萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第49話 夏橘act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-07-08 23:41:20 | 陽はまた昇るanother,side story
秘密と約束、そして記憶たち



第49話 夏橘act.2―another,side story「陽はまた昇る」

消灯前の点呼が終わって、周太は扉に鍵を掛けた。
かちり、小さな音に施錠を聴き届けると、ルームライトをデスクライトに切り替えた。
あわいブルーの光が部屋を照らし出す、どこか優しい空間に微笑んでファイルを手に取るとベッドに座りこんだ。
壁に背凭れページを開く、その背中が静まり返っている。こんなふうに隣室が静かなことは、やっぱり寂しい。
いつも初任科教養の頃から英二は、隣室か周太の部屋に居てくれたから。

…英二、今頃まだ車の中かな?

夕食の頃に2通のメールを受信した。
英二からと光一からと、それぞれ「富士山に行ってくる、後でまた電話していい?」と書いてあった。
それぞれに周太も「気を付けてね、待ってるね、」と返事をした。

…今頃どうか、ふたり幸せに笑っていると、いいな?

そう微笑んだ周太に、ふっと夕方の記憶が心過ぎった。

「…ページの抜け落ちた本、」

華道部に行く道すがら藤岡が話してくれた遺留品「本」の謎。

―…あの本ってページがごっそり抜けていただろ?たぶん本人が切り落としたんだけどさ、
 その動機がドッチの意味か…脱け出したくて切り落としたのか…未練があるから切り落とした

昨日、英二が事例研究で話した絞殺事件の証拠物件「ページが抜け落ちた本」の事を、藤岡はそう話してくれた。
けれど英二は「ページが抜け落ちた」ことは言わなかった、英二が本を発見した事も言わなかった。

…言わなかった理由は、なぜ?

この疑問符に一冊の本が意識に浮上する。
父の書斎に遺された、ふるい紺青色の表装の、フランス語で綴られた一冊の小説。

『Le Fantome de l'Opera』

ほとんどのページが抜け落ちた古い本、あの本の存在を英二も知っている。
初めての外泊日、初めて一緒に書店へ行ったときに買った本が『Le Fantome de l'Opera』だったから。
あの本を買った理由を後で訊かれて、ページの落丁のことを話した記憶がある。

「…あの本も、」

父が生まれるより前の出版年だから、経年から自然と落丁したのだと思っていた。
けれど、本当に、あんなにたくさんのページが抜け落ちる?
落丁したとしても、抜けたページは何処にいった?

「出版年は…1938年、昭和13年…お父さんが生まれる前…誰が買って…?」

父が生まれる前に発行された本は、誰が買ってきたのだろう?
古本屋でも買えるかもしれない、けれど同じ型版で新品があの本は買える。だって自分は買って持っている。
じゃあ父は、誰かにあの本を譲られたのだろうか?
それとも父が生まれる前から本棚にあった?

「…あの本、おじいさんの本?」

さらり零れた言葉に、周太の瞳が大きくなった。

あの書斎は父の前は祖父が使っていた、その前は曾祖父が使っていた。
それならあの書斎の本たちは、祖父が買ったものが多いのかもしれない。
あの書斎の本はどんな本が多かった?それから家にある本は?

「フランス語…書斎はほとんどフランス語の本…日本語の本は廊下とホール…ホールはドイツ語の本も…リビングはフランス語と日本語…」

家にある本は当然、父や祖父達が揃えたものだろう。
それなら遺された蔵書の種類から、祖父や曾祖父のことが解かるかもしれない。
どうして今まで、そのことに気付かなかったのだろう?

「お母さんの部屋もフランス語と日本語…客間もそう…テラスも」

家の蔵書を記憶のファイルに捲りだす。
家にある本の大半はフランス語、次に日本語、ドイツ語、それから英語で綴られた本が3冊くらい。
そこまで考えて、ふっと周太は「矛盾」に息を呑んだ。

「どうして英語の本…3冊しかないの?」

父は、英文学科を卒業したと聴いている。
父は流暢なキングス・イングリッシュを話し、周太にも『Wordsworth』をテキストに教えてくれた。
そしてラテン語も堪能だった、一緒につくっていた採集帳のラベルも流麗なラテン語で学術名を書いていた。
そんな父がなぜ、自身が学んだ英文学の本を3冊しか持っていない?

「…お父さんの大学時代までの本、どこにあるの?」

博学で、読書が大好きだった。
父に訊いて解からないことは無かった、勉強でも本でも植物でも、なんでもよく知っていた。
そして英語の発音が綺麗で、キングスもアメリカ英語も話しわけられて、お蔭で周太の英語の成績は抜群だった。
フランス語も堪能で、ときおり家族で行ったビスロトではフランス人のシェフと話していた。
そんな父は警察官というより学者のようで、書斎に座っている姿が似合っていた。
そういう父が、どうして英文学の本を3冊しか持っていないのだろう?
どうしてフランス語の本ばかり、家にはあるのだろう?

「…おじいさんがフランス文学の人なの?…あ、」

前にWEBで「湯原晉」を検索した事がある。
そして5人が過去帳にある祖父の年代に適合した、建築家、鉄鋼の技術者、温泉旅館の主人、あと大学の先生が2人。
このなかに、フランス文学の大学教授がいた。

『東京大学文学部仏文学科教授 湯原晉 パリ第三大学Sorbonne Nouvelle名誉教授』

「あのひとが、俺の…おじいさん?」

とても立派な人のようだった。
戦後日本で文学を支え、世界的にも著名な学者だとWEBにも載っていた。
そんなひとが自分の祖父なのだろうか?そんな想像は畏れ多いようにも思えてしまう。
けれど、書斎の蔵書たちはフランス文学の原書と専門書が多くて保存状態も良く、確かに彼に相応しい。
でも、そうだとしたら、なぜ?

なぜ『Le Fantome de l'Opera』は壊れた落丁のままでいる?

そうだとしたら何故、壊れた本が彼の蔵書にあるのだろう?
そんな世界的なフランス文学者が、フランス文学の名著を「ページの抜け落ちた本」にするだろうか?
どれも他の蔵書たちは端正な保存状態、それなのに何故、あの一冊だけが壊れたままでいる?

「そう…他の本は、壊れた痕があっても…修繕されてる、なのに…」

どうして?

疑問にため息を吐いて、ふとデスクライトへと目を遣った。
デスクでは純白の花がブルーの光にまばゆい、華道部で使った花を今日も貰ってきて活けてある。
この花の言葉と、心めぐる「ページが抜け落ちた本」が呼応してしまう、そして花言葉が唇こぼれだす。

「…秘密、」

なぜ書斎の『Le Fantome de l'Opera』はページが抜けている?
誰が、何の目的で、『Le Fantome de l'Opera』は壊れたままにした?
なぜ英二は事例研究で証拠の本が「ページが抜け落ちていた」ことを言わなかった?

「…ね、英二?…なぜ言わなかったの?なにか知ってるの?…秘密、なの?」

必ず周太の隣に帰ること
いつか必ず一緒に暮らすこと
生涯ずっと最高峰でも周太へ想いを告げること

これが英二がくれた「絶対の約束」の3つ。
そして将来を添い遂げる約束「婚約」をしてくれた。

―…俺の運命のひとは周太だ。他の誰でもない、男も女も関係ない。
 代わりなんていない、周太だけ。だから俺の幸せは周太の隣にしかない…これが真実…これだけしか無い

そんなふうに言ってくれた、あのとき幸せだった。
あの言葉を約束を覚えている、だからこそ自分は光一を英二の隣にいて欲しいと望んだ。
あんなにも求められたなら、自分が消えた後のことが心配で堪らないから。
いつか自分は父の軌跡を追って英二の前から姿を消す、それを解かっているから。
そして英二が本当は「周太が消える」ことを怖がっていると解っているから。

「…英二が怖がってる、こと…」

“英二が怖がっている”

このフレーズに推測が生まれる。
英二は「ページが抜け落ちた」本であるとは言わなかった、その理由は『Le Fantome de l'Opera』?
書斎の『Le Fantome de l'Opera』の「ページが抜け落ちた」理由が、“英二が怖がっている”ことに関係がある?

自分が「父の軌跡に立つ」ことは『Le Fantome de l'Opera』の落丁と関わりがある?

「…お父さんの秘密が、あの本にある?」

ふっと纏まった考えに、デスクライトの白い花が映りこむ。
初夏の花「空木」うつぎ、枝が空洞なことから「空ろの木」と書く。
この空洞にあるのは「秘密」だとなぞらえて、花言葉として寄せられた。

この花木の空洞のように『Le Fantome de l'Opera』の空白には「秘密」が隠されている?

「…でも、どうして英二…」

どうして英二は、自分にも秘密にするの?

この答えが解からない。
愛するひとの考えは何所にあるのだろう?
この「秘密」の理由を知りたい、なぜ自分の父や祖父のことなのに言ってくれない?
こんなに自分が父達のことを知りたいと願っている事を、いちばん理解している相手のはずなのに?

「…わからない、でも…信じたい、」

ため息まじりに本音こぼれていく。
理由は解からない、けれど信じていたい、唯ひとり将来を約束してくれた人だから。
本当は自分には「将来」が訪れるのか約束なんて出来ない、そう知りながら共に生きようと覚悟と希望をくれた。
それだけでも「無償の愛」なのだと、今なら解る。

「ごめんね、えいじ…」

ぽとん、

涙ひとつ頬伝って、ファイルに落ちていく。
このファイルも英二が7ヶ月間を懸けて作ってくれた、周太の安全を祈って。
こんなにまで全て懸けて守り、愛してくれる。最初に約束した「初めての夜」の想いのままに。

―…けれど、諦める事も出来ない。気持を手放そうとしても、出来なかった
 ただ隣で、湯原の穏やかな空気に触れている。それだけの事かもしれないけれど、俺には得難い居場所なんだ…
 ご両親を大切にする、湯原が好きだ。辛い事にも目を背けない、戦う強い湯原が好きだ
 繊細で、不器用なほど優しい湯原が好きだ。頑固だけれど端正な、真っ直ぐな湯原が、俺は好きだ…
 警察官の俺には、明日があるのか分らない。だから、今この時を大切に重ねて、俺は生きたい
 湯原の隣で、俺は今を大切にしたい。湯原の為に何が出来るかを見つけたい。
 そして少しでも多く、湯原の笑顔を隣で見ていたい
 どんな結論でも、俺はきっと、湯原を大切に想う事は止められない
 隣に居られなくても、何があっても。きっと、もう変えられない
 ただ、湯原には笑っていて欲しい。どんなに遠くに居ても、生きて、幸せでいてくれたら、それでいい

あの夜の言葉たちが、想いが、記憶から涙に変わってあふれだす。
あんなふうに言われて恋を自覚して愛して、そして今もう離れられない、自分より大切で愛している。
けれど置いて行かなくてはいけない瞬間は運命の顔で近づいている、そう解っている。

それでも英二は諦めてはいない、そう自分には解ってしまう。
だってこのファイルの内容を見れば解かる、7カ月間を英二が何を想ってくれていたのか解かる。
この7カ月間、どれだけの努力と苦悩と経験を積み上げて、このファイルを作りあげたのか?
その全てが結局は周太の為、そう解る。そんな想いの人を疑うなんて、出来るわけが無い。
だから信じていたい、心から。

「ね、えいじ?…秘密にするだけの意味と理由がある、そうだよね…」

きっと英二の考えがあって秘密にしている。
あの初めての夜よりも、はるかに英二は賢明な男になり大人の男になった。
そんな英二の判断力は信じられる、そして英二の隣には最高の山ヤの警察官である山っ子がいる。
あの山っ子をこそ、心から自分は信じている。

「…光一、気に入ってくれたかな?」

ひとりごと微笑んで涙拭って、ファイルのページに目を落とす。
きっと富士山を見ながら英二は、光一に贈り物を渡してくれただろう。
あのプレゼントは英二が考えてくれた、とても光一には似合うと周太も想う。

今頃は、身に着けてくれただろうか?
そんな考え巡らしながらもページを繰ったとき、優しい音楽が静寂をゆらした。
この音楽は唯ひとりの人だけが鳴らす、その人の俤に微笑んで周太は携帯を開いた。

「周太、待っていてくれた?」

綺麗な低い声がうれしそうに訊いてくれる。
いま聴けて嬉しい大好きな声、その向こうに微かなエンジン音が響く。
まだ移動中なのかな?そんな想像と周太は笑いかけた。

「ん、待っていたよ?…まだ車の中?」
「うん、もうじき東京に入るけどね。点呼が終わったろうな、って架けてみた、」

元気そうな声が嬉しくなる。
こんなふうに英二は光一と一緒なら明るく元気でいられる、それが嬉しい。
どうかずっと元気に笑っていて?祈るよう周太は電話むこうに微笑んだ。

「ありがとう、富士山は楽しかった?」
「富士山が良く見えるところで、飯作って食ったよ。山中湖のとこだけどさ、」
「あ、前に光一が連れて行ってくれた所かな?…湖の畔で、駐車場が近い、」
「うん、そこだと思うよ?その場所でプレゼント渡したよ、」

やっぱり渡してくれたんだ?
素直に嬉しい気持ち微笑んで、周太は大好きな婚約者に尋ねた。

「ありがとう、渡してくれて。…喜んでくれた?」

あの贈り物は、意味が深い。
だから喜んでもらえたのか少し心配にもなる、あの贈り物は「約束」で繋ぐ一種の束縛でもあるから。
あの束縛を英二が選んだことは、自由な気質の光一にはどんな意味を持つだろう?
そんな想いに首傾げこんだ周太に、きれいな低い声が笑いかけた。

「ちょっと待ってね、周太、」

小さな音と、短く交わす言葉が聞える。
そして少しだけ遠い声が周太に明るく笑った。

「周太、プレゼントありがとね。すごく俺、嬉しかった、」

透明なテノールが幸せそうに笑ってくれる。
そのトーンに光一の心が見えて、周太は綺麗に笑った。

「気に入ってくれたなら、嬉しいよ?…ね、いま、運転中じゃないの?」
「イヤホンマイク使ってるからね、大丈夫。でさ…この時計で周太、帰ってきてって俺に言ってくれてるワケ?」

すこし心配そうに尋ねてくれる、その言葉と雰囲気に「約束」が喜ばれたと解かる。
こんなふうに光一も「約束」を望んでくれる?嬉しい気持ち素直に周太は頷いた。

「ん、帰ってきてね、英二と一緒に…その時計と一緒に英二と、ずっと最高峰に登ってね?」

英二と、ずっと最高峰に。
この祈りをどうか叶えてほしい、願えるのは光一しかいないから。
英二の唯ひとりのアンザイレンパートナーにしか自分の願いは叶えられない、だから祈っている。

「うん、ずっと一緒に登るね。それで一緒に周太のとこに帰るよ、ずっと。約束するからね、」

透明な声が、約束を結んでくれた。

幼い日に初めて出逢ったときから、光一は信じられる。
だからこの約束もきっと永遠に守ってくれる、それが与えてくれる安心が嬉しい。
本当は、自分の許に帰ってきてもらうことは難しくなる、自分が遠くへ行くことになるから。
それを光一も英二も解かっている、それでも光一は言ってくれた。

「ん、ありがとう。約束だね、」

たとえ叶わない約束だとしても、幸せだ。
この約束の温もりを支えに自分は生き抜ける、だから幸せだと想えてしまう。

…約束を聴けた、この今の瞬間も幸せだな?

そんなふうに幸せは周太を温めてくれる。
この温もりに今ひとり見つめたばかりの「秘密」の涙が慰められる。
こんなふうに優しい想いは瞳へと、ゆるやかな熱に昇って涙こぼれおちた。



弥生キャンパスの学食は地下なのに窓がある。
この陽光明るい窓際に座るのは、今日で4回目になるな?
そんなふうに考えながら箸を運んで、ふと気になったことを周太は自分の先生に訊いてみた。

「青木先生、この学食は、いつも土日も開いているんですか?」
「本当は土日は休みなんです。でも、シンポジウムや特別講義があると開きます。だから来週は休みかな?」

いつもながら丁寧に答えて青木准教授はすこし悪戯っ子に笑った。
言われて見渡してみると確かに、講義で見かける顔が多く座っている。
隣で美代も見まわしながら、納得したよう頷いた。

「講義の後、ここで食事できると良いですよね?」
「でしょう?だから希望して、開けてもらっています。まあ、自分がここで食べられると楽だから、なのですけどね、」

可笑しそうに目を細めて、青木准教授は丼片手に箸を運んでいる。
この先生は実直で生真面目、けれどユーモラスな性質が明るく楽しい。
まだ40代らしい若い准教授は知的な顔立ちに眼鏡が似合って、少し無骨な頼もしい雰囲気は温かい。
そんな雰囲気は山ヤの警察官たちと似て、つい大好きな人の俤を思い出す。
こういう人は誰かさんみたいに、たぶんモテるだろうな?そんな感想の隣から可愛らしい声が率直に訊いた。

「青木先生の奥さま、お綺麗な方でしょう?」

すごいストレートな質問だな?
ちょっと驚いて隣を見ると、きれいな明るい目は実直なまま微笑んでいる。
ほんとうに単に訊いているだけ。そんなストレートな明るさに青木准教授は笑って答えた。

「はい、夫が言うのもなんですけれど、美人です、」
「あ、やっぱり。恋愛結婚ですか?」
「ええ、学生時代からの付合いです、」
「先生、きっとモテるでしょう?なんか、そんな感じがします、」
「これは照れる質問ですね?自分では良く解らないのですが、どうなのでしょうか?」

明るい率直な美代の問いに、つい青木准教授も楽しげに答えている。
こういう明るさが美代は純粋に穏やかで、だからストレートな質問も嫌みにならない。

…こういう真直ぐなところが英二も大切にしたくなるんだよね?

そう納得した所で周太は質問を思い出した。
あの質問は、この快活な先生からも答えが貰えるかもしれない。
そんなふうに考えて周太は口を開いた。

「あの、先生のお友達は、先生のことを質問されたりとか、していましたか?」

昨日の夕方にも困ったことの解決法を知りたい。
心裡そっとため息吐いた周太に、隣から美代が明るく笑って訊いてくれた。

「宮田くんのこと、学校で女の子たちに訊かれちゃうの?」

すぐに美代は察してくれた。
理解が嬉しくて周太は素直に頷いた。

「ん、そう…研修の初日からなんだ。部活の初日からは、同じ部活の女の子にずっと訊かれていて、」
「ずっと、って毎日なの?」
「ん、俺が1人でいると訊きにくるんだ、さり気なく逃げようと思うんだけど…」
「じゃあ昨日とか、大変だった?昨日から宮田くん、青梅に戻るって言ってたものね?」
「ん。校門まで見送った所で、捕まっちゃって…でも、藤岡が助けてくれて、」

言いかけた言葉を、名前の記憶にふっと呑んだ。

―…あの本ってページがごっそり抜けていただろ?

昨夜も考えた「ページが抜け落ちた」本のことが意識に映りこむ。
きっと英二は秘密にしたがっている、けれど気になってしまう。あの紺青色の本の「空白」に籠められた秘密を知りたい。
そんな考えに沈みかけた時、前から深くて快活な声が笑いかけてくれた。

「湯原くんでも、女の子には困るんですね?そんなに彼はカッコいいんですか?」

そんなふうに言われると照れてしまう。
さあっと首筋から熱が昇ってしまう、このままだとまた赤くなりそう?
けれど困りかけた隣から、美代が明るく笑って言ってくれた。

「はい、宮田くんはすごくカッコいいです。私も憧れているんですけど、本命以外は見えない人なんです。ね?」

きっともう、今、真赤になってる?



(to be continued)

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第49話 夏閑act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-07-07 23:48:24 | 陽はまた昇るside story
閑寂、時の狭間



第49話 夏閑act.2―side story「陽はまた昇る」

金曜日の夕方、下り列車は空いていた。
みんな逆方向に都心へ向かうか、最寄で週末前のひと時を過ごすのだろう。
お蔭で思ったよりは混雑に巻きこまれずに、河辺駅へと英二は降り立った。

「…空気、違うな、」

ほっと息吐いたプラットフォーム、黄昏が透けるまま染めていく。
見上げる空は透明に眩い、空も太陽もここは違う、同じ「東京」けれど大気の色彩が違っている。
こんなふうに都内でも場所によって異なることを、1年前の自分は知らなかった。

この一年で、自分はどれだけ多くに出会い、知ったのだろう?
山、空のいろ、人の生と死の姿、警察組織の現実、そして自分の道。
どれもが今の自分を作りあげた全て、この全てに出会えた原点は唯ひとりの人だった。

―周太、もう君が恋しいよ?

ほんの1時間前まで一緒にいた、ここより少し昏い空の下で一緒に笑っていた。
それなのにもう、逢いたい。

どうして自分は、こんなに求めてしまう?

ずっと考え続けてきたこと、けれど答えなんて解からない。
ただ恋に墜ちて愛してしまった、それが自分の全てになってしまっただけ。
だから自分の全てを懸けることも、ごく自然に想えて今、ここにいる。

これから青梅署寮の自室で馨の日記を読みたい、すこし気になる事がある。
それから光一に頼んでおいた「調べごと」の結果を訊いて、考えをまとめたい。
明日の朝になったら吉村医師の手伝いをして、いくつか質問もしたい。
そのあと御岳駐在所のパソコンで、光一と探りたいことがある。

―俺は、間に合うのだろうか?

ふっと心よぎる不安が翳を挿す。
もう初任総合は3週間が終わった、本配属まで時間は1ヶ月と2週間。
それから周太の異動まで、一体どれだけ時間が残されているのだろう?

