究のこと」は、周太が話した痴漢冤罪の話だろう。
あのボールペンを使う遣り方は面白いと自分も思った、きっと勉強熱心な内山なら詳しく訊きたいだろう。
そう納得しながらも、つい考えがめぐりだす。

―ふたりきりで、飯するんだよな…阻止できないかな、なんか良い理由ないかな

やっぱり阻止したい、それが本音。
けれど、それを周太に言うことは流石に子供っぽい。

「湯原、週末は実家に帰るんだよな、どこなら都合良い?」
「ん…内山は、どこが良いかな?」
「俺から誘ったんだ、湯原に合わせるよ、」

この今も内山の表情からは、単純に話したいだけだと解かる。
それでも自分はどうしても嫌だ、そんなワガママが心に起きている自覚が痛い。
そんな自覚に我ながら微笑んだ時、やさしいボーイソプラノが声をかけてくれた。

「宮田くん、今、話しかけても良い?」
「うん?」

声に振向くと、瀬尾と関根が並んで立っていた。
ふたり揃って何の用かな?そう目で訊いた英二に、関根が快活に尋ねた。

「あのさ、山岳救助隊の自主トレ、参加させて欲しいなって話してたろ?アレ、外泊日の時なら予定が合うかな、って思ってさ」

―それ、名案。

心のつぶやきに「阻止する方法」が纏まった。
纏まった考えに英二は微笑んだ。

「今度の土日だったら、ちょうど副隊長も一緒に自主トレするんだ。それに参加すると、勉強になると思うけど?」
「あ、それ参加したい、俺。あの名ガイドで護衛官の方でしょ?」

瀬尾が即答に身を乗り出してくれる。
この反応は予想通り、思ったとおりが嬉しくて英二は笑った。

「そう、後藤副隊長は最高の奥多摩ガイドで、最高の山ヤの警察官なんだ。どうせなら、副隊長と話してみたいだろ?」
「話したいな、俺。後藤さんの本、持って行ったらサインとか頂けるかな?」

この反応も、警察マニアと言われるほど警察官に憧れていた瀬尾らしい。
もうこれで日程は決まりだろうな?そんな考えと英二は頷いた。

「うん、副隊長は気さくな方だからね。すごく照れるだろうとは思うけど、」
「勲章とか貰ってる人だろ?それなのに気さくなのって良いよな、俺も会ってみたい、今週末にしようぜ?」

快活な笑顔で関根も賛成してくれる。
この笑顔が、自分のワガママを叶えてくれると良いな?そう見た先で関根の大きな手が、ぽん、と小柄な肩を叩いた。

「湯原、おまえも参加するよな?自主トレ、」
「ん?…自主トレ?」

内山との会話を中断させて、周太は関根に首傾げた。
なにのことかな?そう見つめる黒目がちの瞳に関根は、快活に誘ってくれた。

「山岳救助隊の自主トレ、一緒に参加しようって約束しただろ?アレ、今週末に決まったから。良いよな?」

約束の、ダブルブッキング。

どちらを周太は選ぶだろう?この場合の優先順位は、どっち?
この「賭け」に不安を隠し見つめた先、困ったよう周太は首を傾げこんだ。

「…今週末になったんだ?」
「おう。救助隊の副隊長、今週末は宮田たちと自主トレするらしいんだ。そのとき参加したほうが勉強になるだろ?」

後藤副隊長は周太の父の友人で、幼い日の周太を救けてくれた。
そんな後藤を周太は尊敬し、好きで、「お元気?」とよく英二にも訊いてくれる。
その後藤から山岳訓練を受けられるチャンスを、周太はどうするだろう?

「あ、後藤さんから、指導してもらえるの?」

行きたいな?
そう黒目がちの瞳が明るんだのを、英二は見た。
このまま頷かせてしまいたい、そんな想い正直に英二はきれいに笑いかけた。

「そうなんだ。副隊長、光一と俺のコンビネーションをチェックしたいって言ってさ。個人指導してくれるんだ、」
「光一との?…それ、本格的な訓練じゃないの?参加して、邪魔にならないかな?」

遠慮がちなトーン、けれど「行きたいな」が強まっている。
このあいだ川崎に帰った夜、すこし周太は光一に嫉妬してみせた。だから光一を出せば周太は来てくれる?
そんな計算に良心を呵責しながらも、英二は答えに微笑んだ。

「邪魔になんかならないよ?副隊長、周太に会いたがっていたし。きっと来てくれたら喜ぶよ、でも、」

いったん言葉を切って、英二は小さく溜息吐いた。
そして内山へと顔を向けて、精悍な目へと真直ぐ笑いかけた。

「内山との約束があるんだろ、今度の土曜日って?自主トレは後から決めたんだしさ、」

後から決めたけど、こっちを優先してよ?

そんなワガママ勝手を心に呟いてしまう。
こんな自分こそが嫉妬深い、狡い自分に我ながら呆れてもいる。
けれど自分は周太に2枚のカードを切った、「光一」と「後藤副隊長」この2人は引力が強い。

「ん、そうだよね?…後から、だし…」

迷うよう周太が言った、そのトーンが「残念だけど、」と曇っている。
こんなに困らせていること、罪悪感。けれど英二はもう1枚のカードを捲って見せた。

「そうだな?でね、周太。日曜は吉村先生も参加してくださるんだ、質問あれば聴いてくるよ?」
「え、吉村先生も?…もしかして、遭難現場の講習とかするの?」

すごく行きたい、

そんな素直な想いが黒目がちの瞳に映りこむ。
きっと周太の意志は大方「自主トレ」に傾きかけている、その傾きに英二は最強のカードを切った。

「うん、危険箇所や最新の応急処置をね。こっちの講習には、美代さんも参加するらしいよ、」

言いながら英二は携帯を開くと、さっき受信したばかりのメールを呼びだした。
開いた画面を周太に見せて、きれいに英二は微笑んだ。

「たぶん、周太にもメール入ってると思うよ?」

From  :小嶌美代
Subject:今週の日曜日
本 文 :こんにちは、おつかれさまです。
    日曜の吉村先生の講習会、私も参加します。よろしくお願いします。
    湯原くんも参加するよね?もし声かけていないなら、絶対に誘ってほしい!
    私もメールします。   

「英二、美代さんに、お願いされてるね?」

嬉しそうに、困ったように、周太は微笑んでいる。
そんな雰囲気を心で喜びながら、英二はすこし困った笑顔で頷いた。

「だな?でも、美代さんには悪いけど、仕方ないよ、」

気にしないで?
そう笑いかけた視線の先、その隣で精悍な笑顔が口を開いた。

「湯原、俺の方はいつでも良いから。今週末は、青梅署に行ってきなよ、」

そう言ってくれるよな、内山?

そんな予想通りの展開に英二は微笑んだ。
微笑んだ前で、遠慮がちに周太が内山に尋ねた。

「いいの?…でも、先に内山と約束したのに、」
「気にするな。美代さんって子も、待ってるんだろ?お世話になってる方も多いみたいだし、そっち行く方が良いよ、」

やっぱり内山って良いヤツ。

こんなゲンキンな感想に心笑ってしまう。
それでも穏やかな笑顔のまま見守る先で、嬉しそうに周太が微笑んだ。

「ありがとう、内山。今週末は、奥多摩に行かせてもらうね?」

大成功。

そんな心の声に我ながら呆れて、けれど本音、嬉しくて仕方ない。
勝手な嫉妬とワガママで邪魔をしてしまった、そんな自分に呆れてもいる。
けれどそれ以上に、週末も一緒にいられることが幸せで。



消灯前の点呼が終わり、いったん自室に戻ると携帯を開く。
発信履歴から呼びだした番号に架けて、コール0すぐ繋がった。

「おつかれ、光一。そっちの天気どう?」

開口一番、天候を訊いてしまう。
山では天候の変化が生死の分岐点を作りだす、だから気になる。

「おつかれさん、いま雨が降り出したよ。明日は霧かもね、」

からりテノールが笑って答えてくれる。
その明るさに寛いで英二は笑った。

「そっか、明日は気を付けろよ?でさ、土日の自主トレの件なんだけど、」
「周太と同期が2人、参加したいんだろ?」

さらっと言われて驚いて、けれどすぐ納得できる。
いつも周太は消灯前の時間に光一と電話する、それで先に話してくれたのだろう。納得に英二は頷いた。

「そうなんだ、大丈夫かな?」
「問題ないね、ま、一部は見学になるかもだけどさ。コースどうするか、考えとくよ」

笑って請け負ってくれる、そんな信頼感が嬉しい。
嬉しく微笑んで英二は訊いてみた。

「ボルダリングはどう?忍者返しの岩だったら、周りに色んなレベルのがあるし、」
「うん、俺と同じ意見だね。じゃ、それで決まりな、」

テノールの声が賛同をしてくれる。
そしてすぐ、次の提案をしてくれた。

「でさ?どうせだったら、夜は避難小屋に皆で泊まるの、どう?」
「お、それいいな…」

いい考えだな?
そう素直に頷きかけて、ひとつ懸念を英二は口にした。

「なあ?埼玉県警から連絡があった強盗犯、まだ捕まっていないんだろ?無人小屋の宿泊制限は、まだ?」
「だね。でもまあ、コッチも全員、警察官だしね?」

ちょっと悪戯っ子なトーンで言ってくれる。
なにを考えているか解るな、可笑しくて英二はすこし笑った。

「光一、単独のときは深追いするなよ?」
「はいはい、拳銃ちゃんと持ち歩いてるよ、業務中はね、」

からり笑う声は元気に明るい。
この明るさに少し救われる自分がいる、今、罪悪感が本当は痛いから。
いま初任総合の研修中で、毎日を周太の隣に過ごしている。その幸せな時間に表裏する時間を考えてしまうから。
自分が周太と幸せな時間、光一は独りになる。その孤独と寂寥に罪悪感が痛い。
こんなに痛がっても仕方ないと解っている、それでも光一の想いが心映るよう感じられてしまう。
こんな想いをするのは『血の契』だからだろうか?この絆に微笑んで英二は口を開いた。

「光一、今日は夕飯、旨かった?」
「うん?まあね、麻婆茄子で旨かったけど。ソッチはなんだった?」
「よかったな、光一の好物だったんだ。こっちは焼き魚だったよ、周太が鰆だ、って教えてくれた、」
「旨いよね、アレも。でさ、周太の様子はどう?」

愉しげな会話の中に、ふっと緊張が走る。
いま光一が訊いたことの意味を見つめながら、英二は記号で話した。

「うん、いつもどおり可愛いよ、でも俺、ちょっと今日は意地悪したかもな、」
「いつもどおりなら良かったね。で、意地悪ってなに?」

いつもどおり。
この言葉の意味は「まだ『Fantome』の謎は解かっていない」ということ。
そんな意味に安堵した気配のテノールに、英二は微笑んだ。

「同期とサシで飯食うの、邪魔しちゃったんだ、」

現状の「解かっていない」を保ちたいから、出来るだけ他の人間と2人きりは阻止したい。
もう既に周太は藤岡と2人きりのとき、何げない会話からヒントを得てしまった。
あんなふうに周太は聡明で鋭い、だから今回も「2人きり」は避けたい。

―ま、単純に「ふたりきりで飯なんかいかないで!」って、嫉妬も大きいけど

こんな本音と理由とに笑ってしまう。
笑った向こう側で光一が、可笑しそうに訊いてくれた。

「なるほどね、それで自主トレ参加なんだね?」
「やっぱり解っちゃうよな?」
「まあね。おまえも大概、嫉妬深いからね。で、その同期ってどんなヤツなワケさ?」

さらり笑って「確認」を訊いてくれる。
この確認に英二はポイントだけを答えた。

「周太と首席争いしてるヤツだよ、東大出身でね、ほんとはキャリアになりたかったらしい、」

東大出身、キャリア。

この2つに、ひっかかる。
あの50年前の事件の発端に見た事実と重なりだす、そんな2つだから。
だから尚更に内山と2人きりにしたくなくて、ずっと土曜日から考えてきた。

―ごめん、内山…おまえを疑うわけじゃないんだ、でも

いま周太も聴講生として通学する晉と馨の母校、そこにある可能性は?
晉に「隠匿」を勧め、事実協力を惜しまなかったのは?
馨に警察学校を奨めたのは?

それらを知ってしまう危険性は、すべて潰してしまいたい。
単に英二と同じ所属署、それだけの藤岡ですら危険性を作ってしまった、何げない会話に。
それも英二のミステイクが発端だと解っている、あんなふうに自分が他にミスを犯していないか100%の自信は無い。
だからこそ、どんなに小さな可能性でも「危険」なら遠ざけてしまいたい。

「ふうん、東大でキャリアねえ。ま、おまえの嫉妬も悪くないんじゃない?」

的外れじゃないね?
そう告げてくれる言外に、英二は微笑んだ。



ボルダリング『Bouldering』

フリークライミングの一種で、2mから4m程度の岩や石をザイルなどの確保無しで登攀する。
確保無しで登るから必要な装備が少なく、手軽にはじめられる。
このボルダリングのフィールドとして御岳渓谷は名高い。

「宮田、おまえ、すげえ速いな?」

白狐岩から降りてきた英二に、驚いたよう関根が褒めてくれる。
こういうの照れるな?ちょっと困り顔で、けれど素直に英二は微笑んだ。

「ありがと、でも国村のがすごいよ?」

言いながら指さした先、英二と入れ替わりで救助隊服姿が岩肌にとりついた。
するり身軽なこなしに登りあげ、あっと言う間に高度を稼いでいく。
そして頂上に立つと、またすぐ降りて英二の隣で光一は笑った。

「はい、お待たせ。あんなカンジで登ってみて?」

からり明るいテノールで関根に指示をする。
白狐岩を見上げチョークを手に付けながら、素直に関根は訊いた。

「国村さん、いつもこんな感じで宮田と登るんですか?」
「だね。でさ、敬語じゃなくって良いからね。俺たち、タメだしさ、」
「それ、助かる。俺、敬語ってちょっと疲れるんだよな、」

普段の気さくな話し方になって、関根は笑っている。
そんないつもの快活な笑顔に、テノールが率直に言った。

「へえ、良い笑顔するね。こういうとこ、宮田の姉さんは惚れたってコト?」
「あ、そのへんも知ってるんだ?やべ、ちょっと照れてきた、」
「ふうん。もしかして、初彼女ってトコ?」
「当たり。だからさ、あんまイジメないでくれよな?」
「それは約束できないね、俺ってエロオヤジだからさ。さて、スタンバイはいいね?」

いつもの気さくな調子で光一が笑っている。
救助隊制帽のした底抜けに明るい目は愉しげで、渓谷の風に目を細めて指示を出した。

「スタートしたすぐのホールド、そこに立つのがちょっと難しいよ。ま、焦らずにルートよく見て登ってね、」
「おう、じゃ、行くな、」

快活な笑顔を見せて、関根は岩に向き直った。
そして英二と光一が付けたチョークの痕へと手足を運び、白狐岩を登りだした。
初めてにしては軽い身のこなしが着実に岩肌を進んでいく、その背中に感心したよう光一が笑った。

「ふうん、関根くんって巧いね?ボルダリングは初心者だろ?」
「うん、今日が初めてだって言ってたけど、」

答えながら英二は心裡、遠野教官の人選眼に感心した。
光一のザイルパートナーが欲しい、その要望に後藤副隊長が提示した条件に遠野は英二と関根を選んだ。
その選択は正しいと、今日の関根を見ていて解かってしまう。

―関根、もう光一とタメ口で喋って、笑わせている

快活で真直ぐな関根は、明るいけれど気難しい光一と相性が良いのだろう。
もし自分ではなく関根だったら、今頃どうなっていたのかな?
そんな考えと佇んだ英二に、涼やかな風が吹きかけた。
風は、樹木と水の香ふくんで、どこか優しい。

―ここに卒配されて、よかった

素直な想い微笑んだ向こう、さあっと山から吹き下ろす風は清流を渡り、頬撫でていく。
駆け抜ける風は渓谷からまた山に戻り、新緑きらめかせ山肌ゆらがせる。
緑の風、五月晴れの青、そして渓谷は砕ける流に碧が輝いていた。

「瀬尾くん、ほら、ここに手を掛けるんだよ、」
「はいっ、」

後藤副隊長が指導する声と、瀬尾の返事する声が聴こえてくる。
声に振向くと白狐岩の一つ下流の岩上、周太が心配そうに下を覗きこんでいた。
そこをめざし登りあげていく瀬尾の、懸命な横顔が紅潮に染まっている。
そうして小柄な体は岩の頂上に手を掛けて、周太の隣に立った。

「出来たよ、俺にも…ね、出来た、」

息弾ませたボーイソプラノが、嬉しそうに笑うのが風に聞えた。




(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第49話 夏橘act.5―another,side story「陽はまた昇る」

2012-07-15 01:18:40 | 陽はまた昇るanother,side story
※念のため中盤はR18(露骨な表現は有りません)

夏橘、つたわる想いに記憶と重ねて



第49話 夏橘act.5―another,side story「陽はまた昇る」

きゅっ、

ちいさな音にシンクの蛇口を閉める。
その指に、ほのかな緊張がふるえてしまう。
このあと始まる時間の予兆が、すうっと首筋から熱を昇らせていく。
夕食の前に英二が告げた約束が鼓動に変わっていく、ほら、もう頬も熱くなる。

「周太、」

きれいな低い声に呼ばれた名前が、ときん、と心をノックする。
気恥ずかしさに振向けない背中が温かな懐に抱かれて、前に回された長い指がエプロンの紐にふれた。

しゅっ、

かすかな衣擦れの音に結び目ほどかれて、肩紐が外されていく。
藍色のエプロンが白皙の掌に絡めとられ、傍らの椅子に掛けられた。

「おいで、」

言葉と一緒に長い腕が体に回され、ふわり抱きあげられる。
近づいた切長い目が瞳のぞきこんで、幸せに微笑んで唇にキスふれた。
ふれたキスが、熱い。

「…あ、」

キスの熱に声こぼれて、気恥ずかしさが込みあげる。
そんな周太に端正な笑顔ほころばせて、幸せに英二が囁いた。

「可愛いね、周太…風呂、入ろう?」

ふたりきり風呂に入ることの意味が、首筋と頬を尚更に熱くする。
この家の浴室はタイル張りで広い、そこでこれから始まることは、恥ずかしくて。
こんなの何度あっても馴れない、気恥ずかしさに本当は逃げ出したい。
けれど英二が望むことなら叶えたくて、そっと周太は頷いた。

「はい…」

返事した声がちいさい。
けれど愛するひとは幸せに微笑んで、ステンドグラスの扉を開いた。



白いシーツに埋められた肌、湯に熱ったまま潤んでいる。
スタンドライトのオレンジに照らされる体を、恋人の視線が見おろし微笑む。
こんなに見つめられるのは恥ずかしい、どうにか隠したくて身じろぎ、俯せた。

「周太、恥ずかしがってるの?」

訊かないで、わかっている癖に?
そんな想いに腕を伸ばしてリネンを取ろうとした掌を、長い指の掌に掴まえられた。

「ダメだよ、周太。隠さないで?…ずっと我慢していたんだから、見せてよ、」
「…うそ、先週も先々週も、…見たくせに、」

そっと言って肩越し見つめると、見つめ返す切長い目が熱っぽい。
そんな視線に絡めとられて目が逸らせなくなる、けれど周太はすこし素っ気なく口をきいた。

「さるぐつわして、手まで縛って…好きなだけ見たでしょ?あんなことしたくせに…光一のことまで無理にしたりして、」
「周太、嫉妬してくれるの?」

うれしげに英二は笑って、白皙の肌で背中を抱きしめてくる。
なめらかな温もりが背中から偲びこむ、頬よせられる端正な笑顔が愛しくなってしまう。
それなのに、なんだか拗ねたい気持ちになってしまって、周太はそっぽを向いた。

「しらない、もうさせてあげない…無理やり光一のことしちゃうくらい、おれじゃふそくなんでしょ?…しらない、」
「そんなこと言わないで、周太?…ね、好きにさせて?命令してよ、」

訴えてくれる声が、すこし必死になっている。
背中から抱きしめてくれる腕が、すこし縋るよう力こめられて切ない気持ち伝わってしまう。

「周太、お願いだから、命令して?気持ちよくして、って言ってよ?…我慢できなくなるから、」

言葉が吐息に熱い、ふれる肌もどこか熱くなって、背中越しの鼓動が速くなる。
そんなふうに全身から訴えかけられて、小さな声が周太の唇から零れた。

「…して、」

ごく、ちいさな声。
けれど言った同時に首筋へと熱いキス落とし、恋人は微笑んだ。

「するよ?周太…今夜はずっと、」

囁きながら瞳のぞきこんで、唇キスふれる。
深いキスに熱しのびこみ、意識ごと絡めとられていく。吐息も出来ないキスが心ごと奪い去っていく。
こんなふうにされたら変になってしまいそう、キスだけでこんなふうなんて?