そして自分は、どこまで周太のトレースについていける?

はたり、

涙が、プラットフォームに墜ちた。
コンクリート零れた黒い染みに、一滴、また一滴、涙が墜ちていく。
これは自分の涙?そう気づいた途端に嗚咽が咽喉を突きあげた。

「…っぐ、」

本当は今、毎日が泣きたい。

周太の隣で過ごす日々は幸せで、けれど幸せな一瞬が訪れるたび「異動」が近づく。
たとえ周太が異動しても行ける異動先までは必ず付いていく、少しでも離れたくない。
それでも一度は、一定の期間は、必ず引き離されてしまう時がやってくる。

その瞬間までに自分は出来る限りの手駒を揃えたい、離される間も周太を護ることが出来るように。
どんなに引き離されても「離れていても必ず守る」と約束した通り、自分は周太を護りぬく。
そう何度も覚悟して、けれど本当は不安で泣きたくて、それでも涙呑みこんでいる。

『異動』その行先は何所へ?

たった二文字に不安と焦燥が胸を灼く、今が幸せな分だけ怖くなる。
いま毎日が、周太の隣が幸せであるほどに、失う恐怖が募りゆく。

もう本当に、攫ってしまえたらいいのに?

「…っ、ぅ…」

叶えてはいけない望みに、涙、止まらない。

ほら、こんなに自分は泣き虫で、本当は弱い。
今の自分は立場も力も幾らか手にし、初任総合を通して同期にも一目置かれだした。
そして警察組織の謎と秘密すらも必要の半分くらいは掴めている、人脈も順調に築けているだろう。
そんな自分を誰もが「強い」と思っている、頼もしいとストイックだと今は賞賛すらされる。
けれど本当は、唯ひとりの人を失うことが怖くて、こんな場所ですら泣いている。

「…っ…ぐ…」

泣き止まないと、寮に帰られない。
こんな姿を誰にも見せられない、泣く理由を知られたくないから。
どうして周太を失う危険があるのか?その理由は秘密でなくては護れない、だからこのまま帰れない。
止まない涙に顔を上げる、その先にベンチが見える。

すこし、座っていこう。
涙が治まるまで、ここに居ればいい。
そんな想いと一緒に英二は、プラットフォームの片隅に座りこんだ。

『ベンチ』

新宿にある奥多摩の森で、いつも周太と座っていたベンチ。
それから川崎の家に映される奥多摩の森に、馨が遺したベンチの陽だまりで周太と寛いで。
そして今、奥多摩の駅にあるベンチに自分は独り、黄昏のなか座りこんでいる。

“いつ「異動」の瞬間が来る?”

このフレーズが頭を廻って、消えない。
あの新宿のベンチに、川崎のベンチに、独り座ることが永遠になったら?
そんな考えたくない痛みが勝手に頭を廻ってしまって、刻まれた心の血が涙に変わる。
消えない傷みに堪えていた涙が押し出されていく、こんなに自分が泣くなんて想わなかった。

いつから自分はこんなに弱い?
どうして恋愛は人を強くする分だけ弱くするのだろう?
どうしてこんなにも独りになることが恐怖になって心脅かす?

「…周太、俺を置いて行かないで…」

願いが呟きになって涙と零れ落ちる。
座りこんで見つめるスーツの膝に、涙の痕が浸食して止まらない。
この涙はきっと尽きることが無い、きっと「いつか」周太を幸せに攫う日まで終わらない。
いったい自分はこの先、何度こうして泣くのだろう?

「…っぅ、」

こぼれだす嗚咽に片膝を抱えて、腕の翳に顔を隠す。
こんなに弱い自分は「異動」の瞬間を、どんな想いで迎えることになるだろう?
いつ訪れるか解らない瞬間が怖い、こんなふうに「明日」が怖いと思ったことは無かった。

「…でも、明日は…君の隣で眠れるから…帰れるから…」

『明日は帰る』

そう言って、1時間とすこし前に笑顔で別れた。
あの言葉が今はある、婚約という名の将来の約束もある、それでも涙は止まない。
あの言葉通りに明日は帰って、そのまま攫って遠くに行けたら良いのに?

けれどそれは出来ない「50年の束縛」は逃げても終わらない。
この「50年の束縛」を周太は知らなくても解かっている、だから父の軌跡を追う道を選んだ。
そして信じるままに潔く立ち、昏い道にも真直ぐ希望を見つめて、父の想いを拾い集めようとしている。
失われたパズルのピースを探すように、父の想いというパズルを解くため、父と同じ束縛の道を周太は自ら選んだ。

―周太、どうしてそんなに潔い?…そんな君が好きだよ、でも…君自身で見つけなかったら意味が無い、そう解るけれど、でも

男としての誇り、唯ひとり父の息子である矜持。
どこまでも誇り高い男として周太は警察官の道を選んだ、誇りの為に幼い日から独り泣いてきた。
どんなに泣いても逃げないで周太はここまで来た、そんな努力と誇りの道を曲げることなんか出来やしない。
本当は草花を樹木を慈しむ掌、それなのに、本当は嫌いな拳銃を握りしめても真直ぐ父の想いを見つめている。
こんなにも真直ぐ誇りに佇む人を、どうして止めることが出来る?

―止められないって解ってる、でも、どうして?

どうして自分が愛するひとは、こんな運命にいるのだろう?

どうして自分はもっと賢明じゃない?
もっと力があったなら、もっと運命は違うかも知れないのに?
愛するひとの運命を、もっと危険に晒さずに済むかもしれないのに?
こんなふうに「明日」に怯えて泣く自分が悔しい、どうしたら自分は愛するひとを一瞬でも早く救えるだろう?
どうしたら自分は必ず間に合って、救うことが出来る?

「…っん…ぅ、」

涙、止まらない。
俯いて腕と膝に埋めたままの頭に、黄昏が強く照りつける。
その光が足元を黄金に染めていくのが、俯けた瞳にも膝の向うに見える。
アナウンスと喧騒が降りるプラットフォーム、固いコンクリートすら透明な光染まって黄昏まばゆい。
こぼれていく涙の染みをも照らしだす光のいろに、ふっと英二は微笑んだ。

「…きれいだ、」

ここは透明な光ふる場所、緑薫らす山風が吹きよせる時間。
この奥多摩の透明な光のなかに、愛するひとを永遠に攫ってしまいたい。
愛する山の世界に今すぐ連れ去って、この腕のなかに隠せてしまえたら良いのに?

―でも、出来ない…

心こぼれた想いに、涙が墜ちた。

努力だけでは曲げられない、それが運命なのかもしれない。
けれど諦めることなんか出来る訳が無い、こんな自分は諦めが悪くて欲しいものは掴んで離さない。
それでも、この願いだけは、恋し愛する人のことだけは、どんなに掴んでも一度は離されると解かっている。
運命の顔をした「50年の束縛」が無理矢理に掌を押し開いて、愛するひとを一度は攫って行ってしまう。
この願いだけが欲しくて叶えたくて、自分はここに居るのに?

「なに、やってんのさ?」

不意に、透明なテノールが頭上で笑った。

「こんなとこで立ち止まってんじゃないよ、ほら、行くよ?」

ふわり花のような香が頬撫でて、泣いている腕がやわらかに掴まれる。
そのまま引き上げられ立ち上がる、その隣から底抜けに明るい目が笑ってのぞきこんだ。

「泣いてるとこも別嬪だね、俺のアンザイレンパートナーはさ?眼福だよ、ア・ダ・ム、」
「…光一、」

呼びかけた名前に、制服姿のままの光一が笑ってくれる。
掴まれた腕を引っ張られて階段を昇る、そして洗面室に連れこんで白い手は蛇口の栓を開いた。

「ほら、顔、洗って?そのまんまじゃ、帰れないだろ?」
「うん、」

素直に頷いた英二に微笑んで、白い手を伸ばすと鞄を預ってくれる。
気遣いに感謝しながら英二は、ざぶり顔を水で洗った。
顔ふれていく冷たさに「帰ってきた」と実感ふれる、府中もこんなには水が冷たくは無い。
掌と顔に流れる涙と冷水、皮膚の細胞から冷たく引き締められる、心に冷静が戻りだす。

―泣いている暇なんか、無い

クリアになった心が笑って、英二は蛇口を閉じた。
ざあっと水が閉じられて、雫が顔から洗面ボウルに滴り落ちる。
いま見つめる雫にはもう、涙はない。

「はい、」

白い手が綺麗なハンカチを差し出してくれる。
端正な折目に微笑んで、英二は素直に受け取った。

「ありがとう、」

きちんと顔を拭って、視線を上げる。
そして見た鏡の中から、真直ぐな赤い目が見つめ返していた。
哀しむよう怒るよう赤い目、けれど瞳の冷静は穏やかに勁い。
これなら大丈夫、ふっと微笑んだ英二に透明なテノールが笑ってくれた。

「よし、落着いたね?じゃ、帰るよ、」

隣から笑いかけながら、白い手がハンカチを取ってくれた。
振向いた先、底抜けに明るい目は温かに笑んで、改札へと歩き出してくれる。
並んで歩き出すと、英二は隣に笑いかけた。

「よく居場所、解かったな?」
「そりゃね、」

文学青年のような秀麗な貌に、底抜けに明るい笑顔が咲いてくれる。
この笑顔が今も、独り沈みかけた自分を探しに来て救ってくれた、それが嬉しい。
嬉しいまま微笑んだ英二の額を、とん、と白い指で小突いて光一は笑った。

「こんな時間になっても寮に帰っていないなんてね、おまえの場合、駅でボケッとしている以外にないだろ、」

言われて左手のクライマーウォッチを見ると、18時半を過ぎていた。
見つめた時の経過に、この時計を贈った俤を見つめながら英二は微笑んだ。

「俺、1時間も座ってたんだな、」
「そういうコト。寄り道禁止、って言っとけば良かったかね?」

笑いながら改札を抜け、コンコースから通りへ降りて行く。
見上げた空はもう、紺青色の夜が降り始めていた。見回すと稜線も闇に沈みだしていく。
訪れる夜に「明日」が胸を刺す、それでも英二は笑って自分のアンザイレンパートナーに提案した。

「晩飯、外に行かない?」
「うん、いいよ。なに食いたい?」

からり笑って答えてくれる。
その笑顔が制服姿のままなことに、すぐに気付いて駆けつけてくれたと解かってしまう。
涙に囚われ絶望に沈みかけた自分を、この笑顔が探し出し救ってくれた。素直な感謝に英二は微笑んだ。

「光一が食いたい物が食いたい、」

答えに、すこし細い目が大きくなる。
けれどすぐに笑って、テノールが答えた。

「じゃ、ちょっと外出許可を書いてよね?」
「うん、行き先はどこ?」

すこし遠くに行く、そんな意味の言葉に英二は尋ねた。
尋ねられて、底抜けに明るい目は悪戯っ子に微笑んだ。

「富士山、」



山中湖に着いたのは20時を過ぎていた。
富士山頂から吹きおろす風は湖面を渡り、雪の冷厳のまま冷やり頬撫でる。
湖岸に停めた四駆の傍、最高峰を眺めながら手を動かして、携帯コンロの鍋へと買ってきた材料を入れていく。
いつも山でするよう白い手は迷わない、鮮やかな手並みの隣で英二はノンアルコールビールをクーラーバッグから出した。

「酒は帰ってからな?研修中だから俺は飲めないけど、ごめんな、」
「飲めないヤツの前で呑むのも、楽しいかもね?」

明るい素直な笑顔で、光一は頷いてくれる。
こんな素直な笑顔を初めて見たのは、氷雪に鎖された槍ヶ岳の北鎌尾根だった。
そして笑顔と同時に涙を見た、あのとき自分は生まれて初めて「慟哭」に立ち会った。
心から求め合った相手を喪ったなら、あんなふうに人は泣く。その姿に哀切が自分を切り裂いた。

周太が「異動」する瞬間は、あんなふうに自分も泣く?

そんな考えが心翳して、軽く頭をふる。
どう泣くのかなんて、その瞬間になれば解かること。今から哀しんでも仕方ない、微笑んで英二は缶を光一に手渡した。

「はい、乾杯、」

軽く缶をぶつけ合って、口をつける。
ひと息に半分ほど飲干して、からり光一が笑った。

「うん、ノンアルコールでもね、やっぱ最高峰を間近に見ながらって、旨いよね、」
「これが光一が食いたかった物なんだ?」
「そ、旨いだろ?」

嬉しそうに笑って缶にまた口付けている。
ひとくち英二も飲みこんで、冷たい泡が咽喉を降りて行くのを感じながら缶を傍らに置いた。
そしてミリタリージャケットのポケットに掌を入れて、小さな箱包みを取出した。

「はい、光一、」

笑いかけて箱包みを白い手に渡す。
シックな包装にかけられたリボンに、笑って光一は首傾げこんだ。

「くれるワケ?でも、なんで?」

どうしてだろう?
そう目で訊きながら嬉しそうに笑ってくれる、その笑顔に英二は綺麗に笑った。

「誕生日プレゼントだよ。10日遅れたけれど、誕生日おめでとう、光一、」

言葉に、底抜けに明るい目が大きくなる。

「10日遅れだけど、誕生日プレゼント、なんだ?」
「うん。この間の日曜、学校に戻る前に新宿に行って、周太と見つけてきたんだ。遅くなって、ごめん、」

本当は先週の土曜に贈りたかった。
けれどその前の日曜は姉と関根との約束があって、買物の時間が無かった。
遅くなった分、寂しい想いをさせてしまったかもしれない。そんな心配と見つめた隣で、底抜けに明るい目が笑ってくれた。

「開けてみてイイ?」
「もちろん、」

笑って答えると、嬉しそうに白い手はリボンをほどいた。
器用な白い手は素早く丁寧に包みを解いていく、そしてLEDランプにかざして箱を開いた。
その箱の中身に、透明な目が止まった。

「…これ、」

テノールが一瞬止まる。
ひとつ呼吸して、透明な目で真直ぐ英二を見ると光一は口を開いた。

「これ『MANASLU』だろ?…それも、最高モデルのヤツ、」

CASIO・PROTREK『MANASLU』PRX7000T
世界最高峰ヒマラヤの登頂を視野に入れて作られた、クライマーウォッチの最高峰。
8,000m峰の全14座登頂クライマーの意見から生まれたトップクライマー仕様の腕時計。

「うん、『MANASLU』だよ、」
「これ…もしかして、おまえが選んだ?」

素直に頷いた英二に、透明な視線と声が尋ねる。
受けとめて、英二は正直な答えに笑いかけた。

「うん、俺が選んだ。光一に最初にプレゼントするなら、これを贈りたかったんだ」

Manaslu標高8,163m マナスル。
ヒマラヤ山脈に属すネパールの高峰、8,000m峰第8座。
山名はサンスクリット語で「精霊の山」を意味する「Manasa」、1956年に初登頂を日本隊が達成した。
このマナスルが日本人が初登頂を果たした8,000m峰の唯一の山になる。

「最高峰のクライマーウォッチは、最高峰の男に相応しいだろ?それに『Manaslu』だから、光一には一番似合うって想った。
光一は8日生まれでマナスルは8,000峰第8座だ、それにマナスルは8,000m峰の初登頂を日本人が掴んだ、唯一の山だろ?そして、」

光一は5月8日の日中南時、東京最高峰の雲取山頂に生まれた。
夏の初め8番目の日に生まれた光一が、首都の天辺から最初に見つめたのは母国最高峰の富士山だった。
こんなふうに光一は最高峰と「8」に縁が深い、だから8,000峰第8座マナスルは相応しいと想った。

そして何よりもマナスルは、光一の両親がアンザイレンのまま眠りについた山だから。

「そして、ご両親が眠られた山で、光一が最高のクライマーになる決心をした山だ。光一の運命の山だから、俺は『MANASLU』を選んだ」
「…運命の山、」

融けるような呟きに英二を見つめ、無垢な瞳は白い手の箱を見た。
LEDランプに輝くサファイアガラスに瞳が映りこむ、それを透明な眼差しは見つめている。

『Manaslu』

11年前の4月、光一が決意と覚悟と、自分の運命を独り見つめた山。
まだ光一は13歳になる前だった、それでも祖父に付添われネパールまで両親を迎えに行き、両親が遺した夢と遺骨を抱いて帰国した。
そして葬式の日に血縁の矛盾に対峙する哀切のなか、両親の誇りを護ることに自分の夢を重ねて、運命を決めた。

―…おやじとおふくろは、誇り高い山ヤだ。それを、否定されたことが悔しかった…俺の宝物を、山を、あいつら…赦せないんだよ
 だから俺、あいつら見返してやりたくてさ、…だから、警視庁にも任官したんだ。警視庁のトップクライマーになったら、えばれる
 それで、世界ファイナリストになって、最高峰に立ってさ?あいつらに、頭下げさせてやりたい、そんな動機もあるんだよ、俺は…
 おやじとおふくろに貰った能力でね、あいつらを見返して、山のこと認めさせたいんだよ。あいつら、後悔させてやりたくって、さ

まだ中学1年生の光一は本当は苦しんだ、それでも運命は峻厳の姿に聳え立った。
国内ファイナリストだった両親の誇りと夢、それを自分が抱いている夢と共に背負い、蒼穹の点を超えていく。
この道程には最初のザイルパートナーである雅樹の魂をアンザイレンに繋ぎ、遺志を叶えていく。
そんな運命の全てを、第8座マナスルの氷雪に光一は見つめている。

「…俺の運命の山…俺に一番似合う、ほんとにそう思う?」

囁くよう透明な声の問いかけが、最高峰の風に融けていく。
どこか不思議なトーン、ふっと惹きこまれながらも英二は綺麗に笑った。

「うん、想うよ、」

答えながら、光一の白い手首からクライマーウォッチを外す。
そして小さな箱から『MANASLU』を手に取ると、英二は『血の契』の相手に微笑んだ。

「光一、時計を贈る意味って、知ってる?」
「意味?」

なんだろう?
首傾げこんで透明な目が問いかける、その目に英二は正直なまま微笑んだ。

「『俺の傍にいて』って意味だよ。だから恋人に贈ったり、結納の贈り物にもする。時計は記憶を刻むし、いつも身に付けるから」

この意味と贈る理由、解かってくれるかな?
そんな思いと見つめた先から、透明なテノールが問いかけた。

「そういう意味で、周太と選んで、贈ってくれるワケ?」
「うん、光一には傍にいて欲しいから。俺も周太も、」

素直に答えて笑いかけた先、透明な目が静かに微笑んだ。

「ふたりとも、俺は最高峰の男で『MANASLU』…マナスルに相応しい、って想ってくれるんだね?俺に、傍にいて欲しいんだね?」
「そうだよ、だから選んだ。光一は俺の『血の契』で唯一のアンザイレンパートナーだから」

即答して英二は微笑んだ。
微笑んで見つめた雪白の頬に、ひとすじ光がこぼれて微笑が広がった。

「じゃあさ?俺がマナスルに登頂する時は、おまえが必ずアンザイレンしてくれるね?…この約束は、絶対に守るってことだね?」

どうかお願い、「Yes」を聴かせてよ?

真直ぐに約束と成就を望む眼差しが英二を見抜く。
どこまでも透明な山っ子の瞳に、正直に英二は頷いた。

「マナスルは必ず一緒に登りたい。何があっても、俺が光一のアンザイレンパートナーを務める。専属レスキューとしてね、」

この約束は、これだけは、必ず果たさないといけない。
たとえ周太の為に命懸けるのだとしても、『Manaslu』だけは共に登らなくてはいけない。
光一のマナスル登頂は、光一の両親の慰霊登山なのだから。

「絶対の約束だね?…最優先事項にしてくれるね?」

透明なテノールが念を押す。
これに頷いたら自分は、この為に生きることになる。
それは周太に誓う約束への裏切りになるかもしれない、けれど山ヤならこの約束を断ることは出来ない。
山ヤとして偉大な先輩、そして自分のザイルパートナーの両親、その慰霊登山を断ったら山ヤと言えない。

自分こそが周太の運命の相手、生涯の伴侶でいたい。
けれどそれ以前に自分が自分で無くなったら、愛される資格は無い。
人は自分が「自分」であるからこそ引力が生まれて、愛し合えるのだろうから。
そして自分が「自分」であるベースは何者であることか?その問いかけに正直なまま、英二は綺麗に笑った。

「最優先だよ、俺は山ヤだから。パートナーの慰霊登山には必ず一緒に行く、ご両親は俺にとっても尊敬する先輩だから」

自分は「山ヤ」
山に生きることが、きっと最初から定まっている。
肚に落ちる納得と微笑んだ瞬間、ふっと頬の傷痕に熱を感じたのは、気のせいだろうか?
そんな想い佇んで見つめる真中で、底抜けに明るい目が幸せに笑ってくれた。

「うん、ありがと。おまえはね、きっと最高の山ヤになるよ、」

心からの喜びと言祝ぎに明るんだ無垢の瞳がまばゆい。
惹きこまれるよう眼差しが英二を見つめ、すこし羞んだ笑顔になって光一は訊いてくれた。

「でさ…おまえが最初に、嵌めてくれるワケ?」

答えは「Yes」だよね?
そう笑ってくれる笑顔に英二は綺麗に笑った。

「光一が嫌じゃなかったらね、『お初』は俺が戴きたいよ?」
「なんか、おまえが言うとマジエロいね?」

言いながら光一は、左手首を差し出してくれる。
夜目にも雪白まばゆい手首に、英二は手にしたクライマーウォッチを嵌めこんだ。

「あれ?バンドもピッタリだね、よく俺の手首の太さ、解かったね?」

不思議そうに言いながらも、光一は嬉しげに笑った。
この不思議は簡単な理由、さらり英二は笑って正直に答えた。

「ほら、御岳の家でキスした時、光一の手首を掴んだろ?それで解かっていたから、」

4月の終わり、光一の実家に泊まったとき。
悪戯心が起きてベッドの上、光一を組み伏せカットソーを捲りあげて、素肌の腰にキスをした。
あのとき掴んだ手首の感覚があざやかに残っている、それで時計のバンド調整が出来た。
そんな正直な答えに、雪白の貌が夜目にも薄紅あざやかに艶めいて微笑んだ。

「マジ、エロ別嬪だよね?でも、覚えていてくれて嬉しいよ。ありがと、…英二、」

気恥ずかしげでも幸せそうに笑って、光一は富士山を見た。
その視界に左手首をかざし見る、そして透明なテノールは謳うよう笑った。

「最高峰の竜の爪痕を持つ男と、竜の涙のひとが願いをこめて、最高峰の時計で山っ子の誕生を言祝いだね?これで決まりだね、」

ざあっ、

言葉の背後の森から風が吹きつける。
美しい旋律の声が、湖を渡る風に融けて最高峰へと吹上げていく、風に黒髪が靡き乱される。
山っ子の言葉に呼応するよう、風は起きて夜を蒼穹の点へと駆け抜けた。



(to be continued)

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第49話 夏橘act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2012-07-06 21:58:41 | 陽はまた昇るanother,side story
ふるさとの俤、秘密



第49話 夏橘act.1―another,side story「陽はまた昇る」

温かい湯に浸かって周太は、ほっと微笑んだ。
誰も入っていない浴槽は広くて、一番風呂はやっぱり気持ち良い。
静かな脱衣所の扉は開く気配が無く、ただシャワーの音が一基分だけ響いている。
今日はトレーニングルームが遅くなってから混みだした、だから皆まだ風呂には来ない。

「ほら周太?みんな今ごろ来たからさ、きっと一番風呂が独り占め出来るよ?」

そう英二に急かされ連れてこられて、本当に今日は一番風呂になった。
お蔭で今、湯に浸かっている自分と洗い場にいる英二の他は誰もいない。
ほんとうに英二の読み通りだったな?感心しながらも周太は湯のなかで少し困った。

…気持ち良いけど、ちょっと緊張しちゃうな?

ふたりきりで風呂に入るのは1ヶ月ぶり位だろうか?久しぶりの事に、さっきも洗い場で本当は緊張していた。
いつもどおり奥まった洗い場に座ると、英二は楽しそうに周太の髪を洗ってくれた。
いつもどおり気持ち良くて嬉しかった、けれど濯いでもらって目を開けた瞬間に真赤になってしまった。

…だってえいじったらきれいなんだから…またきれいになってるしこまるなんだか

濡れた髪の向うに見た裸身が、あんまり綺麗で困ってしまった。
端正な筋肉が象る白皙の体は、湯の熱りに桜いろ艶やかで惹きこまれそう。
惹きこまれて体の芯から「どきどき」する、そんな自分の変調に夜の兆しを感じて、心臓がひっくり返った。
それで急いで体を洗うと先に湯槽へ浸かりこんだ、あのまま見ていると困ったことになりそうだったから。
ほっと温かい湯のなか、困りながら掌で頬を叩いて周太は首傾げこんだ。

…俺だって男だから、えっちなきぶんにだってなるしなったらこまるんだから

そして本当に困っている自分はちょっとえっちだ。

もう顔が赤くなってしまいそう、もう先に出ちゃおうかな?
でも、そんなことしたらきっと、英二は落ちこんでしまうに決まっている。
困ったな、どうしよう?そんなことを考えている隣から、不意に長い腕に抱きよせられた。

「周太、風呂で2人きり、って久しぶりだね?」

幸せな笑顔が湯気のなか、心から嬉しそうに笑っている。
いつの間に湯槽に入ってきたのだろう?この笑顔は大好きだけど、今は抱きつかれたら困る。

「だめっ、えいじ。こんな公衆のばしょでいけませんっ、」

長い腕を押し退けて周太は婚約者の懐から逃れた。
けれど綺麗な腕はまた伸びて、小柄な体を後ろから抱きこんだ。

「いま誰もいないよ?ね、周太。ちょっとだけ、」

いまはちょっとだめでしょうこまっちゃうんだけど?

綺麗な低い声が耳元に囁くのも困る、気恥ずかしくて熱が一挙に昇ってしまう。
こんな裸で抱きしめられて困る、本当に困った事になりかけて周太は、なんとか逃げようともがいた。

「だめだってばえいじっ、誰かくるかもしれないでしょ?はなして、」
「大丈夫、俺、耳すごく良いの知ってるだろ?音がしたらすぐ離れるし、たぶん見られても平気だよ?」
「なにいってるのみられたらこまるでしょ?はなれて、だめっ、ほんといまだめっ」
「救助の練習って言うよ、俺。低体温の人をお湯で温めるとか…あ、周太?」

気付かれた?

そんなトーンの声と切長い目の視線に心臓ひっくり返る。
どうしよう?顔が真赤になってしまう、本当に困った事になってしまったから。
けれど綺麗な低い声は、心底うれしそうに笑いかけてくれた。

「ね、周太?俺の裸を見て、こうなっちゃってるの?」

なんにも言葉が出てこない。
こんなこと初めて、どうしよう?こんな時ってどうしたら良いの?
こんな初めてに途惑っているのに、桜いろの長い腕は楽しげに抱きしめて綺麗な声が囁いてくる。

「周太も男なんだね、こんなふうになるなんて…そこも周太も、すごく可愛い。そんなに俺の裸で、どきどきしてくれるの?」

当たり前です好きなんだから馬鹿。

そんな台詞がうかぶけれど恥ずかしくて、なんだか悔しくて言えない。
どうしよう?困惑が目の奥に熱く昇ってしまう、けれど周太は思い切って恋人をふり向いた。

「…奴隷のくせになまいきです、もういっしょにおふろはいらない、こんなはずかしいおもいするのもう嫌だからお断りします、」

恥ずかしくて泣きそう、でも風呂だから涙か雫か解らないよね?
そんなこと考えながら睨みつけた先、綺麗な笑顔が呆気にとられた。

「…怒ってるの、周太?」

ほら、こんなふうに正直に反応してくれる?
思いながら無言でそっぽ向くと、回りこんで顔をのぞきこんでくれた。

「ね、周太?無視しないで、怒らせてごめん、」

ほんとうに困った、そんな顔も英二は綺麗で見惚れてしまいそう。
こんなに困ってくれるのが嬉しい、そんな気持ち隠して知らんぷりに拗ねていると、白皙の顔は悄気てしまった。

「…周太、土曜の夜は俺も家に帰るだろ?久しぶりに風呂、一緒に入れるかなって楽しみにしてたのに…」

こんな貌されると弱いかも?
そう思うのについ、そっぽ向いて周太は生意気な口調で言った。

「久しぶりじゃないでしょ?ここでもう2週間以上も毎日一緒です、」

答えた言葉に端正な顔が、すこし元気になってくれる。
けれど困った声のまま英二は、懇願を始めてくれた。

「でも2人きりじゃないし、急いで出ちゃうだろ?ゆっくり支度も出来ないから、ベッドだって我慢してるのに」
「…っえっち、そんなこというなんてえっちへんたいちかんですあっちいって」
「そんなこと言わないで、周太?ね、俺、土曜日すごく楽しみなんだから、怒らないで?」

自分だって土曜日は、ずっと楽しみにしている。
それと同じように楽しみにしてくれている?それなら嬉しいな?
そんな気持と一緒に振向くと、きれいな切長い目が泣きそうに見てくれていた。

…あ、泣いちゃう、

心こぼれた想いに、素直に周太は微笑んだ。

「土曜日、なに食べたい?ごはん支度して待ってるね、英二、」

英二の食事を作ることは久しぶり、ちょっと頑張りたいな?
なにが食べたいって言ってくれるかな?そう見つめて笑いかけた先、幸せな笑顔がほころんだ。

「周太が作ってくれるなら、なんでも旨いよ?」

こんな貌で言われたら、なんでも作ってあげたくなる。
嬉しくて笑いかけながら、ふっと心に想いがさした。

…こういう貌、光一にもするのかな?

どうなのだろう?
こういう幸せに寛ぐ瞬間を、ふたりで見ているの?

そうだったら、やっぱり少し寂しい、けれど安心出来る。
いつも幸せに笑っていて欲しいから、この笑顔が好きだから、どうか笑っていて?
かすかな痛みと柔かな安堵を見つめながら、きれいに周太は微笑んだ。

「ん、ありがとう。でもリクエスト貰える方が、うれしいよ?和とか洋とか…なにかある?」
「じゃあ和食かな、あ、あれ食べたいな?海老のロールキャベツだっけ?あと、卵が半熟の角煮、」

うれしそうに前も作った献立を言ってくれる。
この笑顔に見つけられる幸せが温かい、温もりに微笑んで周太は頷いた。

「ん、作ってあげる…英二、土曜は朝、早くここを出るんでしょ?」
「うん、そのことなんだけど、」

すこし困ったよう端正な顔が首傾げ見つめてくれる。
どうしたのかな?そう笑いかけると、すこし安心したよう英二は口を開いてくれた。

「明日の夜には俺、青梅署に帰ろうって思うんだ。さっき事例研究の時間に思いついたばかりだから、申請はまだなんだけど、」

今日の事例研究の授業で、英二は吉村医師と立会った現場の話をしてくれた。
あの話題から思いついたことなのだろうな?素直に頷いて周太は微笑んだ。

「ん、吉村先生、お忙しいよね?お手伝いに、帰ってあげて、」
「解かるんだ、周太?」

切長い目を少し大きくして、驚いたよう嬉しそうに訊いてくれる。
初夏の登山シーズンを迎える土曜だから山ヤの医師は忙しい、そんな推測が当たったことが英二の顔で解かる。
こんなふうに英二の都合が理解できたことが嬉しい。なにより、こんな貌をしてくれるの嬉しい。
嬉しいままに周太は笑いかけた。

「ん、英二のことだから…夫のことわからないと、こまるでしょ?」

言って、気恥ずかしい。
気恥ずかしさに熱がまた昇ってきてしまう、このまま逆上せたら困るな?
羞みながら周太は大好きな婚約者に、笑顔で提案をした。

「そろそろ出よう?夕飯の時間の前に、授業のおさらいしたい、」
「うん、いいよ?でも周太、1分待ってくれる?」

切長い目が困ったよう笑って、湯のなかに視線を落とす。
どうしたのかな?素直に視線を追いかけて、見てしまったことに顔が赤くなった。

「あの、英二?どうしてその、えいじそうなってるの?」
「周太が恥ずかしそうに『夫』って言うとこ、可愛くって、ついね?」

悪びれない綺麗な笑顔が笑っている。
こういうオープンな雰囲気も英二は男らしくて、かっこいいなと思ってしまう。
自分もこんなふうに堂々と出来たら良いのかな?そんな想いを周太は口にした。

「こういうことも堂々としてるの、かっこいいね?俺もそう出来たら、男らしくて良いかな」
「周太はそのままが良いよ?」

即答で笑いかけてくれると、すっと英二は湯から立ち上がった。
思わず目を逸らしながら周太も湯から上がって、白皙の背中を見あげ尋ねた。

「このままが良いの?でも、堂々としてる方がかっこいいと思うけど、」
「そうばっかりでもないよ、」

答えながら脱衣所の扉を開いてくれる。
涼しい空気にほっと息吐いた隣から、きれいな低い声が言ってくれた。

「周太は可愛いのが自然体だろ?ありのまま、って一番かっこいいよ、」

ありのままが一番。

そんなふうに言われたら、やっぱり嬉しい。
小さい頃「男なのに変」と言われていたコンプレックスが自分にはあるから。
けれど英二と出逢ってからは、こんな自分でも好きになって貰えることが増えている。
こんな自分でも良いのかな?そう認められることは呼吸が楽になる。

「ほんとに、このままでも良いの?」
「うん、このままの周太が好きだよ、ツンデレ女王さまで、可愛くて、頭が良くて凛としてて、」

話しながらバスタオルでくるんでくれる。
こんなふうに構ってもらえることが嬉しい、そして少し不安にもなる。
こんなふうに傍に居れなくなった時、どれだけ寂しいのか不安を感じてしまう。
それでも今この時間を受けとっていたい、今この与えられる幸せに周太は微笑んだ。

…今の言葉も想いも、ずっと覚えていよう

もう何度も思って、そのたびに勇気ひとつ覚悟と見つめる想い。
こんな時が重なって自分を支えてくれる、そう信じている。
そんな想いとジャージのパンツを履いた時、Tシャツが頭から被された。

「はい、着て?」
「…え、あ、」

途惑っている裡に長い指の手がTシャツを着せて、頭からバスタオルでくるまれた。
急にどうしたのかな?すこし驚いて見上げると英二も素早くTシャツとジャージを着こんだ。
その向こう側、廊下への扉が開いて内山が関根と入ってきた。

「あ、もう風呂が終わったんだ?早いな、」

さわやかな笑顔で内山が訊いてくれる。
その隣で関根が英二の顔を見、周太に笑いかけてくれた。

「ごめんな、すこし急がせただろ?」
「あ、…ん?」

なんで急がせたのだろう?関根には状況が解かるのかな?
よく解らないまま生返事していると、長い指が右掌を絡めてひいてくれた。

「大丈夫だよ、ちょうど俺たち出るところだから。じゃ、また後でな、」

きれいに笑いかけて、英二は周太の手を曳いて廊下へと出た。
こんな手を繋いだまま廊下を歩くのかな?ちょっと心配になって周太は口を開いた。

「あの、手を曳いてくれなくても大丈夫だよ?ちゃんと部屋に戻るから…はずかしいし」
「うん?手を繋ぐの恥ずかしいの、周太?じゃあ、はい、」

きれいな笑顔で英二の洗面道具を周太に渡してくる。
これを持てばいいのかな?素直に持つと長い腕は周太を抱え込んだ。

「はい、抱っこなら良いよな?」

なにいってるのこのひとったら?

「…っ、もっとだめです!」

言葉で抵抗しても降りられない。
どうしよう?困り始めたとき松岡と上野に鉢合わせた。

「お?」

ふたりの目が抱きあげる英二の腕を見る。
その視線に周太は俯いてしまった。

…この状況、どう説明するわけ?

あまりのことに頭が真白、これってどうするの?

「へえ、宮田、風呂の後もトレーニングするんだあ?すげえな、」

のんびりと、気の良い声が笑った。
声の方を見ると上野がいつもの笑顔で笑っている。
その笑顔に、きれいな低い声が楽しげに答えた。

「うん、要救助者の運搬中ってとこ、」

声に見上げると、きれいな笑顔は屈託なく楽しげに咲いている。
これが普通だよ?そんな堂々とした顔に松岡も感心げに尋ねた。

「この運び方で下山することもあるのか?」
「胸とかを怪我している時はね。背負うと圧迫しちゃうだろ?バスケット担架とか使えるなら、そっち使うけど、」
「なるほどな、これで下山ってキツイだろ?」
「うん、だからトレーニングするんだよ、」

…そういう解釈なんだ、

真白な頭に聴こえる会話に感心するうち、ふたりは「またな、」と浴室へ行ってしまった。

「ほらね、周太?堂々としてれば、問題ないだろ?」

綺麗な低い声が嬉しそうに言って、部屋の扉を開いてくれる。
抱えられたまま英二の個室に入ると、そっとベッドの上に座らせてくれた。
たしかに問題は無かった、そう素直に頷きながらも周太は質問をした。

「ん、そうだね…でも英二?どうして関根は『急がせた』なんて言ったのかな?」

英二も急いでTシャツを着せてくれたりしたけれど、なんでかな?
まだ被せられたままのバスタオルの翳から見上げると、英二は笑って答えてくれた。

「周太の裸を、俺が急いで隠すからだよ?そのあたり、関根は察してくれたんだと思うけど、」

そういうの、意識すると余計に恥ずかしいのに?
そう思ったけれど何も言えなくて、周太はバスタオルをすっぽり被りこんだ。



金曜日の授業が終わると、スーツ姿の英二と校門まで制服姿で散歩した。
初任教養の頃より長めになった髪には、フォーマルな格好が大人っぽく馴染んでいる。
やっぱり素敵だな?心裡に照れながら一緒に歩いて、門のところまで来てしまった。

「じゃあ周太、明日は8時までには帰れるようにするから。また連絡する、」
「ん、待ってるね?あ、」

答えながら視線の先に周太は首を傾げた。
その視線を英二も追いかけてくれる、そして切長い目が微笑んだ。

「周太、あれって夏みかん?」

通りの向う、黄金の実をゆらす常緑樹が壁から覗いている。
その懐かしい佇まいに周太は頷いた。

「ん、そう…きっと家のは、花も咲いてると思うよ?」
「夏みかんの花か、俺、初めて見るよ?」

楽しそうに笑いかけてくれる笑顔が眩しい。
こんなふうに想うのは、やっぱり好きだからだろうな?
そんな幸せな気恥ずかしさに微笑んだ周太に、きれいな低い声は言ってくれた。

「じゃあ周太、行ってきます。明日、帰るからね?」

行ってきます、明日、帰る。
ありふれた言葉なのに、こんなに幸せにしてくれる。そして心から祈ってしまう。
どうか無事に帰ってきて?心に願い祈りながら、周太は綺麗に笑って頷いた。

「ん、行ってらっしゃい、気を付けてね?」

見送る背中が、遠ざかっていく。
こういうのは切なくなる、けれど「明日帰る」が心を支えてくれる。
こんな切ない想いに願ってしまう、祈ってしまう。

俺が迎えてあげられなくても、帰る場所を作って?

そのためにも今夜、光一と時を過ごしてきてほしい。
この見送る切なさが英二には少しでも軽いように、英二を支えてくれるパートナーにいて欲しい。
いつか自分は「帰る」と約束できない場所に向かう、それを見送る日、英二がどれだけ哀しむのか?
それが心配で切なくて、光一に祈るよう願ってしまう。

…光一なら、英二を支えてくれるよね?

光一は幼い日、閉籠りがちだった周太の心を開いてくれた。
再会してからは周太の罪まで肩代わりしてしまった、そして幼い日の約束のまま大切にしてくれる。
そんなふうに光一は真直ぐに無垢で信じられる、山ヤとしても警察官としても光一なら英二を支えてくれる。
きっと光一がいるなら大丈夫、信頼に微笑んだとき甲州街道の角から英二は振向いてくれた。

『待っててね、』

口の動きでそう言って、きれいな笑顔を見せてくれる。
きれいに笑って、名残惜しげに見つめて、それから駅の方に角を曲がると広やかな背中は消えた。

「…行っちゃったね、」

ほっとため息に微笑んで、周太は踵を返した。
このまま今日はクラブ活動に行く、華道部で花にふれる時間があるから、良かったかもしれない。
花にふれていると心が明るくなってくれるから。

「湯原くん、」

急に声かけられて顔をあげる、そこには華道部で一緒の女性警官が5人で立っていた。
こんな集団で来られると、ちょっと怖いな?すこし困っていると背の高い女の子が口を開いた。

「ねえ、宮田くん、今日からもう外出なのね?」
「あ、はい…」

素直に頷くと、女の子たちが何か笑い合っている。
いったいなんだろう?困りながらも華道部の部屋の方へ歩き出すと、彼女たちも一緒に歩き出した。

「宮田くん、何の用事で今日からなの?」

歩きながら、さっきの女の子が尋ねてくる。
この子の名前、何だったかな?思い出せないまま周太は首を傾げた。

「所属署での仕事の為ですけど…」
「仕事?ほんとに?」

念押しに聴かれて、すこしだけ肚のなか「むっ」とする。
なんでこんなに訊いてくるのだろう?それも今日だけじゃない。
どうして本人に訊かないの?小さくため息吐いて、立ち止まると周太は正直に言った。

「本当です。あの…どうして俺に訊くんですか?」

初任総合が始まって3週間、こういうの何度めだろう?
華道部の初日からずっと、周太が1人になった隙に何かしら質問されてしまう。そしていつも困らされる。
今日もまた困りながら見た先で、背の高い女の子が少し赤くなった。

「だって、宮田くんと一番一緒にいるの、湯原くんでしょう?だから知ってるって思って、」
「聴きたいなら、本人に訊けばいいと思うけど…どうして訊きに行かないんですか?」

自分に訊かれるのは、本当に困る。
だってこの先の事を訊かれると、また赤くなってしまうから。
それに英二なら真直ぐに答えてくれるのだから、きちんと訊いてみたら良いのに?

「本人に訊くのって、恥ずかしいでしょ?だから湯原くんに訊いてるの。ねえ、宮田くん、付合っている人いる?」

また女の子は訊いてくる。
こういうの本当に困る、心がため息で溺れそうになりながら、それでも周太は答えた。

「こういうのって本人に訊いた方が良いです。俺に訊かれても、困ります、」
「あ、本当は知ってるんでしょ?ねえ、教えて、」

どうしたら質問するのを控えてくれるの?