「…あ、…まって、」
「まてない、周太…さっき焦らしただろ?もうダメだよ…言うこと聴いて、」

キスが首筋をふれて、背中へとキスが降りていく。
ふっと熱が留まり肌へと食いこんで、またキスと熱は伝うよう降りてしまう。
こんな熱いキスに肌ふれられて、刻まれて、うつぶせたシーツを周太は握りしめた。

「…ん、っ、」

熱のキスが、秘められた谷間の入口ふれた。
ふれるまま長い指の掌が、やわらかなところを押し開いていく。
自分で見たこと無い所に視線ふれる、このままされることが鼓動を鳴らして、周太は肩越し振向いた。

「…えいじ、まって…あっ、」

視線ふれた所へと、熱のキスがふれた。
やわらかに潤う熱がゆるやかに動く、細やかな熱が体ほぐしだす。
あまやかな熱が蕩かしていく、敏感な場所から心ほどかれ始めてしまう。
ほどかれるまま吐息こぼれていく、恥ずかしさが尚更に感覚を呼んでいく。

「…っん、あっ、」

長い指が入りこんだと、あまい感覚に教えられる。
もう浴室でほどかれたままに、抵抗もなく受け入れて深い所がふれられる。
ふれられるまま素直に感じてしまう、それが恥ずかしいのに声はこぼれだした。

「あぁっ…や、あ、…あ、」
「周太…可愛い声だね、…好きだよ、もっと聴かせて?」

囁く声も熱くて甘い、聴覚から意識が蕩かされていく。
いつもと同じよう右腕の深紅の痣にキスふれる、また強く吸われて痣が深くなる。
この場所にもう幾度、くちづけに想い刻みこまれたのだろう?

「…この痣もう消えないね、周太、」

囁きが耳元くすぐって、うなじを熱のキスがなぞりだす。
あまやかな熱が感覚を呼び起こす、その向こう体の芯を長い指が愛撫する。
この先をされたら、きっと本当におかしくなってしまう、どうしたらいいの?
途惑うまま肩越し振向いて、婚約者を見つめて唇をひらいた。

「…おねがい、えいじ、まって…へんになっちゃうから」
「いいよ…変になって、周太?」

きれいに微笑んだ瞳が、熱い。
こんな熱っぽい眼差しは、見つめられるだけで心囚われてしまう。
そんな想いに頬熱くなったとき、指が抜かれて熱がゆるやかに押し入れられた。

「ああっ、」

声が上がる、恥ずかしさが背中を染めあげ熱い。
それ以上に熱い感覚が、あまく体の芯に入れられていく、もう心が感覚の虜にされてしまう?

「や、あ、…っ、」
「しゅうた…っう…きもちいいの?」

長い腕が背中から抱きしめて、長い指が体の中心へと絡まりだす。
ふたつの感覚に掴みこまれた体が、煩悶の声をあげた。

「だめ…あ、ぅ…」

声は抵抗しようとする、けれど体はもう力が抜かれてしまう。
シーツ握りしめた掌も力が消えてしまいそう、もう意識から溺れこまされる?
どうしたらいいの?途惑いが涙になって喘ぐ声とこぼれおちた。

「ああっ…ぅ、っ、ん…や、」
「可愛い声…もっと感じて、周太?…っ、」

きれいな低い声の幸せで、悩ましげなトーンで耳元に囁く。
ふれる肌と肌のはざま燻らす熱、あふれる想いのまま熱くなる。
深く繋がれた体の感覚に心が結わえられ、愛しさが融けあって強くなる。

「…周太、次は、周太が俺に入って、」

体の芯から熱が抜かれて、うつぶせた体がそっと仰向けられる。
熱に潤んだ視界で見上げた先で、切長い目が切なく微笑んだ。

「きれいだ、周太…色っぽくて、狂わされる…ね、命令して?俺に入りたいって、言ってよ」

お願い、命令して?
そんなふう切ない瞳と声にねだられて、素直に周太は微笑んだ。

「…えいじにはいりたい、お願い、えいじにさせて」
「あ…周太、」

幸せに切なく笑って、静かに白皙の顔が紅潮にそまる。
きれいな羞んだ唇が胸にキスをして、そのまま肌をキスすべらせて体の中心にキスをした。

「あっ、」

心ごと体ふるえて、熱い唇に呑みこまれる。
やわらかな熱に包まれ、ほどかれ、こみあげる熱さに声があがった。

「んっ…えいじさせて、」

いま、自分はなんて言ったの?
自分が言ったことに驚いたむこう、唇の熱に介抱されて、長い指が薄いものを被せていく。
そうして白皙の腰が、ゆっくりと沈められた。

「周太、…っ、」

恋人の声こぼれて、きれいな煩悶の貌が瞳を奪う。
こんなふうに体交わす肌が熱い、こんな熱っぽい夜が怖くて愛しい。

「…え、いじ、っん、あ…」
「しゅうた…感じてるね、俺の中で…っ、いま、きもちよかったろ?」
「…はずかしいからきかない、で…ばか、…やっっ、あ、」

このまま、今夜、どうなってしまうの?
そんな不安な想いが揺れる、けれど自分の喘ぎ声があまく艶めかしい。
このまま熱い甘さに溺れて、ふたり感覚と記憶を重ねればいいの?
とまどい想いが瞳から涙こぼれていく、けれど、離してほしくない。

…あと何回、こんな夜を過ごせるの?

ふっと心こぼれた想いに、途惑いの涙は愛しさの涙に色を変えた。
ふれあう熱が愛しい、この甘い感覚が愛しい、こみあげる吐息が愛おしい。
なによりも今、この熱も感覚も重ねあい共有している、このひとが愛おしい。このひとの笑顔を護りたい。

「周太、…愛してる、」

きれいな声が伝える想い、きれいな眼差しにも伝えられる。
この愛しい心へと微笑んで、周太も想いを声に変えた。

「愛してる、英二…ずっと、」

この今ふれている、この想いも熱も、全てが愛しい。
この想い抱かれていく愛しさに、ふっと橘の香が素肌にふれた。




夏蜜柑の香が、ゆるやかに家を廻らし温めていく。
黄金の実を洗い、切って剥いて、菓子へと作り上げる。このひと時は幼い頃からの楽しい時間。
そして今年は隣に愛するひとがいてくれる、この幸せが嬉しい。

「周太、こんな感じでいいかな?」
「ん、上手だね、英二…そうしたらね、昨日支度しておいたので、この続きをするね?」

ひとつずつ手順とコツを教えて、家に伝わる菓子を作っていく。
どうか今年だけでも覚えて?そんな祈りこめながら言葉と手並みに伝える。
このひと時がいつか、そんなふうに心配した事もあったねと、笑える日が来たら良いのに?

…いつか、を迎えたい…帰ってきたい、この「今」と同じような時間に

心を祈りに温める、その向こうに紺青色の本が意識に映りこむ。
この家の書斎に眠る「ページが抜け落ちた本」そこに隠された秘密は、なに?

なぜ、怪人『 Fantome』は切り落とされ省かれたのか?

この謎の答えはまだ、見つからない。
けれど今この隣で笑っている人は、この答えを知っているのだろうか?
でも、訊くことは出来ない。いま自分が知っていることも、決して話せない。

…独りで探すしかない、ね

ぽつんと心つぶやき微笑んで、周太は昨日作り置いた夏みかんのガラス容器を取出した。
蓋を外して見ると砂糖が馴染んで好い具合になっている。

「おいしそうだな、周太?これを食べるの?」
「ん、そう…でもね、ちょっと工夫するの、」

笑って答えると、さっと濡らしたガラスの器に砂糖ごと夏みかんを盛りつけた。
そこへと煮溶かして置いた寒天を流し込み、また冷蔵庫に仕舞っていく。

「これね、夏蜜柑の寒天よせ、って言うんだ…お母さんが大好きで。3時のお茶の時、食べようね?」
「すごく旨そうだね、周太。楽しみだな、」

幸せな笑顔が笑いかけてくれる。
ただ菓子を作っているだけの、ごくありふれた風景。けれど、この笑顔が咲けば楽園になる。
なによりも、ありふれた風景であることが自分には、なにより温かい。
そして祈ってしまう。

…この幸福が「今」だけで終わってしまいませんように

ありふれた願い、けれど叶えることは努力が必要。
こんな普通の日常こそが本当は得難くて、宝物なのだと自分は知っている。
なんの変哲もないような時間と記憶、これらには、安らかな幸福と「普通」の顔した奇跡が満ちている。

この夏みかんの砂糖菓子を作る時間も、そう。
15年前には父と一緒に作っていた、それは15年前まで「普通」だった。
けれど14年前には父は居なかった、「普通」が脆く儚く、そして大切なのだと気付かされた。
あのときの傷みは今も、ふとした時に痛んでしまう。

だから願ってしまう、この愛する婚約者の為に。
自分の心に痛んだ傷を、このひとには付けてしまいたくない、だから帰って来たい。

きっと英二には何があっても光一が傍にいてくれる、そう信じている。
けれど、家庭の温もりを贈れるのは自分だけと、そんな自負を婚約者の自信と一緒に抱いている。
だから帰って来たい、この人の為に。光一の為にも帰って来たい、美代との約束の為に帰りたい。
そして母のために帰りたい「死なない警察官になる」約束を果して帰りたい。

この「今」と同じように、ずっと愛するひとの隣に立ち続けたい。
来年も再来年も、50年後にも、こうして隣に並んで、共に夏みかんの菓子を作りたい。
そうしてふたり繋いだ約束の数々を、ふたり笑い合って叶えたい。共に想い重ねて、年を重ねて、ふたり寄添って。

…どうか、帰ってこられますように、笑顔を見られますように

祈りの願い微笑んだ心へと、そっと夏蜜柑の清爽が香った。



blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第49話 夏閑act.5―side story「陽はまた昇る」

2012-07-13 23:57:00 | 陽はまた昇るside story
このひと時に想いをこめて



第49話 夏閑act.5―side story「陽はまた昇る」

心づくしの夕食は、どれもが優しい味がした。
注いでくれたノンアルコールビールも、寛がせてくれる気遣いが温かい。
幸せな想いに箸を運びながら、微かな緊張を心抱いて英二は口を開いた。

「周太、昨日は俺が出た後、学校はどうだった?」

周太は藤岡から「ページが抜け落ちた本」を聴いたと話すだろうか?
越沢バットレスで藤岡に言われた「アクシデント」が光一の推測通りだったらどうしよう?
二つの心配を隠して笑いかけた先、黒目がちの瞳が困ったよう微笑んだ。

「ん、…ちょっと困ったよ?」

やっぱり「困ったよ?」なんだ?

「周太、何に困ったの?」

どうしよう、何で困ったんだろう?
自分が困りだしながら微笑んだ向かい、少しまた首筋を熱くしながら周太は口を開いた。

「英二を見送ってすぐにね、華道部で一緒の女のひとたちに捕まっちゃって…」

光一の答えが正解?

「誰に捕まった?何の用で?」

訊いた声がすこし機嫌が悪くなっていて、我ながら驚いてしまう。
そんな英二を不思議そうに見つめて、周太は答えてくれた。

「ちょっと名前は、解からないんだけど…宮田くん、何で今日から外出なの?って訊かれて、」

良かった、周太に告白じゃなかった。

「なんだ、そっか、」

ほっと笑って英二は角煮に箸を運んで、口に入れた。
醤油と味醂の味が優しい。旨いなと微笑んだ英二に、周太は首傾げこんで訊いてくれた。

「ね、英二は、何だと思ったの?」
「周太に告白したのかと思ってさ、」

さらり即答した英二に、黒目がちの瞳がひとつ瞬いた。
すこし驚いたような瞳のままで、周太は遠慮がちに言った。

「…あのね、英二?そのひとたち、英二のことを好きなんだと思うけど…」

そんなふうに訊いて回るタイプは、話したとしても心から楽しいとは思えない。
だから申し訳ないけれど興味もない、もう今まで何度も経験した事だから、これ以上は遠慮したい。

「そっか?」

さらっと言うと、英二はロールキャベツを口に入れた。
リクエストに応えてくれた料理の味は、前のときよりも美味しく感じられる。
この今が幸せで、その分ふっと光一のことが切なくなる。きっと今夜は独り、光一は寂しいだろう。
今頃は何をしているだろう?そんな想い見つめながらも、婚約者との時間に英二は微笑んだ。

「やっぱり周太の料理が俺、いちばん旨いな。こんな料理が上手くってさ、可愛い婚約者で俺、幸せだよ、」

笑いかけた先、なめらかな頬が気恥ずかしげに薄紅そまっていく。
そんな可愛らしい顔で俯き加減になった様子が愛しい、こんなのは困ってしまいそう?
この幸せな困惑に英二は笑いかけた。

「ほら、そんなふうに恥ずかしがったりして…可愛いね、周太。俺、ちょっと困るよ?」
「ん?…どうして困るの?」

顔を上げると周太は、不思議そうな無垢の瞳で見つめながら首傾げた。
ほら、そういうとこ可愛いから困るのに?なんだか熱くなる頬のまま、英二は笑った。

「ほら、また、そんなふうにするとね?ほんと可愛くて、俺、ときめくんだから。今すぐに、ベッドに攫いたくなるだろ?」

正直なまま誘惑を口にしてしまう。
けれど婚約者は初々しい紅潮に頬染めて、羞みながら可愛いトーンで言ってくれた。

「…そんなことしょくじちゅうにいわれてもこまりますから…」

そんなふうに言うから、ベッドに攫いたいんです。

ほら、可愛い、どうしよう?
でも作ってくれた料理は食べたいし、けれど可愛くて色々したくなる。
ただでさえ3週間、毎日隣で寝ているのに「色々」が途中までも出来ない日が多い。
お蔭で、ちょっと欲求不満になっているかな?自分に呆れながらも幸せで笑った英二に、周太が言ってくれた。

「英二、お替りする?ごはん、たくさん炊いてあるよ?」
「ありがとう、周太、」

答えて空の茶碗を渡すと、御櫃から丁寧によそってくれる。
その手つきが端正で見惚れているうち、茶碗をこちらに渡してくれた。

「前からで、ごめんね?」
「こっちこそ、いつもありがとうな。他に面白いこととか、あった?」

笑顔で茶碗を受けとって、箸を運びながら少し緊張が背筋を伸ばす。
そんな思いと何げないふう見た先で、黒目がちの瞳がすこし考え込んでいる。

―藤岡から聴いたこと、黙っていよう、って考えてくれてるのかな

そんな気遣いがどこか伝わってしまう。
ここで言わないでくれれば「周太は何も知らない」で、このまま通すことが出来る。
どうか何も知らないままでいて?そんな願い抱いた向こう、黒目がちの瞳が微笑んだ。

「部活の後、瀬尾と関根と話したよ?関根、お姉さんの話をしてくれた。すごく幸せそうだったよ、」

周太は、解かってくれた。
そんな信頼に微笑んで英二は相槌を打った。

「今日と明日はデートだって、姉ちゃんからメール来たよ。関根からも、」

ほんとうに姉も関根も幸せそうだ。
姉と関根が交際を始めて2週間、毎日ずっと関根は夜と朝とメールを送って、夜は電話もする。
それが姉にとって幸せな「毎日の習慣」になっている、それが嬉しくて、少し寂しい。

―けっこう俺、シスコンだよな?