警察学校内では恋愛禁止の規則があるのに?
こんなに大っぴらにして、彼女たちは大丈夫なのだろうか?
そんな心配をしてしまうけれど、彼女たちは元気いっぱいの好奇心と時めきの渦中にいる。

「ねえ、湯原くんには宮田くん、色々話してるよね?宮田くんがカッコよくなった理由も知ってるんでしょ?」
「そんなこと訊かれても困ります。あの、部活に遅れますよ?」

こんなこと慣れていない、ほんとうに困る。
困りながらも周太はまた歩き始めた、このままだと華道部に遅刻してしまう。
けれど背の高い女の子に制服の袖を掴まれて、止められてしまった。

「お願い、湯原くん。宮田くんに誰かいるのか、いないのかだけでも教えて?」

ここにいます。

心で答えながら周太は、困ったまま彼女の目を見つめた。
きっと彼女は英二が好きなのだろう、でも、こういう遣り方では英二の心は欠片も掴めないのに?
そんな想いに、大好きな友達の俤が心に映りこんでくれた。

…美代さんは、自分で言うものね?かっこいいよね、

美代は恥ずかしがり屋だけれど、きちんと自分の意見を言うことも出来る。
そんな美代は英二に対しても率直で、だからこそ英二も美代を認めて大切にしている。
だから解かる、こういう周りから間合いを詰めるような遣り方は、きっと英二は好まない。
そんなふうに英二は自分から尊敬できる相手じゃないと、本当には親しくならない。

…だから美代さんは、英二にとって特別な女の子なんだよね?

きちんと自分を持っている美代は、本当に素敵だと周太も想う。
だから自分も美代が大好きで、ライバルで親友と認め合えるのがいつも嬉しい。
明日は大学の講義で会えるから、この女の子たちの事も相談したら良いかもしれない?
同じ女の子ならではの解決策を知っているかもしれないし、聡明な美代は良いアドバイスをくれるだろう。

でも、今、この状況をどうしよう?

しっかり掴まれた制服の袖を、振り払うことくらいは出来るだろう。
けれどそうしたら、この女の子は傷つくかもしれない。でも急がないと華道部に遅刻してしまう。
いつも華道の時間は楽しみにしているのに、こんなふうに足止めされるのは困ってしまう。
どうしよう?途方に暮れかけたとき、からり明るい声が、ポンと肩を叩いてくれた。

「湯原、こんなとこで何やってんの?」
「あ、藤岡、」

振向いた先の笑顔に、ほっと周太は笑った。
人の好い笑顔はすぐに周太の袖に気がついて、女の子に笑いかけた。

「ちょっと失礼、ごめんな、」

笑いながら軽く彼女の手首を指1本で押すと、いとも簡単に周太の袖から外してくれた。
これは関節技なのかな?驚いてみているうちに、がっしり藤岡は周太の腕を掴んだ。

「ほら、行くよ?じゃ、皆さん、お先に、」

からり笑って、藤岡は周太の腕を掴んだまま走りだした。
並んで一緒に走りながら周太は、この人の好い同期に微笑んだ。

「ありがとう、助けてくれて、」
「だって湯原がいないとさ、俺が華道部で困っちゃうだろ?センス無いのバレバレで、」

答えてくれる内容が嬉しくなる。
こんなふうに藤岡はからっとした優しさが温かい。
部室の近くまで来て足を緩めながら、周太は笑いかけた。

「俺こそ今日、藤岡が居なかったら困ったよ?」
「そうだな?湯原1人だったら、部活の時まで囲まれちゃいそうだよな?ほんと宮田、モテるよなあ、」

廊下を歩きながら可笑しそうに笑ってくれる。
本当に英二はモテる、初任総合になってから特に。
それも当然だろうと思う、英二は卒業配置の期間で大きく成長したから。

山岳救助隊の厳しい現場に鍛錬された分だけ、英二の内面も外面も輝いた。
山ヤの警察官らしい実直さが穏やかに優しくて、精悍な体躯と表情は男らしい魅力が凛々しい。
端正な顔立ちも、山の峻厳を見つめた心映す翳が大人びて、男の艶が華やかな顔を奥深くしている。
そんな英二に見惚れる人が多いことは、よく知っている。いつも一緒に山を街中を歩くとき視線が集中するから。
そんな英二はバレンタインの時も青梅署で「新記録」を作っていた。

…だから、ここでもモテるの、納得なんだけど、ね?

それが、こんなに自分が困ることになるなんて?
婚約者が素敵になるのは素直に嬉しい、けれど自分がこんなに困ることになるのは予想外。
このまま研修中は困るのかな?そんな心配に困る原因の俤に、ふと周太は思い出したことを藤岡に尋ねた。

「昨日の事例研究の時、英二から聴いたんだけど。被害者の方の傍に本が落ちていた事件、藤岡も知ってるよね?」
「あ、その事件な?うん、知ってるよ、」

気さくに笑って頷くと、藤岡は口を開いた。

「あれって宮田が本を見つけたんだよ、あの本が捜査の切欠になったらしいな、」

…英二が見つけた?

そのことは授業の時は言っていなかった。
英二の事だから、手柄自慢になるのが嫌で言わなかったのかな?
そんな婚約者の心理を考えながら周太は訊いてみた。

「その本と同じのを、吉村先生に借りて読んだって英二が言ってて。藤岡も読んだんだろ?」
「うん、読んだよ。なんかさ、ちょっとマゾっぽかったよ?俺は、ああいう恋愛は無理かなあ、」

マゾってなんだろう?
言葉への疑問に心裡で首傾げこんだ。これも明日、美代か英二に聴いてみようかな?
そんな予定を考えながら周太は話しを続けた。

「でも被害者の人は、そんな感じだったんだよね?」
「そういう見解だな?でも、本当はどうだったんだろう、」
「本当は、って?」

どういう意味だろう?
そう何気なく訊いた周太に、藤岡が教えてくれた。

「あの本って、ページがごっそり抜けていただろ?たぶん本人が切り落としたんだけどさ、その動機がドッチの意味かによるよな、」

ページが抜けていた?

そんな事は英二は話さなかった、なぜ英二は省いたのだろう?
さっきの事例研究には関係ないと思ったのだろうか?不思議に思いながらも周太は、藤岡に訊いてみた。

「動機がどっちの意味、って?」
「うん、被害者の人がさ、そういうマゾっぽい恋愛から脱け出したくて切り落としたのかも、ってことだよ、」
「あ、そうか…でも周りの人には『別れたくない』って言ってたんだよね、」
「そうなんだよなあ?その証言があるから、マゾの恋愛に未練があるから切り落とした、って結論になったんだよね、」

話しながら部室の扉を開いて、並んで席に着いた。
机の上には、空木の純白の花枝がふっさり置かれている。
この花は実家の庭にも咲く、ちょうど今頃が綺麗な頃だろう。明日は見られるだろう花に微笑んだとき、師範の話が始まった。

「今日のお花は空木です。花言葉は秘めた恋、夏の訪れ、古風。それから、秘密。このイメージも大切に活けると素敵ですね、」

『秘密』

この言葉にふっと、ページの抜け落ちた本の記憶が蘇える。




(to be continued)

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第49話 夏閑act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-07-05 23:57:58 | 陽はまた昇るside story
清閑、向きあう想い



第49話 夏閑act.1―side story「陽はまた昇る」

窓からの風がテキストのページを揺らして、英二は掌で押さえた。
吹きこむ風に振向くとカーテンが風に舞っていく、その空が青い。

「…の立件とか難しいな?」
「押し問答になるから…を、使って、」

教場のあちこちから話しあう声が聞えてくる。
今、班ごとに分かれての事例研究をしている時間、ざわめきが乗っていく風が心地いい。
すっかり初夏の風だな?そんな感想に微笑んだ頬を、隣から小突かれた。

「おい、宮田?おまえの番だよ、」

小突かれた頬に振向くと、関根が可笑しそうに笑っている。
その向こうから場長の松岡が丁寧に訊いてくれた。

「現場で見た冤罪や隠匿されそうだった事例、宮田の青梅署でもあった?」
「うん、俺の駐在所の管轄では無いんだけれど、死体遺棄の件がそうだな、」

冬1月、奥多摩の森で発見された縊死遺体。
あのときの現場と検案を思い出しながら、英二は口を開いた。

「登山道から近い森で、縊死状態の遺体が発見されたんだ。行政見分は刑事課の方で、自殺と最初は判断された。
前に藤岡も話したと思うけど、奥多摩は自殺遺体の発見件数が多いんだ。だから誰も最初は疑問を持たなかった、でも遺体の傍に、」

言いかけて、英二は言葉を一旦止めた。
あの現場にあった「落し物」のことを、今、話してもいいのだろうか?

「宮田、遺体の傍に、なに?」

優しいボーイソプラノで瀬尾が問いかけた。
その隣では生真面目な顔で、周太がノートにペンを走らせている。
いま英二が話している事例についてメモを取っている、そんな様子に英二は「落し物」の件を抜粋することに決めた。

「うん、遺体の傍に、文庫本が落ちていたんだ。その本は普通の状態だった、でも遺体の髪には砂が付着していたんだ、」
「砂がついていたの?」

穏やかな声が尋ねて、黒目がちの瞳が見つめてくれる。
この瞳の前で小さな嘘を自分は吐いた、そんな痛みを見つめながら英二は微笑んだ。

「うん、奥多摩の森なのに砂が付いていた。その砂がべたついて、警察医の先生は海水を含んだ砂だろう、って気がついたんだ。
それで他殺の可能性がある、ってことになってさ。落ちていた本から指紋検出をしたら、被害者ともう1つの指紋が検出された、」

吉村医師の所見が無かったら、あの本が無かったら他殺だと気付けなかったかもしれない。
あのときの記憶を眺める斜め前から、上野が質問してくれた。

「本の指紋から犯人逮捕に繋がった、ってことか。でも、どうしてその本が現場に落ちていたんだ?」
「本には被害者のコートの繊維を同じものが付着していた、おそらくポケットに入れていたものが落ちたんだろうな、」

冷たい風に揺れていた遺体、小雪に翻ったコートの裾。無残な光景が心痛ませる。
卒配の7ヶ月で自分は、何人の遺体と向き合ってきただろう?ふと考え込みかけたとき瀬尾が尋ねてくれた。

「どうして被害者は、そのとき本をもっていたのかな?」

この問いかけの答えは哀しい現実。
4ヶ月前に向きあった感情に再会しながら、英二は口を開いた。

「その本は、被害者と犯人の想い出の本だったんだ。犯人と被害者はね、そのとき別れ話のために逢っていたらしい。
それでトラブルになって、犯人は恋人の首に手を掛けてしまったんだ。犯行現場は想い出の海だった、その浜辺で被害者は倒れた。
だから髪に砂が着いていたんだ。でも、この遺体については意外な点があったんだよ。もしかしたら当然なのかもしれないけれど」

幸せな出逢いになれなかった恋愛、その涯に起きた惨劇。そして被害者の選択と想い。
こんな傷ましい現実が、なぜ起きる?
人間の幸福な感情は、こんな無残な結論になる事がある?
あの時も抱いた幾つかの疑問、これには4カ月を経た今も答えが無い。

「意外な点、ってなにかな?…どうして、当然だって思うんだ?」

穏やかな声の問いかけに、声の主を英二は見つめた。
見つめた視線を黒目がちの瞳は、やわらかに受けとめてくれる。
この瞳を自分は生涯ずっと裏切らない、こんな正直な想いと一緒に英二は微笑んだ。

「被害者には、抵抗の跡が無かったんだ、」

答えに、5人の視線が英二を見た。
そのうちの1つの視線が優しい目を潜ませて、ボーイソプラノの声が尋ねた。

「普通、絞殺の場合は吉川線が出来るよね?指の爪のなかに犯人の皮膚が残っていたりとか…それは無かったの?」
「うん、なにも無かったんだ。縄の痕は指で絞めた痕に巧く合わせてあった、爪からも何も検出されていない、」

普通、人間は絞首されるとき一瞬で死に至らなければ、苦しんで喉を掻きむしる。
その時に出来る引掻き傷が「吉川線」と呼ばれ、これは自殺による縊死の場合でも方法次第で同様の状態を招く。
けれど、あの遺体には吉川線は無かった。

「指の痕、ってことは手で直接締めつけて絞首したんだよね?それだと普通は窒息死まで時間がある、それなのに抵抗していない?」

重ねて瀬尾が訊いてくれる。
瀬尾は似顔絵捜査官として鑑識課を目指しているから、鑑識関連の勉強も熱心だと周太にも聴いた。
今も英二から事例を聴きたいのだろう、あのとき検案で吉村医師が教えてくれたことを思い出しながら英二は答えた。

「うん。犯人の指の太さと鬱血とかの状態から、ある程度の時間が懸った痕跡はある。でも、被害者は抵抗していない。
それで定型的縊死、普通の縊死の状態に見えたから、刑事課の方も解からなかったんだ。でも、定型的縊死としては縄の溝跡が違っていた。
それで薬物を使って、たとえば睡眠薬とかで眠らせてから絞首した可能性も考えたけれど、薬物反応も無かった。だから意外だったんだよ」

あの状態だと普通は他殺の判断が難しかっただろう。
けれど吉村医師は法医学研究室の経験者であり、ER担当教授だった当時にも絞首された受傷の処置にあたっている。
きっと吉村医師の教えが無かったら自分も解からなかった、その感謝に微笑んだ英二に関根が訊いた。

「その定型的縊死との差が解からないと、犯罪が1つ野放しになったってことだよな?その見分け方とか、詳しく訊いても良い?」
「うん、良いけど、」

訊かれて英二は、左手首のクライマーウォッチを見た。
いま時刻は15時過ぎ、昼食を取って2時間が経過している。もう胃の中はだいぶ消化されたろうから、嘔吐のリスクも低いだろう。
それに警察官なら、こうした話題も向き合えないと困るだろうな?考えをまとめて英二は口を開いた。

「じゃあ、まず縊死についてだけどさ。どうして縊死で人が死に至るのかは、脳への血流が止められる所為なんだ。
頚を通って脳へ向かって流れる4本の動脈があるんだけれど、縄や紐が頭部に食い込んだ場合、その動脈の流れが止められる。
これは不整脈の患者さんの観察から警察医の先生が考えられた時間だけど、脳への血流が止まると3秒以内に意識がなくなるんだ。
それで、定型的縊死だと頸の4本の動脈が一瞬で絞められて、すぐに脳への血流が止められる。それで3秒以内に意識がなくなる。
それで痛いとか苦しいとか感じる時間もないから表情も安らかなんだ。これが非定型的縊死だと苦しむ時間が長くなって表情に残される、」

一旦言葉を切って、英二は5人の様子を見た。
誰も真剣な顔で聴いている、上野がいくらか気持悪そうではあるけれど聴く意志は強そうだ。
このまま話を続けよう、そう判断して英二は言葉を続けた。

「定型的縊死の特徴は、さっきも言った通り縄の溝跡から見るんだ。まず、使われる縄や紐は、体重を支えられる強度で細めのタイプ。
この紐で絞められて出来る皮膚の深い溝が、左右同じように顎の下側を通って、耳たぶの下方5センチから首の後ろに抜けていること。
足が床や地面についていないこと。この3点が定型的縊死の特徴になる、この場合は3秒以内に意識も消えるから、表情も苦しみが少ない」

話す言葉に最初の死体見分の時を思い出す。
あの縊死遺体の彼女が遺した言葉と、吉村医師の温もりがあるから自分は今こうして話すこともできる。
どうか彼女にも安らかに眠ってほしい、そんな祈りを想いながら英二は続けた。

「皮膚に遺された溝が非対称、左右どちらかにずれている。紐が太すぎて溝の幅が広く浅い、足が地面についている。
こんな場合は血流の停止が3秒では済まない、だから表情も苦しみの痕跡が残ってしまうんだ。これが非定型的縊死といわれるケースだ。
この状態の時は、さっき瀬尾も言っていた吉川線が出来ている事もある。掻き毟った痕が多いほど、縊死までに時間が掛かった事になる。
この非定型的縊死に該当する場合、他殺の可能性を考えて検死を行うんだ。定型の場合でも、検案を通さない自殺の認定は危険だと思う」

『検案を通さない自殺の認定』

そんな言葉に自分でどきりとしてしまう、50年前の事件を思い出すから。
けれど顔は微笑んだままの英二に、松岡が尋ねた。

「検案を通さないで認定した、そんな事例もあるのか?」
「警察医の方が法医学に詳しくないとね、警察官の見分に異議をはさみ難いらしい。警察医自身が検案に自信が無いんだ、」
「…そんなこともあるんだ?」

ため息まじりに上野が呟いた。
これは監察医制度が充実する警察署では少ない問題、けれど深刻な問題点でもある。

「これは全国的に多い問題なんだ。警察医に任命されても研修も無いから、法医学の経験が無い医者が警察医を務める事もあるよ。
だから青梅署の先生は警察医制度の改善を取り組んでるんだ、それに俺たち救助隊や刑事課にも行政見分の勉強会を開いてくれる」

上野に笑いかけながら答えた英二を、前から穏やかな眼差しが見てくれている。
仕事の話をしている時だからストイックも保てているけれど、心の芯では「嬉しい」が喜んでいる。
こんなときまで恋の奴隷が抜けない自分は、光一も言う通り「馬鹿」だろうな?
そんな自嘲に心で喜んでいると、瀬尾が口を開いた。

「警察医の方もそうだけど、俺たち警察官自身が、きちんと見分出来ないと本当にダメだよね?
さっき、落ちていた本も証拠物件になったって話してくれたけど。その本の証拠能力について、詳しく聴かせてもらっても良い?」

「うん。その本なんだけど、犯人が被害者と見に行った映画の原作なんだ、」

瀬尾の問いに頷いて、英二は続けた。

「恋愛小説なんだけど、献身的すぎる恋愛がテーマでさ。それが被害者の恋愛感情と似ていて、感情移入もあったらしい。
そんな被害者の気持ちが重くなって、加害者は別れようとしたそうだよ。でも被害者は『別れるなら死ぬ』って周りに言っていた。
だから加害者も自殺に見せかけようって思いついたんだ、疑われないだろう、って考えてさ。でも、一冊の本と海の砂が証明した」

ふわり窓からの風が頬撫でて、前に座る人の黒髪をゆらす。
やわらかな前髪のした見つめてくれる瞳に微笑んで、英二は言葉を紡いだ。

「本と海の砂、どちらも想い出が纏わるから、真相の特定が出来たんだ。この本にはコートの繊維と指紋が残されていた。
それが無かったら本も、被害者の持ち物だって解らなかったと思う。それくらい遺体には、他殺の痕跡がほとんど無かったんだ、」

繊維と指紋、それが本の由縁と事件の真相を明かしてくれた。
けれど被害者の遺体は真相を隠すよう、潔癖なほど痕跡を残していない。
あの遺体が遺した想い、それを吉村医師は読取り、教えてくれた。その言葉を英二はトレースして声に乗せた。

「この遺体の検案をしたとき、警察医の先生はこんなふうに話してくれた。
『警察医を勤めるなかで、恋愛は幸福と憎悪、そんな2つの道に分かれてしまうと感じます。けれど何が幸福なのかは解からない、
それを今、このご遺体にも想います。この方は安らかで良いお顔です、このお顔が、他殺でも幸せな場合があるのだと示している』
そんなふうにね、亡くなった方の表情には、最後の瞬間の感情とか、痛みとかが現われるんだ。だから俺、あの検案は切なかった」

想い出の本、想い出の海と砂。
ふたつの想い出が、恋愛の骸に隠された真実を明かした。

「哀しいな、人間ってさ、」

呟くよう松岡が言って、ほっとため息を吐いた。
その隣で関根の大きな目が微かに光っている、いま恋愛が始まったばかりの関根には想うことも多いだろう。
こんなふうに、事件が一冊の本を発端に暴かれる。この事例に今この前でノートをとる人の現実が重なってしまう。
その重なりに自分は「落し物」の件を抜粋し、小さな嘘を吐いた。

―本当は、本は壊れていた…だから解かったんだ、被害者の想いが

この「一冊の本」証拠物件になった文庫本は、ページの大部分が抜けていた。
背表紙とページの接合される部分には、ナイフで抉るよう糸綴じを切り裂き無理に外した痕跡があった。

―…思い出があるから捨てられなかった。けれど、何か辛い内容が書かれていたから、そのページを切り取って持っていた

この本の状態に映る心理を、吉村医師はそう教えてくれた。
この心理も、本の状態も、家の書斎に遺された一冊の本と酷似している。

『Le Fantome de l'Opera』

あの紺青色の本に馨が遺した、想いとメッセージ。
それが自分を「50年の束縛」に対峙させる道へと導いた、これは文庫本が証拠物件になる事と変わらない。
だから今も周太の前で証拠物件の真実を話せなかった、聡明な周太が『Le Fantome de l'Opera』の謎に気づくのが怖いから。

どうか君は、なにも気付かずにいて?

気付かないこと、知らないこと。
それが君を護ってくれる、だから知らないままでいて欲しい。
いま周太は目の前で熱心にノートを取っている、この姿が愛しくて切ない。切なさに祈りが心に刺さる。
傷み切ない、けれど自分で口にした癖にと自嘲したくなる?心裡に自分を笑った英二に、上野が訊いてくれた。

「宮田、いま『検案』って言ったよな?おまえ、検案の立会もしてるのか?」
「うん。非番の時とかに、お手伝いさせて貰ってる、」

正直に頷いて微笑んだ英二に、松岡が感心したよう口を開いた。

「それで宮田、法医学とか鑑識に詳しいんだな?授業の時も凄いって思ったけど、現場の経験が豊富なんだ、」
「だよな?検案はさすがに、俺、ちょっと怖いかも、」

気の良い丸顔を頷かせて、上野も感心してくれる。
その隣から瀬尾が優しい声で笑いかけた。

「宮田くん、休みも仕事するなんて、ほんとに頑張ってるんだね。湯原くんに訊いてはいたけど、」

言われて、ノートを取っている周太の首筋がほのかに赤くなりだした。
そんなふうに褒めてくれている?嬉しい気持に英二は微笑んだ。

「警察医の先生が、すごく良い先生なんだよ、」

もし吉村医師に出会えなかったら、自分も上野と同じように遺体を怖いと思ったままだったろう。
それでは山岳救助隊員として、生死の廻る現場に立つことは出来なかった。吉村医師のお蔭で自分は鍛えられている。
周太のことも光一のことも、吉村医師の助言無しには難しかった部分も多い。
そして3月の遭難事故も、吉村医師だから救けてもらえた。

―本当に、先生は俺の恩人なんだ、

今頃は往診に出ている頃だろうか?
季節の変わり目で風邪を引きやすい時期、留置所の診察も忙しいかもしれない。
今週末は土曜の夜から川崎に帰るから、金曜の夜に青梅署に戻れば土曜の朝は手伝えるな?
そんな考え巡らす手許で、ぱらり、ページが風に捲られた。



授業が終わり、ジャージに着替えると英二は隣の部屋をノックした。
すぐに扉は開かれて、ジャージ姿の周太が微笑んだ。

「英二、今日は何のトレーニングする?」
「そのまえに、ちょっと用事があるんだ、」

笑いかけて部屋に入ると、後ろ手に英二は鍵を掛けた。

「用事って?」

不思議そうに見上げてくれる貌があどけなくて、可愛くて仕方ない。
こんな貌されるから、部屋に鍵かけたくなるのにな?
すこし困りながら英二は、大好きな人にキスをした。

「…っえいじ?」
「用事って、これだよ?周太」

綺麗に笑って英二は、自分の背に周太を背負った。
そのまま扉を開いて少し屈みながら廊下に出ると、肩越しに笑いかけた。

「このままトレーニングルーム行こうね、周太、」
「…あの、はずかしいよさすがにちょっと、」

困ったよう黒目がちの瞳が見つめてくれる、その頬が桜いろに染まりだす。
こんな貌ちょっと可愛い、今すぐUターンして部屋に戻りたいな、どうしよう?
そんな迷いを笑顔の奥に押し込んで、廊下を歩きながら英二はお願いをしてみた。

「でも周太?俺、歩荷の訓練しないといけないだろ?だから協力してほしいんだけど、」
「訓練なら…協力しないとダメだね、」

気恥ずかしそうなまま素直に頷いて、そっと腕を首に回してくれる。
きちんと背負われてくれる温もりが背中に首筋に優しい、こんな訓練は幸せになれる。
毎日ずっとこれだと良いのにな?そんな素直な感想に穏かな声が訊いてくれた。

「英二、事例研究で話してくれた、証拠の本のことなんだけど、」

とくん、

心臓が1つ、心を引っ叩く。
ほんの一瞬、けれど背負っている今は伝わってしまう?
この今の動揺が伝わっていない事を祈りながら、英二は肩越しに笑いかけた。

「なに?周太、」
「ん、あのね、なんて本だったのかな、って思って、」

本の題名のことだった。
ほっと心裡に安堵の吐息こぼしながら、正直に答えた。

「日本の作家が書いたのだよ、『春琴抄』って知ってる?」
「名前だけは知ってるよ、目の見えない女の人の話だよね。英二は読んだの?」
「うん、あの検案の後にね。吉村先生に貸してもらって、光一と藤岡と回し読みしたよ、」

何気ない会話をしながら背負って歩く、こんな時間が嬉しい。
嬉しい想い素直に微笑んで、トレーニングルームの入口を潜った。


(to be continued)

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第48話 薫衣act.6―side story「陽はまた昇る」

2012-07-04 22:18:27 | 陽はまた昇るside story
馨、めぐらす記憶と明日



第48話 薫衣act.6―side story「陽はまた昇る」

ふわり、吹きぬける穏やかな風が梢をゆらす。
ゆらめく木洩陽に黒髪が艶めいて、その陽射し透かすよう無垢の瞳は見つめてくれる。
やさしい朝の光ふる緑陰、光一の瞳を視線に結んで英二は言葉を続けた。

「昨夜はすぐ寝ちゃって、ちゃんと話せなかったけど。月曜日から俺、ずっと謝りたかったんだ、」
「…月曜から、ずっと?」

なにを謝るんだろう?
訊くよう無垢の瞳が見つめてくれる。
見つめる視線をそのままに、綺麗に英二は笑いかけた。

「今まで不安にさせて、ごめん。俺は光一のこと、大切だよ?おまえの心にも体にも見惚れて、愛してる。欲しいから大切にしたい、」

告げた言葉に細い目が大きくなって、英二を見つめている。
すこし躊躇うよう、けれど笑って光一は訊いてくれた。

「そんなに俺のこと、愛しちゃってるワケ?欲しいワケ?…周太を婚約者にしてる癖に、ね?」
「欲しいよ、」

さらり即答して英二は微笑んだ。

「周太への気持ちと違うんだ、でも、愛してる。どんな時も、どんな場所でも、一緒に居られるのは光一だけだよ。
上手く言えないけど…対になってるみたいで、俺のパートナーは光一だけって思う。だからかな、体を繋げることも自然に想えてる、」

こんな本音は狡い、そう言われても仕方ない。
けれど自分にとってはこれが真実、誤魔化すことが出来ない自分がいる。
こんな自分こそが「謝る」理由だから?そんな諦観に英二は潔く笑いかけた。

「ごめん、光一。俺は周太に全部を捧げてるよ、それなのに俺は『血の契』で光一と繋がった、秘密で光一を繋ぎとめたんだ。
こんなの俺の勝手で、自分でも狡いと思う。けれど、愛してるのは本当で、抱きたいのも本音だよ。大切にしたい、光一のこと、」

言葉のはざま、山の緑ふくんだ風がそよぐ。
風にゆらめく黒髪が朝陽に光る、揺れる黒髪透かす瞳が見つめてくれる。
この透明な明るい眼差しが好きだ。そんな素直な想い微笑んだ向こう、透明なテノールが笑った。

「おまえ、ホント悪い男だよね?こんな別嬪に言われて、赦せないワケ、ないよね?」

底抜けに明るい目が優しい。
優しい眼差しと透明な声は、可笑しそうに笑ってくれた。

「昨夜、ちゃんと約束通り、俺のこと大切にしてくれたよね?ただ抱きしめるだけで、服も捲らなかった。だから、信じてるよ、」

昨夜も光一は、今まで通りに英二の部屋に来てくれた。
いつものように少し悪ふざけをして、素直に抱きついて眠ってくれた。
現場の救助活動でも、今まで通りに笑いながらパートナーを組んで捜索をして、遭難者を叱りつけていた。
そんな「今まで通り」が嬉しくて。寮のベッドは長身2人には狭いけれど、抱きしめた温もりが幸せだった。
そして今、笑いかけてくれた笑顔が嬉しい。嬉しさに笑いかけて、英二は大切なパートナーに誓った。

「本当に好きだよ、光一。おまえの全部を大切にする、だから俺のこと、もう怖がらないでよ?信じてほしい、」

唯一人のアンザイレンパートナーで『血の契』そして周太を守る唯一のパートナー。
愛する婚約者を守る。そのパートナーが自分に恋をしてくれる、そんな交錯が不思議にも思う。
なにより自分自身がもう、この相手に見惚れている自覚がある。与えられたものならば受けとめていれば良い?
そんな想い微笑んだ隣から、透明なテノールが楽しげに笑ってくれた。

「うん、信じてる。でさ?昨夜、風呂で俺の体、しょっちゅう見てたよね?やっぱ欲情してたワケ?」

きれいな無垢の瞳で見つめながら、訊くことはコレなんだ?
可笑しくて笑ってしまう、そして起きあがった悪戯心にも押される様に掌で雪白の頬にふれた。

「欲情したよ?でさ、こんな人けの無いとこで、そんな質問するなんてさ?襲ってください、って意味だと思っても仕方ないよな?」

半分本気で半分冗談、こんな自分は今までにいなかった。
いつも周太には本気でしかなくて、こういう余裕はあまり無いから。
この余裕は何だろう?ふと不思議に思いかけたとき、目の前で透明な目は笑ってくれた。

「信じてるからね、…英二?」

呼んでくれた名前が、前より少しふるえていない。
そんな変化にも信頼が想われて嬉しい、嬉しくて英二は微笑んだ。

「ありがとう、光一、」

微笑んで見つめた先、雪白の貌がすこし赤らんでくる。
気恥ずかしげな貌、けれど細い目は膝の上の本に視線を落とした。

「でね、さっきのラストと退役軍人のとこにさ、曾じいさんについてのヒントがあるんだよ、」

視線とテノールの声に白い頬から掌をおろした。
そして長い指でまたページをめくると『Chapitre4』を開き、光一を見た。

「まず、退役軍人が援けられて就職をした会社だ、ってことだよな?それも、技術系の、」
「そ。軍人がコネで就職したワケだからさ、なにかしら繋がりがあった、ってコトだよね、」

軍人がコネクションを持っている、技術系企業。
シンプルに考えたらどんな業種になる?その答えを英二は口にした。

「普通に考えたら戦時中は軍需産業だった会社だよな?そして戦後も技術を活かしているのなら、造船、航空、鉄鋼のあたりか、」
「だね、ソッチ系だろね、」

有名な社名だと三菱重工、立川飛行機などが最初に浮ぶ。
そのほかにも大小様々な企業は数多くあった、そのどれになるだろうか?
そんな思考にテノールの声がヒントをくれた。

「でさ、曾じいさんって、大正時代に川崎に家を建てたわけだよね?ようするに移住してきた、って事だよね、」
「就職の為に川崎に来た、ってことか、」

答えた英二に、底抜けに明るい目が「正解」と笑った。
その目に笑いかけて、英二は解答を口にした。

「家が建てられたのは1914年、これより前に出来て戦時中は軍需産業。そして川崎が通勤圏内。この3つで特定できるよな?」
「うん、出来ると思う。3つあったら、特定はしやすいよね、」

1914年、大正3年に川崎近辺に設立、戦時中は軍需産業、戦後は造船や航空などの技術系企業。
この条件に当てはまる企業を探せば、曾祖父・敦の経歴が解かってくるだろう。
この考えに色んな納得ができる、ほっと英二は笑って口を開いた。

「あの当時、軍需産業の技術者ってさ、地位も名誉もある特別な人だったよな?それも、移住してまで呼ばれてきたんだ。
これって、レベルの高い技術者だった、ってことだろ?そういう人の息子だから、お祖父さんは戦後の混乱期でも留学出来たんだな、」

終戦直後に晉はパリ大学ソルボンヌに留学している。
あの当時、敗戦国だった日本から欧米に留学するのは経済的事情はもちろん、バックボーンが無かったら難しい。
そんな事情への納得に、光一も口を開いた。

「だね。そういう技術者になれた、ってコトはさ?曾じいさんはハイレベルの教育を受けていた、ってことだよ。
それ相応の良い家柄のはずだね、だから茶道具とか家具もイイもん揃っているワケだよ。あのコーヒーセットも絵皿も、納得だね。
屋敷も相応の広さにしてさ、良い素材を使って永く大切にしてる。そういう腰の据わった質実なトコ、付焼刃じゃない育ちの良さがあるね、」

落着いた家、美しい庭。古萩の茶碗、磨き抜かれた漆器、何げなく使われる趣味の良い食器たち。
北欧の王室窯で作られたコーヒーセットとイヤー・プレート。奥ゆかしい雰囲気の雛人形、花活、数々の家具。
それから青い表紙のアルバム達、晉の学歴と経歴。どれもが、あの「家」がどういう家なのか物語る。
自分が愛する家の記憶に微笑んで、英二は口を開いた。

「あの家にはね、どの部屋にも本棚があるんだ、」

あの家にはダイニングにまで、小さいけれど綺麗な本棚がある。
そこには周太が買ったという料理の本も並んでいた、それを見るたびに、本の経年に幼い日の周太の想いが愛しい。
きっと母のため一生懸命に読んで作ったのだろうな?想い佇んだ英二にテノールの声が相槌を打った。

「うん、リビングにも大きい本棚があったね?あと2階の廊下にもあったな、椅子があるところ」
「窓の所だろ?あそこは読書スペースなんだ、お茶も飲んだりするけどね、」

懐かしい家の記憶に、今度の週末に帰る予定が嬉しい。
ふるくて優しい家の景色を想いながら、英二は言葉を続けた。

「特に書斎とホールの本棚は専門書が多いんだけどさ。どの本棚もね、置いてある本は古くても綺麗で、読みこんだ跡があるんだ。
家の人が皆、優秀で丁寧な性格だったのが解かる。良い家柄で良い教育を受けていた、そんな血筋の良さみたいなの、あの家にはあるよ。
それが周太を見ているとよく解かる。勉強も運動も出来てさ、おっとりして上品で。リラックスしてる時の周太、本当にお姫さまみたいでさ、」

あの家の跡取りである周太の姿が、あの家を物語る一番の証拠。
今夜には逢える俤に微笑んだ英二に、光一が笑った。

「周太はね、マジでお姫さまなんだよ?おまえが思ってるのとは、ちょっと違うけどね、」

テノールの声が告げる言葉が、すこし不思議だ。
どういう意味なのだろう?そう見た英二に透明な目が笑って質問を投げた。

「曾じいさんのヒント、もう1つあるよね?」

もう話は移るよ?そんな眼差しが英二の疑問を封じ込める。
周太の「ちょっと違う」意味は教えない、そんな意志が言葉は無いまま伝わってしまう。

―きっと『山の秘密』に関わる事なのかな?

たぶんそうだろうと、考えながら長い指でページをめくっていく。
そして1つの単語を英二は指さした。

「それから『Lignee』血統、って意味だったよな?これも、曾おじいさんのヒントだ、そうだろ?」

“その存在こそをSomnusの許へ送ってしまえたら?そんな願いに罪を重ねそうな自分がいる、これが私の本性なのか、血統なのか?”

「だね。じいさんより以前、って意味で使ってると思うね。だから、ね…」

寂しげな微笑に、透明なテノールが途絶える。
もう、途絶えた先の意味が垣間見えていく、それが苦しい。

『Lignee』血統

これがヒントだとしたら「晉の原罪」より向うが見えてくる。
本当はそんな事は否定したい、けれど晉が綴った想いが真実を告げてしまう。

“これが私の本性なのか、血統なのか?…硝煙と血に纏わりつかれる香、死の眠りに誘う名前。この束縛を私は、断ち切ることが出来るだろうか?”

「50年の束縛」その本当の原点は『血統』?
この問いかけに『Lignee』の意味が山桜の花を甦らす。
山桜の花の下に見た涙が重なって、雲取山に聴いたテノール叫びが甦る。

―…俺と血が繋がっているなんて、嫌だ、嘘だっ

あの叫びが悲痛で、涙を止めたくて。
涙の原因は「血脈」への嫌忌、だから『血の契』を交わし共に「血」を背負うことを選んだ。
そうすれば光一は自分と「一緒」なことを歓び嫌忌は消える、そう思ったから。
そして今『血の契』の絆に愛する想いすら生まれている。

けれど、周太とは『血の契』が出来ない。
もとから血液型も違う、なにより『血の契』は苛烈な男倫理が強すぎて周太にそぐわない。
それでも自分は周太の婚約者という立場を手に入れた、入籍すれば法律でも永遠に繋がることが出来る。
血では繋がれない、けれど立場で繋がって湯原家の血統『Lignee』を背負えばいい。この想いと微笑んで英二は光一に告げた。

「湯原の血統、この意味は俺が背負うよ。絶対に周太だけには背負わせない、名字も血も俺は違うけど、家を護るのは俺だから。
婚約者として、あの家の人間として、俺は護りたい。その為に俺は全てを懸けてる、周太を抱いた瞬間からずっと…もう決めてるんだ、」

“どんなに美しい理由だとしても、殺人を犯すことが人に赦されるのか?”

この問いかけを遺した晉を『Fantome』に誘いこんだルーツ。
その原点を晉が『Lignee』と記した真相が、曾祖父・敦のルーツにある。
これが馨を『F.K』に繋ぎとめ、周太をも『Fantome』ファイルに繋いだ原点。
それは一体、どれだけの歳月を経て綯われた連鎖だと言うのだろう?

生命と共に続く血統『Lignee』血の繋がりは切れない。

それでも、あの家の哀しい連鎖を絶ち切りたい。
こんな自分が本当に絶ち切ることが出来るのか?本当は不安で、怖いとも思う。
それでも自分はもう選んでしまった、あの家を護ることを約束して、墓前にも祈りを捧げた。
だから偽ることも出来ない、もう決めたのだから頑固でも護りぬく。この「決めた」に英二は正直なまま口を開いた。

「周太を護ることは、あの家を護ることは、きっと危険が多い。ここまでに解かったことだけでも、知るだけで危険な秘密ばかりだ。
最初から、周太を護ることは危険だと思っていたよ?でも、こんなに根が深いとは考えていなかった、あの日記帳を見つけるまでは。
それでも俺は、さっきも言った通りだよ。俺は周太に全部を捧げている、約束している。だから、逃げられない時があるかもしれない、」

逃げられない時。

それは命を懸ける時かもしれない。
去年の秋に一度、周太の身代わりになる覚悟をした時のように。
あんなふうに逃げられない選択の瞬間が増えていく、この予兆に微笑んで言葉を続けた。

「本当に周太も光一も大切で、狡いけど俺は選べない。それでも選択から逃げられない時があるかもしれない、周太を護る為に。
周太を護り続ける約束と、光一と最高峰に登り続ける約束と、どちらかを選ばないといけない。そんな選択の時が来たら、選ぶのなら…」

言いかけて、見つめてくれる無垢の瞳に言葉が出てこない。
こんなことを言うのは残酷と解っている、けれど背負った責任に今から告げておきたい。
こんなことは残酷で狡い、こんな自分に山っ子のアンザイレンパートナーになる資格なんてあったのだろうか?
この自責に透明な瞳を見つめながら、英二は再び口を開いた。

「俺は、周太を選ぶ、」

告げた言葉の先で透明な瞳が微かに笑んでくれる。
その笑みが綺麗で、傷みに心が軋んでいくのを見つめながら英二は言葉を続けた。

「ふたりとも大切で、愛してる。選ぶことなんか出来ない。でも、周太は俺の妻になる人だから、ずっと護りたいんだ。
それなのに光一を『血の契』で繋ぎとめたよ、生涯のアンザイレンパートナーになって、キスまで…こんなの身勝手だって思いながら。
こんなに狡いことしても欲しいほど、光一が大切だよ?だから約束してほしい、俺より好きな相手が出来たら遠慮しないで、俺を捨ててくれ」

どうか幸せでいて欲しい、だから自分を選ばなくて良い、捨ててほしい。

「俺より大切な相手が出来たら、その人のところに行って?いつか俺は周太を選んで、光一との約束を壊すかもしれないから。
だから、俺よりも相応しいアンザイレンパートナーと逢えたら、その人と夢を叶えてよ?光一だけ見てる相手と幸せになってほしい、」

自分の言葉に本音がもう軋んで痛い、こんなに痛がる自分は狡いと自責が苦みを増していく。
約束をしても守れるのか解らない、そんな狡い約束と愛情を示している自分が、本当は赦せない。
それでも他にどうしたら良いか解からない。そんな想いに見つめたアンザイレンパートナーは、大らかに笑ってくれた。

「言ったよね?おまえは俺の唯ひとりだよ、それは変わらない。おまえが周太を選んでも、ずっと。だって運命の相手だからね、」

応えてくれる底抜けに明るい目が温かい。
大らかな優しい温もりが微笑んで、透明な声が言ってくれた。

「俺も跡取りだから、俺ん家を守らなくちゃいけない。そんな義務と責任が俺にもあるよ、だから結婚もしなくちゃいけないかもね?
それでもね、あのひとを護りたい、おまえを護りたい。そのために俺も、全部を懸けても後悔しないよ?ずっと一緒にいたいからね、」

告げてくれる笑顔は、どこまでも無垢で明るい。
この明るさに今まで何度も救われて、だから今も思い知らされて、心に本音がこぼれだす。
離れないでほしい、ずっと一緒に立って、支え合って、傍にいて?そんな本音を英二は短く言葉にして、隣に笑いかけた。

「こんな俺に、本当についてくる?」

この本音が美しい山っ子を危険に惹きこんでしまう、その自責が心を刺す。
この傷みと見つめる真中で、明るい笑顔がほころんだ。

「ずっと一緒にいるよ、なにがあっても変わらない。アンザイレンパートナーで『血の契』で、恋した人間は英二だけだから、」

どこか切ない話、それなのに光一の笑顔は底抜けに明るい。
こんな顔をしてくれるパートナーが愛しい、この愛する信頼に英二は微笑んだ。

「ずっと一緒にいよう?光一のことは俺が護るから、一緒にいてよ、」
「ありがとね。一緒にいたいから護ってね、ア・ダ・ム、」

素直に笑って、優しい明るさを贈ってくれる。
そんな笑顔にまた救われている自分がいる、こんな自分は弱いと甘い自覚が微笑んでしまう。
この弱さを少しでも償える自分になりたい、そっと心裡に誓いながら大切なパートナーに綺麗に笑った。

「光一、ずっと一緒にいて護るよ。最高峰でも、警察組織でも、ずっと、」

山の世界でも、人間の世界でも、護りたい。
いつか選択の瞬間が来るまでは、ずっと護りたい。そんな想いに底抜けに明るい目は笑ってくれた。

「うん、俺も英二を護るよ。この笑顔が大好きだからね、」

名前を呼んでくれた、きれいな笑顔がまばゆい。
どこまでも透明で無垢の山っ子、この愛情を受けとっていたい。
そんな今の自分と2カ月前の差が可笑しい、ふっと記憶へと英二は微笑んだ。

「槍ヶ岳の前もさ、おまえのこと親友でアンザイレンパートナーだった。あの時までは、おまえがキスしてくるの少し困ってた。
でも今は、俺からキスしたくなる。光一のこと抱きたくて、誘いたくなる。こんなふうになるなんて思ってなかった、自分で不思議だよ、」

言われた言葉にすこし困ったよう笑って、雪白の貌が首傾げこむ。
そして透明なテノールは楽しげに言ってくれた。

「俺はね、最初から少し想ってた。雅樹さんと似ていて、でも違うから…本気になっちゃうかもね、って予感はしてた、」

告げて、秀麗な貌に桜いろ翳しだす。
文学青年のような繊細な風貌は、最初に逢った時から変わらない。
けれど艶が深い陰影を魅せてしまう今、臈たけた美貌がまばゆくて、感情が起きあがる。
こんな変貌に見惚れている自分がいる、ひとは心で、こんなにも変わるのだろうか?