姉は時に母代わりにもなって英二の面倒を見てくれた。
たった1歳しか違わない、けれど姉は年長として弟を愛して守ってくれる。
あの卒業式の翌朝も姉はすぐ英二の味方になって、両親に周太とのことを認めるよう言ってくれた。
きっとあの後も、毎日の生活の中で姉はさりげなく擁護してくれていた。
どうか姉には幸せになってほしいな?そんな想い微笑んだ向こうから、黒目がちの瞳が優しく微笑んだ。

「ん、関根、昨日は嬉しそうにその話、してくれたよ?お姉さんから俺にも、メールあったの、」
「へえ、姉ちゃんなんだって?」

訊かれて、すこし困ったよう周太は首傾げこんだ。
何で困っているのかな?そう目で訊くと答えてくれた。

「写メールが4枚、添付されてあってね?どの服を着て行ったら良いかな、って訊かれたんだけど…」

姉が着ていくものを相談するなんて?
いつも自分のセンスと気分で服を選ぶ姉なのに、やっぱり恋をすると変わるのだろうか?
それも周太に相談する当たり、第三者の男性の目で見てほしかったのかなと姉の乙女心が微笑ましい。

「周太、なんて答えたの?」
「どれも素敵です、でも明るい色がやっぱり綺麗です、って答えたけど…」

どれも素敵です。
そう周太に言われたことは姉にとって、自信になっただろう。
いつも周太の言葉には打算が無い、本質的な優しさから生まれる言葉が好きだ。そんな想いと英二は笑いかけた。

「デートだからね、明るい色は正解だと思うよ?姉ちゃん色素うすいから、明るい色が可愛いし、」
「ほんと?良かった、」

ほっとして微笑むと、周太は吸い物椀に口をつけた。
椀を持つ、箸を内側に向ける、どれも端正な作法が周太は馴染んでいる。
相変わらず綺麗に食事するな?見惚れながら英二は、ふっと良い傾向と懸念の両方を口にした。

「順調みたいだな、姉ちゃんたち。でも、母さんにはまだ、話せていないらしいけど、」
「ん、そうみたいだね?瀬尾がね、焦らない方が良いよ、って言ってた。お姉さんが良い変化をしたら納得するだろう、って」

英理の良い変化を見て、英二の母も「英理の相手」を認めていける。
そんなふうに瀬尾は言っている、そういう意見は「時間の経過」と心の変化を熟知している人間だろう。
いつから瀬尾は、こういう考え方をしているのだろう?驚きながら英二は賞賛に微笑んだ。

「うん、瀬尾の言う通りだろうな?すごいな、瀬尾。そういう考え方が出来るのって、」
「でしょう?…俺もね、すごいって思って。よく人を見ているから、そういう意見も言えるんだな、って思って…あ、あとね?」

あと、何かな?
そう見た先で周太が楽しそうに笑った。

「内山が声をかけてくれたよ、」
「内山が、なんて?」

ノンアルコールビールのグラスに口付けながら英二は、何げなく尋ねた。
ひとくち飲みこみかけた時、英二の質問への答えに周太は微笑んだ。

「来週の外泊日、お昼を一緒しない?って誘ってくれたんだ。来週は俺、大学もお休みだし」

外泊日、昼、一緒しない、って?

「…っごほっ、」

飲みこみかけた炭酸が、気管に迷い込んで迫り上げる。
そのまま盛大に英二は咽せ始めた。

「ごふっ、ごほほっ…ごほん、こほっ」

掌で口元を押えこむ、けれど喉の震動は止まらない。

「どうしたの?だいじょうぶ?」

驚いたよう立ち上がるとティッシュボックス持って隣に来てくれる。
ペーパーを渡してくれながら、優しい掌が背中を摩りだした。
その掌の温もりが嬉しい、けれど今、言われたことが気になって、なんとか英二は話そうとした。

「っほ、ん…だい、じょぶ、っこほっ、ごふっ…周太、それ、来週っ、こほんっこほ、へんじはなんて?」
「いいよ、って言ったけど?…」

いいよ、って言っちゃったの?

ちょっと愕然として、けれど待てよと思う。
同期の男同士で昼飯に行く、それは何の問題も無い筈だ?
それなのに自分の本音は「嫌だな」と思ってしまう、さっき花屋の女主人との会話を思い出すから。

「いつもの男の子は、今日はご一緒じゃないんですね?」
「はい、今日は家で待っててくれて、」

男の子、という言葉に彼女が周太を高校生くらいに思っているのが解かる。
元から可愛らしい顔立ちで小柄だから、制服姿でも高卒任官の新人に周太は間違われてしまう。
彼女の勘違いも無理はないな?納得しながら微笑んだ英二に、なにげなく彼女が言った。

「きれいで上品ですね、彼。優しくて、頭も良さそうで。きっとモテるでしょう?」

そう言ってくれた彼女が綺麗で、ちょっと妬いてしまった。
彼女が英二に好意を寄せてくれたことは年明けのときに気づいている、彼女は美人だなとも思う。
そして花を愛するひとだから、周太が憧れている事も本人から聴いてよく知っている。
さっきも彼女の作った花束を嬉しそうに眺めていた、そんな彼女に「モテるでしょう?」と言われて嫉妬してしまう

―…周太は首席で真面目で、マジ可愛いよな、ねえ?

越沢バットレスで光一に言われたことが、女性の目からも言われてしまった。
そこに内山から外泊日の誘いがあったと聞かされて、つい考えが短絡的になってしまう。

「英二、無理に話さないで?」

心配そうに周太が水のコップを手渡してくれる。
受けとったままひと息に半分ほど飲干して、まだ咽ながら英二は訊いた。

「行くの?…ごほっ、ふたりき、こんっごほっ、」
「ん、行くつもりだけど?…ね、無理しないで、英二?」
「ごほっ、…ふたりだ、っほんっ、ごほっ、」

ふたりだけで行くの?
ふたりだけはちょっと嫌だな、誰かも誘ってよ?
そう言いたいのに咽こんで、言葉が細切れに途切れてしまう

「英二?…治まってからで良いよ、ね、焦らないで?」
「だって周太、ふっ、ごほんっ、こほ…こほんっ」

だって周太、ふたりきりで飯に行っちゃうの?

ふたりで周太が出かけるのって、俺以外では美代さんと光一くらいなのに?
関根や瀬尾なら解るけど、なんで内山がここに出て来るんだよ?

「っ、ごほんっごほごほ、」
「だいじょうぶ?無理に話そうとすると、治らないよ?」
「ふた、りっ、ごほっこほんこほこほっ…」

ふたりきりでかよ内山?

どういう理由で内山は周太を誘ったのだろう?
周太とは優等生同士、初任科教養の最初のころ2人は競っていた。
それから話すようになって、時おり勉強の話をしたりしていたことも知っている。それにしたって?

「しゅ、っごほんこほんこんっ、なんでごほほんこほんっ、」
「英二?ね、治まるまで待って?…」
「でもっごほんこほんっな、んで、っ」

それにしたって、なんで俺がいない隙に誘うんだよ?
余計に気になっちゃうだろうが内山?
あいつ結構油断ならない?

「ごほっ、どうい、こんこんったいみんっ、ごほんっ」

ていうか、どういうタイミングで誘ってくれたわけ?

まさか風呂の時とかじゃないだろうな?
なんだかそんなの絶対に嫌だ。

さっきから質問がぐるぐる廻るけれど、咽て声は出てこない。
こんなに今、頭が疑問で苦しいのに、なんだってこういう時に限って、俺って咽るんだろう?

「ね、話すのは後にして、英二?ゆっくり、治まるのを待ってね?」

諭すよう声かけてくれながら、やわらかに温かな掌が背中を摩ってくれる。
心底から困りながらも今、この掌の幸せが温かい。



目覚めると、あまく清爽な香が暁に満ちていた。
昨夕に周太が剥いたという夏蜜柑、その残り香が2階まで昇ったのだろう。
どこか懐かしくて、清々しい香が心地いい。幸せに英二は腕のなかへと微笑んだ。

「周太?」

呼んだ名前にも瞳は披かない。
やっぱり疲れさせてしまった、自分の所為で。
そんないつもの甘やかな反省と一緒に抱きよせて、恋する寝顔を見つめた。

―きれいだ、周太

なめらかな頬は眠り安らぐ紅潮の、清楚な色香が初々しい。
長い睫こぼす翳には夜の涙の痕があわく残っている。
けれど口許は幸せに微笑んで、その唇の艶に吐息の記憶が目を覚ました。

―…ん…っ、え、いじ…

吐息こぼれる声、艶めかしくて。
夜のはざま視線と体温からめあう時間は、熱くて愛しくて。
幾度も契り交わして、眠り落ちかける恋人を抱きよせ繋ぎこんで、なめらかな肌と香に溺れこんだ。

もう疲れさせてしまうから、痕をつけてしまうから。

そんな自制心もあったのに、3週間ずっと耐えていた堰が決壊して。
あふれる想いのまま恋する瞳に酔いしれて、深く繋がる体温と感触に融けこむ夜を過ごした。
もう最後は崩れ堕ちるよう果てた恋人は、美しい涙こぼして眠りに墜ちこんだ。
そして漸く自分も充たされて、愛撫に埋めた体を抱きしめる幸せに眠った。

「愛してるよ…」

あまやかな記憶を唇に見つめて、やわらかな温もりキスふれあう。
眠りの吐息こぼす唇は無防備で、深めるキスも素直に受け入れてくれる。
なにもしらず夢見るひと、その無垢な眠り抱きしめ熱のまま、深いキス舌からめてしまう。
昨夜の時間に力尽きた体はされるまま、抱き寄せる腕へ撓んで寄添ってくれる。
そっと離れて見つめた、しなやかな肢体には清廉な肌いっぱいに、薄紅の花の痕が散っていた。
この赤い花は自分の唇が刻んだ、恋の服従。あわい花々うれしく英二は微笑んだ。

「きれいだね、周太…でも今は、もうつけられないね…」

今夜は警察学校寮に帰る、そうすれば大浴場で肌を晒してしまう。
そのとき愛撫の痕跡を見られても、本当は自分は構わない。だって本当は「自分の婚約者だ」と世界に告げてしまいたいから。
けれど警察学校の「校内恋愛禁止」の規則がある、それに何より周太本人が恥ずかしくて倒れてしまうだろう。
それとも、いっそのこと、

「いっそ、違反をばらしたら…」

規則違反を暴露したなら、辞職になるだろうか?
もし辞職したなら周太を「異動」から遠く引き離すことが出来る?
そんな考え巡らすうち、ふっと英二は苦く微笑んだ。

―ダメだ…俺だけ辞職になって、周太が残留させられたら、最悪だ

同じ警察官だからこそ、自分は周太を援けられる。
同じ男性で違う適性だからこそ、周太の「異動」先の支援部門に配属もできる。
そうしたら自分は、馨の軌跡に立つ周太をも離さないでいられる。
そうして追跡したなら、周太を救い出すチャンスを自分は、きっと逃さない。

逃げずに立ち続けるしかない、この危険な道に。
もう引き返せない、逃げようとしても「50年の束縛」は終わらない。
真直ぐ向きあい、断ち切る手段を探すしか道は無い。

「必ず、護りぬくよ?…俺の花嫁さん、」

そっと誓いに微笑んで、優しいキスで唇ふれた。
ふわり触れあう温もりが微かに震えてくれる、もう一度ついばむよう唇ふれて離れると、長い睫が揺らいだ。

「…ん、」

ちいさな吐息、くちづけた唇からこぼれだす。
このまま起きてくれるかな?一緒の朝を過ごしたくて英二は、求めるまま唇を重ねた。
重なりあう唇やわらかな吐息ふれる、吐息のすきま深めたキスに熱を絡ませる。
うっすら目を開けたむこう、長い睫が震えて瞳が瞠かれた。

「…あ、」

そっと離れたキスに吐息こぼして、黒目がちの瞳が見つめてくれる。
すこし途惑いながら羞んだ笑顔が、初々しいまま頬そめて大好きな声が言ってくれた。

「おはようございます、…はなむこさん?…大好き、」

約束の名前で呼んで、きれいな腕を体まわして抱きついてくれる。
そのまま唇ふれあい重ねて、恥ずかしげにキスから熱と香が移された。

―夏みかんの香、…あまくて、ほろ苦くて

あまやかなキスに蕩かされていく、自制心が折られる軋みを謳う。
ふれあう素肌の胸に腰に求めたい想いが起こされる、絡まる脚に熱が生まれそう。
とくん、鼓動が心ひっぱたいて、初々しい無意識の誘惑に英二は墜とされた。

「周太、キスさせて?…ふれさせて、」

夜の始まりを暁に告げて、英二は恋の奴隷になった。



明るい木洩陽ゆれる緑陰に、黄金の実を摘んで籠に入れる。
籠を持つひとが幸せに微笑んで、黒目がちの瞳が見つめてくれた。

「ありがとう、英二…来年も、お願いさせてね?」

来年も。

その言葉に籠る想いが切なくて、愛しくて。
手にした鋏を籠の傍に置くと、長い腕伸ばし婚約者を抱きしめた。

「来年も、再来年も、ずっとだよ、周太?」

そっと唇よせながら、瞳のぞきこんで、きれいに笑って英二は約束をした。

「50年後も、一緒だよ?」

心から祈る約束を瞳に見つめて、英二は周太にキスをした。



blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第49話 夏閑act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-07-12 23:59:22 | 陽はまた昇るside story
ぬくもり、君に恋して



第49話 夏閑act.4―side story「陽はまた昇る」

越沢バットレスは「こいざわ」と読むことが、最初は意外だった。

この高度80mの岩壁はマルチピッチの練習場として著名で、御岳山から鳩ノ巣駅を結ぶ尾根の対岸に位置する。
岩壁登攀、所謂アルパインクライミングの自由登攀ピッチ・グレードでIV級からVI 級と難易度も高い。
滑りやすく脆い岩質でもあり、谷川岳にある一の倉沢南稜・中央稜より難しいとも言われる。
この越沢バットレスでVI級という鋸ルートを登りきって、英二は終了点から岩壁を見下ろした。

「気持ちいいな、」

高度感がある岩壁の向こう、新緑ゆたかな森が瑞々しい。
からり爽やかな皐月の風が体をすり抜けていく、岩壁を吹上げる風がすこし熱った体に心地いい。
ぼんやり緑を眺めていると、救助隊服姿の光一がクライマーウォッチを見て笑った。

「宮田、すっかりタイム速くなったね?半年前と大違い、」

透明なテノールが「宮田」と呼んで、底抜けに明るい目が微笑んだ。
その向こう、藤岡と白丸駐在の大野が奥多摩交番の木下と腰を下している。
今は青梅署山岳救助隊の公式訓練でここにいる、公務の時間らしく英二も名字で呼びかけた。

「国村のお蔭だよ、」
「だね、感謝しな?ま、おまえの7ヶ月間の努力は、立派だね、」

飄々とテノールは答えて笑ってくれる。
この笑顔は7ヶ月前と同じよう明るいけれど、ずっと素直な雰囲気が寛いだ。
こういう貌を見せてくれる信頼感が嬉しい、穏かに微笑んだとき藤岡がこちらに来てくれた。

「お疲れ、宮田。おまえ、すごい速かったな?」
「ありがとう、でも藤岡こそ速いよ、」
「俺はガキの頃から、兄ちゃんと裏山に登ってたからさ、」

からっと人の良い顔で笑っている。
いつも藤岡は明るくて人が好い、そして周太とのこともフラットに聴いてくれた。
いま初任総合でも同じ教場で過ごす同期として、周太のことも秘密を守ってくれている。
そんなふうに秘密を背負わす事が申し訳なくて、率直に英二は謝った。

「藤岡。周太とのこと、教場でも秘密にしてくれて、ありがとうな、」
「うん?当たり前のことだろ?人のこと勝手に喋ったら馬鹿だよ、」

至極当然と言う口調で率直に言ってくれる。
こういう押しつけがましさが無いところが藤岡は良い、この同期が卒業配置の相方で良かった。
卒業配置は通常2人一組で配置されるけれど、お互いに山岳救助隊を志願した者同士、似ている部分もあるかもしれない。
そんなことを考えていると、ふと藤岡が口を開いた。

「そういえばさ、昨日、あの事件の本のこと湯原に訊かれたよ、」

とくん、

心を鼓動が引っ叩く。
昨夜、冷水を被りながら気づいたミステイクが、心に突き刺さる。
けれど冷静な脳髄のまま、いつもどおり英二は穏やかに笑いかけた。

「あの事件って?」
「ほら、絞殺死体の傍にさ、文庫本が落ちていた件だよ。あの本の内容を訊かれた、」

やっぱり周太は質問をしてしまった。
心裡そっと溜息ついた隣から、透明なテノールが微笑んだ。

「ああ、『春琴抄』の件だね?ページが抜けてたコトとか、話しあったワケ?」

さらりとした誘導尋問。
けれど当然に問われる相手は気づくことも無く、正直に口を開いた。

「うん、話し合うってほどでもないけどさ?まあ、俺の見解はちょっと話したな、」
「藤岡の見解って、どんなだったっけね?」
「被害者は加害者との恋愛に、未練があるから切り落としたって結論だったけど、脱け出したくて切り落としたのかも?ってヤツ」

本からページが切り落とされていたことを、周太はもう知ってしまった。
この事例から周太は気がついただろう、自宅の書斎にある紺青色の本を思い出したに違いない。
今日きっと周太は家に帰り紺青色の本を開いて確認する、そして自分が買った本と照合するだろう。

紺青色の表装『Le Fantome de l'Opera』古い本と新しい本。

この2冊が周太を運命に気付かせてしまうのは、いつだろう?
それともキーワードに気付くまでで、真相には辿り着くことなく終わるだろうか?
バットレスの風に考え巡らす隣、光一と藤岡は話しを続けている。

「ああ、そうだったね?で、周太は何て言ってた?」
「ちょうど部活が始まっちゃってさ、話しはそこまでだよ。部活の後は別の話題だったし、」

別の話題って何だろう?
ふと気になって英二は口をはさんだ。

「別の話題って?」
「うん?ああ、部活の前に湯原、ちょっとしたアクシデントがあってね?そのこと、」

部活の前は、英二と一緒に周太は校門のところに居た。
あの後すぐに部活に行ったと思っていた、けれど違うのだろうか?気になって英二は訊いてみた。

「アクシデント?昨日は周太、俺と校門で別れた後は、部活だったと思うけど、」
「うん、その部活の直前だな。まあ、ちょっとしたことだけどさ」

人の良い笑顔で藤岡が口開きかけた時、大野が笑って藤岡の肩を叩いた。

「藤岡、そろそろ下降しよう。夕方の巡回、早めに出たいんだ、」
「あ、俺もです。じゃ、また月曜にな、宮田」

からっと笑って藤岡は、さっさと大野と一緒に懸垂下降のスタンバイに入ってしまった。
小柄で陽気な後ろ姿を見送りながら、英二は首傾げこんだ。

「アクシデント、って…なんだと思う?」
「うん?」

隣から底抜けに明るい目がこちら見てくれる。
すこし考えるよう光一も首傾げ、尋ねてくれた。

「部活ってさ、華道部だったよね?」
「うん、そうだけど?」

それが何か関係あるのかな?
そう目で訊いた英二に、秀麗な貌は唇の端を上げ微笑んだ。

「華道部って、女が多いよね?で、周太は首席で真面目で、マジ可愛いよな、ねえ?」
「…え、」

それってもしかして?
かるく息呑んだ英二に、愉しげにテノールが言った。

「周太、俺たちも惚れちゃうくらい、イイよね?で、ウチのばあちゃんも、美代ん家もね、みんな周太のこと気に入ってるよ?」

それってつまり、こういうこと?