「光一、キスしていい?」

想い素直に笑いかけて、透明な瞳をのぞきこむ。
見つめられた瞳は幸せに微笑んで、そっと長い睫を閉じてくれた。

「素直で可愛いね、光一」

笑いかけた言葉に、雪白の頬がすこし桜いろにそまる。
その頬に掌を添える、なめらかな温もりに掌が受けとめられる。
かすかな吐息の香を見つめて、薄紅の唇に唇を重ねながら英二は微笑んだ。

「愛してる、」

ふれるキスやわらかな熱に、花の香がふれてくる。
いつも光一から昇らす香、この香も最初から変わらないようで、すこし違う。
前よりも華やいだような高雅な香、どこか幻か花を抱いているような美しい香。
この香を全身の肌に抱いて、溺れこむ夜がいつか訪れるのだろうか?

「…キス、巧いよね、おまえって…ほんとエロ別嬪」

そっと離れて薄紅の唇が、気恥ずかしげに微笑んだ。
こんな綺麗な笑顔で言うことが、どうしても「エロ」に傾いてしまうのが可笑しい。
これだけ美人な癖に真性のエロオヤジだな?可笑しくて笑いながら英二は答えた。

「気に入ってもらえたなら嬉しいよ?俺、セックスも巧いみたいだから、楽しみにしてて、」
「ろこつなこと言ってんじゃないよ、馬鹿、」

文句を言うテノールが恥ずかしげに、幸せに笑ってくれる。
こんな自分を選んで本当は悩むことも多いだろう、それでも幸せに光一は笑ってくれる。
この明るい無垢な笑顔に、吉村医師の言葉が静かに甦って心ふれてしまう。

『無欲で無垢な彼は、今、掌に与えられたものを大切にして、満足することを知っています』

今、自分の存在が光一にとって「掌に与えられたもの」でいる。
それなら少しでも多く掌に載せてあげたい、こんな自分で良いのなら与えられる時の限りまで、ずっと。
この運命の相手『血の契』の笑顔が愛しい、想い微笑んで英二は月曜の朝のことに口を開いた。

「捜査一課の経験者って、調べられるかな?特にSITなんだけど、」

遠野教官に警告を発した人間。
この人間についても知っておく必要があるだろう、考えながら笑いかけた隣はすぐに頷いてくれた。

「昨日も話してくれた件だね?今日は昼休み、多分パソコン使えるんじゃない、」

直ぐに理解して、いつも呼応してくれる。こんな相手は本当に「運命の相手」だろう。
この相手がいるならば50年の束縛も、それより古い連鎖も、自分は断ち切ることが出来る?
そんな希望に微笑んで英二は笑いかけた。

「昨日は人の出入りが多くて、時間無かったもんな?やっぱりシーズンの土曜だな、」
「だね?今日はあんまり誰も来ないとイイね、」

笑い合いながら立ち上がる、その頭上から木洩陽がまばゆい。
救助隊制帽の鍔を翳し見あげた空は、朝霧が晴れはじめていた。
やわらかな青色の朝陽に、ふっと馴染んだ詩の一節が祈るよう明るんだ。

The innocent brightness of a new-born Day  Is lovely yet;
The Clouds that gather round the setting sun
Do take a sober colouring from an eye That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.

  生まれた新たな陽の純粋な輝きは、いまも瑞々しい
  沈みゆく陽をかこむ雲達に、謹厳な色彩を読みとる瞳は、人の死すべき運命を見つめた瞳
  時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
  生きるにおける、人の想いへの感謝 やさしき温もり、歓び、そして恐怖への感謝
  慎ましやかに綻ぶ花すらも、私には涙より深く心響かせる

この詩のように自分も、いつか時の歩みを経た時には勝ち取れるだろうか?
最愛のひとの自由を、愛する家の解放を、自分は勝ち取れる?
本当の自由な幸せに周太を、永遠に浚うことが出来るだろうか。

―周太?いつか話してあげたいよ、家の幸せな記憶は…約束を叶えたい

祈りの願い微笑んで、あわく青い空にひとつ呼吸する。
その口許へ静かに漂いこんだ、深いブナの香と花の香が、ただ優しい。



【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワス詩集』「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」XI】

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第48話 薫衣act.5―side story「陽はまた昇る」

2012-07-03 23:48:42 | 陽はまた昇るside story
時の記憶、馨、そして鎮魂の歌を



第48話 薫衣act.5―side story「陽はまた昇る」

ブナの梢ふる木洩陽が、倒木の苔にゆれている。
払暁に降りた露が山を息付かせ、あわい靄がながれて山裾に下っていく。
山岳救助隊服の膝に手を組んで、ゆっくり見あげた梢から生まれたばかりの光が照えた。
光に制帽の蔭から目を透かし、英二は微笑んだ。

「明るいな、山の朝は、」
「うん、」

いつもの農業青年スタイルが隣で笑ってくれる。
光あざやかな緑陰に白い手はページを開き、そこに綴られるフランス語を暁の光に顕わした。

『 La chronique de la maison 』

周太の祖父、湯原晉博士が書き遺した「記録」小説。
その舞台はパリ郊外、ある「家」の惨劇が隠されていく過程と背景が描かれる。
なぜ「家」に惨劇が起き、なぜ隠匿されていったのか?その全てを記すページを前に光一は口を開いた。

「先週も言った通り、第四章には50年前の事件に対する心情がメインだ。で、この心理描写のとこにヒントが詰め込まれているね、」
「心理描写に、ヒント?」

どういうことだろう?
そう見つめた英二に光一は教えてくれた。

「この第一章は事件自体の記録、第二章は事件の処理についての記録がメインだろ?この2つの章が事件の顛末記録だよね。
この2つに絡まる主人公の心理状態を、第四章では回顧録みたいに書いている。で、事件関係者への心情も描かれているんだよね」

回顧録、事件関係者への心情。
この2つの言葉に英二は納得して微笑んだ。

「そこに例の警察官と、事件の犯人についても書かれているんだ?」
「そ、犯人のことはね、犯行の動機について書きながら、気持を書いている」

短い返事に小さく笑い、頷いてくれる。
そして透明なテノールは「記録」を話し始めた。

「まず犯人だけど、殺された父親の部下だった男なんだ。この男は退役軍人でね、戦後に職を失って困っていた。
それを援けられて就職したんだけどさ、軍人だろ?そこは技術が必要な会社だったから、男は仕事に付いていけなかった。
で、結局は解雇されちゃった。だけど男は自分の力不足を認められない、軍人のプライドが邪魔してね。そして逆恨みの犯行に及んだ、」

ほっと溜息に言葉が途切れる。
こぼれた吐息の香を感じながら、英二は確認をした。

「退役軍人だから、男は拳銃を持っていたってことか、」
「そういうこと。だから曾じいさんを撃った銃と、じいさんが持っている銃は、同じタイプだったろうね、」

低くテノールが答えて、細い目が静かに微笑んだ。
見つめてくれる静かな哀惜に英二も微笑んで、穏やかに口を開いた。

「だから…事件の偽装がしやすかったんだ?同じタイプの銃を使ったら、当然、銃創も弾痕も差が少ないもんな。
今の鑑識技術なら弾道とか、銃創の火傷の痕とか、いろんな点から不自然が解かるけど…でも、50年前だったら一見は解からない」

1962年、川崎の古い住宅街を、銃声に似た2発の破裂音が響いた。
通報を受けた川崎警察署は界隈を巡回、ちょうど知人宅に訪問中だった警視庁所属の警察官も捜査に加わった。
そして住宅街にある雑木林から、男性の遺体が発見された。男性は無職50代、こめかみに銃創があり拳銃を手にしていた。
銃弾は脳を貫通したらしく左から右へと抜けた弾痕がみられ、銃弾は雑木林に落ちていた。
この持っていた拳銃と弾丸は、元軍人だった本人が隠し持っていた物だった。
生活苦による退役軍人の拳銃自殺、それが行政検死の結論だった。

これが新聞記事に残された事件の記録。
この事件当日は周太の曽祖父、湯原敦の誕生日当日だった。
この日に敦は殺害された「生活苦による退役軍人の拳銃自殺」の事件とほぼ同時刻に。
そして、敦の死の記録は「心不全」として、新聞記事にも過去帳にも残されている。

1962年、今から半世紀前。
半世紀50年、この時の経過は今と「原点」を隔てる。
この50年の間に科学は法医学は、どれだけ進歩しただろう?そんな現実の経緯に光一も頷いてくれた。

「そういうことだね。しかもさ、例の警察官は鑑識が得意だ、って書いてあるんだよね。そいつが行政見分してるわけだから、ね?」

もう言わなくても解かるよね?
そんなふうに明るい目は微笑んでいる、その眼差の信頼に英二は小さく笑いかけた。

「警視庁のキャリアが判断した、それで現場の誰もが思考をストップさせた、ってことか、」
「その通りだね。こうして片方の殺人事件は、自殺認定されちゃったってワケ。もう片方もまあ、似たり寄ったりだよね、」

組織の現実、人間の弱さ。
これらが2つの事件を歪め、法治国家と利己の陥穽に堕ちていく。
そんな経緯がもう垣間見えて苦い、苦み広がる想いの隣からテノールも皮肉に嗤った。

「小さな人間が長いものに巻かれるのはさ、時代が変わっても変わらないね?」

警察組織の『キャリア』
それは警察社会の上層部に昇ることが保障された、警察庁所属の国家公務員たち。

彼らは全国の警察署へと配属されて経験を積み、警察の重要ポストに就任する。
いつか将来には自分たちの上司になる、そんな相手に対して異議を立てることは勇気がいるだろう。
こんな苦い納得を噛んだ隣で、ぱらり風がめくるページを白い手は止め、ひとつの言葉を指し示した。

「ここ、『bootlicking』ってあるだろ?『へつらう』って意味だよ。きっと同じように思ったんだろね、周太のじいさんも、」
「そっか…、」

『bootlicking』この言葉を綴った晉の胸中は、どんなふうだったろう?
そんな想いに吐息こぼれた隣で、光一が提案してくれた。

「ここ、ちょっと読んでみるね?」

提案しながら底抜けに明るい目は、寂しげな哀惜に笑んだ。
そしてフランス語に綴られる想いを、透明なテノールの声は晉の母国語で読み上げた。

「人間のへつらう心が、私の罪を覆い隠してくれた。それは屈辱、けれど父の名誉を守るために、私は屈辱に跪いた。
あのときは、それしか選択肢が無いと思った。まだ幼い息子、若い妻、そして深窓の令嬢として育った母。この愛する家族を守りたかった。
すべてが家族への愛だった、けれど、どんなに美しい理由だとしても、殺人を犯すことが人に赦されるのか?この問に、私の答えはない。
なぜなら事件よりも前に、私は多くの人をSomnusの許へと送りこんでいるのだから。歪められた正義と忌まわしい名前の許、拳銃を操って、」

『歪められた正義と忌まわしい名前』

この一文が心を刺した。
この一文が自分達の推測を「現実」だと告げてくる。
もしこの『名前』が推測の通りなら、昨夜もすこし読んだ日記帳の先が見えてしまう。

「この『Somnus』はね、ローマ神話の眠りを司る神だよ。永遠の眠りをね、」

静かなテノールが言葉の意味を告げる。
「永遠の眠りに送りこむ」この意味に、推測がまた現実の澹へ浮かんでしまう。
馨が遺した20年間の想いが、どんな絶望に堕ちこんでいくのかが、今もう心を刺してくる。
もう推測に覚悟も見つめて来たこと、それでも傷む隣で静かなテノールは翻訳を続けた。

「私はもう1つの名前を埋葬した、私の拳銃と共に。けれど、この眠りを妨げようとする者が存在することを、私は知っている。
その存在こそをSomnusの許へ送ってしまえたら?そんな願いに罪を重ねそうな自分がいる、これが私の本性なのか、血統なのか?
もう1人の過去の私を蘇らせようとする、私の学友で戦友の男。あの男はきっと、私の原罪を悦んで、私の子孫に及ぼそうとしていく。
私の原罪が作りだした鎖、硝煙と血に纏わりつかれる香、死の眠りに誘う名前。この束縛を私は、断ち切ることが出来るだろうか?
どうか私の血に連なる者よ、この束縛を越えてほしい。連鎖を絶ち、自分の人生を探し、明るい光に生きる君を、私は祈り続けている」

言葉は終わり、山風がブナの森を馳せぬけた。
風がめくるページを白い手は押え、繊細な指先は4つの単語を順に示した。

Un autre nom、
Mon pistolet、
Lignée、
Le péché original

「もう1つの名前、私の拳銃、血統。それから、原罪」

この4つの言葉が意味するものが、哀しい。
この言葉に繋がれている俤が恋しくて、熱が瞳にのぼり視界がゆっくり滲みだす。
滲んだ瞳の先に4つの単語を見つめる、そして伝わる晉の想いに英二は微笑んだ。

「これは、警告なんだな…自分の息子と、その子供への。息子はフランス語が読めるから、」

哀しい警告を遺さざるを得なかった、晉の想い。
この記録を遺した「事実」に鬩ぎあうのは、誇りと屈辱、家族への愛、父の名誉、そして「原罪」
ひとつの心の鬩ぎあいが生み出したフランス語の文章は、贖罪と警告と、愛情に充ちている。
これを書き遺した晉の祈りが響いていく心に、透明なテノールが考えを告げた。

「だからフランス語で書いたんだろうね。それも限定出版だ、これなら仏文に興味がある人間しか、まず読まないよね。
それに大学の記念出版で小説だから『記録』を書いたなんて、普通は考えない。でも、もし束縛に直面したら、本人だけは気づける、」

テノールが告げる、32年前に書かれた『記録』の意図。
きっとそう意味だろうと頷けてしまう、哀惜と現実の重みが今に重なっていく。
重ねられる時の記憶に佇んだブナ林を風ゆらす、風めくるページを白い指は再び指し示した。

『Un autre nom』

「この『もう1つの名前』がなにか、ってさ?もう解ってるよね、俺たち、」

“私はもう1つの名前を埋葬した、私の拳銃と共に”
“私の原罪が作りだした鎖、硝煙と血に纏わりつかれる香、死の眠りに誘う名前”

この2つの文章が自分の推測を裏付けてくれる、そんな確信に英二は隣を見た。
見つめる隣、新緑の風に黒髪なびかせながら、光一は黙って微笑んでくれる。
微笑と見つめ返す無垢の瞳に、救助隊制帽の蔭から笑いかけて英二は答えた。

「うん、『Fantome』だな、」

最初の『Fantome』は、晉。

それが現実だと、馨の日記も晉の記録も、告げている。
そして遠野教官も見てしまったファイルの名前も、告げてくる。
もう、目を逸らせない、誤魔化しも出来ない。それが現実なのだと言うのなら、受けとめるしかない。
そんな覚悟を見つめながら英二は、白い手が持つ本のページを捲った。そして想ったとおりの単語を見つけて、ちいさく微笑んだ。

「このUn prologue、序章にヒントがあるよな?ここ『Un nom comme le tireur』って書いてある。これって、狙撃手の名前、とかだろ?」
「うん、そうだね。『tireur』が銃撃者、って意味なんだ、」

問いかけに、ゆっくり光一は頷いた。
そして前後の文章を翻訳してくれた。

「従軍した私は、狙撃手としての名前を付けられた。それは『幻影のような存在』を意味する、私が愛する言語の名前だった、」

晉は学生射撃の名手として狙撃手に指名され、フランス文学者だったことから、フランス語のコードネームを付けられた。
そして『Fantome』は生まれた、「天才狙撃手」を意味するコードネームとして。
この経緯を現す一文に英二は哀しみと微笑んだ。

「あの戦争のとき、敵性語とか言って英語とか、避けていたんだよな?でも、あえてフランス語名なんだな、フランス文学者だから、」
「暗号として使われるならね、外国語の方が通信傍受されたとき、却って解かり難かったかも。それにしても、ね?」

言葉を切って光一は、すこし首を傾げこんだ。
そして寂しげに細い目は笑んで、透明なテノールが言った。

「幻影のような存在『Fantome』だなんてね、『Le Fantome de l'Opera』の怪人そのまんま、だよね?」

狙撃手は相手から捕捉できない場所から狙撃する、幻影のような存在。
それはフランス文学の名著『Le Fantome de l'Opera』で現れる怪人とよく似ている。
この幻影を自分は抱いている、この想いに救助隊服の胸元ふれて、英二は哀惜に微笑んだ。

「そうだな、狙撃手は幻みたいだな?…視た瞬間にはもう、命は奪われて見えなくなるんだから、」

指先ふれる合鍵の輪郭に、50年の束縛がなぞられる。
この束縛を眠らすことを晉は、どれだけ祈っただろう、願っていただろう?
この祈りの為に晉は「もう1つの名前を埋葬した、私の拳銃と共に」地中深い秘匿に埋めて『Fantome』の事跡を消そうとした。
けれど晉の願いと裏腹に、この秘匿がファイル『Fantome』を生み出した。

「ファイル名『Fantome』にはさ、『S.Y』と『F.K』の資料が保管されていたけど。もう、あの『F.K』の意味、解かるよね?」

テノールの声が傷ましい想いに訊いてくる。
やっぱり同じように光一も考えている、そんな想いと英二は頷いた。

「うん、Fは『Fantome』、Kは『馨』だろうな、」

コードネーム『Fantome』の鎖が馨に繋がれてしまった、晉の願い叶わずに。
この過去の現実に、なぜ晉が息子の射撃部入部を反対したのか解かってしまう。
この皮肉な運命の廻り記すページを、英二は長い指先に広げた。

「この第一章のとこ…自首したら、正当防衛も認められたよな、」

ため息の先に映るページには、晉が犯した罪が記されている。
その罪をフランス語の綴りに見つめて、透明なテノールが言葉に変えた。

「一発の銃声に、私は抽斗を開いて拳銃を掴んだ。そして窓から見た光景は、東屋に倒れ込んでいく父の姿。
スローモーションのように、男が父の胸元から銃を離す。その男を私は狙撃した、書斎の窓から頭に狙いを定めて…トリガーを弾いた、」

即死だった。

終戦を迎え『Fantome』は、元のフランス文学者に戻った。
それなのに、戦後17年を経た日、ただ一発の銃弾に『Fantome』は甦ってしまった。
戦時中は軍人としての任務のなか狙撃をしたから合法、けれど戦後に晉は民間人として狙撃をしてしまった。
その罪の証拠のように、家の東屋の柱には黒い染みが遺されている。

「あの柱のトコ、削って持ち帰ったヤツ。俺、預っていたよね?」

透明なテノールが英二の考えを見つめるよう訊いてくれる。
視線だけで頷くと、細い目が寂しげに微笑んだ。

「あれ、ちょっと考えた試薬で試した。やっぱり血液だと思うね、それで柱の上部と下とで、血の種類が違うみたい。
SNPs鑑定なら断定できるけど、そこまでは出来ないからね。あくまで推測になっちゃうんだけどさ、人間の血液ではあると思う、」

50年前、あの家の東屋で流された2種類の血液。
晉が犯した罪の証拠が50年を経た今、こうして明かされていく。
それは父親を殺された怒りからだった、それでも罪は罪、違法行為であることは否めない。
けれどもし自首が出来ていたなら、正当防衛も認められたかもしれないのに?

―それでも、出来なかったんだ…自分のお父さんの為に、

“けれど父の名誉を守るために、私は屈辱に跪いた。あのときは、それしか選択肢が無いと思った…愛する家族を守りたかった”

晉が抱え込んだ闇の昏さと重さが、哀しい。
そして馨もきっと、父親と同じ理由で『Fantome』を選ばされた。
そんな哀しい推測が出来てしまう。

“もう1人の過去の私を蘇らせようとする、私の学友で戦友の男。あの男はきっと、私の原罪を悦んで、私の子孫に及ぼそうとしていく”

50年前に生まれた重たい闇、それを利用した「あの男」の影がさす。
絡みつく闇に惹きこまれいく馨の傷み、その17年間が紺青色の日記帳に綴られる。
この「読む」作業は決して楽ではない、綴られる運命が行きつく涯を既に知っている自分達には。
それは晉の記録も同じこと、これを最初に独り読んだ光一の想いが、自分にも解る。

「ありがとう、光一。実験も翻訳も、助かったよ。ごめんな、」

隣に英二は綺麗に笑いかけた。
笑いかけた先、すこし首傾げこんだ無垢な笑顔が笑って訊いてくれた。

「謝ることなんかない、って言ったよね?俺はやりたいからやってる、それだけ、」

底抜けに明るい目が温かい、この眼差しは最高峰ですら自分を温めてくれる。
こんなふうに自分を受けとめてくれる、この大らかな優しさが愛しい。
そんな想い素直に英二は口を開いた。

「さっきも言ったけど。光一に俺、謝りたいんだ、」

告げた言葉に透明な瞳が、すこし大きくなった。



(to be continued)

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第48話 薫衣act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-07-02 23:58:52 | 陽はまた昇るside story
記憶、想い馨らせて



第48話 薫衣act.4―side story「陽はまた昇る」

歩いていく廊下ふる陽射しがオレンジ色にあざやぎだす。
いま18時15分すぎ、まだ明るい光に陽の長さが思い知らされる。
もう夏が近い、それは避けられないことなのに、つい心が傷んでしまう。

夏が来たら本配属、それから?

そればかり考えてしまう、そして覚悟を確かめている。
この初任研修が始まって1週間、もう何度このことを考えてきただろう?
ほっと溜息ついた湯上りの頬を、横から関根が小突いた。

「やっぱり宮田、ここに傷痕があるな?」

小突かれた場所は、痛くもなんともない。
けれど熱るときに現れる細い小さな傷痕が、そこに刻まれている。
やっぱりまだ残ってるんだ?考えながら英二は答えた。

「湯上りだからな、周太も見える?」

タオルで髪拭いながら笑いかけると、黒目がちの瞳が見上げてくれた。
すこし見つめて、それから周太は微笑んだ。

「ん、見える、竜の爪痕…かっこいいよ?」

そんなこと君に言われたら嬉しいです、もっと言って?

また恋の奴隷モードになって、けれど我に返った。
いま関根も一緒に歩いているのに、こんなのは拙いだろう。
さっきも風呂でちょっと拙かったな?記憶に我ながら笑った英二に、ふっと関根が尋ねた。

「正直なとこさ、やっぱり俺は、宮田のお母さんには反対されるよな」
「どうして、そう思う?」

どんなふうに関根は考え、そう思っているのだろう?
訊き返した英二に、すこし困った顔でも快活に笑って答えてくれた。

「育ちが違うからさ、俺と英理さん。そういうの、気にするだろうな、って思って、」

たしかに関根の育ちは姉との差が大きい、それを母は気にして反対する可能性が高い。
名門女子大を姉は優秀な成績で卒業し、英国に本社を置く名門食品メーカーに就職した。
通訳としてエグゼクティブセレクタリーとして勤務する姉、聡明で優しくて、明るい華やかな美貌がまばゆいと弟の目からも思う。
そんな姉を母は理想通り自慢の娘だと思い、とても頼りにして甘えている。だから姉の相手も理想通りを求めたいだろう。
息子が予想外の人生を選んでしまった今は、尚更に。

―ごめん、関根、

ちいさな罪悪感が胸を噛む。
けれど今の人生を後悔するなんて自分には出来ない、今が幸せだから。
この今も隣を歩いてくれる人に出逢ったことを、心から幸福だと想っているから。
それでも自分が家を継いでいたなら、姉の相手に対する母のハードルは下げられていただろうか?
こんな想いに沈みかけた隣から、おだやかな声が言ってくれた。

「確かに、お母さん気にするかも。でも、関根なら大丈夫、って思うな」
「マジ?ほんとに湯原、そう思う?」

快活な目が真直ぐに黒目がちの瞳を見つめた。
どうして周太はそう思ってくれるのだろう?英二も見つめた先、瞳笑ませて周太は問いかけをした。

「関根は、お母さんとも向き合って大切にしよう、って思う?時間懸っても、お母さんを受けとめたい?」
「おう、もちろんだ、」

即答して関根は爽やかに笑ってくれた。

「だってさ、大好きな人を生んでくれた人だろ?まあ、俺は短気なとこあるから、腹立てる時もありそうだけど。
それでも大切にしたいよな?こういう俺だし、時間が懸るだろなって覚悟はしてる。解かって貰えるまで、がんばりたいよ」

こいつ、本当に良いヤツだな?

そんな想いに笑顔ほころんでしまう。
こういう覚悟が出来る相手なら、きっと姉も母も幸せにしてくれる。
そんな予兆が嬉しい隣から、穏やかな声は言祝いでくれた。

「ん、関根なら大丈夫だね?そういう気持ち、きっと喜んでくれると思う、」
「そっか、ありがとうな。湯原に言われると自信持てるよ、」

快活な笑顔が幸せそうに笑っている。
そして少し声低めて関根は、率直に周太に尋ねた。

「あのさ、正直なとこ、宮田のお母さんって、怖い?」
「ん、ちょっと、ね?でも、」

素直に答えて周太は困ったよう首傾げこんだ。
けれど黒目がちの瞳に優しい微笑を見せて、言葉を続けてくれた。

「本当は寂しがりで、繊細な人だと思う。すこし不器用で、頑固に見えるけど…本当は、人を好きになりたい人だよ、だから大丈夫、」

どうして君は、そんなに優しい?
あの母をそんなふうに気付いて、真直ぐ見てくれる?

そんなふうに息子の自分すら見ていない、けれど婚約者は母の寂しさを思い遣っている。
このひとの優しさは、剱岳山頂で見つめた大らかな青と白を想い出さす。

標高2,999m剱岳。
あの蒼穹の点にあったのは、氷雪と空と海が魅せる青と白の世界だった。

雪山おおう氷雪は冷厳の死を蹲らせ、永遠の眠り誘う吐息を潜めている。
けれど氷雪も春迎えれば雪代水となって、世界を生の歓びに潤していく。
こんなふうに山の雪は生命と終焉を廻る、死の存在すら生命の糧に変わり、死と生が一環の和に廻らされる。

だから心も同じではないかと思えた。
心の氷壁も融けることが出来たなら、温かな想い育む可能性があるのではないか?
両親の間には冷たい壁が凍りついている、けれど今から温かい絆が始まっていく可能性もある?
あの蒼穹の点で見つめた青と白の世界に、そんな希望を想った。
あの想いを今、周太は言葉に変えて微笑んでくれる。

―やっぱり君を愛している、

そっと心告げる想い微笑んで歩くうち、個室の前に戻ってきた。
自室に入って扉を閉める、その足元を黄昏の光が浸しこんだ。

「…懐かしいな、」

ひとり言こぼれて、微かに英二は笑った。
こんな太陽のいろにすら「山」を想いだし、懐かしくて堪らない。
こんなふうに黄昏を迎える瞬間の、山の光と影の世界に帰りたくなる。

雪山で見た黄昏は、白銀にふる黄金と薄紅が輝いていた。
赦された瞬間に赦された人間しか見ることの出来ない、雄渾な壮麗が充たす高峰の世界。
冴え渡る冷厳の大気、太陽の黄金充ちる瞬間と光、氷雪の感触と凍れる風圧、銀砂に輝く星々の静謐。
あの全てが今、恋しい。あの場所に帰りたくて堪らない、自分の立つべき場所がどこなのか思い知らされる。
こんなふうにコンクリートの街並みを見下ろす場所にいる今、すぐに帰れたらいいのに?

「今すぐ、連れて帰れたら…な、」

ひとり言に願いこぼれて、ほろ苦い。
今すぐ本当は浚ってしまいたい、隣の部屋の扉を開いて、抱きかかえ連れ去って、恋しい場所に帰りたい。
今日も朝に向きあった「50年の束縛」重たい軛から、遠く連れ去って一緒に帰りたい。
そして美しい世界だけを見つめさせてあげたい、黒目がちの瞳に笑顔だけを映したい。
けれど、叶わぬ願いだと知っている。そんな「知っている」に疑問がまた心軋ませる。

どうして「一発の銃弾」は撃たれてしまった?

どうして50年前に惨劇は起きてしまった?
その全てが書かれている「記録」の最後を今、光一が読んでいる。
そして自分も今週末には知るだろう、いま抱いている哀しみの原点が見え始める。
けれど、なぜ?

「…なぜだ?」

かすかな呟きに唇ふるえた。
この哀しみが生み出した「今」が孕んでいる矛盾に「なぜだ?」と問いかけたい。
もし50年前の銃声が無ければ「今」自分が抱きしめる幸せは無い、この矛盾の皮肉が痛い。
こんな皮肉は痛い哀しい、なぜ人は、幸せと哀しみが交ぜ織られてしまうのだろう?
そんな疑問に息詰まった背後で、扉が小さく叩かれた。

こん、…こん、

遠慮がちなノックの音が、やさしい。
やさしい音に導かれるまま開錠する、そして開かれた扉から黒目がちの瞳が笑ってくれた。

「英二、ごはん行こう?」

ごはん行こう?
こんなありふれた言葉が、自分には愛しい。
この言葉をこの声が聴かせてくれる、それが日常になり続ける日が欲しい。
そんな願い見つめながら、愛するひとに笑いかけた。

「うん、飯行こう。隣に座ってね、周太、」
「ん、」

素直に頷いてくれる微笑、すこし赤くなる首筋が幸せにしてくれる。
この瞬間の幸せを、ずっと繋げていきたい。
そのために今、自分が何をするべきか?

―…捜一時代の同僚にも言われた、ファイルの閲覧に気を付けろ、とな

今朝、知らされた遠野教官が見た現実。あの確認をする必要がある?
それから他のヒントは無かったろうか?

考え巡らせながら英二は、黄昏の廊下を大切な笑顔と歩き出した。



22時半、ベッドに座りこみ壁に背凭れる。
デスクライトのあわい光と月明かりの部屋で、コール0に通話は繋がれた。

「おつかれ、光一。待っててくれたんだ、」
「うん。ちょっと悔しいけどね、待ってた、」

きれいなテノールが微笑んでいる。
どこか心ほぐれたような気配が寛ぐ、もしかしてそうかな?理由の予想に英二は笑った。

「光一、俺が周太から怒られたこと、聴いたんだろ?」
「当たり、」

からり即答して明るく笑った。
そんな様子から、どれだけ不安にさせていたのか解かってしまう。
この償いをどうしたらいい?考えながら英二は素直に謝った。

「夕方に電話で言った通りだ、今まで怖がらせて、ごめん。全然解かっていなかった、不安にさせて、ごめん、」
「うん…」

頷いてくれる気配が、物言いたげにゆれる。
ゆれる想いが愛しい、そんな感覚に透明なテノールがためらうよう訊いた。

「あのさ、…おまえが欲情するのって、俺の体が目的?…それとも、」

言いかけた言葉が、ため息の沈黙に呑みこまれる。
この問いかけの傷みが心刺さる、そんな痛みに本音を知らされるまま、答えた。

「おまえが好きだよ、光一の心も体も好きで、欲しくなってエロくなる。山っ子が欲しい、」

好きだから欲しい。
それしか理由なんてない、この本音に裂かれる痛みが甘い。
裂かれるまま甘くなる傷に、透明な声がすこし笑ってくれた。

「俺のこと、全部が欲しいって、想ってくれるんだ?」
「うん、想ってる、」

即答する声が自分に響く。
ほら、もう本音が零れだした、こんな自分は狡い。
けれど本音なら潔く狡くいれば良い、甘い傷裂く開き直りに英二は告げた。

「おまえに見惚れてるよ。山っ子の誇りにも、明るい目にも、きれいな体にも見惚れてる。だからごめん、つい手が出てる、俺、」
「おまえって、ほんとエロだもんね?俺のことも、エロの餌食にしたいワケ?」
「うん、したい。でも無理矢理にはしない、信じていいよ?」
「つい手が出てる、って言ったよね?そんなんでさ、俺と一緒に寝てても踏みとどまれるワケ?…山だとふたりきり、だし、」

最後の言葉が、不安に揺らいだ。
山でふたりきり眠る、これはアンザイレンパートナーである以上、当然のこと。
この「当然」の時間に身の安全が保障されるのか?それは山っ子にとって最大の問題だろう。
このことに自分は幾つもの責任と義務と、権利がある。その全てを見つめて英二は綺麗に笑った。

「そうだな、俺も自分で信用できない。だけど、抱く時には俺、ちゃんと光一の準備してから入れるから。安心して?」
「…っ、」

息呑んだ気配に、つい少し笑ってしまう。
こんなこと自分が言うなんて、きっと驚かせたろうな?そんな予想の耳元で、ひっくり返った声が文句を言った。

「なに宮田の癖にろこつなこと言ってんのさ、馬鹿っ」

呼び方まで狼狽えているな?
こんな狼狽えることは珍しい、けれど笑ってくれている気配が嬉しい。
うれしい想いに英二は綺麗に笑った。

「そうだな、『宮田』なら言わないかもな?でも、『英二』は言うんだよ。エロ別嬪だから、」

公人の顔をしている自分はストイックで生真面目な堅物。
けれど私人の自分は恋の奴隷として婚約者に跪き、アンザイレンパートナーを『血の契』に繋ぐほど熱情が高い。
こんな二面性の自分に我ながら呆れそうだ?そう笑った英二にテノールの声も笑ってくれた。

「ほんとエロ別嬪だね、セクハラだよね?そんなに俺に、欲情しちゃうワケ?」

まだ困ったような声、それでも明るい。
本当は、顔を見て話さないと不安を消しきるのは難しいだろう。
それでも今すぐ少しでも楽にしたい、この願いに英二は正直に話した。

「うん、おまえ自分でも言っただろ?可愛いイヴにアダムは首ったけ、だからエデンに行ったら、もう仕方ないよな?」
「そうだけど、ねえ、俺、もう覚悟しなきゃダメ?いつヤられても、仕方ないってコト?」
「ちゃんと待ってるよ、光一がしたくなるの。それでも自制心が折られた時は、ごめん、ってことだから、」
「ごめん、って先に謝ってるワケ?で、ごめんになっちゃったら責任もって、その…準備してくれるんだね?」

気恥ずかしげな「?」が可愛い。
こんなふうに「可愛い」と想いだしている、こんな感情の推移に英二は微笑んだ。

「うん、じっくり準備する。時間かければ痛く無いし、わりと俺、上手いみたいだから大丈夫、」
「ねえ…時間かければ、ホントに痛くないワケ?」

また気恥ずかしげに「?」が尋ねてくれる。
いつもエロオヤジな悪戯っ子が「?」と訊くことが可笑しくて、こっちが悪戯っ子になって英二は答えた。

「うん、ちょっと痛いかもしれないけどね。でも準備も気持ちいいと思うよ、いつも喜んで貰ってるから、俺、」
「そんなに気持ちイイもん?でも…やっぱり痛いんだよね?血とか出るんだろ?」

痛いのは怖い、そんな不安が伝わってくる。
それも無理ないだろうと思う、「最初は痛くて出血もある」話を光一にしたのは英二自身だから。
初めて冬富士に登ったとき、周太との初めての夜を告白した中でその話をしてしまったから。
でもあれは自分の経験不足だった、それを正直に英二は伝えた。

「前に富士で話したけどさ、初めて周太にした時は俺が下手だった所為なんだ。俺、あのとき冷静じゃ無かったし。
あの夜しか無いと思ったから、時間かけて準備してあげられなかったんだ。でも光一とは、ちゃんと時間かけて出来るだろ?」

あのときは、ふたりの時間がまだあるなんて、思えなかった。
けれど、そんな焦りが周太を傷つけた。あの罪は今も痛くて堪らない、身勝手だった自分が悔しい。
それでも周太は、傷みも英二が与えたものなら嬉しいと言ってくれる。

―どうしてそんなに純粋なの?どうしてそんなに、愛してくれる?

想いに背凭れた壁の向こう、恋しさが微笑んだ。
そんな想いにもう1人の愛しい相手が、電話の向こうで羞みながら訊いてくれる。

「あのさ…時間かける、ってどのくらいなワケ?」
「光一の体が、受入れられるようになるまで、」
「それじゃあさ、…最初から出来なくても、イイんだね?」
「うん、良いよ。光一の体を傷つけたくないから、無理はしない。入れる時も最初は少しずつ、馴染むの待つ感じで入れるから、」
「っ、だからろこつすぎだって馬鹿、」

言ってテノールが可笑しそうに笑いだした。
その声が明るい、それが嬉しくて一緒に英二は笑った。
ひとしきり電話をはさんで笑い合って、光一は言ってくれた。

「ありがと、安心できた」
「そっか、よかった、」

これでもう怖がられないで済むかな?
なんとか戻った信頼に笑いかけ、それから英二は現実へと微笑んだ。

「今朝、また訊かれたよ?」

この一言で、光一なら解かる。
そんな信頼に電話むこうの気配が笑って、頷いてくれた。

「ふうん、そっか。まあ、当然かもね?で、来週末と夏の予定はどう?」

やっぱり理解してくれた、この呼吸がいつも安心できる。
ふたり結んだ「血の契」その絆が離れている今も、色濃く相手に繋がれる実感が温かい。
いつもながらの記号化された「秘匿」の対話、この信頼感に英二は笑いかけた。

「うん、今朝もう決まったよ。夏は7月の盆明けの週末、どうかな?」
「OKだね。今日、スケジュール貰ってきたんだよね、俺、」
「あ、それ見ながら話してるんだ?」
「そ。じゃあ、ここに決定しとくからね、」

これで「奈落」を探す日程は定められた。



日曜の早朝、ブナ林は鎮まっていた。
まだ6時前の夜明け過ぎ、山は目覚めきらない。
ただ梢わたる風音が森の香をふらせていく、その下でテノールの声が笑った。

「朝の自主トレは久しぶりだね、この時期もさ、気持ちイイだろ?」
「うん、空気が気持ち良いよ。いま平日は離れてるから、なおさらそう思う、」

微笑んで見上げた梢は、若葉がまた鮮やかになっている。
まばゆい緑の色からは、ふるよう清澄な香が深い森を潤していく。
今あふれる山の色彩に香に、やっと呼吸が出来る。

「やっぱり俺、もう山が居場所になってるな、」

本音こぼれて英二は笑った。
いま警察学校での日々も楽しい、けれどこうして山にいることが嬉しくて堪らない。
そして想ってしまう、ここに周太も連れて来れたら良いのに?
そんな想い佇んだ隣から、光一が楽しげに笑ってくれた。

「いま、周太も一緒なら良いな、とか思っただろ?」
「あれ、わかる?」
「そりゃね、ちょっとエロ顔になってるからさ、」

きれいな笑顔と底抜けに明るい目が優しい。
この優しさと明るさに、自分はいつもどれだけ救われてきている?
この笑顔は大らかで無垢で、温かい。そんな相手に自分はなにを負わせているだろう?
そんな想いに立ち止まった英二を、雪白の貌は振向いて訊いてくれた。

「うん?どうした、」

立ち止まって見つめてくれる瞳が、透明な暁の光と笑う。
いま山の朝に佇んだ姿は本当に「山の申し子」この美しい存在に山ヤの心は憧れずにいられない。
憧れ惹かれるまま歩みよって、透明な瞳に英二は微笑んだ。

「愛してるよ、光一。それから、ごめん、」
「なに謝ってんの?」

訊いて光一は明るく笑ってくれる。
そんな無垢な笑顔に心が共鳴して、英二も笑った。

「いろいろ、謝りたいんだ。昨夜は救助が入って、ゆっくり話せなかったけど、」
「ホント昨夜は、お疲れさまだよね?ま、無事に済んで良かったけどさ、」

笑いながら光一は、そこの倒木に座りこんだ。
やさしい木洩陽ふる下、すこし目を細めながら見上げて、笑いかけてくれた。

「この辺でイイよね?」
「うん、いいよ、」

登山道から逸れた仕事道の奥、静かなブナの森。
暁の静謐に佇んだ隣に英二も座ると、カーゴパンツのポケットから光一は一冊の本を取りだした。

「最終章のコト、話すよ?」

テノールの声が告げ、白い手は古い本のページを開いた。





(to be continued)

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第48話 薫衣act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-07-01 23:21:58 | 陽はまた昇るside story
残り馨、消えても遺されるもの



第48話 薫衣act.3―side story「陽はまた昇る」

『Fantome』

この言葉は、警視庁のなかで特別な意味がある。
この言葉は所謂「隠語」その文字通りに隠された存在であるべき言葉。
それをなぜ、遠野教官が知っている?

―なぜ知った?