「それ…周太のこと、同期の女が気に入って、告白した、ってこと?」
「ま、可能性はゼロじゃないよね、」

からり笑って光一も、懸垂下降のスタンバイを始めた。
けれど、ぼんやり英二は立ちつくして、考えをぐるり廻らしだした。
成績優秀で射撃は2大会優勝者、華道部でも周太は褒められている。
そんなとき周太はいつも頬染めて、謙譲の性格と含羞の可愛らしさが顕れてしまう。
すっかり今は素のままでいる周太は、初任総合でも「前と違う」と驚かれながら好意的に見られている。

―周太、やっぱりモテるのか

穏やかで優しい癒し系、かつ、聡明で凛々しい。
そういう周太のことを気に入る女性は、きっと多いだろう。
自分こそ同性で男だけれど、そういう周太に首ったけで恋の奴隷になってしまっている。
だから想ってしまう「周太だったら老若男女も関係なく好かれても、仕方ないのかもしれない?」
バレンタインの時にも感じた胸の燻りに、ぼんやり英二は自分の怜悧なパートナーに尋ねた。

「…なあ?俺がいない隙にさ、周太にアプローチ掛けたりとか…するヤツ、いるのかな?」
「そりゃね。可能性としちゃ、当然あるよね?」

そんなの当り前だよね?

そんな冷静な眼差しで英二を見、慣れた手つきがザイルをダブルにセッティングしていく。
こんなふうに光一は大概では全く動じない、こういう大らかな野太さは今ちょっと羨ましい。
他のことなら自分も冷静なのに?こんな自分は慣れていない、我ながら持て余していると悪戯っ子の目が笑った。

「いつまでもね、ボンヤリしてんじゃないよ?下降のスタンバイして、宮田。ほらっ」

飄々と笑いながら白い指は、英二の額を容赦なく小突いた。

「いてっ」

小突かれ、反射的に声が出た。
ちょっと今のは痛い、けれど額の衝撃に意識が〆られて英二は笑った。

「ごめん、30秒待って、」
「早くしてね?ラストスタートでもトップ獲るよ、俺たちエースなんだからさ、」

からり笑われながら、英二は素早く装備の点検を始めた。
今は訓練中で公務の時間、こんなときに悩んでいたら事故に繋がってしまう。
それは自分がいちばん赦せない、そんな想いに両掌で1つ、ぱんっ、と顔を叩いで冷静を戻した。



新宿での乗換え時間、英二は一旦改札を出た。
すこし速い歩調にいつもの花屋に入る、そしてカウンターに声をかけた。

「こんばんは、花束をお願い出来ますか?」

すぐ声に顔を上げて、すっかり馴染みの女主人はカウンターから出て来てくれる。
花の方へと歩み寄りながら、いつもどおり優しい笑顔で訊いてくれた。

「こんばんは、お久しぶりです。どういったお花でしょう?」
「母の日の花束を、お願いします。一週間遅れですけど、」

周太の母に、初めての母の日の花を贈りたい。
本当は先の日曜が母の日だった、けれど奥多摩にいたからメールだけは送った。
たったそれだけ、でも彼女は嬉しそうに返事をくれた。それが自分の方こそ嬉しかった。
こんなふうに、いつも温もりをくれる彼女に感謝を示したい。そんな想いと花屋に佇む英二に、女主人は笑いかけてくれた。

「いつもの方で、よろしいですか?きれいな瞳の、」
「はい、お願いします、」

頷いて答えかけて、英二はすこし考えた。
すぐに考えをまとめると、花をまとめ始めた女主人へと尋ねた。

「すみません、配達はお願い出来ますか?」
「はい、あまり遠くで無ければ、」

すこし驚いたよう、けれど優しい声で答えてくれる。
その答えに微笑んで英二は、追加の注文をした。

「じゃあ、もう1つ、母の日の花束をお願い出来ますか?場所は成城なんですけど、」
「かしこまりました、では、こちらの伝票を書いて頂けますか?」

纏めかけた花を腕に抱いて、カウンターへと案内してくれる。
きれいなペンと宅配用の伝票を英二の前に置くと、彼女は丁寧に教えてくれた。

「成城でしたら、明日の午前中にお届けできます。お時間のご指定などありますか?」
「朝9時前とかでも、大丈夫ですか?」
「はい、早いお時間の方が、助かります。お色やお花の好みは、こちらに書いて下さいね、」

言われて、ふと母の花の好みを知らない事に気がついた。
姉の好みは何となく解かる、あわいピンク系の花が好きだから、なんどかプレゼントしたことがある。
けれど、母はどんな花が好きだったろう?

―父さんが、母さんに花を買って来るときは…?

考えかけて、思い出せない。
父が母に花を買ってきたことが、思い出せない。
父が母に花を贈る姿を、一度でも見たことがあっただろうか?

母にも、母の日に寄せて花を贈りたい。
そんな想いがさっき、周太の母に贈る花束から自然に起きてくれた。
けれど、前に自分が母に花を贈ったのは、いったい何年前だろう?

―小学校1年生のとき、カーネーションを1本贈った…な、

あのときより前は一度も無い、あれが初めてだった。
もう17年前になる母の日の記憶、あのとき母は、どんな顔をしていただろう?

「…あ、」

不意に目の奥が熱くなって、英二は目を閉じた。
今まで自分たち父子は、母にどう接してきたのだろう?
思い返していく記憶に呆然とする心へと、ふっと穏やかな声が映りこんだ。

―…本当は寂しがりで、繊細な人だと思う。すこし不器用で、頑固に見えるけど…本当は、人を好きになりたい人だよ

関根に「宮田のお母さんって、怖い?」と訊かれた周太の答え。
この答えに気付かされる、母を寂しさに閉じ込めたのは誰なのか?母が頑なになった原因は何なのか?
そして気づかせてくれるひとの優しい純粋が、どこまでも温かい。

―周太、君はいつも、人の素顔を見つけられるんだね

最初に英二の素顔を見つけたのは、周太。
黒目がちの瞳で静かに見つめて、穏やかな声で話して、相手の心をほどいてしまう。
そんなふうに、周太は相手を真直ぐ受けとめ、心の素顔に向きあっていく。

ずっと13年間を孤独に籠った周太、それは父親の殉職への無神経な同情が辛かったことも原因だろう。
けれど本当の理由は「誰も哀しませたくない」自分の運命に巻きこみたくない、そんな優しい遠慮だった。
そんなふうに独り哀しみも辛さも抱え込んで、それでも真直ぐ立ってきた周太だから、哀しみ苦しむ人を見れば放っておけない。
自分が苦しんで泣いただけ、相手の傷みが周太には解り過ぎるから。

そんな周太の言葉が今、母に英二を向き合わせ、親子の想いを繋いでくれる。
いま周太は傍にはいない、新宿と川崎で離れている。それでも言葉の記憶は今、心響いて母の素顔に気付かせていく。
こうして離れている今も黒目がちの瞳は心映りこんで、母を真直ぐ見つめさせてくれる。

―やっぱり君を愛してる…君だけに恋してしまうね、周太?

そっと想い微笑んで、英二はペンを取った。
左手で注文伝票を抑える、その手首に嵌めた腕時計に微笑んで『花束イメージ』欄にペンを走らせた。

『華やかで繊細な人のイメージで』




まだ空が、どことなく明るい。
川崎駅から家までの道、歩きながら携帯を開くと18:55と表示されている。
予定では20時ごろだった、けれど御岳駐在所長の岩崎が「たまには休め」と早く帰らせてくれた。

本来、自分は卒業配置から山岳救助隊に配属できる人材では無い。
けれど後藤からの要請に応えた遠野教官が、英二を選んで卒配を決めてくれた。
しかも英二は既にクライマー専門枠で正式任官をした、だからこそ尚更に足を引っ張りたくない。
そんな想いで今日も訓練に参加した英二に、越沢バットレスから戻ると岩崎は言ってくれた。

「初総の研修期間なんだからな?本来は通常業務は休んでも、構わないんだ、」
「ありがとうございます、でも今はシーズン中です。それに俺は、一般採用だったのに志願して卒配させて貰いましたから、」

いま5月は初夏の新緑が美しい。
この季節はハイカーも多く、山岳救助隊は登山道巡回や登山計画書チェックだけでも忙しい。
それを解っているから藤岡も外泊日は鳩ノ巣駐在に戻る、だから自分も当然のことだろう。けれど岩崎は笑ってくれた。

「ほんとうに宮田は、真面目だな?でも、今日は家に帰るんだろ?きっと待ってるよ、夕方の巡回が終わったら帰っていいよ、」

そう言って、夕方の巡回が終わってすぐに英二を帰らせてくれた。
お蔭で1時間も早く帰ってこられた、この予定変更を新宿で乗り換えてからメールしたけれど、返信はまだ無い。

「…周太、気がついていないのかな?」

独り言と歩きながら英二は、携帯をポケットに仕舞い込んだ。
歩く向こう、懐かしい木造の門が見えてくる。
この「懐かしい」が温かで、切ないほど嬉しい。こんな想いは実家でもしたことが無かった。

―待っていてくれる人を、本当に好きなんだ、俺は

その人にもうすぐに逢える、微笑んで門の扉を開いた。
軽く木材の軋む音響いて扉開かれる、その向こうから爽やかな樹木の香が頬撫でた。
あまくて柑橘の漂う香に顔を上げると、街燈の灯りに常緑樹が見えた。
その濃い葉陰には、真白く小さな花と金色の実が光に映えている。

「夏みかんか、」

微笑んだ言葉に、3月の記憶が優しくふれてくる。
遭難事故の後に静養した時、この木を「夏みかんだよ?」と周太は教えてくれた。
あのとき笑顔が嬉しそうで可愛くて、黄金の実がなる梢の緑陰にキスをして。それがひどく幸せだった。

「…明日も、キスしたいな、」

独りごとに願いを言って、踵返すと英二は花束と鞄を提げて玄関へと向かった。
飛石が革靴の底を鳴らす、この音も懐かしいと感じてしまう。
もうここが「自分の家」になってしまった、実感に微笑んですこしネクタイを緩めた。
そして衿元から革紐を引き出し合鍵を手に取ると、扉の鍵穴に挿しこんだ。

かちり、

開錠音が嬉しい。
こんな小さな事も幸せな自分が、可笑しいけれど温かい。
微笑んだまま扉を開いていく向こう、玄関ホールに藍色のエプロン姿が現われだす。
ちゃんと待っていてくれた、自分のこと。逢いたかった大好きな姿に英二はきれいに笑った。

「ただいま、周太、」

幸せに微笑んで玄関に入ると、英二は扉の鍵とチェーンを掛けた。
ホールをふり向いた視線の真中に、黒目がちの瞳が幸せに微笑んでくれる。
そしてスリッパのまま周太は三和土に降りると、ぽん、と抱きついてくれた。

「おかえりなさい、英二、」

こんなの可愛いです、ものすごく。

スリッパ履いたままのとこ、抱きついてくれるとこ、とんでもなく可愛いです。
どうしよう幸せでまた変になりそう?笑って英二は花束を持っていない右腕一本で、小柄なエプロン姿を抱きあげた。
首に回してくれる腕が温かで、間近くなった笑顔が愛しくて、想い素直に唇へとキスふれた。

―あ、…あまずっぱい

ふれたキスの味と香に、周太が何をしていたのか解る。
初恋の味は甘酸っぱいとよく言うけれど、こんな感じなのかな?
なんだか幸せな感想を口ふくみ離れると、英二は幸せに笑いかけた。

「周太、佳い香だね?夏みかんかな、」
「ん、そう…」

素直に答えながら、きれいな首筋が赤くなっていく。
きっとキスの香を言われて気恥ずかしがっている、こういう淑やかさが周太は初々しい。
こういうとこ可愛くて大好き、そんな本音を心裡に言いながら英二は靴を脱いでホールに上がった。
階段下で抱きおろすと、黒目がちの瞳が英二の左手に気がついて微笑んだ。

「この花束、母の日?」
「そうだよ、周太、活けてもらってもいいかな?」

あわいトーンのカーネーションとオールドローズの花束。
周太の母のイメージに合う雰囲気が、あの花屋の主人の人柄を偲ばせる。
大きな花束を抱きとりながら微笑んで、周太が尋ねてくれた。

「ね、あの花屋さんに行ってきた?」
「うん、そうだけど、」

答えて、ちりっと焼かれる感覚が心に走った。
さっき花屋の主人に言われたことが、みっともないけど妬いてしまう。
そんな途惑い心隠した英二に、優しい笑顔が訊いてくれた。

「英二のお母さんにも、お花、贈ったの?」

どうして解かるのかな?
ちょっと驚きながらも解かって貰えることが嬉しくて、素直に英二は頷いた。

「うん、宅配も出来るって言うから、お願いしてきた、」
「よかった、きっと喜んでくれるね?」

嬉しそうに言って、黒目がちの瞳が幸せに笑んでくれる。
こんな笑顔を見せて、英二の母のことまで喜んでくれる心が温かで、愛しい。

「周太、ありがとう。愛してるよ、」

こんなふうに温もりくれる人、だから恋して愛している。
愛しさに英二は屈みこむと、大好きな人の唇にキスをした。





(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第49話 夏橘act.4―another,side story「陽はまた昇る」

2012-07-11 23:43:27 | 陽はまた昇るanother,side story
香、ふるさとの想いを



第49話 夏橘act.4―another,side story「陽はまた昇る」

木洩陽が常緑の梢から降り注ぐ。
きらめく影絵に顔翳されるなか、目を細めながら周太は手の届く実に手を伸ばした。
黄金の大きな果実の蔕に鋏いれるごと、白い星の小花ふり芝生に零れだす。
低い枝から10個ほどを竹籠に納めると、大きな夏蜜柑の木に笑いかけた。

「ありがとう、きれいな実だね、大切にするね…明日もよろしくね、」

笑いかけた木は、ゆるやかな風に梢ゆらし濃い緑の葉が光る。
ひろやかな梢は豊かに枝をひろげ、柑橘の香さわやかな緑陰は心地良い。
この木は物心ついた時にはもう、今の巨木の姿だった。

…いつからあるのかな、曾おじいさんが植えたのかな?

そうだとしたら曾祖父は、よほど夏蜜柑に想い入れがあるのかもしれない。
そうすると毎年つくる夏みかんの砂糖菓子も、曾祖父の頃から作っていたのだろうか?
なにげなく廻らした考えに、ふと周太は気がついた。

…あ、夏みかんの砂糖菓子で有名なところとか調べたら、曾おじいさんのこと、すこし解かるかもしれない?

この家は曾祖父が建てたもの、そして近くに親戚も無いから、どこか遠くから川崎に移り住んだのだろうと解かる。
それに家の過去帳には、曾祖父からしか名前が無い。それより前のことは何も教えて貰っていないから、解からない。
けれど風習や家財道具は古いものが幾つも遺されている。

…そうか、食器とか、古いものの由来を調べたら解かるかも?

どうして今まで気付かなかったのだろう?
そう思いかけて自分ですぐ気がついた、13年間ずっと考える余裕すら無かったから気づかなかっただけ。
そして今はきっと、近づく異動の前に「家」を理解しておきたい、そんな気持ちがあるから気づける。
きっと8月あたりに1度目の異動をして、それから秋までに再び異動するだろう。
その後は最短5年、おそらく行動の自由も奪われることになる。

あの部署は、5年が最初の任期。
任期が満ちれば一旦は他部署に出て、また戻ってくるケースも多いと聞いている。
異動を繰り返しながら昇進し、幹部になり、尚更に重たい「秘密」の闇は濃くなっていく。
その場所に、いつまで自分は立つことになるだろう?いつまで居れば父の真実を見つけられる?

―…周太、『いつか』が来たら必ず俺と籍を入れてください、それまでは俺の婚約者でいてください
  どうか周太?『いつか』俺の嫁さんになってください。そして俺とずっと一緒に暮らしてください

いま佇む常緑の夏蔭、早春の約束が蘇る。
早春1月の暖かな日に、英二は婚約の申し込みをしてくれた。あの日に結んだ約束を叶えられるのは、いつ?

―…俺、ちょっと我ながら頑張ってるよ、周太…すこしでも早く力つけてさ、周太を早く嫁さんに迎えたいんだ
  けれど信じてほしい、この家は俺が必ず残してみせる。そしてこの家の想いも全て俺が周太に教えてあげる
  奥多摩に家を構えられるなら都合が良いんだ。そして俺もね、好きなこの家に住みたい。だから移築しよう?

今まで何度、英二は自分に想いと約束を告げてくれただろう?
今まで何度も別れようと、離れようと自分は泣いてきた、けれど英二の温かな懐を忘れることが出来なくて。
忘れられない心を繋いでくれるよう、いつも英二は周太を探して見つけて、抱きしめてくれた。
この7ヶ月がどれだけ幸せだったのか、今あらためて想えば温かい。温もり想いながら周太は常緑の梢に笑いかけた。

「…ね、夏みかん?俺ね、来年は解からないんだ、実を採れるのか…でもね、きっと英二は採りに来てくれるから。
俺、いつ帰って来られるのかも約束出来ないの、でも、あなたのこと忘れないよ?…再来年も、その次の年も、約束できないけど、」

ほんとうは約束できない。
2度目の異動をしたらもう、生きて帰って来られるのかも、解からない。
それでも約束したい、自分の勇気と覚悟のために、希望のために、そして願いが叶うように。

「でも、必ず帰ってくる、きっと」

青空のもと輝く夏橘の木に微笑んで、そっと幹を撫でた。
この木をずっと護っていけたら良いな?そんな想いと玄関へ踵を向けたとき木造門が軋み開いた。
遅い午後の光のなか黒髪が揺らめくのが見える、うれしくて周太は門の方に歩み寄った。

「お母さん、おかえりなさい、」
「周、庭に出ていたのね。あら、夏みかん、」

すぐ手籠に気がついて、うれしそうに母が笑ってくれる。
ほら、母にとっても夏みかんは特別だよね?
そんな嬉しい想いに笑って周太は1つ母に手渡した。

「今年も、すごく良い実をくれたよ?…今日は10個、摘ませてもらったの、」
「残りは明日、英二くんと採るのでしょう?」

愉しげに笑って母は夏みかんに頬寄せた。
きっと母も、父とふたり豊かな梢から黄金の実を摘んだ思い出がある。
その想い出に心重ねて周太は、羞みながら頷いた。

「ん、そう…今夜、8時には帰ってこられるから、って言ってくれて、」
「楽しみでしょう?英二くんと家で過ごすの、2ヶ月ぶり位かな?」

愉しげに言いながら母は一緒に玄関へと入ってくれる。
言われる通りに楽しみ、けれど少し文句を言いたくて周太は口を開いた。

「ん、楽しみだよ?でも、お母さん、また旅行に行っちゃうなんて…明日、一緒に夏みかん採れない、」
「あら、周?拗ねちゃったの?」

靴を脱ぎながら、快活な黒目がちの瞳が笑いかける。
言われて気恥ずかしくなってしまう、それでも周太は正直に言葉を続けた。

「ん、ちょっと怒っちゃってる…だって、年に一度のことなのに、お母さんまた温泉行っちゃうなんて…さびしいよ、」

こんなことを23歳にもなって言うのは、恥ずかしいかもしれない。
もちろん「離れる練習」を母がしてくれているのも、解かっている。
けれどこれが本音、大切な母と大切な風習を一緒に楽しみたかった。

…それに、来年は一緒に出来るか解らない…夏みかんを採ることも、お菓子を作ることも、

ふっと心過ぎる想いに、泣き出しそう。
いまの初任総合が終わって2度の異動、もう帰れる日も解からない、来年はどうなるか解らない。
けれど、それを母に言う事も出来なくて。こんな瞬間に父の想いが心そっとふれて泣きそうになる。

…ね、お父さん?いつも、毎日、こんな気持ちだったの?…今日が、今が、最後かもしれない、って…

だから父は、いつも穏やかで優しかったのかもしれない。
最愛の妻との時間は「今」限り、その想いが瞬間ごとを輝かせて、母の記憶を鮮やかにした?
だからこそ母は父が亡くなり14年になる今も、ずっと父のことを想い続けているのかもしれない。
終わらない永遠の恋愛に母が生きるのは、きっと父の「今」を宝物とする心が遺されたから。
そんな両親が自分は大好きで誇らしいな?想いに笑いかけた先、ふわり幸せに母は微笑んだ。

「ごめんね、周?明日、午後のお茶の時間には帰ってくるから、おやつは一緒に食べようね?」

やさしい約束の提案が、素直に嬉しい。
ほら、こんなふうに母も幸せに笑って、温もりの約束をくれる。
この今の瞬間を大切にしたい、嬉しくて周太は素直に笑いかけた。

「ほんと?3時には帰ってきてくれるの?」
「はい、帰ってきます。だから周の手作りのあれ、食べたいな?」

快活な黒目がちの瞳が幸せに笑って、おねだりをしてくれる。
こんなふうに母から甘えて貰えることは嬉しい、微笑んで周太は頷いた。

「ん、いいよ?作っておくね、」
「ありがとう、周、」

嬉しそうに笑って母は「荷物を置いてくるね」と2階に上がっていった。
見送って、台所に夏みかんの籠を置くと周太も階段を上がり、自室へと入った。
そして置いてあった紙袋を持つと、すぐまた台所に戻ってコーヒーの支度を整えた。

「アイスコーヒーにしてくれたの、周?」

リビングのグラスを見て母が嬉しそうに笑ってくれる。
今日は天気が良くて少し暑いかな、そう思って支度してみた。母の気分に合うだろか?すこし心配しながら周太は微笑んだ。

「ん、今日はすこし暑いかな、って…どうかな?」
「うれしいわ、喉渇いていたし。冷たいの飲みたかったの、」

ソファに腰掛けて、コーヒーのグラスに口付けると美味しそうに微笑んでくれる。
そんな母の様子にうれしく笑って、周太は紙袋から綺麗な包みを取出した。

「お母さん、遅くなったけれど、母の日のプレゼント、」
「あら?先週もう、お花もらったのに、」

すこし驚いたよう、けれど優しい笑顔が幸せに咲いてくれる。
こういう笑顔も母は一年前より明るくなった、そんな変化を見つけながら周太は笑いかけた。

「残るもの、ある方が良いでしょ?毎年そうしてるし…先週はね、何が良いか解らなくて、選べなかったんだ、」
「もしかして今日、美代ちゃんと選んでもらったの?」
「ん、そう、」

やっぱり母はお見通しだな?
嬉しい気持ち素直に頷いた先で、母が包みをほどいて微笑んだ。

「すごく可愛いポーチね?セットになってる、素敵だわ。ありがとうね、周、」

すこし弾んだ声が笑って褒めてくれる。
その声と笑顔で母が喜んでくれたと伝わって、周太は微笑んだ。

「気に入ってくれた?」
「もちろん、今日の旅行に早速、持って行くね、」

幸せな笑顔で母は、傍らの旅行バッグからポーチを出すと中身を入れ替えてくれる。
この贈り物は、母の誕生日に英二の姉が見繕ってくれた店と同じ所で見つけてきた。
あの店は自分だけでは入り難くて、先週は行きそびれてしまった。
今日は美代と一緒に行ってもらえて本当に良かったな。うれしい気持ちで母を見ながら、ふと周太は口を開いた。

「あのね、お母さん。今日、美代さんが青木先生に質問をしたんだ…『男同士の恋愛はどう想いますか?』って、」

言葉に、穏かな黒目がちの瞳がこちら見てくれる。
ゆるやかに話し促してくれる眼差しに、周太は言葉を続けた。

「青木先生はね、自然なことに想う、って言うんだ…男同士だから子供が出来ない分、絆は互いの心と体しかないです、
だから命と誇りと友情を懸けた、純粋で勁い恋愛になるんです。そういう打算の無い姿は同じ男として眩しい、って話してくれて」

今日の午後、青木樹医が言ってくれた言葉が嬉しかった。
それを母はどう思うかな?言って見つめた先で母も嬉しそうに微笑んだ。

「周、うれしかったでしょ?」
「ん、うれしかった、」

素直に頷いた周太を、優しい笑顔が見つめてくれる。
そして穏やかな声で母は言ってくれた。

「そうね、周と英二くん見てると、すごく純粋だなって、お母さんも思うな?光一くんもね、」
「そう?…なんか恥ずかしいな、」

気恥ずかしくて、つい周太はコーヒーのグラスに目を落とした。
こういう話題はやっぱり気恥ずかしい、けれど今のうちに母と話せることは1つでも多く話したい。
そんな想いに、ふっと紺青色の本が意識に映りこんだ。

『Le Fantome de l'Opera』

母が帰ってくる前に、ざっと読み直してみた。
あの落丁部分の全編に出てくる人物は、簡単に特定が出来る。

…最初と最後には出てこなくて、抜けている部分に出ているのは…怪人だよね、

怪人『 Fantome』

オペラ座の「奈落」に住んでいる仮面をつけた異形の天才。
そんな彼の登場シーンを何故、父は切り取ってしまったのだろう?
まだ見えない父の想いに心むけながら微笑んで、いま幸せに笑ってくれる母の姿を記憶に綴じこんだ。



母を見送りながら買物に出て、戻ると台所に立った。
窓の向こう、空は18時過ぎても明るくて、季節の移りが光で解かる。
白い月を庭木立の向こうに見、夕食の支度と同時に夏みかんの下拵えを始めた。
夏みかんの砂糖菓子は皮を一晩水に漬けておく、だから今夜のうちに途中まで作って明日、仕上げする。

「…英二、お菓子作りとか、したことないよね?」

ひとりごとに首傾げながら、きれいに夏みかんを洗っていく。
洗い終えた皮の表面をおろし器でこそげ取ると、上と下の固い部分を切り落とした。
それから六等分に切って向いた皮を、1cmほどの幅に細く切っていく。

「ん、いい香、」

包丁を入れるごと、爽やかな柑橘の香が昇っていく。
この香が自分は好き、楽しい気持ちで皮を切り終えるとボウルに入れて、たっぷりの水にさらし漬けた。
これで一晩置いておく。あとは明日やわらかく湯がいてから砂糖と煮からめ水分を飛ばし、すこし干せば出来上がる。

「準備はこれで良いよね?あとは…」

さっき外した実を一房ごと薄皮を剥いていく。
きれいな黄色の実が瑞々しい、全部をきれいに剥き終えて周太は1つ口に入れてみた。

「ん、甘酸っぱい…おいしいね、」

今年の実も良い出来、夏蜜柑の木が頑張ってくれた。
嬉しい気持ちで黄金の実をガラスの密閉容器に並べると、甜菜糖をびっしり詰めて蓋をし、冷蔵庫に仕舞い込んだ。
そんなふうに台所の仕事を手順よく終えていくと、19時の時を知らせる音が響いた。

ボーン、ボン…

ゆるやかに低く優しい音がホールから聞こえてくる。
あと1時間ほどで英二が言ってくれた予定の時間になる、もう電車に乗っているだろうな?
そう思った同時、時の音のはざま硬質の音が聞えた。

かつ、かつん、かつ…

「…え、」

意外な音に手を拭って、エプロンのポケットから携帯電話を取出した。
見るとメールの受信ランプが点いている。

「いつのまに?」

料理に集中していて気付かなかった?
驚いて、けれど足はもう台所からダイニングを抜けて、掌はステンドグラスの扉を開いた。

かちり、

開錠音がホールに響く、そして玄関扉が開かれる。
この家の鍵を開ける人は3人しかいない、だからきっとそう。
心ふくらむまま玄関に立つと、開かれた扉から大好きな笑顔が現われた。

「ただいま、周太、」

綺麗な低い声が笑って、玄関の鍵とチェーンを掛けてくれる。
すっきりとしたスーツ姿が鞄と花束を携えて、こちらをふり向くと幸せに微笑んだ。
無事の笑顔が嬉しくて、スリッパのまま周太は三和土に降りると長身に抱きついた。

「おかえりなさい、英二、」

抱きついた体を受けとめて、長い腕が抱きあげてくれる。
間近くなった端正な顔が寄せられ唇にキスふれる、すぐ離れると幸せな笑顔がほころんだ。

「周太、良い香だね?夏みかんかな、」
「ん、そう…」

素直に答えながら気恥ずかしくなってしまう。
きっと今もう、赤くなっている。



夕食のテーブルを整え終えるころ、ステンドグラスの扉が開いた。

「周太、手伝うよ?」

ワイシャツの袖を捲りながら英二が来てくれる、その腕が彫刻のよう端正で見つめてしまう。
白皙の艶やかな肌にうかぶ筋肉が綺麗で、ボタン2つ外した衿元も胸の厚みと鎖骨の繊細が際立つ。
こんなふうに見た目も英二は卒業配置から、大人の男らしい魅力が強くなっている。

…女の子たちが騒ぐの、無理ないよね?

昨日の午後に困ってしまった記憶と、今、見ている頼もしい腕に周太は首傾げた。
そんな周太を切長い目がすこし心配そうにのぞきこんだ。

「周太?どうしたの、ぼんやりして。熱でもあるかな?」

言いながら額に額付けて、熱を看てくれる。
そのまま右手首を取ると、クライマーウォッチを見ながら微笑んだ。

「うん…熱もないし、脈拍も正常だな?ちょっと疲れてるかな、」
「ん、大丈夫だよ?…心配させてごめんね、」

つい見惚れていただけ。

そんな本音が気恥ずかしくて、首筋が熱くなってくる。
いま赤くなったら心配かけちゃうな?困りながら周太は、冷蔵庫からノンアルコールビールを出した。
ひやり冷たい固さが掌ふれる、こんな冷たさも気持ちいい季節にもうなった。
些細なことにも時の移ろいを想いながら、冷やしたグラスと盆に載せて食卓に運んだ。
エプロンを外し席に着いて、グラスに注いで手渡すと嬉しそうに英二は笑ってくれた。

「ありがとう、周太。俺の為に用意してくれたの?」
「研修中だから、お酒はダメだけど。せっかく帰ってきたんだから、って思って」

警察学校は原則アルコールは禁止されている。
きっと生真面目な英二は規則を守りたいだろう、でも「家」に帰ってきた寛ぎを充たしてあげたいな?
そんな想い微笑んだ先で、白皙の顔は幸せな笑顔を咲かせた。

「なんか本当に奥さんみたいだね、周太?俺、今すごい幸せ、」

奥さん。

そんなこと言われると気恥ずかしい、けれど嬉しい。
熱くなりだした首筋を気にしながら箸をとって、周太は微笑んだ。

「ん…だって、いつかおくさんになるんでしょ?」

この「いつか」が本当に来ますように。
この夏を越えて秋が来て異動になっても、その先がありますように。
そう願い見つめて、綺麗に笑いかけた想いの真中で、婚約者の笑顔が華やいだ。

「どうしよ、周太?ほんと幸せすぎて俺、困るよ?」

幸せな笑顔で英二が席を立ちあがる。
どうしたのかな?すこし驚いて見上げた周太に、瞳を見つめながら英二はかがみこんだ。

「ね、周太?今夜はずっと一緒にいてくれる?」
「ん、…はい、」

ねだられて、素直に頷くうなじが熱くなってくる。
いま言われた「ずっと」の意味が気恥ずかしい、たぶん、そういうことだから。
熱昇りだす頬に白皙の掌がふれて、そっと唇にキスがふれた。

「約束のキスだよ、周太、」

幸せな笑顔で離れて、英二は食卓に着いた。
そして箸をとると「いただきます」をして嬉しそうに皿を見て微笑んだ。

「また新しい料理があるね、周太。これはなに?」

長い指が、切子グラスを手に取り訊いてくれる。
それを最初に手に取ってくれるのは嬉しいな、嬉しい気持ち微笑んで周太は口を開いた。

「夏野菜のゼリー寄せだよ、冷たいうちに食べてね?」
「うん、…お、これ旨いね、周太?色んな野菜が入ってる、」

ひとくち食べて幸せに笑ってくれる。
自分の作ったもので喜んでもらえるのは嬉しい、温かい想いに周太は微笑んだ。

「ん、美代さんから貰った種で作った野菜も入れたんだ…その濃い緑はね、アスパラガスなんだけど、生だと紫色なの、」
「へえ、紫のアスパラなんてあるんだ?加熱で色が変わるなんて、おもしろいな。あ、周太、この天ぷら旨いね、なんだろ?」
「それね、お茶の葉の天ぷらなんだ。庭の茶の木から摘んできたの…新茶の季節だけの味だよ?」
「ほんとだ、茶の香がするな?塩味と合って旨いよ、こういう旬の味とかって、いいな、」

楽しげに箸を運んで、食べるごと喜んでくれる。
こういう笑顔を見せてもらえると、また一生懸命に料理をしてあげたくなってしまう。
明日の朝食はどうしようかな?考えながら酢の物を口にしたとき、英二が訊いてくれた。

「周太、昨日は俺が出た後、学校はどうだった?」
「ん、…ちょっと困ったよ?」

昨日は本当に困ったな?
さっきも思い出した記憶に周太は困るまま微笑んだ。

「周太、何に困ったの?」

綺麗な低い声が尋ねてくれる。
この声が自分は本当に好き、そんな想いに少しまた首筋を熱くしながら周太は口を開いた。

「英二を見送ってすぐにね、華道部で一緒の女のひとたちに捕まっちゃって…」
「誰に捕まった?何の用で?」

即座に訊いてくる声が、すこし機嫌が悪い。
なんで怒るのかな?不思議に思いながらも周太は正直に答えた。

「ちょっと名前は、解からないんだけど…宮田くん、何で今日から外出なの?って訊かれて、」
「なんだ、そっか、」

ほっとしたよう笑って、英二は角煮を口に運んだ。
なんだと思って機嫌が悪くなったのかな?周太は首傾げこんだまま訊いてみた。

「ね、英二は、何だと思ったの?」
「周太に告白したのかと思ってさ、」

さらり即答されて周太は、ひとつ瞳を瞬いた。
このひとったら意外と鈍いのかな?意外で驚きながら周太は遠慮がちに言ってみた。

「…あのね、英二?そのひとたち、英二のことを好きなんだと思うけど…」
「そっか?」

さらっと言うと、英二は美味しそうにロールキャベツを頬張った。
幸せそうな顔で飲みこんで、冷たいグラスに手を伸ばしながら端正な貌は微笑んだ。

「やっぱり周太の料理が俺、いちばん旨いな。こんな料理が上手くってさ、可愛い婚約者で俺、幸せだよ、」

綺麗な微笑みが華やいで見つめてくれる。
こんな貌されると嬉しくって気恥ずかしくって、熱が頬を昇りだす。
もう、真赤になっちゃったかな?つい俯き加減になった周太に、きれいな低い声が幸せに微笑んだ。

「ほら、そんなふうに恥ずかしがったりして…可愛いね、周太。俺、ちょっと困るよ?」
「ん?…どうして困るの?」

不思議で、顔あげて周太は婚約者に首傾げた。
見つめた先で白皙の貌はうっすら紅さして、すこし恥ずかしげに英二は笑ってくれた。

「ほら、また、そんなふうにするとね?ほんと可愛くて、俺、ときめくんだから。今すぐに、ベッドに攫いたくなるだろ?」
「…そんなことしょくじちゅうにいわれてもこまりますから…」

ほんとうに困ってしまう、けれど嬉しいのも本音。
困りながら嬉しいまま見遣って、周太は空の茶碗に気がついた。

「英二、お替りする?ごはん、たくさん炊いてあるよ?」
「ありがとう、周太、」

嬉しそうに笑って茶碗を差し出してくれる。
受けとって、傍らに据えた御櫃から山盛りに寄そうと、出してくれた掌に渡した。

「前からで、ごめんね?」
「こっちこそ、いつもありがとうな。他に面白いこととか、あった?」

幸せな笑顔で茶碗を受けとって、箸を運んでくれる。
訊いてくれる質問に周太は少し考え込んだ。

…藤岡から聴いたこと、は…言わない方が良いね、きっと、

もう藤岡から「ページが抜け落ちた本」について周太に話したと、英二は聴いているかもしれない。
けれど、それを今ここで言ったなら、周太がその事を気にしていると知らせてしまう事になる。
きっと余計な心配を募らせてしまうだけ、そんなことは今させたくはない。
だって今この幸せな時間を、幸せなまま見つめていたいから。

…特に俺が言わなければ、俺が気にしていない事になる、ね?