遠野教官の前歴は捜査一課。
捜査一課にはSITがいる、SITになる者たちの前歴は?
そう考えると遠野が捜一時代に「隠語」を知る可能性は高い。
それとも、職務への責任感が生んだ偶然が招きよせた、とも考えられる。
この推理2つと微笑んだ向こう側、かすかなため息が遠野教官からこぼれた。

「交換条件を出せば、教えてくれるか?」

交換条件、その意味が何を指すのか解る。
この提示が真実なのか?それはきっと「NO」だと今の自分は解かる。
この「交換条件」の情報に真実を知れば、英二が何をするかぐらい遠野教官は解かっているだろうから。
それを解ったうえでも情報を与える心算なら、遠野教官は「教唆犯」になってしまうから。

なによりも、自分の方こそ教えられない。
絶対に教えるわけにはいかない、それは初任総合初日にも伝えたこと。
あのときと同じに微笑んで、英二は真直ぐに答えた。

「遠野教官、人が背負い切れる責任と義務は限りがある。そう思いませんか?」

こんな言い方は失礼だと、解かっている。
けれど他に何を言えばいいのだろう、この言葉の通りなのに?
これは「知る」こと自体が危険の引金と知っている、それをどうして言うことが出来る?
そんな想い目に映して見つめた先で、仏頂面が小さく微笑んだ。

「俺には背負えない、そう言うことか、」
「申し訳ありません、」

ひと言を告げて英二は頭を下げた。
ゆっくり姿勢を戻し、また真直ぐ見つめた視線を困ったよう遠野が見つめ返す。
いま選択に困惑する「話すかどうするか?」そんな途惑いが見つめてくる。
すこし押したら話す?そう視てとったままに英二は笑いかけた。

「率直に言います、ファイルの閲覧はご注意ください。逆トレースされる危険が高いですから、」

これは推測から生まれた「トラップ」の台詞。
これに係るだろうか?それとも外される?逆に自分がトラップに掛けられる?
いま考え巡らす冷えた脳裏に映る視界で、厳格な顔に表情が揺らいだ。

「なぜ、そんなことを俺に言う?」
「捜査一課にはSITがありますね、」

間髪入れず仕掛けた第二のトラップに、遠野教官の目が大きくなった。
その表情に遠野が何をして「隠語」を知ってしまったのかが見えてくる。
やっぱりあの部署にも「束縛」の鎖が存在する、その鎖に無意識のまま絡まれそうな男が、目の前にいる。

―どうか止めてほしい、もう誰も、関わるな

もう関わらないでほしい、あの鎖に繋がれることは逃したいから。
どうしたら止められるのだろう?どうしたら逸らすことが出来る?いま自分が何を言えば止められる?
幾つかの可能性と考え廻る眼前、ひとつ息呑んだ遠野教官の口が開いた。

「捜一時代の同僚にも言われた、ファイルの閲覧に気を付けろ、とな、」

『ファイルの閲覧に気を付けろ』

この台詞を遠野に言う「捜査一課の同僚」は誰か。
彼が何のチームにいるのか?彼の前歴はどこにあったのか?
それはもう訊かなくても解かる、そして、なぜ彼が遠野に台詞を言ったのかも。

もう遠野教官はマークされた?
このまま放っておいたら遠野教官は、なにをする?
この男の性格から考えて、有耶無耶にすることなど出来るのだろうか。
どうしたらいい?心裡ため息こぼれる音を聴きながら英二は微笑んだ。

「履歴書の回付先をトレースした、それが切欠ですよね、」

微笑んで告げた推測のトラップ、この3つめで口を割るだろうか?
けれど遠野教官はいつもの皮肉っぽい笑み浮かべ、問い返した。

「俺がトレースをする、その動機は?」
「2つ、ですよね、」

短い答えに一度言葉を切って、真直ぐに目を見た。
目を視線で捕えたまま微笑んで、静かな低い声で英二は推測を言った。

「1つめは、警察学校の意志を無視された経緯の事実確認、2つめは自分の訓練生に何が起きているのか知りたい。
この2つを、警察学校の教官としての責任感と、ご自身のプライドから知ろうとされた。これがトレースをなさった動機ですよね?」

自分に与えられた職務への責任と義務と誇り。
これらを侵害されたなら、当然のよう理由を知りたいと思うだろう。
けれどこの「知りたい」が危険を招いてしまう、それが怖い。
そんな想いの目の前で、遠野教官が空を仰いで笑った。

「ははっ、お手上げか、」

ため息のような短い笑いに、皮肉な笑みが英二を見た。
仕方ないな?そんな諦観の顔のままで遠野教官は口を開いてくれた。

「その通りだ、宮田。俺は湯原の履歴書をトレースした、どこの誰が新宿署への配置を決めたのか、知りたかった。
俺の職務を無視されて腹も立った、警察学校の意志を完全に無視した決定に、納得が出来ない。それが最初の動機だったよ、」

低く声は朝の静寂に気配を隠す。
ふっと風が吹きぬける、濡れた髪が揺らされ冷えて脳髄がクリアになっていく。
朝陽ふる中庭には誰もいない、無人を見渡せる水場で遠野は事実を告げた。

「辿り着いた最後のファイルでは、氏名がイニシャルにされていた。代わりに、射撃の全成績が添えられてな、」

緊張のため息が言葉を切った。
わずかな沈黙、そして真直ぐ英二を見つめて苦い声が言った。

「警察学校から後の記録が添付される、それは解かる。だが、高校から大学までの8年間、大会から練習のスコアまである。
そしてファイルには、もう1人分の履歴書と経歴書、学生時代からのスコアが保管されていた。こっちは氏名欄が無かった。
ただデータ名が『F.K』とあるだけだ、それでも履歴書と経歴で誰なのか特定できる。この特定が正解だとしたら、これでは最初から」

言いかけた言葉に躊躇いが口を閉ざす。
けれど遠野は再び口を開き、英二に問いかけた。

「このファイル名が『Fantome』だ、この言葉の意味は何だ?なぜ揃って、警察官になる前のデータまで保管されている?」

ファイル『Fantome』

周太が初めて射撃にふれたのは、高校1年生の部活動。
それから大学の4年間と、警察学校6カ月間のスコア、そして卒配期間の新宿署特練と2つの大会の記録。
周太が射撃を始めてから今日まで、8年間の射撃スコア全てが『Fantome』には保管、管理されている。
『F.K』の記録も同様、大学3年生で射撃部に所属した時から殉職した当日までのスコアが残されている。
但し実戦記録だけは、通常ツールから入っても存在すら気づけない。

それでも英二と光一は実戦記録まで見ることが出来た、このデータは記憶に綴られている。
なぜ『Fantome』が作られたのか、その原点も「家」とアルバムから既に見つけたのだろう。
だからもう解っているだろうと思う、この添付データの存在が何を意味しているのか?
だから知っている、『Fantome』は隠語、隠されるべき存在。

なぜ『Fantome』は、隠されるべきなのか?

それは司法の「禁域」に棲む存在だから。
それは法治国家の矛盾が生んだ「奇形の正義」だから。

これは倫理と法治の陥穽と軋轢「必要悪」安易に踏みこむべきではない領域。
だから何も言うことは出来ない「自分が知っている」ことすら口外すべきでは無い。
だから何も言えない、黙って聴くことしか出来ない、この沈黙に佇む英二に遠野は真直ぐに訊いた。

「宮田、おまえは知っているな?俺も見てしまった、もう同じだ。ならば教えてほしい、俺は担当教官として知る責任がある、」

ファイル『Fantome』の存在を知っているか、いないか?
知っているという意味では確かに同じだろう、けれど「知っている事を知られたか」この差が大きい。

英二にはファイル閲覧権限それ自体がまだ無い。
そして光一の「特別ルート」から閲覧をしている、だから逆トレースは無い。
また英二と周太の関係を公文書で見るなら「警察学校の同期」だけ、あとは身元引受人欄の周太の母の名前しかない。
けれど、それも英二を特定して調べなかったら、おそらく判明し難い。

遠野教官は周太の担当教官、この関係は周知の事実で誰もが知る。
そしてファイル閲覧権限を持っている、けれど光一のような逆トレースの防御をしていない。
この条件では、遠野が『Fantome』を探れば即座に気づかれる、だから「捜査一課の彼」から警告がされた。

―この警告が、どうか、善意であって欲しい

その「彼」が例え束縛の一本だとしても、遠野には救い手であってほしい。
きっと『Fantome』に向きあう自分は、これまで以上の絶望と怒りに出会い利己の醜悪を見るだろう。
だからこそ「彼」が示した警告は元同僚への善意だと、遠野を守る意思なのだと信じていたい。
あの残酷な束縛を守る人々にも「人間の尊厳」を守る想いが残されていると信じたい。
どうか信じさせてほしい、祈り心に呟いて英二は綺麗に微笑んだ。

「事実を言います。遠野教官、湯原のために探らないで下さい。なにも知らないでいる、それだけが湯原を守ります、」

どうか知らないでいて欲しい「あなた」を守る為に。

そう言っても遠野教官は、きっと知ろうとするだろう。
警察学校教官の任務に誇りを懸けて、1人の警察官として、敏腕を謳われた刑事として知ろうとする。
けれど「湯原のため」教え子の為と言われたら、この男の身動きは封じられるはず。

―あの安西の事件の時も、そうだった…遠野教官は

あのとき遠野が「撃て」と周太に言ったのは、本気だった。
それは殺人の罪を犯させる為ではなく、周太を援けるために言ったことだった。
あのとき発砲を拒めば周太は、冷静な恐慌に陥っていた安西に手錠で繋がれたまま射殺されたから。
そして、あの「発砲許可」は本当は、捨て身だった。

確かに周太の射撃は今、警視庁でトップを争う精度を持っている。けれど人に向けて発砲することは競技とは違う。
当然に精神的にゆすぶられる、精神の集中を欠けば射撃は標的を狂わす、それら全てを知っても遠野は発砲を「許可」した。
あの瞬間の眼差しから知っている、この教官は誰よりも本当は「守りたい」意志が強い。
だから周太の安全を盾にするならば、これ以上の遠野の捜索は封じてしまえるはず。
この確信と見つめる先で、また1つ空仰いで遠野は溜息に笑った。

「知らないことが守る、なるほどな。そういうことも、この世界は多い、」

すこし皮肉な笑みに口許ほころばせて、けれど黒い瞳は傷むよう見つめてくれる。
透かすよう英二を見、遠野教官は訊いた。

「おまえはどうなんだ、宮田?おまえが知ることは、湯原を危険に晒さないのか?」

この人なら英二の現状に、なにか気付いているかもしれない。
そんな思いと真直ぐ見つめて英二は微笑んだ。

「どうでしょう?」

短い返事、けれど何も答えてはいない。
それでも遠野なら解るだろう「何も知らない」ことだけが守る、それが本当なのだと悟るだろう。
だから何も言わなければいい、真直ぐ見つめる目へと綺麗に笑って、英二は嘘を吐いた。

「私も、知りません」

笑顔のまま1つ礼をすると、英二は寮の入口へと踵を返した。
いつもの足取りで歩く背中を視線が見守る、その視線に自分は気づいてもいけない。
もう誰も巻きこめないから気付かない、これは光一と自分以外は誰も知ってはならないから。
どうしても周太から離れられない自分達だけしか、知る必要はない。

―もう誰も関わらないでほしい『Fantome』には

Fantome:化物
Le vaisseu fantome:さまよえるオランダ人
La Fantome de la liberte:自由の幻想

『Fantome』

この言葉で有名なのは『Le Fantome de l'Opera』
邦題は「オペラ座の怪人」恋愛を廻るミステリーを描いたフランス文学の著名な小説。
このミステリーはオペラ座の「奈落」に棲む怪人『Fantome』が紡ぎだす。

オペラ座の地下「奈落」そこは表舞台の仕掛けを動かす闇の世界。
その闇にひそやかに棲み続けているのは、オペラ座を作った天才設計技師。
この技師は醜い顔を隠すためにマスクをつけ、この醜さゆえに「奈落」に身を潜め生きている。
それでも時に「奈落」から幻影のよう現われて、彼は自己の存在を示し、警告する。
オペラ座は自分の館、巨大なカラクリ箱、支配者は「闇」に堕とされた自分だと。
そして誰かが館を暴こうとするならば、カラクリ箱の罠に嵌めこみ死へ誘う。
そんな彼を人々は『Fantome』と呼んだ、本当の名前を誰も呼ばないで。

『Fantome』

醜い素顔を隠すマスクをつけた、「奈落」に沈む異形の天才。
彼と同じようにマスクをつけた天才は、警視庁では「誰」を指す?
または、警察組織で天才と呼ばれる人間がマスクをつける「任務」は何か?
このマスクで顔を隠すほどの「任務」に負わされ「奈落」に住まわされる意味は?

奈落に沈む、本当の名前は消えて「記号」で呼ばれる、存在自体が消されていく、そして残されるものは?

―それでも周太、俺は君を忘れられない。だから離さない、ずっと

忘れられない離れられない、ならば背負えばいい。
この想い抱きしめる俤に微笑んで、英二は自室の扉を開いた。
開いた部屋は朝陽みちて明るい、ほっと息吐きながら扉を閉じた。

ぱたん、

軽い音に扉は閉じられる。
施錠して、そのまま扉に背凭れるとTシャツの胸元にふれた。
そこには今日も小さな合鍵が、そっと指先に輪郭を描いてくれる。
この大切な宝物を布越しに握りしめて、ごく低い声で英二は微笑んだ。

「…フランス文学からコードネームをつける、なんて…ね、お父さん?」

晉はフランス文学者だった。
そして射撃の名手だった、けれど拳銃を深く埋めて「射撃」の事跡を消そうとした。
その拳銃が埋められた場所は家の「奈落」だろうと、コードネームからも確信が深くなる。
これが正解ならば「コードネームと拳銃の埋葬場所」この呼応に晉の想いが切ない。
この晉が遺した皮肉のヒントに、馨は気づかないでいただろうか?

このヒントはきっと馨も「あの警察官」も気付いていはいない。
そう信じたい、そうでなければ「家」に住み続け守った晉の母の想いが無駄になる。
あの家に必ず家族が住み続け、一度も壊すことなく改修だけで住み続けてきた。
その理由の全てが「奈落」にある。

けれど「奈落」は馨も知らなかっただろう。
そして馨の息子と妻は何も知らない、晉の母が祈り願ったように彼女の子孫は何も知らない。
だから、このまま理由にも「奈落」にも、50年の束縛の全てに気付かないでいてほしい。

―全てを自分が背負うから、断ち切ってみせるから、だから気付かないで

どうか誰も何も気付かないままでいて?
これは「知らない」ことがそのまま、護ることになるのだから。
この祈りに被さるよう遠野が言った「交換条件」の記憶がよみがえる。

『銃出せ、殺すぞ』

真っ暗な教場、
自身の拳銃を突きつけられた周太、
その前で勝ち誇るよう座りこんだ、冷静な狂気。
そしてライトにきらめいた、周太の頬の一すじの涙、それを見た瞬間に生まれた感情の色彩。

あの男を自分は、赦せる?

「…ゆるせない、」

きっと自分は赦せない。
だって自分を救った存在を、あんなふうに泣かせるなんて?
そんなこと赦せない、時の経過が過ぎるほど本当は赦せなくなっていく。
時を重ね記憶を重ね、体温を重ねていく時の記憶に恋も愛も深くなる、失うことが怖くなる。
そして怖い分だけ想いの深さだけ、募らされていく「赦せない」想いは熱を高くする。

もし自分があの男と再会したら、自分は何をする?

あのとき自分は射撃の正中度は100%では無かった、けれど今は違う。
あのときは唯の訓練生でなんの力も無くて、けれど今は警察組織での立場も発言力も幾らか手に入れた。
そして「山」に立つとき、現場に立つとき、自分の出来ることは大きく広がっている。
この掌のなか既に掴んだ自由と力、これを自分はどう使いたい?
そんな想いめぐらす背中の扉を、小さなノックが叩いた。

こん、…こん、

どこか遠慮がちな叩き方は、よく知っている。
すぐに開錠して扉を開くと、黒目がちの瞳は見上げてくれた。

「英二、あの、ちょっと質問があるのだけど…朝の点呼まで、いい?」

ファイルを抱えて気恥ずかしげに微笑んでくれる。
その笑顔に幸せを見つけて英二は、そっと腕をとり部屋に導き入れた。
そして小さな施錠音に扉を閉じると、腕を伸ばし小柄な体を懐に抱きこんだ。

「周太、」

名前を呼べる、この今が愛しい。
この今の瞬間に与えられる幸せに微笑んで、英二は唯ひとりの恋人にキスをした。
優しいキスの狭間から、ふわりオレンジの香が口移される。
この香の記憶が、温かで愛しくて、離せない。

―絶対に護ってみせる、誰にも邪魔させない

抱きしめた誓いのキスふれながら、オレンジの香に祈りと微笑んだ。



今日最後の授業、射撃訓練が終わった。
射撃場から出ると緑が清々しい、硝煙の匂いも風に消えてゆく。
関根と周太と3人並んで歩きだすと、黒目がちの瞳が見上げ訊いてくれた。

「英二、ちょっと瀬尾と話してきても良い?さっき、話の途中だったから、」
「うん、いいよ。じゃあ先にトレーニングルーム行ってるな?そのあと、学習室にいるよ、」

気にせず行ってきてほしいな?そんな想いと笑いかけた。
周太と瀬尾は初任教養の時から仲が良い、卒業配置後も一緒に手話講習を受講している。
それに金曜日は瀬尾が周太に話しに部屋まで来ていたから、その話の続きがあるのだろうな?
そんなことを考えながら小柄な背中を見送ると、並んで歩く関根が照れくさげに笑った。

「たぶん瀬尾、土曜日の昼の話をするんだろな?昨夜、おまえらに話したけど、」
「5年後の話と姉ちゃんのこと?」
「うん、たぶんな?あのさ、今夜あたり瀬尾に、昨夜の結果を話してもいい?」

訊きながら気恥ずかしげに笑う顔が、幸せそうでいる。
こういう顔でずっと笑って、姉の隣にいてくれるなら良いな?
そんな願いと少しの寂しい気持に笑って、英二は頷いた。

「おまえと姉ちゃんが良いなら、話しなよ。でも、俺達のことは時期を待ってくれな、」

元から関根は勝手に話すつもりがない、そう知っている。
それでも口にした英二に、関根は真面目な顔で頷いてくれた。

「おう、今は知らない方が良いよな、きっと、」
「気を遣わせて悪いな、」

これから関根には、周太と自分の関係について気を遣わせるだろう。
それが申し訳ないな?すこし困り顔で笑いかけた先、快活な笑顔が首をふった。

「そんなこと謝るなって。お前の方こそ俺に話すために、色んな人に話しつけてくれただろ?ありがとうな、」
「たいしたことないよ、」

笑って答えながら寮の入口を潜り、廊下を歩いていく。
この関根と姉が付合うことに当って自分は、4人に相談をした。

姉は結婚前提でしか交際するつもりが無い、それなら当然に家族の問題も相手には話すだろう。
そのとき最も問題になるのは「英二と周太の婚約」、これを公にすることはケース次第でスキャンダルになる可能性が高い。
これを自分だけの判断で話すことは出来ない、だから影響の大きい4人には相談したかった。

まず後藤副隊長に英二は話した。警視庁山岳会長であり山岳救助隊副隊長の後藤は、公人として最も影響があるから。
次に青梅署警察医の吉村医師へと相談をした。非公式でも英二は警察医補佐を務める以上、上司として話しておきたかった。
それに吉村医師は英二の家庭事情から周太と光一のことまで理解してくれる、一番の助言者でもある。
この2人の大人から意見と助言を貰ったうえで、父に連絡をして許可を貰った。
そして最後に、光一に話した。

「俺は構わないね。おまえの判断を俺は信じてるよ、後は支えるだけだよね、」

そんなふうに山っ子は笑ってくれた。
自主トレーニングで登った岩壁の上、日原川に砕ける陽光を眺めながら話す時間は穏やかだった。
ゆるやかな川風は水の香が心地いい、ゆれる黒髪が艶めくはざま雪白の肌は明るんで。
いつものよう底抜けに明るい目は、楽しげに笑ってくれていた。
あの笑顔が、切ない。

「じゃ、宮田。トレーニングルームでな、」
「おう、」

笑って別れて、自室の扉を開く。
施錠しながら鞄をデスクに置くと、そのまま携帯を開き窓辺に佇んだ。
送信履歴から架けて空を見上げる、見上げた色彩は青くて、微かな夕映えが降りだしている。
いま奥多摩も晴れているだろうか?想い馳せるコールに5を数えたとき、通話が繋がった。

「おつかれ、光一、」
「こんな時間に、何かあったワケ?」

すこし焦るようなテノールが訊いてくれる。
いま16時20分、まだ駐在所は業務時間内になる。そんな時間に電話するなど普段の英二はしない。
やっぱり心配させたな?我ながらこんな行動が可笑しい、それだけ自分が朝から考えていたと思い知らされる。
この想い素直に英二は、電話の向こうに笑いかけた。

「こんな時間に、ごめんな。すこしでも早く謝りたかったんだ、光一に。それで今、授業終わってすぐ架けてる、」
「…謝る?」

短く訊いた声が、不思議そうに驚いている。
やっぱり意外なのかな、そう想われる自分に困りながら英二は微笑んだ。

「抱きたいって言って、怖がらせて、ごめん。もう勝手なことしないから、赦してよ?」
「…え、」

告げた言葉に電話の向こうが揺れる、きっといま雪白の頬は桜色になっている?
大切な俤に微笑んで、時計見ながら英二は1つ約束をねだった。

「また今夜も、10時半ごろ電話していい?」
「うん、…待ってるね、」

すこしの沈黙に、切ない想いが起きてしまう。
どれだけ不安にさせていた?この自責があまく痛い、傷みに英二は綺麗に笑った。

「ありがとう、光一。愛してるよ、俺のアンザイレンパートナー、」
「そう言ってもらうの、うれしいけどね。昼間っから、どうしちゃったワケ?」

ちょっと可笑しそうに笑ってくれる。
すこしは信じて貰えたなら良い、そんな想いと微笑んだ。

「どうもしない、正直に言ってるだけだよ。光一、またあとでな、」
「うん、またあとでね…英二、」

最後に名前、やっと呼んでくれた。
いつもどこか躊躇うよう名前を呼んでくれる、それが切なさに愛しい。
この想いの相手が自分のパートナー、警察組織でも「山」でも、そして。

―そして、周太を守るための、唯一のパートナーなんだ、

唯ひとり自分と並び立てる『血の契』結んだ相手。

誰よりも信じ頼ることが互いにできる、ザイルに生命と誇りを繋ぎあう運命の相手。
自分とよく似ている正反対、それは表裏や陰陽のよう呼応して、常に響きあう。
恋愛とすこし違う、けれど強く繋がる絆を感じあう、鏡のような唯ひとり。

こんな相手を愛さない筈がない、本性の熱が高すぎる自分だから。

「ほんとうに大切だよ、光一、」

素直な想い告げて、そっと電話を切った。




(to be continued)

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