心の裡のつぶやきに、純白の空木の花が映りこむ。
あの花の言葉は「秘密」枝の空洞に秘めた想いを隠しこむ、あんなふうに自分も秘密を透明にしてしまおう。
それでもし訊かれたら素直に答えればいい、そう決めて周太は他の事を口にした。

「部活の後、瀬尾と関根と話したよ?関根、お姉さんの話をしてくれた。すごく幸せそうだったよ、」

ほんとうに関根は幸せそうだった。
英二の姉の英理と関根が交際を始めて2週間、毎日ずっと関根は夜と朝とメールを送っているらしい。
夜のメールは片想いの頃から変わらない、けれど朝も加わり、夜には電話もすることが変化だと言っていた。
どうか幸せになってほしいな?そんな想い微笑んだ前で、切長い目がすこし複雑でも嬉しそうに微笑んだ。

「今日と明日はデートだって、姉ちゃんからメール来たよ。関根からも、」
「ん、関根、昨日は嬉しそうにその話、してくれたよ?お姉さんから俺にも、メールあったの、」
「へえ、姉ちゃんなんだって?」

綺麗な低い声が訊いてくれる。
その訊かれた内容に、すこし困りながら周太は答えた。

「写メールが4枚、添付されてあってね?どの服を着て行ったら良いかな、って訊かれたんだけど…」

正直、洋服のことはよくわからない。
以前の自分は適当に安いものを買って着ていた、今は英二が選んで買ってくれるものを着ている。
着物のことなら組み合わせとか解かるけれど、洋服はどうしたら良いのだろう?考え込みかけた時、英二が笑いかけてくれた。

「周太、なんて答えたの?」
「どれも素敵です、でも明るい色がやっぱり綺麗です、って答えたけど…」

着物なら季節で色目の定石がある、でも洋服は自由すぎて難しい。
あれで良かったのかな?すこし心配になった周太に、英二は教えてくれた。

「デートだからね、明るい色は正解だと思うよ?姉ちゃん色素うすいから、明るい色が可愛いし、」
「ほんと?良かった、」

ほっとして微笑むと、周太は吸い物椀に口をつけた。
三つ葉と出汁の香が寛いだ気持ちにしてくれる、料理は心にも魔法を懸けてくれると実感してしまう。
もっと英二を喜ばせる料理が出来るようになりたいな?そんな想いに首筋熱くなりかけた時、綺麗な低い声が言った。

「順調みたいだな、姉ちゃんたち。でも、母さんにはまだ、話せていないらしいけど、」

―…やっぱり俺は、宮田のお母さんには反対されるよな…育ちが違うからさ、俺と英理さん。そういうの気にするだろうな、って思って

ふたりが交際を決めた翌日に、関根が言った言葉。
そのとおり、英二と英理の母は確かに難しいだろうと、周太にも解る。
けれど大丈夫だとも思っている、彼女の本音を信じているから。微笑んで周太は瀬尾の言葉を話した。

「ん、そうみたいだね?瀬尾がね、焦らない方が良いよ、って言ってた。お姉さんが良い変化をしたら納得するだろう、って」

英理の良い変化を見て、英二の母も「英理の相手」を認めていける。
そんなふうに瀬尾は言っている、そういう意見が言える瀬尾は老成の風格があった。
昨日の感心したことに今もまた感心した周太に、すこし驚いたよう英二も頷いた。

「うん、瀬尾の言う通りだろうな?すごいな、瀬尾。そういう考え方が出来るのって、」
「でしょう?…俺もね、すごいって思って。よく人を見ているから、そういう意見も言えるんだな、って思って、」

答えながら、他に何か変わったことが無かったか記憶を辿る。
それで思い出したことに周太は微笑んだ。

「あ、あとね?内山が声をかけてくれたよ、」
「内山が、なんて?」

ノンアルコールビールに口付けながら、きれいな笑顔で尋ねてくれる。
この笑顔がやっぱり好きだな?つい心つぶやいたことに微笑んで周太は正直に言った。

「来週の外泊日、お昼を一緒しない?って誘ってくれたんだ。来週は俺、大学もお休みだし」
「…っごほっ、」

話す目の前、英二が咽こんだ。

「ごふっ、ごほほっ…ごほん、こほっ」
「どうしたの?だいじょうぶ?」

驚いて、立ち上がるとティッシュボックス持ってテーブルを回りこんだ。
隣に立つと白皙の貌が真赤になりながら、咽こんでいる。
2枚ほどペーパーをとって渡すと、そっと英二の背中を摩った。

「っほ、ん…だい、じょぶ、っこほっ」

咽るのを抑え込みながら、端正な赤い顔が笑いかけてくれる。
どうか治まってほしいな?心配に顔のぞきこんだ周太に、まだ咽ている低い声が尋ねた。

「ごふっ…周太、それ、来週っ、こほんっこほ、へんじはなんて?」
「いいよ、って言ったけど?…英二、無理に話さないで?」

水のコップを手渡すと、長い指は受け取ってくれる。
そのままひと息に半分ほど飲干して、まだ咽ながら英二は訊いてきた。

「行くの?…ごほっ、ふたりき、こんっごほっ、」
「ん、行くつもりだけど?…ね、無理しないで、英二?」
「ごほっ、…ふたりだ、っほんっ、ごほっ、」

無理にでも英二は話そうとしてくれる。
いったいどうしたのかな?何でこんなに無理に話そうとするのだろう?

「英二?…治まってからで良いよ、ね、焦らないで?」
「だって周太、ふっ、ごほんっ、こほ…こほんっ」
「だいじょうぶ?無理に話そうとすると、治らないよ?」
「ふた、りっ、ごほっこほんこほこほっ…」

本当に英二、どうしたのだろう?
不思議に思いながらも周太は、ひろやかな背中を摩った。



(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第49話 夏閑act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-07-10 23:26:06 | 陽はまた昇るside story
mistake、recovery、交錯する想い



第49話 夏閑act.3―side story「陽はまた昇る」

富士山から青梅署独身寮に戻ると、英二は周太にメールを送った。
無事に帰った事と明日の約束を告げる文面に、すぐ優しい返信が戻される。
いま時計は23時、あのファイルで周太は勉強をしていたのだろう。

―周太、どこか解かっているんだね…なにも知らなくても

救急法と法医学、それから1月の弾道調査の結果を基にした狙撃データファイル。
このデータは周太の記録そのままを使用している、だからデータ通りに周太が狙撃したなら的中成功率は高い。
あのデータの意味に周太は、必要な時が訪れたら気付くだろう。
けれど、

「…そんな時は、来なければいいのに…」

本音が言葉になって溜息とこぼれる。
あのデータが必要になる時、それは周太が馨のいた世界に立つ時。
あの「50年の束縛」は、まさに悪魔の契約。あの契約の為に馨も周太も司法の闇へと惹きこまれていく。
この現実が哀しい、悔しい、けれど逃げることも出来ない。

どうして自分の愛するひとは、この運命に立たされる?

この疑問が廻ってしまう、夕方に駅のベンチで泣いたように。
けれどもう泣いている暇はない、今、自分に出来ることをすればいい。
そんな想いに携帯を閉じて、洗面道具と着替えを持つと英二は浴室に向かった。

もう23時、廊下の照明はすこし落とされて暗い。
静かに歩いて脱衣場に着くと、脱衣籠が1人分使われていた。
誰が入っているのか予想通りだろうな?そんなことを考えながら服を脱ぎ支度して、がらり引戸を開いた。

「あれ、やっぱり一緒になっちゃったね、」

湯気の向こう、洗い場から透明なテノールが笑いかけてくれる。
声の主に笑いかけて英二は、遠慮なく隣に座りこんだ。

「出掛けて一緒に帰ってきたら、タイミングは同じになるよな、」
「だね、」

笑って頷きながら光一は、すこし体を斜め向うへ向けた。
そんな様子の意味が伝わって、英二は笑ってしまった。

「光一?やっぱり俺って、油断ならないエロ?」
「まあね、」

しれっと答えて雪白の腕は、さっさと体を洗っていく。
その横顔は濡れた黒髪と熱った薄紅の頬がまばゆい、向けられた背中の艶やかな桜いろ魅せられる。
とくん、鼓動ひとつ意識を叩かれて、英二は軽く頭をふった。

こんなふうには光一を見ることも以前は無かった、でも今は見てしまう。
こんなふうに見つめてしまう事も無かったから、光一の美しさにも気付かないでいた。
そして今夜はすこし心が昂ぶっている自覚がある、たぶん夕方に駅で泣いた所為だろう。
それを光一が見つけてくれた安堵感と、そのあと富士山まで連れ出してくれた嬉しさが体の芯に燻っている。

―ちょっと危ないな、俺

こんな自分を持て余す、けれどこんな時だから自信にもなってくれる。
あんなにも不安と焦燥と、恐怖に自分は泣いた。それでも艶っぽいことを考える余裕があるのなら、自分はまだ大丈夫。
そんな自信への信頼に笑って、英二はシャワーを「冷」にして頭から被った。

「うわっ、冷たいってば。マジ、おまえって水被るの好きだよね?俺まで水、被っちゃったんだけど、」

隣からテノールが笑いながら文句を言って、浴槽の方へ歩き出す。
その声に英二は、降りそそぐ冷水の中から笑って答えた。

「ごめん、これしないとダメなんだ、俺、」

ほんとうに自分は、こうでもしないとダメだろうな?
いつもながら肌を流れていく水の感触に、心と意識が針のよう細くなって鋭利になる。
そんな自分を見つめながら、頭の芯が冷えきるのを英二は待った。

―今日、なにか見落としたことは無いだろうか?

冷えていく意識のなかで一日のことを反芻する。
今日は金曜日。一日の授業と朝夕の日課、それから周太との会話、遠野教官の様子。
いつもどおり遠野教官は仏頂面で、それでも時折見せる笑顔は渋い温もりがあった。

―特に変わった様子は無かった、遠野教官は、

初任総合が始まってから、遠野教官の様子を観察し続けている。
いま遠野は周太を廻る「50年の束縛」に気付く危険がある、それを防ぎたいから。
遠野教官は初任総合の初日、英二を呼びだして周太の新宿署配属の謎を訊いてきた。
あのとき教えるつもりはないと意思表示をした、遠野も「お互い知る領分が違う」と言っていた。
けれど遠野は、この一週間ほど前に再び英二に質問をした。

―…宮田、『Fantome』の意味が解かるか?…捜一時代の同僚にも言われた、ファイルの閲覧に気を付けろ、とな

遠野教官は『ファイルFantome』の存在に気付いた。
このことが誘引していく影響はなんだ?予測される動きは何だろう?

そして危険性を強く感じてしまう。
遠野教官に見つけられたなら他の人間も『ファイルFantome』を発見する可能性がある。
それとも、遠野教官は「見つけられるように」誘導されたのだろうか?
そうだとしたら、何のために?

―…データ名が『F.K』とあるだけだ、それでも履歴書と経歴で誰なのか特定できる。この特定が正解だとしたら、これでは最初から

『これでは最初から』

そう遠野は言った、あの言葉で解かってしまう、遠野は『Fantome』の闇に気がついた。
このことが遠野教官にどんな影響がある?周太にどんな影響になって顕れる?

―まだ確かなことは解からない、けれど可能性の推測なら出来る…

可能性として考えられることは。
遠野教官を「50年の束縛」の鎖持つ人間に仕立てようという意図かも知れないこと。
遠野教官は警察学校教官で、前歴は捜査一課の敏腕刑事。この立場から考えられる遠野教官の利用価値は、高い。

警察学校教官なら、適性がある優秀な人間を着実にピックアップできる。
捜査一課に在籍したなら当然、同課所属のSITを熟知しているだろう。そしてSITが連携する部署のことも最低限は知っている。
なにより敏腕刑事を謳われた能力は、人間を見ることと現場感覚に優れている。
そういう人間は『Fantome』を操作する者たちにとって、仲間にしたいのではないだろうか?
新しい『Fantome』の候補者達を、周太の他にも見つけ出していく為に。

でも、そんなことに加担できる人間ではない、遠野教官は。
そういう人間だったら安西の事件の時、周太にあんな命令は出来ない。
あの事件の後に遠野教官は荒んだ時期がある、もし組織だけを尊重する人間なら、あんなふうに自棄になったりしない。
だから自分は遠野教官に釘を刺した。

「なにも知らないでいる、それだけが湯原を守ります」

あの台詞に対して、どう遠野教官が反応し、行動するか?
それで遠野教官の真意が量れる、そう考えている。そして祈りたい、遠野教官には関わらないでいて欲しい。
今の自分を作ってくれた1人には『Fantome』に関わってほしくない。

それにしても、と思う。
もし遠野教官が『Fantome』を知ったことは、「彼ら」の意図的な誘導だったとしたら?
それは「50年の束縛」の鎖持つ人間を増やす意図がある、そういう推測が出来る。
この推測は多分、正解だろう。なぜなら「法の正義」の番人は必要だと「彼ら」は考えるだろうから。

個人より、組織。それは全てが「法の正義」を守るため。

司法とは、法治国家とは、そういう側面がある。
このことを法学部で学んだ自分は知っている、法治国家と個人の幸福は時に矛盾する哀しみも生まれる。
これを認めることは法曹に携わるものとして、司法の警察官として、苦痛であり侮辱でもある。
それでも目を逸らすことはもう、出来ない。

―このこと以外に、今までに見落としたことはないだろうか…

今日までに、何か自分はミスをしていないか?
冷たい水のなか考えをめぐらしていく、そのなかに、ふっと意識に記憶と条件がふれた。

「しまった、」

鋭利なつぶやきに、英二は蛇口を閉じた。

―昨日、俺は何て話した?

木曜日、自分は大きなミスをした。
たぶん自分が今日、警察学校を出るまではミスの影響は欠片も出ていない。
でも、その後はどうだ?自分が警察学校を出て周太の傍から離れる、そうなったら影響が出る可能性は?

「今日は…金曜日は、部活があったのに、」

いつもは自分が一緒に部活に行く、必ず隣に座り、周太の会話をリアルタイムで知る。だから安全。
けれど今日は自分はいない、そうしたら周太は誰と部活で会話をする?

“遺体の傍に、文庫本が落ちていたんだ。その本は普通の状態だった”
“本と海の砂、どちらも想い出が纏わるから、真相の特定が出来たんだ”
“吉村先生に貸してもらって、光一と藤岡と回し読みしたよ”

木曜日、自分が事例研究の時間に、課外時間に、周太に話した言葉たち。
周太を「ページが抜け落ちた」本から遠ざける心算だった、けれど逆にヒントを与えてしまった?

“藤岡と回し読みした” この言葉に周太は、藤岡に「遺体の傍の文庫本」の感想を訊いてしまう。

もう呼吸するのと変わらない程に読書が習慣の周太なら、どんな本だったのか興味を当然持つ。
だから英二にも周太は「なんて本だったのかな、って思って」と訊いてきた、そんな周太が藤岡に聴かないわけが無い。
そして今日、金曜日は部活動の日だから、同じ華道部の藤岡と周太は必ず顔を合わせてしまう。
そうしたら藤岡は話してしまうだろう、あの文庫本が「ページが抜け落ちた」状態だったことを。

“その本は普通の状態だった” そう自分が言ったことが「嘘を吐いた」と解かってしまう。
“想い出が纏わるから、真相の特定が出来た” この台詞から「ページが抜け落ちた」部分に「真相」が存在すると示唆してしまった。

―迂闊だ、あまりにも…俺は、馬鹿だ、

木曜日、事例研究で話してしまった事が、全てのミスだ。
藤岡と周太が仲が良いことは知っているのに?藤岡から話を聴く想定は当然出来たのに?
そうしたら当然、藤岡はありのままを話すに決まっている。だって藤岡は「50年の束縛」も何も知らないのだから。

「…今ごろはもう、周太…気づいてる?」

つぶやきが、髪から体から滴る水と一緒に墜ちていく。
富士山からの帰り道、電話で話した時に変わった様子は無かっただろうか?
さっきのメールの文面も何も変わっていない、けれど気づかれている?

「どうしたのさ、顔、真っ青だよ?」

テノールの声に、英二は振向いた。
振向いた至近距離、濡れた黒髪を白い手で掻き上げながら、光一が見つめてくれる。
見つめてくれる真直ぐで無垢な瞳、この瞳をも自分はミスで裏切った。ひとつ息を呑んで英二は正直に告げた。

「俺は、ミスをした。周太に気付かれるかもしれない、『Fantome』のことを、」

告げた言葉に、無垢の瞳が大きく瞠らかれた。
凝っと英二を見つめ、そしてテノールの声は静かに微笑んだ。

「そっか。ま、とりあえず、おまえの部屋に戻ろっかね?話はそれからだ、」

言って光一は、シャワーをさっと浴びると脱衣場へと出て行った。
後姿を見送って、自分もさっと全身を洗うと浴室から出た。
静かな脱衣場で光一は黙々と着替えていく。
その頭上で光る蛍光灯の音が微かに聞える、自分の心音すら響くよう想えてしまう。
どこか過敏なほどに冴えた神経に、今の自分の緊張状態が解かって英二は微笑んだ。

―こんなに俺は、周太のことだと必死だな

ほんとうに必死で、余裕が無い。
こんなにも護りたいと願い、足掻いている自分がいる。こんな自分を一年前は考えられなかった。
たった一年、けれど自分は遠くへと来てしまったのだと、どこか自覚が心地いい。
こんなふうに張り詰めてしまう自分の必死さが、なにか嬉しい。

「じゃ、あとで部屋に行くからね、」

細い目を笑ませて、光一が先に出て行った。
遠ざかる足音を聴きながら着替え終えて、廊下に出る。
いつも見慣れた薄暗い廊下に、自分の影が長く伸びて揺らぐ。どこか現実感の消えた視界に、今の自分の心が見えてしまう。
こんな自分は、本当に周太が「異動」になった時、どんなふうになってしまうのだろう?
そんな思いと一緒に自室の扉を開けると、もう光一がベッドに座りこんでいた。

「お帰り、ア・ダ・ム?そんな泣きそうな顔してないで、こっちに来てよね、」

テノールの声が笑って、ぽん、と隣を叩いて呼んでくれる。
こんな受入れが今は命綱のザイルに想えて、嬉しい。
嬉しいまま素直に英二は笑った。

「うん、ありがとう、イヴ?」
「その名前で呼ばれるの、なんか照れるって言ってるのにね?おまえ、割とSだよね、」

そう言ってくれる頬が薄紅色なのは、どっちの熱りだろう?
そんなことを思いながら英二は洗面道具を片づけて、ルームライトを消した。
星明りに浮かぶ白いベッドの上、座りこんで片膝を抱くと壁に凭れかかる。
肩越しに隣を見、薄明に見つめる無垢の瞳へと英二は口を開いた。

「木曜日、事例研究の授業があったんだ。そこで俺は、ミスをした、」

話しだした自分の声は、思ったより落ち着いている。
すこし我ながら安心して、そのまま英二は話し始めた。
あわく窓から降る星と月が部屋を照らす。深更の静謐に座りこみ、自分の声が低く響いていく。
静かな緊張の澹、木曜日と金曜日を話し終えると、透明なテノールは静かに言った。

「…周太、『Le Fantome de l'Opera』に気づいたろうね?」

あわい闇とけるよう告げた声に、心が平手打ちされる。
ため息が唇こぼれて、英二は抱いた片膝に額をつけた。

「だよな…」

やっぱり気づかれてしまった。この推測に、じわり心が軋みあげていく。
こんなミスをした自分が赦せない、どうして余計な事を言ってしまったのだろう?
もし周太が知ってしまったら、馨と同じ轍を踏んでしまうのだろうか?

「でもさ?『Fantome』にまで気付くかは、解んないよね、」

透明なテノールの声に、英二は顔を上げた。
見つめた透明な目は温かに笑んで、光一は言ってくれた。

「Fantomeに謎がある、ってことに気付くとは思うよ?でも『Fantome』が何を指すかは、簡単には解からない筈だね、」

簡単には解からない。
確かにその通りだろう、すこしだけ英二は微笑んだ。

「そっか…『ファイルFantome』には、周太は辿りつけないよな?今すぐには、」
「だろ?今はまだ、解からないと思うよ、」

細い目を笑ませて光一は言ってくれる。
今はまだ、周太にはファイル閲覧権限はない。だから今すぐには解からない。
けれど「今」の後に訪れる時にはどうなるのか?ほろ苦い想いと共に言って、英二は微笑んだ。

「でも、異動したら気づく可能性があるよな…あの部署に行くんだったら、」
「そのときはね?でも多分、周太にはバレないように気遣うだろね、あいつらはさ、」

頷きながら透明な目は英二の目を見つめている。
視線を合わせたままで、静かに光一は言葉を続けた。

「あいつらからしたら『Fantome』が欲しいからね?もし周太が『異動』を拒絶した時のための、最後の手札に使いたいだろ?
だから周太自身には『Fantome』のことは隠してくると思う、だからこそ、周太が知らないでいることは有効でもあるよね?
で、もし、周太が今回の事で知ったとしてもね?きっと周太は黙っていると思う、おまえが周太には秘密にしてる、って気づいたなら」

気付いたなら、黙っている。
その言葉の意味に、ふっと目の奥で想いが熱に変わっていく。

「黙っていてくれるのかな、周太…気づいても『知らない』ことに、してくれるかな、」
「うん、きっとね、」

涙の紗に滲みだす視界で、底抜けに明るい目が温かに笑んだ。

「きっと周太、おまえのこと信じてるから言わないよね?…おまえが秘密にする理由があるって、信じるからさ。
だからね、おまえも黙っていればいいよ。周太が気づいたことを、おまえも知らないで居ればいい。互いに信じあっているから大丈夫、」

言ってくれる言葉が温かい、この言葉の通りだと頷いてしまえる。
言われた通り「互いに信じあっているから大丈夫」と、自分でも思ってきた。
けれど光一に言われると温かで、張り詰めた肩の力が抜けていく。幾分ゆるめられた緊張に英二は微笑んだ。

「そっか…ありがとう、」
「どういたしまして、だね、」

笑ってくれたテノールの声と温かな眼差しに、心和まされる。
ほっとため息吐いた視線の先、白い手の手首に英二は気がついた。

「光一、風呂あがっても嵌めてくれてるんだ、『MANASLU』」
「うん…宝物だからね、」

言われて、気恥ずかしげに秀麗な貌が微笑んでくれる。
その表情がどこか切なくて愛しくて、英二は隣の肩に腕を回した。

「光一、ずっと俺の傍にいてくれ。今も俺、おまえに救けられた…きっと俺一人だったら今、ダメだった。不安で、焦って、さ」

想い告げながら抱きよせて、腕に力を込めてしまう。
腕の中しなやかな体が温かい、温もりとふれる強靭で美しいラインに愛しさが募る。
この相手も大切な唯ひとり、そんな想いのまま抱きしめてベッドに倒れ込んだ。

「光一、」

名前を呼んで見つめて、そっと唇に唇をよせる。
見つめた無垢の瞳は見開いたままで、けれどキスは受容れられていく。
透明な眼差しに視線をからめ見つめて、唇と舌に花の香ふれて心ほどかれてしまう。
こんなふうにキスをする、けれど自分はもう1人を護ろうと懸けている。こんな自分は、ずるい、けれど山っ子が愛しい。

「光一、キスさせてくれて…ありがとう、」

そっと離れて笑いかける。
離れたばかりの薄紅の唇が、すこしだけ微笑んだ。

「どうして、ありがとう、なんて言ってくれるワケ?」
「なんか今、ほんとうは辛そうだったから、」

想ったままを言って、長い腕を伸ばすとブランケットを引き寄せる。
片腕で抱き寄せたままの光一ごとくるまって、英二は言葉を続けた。

「いま光一、目を開けたままだったろ?なんか途惑っている、そんな目だったからさ。本当は今、キスするの嫌だったのかな、って」
「嫌じゃない、ね…ごめんね」

そっと答えて腕から脱け出すと、光一は起きあがった。
けれど英二は腕を伸ばし、細みの体を引き寄せ懐に抱きこんだ。

「嫌じゃないなら、どこに行くつもりだった、今?」

抱き寄せて、瞳をのぞきこむ。
見つめられて溜息ひとつ吐くと、雪白の貌は泣きそうに微笑んだ。

「俺の部屋に戻ろうとしただけ…俺も周太を護りたい、でも、すこし切なくなってね…あんなに悩んでるのが、羨まし…」

言葉途切れて、瞳から涙こぼれた。
こぼれた涙に続く言葉の想いが解かってしまう、微笑んで英二はキスで涙をぬぐった。

「光一に何かあっても、俺は悩むよ?だから俺、ご両親の墓参りの日から、ずっと考え込んでるけど?」
「…そうなの?」

透明な目が大きくなって、英二を見つめてくれる。
こんな貌をしてくれると想いがまた育つ、その温もり感じながら英二は白い左手首を掌に取った。

「そうだよ、光一のことだって心配で、気がかりだよ?だから俺、この時計も贈って約束をしたんだろ?」

想い告げながら、左手首の『MANASLU』を外していく。
そして腕を伸ばすと、ベッドサイドに置いた自分のクライマーウォッチに並べた。

「宝物、ここに置くからな?」

笑いかけて抱きよせて、瞳のぞきこむ。
のぞいた透明な無垢の瞳は幸せそうに微笑んで、遠慮がちに光一は抱きついてくれた。

「ありがと、…英二、」

素直な無邪気な笑顔はきれいで、この笑顔に心が傷む。
こんな貌をして笑う山っ子が周太と自分の為に、危険なトレースも厭わない。それが哀しくもなる。
ほんとうは高峰の荘厳に生きていくべき光一を、人間の交錯に付合わせてしまうことが辛い。
けれどもう光一は心を決めている、だから喜んで抱きとめていればいい。想い素直に英二は抱きしめ、笑いかけた。

「可愛いね、光一。愛してるよ、」
「ふ…可愛いだろ、俺って、」

すこし生意気な顔で笑って、素直に頬よせてくれる。
ふわり花の香が昇らされて、意識をあまく蕩かされる想いが迫り上げてしまう。
ちょっと困りそうかな?笑って英二は正直に告げた。

「光一、可愛すぎて俺、ちょっと自制心が危ないかも。『血の契』だけじゃない繋ぎ方、したくなりそうだけど?」

言葉にすこし離れて、無垢の瞳が見つめてくれる。
その瞳がすこし悪戯っ子に笑って、テノールの声は愉しげに宣言した。

「無理やり俺にえっちしたらね、俺、正直に周太に言っちゃうよ?きっと周太、本気で怒っちゃうけど、それでもイイわけ?」

それだけは勘弁してください。

そんな心の声に自分は恋の奴隷だと、また思い知らされる。
こんな殺し文句で自分は今後、この美しい山っ子にも振り回されるのかな?
そんな考えに自分にとって、あの婚約者はどれだけ特別なのか思い知らされながら英二は笑った。

「それは困るな、俺。でもさ、それでもイイって言ったら光一、どうするんだ?」
「困るね、そして泣くかね、」

即答に、ほんとうに泣くけど?と目でも言って光一は笑った。
その笑顔は気恥ずかしげに羞んで、可愛いなと思わされてしまう。
そしてまた募る愛しさに、英二は綺麗に微笑んだ。

「困らせても見たいし、泣顔も好きだけどさ。笑っている顔が一番好きだよ、」
「俺もね、おまえの笑顔は大好きだよ?あのひとの笑顔もね。だからさ、明日からまた周太、たくさん笑わせてよ」

素直に笑って光一は、周太の幸せを望んでくれる。
こういう無償の愛が光一は大らかに眩い、こんな相手だから『血の契』に繋ぎたい。
そして信じられる、このパートナーがいればきっと、周太を救うことが出来る。

「うん、いっぱい周太のこと、笑わせてくるな。光一も、たくさん笑ってろよ?」

綺麗に笑って英二は、約束をした。



青梅署診察室を朝陽のオレンジ色が染めていく。
生まれて間もない光と空気は、ゆったり白い部屋を染めて一日の始まりを告げる。
朝のセッティングが終わり、英二は流しで手を洗った。

「先生、コーヒー飲まれますよね?」
「はい、お願いします、」

穏やかなに微笑んで、吉村医師が答えてくれる。
その答えに笑って頷くと、制服の袖を戻しながら戸棚に歩み寄りマグカップを3つ出す。
それからドリップ式インスタントコーヒーをセットして、電気ポットからゆっくり湯を注いだ。

―こういうのも全部、周太に教えて貰ったんだ、俺は

ゆるやかに昇らす芳香の湯気に、愛しい俤が心に映る。
この俤に13時間後には逢える、昨日約束した「明日は帰る」の約束は今「今夜は帰る」になったから。
それが素直に嬉しい、そして覚悟を心に見つめてしまう。

『Le Fantome de l'Opera』

ページが抜け落ちた本「空白」に秘密が籠もる経年ふるい本。
この「空白」から周太は『Fantome』が鍵なのだと気付くだろう。
けれどそれが何を意味する鍵なのか、これは気づけない。そこに自分の希望はまだ、見いだせる。

―「50年の束縛」を隠す鍵を示す本、そして、あの本は

周太が買った紺青色の表装『Le Fantome de l'Opera』を廻る、記憶。
あの一冊が周太への想いの自覚と告白を惹きだしてくれた、その記憶が優しい。
まったく同じ『Le Fantome de l'Opera』それなのに、ふるい本と新しい本は、もたらした現実が反対方向を向いている。
まるで綱引きが正反対に引きあっていくように。

運命の2冊『Le Fantome de l'Opera』が導いてくれるのは?



(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第49話 夏橘act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2012-07-09 23:55:11 | 陽はまた昇るanother,side story
“Destin” ― 運命、真想の交錯



第49話 夏橘act.3―another,side story「陽はまた昇る」

明るい学食の窓際、木洩陽がガラスを透して食卓に揺れる。
きらきら光る影絵を定食のトレイに見ながら、周太は熱くなる頬に掌を当てた。
こんなところでまた赤くなってしまう、我ながら困っていると美代が笑いかけてくれた。

「私もね、昔からよく光ちゃんのこと、訊かれるのよ。女の子たちに囲まれたりしちゃってね、男の子もあったのよ?」

やっぱりそうなんだ?周太はすこしほっとした。
同じように美代も困っている、それに何だか安心しながらきいてみた。

「そういう時、どんなふうに答えるの?」
「正直に言っちゃうの、」

どんなふうに言うのかな?
そう首傾げた周太に、きれいな目は明るく悪戯っ子に笑んだ。

「直接本人に訊いた方がいいですよ、陰で聞いて回られるのは嫌いみたいですから、って答えるの。
そうしたら、嫌われたくないから聞いてこなくなるのよ。きっと、私から光ちゃんに言われたら、って思うだろうし、ね?」

陰で聞いて回られるのは嫌い。
そう言われたら二度と聞けなくなるだろう、納得に感心して周太は笑った。

「それ、いいね?俺も同じように言わせてもらうね?…やっぱり美代さんに訊いて良かった、」
「あ、こういうの褒められるの、なんか照れちゃうね?」

気恥ずかしげに笑いながら美代は丼飯に箸をつけた。
そんな美代と周太を見て青木樹医が愉しげに口を開いた。

「光ちゃんも、やっぱりかっこいい人なんですね?」
「はい、見た目は、きれいです。ね?」

答えた美代が悪戯っこの目で相槌を求めてくる。
この「見た目は」の強調が可笑しくて周太は笑ってしまった。

「ん、光一は本当に、きれいだね、」
「ね?もう、最近は特によ?でも最近は中身も、美人ぽくなったかな?」

愉しげに笑って美代が相槌を打ってくれる。
ふたりを見て青木樹医も快活な笑顔で尋ねた。

「随分と美形の方みたいですね。その方は最近、恋でもしたんですか?」
「その通りです、」

さらり明るく美代は答えた。
けれど光一の恋愛は所謂「普通」ではない、ちょっと話し難い事になる。
それでも美代は明瞭に口を開いた。

「光ちゃんは一番の友達に恋愛しています。ちょっと妬けるくらい純情で、きれいで羨ましいです、」

美代らしいストレートな言い方は、純粋な称賛が明るい。
その明るさに樹医はひとつ瞬いて率直に尋ねた。

「その友達は、男性ですか?」
「はい、」

真直ぐ答えて、きれいな明るい目は青木に微笑んだ。
美代の答えに、青木准教授はまたひとつ瞬いて、すこし考えるよう首傾げた。

とくん、

鼓動が心を叩く。
青木先生は、男性同士の恋愛をどう考えるのだろう?
そんな不安と緊張が首筋を熱くする、赤くなってくるのが自分で解かる。

…先生が、男同士の恋愛を、気持ち悪がったら…きっと、哀しくなるよね、

そんな想いが、食卓の下で掌を固く握り合わせる。
周太自身こそが男同士でも英二と婚約をしている、だから今、青木樹医の意見が気になってしまう。
こんなふうに不安と緊張を抱くほど自分はもう、この若い学者を尊敬し始めているから拒絶が怖い。

『樹木の生命―千年の星霜と年輪の軌跡―』

あの青い本に書いてくれた詞書、樹木の深い知識と記録と想いたちは、読むたび周太の心を響かせる。
青木樹医に初めて出会った冬から半年、会うのは交番での初対面から今日で6回目。この本を贈られて4ヶ月になる。
この一冊の専門書を自分は毎日、すこしでも読んできた。だから本を通して毎日、この樹医と会っている気がしてならない。
だから6回目でも想ってしまう、この先生からずっと学んでいけたら良いのに?そう願い始めている。

いつか自分は父がいた部署に異動するだろう。
いつも留守がちだった父の多忙を思うと、きっと通学の許可は難しい。それでも、なんとか無理をしても許可が欲しい。
それくらい自分は植物学の世界に希望と夢を見ている、この「今」に導いた青木樹医に学んでいたい。
父の殉職から記憶を失い、夢まで忘れた自分を植物学の世界に戻してくれた、この教師に学びたい。

父の軌跡を追う、その為だけに13年間を生きてしまった。
いつか父の軌跡に立つときは孤独になる、そう解っているから心鎖した、別離が辛いと知り過ぎたから。
母を支えること、父の想いと真実を探すために警察官になること、それだけが生きる目的だった。
目的以外のことは遮断され、切り落とされ、ひとつずつ父の記憶と共に消えていった。

そして忘れ果てた「自分」のこと。
自分が何を本当は好きで、どんな夢を見ていたのか?
自分が望んだ人生は何だったのか?本当な何になりたかったのか?
こんな迷子の自分は、伴侶と愛する英二のことすら「夢」に生きることを羨み妬み、その卑屈な想いに苦しんだ。
けれど青木樹医に贈られた一冊の本が、大きく自分の心を開かせ、植物学の夢を思い出させてくれた。

『樹木の生命―千年の星霜と年輪の軌跡―』

この運命の一冊と過ごした4ヶ月、どんなに自分は幸せだったろう?
この一冊が蘇えらせた夢を、父の死に一度は滅んで忘れた夢を、もう、二度と見失いたくはない。
ひとりの男として人間として、唯ひとつ見つけた夢と希望を失いたくない。

…やっと出会えたんだ、本物の植物の魔法使いに、樹医に…青木先生は俺の心にも魔法を懸けて、植物の夢を蘇らせたんだ

この樹医との出会いも、きっと運命の出会い。
だからこそ、この教師の意見が気になってしまう。
ほんとうに運命の教師で、ずっと長く学んでいくのなら、英二のことを話す日が来るだろうから。
なんて答えてくれるのだろう?不安と緊張に見つめた食卓の向こう、眼鏡の奥の目は穏やかな快活に微笑んだ。

「男同士の恋愛は、昔から日本にはありますからね?男女の恋愛よりも純情だと、聴いたことがあります」

いつもの知的で明快な笑顔は、実直な目をなごませている。
そして穏やかに明るい声はきちんと話してくれた。

「日本では昔から、男は戦場に行ったでしょう?そこでは命懸けの瞬間が日常です、だからお互いに強い絆がほしい。
男同士だから子供が出来ない分、絆は互いの心と体しかありません。それだけに命と誇りと、友情を懸けた、純粋で勁い恋愛になるんです。
そういう、ただ心の全てを懸けた恋愛は、まばゆいでしょうね?だから小嶌さんが言うように、光ちゃんが綺麗になったことは、とても納得です」

フラットな心が真直ぐ光一を、「男同士の恋愛」を見つめている。
こんなふうに話してもらえることは嬉しい、ほっと肩の力が抜けて心ほどかれていく。
食卓の下に組んだ掌もすこし緩められる、そんな隣から実直な目は「大丈夫よ?」と周太に微笑んで、美代は口を開いた。

「先生は、男同士の恋愛も認められると、おっしゃるんですね?」
「はい。私自身は経験がありませんが、自然なことかなとも考えます」

気さくに青木樹医は笑って、食べ終えた丼と箸をトレーに置いた。
そのまま食卓に肘をつき、長い指の掌を軽く組んで顎を載せると、准教授は口を開いた。

「歴史学で教鞭をとる友人と、この話を議論した事があります。そのとき思ったのは本能と、感情の対峙だということです。
子供が出来ない恋愛は、種の保存からすれば矛盾する感情でしょう?ですから、とても精神性が高い世界だとも言えます。
だから男同士の恋愛は高次元だと日本では考えられいたんです。ですが近代化の過程で、西洋のキリスト教的な考えが入ったでしょう?
それで日本でも、男同士はNGという風潮が生まれました。けれど、長崎など一部の地域には伝統の常識として残った、それぐらい馴染んでいる、」

こうした背景は周太自身、すこしWEBで読んだことがある。
あの初めての夜が明けて実家に帰ったとき、リビングのパソコンで調べてみたから。
あのとき自分と英二だけではないのだと知って、どこか安堵した自分がいた。それを今、尊敬する人が整理して話してくれる。
こういうのは素直に嬉しいな、そう見つめている前で知的な眼差しが微笑んだ。

「だから自然なこと、と私には思えたんです。むしろ近代化以降の、この百年が異端かもしれない、」

この百年が異端、その結論が自分には優しい。
ほっとする想いに周太は唇をひらいた。

「もし自分の身近なひとが、男同士で恋愛していたら。どんなふうに先生は接しますか?」
「普通でしょうね?ちょっと眩しく思うかな、」

さらり答えて青木樹医は微笑んだ。
そして眼鏡の奥で快活な瞳を温かに笑ませて、いつもの論理的トーンで話してくれた。

「植物学者の見解としては、同性の恋愛は、種の保存という意味では困った事でしょうね。
けれど、ひとりの個人としては賛成したいです。男女であれ同性であれ、一生懸命に誰かを想って大切に出来ることは、幸せですから。
さっき話した通り男同士の恋愛は、命と誇りと、心の全てを懸けた恋愛です。そんな打算の無い姿は、同じ男として眩しいと思うんです」

あくまでもフラットな青木樹医らしい見解が温かい。
やっぱりこの先生は好きだなと、また信頼と尊敬が穏やかに育っていく。
この信頼に、ほんとうは正直に自分のことも話せたら良いのにと、ひとつ希望が起きあがる。
けれど、このことは自分一人で勝手に決められる問題ではないことも、よく解っているから出来ない。

…関根に話すのだって、英二もお姉さんも、あんなに慎重だったから、ね、

あのとき関根に受け入れてもらえて本当にうれしかった。
だから、この尊敬する樹医にもいつか話すことが出来たらと、そっと心に望みが起きている。
いつかきちんと話すことが出来たら良いな?そう思えることだけでもう、幸せが嬉しい。
嬉しい想いに微笑んだ周太の隣で、美代も嬉しそうに笑った。

「女の私から見ても、まぶしいです。だって先生?光ちゃんは本当に綺麗で、まぶしいんです、」

言って、きれいな明るい目が「あなたもよ?」と周太に微笑んだ。
この眼差しの温もりに解ってしまう、きっと美代は周太の為に青木樹医に質問してくれた。

…光一のことを訊くことで、先生の考えを訊いてくれた。そうでしょう、美代さん?

きっとそうだろうな?
想いながら周太は、膳の上のものを食べ終えた。
みんな食事が済んで下膳すると、青木樹医と別れて美代とふたり駅に向かって歩き始めた。
新緑豊かなキャンパスを出ると、周太は隣を歩く美代に尋ねた。

「ね、美代さん?さっき先生に光一のこと話したの、俺の為でしょ?…先生が男同士のこと、どう考えるか訊いたの、って」
「うん、私も訊いてみたかったの、先生ならって思ったし。でも、ね?もしかして、嫌だった?」

心配そうに実直な眼差しが周太を見つめてくれる。
こんな気遣いも美代はストレートで、裏表ない所が周太を気楽にさせてくれる。嬉しい想いに周太は笑った。

「ううん、俺もね、いつか先生には訊いてみたと思う…ちょっと急で驚いたし、緊張はしたけど。でも、うれしかったよ?」
「ほんと?じゃあ、良かった。私も緊張したの、でも良い機会かな、って思って訊いちゃったの。だけど、勝手にごめんなさい、」

率直に謝って美代は、立ち止まると頭を下げてくれた。
そんなにしなくて良いのに?少し困って、でも周太は思いついて笑いかけた。

「謝らないでいいよ?それよりね、俺、母の日のプレゼントを先週は買えなかったんだ。今日こそ渡したいから、一緒に選んでくれる?」

本当は先週の講義の後で実家に帰る時、母に贈り物を買う予定だった。
けれど何が良いのか迷った挙句、結局は花束しかプレゼントできなかった。
だから今日は何かを見つけられたらいいな?そんな希望を思う周太に、美代は明るく笑ってくれた。

「あれ?そうだったの?もしかして、何にするか決まらなかったの?」
「ん、そうなんだ…だから美代さんと選んで貰ったら、決められると思ってね、今日は来たんだけど、」
「お安い御用よ?でも、一生懸命考えて選びます。いつも湯原くんには勉強教わってるし、お母さんにもお世話になってるから、ね?」

楽しそうに笑って頷いてくれる、この明るい綺麗な目の友達の実直な純粋さが嬉しい。
この実直な目と心が真直ぐ青木樹医に訊いて、今、周太のなかに信頼と温もりを贈ってくれた。
ほんとうに美代と友達になれて良かった、周太は感謝に微笑んだ。



ふるい木造門を開くと、ふわり橘の香が庭を廻った。
きっと咲いているかな?楽しみに門を閉めて、爽やかな香の源へと足を向けた。
歩いていく庭の木立から木洩陽ふりそそぎ、影絵を芝生に明滅させていく。あざやかな皐月の花に芍薬も咲き誇る。
名残の藤も薄紫の房をゆらせ風に花ふりこぼす、見上げた青空には針槐の白い花が緑とまばゆい。
初夏に華やぐ花々と陽光を歩いてゆく、そして大きな常緑の梢を周太は見上げ、きれいに笑った。

「今年も、咲いてくれたね?きれいだね…ありがとう、」

濃い鮮やかな緑の梢には、黄金の大きな実と純白の小花が輝いている。
陽射しに輝く夏蜜柑の木は、梢ひろやかな緑陰の芝生へ星の小花を散らし佇む。
静かな午後の初夏、橘の香は陽光に温められ豊麗に立ち昇っていく。
この香は懐かしい、大好きな香。この香をくれる白い小花も可愛らしくて好きだ。
この花が実らす黄金の実を、明日は大好きな人と一緒に摘み取って、家に伝わる菓子を一緒に作る。

…きっと楽しくて、すごく幸せだね?

嬉しい気持ちに夏みかんの幹に掌ふれて、それから周太は玄関の方へと歩き始めた。
芝生を横切って歩いていく、そのスーツの足元を白い花枝が撫でて、花がこぼれだす。

「…空木の花、」

白い花に、革靴の足が止まる。
この花に纏わる昨夜の思考と記憶が心に起きあがる、そして頭脳が動き出す。

『Le Fantome de l'Opera』

父の書斎に遺された、ふるい紺青色の表装の仏文学小説、ページが抜け落ちた本。
あの空白のページに隠されているのは、空木の花言葉に同じかもしれない?

「…秘密、」

ぽつり花言葉がひとりごと零れて、白い花にふれ落ちる。
きっと花言葉は英二の想いも映していると、この「秘密」の確信が昨夜のまま心に落ちる。
だから「ページが抜け落ちた本」に気付いたことを英二にも、決して言うことは出来ない。
まだ理由は解からない、なぜ英二が「ページが抜け落ちた本」を周太にも秘密にしたがるのか?
けれど秘密にするだけの理由があることも、それが周太の為だろうことも、信じられる。

…きっと俺を護るためだね、英二…知らないことが俺を護る、そうでしょう?

それでも自分は「秘密」を知らないままで済ませていいのだろうか?
だって『Le Fantome de l'Opera』の空白は、祖父と父の遺志が籠められている。
それを唯一の跡取りで長男である自分が「知らない」ままで居て良いの?

…英二が護ってくれることに、ただ甘えていることは…出来ない、俺には

きっと「知らない」ことが周太を護ることだと英二は判断をした、そのために「秘密」にしてくれている。
それが解かるから、自分は「知らない」で居ればいい、誰に対しても。
けれど、本当に知らないままでいることは、出来ない。

「…お母さん、まだ帰ってこないよね?」

いま左手首のクライマーウォッチは16時半。
今日は仕事から17時半に一旦帰ってきて、支度をしてから友人と温泉に行くと言っていた。
だからあと1時間は時間がある、独りきり書斎に籠れる時間がある。

「…ん、」

小さく頷いて周太は玄関へと歩き出した。
玄関の扉を開き、真直ぐ台所に向かってエコバッグの中身を冷蔵庫に入れる。
それから洗面室で手洗いうがいを済ませて2階に上がり、自室に入ると鞄と紙袋を置き、ジャケットを脱いだ。
そしてデスクの近くにある本棚から紺青色の本を取出して、そのまま隣の書斎に入った。

「…あ、」

書斎机の花瓶に、白い花が揺れている。
さっき庭に咲いていた空木、その空洞の枝に「秘密」をこめて、この部屋にも純白に咲く。
なんだか花に隠喩されているみたい?けれど隠喩の花はこの庭に育った花、だから思う、庭を愛した人たちの遺志を花は伝えている?

「…お父さんも、お祖父さんも、俺に探してほしい?」

そっと花に笑いかけて、周太は書棚の前に立った。
壁一面に作られた重厚な書棚には端正に本が並ぶ、その背表紙はフランス語表記が9割。
そのなかの紺青色の一冊に周太は手を伸ばし、掴んだ。

…軽い、

いま掌に掴んだ本は、軽い。もう片方の掌に持つ本と重みが全く違う。
この書斎に遺された紺青色の一冊は、大きくページが抜け落ちている為に本来の重みが消えている。
この重みの違いに「ページが抜け落ちた」秘密の重さを想ってしまう、これを知る覚悟が静かに目を醒ます。
覚悟と見つめる2冊を書斎机に据えながら、静かに周太は父達の椅子に腰かけた。

2冊の『Le Fantome de l'Opera』古い本と自分の本。

いま目の前にある2冊には、恋愛に交錯する謎を描いたミステリー小説が、フランス語で綴られている。
そのミステリーにきっと祖父と父の軌跡が重なる部分がある、それを「秘密」にするためページは切り落とされた。
だから、古い本のページが抜け落ちた「空白」を読み返し、残されたページとの差異を考えれば「遺志」が浮かび上がるはず。
きっと、古い本のページが抜け落ちた「空白」に、祖父と父の遺志が隠されている。

そんな考えの許、紺青色の本を2冊とも開く。
古い本の落丁ページを確認する、それを自分の本と照合し、落丁の始まりと終わりのページに栞を挟んだ。
古い本に遺されているのは、最初と最後のシーンだけ。
この部分には出てこない、けれど本編には出てくる内容や人物に「遺志」がある?

…最初と最後に出てくるのは、歌姫と幼馴染の恋人…ふたりの再会と、その後、

そっと自分の本を閉じる、その手元に白い花がひとつ降りかかる。
降りこぼれた花を掌に載せて、花翳の写真立てに周太は微笑んだ。

「…お父さん?これは『秘密』なんだよって、言いたい?…大丈夫、俺は何も知らないから…秘密は守られるよ?」

これは「周太が知る」ことすら秘密。
この本のことに気付いたと、英二にも知られてはならない、永遠の秘密にすること。
この責任と義務を自分が背負うことも「秘密」のなかに隠せばいい、きっと自分が「知る」ことは誰にも危険だから。
けれど知らないでは済ませられない、だって自分は唯一人だから。

「お父さんと、お祖父さんの血を引くのは、俺だけだね?…だから、俺は知らないといけない、そうでしょう?」

笑いかけた白い花の下の写真立てで、きれいな笑顔で父は佇んでいる。
若々しいけれど寂しげで綺麗な笑顔、この笑顔が自分は大好きで、一緒にいられる時間は宝物だった。
いつも穏かで優しかった父の声、きれいなキングス・イングリッシュで大好きな『Wordsworth』を読んでくれた。
あの流暢な発音と声は、今も耳の記憶に遺されている。

「この花、押花にするね?」

想い微笑んで、抽斗を開くとインクの吸いとり紙を1枚出した。
そっと掌の花を薄い紙に載せると、丁寧に紙を半折に重ねて花を挟み、自分の本に綴じこんだ。
そして古い本を手に、周太は席を立ちあがった。

明るい窓際に立ち、ページの抜け落ちた部分を陽射しに開く。
遅い午後でも明るい初夏の光は、紙と糸が織りなす形状を鮮やかに晒してしまう。
照らし出される背表紙の内側を凝視する、そして見出した真相は言葉にこぼれた。

「…刃物の、痕跡…」

糸と糊で綴じられていた部分は、鋭利な切断面が遺る。
ページを意図的に落丁させた、その痕跡が眼の底に鮮やいだ。

「ね、お父さん?これ…おじいさんの本なのでしょう?それを切り落としたなんて、よほどの理由があるね?」

これを切り落としたのは、父。
この確信が切断面から解ってしまう、だって、こんな切断面を幼い頃に見たことがある。
これはきっと、あの刃物で切られている。この確信に周太は写真立てに振り向いた。

「トラベルナイフで、切ったでしょう?お父さん、」

山や川でキャンプをしたとき、焚付に使う古雑誌を父は切った。
いつも背表紙の糸綴じをトラベルナイフで切断して、器用に雑誌をばらしていた。
あのときと同じように父がこの本も切断した、それが目の前の切断面から解ってしまう。
父のトラベルナイフは自分が受継ぎ、英二と山で過ごす時に自分で使っている、だから切断面の癖も解かる。

抜け落ちたページに隠された「秘密」の存在。今まで、ずっと気付かなかった。
けれど今なら解る。トラベルナイフの癖と、英二が事例を隠した態度から、解かってしまった。

『遺体の傍に、文庫本が落ちていたんだ。その本は普通の状態だった』

木曜日の事例研究で、英二は嘘を吐いた。
けれど金曜日、藤岡との会話に事例の真実と「ページが抜け落ちた本」のメッセージを知った。

―…あの本ってページがごっそり抜けていただろ?たぶん本人が切り落としたんだけどさ、
  その動機がドッチの意味か…脱け出したくて切り落としたのか…未練があるから切り落とした

父がページを切り落とした「動機」は、どちらの意味?

この空白のページに隠された「秘密」から、脱け出したかった?未練があった?
この「秘密」はきっと父と祖父の軌跡が隠されている、それを知ることは危険と秘匿の道だろう。
この危険も秘匿も重い、それを英二は解かっている、きっと英二は父達の軌跡をもう知っている。
だから英二は「ページが抜け落ちた本」のことを隠した、周太に悟られないために。

…ね、英二?俺の肩代わりをする気でしょう?…嫌いな嘘を吐いても、俺を護ろうとしてるね

こんなに英二は、自分を護ろうとしてくれる。
だからこそ、英二だけに背負わせて自分は何も知らないなんて、出来ない。
これは本来なら自分が背負うべき苦しみ、それを愛するひとに背負わせて、知らないでいるなんて出来ない。
自分こそ、愛するひとを護りたいから。

…英二、お願い…幸せに笑っていてほしいんだ、俺がどうなっても、何があっても

ずっと13年間を孤独の底に沈んだ自分を、救ったのは英二。
唯ひとり恋愛で想っている、唯ひとり体も許して、素肌ふれあい想いを確かめた最愛のひと。
ふたり過ごした時間は全てが幸せで、傷みも涙も全てが幸せだった、この幸せに自分は笑顔を取り戻せた。
もう諦めていた夢も、暗がりでも希望を見出す術も、全てを与えてくれた。
だから何があっても、護りたい。

あなたを護りたい。

この願いの為に本当は、なんども離れようとした、別れようとした、忘れて嫌いになりたかった。
それでも離れられなくて別れられなくて、どんなに嫌いになったと想いこもうとしても、出来なかった。
だから覚悟した、何があっても自分がこの人を護りぬこうと決めた。
その為に自分が泣くことになっても構わない、英二が笑ってくれるならそれでいい。

だから光一に英二の傍にいて欲しいと願ってしまう。
幼い日から光一は、ずっと周太を一途に想い続け救ってくれる。
そんな光一なら英二を任せられる、そう信じているから。

こういうのは本当は寂しい、けれど英二の笑顔を護れるのなら、寂しさがなんだというの?
そして解かっている、英二も周太を同じように想ってくれていると知っている。
だからこそ尚更に護りたい、自分よりも大切な人だから。

…ね、英二?あなたも、同じように想ってくれてるね?…幸せだよ、でも、ね?

最愛の婚約者の想いの真実と、自分の運命の交錯が、この本に見えてしまう。
それと同時に父達の軌跡がなぜ秘密にされるのか?その重たさも解かってしまう。
愛する人々を廻る想いと真実の交錯が、この本の「空白」に運命の顔をして隠れている。

『Le Fantome de l'Opera』

紺青色の表装の、フランス語のページが抜け落ちた、この運命の一冊に。




(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする