萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

soliloquy 建申月act.7 Rose hivernale ―another,side story「陽はまた昇る」

2012-12-19 00:29:48 | soliloquy 陽はまた昇る
容、それぞれの視点と想い
第58話「双璧9」幕間です



soliloquy 建申月act.7 Rose hivernale ―another,side story「陽はまた昇る」

落葉松の純林は、黄金色にページを彩らす。

渋みの金色あざやかに紙面を染めて、去年の秋を思い出さす。
この街から電車で2時間もかからない森、その場所での幸せな記憶に周太は微笑んだ。

「手塚、これって奥多摩の森でしょ?…雲取山の野陣尾根の落葉松だと思うんだけど、」
「どれ?58ページな、」

横から覗きこんで、日焼けした指が索引ページを開いていくれる。
そこに表記された地名へと、愛嬌の笑顔は明るくほころんだ。

「当たりだ、すごいな湯原?よく解ったな、」
「ん、だって行った事あるからね、」

なんでも無いことだと笑って、オレンジの缶酎ハイに口付ける。
ほろ酔い加減が気分いいな?楽しい気持ちに缶を傍らに置いた隣、缶ビール片手の友達は瞳ひとつ瞬いた。

「もしかして湯原って、一度行った事ある場所を正確に記憶するタイプ?」
「ん?タイプっていうか…みんなそうじゃないの?」

驚いたよう訊かれて、不思議になってしまう。
なんでそんなに驚くのかな?首傾げこんだ肩を、ポンと軽やかに叩くと手塚は笑ってくれた。

「すごいな、ソレって樹医になるには有利な才能だよな、もしかしてイラストにも描けたりする?」
「あんまり細かいとこは難しいけど、大体ならね?」

答えながら缶に口付けてオレンジの香を楽しむ。
酎ハイって初めて飲んだな?思いながらページをめくった前に、画用紙と鉛筆が差し出された。

「湯原、さっき見た白神山地のイラスト描いてみなよ、」
「ん、ブナの林だよね?」

答えながら軽く首傾げて、さっき見た森を思い出す。
大きなブナの木肌や梢が心に浮んで、その通りに画用紙へと線を引いていく。
ざっくりとしたタッチで形をとり、記憶の限りで幹の斑と葉を描いて友達に差し出した。

「大雑把だけど、ごめんね?」
「いや、大したモンだろ?へえ、ほんと同じだな?」

写真集のページと照合して、感心気に笑ってくれる。
こんなふう森の絵を誰かに見せることは、そう言えば何年振りだろう?

…お父さん亡くなってから、ずっと描いてなかったかも?

あらためて気がついて、幼い日に抱いた樹医の夢に申し訳ない気持ちにさせられる。
ずっと夢も置き去りにしていた記憶喪失に、今更ながら困った実感が込みあげて何だか可笑しい。
可笑しくてオレンジ酎ハイを片手に笑った周太へと、手塚も一緒に笑ってくれた。

「イラストも巧いし、フランス語も英語も出来てさ、湯原って多才なんだな?」

自分が多才?

そう言われて驚いてしまう、才能と呼べるものが自分にあるのだろうか?
努力しか自分には無いと思っていたのに?そんな途惑いと、けれど素直に嬉しくて周太は微笑んだ。

「そんなでも無いと思うけど、でもありがとう、」
「そんなでもあるよ、」

缶ビール片手に笑ってくれる、その気さくな笑顔が愉しくなる。
愉しい気持ちに微笑んで、けれど褒められた面映ゆさに困りながら、何げなく書棚の一冊を引き出してみる。
他より薄い写真集を手にとって、その表紙の意外さに周太は友達へと笑いかけた。

「手塚、木とか花がメインの写真集が多いのに、これは違うんだね?」

手にとった写真集を示した先、眼鏡の奥で目が大きくなる。
ちょっと驚いた、そんな貌をしてすぐ愉快に手塚は笑いだした。

「もしかして湯原、エロ本って初めて見た?」

それって何だろう?
あまり聞きなれない単語に首傾げながら訊いてみた。

「ん、こういう本は初めて見るけど、人体のデッサン用の本?」

何げなく広げたページ、美術の教科書で見た裸婦像が写真になっている。
こういう本を見てデッサンするんだろうな?そんな納得をした前で友達は笑いだした。

「ちょ、湯原、もしかして冗談言ってる?ははっ、」
「冗談を言ってるつもりはないんだけど、俺、なんか変なこと言ってる?」

どうして笑うのかな?
よく解らないけど、手塚の笑顔に愉しくなってくる。
なんだか可笑しくて愉しくて、一緒に笑いだした周太に手塚が尚更笑った。

「あははっ、なに湯原、笑っちゃってるけど、やっぱり冗談だった?」
「ううん、冗談とか言ってるつもり無いけど、なんか可笑しくって笑っちゃうね、」

なんだか解からないけれど、愉しいな?
ただ可笑しくて笑っていると、手塚がページをめくって訊いてきた。

「湯原ってさ、どんな娘がタイプ?」
「ん?…手塚は?」

タイプの女の子とか考えたことが無いな?
ちょっと困りながら訊いてみた先、悪戯っ子の笑顔がページを広げて指さした。

「この娘とか好きだな、俺、」

言われて見た先、服を着ないで女の子が鉛色の海辺にしどけなく横たわっている。
なんだか寒々しい空と格好に、気の毒になって周太は首を傾げた。

「なんか寒そうだね?砂も冷たそう…モデルって大変だね、風邪ひかないかな、」

知らない人だけれど心配になってしまう。
きっとプロとして当然のことなのだろう、でも人間なら裸で外は寒いだろうに?

…英二は服を着ているモデルだから良かったよね?

英二もモデルをしていた時がある、その写真はどれも振袖姿だから良かった。
いわゆる女装だから本人は恥ずかしがっている、けれど綺麗だから良いのにと自分は思う。
でも女の子の恰好はやっぱり困るかな?考えながら花の写真集を開いた周太に、愛嬌の貌が笑いだした。

「湯原ってさ、本当にピュアで良いよな?女の子にモテるだろ、今年のバレンタインは何個もらった?」

全部で幾つだったかな?
考えながら写真集のページをめくり、数を思い出す。
そんな手許に現われた冬薔薇に、ふっと惹きこまれて周太は微笑んだ。

「全部で9個かな?ね、俺、この子は好みだよ、」

クリアな印象の薄紅いろ、ほころびかけの冬薔薇のつぼみ。
寒空にも顔をあげた凛々しい姿が愛おしい、そんな冬の花に心惹かれる。
強く潔い冬の花と似た人は好きだな?そんな想い笑いかけた周太に友達は愉しげに笑ってくれた。

「うん、俺もこういう花は好きだな。こんな感じの女の子いたら、俺のストライクだな、」
「ね、凛としてるのに優しくて、綺麗だよね?」

友達も同じよう、好きだと言ってくれる。
それが嬉しくて笑った周太に、陽気な悪戯っ子が笑いかけた。

「で、女の子はどんな娘が好きなんだよ?」
「あ、…ん?」

訊かれて考え込んでしまう、どういう女性が自分は好きだろう?
そう考えて浮んだのは母の笑顔と美代だった。

…お母さんは大好きだけど、手塚が訊くのはそういう意味じゃないよね?美代さんも友達だから違うんだろうな?

たぶん「恋愛対象になる女性」を手塚は訊いている。
けれど自分の婚約者は女性ではない、何て答えて良いのか困っていると明朗な声は訊いてきた。

「小嶌さんは彼女じゃないんだよな?でも、かなり可愛いと思うけど。好みとは違うワケ?」
「ん、俺も可愛いと思うよ?でも好みって、れんあいたいしょうって意味なんでしょ?」

答えながらも感心してしまう、やっぱり美代は「かなり可愛い」と想われるんだな?
けれど美代は服装はきちんとしても、自身の容貌をそう気にしていない風で化粧も淡い。
むしろ自身の知識や能力を美代は気にする、そうした克己心が話していて楽しい。そう考え廻らす前で手塚が笑った。

「もちろん恋愛対象って意味だよ?小嶌さんは湯原にとって、そういう対象になり得ない?」
「そうだね、恋愛とは違うと思う…話していて本当に楽しいけど、どきどきとかしないし。美代さんも同じだと思うよ?」

思ったままを正直に答えて、缶に口付ける。
ふわり柑橘の爽やかな甘みが美味しい、すこし熱くなる喉の感じも楽しくなる。
あまり話した事のない話題もなんだか楽しいな?そう笑った周太に手塚も笑ってくれた。

「湯原、ドキドキとかって感覚は知ってるんだな?じゃあさ、ドキドキするのはどんなタイプなんだよ、」

さっき見ていた『CHLORIS』のひとです。

そう心裡で答えて、首筋が熱くなって鼓動が弾む。
けれど英二は男性だから、今の質問の答えにはならないだろう。

…それ以前の問題として、ね?男同士でっていうのは手塚、どう想うんだろう?

心の問いに、すこし怖くなる。
同性の恋愛は偏見も多いと自分でも調べて知っている、それが心を重くしてしまう。
けれど、このまま本当の友達になっていくのなら、いつか話さなくてはいけない日が来る。

…そのときには嫌われるかもしれない、でも嘘は吐きたくない。だから…お互いに親友だって想う日が来たら、話したい

いつか手塚と親友と呼びあえる日が来るかもしれない、そんな予兆は今日たくさん感じている。
それは美代と初めて会った時と似ていて、話すこと全てが楽しく、互いに気楽でいられる感覚が温かい。
この予兆が現実になれば英二の事を話す瞬間が訪れるだろう、そのとき正直な告白をして手塚の判断に委ねたい。
そんな覚悟を見つめて微笑んだ周太に、愛嬌の眼差しほころばせ手塚が笑いかけてくれた。

「俺がドキドキするタイプは、声と匂いが綺麗なひとなんだ。落着いて透明なカンジって好きでさ、冬のバラっぽいだろ?」
「ん、そういう人って素敵だよね?」

本当に素敵だと頷きながら想ってしまう。
自分が大好きな婚約者と幼馴染は、当にそんなタイプだろう?

…でもね、男の人は今は対象外なんだから…でも、女のひとで声と香が落着いて透明ってなんか…あ、

落着いて透明な雰囲気、声と香の綺麗な女性。
そんな女性をひとり知っている、冬薔薇のよう清雅で春薔薇みたいに優しいひと。
いつも想う憧れを見つめた心へと、優しいアルトの声が記憶から微笑んで周太は答えた。

「あのね、花の女神さまみたいな人に俺、どきどきするよ?…花屋さんのひとで、花を『この子』って呼ぶ人なんだ、」

雑踏の素っ気ない都心の駅、佇んだ一軒の優しい花屋。
あの灯のような花園に立ちたくて、どこか不思議な女主人に逢いたくて、時おり店を訪れる。
すらりと背の高い細身は香から優雅で、凛として優しい顔立ちの笑顔は綺麗で、いつも穏やかに温かい。
あの深いアルトの声が「あの子」と花を呼ぶ度に嬉しくなる、そんふうに嬉しいのは「タイプの女性」だからだろう?

…見ているだけで嬉しいんだ、あの店長さんのこと。異動になってからも花、買いに行きたいな

想い、微笑んで缶に口つける。その唇へとオレンジが甘く香った。



blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深夜告知:冬の薔薇

2012-12-18 23:29:06 | 雑談
優美、凛々と



こんばんわ、すっかり冬の気候になりつつある神奈川です。
写真は津久井湖畔にて、雨のち曇り後、夕焼けの美しかった時に撮影しました。
まさに薔薇色といった色彩があざやかで、いま連載中の第58話に登場するアルペングリューエンとリンクするなと。

ちょっと遅くなりましたが、今から第58話「双壁K2」13と14の加筆校正をします。
13は日付変わる前に終了予定です、14は明日にまたぐかもしれません。

日付変更ごろに短編「soliloquy 建申月act.7 Rose hivernale」をUP予定です。
湯原サイド第58話「双璧9」その後シリーズ「建申月act.6」続編、湯原@手塚の部屋で飲み会シーンになります。

取り急ぎ、予定お知らせまで







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第58話 双壁side K2 act.14

2012-12-18 00:04:46 | side K2
「俤」 想い人ふたり、



第58話 双壁side K2 act.14

光一のファーストキスって、どんなだった?

そう問いかけた切長い目は真直ぐ自分を映し、穏やかな笑顔が見つめてくれる。
いま「約束」の場所を見上げている、この瞬間にあの日を話すことは相応しい?
そんな想いと雅樹の俤に、そっと笑って光一は口を開いた。

「モーニングキスだよ、寝てるトコを勝手に俺がしちゃったね、」

寝ている相手に勝手にキスをする。
そんなことを自分がする相手は限られている、そう英二なら解かるだろう。
この信頼と微笑んだ隣、すこし驚いたよう1つ瞬いて率直に尋ねてくれた。

「それって、相手は雅樹さん?」
「だよ、」

短く答えて、愛しい記憶に笑う。
どういう状況だったのかな?そう見てくれる切長い目へと光一は綺麗に微笑んだ。

「穂高と槍を雅樹さんと縦走したって話したよね、あのときだよ。昼寝のときだったから、正確にはミディキスってカンジ?」

雅樹とキスしたことは周太にだけ告白してある、けれど想い出話は今初めて話す。
あの時から自分は8歳が世間では子供なのだと解かっている、だから雅樹との真実は他人に話すつもりが無かった。
けれど「山桜」とアンザイレンパートナーには話したい、雅樹が愛した存在と雅樹を愛してくれる存在には知ってほしい。
全てが幸せだった夏の記憶、その断片を今、唯ひとり『血の契』に繋がれたアンザイレンパートナーへと語りだした。

「登ったトコ眺めようって、最終日は梓川のサイトでテン泊してね。予定よりハイペースで下りたから、昼にはテント張れたんだよ。
昼飯いっぱい食って、河原に寝転んで山を観ながら喋ってね。雅樹さんが登った色んな山の話をして、一緒に行く約束を沢山したよ。
きらきら碧い川でオレンジジュース冷やして飲んで、青空の木陰で風が気持ち良くってね、で、気付いたら雅樹さん寝ちゃっててさ、」

8歳だった自分と23歳だった雅樹の、幸福な夏。
年は離れていても自分たちは堅く繋がれている、そう今も信じている。
その繋がりを深く確かめあった初めてが梓川だった、あの日の槍ヶ岳を想わす鋭鋒に言葉を続けた。

「5日間、穂高と槍をガキ連れて歩いてたんだ。気疲れしない訳がない、しかも俺って自分のペースで登るだろ?でも合わせてくれた。
まだ8歳だったけどね、俺のペースはもう速かったんだ。それでも雅樹さん、いつも楽しそうに笑ってくれて、一緒に歩いてくれた。
約束してたポイント全部登らせてくれてね、ほんとに楽しかったよ。それで雅樹さんのコトもっと好きになってさ、帰るのヤダったね、」

本当に帰りたくなくて、雅樹と山から離れたくなくて、翌朝は雅樹を困らせた。
あのときの綺麗な困り顔と優しい提案が懐かしい、そんな記憶と笑ってワインを啜りこむ。
ひとくち飲みこんで、酒に香る甘さと微笑んだ記憶は想いごと声になった。

「河原で眠ってる雅樹さんを見ながら、ほんとに大好きだなって想ってさ。雅樹さんの寝顔は、ホント極上の別嬪だったね。
明るい青空のした長い睫が翳を作って、白い頬が少しだけ日焼けで赤くなっててね。さらさらの髪に木洩陽が光ってきれいだった、」

明るい夏の空、清流のほとりで眠る青年の寝顔。
いつもの週末にも見ていた美しい寝顔、けれどゆっくり見つめたのは初めてだった。
木洩陽の明滅ふる白皙の貌は無垢で、どこまでも透明な静穏が天使のよう優しく微笑んだ。
16年前の夏、そっと見つめた寝顔への想いに笑って、永遠の恋に墜ちた瞬間を言葉に変えた。

「きれいだ、大好きだ、そう想ったまんま俺、キスしちゃったんだ。やわらかくって、オレンジの香が甘かったよ、」

オレンジの香のキス、あれが幸福の瞬間だった。
あの瞬間への愛しさに、光一は幸せだけを見つめて綺麗に笑った。

「キスが離れた瞬間、雅樹さん目を覚ましてね。今、山の神さまにキスしてもらう夢を見てたよ、って俺を見あげて笑ったんだ。
だから俺、正直に告白したんだ。今、俺が雅樹さんにキスしたんだよってね。そしたら雅樹さん、真赤になって困り顔になってさ?
覗きこんでる俺の顔見て、綺麗な目が笑ってくれたよ。僕のファーストキスは光一になっちゃったね、って笑って抱きしめてくれた、」

8歳の自分が23歳の雅樹にキスをした。
あのとき初めて「山」以外にも繋がりあう方法を自分は知った、そしてあの夏は光に充たされた。
あの全ては雅樹の深い無垢が贈ってくれた、その全てが幸福だった。この愛しさに微笑んだ隣から、綺麗な笑顔が訊いてくれた。

「雅樹さんと光一、お互いにファーストキスだったんだ?」

訊いてくれる眼差しは、ただ優しくて真直ぐでいる。
この男になら話しても理解されると信じていた、この信頼への応えに光一は幸せに頷いた。

「だよ?お初同士だったね、」

お互いに初めてで、特別で、宝物になった。
そして宝物は心を時に泣かせながら、変ることなく温めてくれる。
この愛しい想いの全てが瞳を温めて、想いは涙の光になって頬を伝った。

「だから雅樹さん、俺としかキスしたこと無いんだ。俺が最初で最後…」

最後の言葉に涙、こぼれだす。
ゆっくり頬を伝わらす涙を、氷河の風が涼やかに撫でていく。
この氷河には20年前の雅樹の汗も融けている?そんな想いに光一は幸せに笑った。

「俺ね、あのころは恋愛とか、全然分かってなくってね。でも今にして想ったら、俺は雅樹さんに惚れてたんだよね。
あれは人間らしい初恋だったなって今なら分るんだ、周太への気持ちとは違うトコ多いんだけどね。でも、どっちも初恋だよ、」

普通なら初恋は1つだろう、けれど自分は2つだった。
この想いへの誇らしさに微笑んだ向こう、そっと白皙の貌が近寄せられる。
ふっと近づく深い香に瞳を閉じて優しい唇が涙を拭う、それが幸せで笑いかけると英二は訊いてくれた。

「2人とも初恋って、どういう意味?」
「山への恋と、人間への恋ってコト。周太は俺にとって、山と同じだよ、」

ふたつの恋を並べて言った隣、肩越しに切長い目は見つめてくれる。
穏やかな眼差しに微笑んだ視界の真中で、綺麗な笑顔が穏やかに尋ねた。

「雅樹さんは人間として恋したんだ?」
「だね。でも恋愛ってほどじゃまだ無かったけどね、俺も8歳のガキだったからさ。でも大好きだ、」

大好き、この真実の為に小さな嘘で「秘密」を隠す。
この秘密にこそ雅樹と自分の想いは護られる、その自由が誇らしい。
そんな想いに見つめる黄昏は山と中天を紫に耀かせ、アルペングリューエンの薔薇色に星は銀いろ纏いだす。
輝きだす夜へと宵の明星は瞬いて、その明るい星の下でアンザイレンパートナーは綺麗に笑った。

「吉村先生に聴いたけど、雅樹さんもマッターホルンに登ったんだよな、」
「うん、ガイド登山だとヘルンリ稜で3時間を切ってる。でね、大学の山岳会で北壁にもアタックしてさ、7時間って言ってた、」
「それ、シュミッドルートなんだろ?だから光一、あのルートは詳しいんだろ?」
「当たり。夕焼けの槍ヶ岳を見ながら雅樹さん、7時間の話をしてくれたんだ、」

素直に答えていく自分を英二が見つめ、楽しげに笑ってくれる。
その笑顔に信頼と恋が深くなる、この想い微笑んで光一は16年前の約束をパートナーに伝えた。

「その話を聴いてさ?俺がトップなら北壁も2時間で登れる、だから俺とアンザイレンして登りに行こう、そう約束したんだ。
それで穂高から帰った次の週、山図を持ってきて教えてくれたんだ。雅樹さんに教わってるから俺、今回の記録も出来たんだよ。
だから今日、本当に嬉しかったんだ。おまえが雅樹さんの約束に気付いてくれて、一緒に登ったって言ってくれたのが嬉しいんだ、」

16年前の夏に自分たちが選んだ「約束」と夢。
その夢を共に見てくれる英二には知ってほしい、そう願う想いに英二は綺麗に笑ってくれた。

「俺も嬉しいよ、ふたりの夢を一緒に登らせて貰えてさ、本当に嬉しいよ?」
「おまえだけだよ、一緒に登れるのはね、」

正直に答えて笑いかける、それが嬉しくて、けれど嬉しいと想う分だけ尚更に「現実」が傷む。
こうして「山」では自分が英二の一番だろう、けれど山を下りれば英二には周太がいて、それを自分は邪魔したくない。
たとえ周太の事が無くても「公認パートナー」の権利を得た代償に、責務のため秘密を言い訳にして独占めは赦されない。
だからこそ尚更に「雅樹」との永遠を見つめている、誰より愛して見つめて全てを与えてくれた人を、今も想う。

―雅樹さん、心と体の全てを俺にくれたのはね、独占めを赦し合えたのは雅樹さん唯ひとりだよ?ずっと、これからも、

雅樹のキスは自分だけ、あの瞬間を知るのは自分だけ。
山桜のような香に温かな懐で眠る、あの喜びは自分だけが知っている。
雅樹が「山」と、それ以外の全ても懸けて見つめる眼差しの、深い熱情は光一だけを見つめる。

『光一。大好きだよ、本気で…いちばん大切でいちばん信じている、だから待っているよ?光一は僕の希望と夢の光だから』

まばゆい8歳と23歳の夏、あの時が自分たちの永遠で、約束と夢と自分を造りあげた全て。
あの夏が自分にとって本当の人生の始まり、だから雅樹は自分の始まりを2つとも立会ってくれた。

―この体が生まれる始まりと、この心が始まったとき。体も心も雅樹さんから始まったね?夢を見て、恋して、願ってさ?

始まりを抱きとめてくれた、その人への想いに涯はない。



ぎしっ…

かすかな軋み音に、微睡が醒まされる。
ゆっくり披いた睫のむこう、窓の紺碧と銀のきらめきにシルエットが起きていく。
隣のベッドに鳴った衣擦れとマット軋む音に、そっと光一は笑いかけた。

「…起きてたんだ、」

声かけながら起きあがり、星明りに隣を見つめる。
窓の夜を背負う翳から切長い目が笑って、綺麗な低い声が微笑んだ。

「うん、なんか寝つけない。ちょっと神経が興奮してるのかもな?」
「ワインでもダメだったね?」

アルプスの女王が贈るキス、北壁の昂揚はアルコールでは流せない?
そんな感想に笑いかけて見つめた先、穏やかな眼差しが笑ってくれる。
その優しい気配に心が響いて、もう想いは唇から言葉になって問いかけた。

「あのさ、…そっちで一緒に寝てもイイ?」

北壁の登攀に集中したいから「恋人」の関係は中断、そう自分で言った癖に本音があふれだす。
ずっとツェルマットに入ってからは別のベッドで眠ってきた、けれどマッターホルンの夜は今夜が最後。
だから今夜だけは一緒に眠りたいと思っていた。それをようやく素直に声にした向う、綺麗な低い声が尋ねてくれた。

「いいけど、どうした?」
「ちょっとね、人恋しくなっちゃったってカンジ?」

答えながら気恥ずかしい、自分であれこれ規制を作った癖にと想ってしまう。
こんな自分の子供っぽい我儘が気恥ずかしくて、けれど体は素直にベッドを下りて英二の隣へ上がりこむ。
青梅署寮の狭いベッドみたいに触れるほど間近く並んで、笑いかけた光一に綺麗な笑顔は気づいてくれた。

「雅樹さんの話して、恋しくなった?」
「かな?」

半分図星、あと半分に気付いてほしいのに?
もどかしい想い笑って光一は温かいリネンに潜りこんだ。
その隣、並んで横になってくれる温もりから、深い森の香が包んで吐息こぼれた。

―英二の匂いと、体温だね

ほろ苦いような甘い、樹木とも似た英二の香。
この香に隣が誰なのか安堵して、けれど刹那の瞬間にも想えて切なさ募る。
もうマッターホルンは今夜が最後、明日はアイガー北壁の麓で夜を見るだろう。
そして明後日には頂上に立ち、次の次の日には帰国の飛行機に自分たちは乗っている。

―日本に帰ったらもう、異動して昇進して、1ヶ月は英二と離れるんだね

異動は、自ら英二と共に望んだこと。
それなのに離れる瞬間が怖くなる、けれど超えなくては本当の自由も掴めない。
そう解っている、それでも今こうして寄添い香と体温にくるまれる幸せが愛しい分だけ、切ない。
切なくて、それでも今の幸福を全て見つめて感じたい。そんな想い正直に光一は、大好きな名前を呼んだ。

「…英二、」
「ん?」

呼んだ名前に微笑んで、横顔がこちらを向いてくれる。
見つめた切長い目が優しい、至近距離に吐息ふれあい結ばれてしまう。
ほろ苦く甘い吐息ふれて唇を撫でる、いま見つめ合う眼差しに吐息に惹かれるまま、そっと唇を重ね合わせた。

―英二のキスだ、マッターホルンと同じ苦くて甘くて…

ふれるだけのキス、吐息の温もり微かに交わして静かに離れる。
ゆっくり瞳を披いて微笑んだ、その目の前から英二は問いかけてきた。

「集中力が必要だから雑念になるから、キスも山頂だけって言ってなかった?」
「言ったけど、ね、」

確かにそう言った、それなのに覆した自分に困ってしまう。
こんな我儘はさすがの自分も恥ずかしくて、けれど本音のままを言葉にした。

「でも今、キスしたかったんだ。マッターホルンが見えるとこで、英二にキスしたくって、ね、」

マッターホルンには約束と夢が輝いている。
それは懐かしいものと新しいもの、其々ふたつずつ。
ふたつ共にアンザイレンパートナーと結んだ想い、どちらも大切なひと。
この約束と夢を駈けた場所だからこそキスしたかった、そんな想いに英二は笑いかけてくれた。

「うれしいよ、光一、」

名前を呼んで、腕を伸ばして抱き寄せてくれる。
温かな懐にカットソーを透かす体温ふれあい、森の香は濃やかになる。
その長い指の掌に黒髪ごと頭を抱かれて、そっと撫でられる感触に幼い日の幸福が微笑んだ。

―雅樹さん?英二?

16年前の感覚と今の瞬間が重なり、時が交わされ心が惑う。
けれど抱きしめてくれる香は樹木の芳香で、山桜の香との違いに現実が解かる。
それでも二つの温もりも香も愛しくて、微笑んで見つめた貌の向こう、銀色ふる夜の紺碧は深い。
光あざやかな夜空にアルプスの女王は佇んで、その鋭鋒を背負った恋人は微笑んだ。

「キス、させて?光一、」

名前を呼んでくれた唇が、そのまま唇に重ねられる。
ほろ苦く甘く熱い唇ふれて、ついばむよう幾度も熱く甘く求めさす。
この熱も香も英二の気配、それでも16年前にふれあえた夢と感覚が息吹き返して、涙あふれた。

「…光一?」

名前を呼んでくれる声は、低く透る英二の声。
それでも記憶の聲が共に自分を呼んでいる、もう諦めたはずの夢が約束の場所で涙を流す。
伏せたままの睫から熱はこぼれ頬を伝い、そっと長い指が拭って問いかけた。

「ごめん、キス嫌だった?」
「嫌じゃないね、でも…なんか泣けるんだ、ごめんね?」

答えながら涙あふれる、この涙は16年の時を超えて2つの想いのため。
ずっと抱えてきた約束と想いを今、こうして体温で受け留められて融けて、涙に変る。

―雅樹さん、約束の2時間を出来たよ?ちゃんとアンザイレンして登ったんだ、俺だけのアンザイレンパートナーと一緒に、

もう叶わないと思っていた、自分がアンザイレンパートナーと登ることは。
もう単独行でしか登れない、雅樹との約束は半分しか叶わないと諦めかけて、けれど英二が共に登ってくれる。
誰でも昇れる訳ではない垂直の世界、その頂点に懸けた約束と夢が解かれていく涙ごと英二は抱きしめてくれた。

「泣けよ、光一。泣きたいだけ、」

森の香と温もりが、肩に胸にふれて想いが重ならす。
抱き寄せられる髪に吐息ふれて抱きこめられて、その温もりに嗚咽が生まれだす。
広やかなシャツの背中に腕を回し縋りついて、懐の温もりに涙と声がこぼれた。

「…っ、ぅ…え、いじ…ありがと、っ…」

嗚咽ごと抱きとめてくれる想いが、静謐の温もりにただ優しい。
体温と香にくるまれながら微睡んでいく、その穏やかな時間に幸せを眠って、また明日に生きる。
もう16年前の体温は蘇えらないと解かっている、それでも懐かしく愛しい記憶ごと抱きしめて大切な俤を見つめた。

―雅樹さん、ひとつ約束を叶えたよ?英二のお蔭で雅樹さんとの夢、ひとつ現実に出来たね…独りじゃないから出来たよ?

心で呼びかける俤の、温もり、香、鼓動。
その全ては今、抱きしめてくれる人と全く違う。けれど抱きしめてくれる安らぎは、同じに温かい。
英二の体温は独り占め出来ないと解かっている、それでも今の瞬間は自分だけを抱きしめてくれる。
今この独り占め出来る瞬間に16年前までの幸福な独占欲と笑いかけて、光一は素直な想いを言葉に変えた。

「あのさ…ずっと夢は、俺と生きてるよね?」

この問い、あなたなら解かってくれるよね?
そう願い見つめた切長い目は、うす青い闇のなか微笑んだ。

「うん、夢は光一と生きていくよ、ずっと一緒だ。俺も一緒だよ?光一は俺の夢の全てだから、」

光一は夢の全て、そんなフレーズに夏の瞬間が蘇える。
こんなふうに、あの幸せな時間は今も生きて、自分を抱きしめ温めてくれている?
この温もりに言葉に心が吐息と笑って、そっと頬よせた頬に涙と本音が微笑んだ。

―雅樹さんは生きてるね、約束と夢に生きている、俺と一緒に生きていける、明日も明後日も何十年先もずっと

唯ひとり、自分に名前を贈ってくれた人。この体の誕生を援けて、この心に夢を与えてくれた。

いつも笑って抱きとめて、どんな我儘も約束も真摯に向き合い叶えてくれた、夢に生きる幸せを教えてくれた。
この世界に生まれてすぐ抱いてくれた瞬間、あの時から変わらず真直ぐ見つめて、その心身も時間も全てを懸けて愛してくれる。
だから自分も生まれた瞬間から、この血の一滴から髪の一すじまでが「大好き」だと思慕し続けて、生と死に別れても変えられない。
何があっても自分は雅樹を忘れることなんか出来ない、もう雅樹は自分の体と心の全ての中で、生きている。

―だからね雅樹さん?誰に抱かれても、恋しても、俺は雅樹さんのものだね…明日も明後日も、最期の瞬間の後もずっとだ

そっと本音が幸せに微笑んで、深い森の温もり誘う微睡に大好きな俤が笑ってくれる。
約束の頂が見おろす窓の、穏やかな眠りの懐に護られて。



かすかな薔薇色が瞼を透かし、瞳が披かれる。
うす青い闇の部屋、白いベッドのシーツは温もりの残像に波打って、けれど隣はいない。
その視界をゆっくり上げていく先に蒼い翳は聳え、紺碧の空に銀いろ耀いて深く静謐が充たす。
それでも山頂かすかな光を見とめて光一は、温かに包むリネンから脱け出し窓辺へ立った。

「…お目覚めの時間だね、アルプスの女王さま?」

そっと恋人の山へ笑いかけ、デスクからカメラを携え窓の鍵を外す。
その背後ほのかな水音が聴こえてくる、自分のアンザイレンパートナーは今日も習慣通り冷水を被っているらしい。
きっと直ぐ、いつもどおり謹直な貌した別嬪の笑顔が現れる。そんな信頼と笑って光一は窓を開き、外へ出た。

「うん、冷たくってイイね、」

吹きぬける氷河の風に笑って、目覚めだす鋭鋒の光を見上げる。
遥かな東の涯に大きく星は輝いて朝を呼ぶ、その光に呼ばれて暁の空は今日になる。
ベランダの欄干に手をつくと木肌の冷気は皮膚を透かす、肌感覚から黎明の空気は意識を澄ませてくれる。
今日、自分は2つめの約束を叶えるために次の山へ向かう。その昂揚とカメラを構えて芯から愉快に笑った。

「マッターホルン、今日でしばらくお別れだよ?また逢いに来るまで憶えてるのに最高な別嬪顔、今から見せてよね?」

最高に別嬪顔した山の姿を撮りたい、そう言って父は笑っていた。
いつも「山」を撮るためだけに登る、ただ山を純粋に愛した父のレンズは今このカメラに填まっている。
そんな父の誇らかな山写真が好きで、そして父が山頂で撮った雅樹の笑顔が大好きで、この目で見たいと願った。
だから自分も雅樹とザイルを組んで、山頂の雅樹を自分で撮りたかった。

―オヤジ、雅樹さん。このレンズで俺は二人と一緒に登ってるね、だから今も一緒に見てるね?

見つめるファインダーの向こう側、女王の冠に光の薔薇が彩られていく。
明るむヴァリスアルプスの稜線、白金の耀きに明けていく今日、まばゆい光の冠に山が目を覚ます。
天の炎が象る薔薇の花冠、その光にシャッターボタンを押して瞬間を切り取ったとき、ふっと森の香が佇んだ。

―やっぱり来たね?

ちいさく心が笑って、ファインダーが静かに東へ動く。
その視界へと白皙の横顔は映りこんで、頭上に暁の明星が輝いた。

―綺麗だね、

芯から笑って光一は、そっとシャッターを押すとレンズ越し見つめた。
黒いカットソー姿で長身は佇んで、ダークブラウンの髪を氷河の風に靡かせる。
暁と耀く女王に微笑む眼差し、穏やかな静謐と熱情の黒い瞳は長い睫の陰翳に謎ふくます。
深い美貌の男、この自分と体温ごと見つめ合える唯一の存在は、至高の天使か悪魔のように今日も佇んでいる。

―雅樹さんのコト忘れなくってもね、おまえのこと大好きだよ?惚れてるから一緒に夢を叶えたいんだ、おまえと、

ただ素直な想いごと、アンザイレンパートナーの瞬間を写真に綴りこんだ。





(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第58話 双壁side K2 act.13

2012-12-17 01:07:14 | side K2
「想」 Ragnarokkr, 忘れ得ぬ人へ



第58話 双壁side K2 act.13

重厚な扉を開くと、ひろやかな窓の光に書架が明るんだ。

落着いた白とダークブラウンの図書室は静かで、光一の他は誰もいない。
壁を廻らす書架を眺めていく、そこに目当ての背表紙を見つけて指を掛ける。
そっと引き出すと、モノクロに艶めく花と微笑が布張装丁に美しい。
やっぱり置いてあったな?そう満足に笑ってページをめくった。

『CHLORIS―Chronicle of Princesse Nadeshiko』

艶やかな黒髪を風に靡かす、振袖まとう佳人が花と佇む写真たち。
このモデルは14歳から二十歳までの、英二が務めていた。

「お美しいですね、媛?」

モデル時代の名前で呼んで、写真に笑いかける。
艶やかな振袖姿に黒髪こぼす白皙の肌、濃やかな睫の陰翳に黒い瞳は謎めく。
ただ美少女ではない、静謐に耀く炎のような深い美貌はタイトル通り「CHLORIS」花の女神に相応しい。

―今じゃスッカリ男に成っちゃったけど、別嬪の空気は一緒だね?

華麗と陰翳が交わす謎、静穏と熱情に生まれる深奥、真直ぐで強い眼差しの耀き。
それは暁の明星によせた名前 “Lucifer” 至高の天使か魔王のよう惹きこんで離せない。
この佳人は花々の麗幻が魅せる写真から、今、現実の山を駈ける姿で変わらず生きている。

―こういうヤツと俺、アンザイレンパートナーしながら告白し合っちゃてるんだ、ね

見つめる写真の俤は、確かに英二でいるのに雅樹とは全く違う。
見間違うほど似ているけれど正反対、そんな本質を写真は真直ぐ映しだす。
そこに見える自分の『血の契』の素顔に溜息こぼれて、そっと写真集を閉じた。

「…ほんと危険な別嬪だね、」

ひとりごと本音こぼれて、美しい本を元の場所に戻して指を離す。
そのまま書架を見上げ、興味を惹かれるままページを開いて一冊を選びとる。
そんな視界に映った木製の耀きに惹き止められて、振り向き光一は微笑んだ。

「あれ、こんな場所になんて意外だね?」

笑って窓辺へと歩みよる、そこにアップライトピアノはひっそりと佇む。
ライブラリーのような静謐が趣旨の部屋には珍しいな?そんな感想に木肌の蓋へとふれる。
そのまま静かに持ち上げると、軽やかに蓋は開かれ深紅の鍵盤カバーが現れた。

かたん、

ちいさな音に背中押されるよう天鵞絨の椅子に座りこむ。
深紅のフェルトを巻き取っていく、現れる白と黒の鍵盤に窓の木洩陽ゆれる。
きらめく光の明滅に指ふれて、心映った旋律が鍵盤を奏で始めた。

ターン、タタ…

高いトーンから流れ、音は連なり優しいトーンに変る。
ゆるやかな連符、ふくらます音、そして低く穏やかに声が歌になった。

……

眠れなくて 窓の月を見あげた
思えばあの日から 空へ続く階段をひとつずつ歩いてきたんだね
何もないさ どんなに見渡しても確かなものなんて
だけど嬉しい時や哀しい時に あなたがそばにいる
地図さえない暗い海に浮かんでいる船を
明日へと照らし続けてるあの星のように

胸にいつの日にも輝く あなたがいるから
涙枯れ果てても大切な あなたがいるから

……

いま謳う「あなた」への想いが、そっと心に温かい。
姿見えないひと、体温も消えたひと、けれど記憶の声も笑顔も温かい。
それでも今、この自分を世界の全てと告げる唯ひとり『血の契』に心の一部は奪われた。

―英二、ずっと山に生きたい、おまえと

心裡ひとりごと祈り、微笑んで鍵盤が最後の音を謳う。
静かな余韻を指先にふれて、ゆっくり離した向うから拍手が鳴った。

「あ?」

拍手にふり向くと、茶色い髪の男がソファに座っている。
青い目を愉しげに笑ませる男は、フランス語で微笑んだ。

「tres bien!」
「Je vous remercie.」

丁寧に礼を述べて笑いかけながら、深紅のカバーで鍵盤を覆う。
いつの間に男は居たのだろう?考えながら静かに蓋を閉じて立ち上がる。
そのまま部屋を出ようとした横顔に、男は問いかけてきた。

「Est-ce que tu connais Kanako Toki ?」

問いかけに、心を鼓動が引っ叩く。
大好きな名前と大嫌いな名字に揺らされる、けれど微笑んだままの視界で男は愉しげに笑った。

「Ton piano est semblable. Bien que tu ressembles a Shinnichiro de son plus jeune frere, est-ce que tu es une famille ?」

ressembles、似ている。
そう言われた名前に、心臓が怒りに掴まれ息を呑む。
それでも呼吸ひとつに微笑んで、光一は嘘で答えた。

「Je ne le sais pas. Au revoir」

もう忘れてしまいたい名前に背を向けて、光一は扉を開いた。
すぐ後ろ手に閉じて、歩き出す足は徐々に速くなる。

―知らない、そんな名前は俺は知らない、なんでこんなとこで?

泣きそうな想いと廊下を歩き、階段を昇っていく。
履いている革靴の音が絨毯を透かして鳴ってしまう、その音の狭間へ春4月の記憶が跳びこんだ。

―…君は、光一君だろ?僕のこと覚えている、そうだよね?

憶えてなんかいない、おまえなんか知らない。

―…光一君、姉さんそっくりだね。同じように綺麗で、カサブランカが似合う。

おまえなんかに言われたくない、あんな花はいらない。

―…会えて、嬉しかった

おまえなんかに会いたくない、おまえなんか知らない。

―…ごめん、光一君

「あやまるんなら墓に来んなよっ…」

ちいさく叫んだ聲に頭ひとつ振り、階段から廊下を歩きだす。
すぐ見慣れた扉の前に着いて、ノックも無しに開いて入ると鍵を掛けた。

「お帰り、光一。面白そうな本は見つかった?」

綺麗な低い声が、穏やかに訊いて迎えてくれる。
その声にほっと微笑んで、窓辺の安楽椅子に寛ぐ肩へと後ろから腕を回した。
そのまま本を英二の前にページを広げ、凭れた肩に顎を載せて光一は微笑んだ。

「面白そうだよ?だから一緒に読もうね、ア・ダ・ム、」
「なに、二人羽織りで読むのかよ?」

可笑しそうに笑って白皙の手は、持っていた本を閉じてくれる。
そして光一の手にある本のページを繰りながら、綺麗な低い声は尋ねてくれた。

「光一、どうした?」
「え?」

短く訊き返しながら、心臓が息づまる。
なにか気づいてくれた?その期待に少し笑った隣、振向いて切長い目が微笑んだ。

「なんか寂しそうだったから、どうしたのかなって想ってさ。どうした?」

やっぱり気づいちゃうんだね?
気づいてもらって嬉しい、けれど今は言いたくない。
今はマッターホルンを見上げる窓辺にいる、それなのに忘れたい名前で壊したくない。
大切な約束の場所を少しも壊したくなくて、今の幸せだけ見つめて光一は笑った。

「うん、ちょっと腹が減っちゃったからじゃない?そろそろ夕飯の時間かね、」
「パン食ってからまだ2時間だし、約束の時間まで30分あるけど?」

笑って左手首の文字盤を示してくれる。
もうじき17時半、加藤たちとの約束には確かに早い。それでも光一はねだった。

「食事の前にラウンジで一杯飲みたいね、プレゼンテーションでタダだしさ、」
「まだ明るいのに飲むって、なんか申し訳ないな?」

生真面目な性質のまま首傾げ、笑ってくれる。
その笑顔が嬉しくて、笑って体を起こすと光一は本をデスクに置いた。
そのままクロゼットへ立ち、黒いジャケットを出して羽織るとパートナーに笑いかけた。

「さ、俺は準備完了だよ?媛の御仕度はいかがですか?」
「その呼び方、久しぶりだな?人前では絶対に呼ぶなよ、」

笑って英二も立ちあがり、クロゼットからジャケットと革靴を出した。
長い腕をチャコールグレイに通していく、その仕草にふっと深い森の香が優しい。
この香が好きだ、そう素直に笑って光一は大好きな人に教えた。

「ライブラリーにね、おまえの写真集があったよ?やっぱり人気なんだね、おまえってさ、」
「写真集のこと、絶対にチームの人に話すなよ?」

きっちり釘刺しながら革靴に履き替え、笑いかけてくれる。
穏やかな笑顔は写真より幸せそうで美しい、この笑顔を今は自分だけに向けてくれる。
この独り占めの瞬間に笑って光一は、扉の鍵を開いて廊下へと出た。

「写真集の存在くらいはイイんじゃないの?アレ見たって誰なんて解んないね、」
「光一、その件はもう今から黙ってて?」
「今は大丈夫だね、周り日本人なんかいないしさ?日本語じゃなに言ってんのかバレないね、」

笑って話しながら降りて行く階段、チェックインの客が増えている。
昨日も見かけたハイカーらしい姿も多い、けれど高尾署の2人は未だ見えない。
無事に戻ってほしい、そんな願いに見渡した隣から穏やかに言ってくれた。

「高尾署の方、今日中に戻ってきてほしいな?本人のためにも、俺たちの為にもさ、」
「うん、だね?」

微笑んで頷きながら、ポケットの無線機を出して見る。
けれど受信の兆候も無いままで、ちいさく息吐いてまた戻した。
このまま今日中に連絡が無ければ明日はここを動けない、その場合は延泊することになる。
念のために予備日として1日多く確保はしてある、けれど念のためにホテルへ確認しておく方が良いかもしれない。
そう考えをまとめて光一はパートナーを振り向いた。

「英二、ちょっとコンシェルジュのトコに寄ってイイ?」
「うん、延泊の確認?」

すぐ気がついて、穏やかな笑顔は訊いてくれた。
きっと英二も同じことを考えてくれていた、そんな同じが嬉しくて軽く肩をぶつけた。

「当たり、さすが俺の別嬪パートナーだね?ア・ダ・ム、」
「光一、その呼び方も人前では控えてくれな?」

また笑顔でたしなめられて、つい悪戯っ子が肚で笑いだす。
これがダメなら何か無いかな?考えながら光一はコンシェルジュのデスクへと向かった。
明日の延泊を最終決定する刻限、延泊の場合は同じ部屋なのか、夕食のラストオーダーの時間。
そうした必要事項を確認し終えると、もう18時前だった。

「光一、もう時間だし、テーブルに着いてアペリティフを頼んだらどうかな、」
「だね、もうみんな来ちゃうだろうしね?」

英二の提案に素直に頷いて、ダイニングで予約名を告げ席に着いた。
明るい光ふる窓からマッターホルンは優雅に聳える、その東壁の雲は薄まっていく。
夕刻を過ぎて気温が下がりだした、この冷却に山が吐く水蒸気も収束を見せている。

「雲が切れそうだね、」

見上げる山に、2つの希望を見つめる。
このまま雲が晴れたくれたら良い、その願いへと綺麗な低い声が微笑んだ。

「これなら下山も出来るな、ソルベイ小屋からでも22時には着けるかもしれない、」
「うん、」

頷きながら二人の無事と明後日の北壁登頂を想う。
そんな食卓へとソムリエがワインリストを差出し、笑いかけてくれた。

「Good evening. In celebration of the northern face climbing, let me present champagne from our hotel.」

北壁を登頂した祝いにシャンパンをと言ってくれる。
こういうのは嬉しいな?素直に笑った向かい、綺麗な笑顔で英二が応えてくれた。

「Thank you for kindness.」
「If we can delight you, we are glad. Shall I bring it now?」

人の好い笑顔ほころばせ、今すぐ持ってこようかと提案してくれる。
北壁登頂の祝い酒ならと考え見た向かい、切長い目が微笑んだ。

「光一の好きなタイミングで良いよ?」
「うん、ありがとね、」

素直に頷いて笑いかけた先、穏やかな信頼が笑ってくれる。
祝い酒のタイミングを自分に委ねた、その意図に「始まっている」と伝わらす。
もう自分は警視庁山岳会の次期リーダーとして判断する、それを英二も同じよう考えているだろう。
そんなふう一緒に向きあってくれるパートナーが嬉しくて、笑って光一はソムリエに答えた。

「Please bring it after a friend gathered. Because another six people come. Please get two glasses of white merlot to an aperitif.」

あと6人がこの席に着けるはず。
この確信にオーダーするとソムリエは笑って頷き、戻って行った。
その背中を見送りながら、端正な顔ほころばせてパートナーは微笑んだ。

「きっと高尾署の人たち、喜んでくれるよ?」
「だと良いけどね、」

笑って応えた向こう、穏やかな笑顔が優しく温かい。
こんな貌を見られたのが嬉しくて、光一は綺麗に微笑んで窓の山頂を見た。

―でもね、雅樹さん?ほんとは俺、英二を独り占めして祝杯しちゃいたいね。それくらい俺は我儘だって、雅樹さんなら解かっちゃうよね?

こんなワガママも、願いごとで叶うかな?
そんな想いに見上げるアルプスの女王は、蒼穹の点に輝く「約束」まばゆかせて、愛おしい。
あの場所に雅樹の想いを抱いて英二と立てた、その想い微笑んだテーブルへとワインと一緒に七機と五日市署の4人が着いた。
英二と立って迎えると、今回の最年長でリーダーの加藤が謝ってくれた。

「国村さん、待たせてしまって申し訳ない、」
「いいえ、自分が早めに来たんです。こちらこそ先に飲み始めてすみません、」

謝り合って着席しながら想ってしまう。
いつもの事だけれど、警察組織の上下関係は中々に面倒だ?

―階級に役職に、年次と年齢があるもんね?

加藤は巡査部長で大卒任官の31歳、今年が9年目になる。
光一は最年少の24歳で高卒任官6年目、けれど階級は警部補で加藤より1階級上になる。
山のキャリア年数で言えば高校から始めた加藤は16年目、対して光一は20年を超えてしまう。
そして警察組織では階級と役職のウエイトが大きい、だから今回のチームでは警部補の光一が最上位になる。
年齢も年次も加藤が上、けれど階級と山のキャリアは光一が上になってしまい、なんだか立場関係がややこしい。

―こんなのどうでもイイって言っちゃいたいけど、ねえ?

内心で呆れ半分に笑ってしまう、けれど態度の方針は覚悟を決めている。
アイガー北壁を廻る英二との対立に考えた通り、光一は指導権の掌握に微笑んだ。

「今日と明後日の北壁について、食いながら話したいですね?正直なとこ腹減ってるんです。高尾署には申し訳ないけど、先に始めませんか?」

この意向は誰もが望むだろう、その代弁として自分が言っている。
そんな自覚に先輩たちへ笑いかけた隣、綺麗な低い声は穏やかに提案してくれた。

「ではメニューを持ってきて貰いますね、よろしいでしょうか?」

言って、視線はもうギャルソンに微笑んで呼びかける。
すぐ気がついて来てくれる様子に、加藤が気さくに頷いてくれた。

「ああ、お願いします。俺も正直なところ腹減ったので助かります、」

加藤の言葉に他の3人も頷いてくれる。
この雰囲気に微笑んで英二はメニューを依頼し、オーダーを取りまとめてくれた。
その慣れた容子に感心しながらも、光一はすこし懸案しながら微笑んだ。

―こんなに手馴れた雰囲気だと、やっぱり英二はデート経験相当だってコトだろね?

本当に色々と博学なパートナーだ?
何だか可笑しくて笑いながら光一は七機のコンビへと尋ねた。

「加藤さん、村木さん、前回よりタイムを更新されたんですよね?スピードが上がったコツを教えて戴けますか?」
「はい、」

加藤が返事して光一を見てくれる。
そして幾分か姿勢を正すと、野太い声はコンパクトに説明した。

「ハーケンの本数を計画的に絞ったこと、ルートの事前調査と偵察が綿密になったからだと思います、」
「ルートの確認ポイントは、どこに重点を置かれました?」

教えてもらう、そんな態度で訊いていく。
これなら加藤は光一に対して話しやすく、意見も聴きやすいだろう。

―幾ら階級と山の経験が上だって言っても、7歳も年下じゃあ「命令」なんざ素直に聴けるワケないね、

確かに階級とキャリアが上なら、従わざるを得ないだろう。
けれど上辺だけの服従では役に立たない、信頼から快く意向に添ってもらう方が現場での動きが違う。
そういう上司の態度を後藤副隊長の姿から学んだ、それを肚括って実行していくしかない。

―…いいかい、光一?人間の上に立つのはな、人間の気持ちが良く解かっているヤツがすることだ
   どんな相手も懐に抱え込めるようになれ、大きな心ですべて受けとめて、それから正せる男になっていくんだよ

第七機動隊第二小隊長への昇進が決った時、後藤が贈ってくれた言葉たち。
あの訓戒を活かす時はもう今、この瞬間に始まっている。そんな想いにディナーミーティングは進んでいく。
それぞれが北壁で見た光景と課題点を話しながら食事に笑いあう。そうして料理が半分ほど減ったとき、テーブルに2人案内されてきた。

「遅くなって申し訳ありません、無線機が故障して連絡も出来ず、すみませんでした」

日本語で詫びた男たちは、高尾署のコンビだった。
その姿を見た瞬間いつもの調子で肚が怒りだし、山ヤの警察官であるプライドが毒づいた。

―ホント遅いよねえ?山岳レスキューの癖に何時間かかってんのさ、ソンナじゃ要救助者が死んじまうね?税金無駄遣いって言われちまうよ、

もし警察のレスキュー本人が訓練で問題を起こせば、訓練の存続すら危ぶまれる現実もはらむ。
現に富山県警山岳警備隊は、厳寒期訓練での殉職で雪中訓練廃止の危機を迎えたことがある。
そうした問題を首都警察である警視庁が起こせば、もっと問題が大きいだろう。
そんな危惧に怒りたくなる、けれど堪えなければリーダーとして立てない。

―やれやれ、苛々しちまうね?後藤のおじさんって、やっぱり人格者ってヤツなんだね?

この立場に真剣に向き合って今、後藤副隊長の偉大さが身を以て解かる。
何事も経験だと言うけれど、それは本当だな?そんな感想に苛立ちを見つめている隣、綺麗な低い声が微笑んだ。

「ご無事で良かったです、あの雲だと無線も難しいですよね?今、席を用意してもらいますね、」

穏やかで包むような、綺麗な低い英二の声。
そのトーンと言葉の温もりに、後藤の言葉が心をノックした。

―…どんなに正しいことを言ってもな、相手が受容れないと意味が無いだろう?
   こっちから受容れて相手が受容れやすくするんだ。この受容れが宮田は巧いんだよ。
   だから光一が怒鳴りつけた遭難者も、宮田がフォローするようになってからは、御礼状くれるだろう?
   相手に恨みを残さないで大切なことを残してやることが必要なんだよ。それが組織をまとめるリーダーには必要だよ

深い声が諭してくれる、その想いにそっと呼吸ひとつする。
そうして見た高尾署の二人は、少し赤くなった雪焼けの顔は疲れても目は明るい。
それでも遅れたことへの緊張と謝罪が見える、その空気に気がついたとき自然と心が笑った。

―良かった、無事で元気だね?疲れて腹も減ったろうな、早く一緒に祝杯をやりたいね、

ふっと肩から脳から余分な力が落ちて、視野が広くなる。
その心へとアンザイレンパートナーの言葉の意味、ひとつずつに気がついた。

『ご無事で良かったです、あの雲だと無線も難しいですよね?今、席を用意してもらいますね、』

あの雲のなかは雷電と降雪だろう、こうした天候の急変に遭えば連絡どころか生命の確保すら容易くない。
そんな困難に遭った2人を早く席に着かせて酒と食事で癒し、明後日のアイガーに向けて備えることが任務だろう。
なによりも「無事でよかった」このシンプルな喜びが温かで、光一は高尾署の二人へと陽気に笑いかけた。

「おつかれさまでした、まず飯にしてください。食いながら話しましょう、ちょうど明後日のミーティングしようかってトコです、」

笑いかけた先、2人の貌が明るく笑ってくれる。
その空気にテーブルへと愉しい空気が充ちて、後藤の訓戒が肚に響いた。

―…おまえが尊敬する山は、どんなものも受容れていくだろう?受容れて育む力を光一も備えるんだよ、
   そうやって大きな男になれ。これがな、光一が山ヤの警察官として生きる意味で、誇りなんだよ、

大きな男、山のような男、そんな言葉に懐かしい俤が重ならす。
そして気づかされる、後藤の言うような男こそ「雅樹」だった。

―ね、雅樹さん、俺も雅樹さんみたいになれるかな?

心裡に問いかけて見上げた窓、アルプスの女王にあわく薔薇色が耀きだす。
アルペングリューエンの兆しが励ましに想えて微笑んだ、その前にグラスが運ばれた。
金色に細やかな泡たち昇る酒に香が華やぐ、その色と香りに微笑んだ隣から英二が笑いかけてくれた。

「国村さん、北壁の登頂祝いのシャンパンですよ?」

綺麗な低い声にふり向くと、いつものよう切長い目が微笑んでくれる。
穏やかで静謐の優しい、けれど熱情を深く見つめる瞳にふたつの愛しさ見つめて、光一は笑った。

「じゃ、乾杯しましょうかね?今日の北壁と、明後日のアイガーにね、」

そんなふう飲んだシャンパンは、別嬪の味だった。



戻った部屋の窓、ガラスの向こうは黄昏の時がゆるやかに降りていた。
見上げる氷食鋭鋒の天辺、アルペングリューエンの華あざやかに耀きだす。
空を山を染めだす薔薇色うれしくて、笑って光一は冷蔵庫を開いた。

「太陽と山のショータイムだね?英二、アレ飲も?」

グラスとワインボトルを出して、ベランダへの窓を開く。
その横顔へと綺麗な低い声が笑いかけてくれた。

「光一、さっきテーブルでカッコよかったよ?こういう上司と仕事したいって俺、想ってた、」

夕食のテーブルでのことを褒めて、切長い目が幸せに笑ってくれる。
また「光一」と名前で呼んでくれる笑顔が嬉しくて、光一は誇らかな想い素直に笑った。

「ありがとね、でも俺さ?あの二人がテーブルに来た時、おまえが口火を切ってくれたから話しやすくなったんだ。
俺にとって英二は最高の補佐役で、最高のアンザイレンパートナーだよ?別嬪で体力馬鹿で、頭も良くって言うこと無しだね」

本当に英二のお蔭だと思う。高尾署のふたりが食卓へ現れた時、本音は怒りたい気持ちもあったから。
山ヤなら自助が当たり前、それは山岳レスキューなら尚更に職人的クライマーとして必要だと自分に課している。
そんな自律心につい山の失敗を責めたくなる、けれど英二の言葉に立場と山の現実を思い出し、自分を食い止められた。
本当におまえのお蔭だよ?この感謝と笑いかけた先、綺麗な笑顔が咲いて言ってくれた。

「ありがとう、俺のことそんなふうに言ってくれて。光一、ジャケット脱いでこっちに着替えたら?」

笑って椅子に掛けたパーカーを取り、手渡してくれる。
言われた通りジャケットから着替えると、クロゼットに踵返してハンガーに掛けて仕舞う。
そのまま英二もカーディガンに羽織り替えて、ベランダの椅子へと並んで座ってくれた。
長い指の手は器用にボトルからコルクを抜き、グラスへとあわい金色を注いでくれる。
この光景に一昨夜が重なって今、1つ終えた実感とダイニングの願いごとが笑った。

―今から俺、英二を独り占めして祝杯だね?雅樹さん、

そんな想いに嬉しいまま、グラスへと口付ける。
マッターホルン登頂を控えた夜この場所で、同じよう座ってこの香を楽しんだ。
あのとき約束したよう無事に下山後の一杯を呑めている、この幸せと一緒に隣へ笑いかけた。

「マッターホルンときっちりキス出来て、良かったね?」
「ああ、嬉しかったよ、」

グラスに口つけながら微笑んでくれる、その唇をつい見てしまう。
いま自分で言った「キス出来て」に山頂で交わしたキスを想い、トランクの紙袋が心に映る。
スイスに発つ直前に周太が贈ってくれた紙袋に、ふっと首筋が熱くなってパーカーの衿元を寄せた。

―アレ思い出しただけで赤くなるなんて、俺もホント初心だね?…意外だよね、雅樹さん?

なんだか気恥ずかしくて自分で可笑しい、そして黄昏にほっとする。
この薔薇色の光の中なら紅潮も解からないだろうな?そんな思案に愛しい夏を想ってしまう。
そして気づかされる、あの頃は体も本当に子供だったから、今ほど赤くなることも少なかったのだろう。
幾らマセていても体の年齢は子供だったな?この自覚が可笑しくて笑った隣、綺麗な低い声が訊いてくれた。

「光一、寒い?パーカーの衿、つめてるけど、」
「いや?気分だから平気だね、心配ありがとね、」

笑って応えながら、パートナーの気遣いが嬉しい。
嬉しい想いに見上げる空、アルプスの女王に薔薇色の炎が融けていく。
太陽は標高4,000mに最後の光を投げかけて、ゆっくり西へ眠りに帰りだす。
白い光、あわい金色の紅から紫へと稜線の空は刻々と移ろわせ、まばゆい落陽は鎮まり中天から夜が降る。
華のよう燃える赤い光、穏やかに深い紫の闇、「今日」の終焉が魅せる壮麗に記憶の言葉で微笑んだ。

「Ragnarokkr、ソンナ感じだよね、」

幼い日、雅樹が話してくれたアルペングリューエンに因んだ古い異国の物語。
懐かしい物語の記憶に笑った隣、綺麗な低い声が訊いてくれた。

「それ、神々の黄昏って意味だった?」
「そ、北欧神話のクライマックス。天上の楽園が炎で焼かれて、コアの部分だけが残るんだ、」

本当に大切な「結晶」の部分だけが、天の炎にも残り蘇える。
この雄渾な再生の物語に、富士山麓に眠らせた夢がそっと槍ヶ岳の残像を見せた。

―アルペングリューエンには雅樹さんのコト蘇らせれるから、槍の天辺には来てくれたね?

英二が叶えてくれた雅樹の慰霊登山、そのラストシーンの山頂で英二の口は「僕」と言った。
英二は雅樹が自身を「僕」と言っていたことを知らない、だから自分は密やかに信じている。
あの山頂では英二の体を雅樹が借りて、光一と共に三角点に触れ、途絶えた登頂を叶えた。
こんなことは非科学的だろう、けれど自分は確かに「僕」と言ったのを聴いた。

―これこそ「山の秘密」だよね、雅樹さん?

いま見上げるアルプスの女王に輝く光へ微笑んで、隣を振り向いた。
隣は穏かに微笑んで見つめてくれる、その静かな温もりが綺麗で光一は笑った。

「お、なんかイイ笑顔だね?別嬪だよ、その顔。眼福だね、」
「喜んでもらえるなら嬉しいよ、その楽園ってヴァルハラって名前?」

綺麗な低い声が訊いてくれて、すこし意外で驚かされる。
いつも救急医療か山の関係する本ばかり英二は読む、そんな嗜好の別面が愉快で訊いてみた。

「お、知ってるね?おまえも結構、本読んでるケドさ、神話とかお伽話みたいなモンも興味あるんだ?」
「祖母のとこにいる人がさ、小さい頃から読み聞かせてくれたんだ、」

言いながら少し気恥ずかしげに笑う、その解答に英二の生い立ちが垣間見える。
きっと「祖母のとこにいる人」はこういう意味だろうな?見当をつけて光一は言ってみた。

「へえ、乳母ってやつだね?おまえってマジの坊ちゃんなんだね、」
「そうみたいだな、俺も社会に出るまで気付いてなかったけど、」

やっぱりそうなんだ?納得しながら英二の経歴と、英二の母と姉の様子にも合点がいく。
鋸尾根の雪崩に遭った英二を見舞った二人は、服装品も身ごなしも全てに家柄の良さがあった。
あれがスタンダードだと思って育ったのだろうパートナーの生い立ちに、光一は受容と質問で頷いた。

「ずっと坊ちゃん学校行ってたら、気付かないの当然だね。同じタイプのヤツが多いんだろ?そういう私立とかって、」
「うん、似たような感じだったな、今思うと。俺みたいに世間知らずじゃないかな、エスカレーターで内部進学すると、」
「ホントに箱入りってヤツなんだね?そういうの、おまえの性格でも楽しかったワケ?」

この質問への答えは決まっているね?
そんな確信の向こうから、アンザイレンパートナーは正直に笑った。

「それなりには楽しかったよ、でも正直なとこ違和感っていうのかな?なんとなく居場所が無いって感じる事が多かったよ、」
「だろね?」

頷きながら、言われた言葉に哀しみが響く。
いま言われている「違和感」に「居場所が無い」ことが、この2週間ほど英二が揺らいでいる根源だろう。
この3日前にブライトホルンでも英二は考え込んでいた、その哀しみの片鱗へと光一は心から笑いかけた。

「おまえの居場所はコッチ側なんだから、良かったよね、箱から出てこられてさ、」

本当に、出て来てくれて良かった。
この自分の隣へと来てくれて良かった、そう募らす想いが温かい。
温もりに笑って傾けたグラス、あまやかに広がった花の香が涼やかに喉を下りていく。
飲みながら見つめるグラスの向こう、アルプスの黄昏はベランダをも薔薇色に染めあげ輝かす。
華に透けていく光の雄渾、この瞬間にグラスから唇を離した隣で、きれいな低い声が微笑んだ。

「きれいだな、」
「だろ?こっから見る夕焼け、好きなんだよね、」

同じように綺麗だと思ってくれる、それが嬉しい。
嬉しくて笑いかけた先、端正な白皙の貌はアルペングリューエンを映しながら、密やかな静謐に微笑んだ。

「光一のファーストキスって、どんなだった?」

問いかけに、自分のパートナーを見つめて心が立ち止まる。
真直ぐ見つめる切長い目、その静かで穏やかな瞳の底へ熱情が自分を映す。
その眼差しに、16年前に告げられた愛しい深い声が、どこまでも真摯な無垢の記憶から目を覚ます。

『光一。大好きだよ、本気で、』

まばゆい8歳と23歳の夏、あの時が自分たちの永遠で、約束と夢と、自分を造りあげた全て。






【引用歌詞:L’Arc~en~Ciel「あなた」】

(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深夜日記:落陽、晩秋の陰翳

2012-12-16 23:21:58 | 雑談
きらめく陰翳、耀きに、



こんばんわ、夕焼けの美しかった神奈川です。
雨のち晴れだった昨日、久しぶりに津久井・相模湖方面へ行ってきました。
ブラウンの濃淡が山を染める晩秋、交わす梢の影が湖畔の光に美しかったです。
もう葉を落とした枝、けれど花芽をつけながら蔓草をからます桜の木に春の豊麗が想われます。

第58話「双壁K2・12」加筆校正が終わりました、当初の倍になっています。
国村@ツェルマット、宮田への想いと進路への覚悟です。この続編を今夜UPの予定です、日付は変るかと思いますが。
今回の第58話は国村サイドも描いていますが、宮田と同じ状況に立っていても全く違う心理にある事が描いていて面白いですね。
読まれている方はいかがですか?また感想ご意見など、賛否両論とも教えて下さると嬉しいです。

あと、短編「Lettre de la memoire雪の華」で冬物語トーナメントに参加してみました。
12/17から投票スタートします、国村ファンの方いらしたら応援?してやって下さい。
冬物語ブログトーナメント

取り急ぎ、
















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第58話 双壁side K2 act.12

2012-12-16 01:28:29 | side K2
「天」 Lumiere du mountaintop、約束に祝福を今、



第58話 双壁side K2 act.12

駈け登っていく森、呼んでも応えは無いまま木洩陽はふる。
見まわしても黒いミリタリージャケットの長身は見えない、ただ樹木と草花が静謐に佇む。
まだ明るい午後の森、それなのに見渡す視界は光を失ってただ、焦燥感が涙の紗に透けている。

「英二っ…どこだ!」

心から叫んで、けれど応えてくれない静寂が心を射す。
16年前の晩秋、あわい雪ふる紅葉の森、幾ら呼んでも大好きな声は応えてくれなかった。
あの時のように、もう二度と応えてくれないまま、遠く離れて逢えなくなってしまったら?

『雅樹さんっ、まさきさぁんっ!約束だろっ、俺のトコ帰ってくるって、また山桜に逢いに来るって約束っ…どこにいるのぉっ…ぅっ…ぁ』

幼い自分の声が、いま駈けていく森の深くで泣き出していく。
それでも風に誘われるまま脚は坂道を走り、その向こう草地が見えてくる。
緑と花を踏み分け青空へ出た視界、岩根にダークブラウンの髪した後姿が座っていた。

「英二っ!」

呼びかけた声に、白皙の貌が振り向いてくれる。
その穏やかで哀しい笑顔を見た瞬間に、心あふれて涙になった。

―大好きだ、離れるなんて嫌だ!

心の真中あふれた聲に、背中を突き飛ばされて脚は駈ける。
そして岩根の許で膝は崩れ落ちて、ミリタリージャケットの肩に抱きついた。

「だった、とか言うなよっ!」

英二、おまえだって俺の世界の全てだよ?
だからアンザイレンして、あんな危険にだって一緒に登るんだろ?
だから離れないでよ、「幸せだった」なんて過去にしないでよ、ずっとこの先も一緒に幸せでいてよ?

そう心で言葉は廻るまま、唇かすかに震えて涙また零れだす。
抱きついた肩にしがみついて、白皙の頬に頬よせて温もりふれて、声はまた訴えた。

「か、過去形で言うなよっ、パートナーで登るの幸せだった、って…過去形で言うんじゃないよっ…」

訴えた声、涙に詰まってしまう。
それでも見つめた切長い目からも涙あふれて、綺麗な低い声が微笑んだ。

「ごめん、光一。でも俺、本当に幸せだったんだ。おまえとザイル繋いで登れるの、幸せだったよ?」
「だから過去形で言うなっ!」

耳元に怒鳴って、逃げられないよう抱きしめる。
幸せだった何て言わないでよ?この夢の続きをねだってよ?
ただ想いごと抱きしめて、深い森の香が頬ふれて温かい。この温もり信じて光一は問いかけた。

「俺のこと…おまえの世界の全てだったって言ったな?…あれは北壁にいた時だけか?」
「違う、さっき言ったろ?」

見つめる白皙の頬を涙は伝う、けれど声は穏やかに微笑んでくれる。
綺麗な笑顔で見つめ返しながら、英二は応えてくれた。

「光一は俺の夢なんだ。俺が憧れて、俺が生きたい世界は山だ。その世界は光一が俺に教えたんだ、だから光一は俺の世界なんだ、」
「おまえの世界の全てが俺って、さ…」

訊きたかった問いかけに、鼓動ひとつ心を叩く。
そっと溜息に落着かせ、光一は言葉を続けた。

「それって、俺の世界とおまえの世界が同じモノで、同じ世界に生きているってことか?」
「そうだよ、光一は俺の憧れで、俺が生きていたい世界の全てだ。だけど俺は、周太の隣に帰りたいんだ、」

正直なまま告げて、頼もしい腕が肩を抱きしめてくれる。
広やかな青空のもと抱き合ったまま、草と花の香に英二は微笑んだ。

「周太がいてくれるから俺は、生きようって想えるんだ。笑って迎えてくれる、待っていてくれる笑顔が嬉しいんだよ。
周太を愛してる、周太無しなんて俺は嫌だ…周太がいない世界になんて俺は生きられない。だから世界の全てを懸けても護りたいよ。
光一は俺の全てで俺の夢だ、それを懸けても俺は周太を救けたい。だから光一のこと利用しようとする…こんなの光一には迷惑なのにな?」

英二は、周太を愛して恋している。
それでも光一を夢にして英二の世界の全てだと想い、告げてくれる。
この言葉を信じていいの?そんな想いの真中で綺麗な低い声は続けた。

「ごめん光一、俺の独りよがりだよ?本当に俺は情けない男でさ、人前で泣かないって俺は決めてたのに、でも今も泣いてるだろ?
こんなダメな男なんだ、俺。光一が俺の全てなのは本当だ、でも光一の一番のパートナーは雅樹さんだ。俺は相応しくないよ、ごめん、」

正直に告げてくれながら、白皙の貌は泣笑いに涙をこぼす。
その涙に自分の涙を重ねあわせて、光一は自分の世界を目の前の男を見つめた。

「俺がおまえの全てだって言うんならね、俺の前では泣いてもいいだろ?だって俺はおまえなんだ、他人様に見せたワケじゃないね?
そしてね、俺とアンザイレン出来るのは英二しかいない、俺をビレイできるのは英二だけだ、だから過去形なんかにしないでよ、約束だろ?」

抱きしめて見つめて、約束を思い出させたい。
いま生きて山の約束へと笑える、この誇らかな想い正直に光一は告げた。

「英二が俺をビレイしてくれるから、俺は安心して全力で登れるんだ。俺にはおまえが必要だよ、俺を支えられるのは英二だけだね。
確かに雅樹さんを俺は忘れられない、でも生きて一緒に山に登ってるのは、こうして抱きしめて笑いあえるのは、俺には英二だけなんだ、」

雅樹を忘れるなんて、出来る訳がない。

山を愛し、山に夢を見、山を駈ける生き方を自分に与えた人。
その全てを籠めた名前を自分に贈ってくれた、生まれた瞬間から抱きしめてくれた。
そんな雅樹を忘れることなど出来る訳がない、けれど生きて共に山へ登れるのは唯ひとりしかいない。

―俺には英二だけしかいない、

だから離れたくない、共に夢を駈ける喜びを抱きしめていたい。
唯ひとりと見つめる相手に微笑んで、大好きな人へと光一はねだった。

「俺のこと、過去形なんかにしないでよ?俺、英二がいなかったら独りぼっちだ、そんなの嫌だね、俺は英二と一緒がいい、ずっと、」

どうかいなくならないで、過去にしないで?
ずっと一緒にいると約束が欲しい、もうじき1ヶ月の別離の前に、立場が別れていく前に。
その願いのまま見つめた先で切長い目は微笑んで、幸せそうに言ってくれた。

「うん、俺も一緒が良いよ、」

言ってくれた想いに、ほっと心が安堵に微笑んだ。
この安堵に想いが重なっていく、その幸せに光一は笑いかけた。

「良かった、やっぱり俺たち相思相愛のパートナーだね?俺、さっき焦ったよ?泣いて出て行っちゃって、それも過去形で言って…俺、」

笑いかけた視界また涙あふれだす。
堪えられない涙を透かして見つめる切長い目も、ただ涙こぼしてくれる。
ほら、泣くのも俺たちは一緒だね?そんな想い嬉しく微笑んで、涙の声に想いは言葉に変わった。

「俺、英二が遠くに行っちゃうって…おも、って…怖くて必死で探したんだよ?…おまえの行きそうなトコ探して、訊いて回って…っ、
駅にも行った、カフェとか本屋とか…氷河の入口と、かさ…それでここに来て見つけたんだよ?俺を置いてなんか行くなよ…約束まもれよ、」

どうか約束をまた聴かせてよ?
そう願うまま背中に回した手にジャケットを掴んで、縋りつく。
縋った手が震えてしまう、また拒絶されて置いて行かれることが怖くて震える、その震えごと頼もしい腕は抱きしめてくれた。

「うん、約束だ。光一、俺たちは生涯のアンザイレンパートナーで、血の契だ。もう置いて行かない、さっきはごめん、」

生涯のアンザイレンパートナーと『血の契』を今、言ってくれた。
春4月、両親の命日に再会した血縁の憎しみを受け留めてくれた、あの笑顔がまた見つめてくれる。
あのとき雲取山頂で見つめあった『血の契』の誓いは、この体内に廻らす憎悪から自由にしてくれた。
自分が生まれた雲取山頂で「血」は自由になり、新たな血縁に温もりを与えられた。
あの喜びを自分も、英二に贈ってあげたい。

―俺も英二の「血」を受けとめたんだ、だから英二の血が呼んでる復讐も俺が付きあうべきだね?こんな暗い事から救けてやりたい、

英二が全てを懸ける「あの男」への反抗の実態は「復讐」でいる。
50年前に周太の曽祖父は射殺された、そのとき2発の銃弾が惹きこんだ罪の束縛と死への道。
この道は留まることなく50年を超えて、あの家族たち誰もから幸せを奪い続けて、今、周太を掴まえる。
この悲劇のトリガーを引いた1発を放ったのは周太の祖父、晉だった。そして晋の妻、斗貴子は英二の血縁だった。

―…斗貴子さんは俺の祖母の従姉なんだ。斗貴子さんと周太は似てるって祖母は言ってた、でも目だけは俺と似てるんだよ、馨さんともね、

周太の父、馨と英二は似ている。
顔の造作は切長い目が似ているだけで、他はあまり似ていない。
けれど表情は時おり似すぎているのだと、馨を知る後藤も言うほど生き写しでいる。
この血縁に懸けたプライドから英二は「あの男」への復讐を強く抱く、そんな男だから周太への愛情も「血」が呼ぶのかもしれない。
そんなふうに血が求める事ならば、英二と『血の契』を交わした自分こそが援けたい。その想いへ光一は泣笑いに微笑んだ。

「…っ、俺こそ、だね?」

嗚咽をこぼし、覚悟と一緒に唯ひとりの『血の契』を抱きしめる。
すこし離れて切長い目を見つめ、ひとつ呼吸してから光一は口を開いた。

「さっき英二が言ってくれた明日のこと、おまえの言う通りだ。俺は高尾署を待つよ、」

言った声は落着いて今、想いは誇らしい。
明後日のチャンスを掴めないのは悔しい、けれど『血の契』の誓いを護りたい。
この唯一の約束へと微笑んで光一は、大切な唯ひとりへと反省を絡めた意志を告げた。

「今回のチームで警部補は俺だけだ。加藤さんは年次も齢も上だし、今回リーダーだけど階級は俺が上だね。ナンカあったら責任は俺だ。
このコト俺は、アイガーでいっぱいになっちゃって忘れてた、俺も未熟だね?コンナこと忘れちまうなんてさ、異動後はマジでアウトだよな、」

今回、巡査である英二の他は巡査部長で警部補は自分しかいない。
年齢は英二と共に最年少、それでも自分には階級と役職の責務が現実としてある。
この責務を果たすことが『血の契』の誓いに繋がるのなら誇らしい、そして「山桜」の約束を護れるなら悔いはない。

―周太、山桜のドリアード?君を護るために今、アイガー北壁より組織の力ってヤツを選ぶよ。それが今の俺の誇りってヤツだから、

雅樹が愛した「山桜」その化身が本当に周太なのかは、解からない。
それでも周太が山桜を愛することは現実で、そんな周太を雅樹なら護りたいと願うだろう。
自分と同じ樹木へ純粋な想いを寄せるひと、そんな存在を雅樹なら放りだすなど出来るわけがない。

―雅樹さん、それで良いよね?もう肚括ってさ、潔くリーダーシップとっちゃって権力ってヤツを掴んじまうよ、で、自由を掴むよ?

もし権力を握ったら、本当の自由を築く道も作れるだろう。
そうしたら好きなだけ山へ登れるだろう、自分も英二も、そして他の山ヤたちも。
この自由への誇りに立って自分は雅樹との約束を全て叶えたい、そうして生き抜いたら胸を張れる。

―俺が義務とかキッチリ真面目にやって約束を叶えたら、雅樹さん、うんと俺のコト褒めてくれるよね?だから俺はやるよ、

いま新しい約束を雅樹へ想う、幼い日に雅樹に教えられたことを想いながら。
いつも奥多摩に帰ってくると雅樹は、祖父母の手伝いを沢山しながら光一と山で遊んでくれた。
祖父母を支える責任と権利を果たしていた雅樹、あの姿を誰より知っている自分だから同じにしたい。
この新しい約束と意志へ軽やかに笑って、光一は唯ひとりのアンザイレンパートナーにもう1つ告げた。

「あとね、周太を護るってコトについては俺、おまえに利用されてるなんざ思っちゃいないね。だって俺も周太を護りたいんだ、」

他人に利用されるのは大嫌いだ。
けれど「自分の世界」が自分を利用するのなら、それは自発と一緒だから構わない。
そして英二と自分は互いを「自分の世界」と想い合っている、それなら英二の意志を理解し受けとめたい。

「俺の恋人が同じ目的で、しかも婚約者として大事にしてくれてるなんてね?俺にとっちゃ好都合だって前も言ったと思うんだけど。
だから変に罪悪感とか感じてんじゃないよ、そんなモン感じるんならね、俺に色っぽい貌でも見せて眼福を楽しませて欲しいよね、」

おまえと俺とは同じ世界に生きたいんだ、だったら俺の全部を懸けて抱きあいたいよ?

この自分の全て懸けて向きあって、この男と一緒に生きたい。
唯ひとりの『血の契』で、アンザイレンザイルを生きて繋ぎ合える唯ひとり。
お互いに唯ひとり、ならば心も夢も意志も、体も能力も権力も、全てを互いに支えあって同じ世界に生きたらいい。
だから罪悪感なんかいらない、唯ひとり同じ世界に生きる者だと愛してほしい、この願いに見つめた切長い目は涙と微笑んだ。

「ありがとう、俺なんかのこと。ずっと俺は傍にいていいかな、一緒に山に生きたいんだ。本当に俺が生きたい世界は光一と同じ、山だから、」

ありがとう、ずっと傍にいて、一緒に山に生きたい

ずっと言ってほしかった言葉が嬉しくて、涙ごと抱きしめる。
この言葉に自分こそ今、明るい光と温もりを見つめてもう、離れられない。
その想い正直に抱きしめて、白皙の頬から掌で涙拭ってやると底抜けに明るく笑いかけた。

「うんっ、ずっと一緒だね。俺の別嬪アンザイレンパートナー、離れるんじゃないよ?山でも何処でもねっ、」

笑ってそのまま押し倒し、ふたり草原に寝転んだ。
くるり視界が反転して青空が広がり、草の香が包んで背中やわらかに受けとめられる。
そうして見上げる天の際、アルプスの女王が微笑んで雲をまとう。けれど蒼穹の点は陽光きらめいて約束の場所を示した。

「ほら英二、天辺が見えるね、あそこが俺たちの居場所だよ、世界中の最高峰すべてでね、」

8時間前、あの場所に自分たちは笑い合った。
あの瞬間が自分たちの真実、その向こう側に新しい約束を繋ぎあう。
この今が愉快で笑いかけた隣、白皙の貌が幸せに笑ってくれた。

「うん、あれが俺たちの場所だ。もし明後日が登れなくても俺は、必ずアイガー北壁も光一と登るよ?いつか一緒に天辺に行こう、」
「よし、約束したね?じゃあ起きろっ、帰るよ」

笑って隣に抱きつくと、そのまま一緒に起きあがる。
降る夏の光にダークブラウンの髪きらめいて、纏わりついた草と花を風が梳く。
深い森の香と草の風、輝く陽光に白皙の貌は綺麗に笑って、長い指を光一の髪へと伸ばした。

「光一、草と花がいっぱい髪についてるよ?こういうの似合うな、」

そっと髪を長い指が梳いて、花びらを取ってくれる。
梳かれていく感覚が心を響かす、また恋慕が滲んで鼓動が喉につまる。
こんなに体ごと自分は恋愛している?そんな自覚が可笑しくて光一は底抜けに明るく笑った。

「当然だね、俺は山っ子なんだからさ?花も草も似合うよね、で、ココってどこかオマエ解かってる?」
「ツェルマットの街の、すぐ近くだろ?」

何のことは無い、そんな貌で笑って応えてくれる。
けれど予想を外した答えで、光一は悪戯っ子に笑った。

「ハズレだね、もうフィンデルンのすぐ傍だよ?おまえ3kmは歩いちゃったんだ、300mの高低差をね、」

ほら、また驚いた貌は天から堕ちた至高の“Lucifer”そっくりだ?
驚いて見つめる切長い目が嬉しくて、笑いかけた先で英二は困ったよう笑ってくれた。

「ごめんな、光一。おまえのこと、夕飯まで昼寝させたかったのに歩かせちゃって。こんなんじゃ俺、おまえの専属レスキュー失格だな、」
「そう思うんだったらね、俺のコトおんぶして帰る?」

もちろん冗談のつもり、ちゃんと自分で歩いて帰るよ?
そう目でも言ったのに、くるり英二は背を向けると黒いミリタリージャケットの背中へ光一を載せた。
そのまま草原から長身が立ち上がる、ぐんと高くなった視界が青空へ近づいて綺麗な低い声が笑ってくれた。

「これなら光一、背中で寝ていけるよな?ちゃんと背負ってくから安心していいよ、」
「え?」

今度は此方が驚かされたまま、英二は光一を背負い森の道を下りはじめた。
さっきは泣きながら独り探していた森、そこを今は温もりの背中に包まれ下っていく。
おぶわれる肩は筋肉が規則正しく動き、ふわり深い森の香は頬をなで、ふれあう背から鼓動は胸へと直接に響いて、温かい。

―生きてる、英二は生きて俺と一緒にいて…俺を背負ってくれるんだ

いまふれる律動、香、鼓動、全ての温もりが優しい。
この優しさに心の深く、16年前の子供が幸せに笑って涙を拭いている。
優しくて嬉しくて、そっと頬よせた髪から白い花びら達が、黒いジャケットの肩へ降った。



ツェルマットの街を流れていく川は、氷河の雪解けを運んでゆく。
いま7月の真夏にも碧い水は涼やかな風を生み、軽いハイキングに火照った頬へ心地いい。
のんびり欄干にもたれて清流を眺めながら、笑って光一は隣の紅潮した頬を小突いた。

「おまえさ、北壁なんか登ってきた後の癖に、かなり遠くまで歩いちゃってたね?」

小突いた指先に、ひとすじ赤い傷痕が浮んでいる。
富士の竜の爪痕はアルプスでも鮮烈に美しい、その色彩に見惚れる想いに綺麗な低い声が困ったよう微笑んだ。

「ごめん、気づいたら着いてた、」

気づいたら着いていたのが、3km先だなんてね?

それも高低差300mを登りあげながら気づいていない、そんなのはタフでボンヤリ過ぎるだろう。
こういうヌケている所が英二は面白い、いつも冷静で計算高いほど賢明な男の癖に意外とドジな部分がある。
それだけ考え込むほど自分との決裂が痛かったのかな?そんな相手へと光一は笑いかけた。

「まったくタフだね、宮田巡査はさ?頼もしいね、」

少しからかいたくて階級付きで呼んでみる。
そんな呼びかけの先、少し困ったよう微笑んで英二は訊いてきた。

「あのさ、今回のメンバーの前では俺、国村さんって呼んだ方が良いよな?」
「うん?今頃なんで?」

訊きながら光一は軽く首傾げこんだ。
第七機動隊の加藤たちと昨日から合流して、今は2日目になる。
それなのに今更なんで訊くのだろう?考えかけて直ぐ気がついて、この律儀なパートナーが可笑しくて笑ってしまった。

「おまえ、そういえば加藤さん達の前では俺のこと、呼ばないように会話してたね?しかも敬語だったな、」
「うん。何て呼んだらいいか解からなかったし、公式の訓練だから、」

困ったよう言う「公式」に英二の困惑が計られて、生真面目さがよく解かる。
いつも青梅署では業務中「国村」でプライベートは「光一」と呼んで、敬語は遣っていない。
それは周囲も光一と英二が親しくなっていく過程を見ていたから出来る、けれど他部署も一緒の時は同じようで良いのだろうか?
そう思案をしながらも英二はマッターホルン北壁を前に脇へ置いていた、そんな様子へと光一はさらり笑った。

「まあ、どっちでもイイんじゃない?」

どういう意味で「イイんじゃない?」なのだろう?
そう見返してくる切長い目に、今後の事も考えながら笑いかけた。

「だってね?七機も五日市も、高尾にしてもね?同じ警視庁山岳救助隊だけど、俺たち青梅署チームからしたら他の所属だろ?
で、同じ所属の人間は敬称略でヨソへと話すよね?ま、あの人たちの前で、俺自体に呼びかけるのはドッチってコトだろうけど、」

答えながら想ってしまう「堂々と呼び捨てしちゃえばいいのにね?」
きっと最初は周囲も途惑うだろう、けれど見ているうちに自分達が同等なのだと気付くはず。
そうすれば呼び捨てにし合うことも納得するだろう、そう出来るだけの相手だと自分は信じている。

―立場や階級に差があっても、もう気にしないでいたいね。俺たちは「同じ」なんだからさ?

お互いが自分の世界だと認め合ったなら、もう煩瑣な事は気にする必要がない。
こう考える自分の意志を周知させ認めさせる為にも「実績」を英二に積んでほしい。
そんな考え笑った光一に、几帳面なパートナーは困ったよう微笑んだ。

「そうすると俺、いちおう『国村さん』って呼んだ方が良いかな、皆さんの前の時って、」
「そうしたきゃソレでも良いんじゃない?ま、公務中だから気になるんだろうけどね、大した問題じゃないよ、」

きっと明後日にはもう、公認の呼捨て同士になっているだろうな?
そんな信頼へと気軽に笑って橋の欄干から身を起こし、街の方へ歩き出した。
ふたり並んで橋を渡り町並みを歩く、その視界に「Boulangerie」の看板を見て光一は提案した。

「腹減っちゃったね、俺。パン買っていきたいね、」
「うん、良いよ、」

綺麗な笑顔も頷いて、木製の扉を押してくれる。
甘く香ばしい空気に包まれるまま空腹が誘われて、チョコクロワッサンが目に留まった。
その隣にはオレンジのデニッシュもある、好みが揃うバスケット達へ笑って光一は売り子に声かけた。

「Bonjour. Lequel est le pain le plus délicieux aujourd'hui?」
「Bonjour. Le pain du citron est délicieux. Le croissant est juste chaud du four.」

クロワッサンは英二の好物だと周太に聴いている。
ちょうど焼きたてなのは良いタイミングだった、嬉しく笑って光一は英二に笑いかけた。

「クロワッサン焼きたてだってさ、あとレモンのパンが旨いって言ってるね、」
「お、嬉しいな。その2つとチーズのやつも注文してくれる?」

綺麗な低い声の注文に頷いて、言われた通りの3つと自分の好みを2つ紙袋に詰めてもらう。
会計を済ませて、温かい袋を抱え通りに出ると夕刻にも太陽は明るく真昼のままでいる。
太陽きらめく花に窓は彩られ、洒落た店の並んだ通りを歩く人も多く活気に明るい。
そして擦違う人は隣を見、見惚れるよう見送っていく。そんな状況に内心笑ってしまう。

―こいつ、やっぱりアルプスでもモテるんだね?

183cmの身長は欧州でも見劣りせず、鍛えられた逆三角形の背中は美しい。
ダークブラウンの髪と白皙の肌も異国好みだろう、そんな英二は過去に外国雑誌の表紙も飾っていた。
当時の写真と今の英二を見ても同一人物だとは思わないだろう、けれど基本造作は同じ、美形な事は変わらない。
あの写真集はこの辺でも売ってそうだよね?そう考えながら歩く隣から、綺麗な低い声が楽しそうに笑いかけてくれた。

「この街って可愛い建物が多いな、花もいっぱいだし、」
「だろ?周太は喜びそうだよね、ハイキングコースも花畑が多かったろ?ハネムーンに連れて来てやんなよ、」

周太にアルプスの花を見せてあげたい、どうか山桜の精にも雅樹の夢の場所を知ってほしい。
この願いは英二なら叶えてられるだろうな?そんな信頼と笑いかけた先で幸せな笑顔が尋ねた。

「男同士で結婚しても、特別休暇って貰えるのかな?」

こいつ、馬鹿正直に「男夫婦です」って警察内でも言うつもり?

そう気がついて愉快で笑ってしまう。
こんな馬鹿正直な律儀は可笑しくて、こういう所が大好きだと嬉しくなる。
けれど、このままの調子では周太に無駄な気苦労が多いだろう、その危惧へと光一は笑って忠告した。

「普通に旅行ですって申請しな、ソッチのが面倒が少ないからね?」

ほんと、面倒はなるべく少なくしてやってよね?
そんな忠言を心呟きながら笑う通りには、アウトドアショップも多く並んでいる。
そのウィンドウを時折、切長い目が気にするよう見ているのに気がついて光一は提案した。

「見ていこっかね、俺たちに合うサイズのモン、コッチなら沢山あるよ、」

言いながら扉を開き、ショップの店員に挨拶すると品を見ていく。
グローブのコーナーで指がフリーになったタイプを見つけて、切長い目が微笑んだ。

「光一、これカメラの時に遣ってるヤツと似てるな?」
「同じヤツだね、」

答えながら眺めて、ちょうど良いかなと考えが廻る。
これから高峰の記録を積んでいく英二は、山頂でカメラを遣うようになる。
登頂証明の写真を撮影するとき、薄いインナーグローブだけでは指が冷えて危険だろう。
明日以降は高尾署の帰着次第で予定変更になる、それでも雪山訓練には行く。そんな予定に光一は笑いかけた。

「おまえも買ったらいいんじゃない?便利だよ。S'il vous plait、」

ここで買っていけば、明日からもう使えるな?
そう考えながら店員に話しかけ手にとりたい旨を伝える。
すぐ店員はグローブ渡して試着を勧めてくれる、その通りに填めた白皙の指にグローブの深紅は鮮やかに映えた。

「そのワインカラー、似合ってるね。英二は赤が似合うよ、はめた感じどう?」
「フィット感が良いな?じゃあ光一、この色でいいかな、」

店員も一緒に見て相談する、その背後で誰か振向いた気配が起きた。
なんだろうな?そう思った後ろの声が遠慮がちに笑いかけた。

「あ、おつかれさまです、あの、名前で呼び合ってるんですね?」

振向いて見た先で、五日市署山岳救助隊所属の橋本が困ったよう笑っている。
思いがけない所を見てしまった、そんな途惑いの貌へと光一は気さくに微笑んだ。

「おつかれさまです、橋本さん。お買い物ですか?」
「ええ、グローブを今日、岩場ですこし破いてしまって、」

話しながら何となく橋本は落着かない。
この様子には名前呼び以外にも心当たりがある、その記憶に笑ったとき英二が笑いかけてくれた。

「おつかれさまです、橋本さん。お先にすみません、会計を済ませてきますね、」
「いってらっしゃい、英二。ここで喋ってるね、」

堂々と名前で呼んで送りだす、そんな光一に切長い目が可笑しそうに笑ってくれた。
こんな自分の態度を理解してくれる、その信頼に微笑んだ前から橋本が尋ねてきた。

「国村さんは、去年の春に警部補へ特進されましたよね?」
「はい、しましたけど、」

素直に答えながら自分の特進理由が可笑しくなってしまう。
あまりに「特殊すぎる」昇進の事情を知るのは上司である後藤副隊長と岩崎御岳駐在所長と、英二しかいない。
この事情をいつ、どんなカードとして遣おうかな?考えながら笑った光一に橋本巡査部長は口を開いた。

「国村さん、階級は私の方が下です、でも警視庁山岳会の先輩として言わせてもらいます。宮田くんと名前で呼び合うのは難しいと思う、
宮田くんは国村さんの4年後輩で階級も2つ違います、山岳経験も1年未満で比べられません。そういう宮田くんの立場がありますよね?」

やっぱり言われちゃうんだね?
そんな内心に微笑んだ向かい、橋本の表情が硬い。
こんな表情になる理由は何か解かるな?そう見つめる先ひとつ呼吸した橋本は言ってくれた。

「確かに宮田くんは国村さんのザイルパートナーに抜擢されて、今回も記録を作りました。でも警察組織での立場はそれだけが評価じゃない。
むしろ宮田くんが才能から驕っていると誤解を与える可能性があります、その誤解は宮田くんへの嫉妬が山岳会の一部にもあるからです。
未経験者なのに卒配から青梅署配属になったのも、後藤さんが警察学校時代に素質を見初めたからと聴いています。それも嫉妬の理由です、」

多分そうだろうと考えてはいた、それでも他から聴くのは実感の厚みが違う。
いま英二が置かれている立場の現実は決して甘くない、この現実への責任に光一は笑った。

「あとね、宮田の嫉妬される理由はもう一つありますよ、橋本さん?」
「え、」

意外だ、そんなふう橋本の目が途惑う。
きっと俺が怒ると思っていたんだろな?そんな推測も愉快に光一は微笑んだ。

「宮田が特上の別嬪だからですよ?イケメンで実力も立場も期待もあったらね、嫉妬するヤツが殆どなんじゃないですか?」

それくらい俺のアンザイレンパートナーは特別だよ?
そう目でも笑いかけた先、橋本の貌が少し和らいだ。
すこし心を開いてくれた、そこに光一は言葉を投げこんだ。

「でも宮田は、それだけしかない男じゃありません。なぜ後藤副隊長が特別扱いしたがるのか、宮田を見ていたら納得できますよ?
そういう男だから私はパートナーと認めて、名前で呼び合います。同じ齢だから呼び捨てし合おうって、私が宮田に命令したんですよ?」

ありのまま正直に告げるのは愉快だ、愉しくて光一は明るく笑った。




(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第58話 双壁side K2 act.11

2012-12-14 22:12:31 | side K2
「始」時、既に動き、



第58話 双壁side K2 act.11

アイガーの北壁は今回、見送ることも考えよう。

今、そう英二は言った。
たった今、そうアンザイレンパートナーは自分に告げた。
これは現実の言葉なのだろうか?それとも変な白昼夢でも見ている?

「なに言ってんだよ、おまえ?」

言葉が押し出され、目の前の男を見つめる。
ただ驚きを真直ぐ見つめるまま、言葉は続いた。

「明後日は天気も、イイはずだね?」
「そうだな、明後日は晴れだろうな?」

笑いかけ頷きながら切長い目は、窓ガラスの向こうを見上げる。
その横顔は穏やかでも決然とした意志が堅い、眼差しは冷静でいる。
こういう貌のときは英二の判断は的確だろう、けれど言われた言葉への疑念が傷む。

―天気が良いって解かってるなら何故、アイガー北壁を見送るなんて言うワケ?

アイガー北壁は今日のマッターホルンより「風」による危険が怖い。
その風についての懸念が明後日なら少ないと予測している、それなのに何故?
解からない疑念と見つめた先、振向いた白皙の貌は光一に向きあい、切なく微笑んだ。

「でも光一、きっと、明日の午前中にツェルマットを発つことは出来ない。高尾署の人たちを置いていけない、」

仲間を置いて先には進めない。
そう告げられる意味は解かっている、それでも自分は明後日に懸けたい。
もし明日アイガー北壁のベースキャンプに入れなければ、明後日の登攀は不可能になる。
だから明日は発ちたい。もう16年ずっと見つめ続けた約束が叶う、この希望を目の前にして捨てるのは、嫌だ。

「嫌だね、」

たった一言、けれど16年の全てがこもる。
16年を超えて約束と夢を「山」に叶える、その為に自分達は出逢ったと信じている。
それなのに「山」を優先しないなんて無い、そう信じたい男を真直ぐ見つめ、光一は言い張った。

「アイガーの北壁は、明後日を逃したら今回のアタックは無理だね。きっと風がヤバくなる、明日アイスメーアに行くよ、」
「だめだ、」

即答に切り捨てた貌が、16年前の貌に重なる。
穏やかでも断固とした拒絶、堅い意志に動かないと告げる否定。
その否定を信じたくない、だって自分の専属ビレイヤーでアンザイレンパートナーの筈なのに?

―どうして解かってくれない?

ぽつんと心に呟く声に、瞳の底へと熱が湧く。
なぜ英二が否定するのか?その意味も言われている事も解かっている。
それでも今は我儘を言わせて欲しい、只の山ヤで居られる事は暫く遠くなるから。

―これを最後のワガママって決めてるのに、解かってよ?

昇進したらもう、こんな勝手は出来ない。
この今が過ぎて8月になれば、何十年と続く指導者の道に自分は立つ。
そうなったら自分の意志だけでは物事を動かせない、だから今が最後の我儘だと覚悟している。
何より「山」と約束を自由に優先出来るのは今が最後、だから今だけは全てより自分を優先してほしい。

―英二、おまえだけは俺を見てよ?ただの山っ子でいたいって本音を見ていてよ、

他の誰に理解されなくてもいい、唯ひとりには解ってほしい、受け留めていてほしい。
自分と共に「山」で生きられる唯一のアンザイレンパートナーには、本音を解かってほしい。
そう伝えたいのに喉が塞がれ声が出ないまま、端正な笑顔は静かに口を開いた。

「光一、俺たちは警視庁山岳会の遠征訓練でココに来たんだろ?だったら山ヤの警察官のルールを護らないといけない。
いつもの俺と光一だけのプライベートの訓練とは違う、今回は山ヤの警察官として、訓練の任務で北壁に登りに来ているんだ。
チームで登っているんだ、だからチーム全員の安否を確保してから次の山に進むべきだ。同じメンバーとして高尾署の帰りを待とう、」

そんなこと、おまえだけは言わないで?

やっと出逢えたアンザイレンパートナーのおまえだけには言われたくない。
もう16年ずっと待ち続けていた唯ひとり、誰より自分を優先してくれる専属ビレイヤーでパートナー。
それなのに自分以外を優先しないでよ?この自分の最後の我儘を聴いて約束を叶えてほしい、そう想うまま声が出た。

「そんなこと今はどうでもいい、俺は1人の山ヤとして、俺のアンザイレンパートナーと北壁を駆けあがりに来たんだ、」

そんなこと「今」だけはどうでもいいと、嘘でも頷いてよ?

いま本音を真直ぐ見つめて告げる、ただ山ヤとして生きたい瞬間の願い見つめる。
山と夢と約束、この3つへの想いだけ見つめて光一はアンザイレンパートナーに言った。

「今日、一発目が無事に終わったね、この運に乗っかって明後日も終わらせる。北壁は運がなきゃ登れないんだからね、
あの壁で風が吹かないなんて保証はチッともありゃしない、でも明後日は吹かない筈だね?こんな運は滅多に無いんだよ。
ここで手を引っ込めて、次に登れるなんて思ったら間違いだね。そしたらもう、おまえは二度とアタック出来ないかもしれない、」

アイガー北壁の別称は『死の壁』または『人を食う壁』と謂う。
真夏でも太陽の照らさない翳を抱き、急勾配の断崖からは岩石落下も頻発する。
そして高度1,800mの懐は風を抱きこみ、バックネットのよう凶暴な嵐を捕えて突然の豪風を巻き起こす。

―風だ、あの山は風を着ている。風の衣を着ない瞬間しか登れない、

突発的な気象変化「風」がアイガー北壁を難攻の高嶺にする。
この「風」に対する想いが心の真中で叫びだす、16年の哀しみが込みあげそうになる。
それでも無言で飲み下し見つめる向うから、綺麗な低い声は穏やかに言った。

「そうだな、光一の言う通りだ。アイガーの北壁は運が無かったら登れない、その運はマッターホルン以上かもしれないな、」

その通りなのだと受けとめ、頷いてくれる。
頷いてくれるなら我儘を聴いてほしい、この想い真直ぐ見つめてパートナーに告げた。

「そういう運は与えらえたら、キッチリ掴まないと次は解からない。それに山ヤなんざ自助が原則だ、おまえもさっき言ったよね?
高尾のヤツらだって俺たちと同じ、山のレスキューのプロなんだ。自分でなんとかする技術とプライドは、存分に持っているはずだね。
だったら信じて任せて、俺たちは自分のヤるべきことしてりゃイイ。俺たちは北壁を二発同時に抜くために来たんだ、明日は行くよ、」

信じて任せて、それぞれの領分に務める。
そんな山の「自助」という掟に従って今、単純に山ヤで居させてほしい。
こんな我儘はもうじき言えない立場になる、だから今だけは唯の山ヤだけでいたいのに?
だから今だけは唯のアンザイレンパートナーとして、俺を最優先してよ?そう見つめた真中で、冷静が口を開いた。

「あと数日で光一は七機に異動だ、そうしたら光一は小隊長になる。光一はリーダーとして自分のチーム全員を護る責任を負うんだ。
そういう立場で見られることは、異動が決まった瞬間から始まっているよ?きっと今回のメンバー全員がそういう目で光一を見てる。
もし高尾署の下山を見届けなかったら、リーダーとしての誇りを捨てたことになる。それは警視庁山岳会の次のトップから降りることだ、」

告げられる言葉に知らされる、もう、我儘は赦されない立場に自分はいる?
その宣告を今、自分のアンザイレンパートナーに告げられた?

―でも俺は山ヤだ、警察官より何より、

いちばん大切なものは唯ひとつだけ。
その想い真直ぐ見つめた先で、英二も本音のままに微笑んだ。

「光一、周太のお父さんのこと忘れないでほしい。もし警視庁山岳会の力が強ければ、お父さんは死なずに済んだかもしれない。
そうしたら周太だって、こんなことにならなかったんだ。夢を見つめて好きな植物学を勉強して、今頃はもう樹医の卵になれたんだ。
でも現実は違う、こういう現実を俺は終わらせたいんだ。そのために俺は今、光一にお願いしているんだよ?光一にしか出来ないから、」

光一の他には誰も出来ない、山ヤの警察官として出来ること。
そう言ってくれる切長い目が祈り、この心を軋ませながら笑いかけた。

「山ヤの世界は仲間意識が強いよな、だから山ヤの警察官で最高の立場に立てば、警察組織で光一は強い発言力を持てるはずだ。
そうしたら、あの男にも対抗出来るだけの力を手に入れられる。あの男に勝つには、警察庁に対しても発言出来る力が必要になんだ。
それには山ヤとしての成功だけじゃ足りないんだ、警察組織のリーダーとしても成功しないと出来ない。だから明日は高尾署を待ってくれ、」

―いま、力を手に入れられるって、言ったね?あの男に勝つにはって…

いま言われた『あの男』に、現実が迫る。
いま言われる『警察組織のリーダー』に、自分の存在価値が傷む。
この二つの想いに肚の底、静かに怒りと苛立ちが瞳を披いて、真直ぐ英二を見据えた。

―結局は俺のコト、周太の為に利用するってコトなんだね?

見据えた男へと、音のない声が怒りを孕む。
自分も周太を護りたいと願っている、けれど自発の願いと利用される事は別だ。
そして想ってしまう、アンザイレンパートナーとしての誇りが怒りに変化する。

―山での約束も全部が、おまえの都合に俺を利用するためってワケ?

じゃあ言ってくれた言葉は、何なんだ?
それなら結んでくれた約束の意味は、利用する餌なのか?
唯ひとりのアンザイレンパートナー、その想いすら全て利用するだけ?

「光一、警視庁山岳会の強いリーダーになってくれ。そして日本の警察すべての山ヤのリーダーになってほしいんだ。
そうすれば光一の補佐として俺は力を掴んで、あの男を追い詰められる。こんなこと身勝手だって解ってる、それでも頼みたい。
こんなこと光一は本当は望んでないって解ってる、こんなお願いを俺がするのは勝手過ぎる、分を超えてるって事も解かってるんだ。
でも、俺だけでは出来ないんだ、天才の光一が一緒じゃなかったら無理だ、だからお願いしてるんだ。だから明日は高尾署を待ってくれ、」

なんて人間の世界は惨酷なほど、束縛したがるのだろう?

ずっと見つめた約束の場所に明後日は立つ、その願いに今日まで努力もしてきた。
それを遮っても英二が望む目的のために、権力を掴むため自分を利用したいと今、言われている。
自分のアンザイレンパートナーが、自分のビレイヤーが、信じた「約束」を捨てて利用の都合を押しつける。

たった8時間前に見ていた現実は、今はもう、嘘なのか幻なのか?

―今日、北壁で見たものは、結局は利用目的の嘘ってことかよ?

北壁を登っていくアンザイレンザイル、そこに繋がれた想いは純粋だった。
雅樹も共に登ってくれたと笑った、山頂の写真を必死で心配してくれた、それなのに今は何だ?
あのとき暁の明星に耀いた、誇らかな自由に立っていたアンザイレンパートナーは幻だったのだろうか?

そして、自分が最愛だと思ったこの感情は、結局は諦めるべき夢に潰える?

「ひとつ教えろ、」

もう夢は終わる?それなら思い切りたいから教えてほしい。
この意志のままに真直ぐ英二を見つめて、光一は問いかけた。

「今日、北壁を登っているとき、おまえは何を考えていた?」

正直に言え、全ての思惑を。

夏の初めの夜にくれた告白、自分を憧れと言ったのも利用目的だったなら、そう言えばいい。
自分と雅樹の約束を想いを操るのなら、利用する目的に自分を遣うのなら、そう言えばいい。
いま容赦ない諦観の怒りに告げた宣言の前、切長い目は真直ぐ光一を見つめて透る声が言った。

「絶対に光一の夢を叶えてあげたい、俺が光一のアンザイレンパートナーでいたい、ただ光一の信頼に応えたい。それだけだった、」

それならば、なぜ今この信頼に応えない?
いま罅割れだす心を見つめたまま、光一は詰問した。

「おまえ、今言っていたことと違うじゃないか?」
「うん、違ってる、」

綺麗な低い声は応え、切長い目が見つめてくる。
いつもどおり美しい声と眼差し、その全ては美しい悪魔で自分を騙すのか?
ただ真実と真意を知りたい、そう見つめた向こうで英二は静かに微笑んだ。

「あのときは本当に他は全て、どうでも良かったんだ、」

告げられた言葉とアンザイレンパートナーだったはずの男を見つめる。
真直ぐ自分を見つめる長身は窓の光に照らされて、銀嶺の輝き映す白皙の貌まばゆい。
ゆるやかに傾いていく太陽、その煌めき光る約束の頂を前にして英二は、綺麗に笑った。

「俺はね、光一しか見えてなかった。他は全部忘れてたんだ、ただの山ヤで男として、光一だけを見つめて追いかけて、登ったんだ、」

―そんなことザイルで解かってる、なのになぜ?

ただ純粋な想いだけが北壁の瞬間にあったと、繋がれたザイルに解かっている。
蒼い冷厳の垂壁に生命と誇りを繋ぎ、呼吸と鼓動をザイルに伝え合った2時間の世界。
ただ山に向きあう時間は言葉が要らない共鳴に、響き続けた想いに心身を託し合える信頼が温かかった。
それを真実と言うのなら、なぜ今は違うと言うのか?その疑問のまま光一は追及した。

「なぜ今は他のこと、そんなに拘る?」
「周太のこと護りたいから。俺は帰る場所を失いたくない、」

即答された本音が、心を刺した。

綺麗な低い声が真直ぐ告げた「帰る場所」が誰か知っている。
その場所は14年間ずっと自分が待っていた相手、そして16年前は雅樹とふたりで護っていたのに?
それなのに今はもう自分のものじゃない、今は「英二」が自分を突き放す理由になって孤独が自分を包みだす。

―やっぱり夢なんて独りで見るモンでさ、俺は独りぼっちで生きるのかね?雅樹さんが死んだ時にもう、独りって決まって、さ…

さっき告げてくれた言葉は、英二には光一が世界の全てだと言った。
それなのに帰りたい場所は周太だと告げて、周太を護るために自分を利用すると言うの?
そんな想いに凍れる山頂が心を占めていく、あの場所へ独りきりで行って帰りたくないと、もう願いだす。

―もう、人間になんて見切りをつけてさ、時間を1年前に戻せばいいかね?…また単独行の山ヤになってさ、

去年の今ごろは単独行だった、まだ「英二」がいるなんて知らなかった。
真直ぐに雅樹の約束を信じて山に生きていた、「山の約束」が自分の全てで現実だった。
あの頃のよう独りに戻ってしまえばもう、こんなふうに傷つくこともなくなるだろう。

―いっそ、その方が楽かもね…人間なんて心変わりするのが、普通なんだしさ?期待する方が馬鹿かもね、

もう終わらせた16年の夢は、雅樹が生き帰る夢は永久の眠りについた。
もう山桜のドリアードも取り戻せない、それでも自分には「山」と山に懸けた約束がある。
こんな変わりやすい人間の心を充てにするよりも、永久に佇む「山」に向きあう方がどれだけ楽だろう?

―雅樹さんは特別だった、あんなに山と愛し合える人はいない、だから山に還っちゃったんだ…だから俺は独りぼっちだ、もう、

もうあんな人には逢えない、もう自分のアンザイレンパートナーとして生きる人はいない。
いつか雅樹のような相手に再び出逢えたら、今度こそ共に山で生きたいと願っていた、けれど不可能だ。
もう期待するのは止めてしまえば良い。そう諦めて切り捨てかけた瞬間、哀しい眼差しと声が心を引っ叩いた。

「ごめん、光一。俺は本当に勝手で狡いよ、でも本当の気持ちなんだ。北壁で俺は光一だけを見つめて想ってた、他は何も無い、」

ほら、またそんな言葉で俺を繋ぎとめる?
そんな綺麗な眼差しで見つめて、心捉えようとする?

―もう止めてよ、期待させないでよ?

もう見なければいい、聴かなければいい、この部屋から出て行けばいい。
そう想うのに見つめてしまう、声を求めて聴覚は澄んで、鼓動も吐息も聴こえている。
そんな想いの真中に英二は微笑んで、綺麗な頬に涙ひとつ零れた。

「…あ、」

微かな低い声の短音、それにすら心は惹かれて聴く。
ゆっくりと手の甲が涙を拭う、その動きにすら心ごと見つめている。
ただ見つめている向う、窓ふる光に照らされながら美貌の山ヤは静かに微笑んだ。

「ずっと憧れて見てきたよ、おまえのこと。だから解かるんだ、天才の光一には俺なんか釣り合わない、俺は大した才能も無い。
ごめん、本当は俺は光一のパートナーに相応しくない。自分だけじゃ何も出来ない癖に高望みばかりする、そういう狡いヤツなんだ。
それどころか俺は、光一の才能を利用しようとしてる。自分勝手で狡いのが俺なんだ、こんな俺は光一のパートナーには相応しくない、」

どれが本気で、どれが嘘を言ってるのか、解からない。
この全てが本音だと言うのなら、自分は英二にとって何の存在だと言うのだろう?
この疑問の答えを知りたくて見つめている、その心へと英二の笑顔は眩しげに見つめ、言ってくれた。

「でも憧れてる、光一は俺が生きたい世界の全てだ。俺が憧れる山ヤはおまえだよ、だからパートナーとして登れることが本当に幸せだった、」

これは本音だ。

この想いが北壁の2時間、アンザイレンザイルに祈ってくれた。
だから信じられる、いま言ってくれた言葉は本音と確信して相手を見つめる。
見つめた先で切長い目は涙きらめく、その哀しげな貌と声に心が応えて言葉が昇る。

―そう想ってくれるんなら過去形にしないでよ、続けようって俺にねだってよ?

いま「だった」と過去形で英二は言った、それを覆したいと心は願いだす。
いま告げられてきた言葉に傷ついた、それでも信じたい本音が声に変っていく。
やっぱり信じていたい、そう本音に唇が披きかけた瞬間、英二は綺麗に微笑んだ。

「光一は俺の夢だ、」

短い言葉、けれど出逢ってからの瞬間すべて響く。
それなのに、そのまま踵返すと英二は扉を開き、出ていった。

ぱたん、

扉が閉じて、静寂が起きる。
その扉に嗚咽の気配ゆれて、息を止めて見つめてしまう。
見つめる扉の前に靴音は鳴り、遠ざかりだす音に唇から言葉こぼれた。

「…しあわせ、だった?」

ぽつん、言葉こぼれて涙、ひとつ絨毯に落ちた。

「英二?…俺はもう過去なワケ?」

ぽつり、ぽつん、涙と言葉がこぼれて扉を見つめる。
扉の向こうで靴音は遠ざかる、いつも寮で聞きなれたリズミカルな音が速まり、遠のく。

「どの言葉を信じたら良いんだよ…ねえ、英二?」

問いかける扉を透かして靴音は階段を下り、遠くへと消えていく。
そして扉はもう、開いてくれない。

「英二?」

呼びかけた名前、けれど応えてくれる人はもういない。
それなのに森と似た香は頬撫でて、綺麗な低い声の残像が聞えだす。

―…光一しか見えてなかった。他は全部忘れてたんだ、ただの山ヤで男として、光一だけを見つめて追いかけて、登ったんだ

「だったら…全部忘れたまんま、俺だけ見てよ?」

ずっと憧れて見てきたよ、おまえのこと。だから解かるんだ、天才の光一には俺なんか釣り合わない

「なんで釣合わないとか、勝手に決めるんだよ?」

光一は俺が生きたい世界の全てだ。俺が憧れる山ヤはおまえだよ、だからパートナーとして登れることが本当に幸せだった

「俺が生きたい世界の、全て…?」

反芻した言葉に、ことりと納得が心へ落ちた。
なぜ英二が自分を利用しても周太を護るのか?その「利用」の意味が何なのか?
ずっと英二は周太を護るため「英二自身の全て」を懸けてきた、その「全て」とは今の英二にとって何だろう?

「…俺?」

英二の全てが光一だから、光一を懸けても周太を護りたい?
世界の全て、だから同一だと見つめるほどに自分を想ってくれる?
そう考えたなら納得がいく、なぜ憧れて共に生きることが幸せなのに利用してしまうのか?
この得心に今、告げられなかった想いが明確に形をとって、言葉は幸せに笑って泣いた。

「おまえだってね、俺の世界の全てだよ…英二?」

山に生きる自分にとって世界の全ては「山」、だから山で共に生きられる相手しか一緒にいられない。
それが出来るのは雅樹だけだった、けれど雅樹は消えてしまった、そして15年を経て再び出逢えた唯ひとり。
この自分が「山」で生きるペースに合わせくれる唯ひとり、それを失うなら世界は全て、消えてしまう?

「…っ、英二!」

呼んだ名前が背中を押して、ルームキーを握らせ扉を開く。
出た廊下にはもう足音は消えた、それでも気配を追いかけ階段を駆け下りる。
手すりを飛越し下り、ロビーを横切りエントランスから外へ出て、明るんだ視界に瞳を細め見まわした。

「英二、」

もう一度名前を呼んで、逸る足どりに求める姿を探す。
ホテルの近くからカフェを覗きながら歩く、書店で店員に声をかけ訊く。
黒のミリタリージャケットを着た長身の男、ダークブラウンの髪に白皙の映える黒い瞳の日本人。
同じ特徴をアウトドアショップでも尋ね、氷河へ向かう道で訊いて、駅の改札でも尋ねたのに、いない。

―どこだよ、どこにいる?英二、どこ?誰か教えて、ねえ!

心の真中がもう、叫びだす。
求める人の貌を見たい、今すぐ逢いたい、けれど見つからない。
探して、探して歩き回って、けれど見つからない現実に16年前が傷みだす。

『雅樹さん、雅樹さんっ…どこ、どこにいるの、ねえ!雅樹さんっ、帰ってるんでしょぉ!返事してっ…』

泣きながら探した、あわい雪化粧した山桜の森。
必ず帰ると言ってくれた約束に、縋って泣いて探し回った。
あのときの記憶に惹かれるよう光一は、フィンデルンへ向かう森に駈け出した

―雅樹さん、たすけてよ?あいつに逢わせて、今度こそ掴まえたい、もう離したくないよ、

お願いだから、あいつを俺に返して?

唯ひとり共に生きられるアンザイレンパートナーを、俺に帰らせて?
どうか再び共に山の天辺に立たせて?約束も夢も共に叶えて生きたい。
あのときみたいに帰ってこないなんて、もう逢えないなんて、絶対に嫌だ。

―さっき独りに戻ればイイなんて思ったの、あんなの嘘だ!

もう独りになんて戻れない、だって今日が幸せすぎた。
約束の場所で一緒に笑えた、蒼穹の点に共に立てた、あの温もりを離せない。
もう一緒に登れる喜びを、笑顔を、涙も幸せも知ってしまった今はもう、独りになんて戻れない。

「…英二!」

駆け抜ける森に叫んだ名前、けれど声は帰らない。







(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第58話 双壁side K2 act.10

2012-12-13 23:42:01 | side K2
「明」 約束の向こうへ、



第58話 双壁side K2 act.10

山頂は、銀色だった。

紺碧の天穹は銀砂が輝き、氷雪は星の火を映す。
近く遠く連なっていくアルプスの稜線おぼろに光る、遥かな空に黎明はうずくまる。
ファインダーに覗いた夜の銀嶺、その前に立ち見つめたレンズの向こうにシャッターが響いた。

カシャッ…

機械音が鳴り、ラストの証拠がデジタル一眼レフに納められる。
ゴーグルを外したままの貌に冷風は撫で、夜明けの近さが体感温度から迫りだす。
標高4,478mから見遥かす東の涯ひとつ、暁を呼ぶ星は輝度を増して天球を支配する。
金星またの名を “Lucifer” 宵を呼び、暁を起こす明かる星。この星を見つめる意識に北壁の音を掴まえる。

キン、キン、カンッ。

ハーケンが、最後の歌を終えた。

山頂に繋留するザイルへ星明り揺れて、遠い故郷の方角から空に光が漂いだす。
銀の明るむ雪を踏みカメラの固定を外し、赤いザイルの向こうへ願い祈る。
いま繋がれているアンザイレンザイルに鼓動の気配は、着実に近づく。
そして、見つめる北壁の縁、赤と黒のグローブが雪を掴んだ。

―英二、

心の真中が名前を叫んだ視界、はるかな稜線から黄金の光が生まれる。
モルゲンロートの薔薇色が凍れる頂を燃やしだす、ナイフリッジゆるやかに氷河の風が吹く。
赤いザイルは繰られ、アイゼンが氷雪を噛む音が近づき、そして暁の明星の下に深紅のウェア姿が顕われた。

「英二!」

声が名前を呼んで、腕を伸ばす。
明けていく暁の雪嶺に深紅と黒の長身は立ち、その横顔が振向く。
銀の星と黄金の曙光に白皙の微笑まばゆい、その笑顔が嬉しくて光一は思い切り抱きしめた。

―無事に登れた、英二と約束を登れた

北壁で見つめていた願いと祈りが今、喜びに温かい。
抱きしめる背中を大きな掌が抱えてくれる、ネックゲイターから薫らす気配が嬉しい。
深紅の肩に回した左腕の『MANASUL』を見、光一はタイムへの祝福を笑った。

「いま夜明けだよ!おまえ2時間ジャストだねっ、」

ふわり森の香が頬撫でて、ゴーグルを透かして見つめ合う。
切長い目は幸せに笑って、アンザイレンパートナーは促してくれた。

「光一、証拠の写真撮らないとダメだろ?おまえの場合タイムトライアルだし、すぐ撮らないと、」

登頂した証拠写真、これがないと記録は公認されない。
本人と頂上からの展望を写し、撮影した場所が解かるように写真で記録する。
この写真に不備が視止められ否認されたケースもある、だから英二の写真をきちんと撮ってあげたい。
場所と時間がいちばん解かるアングルはどこかな?思案と笑って光一は英二のゴーグルを外した。

「うん、だねっ。ほら、英二?」

声を掛けながらカメラを示し、少し離れてポジションを決める。
そのままレンズを英二に向けて、レンズ越しに指示をした。

「時計の文字盤コッチに向けな、顔の横に持ってくるカンジでね?ほら早くやってよね、撮るよ?」
「え、あ?」

言われるまま左手の甲を向けて、英二はレンズを見てくれる。
なにか途惑うような貌、その背後には暁の明星が光芒を放ち耀いていく。
この星と連なる銀嶺に山頂の雪を入れて撮れば、時間と場所が解かり易いだろうな?
そう思案して覗いたファインダーの向こう、本当に天使が地上に堕ちて驚いた、そんな貌が光一を見つめた。

―驚き顔も別嬪だね、ホントにルシフェルが堕天しちゃった瞬間って貌だ?

モルゲンロートの輝きのなか、目覚めの金星と白皙の貌が煌めいていく。
迎える朝に耀く至高の“Lucifer”その名を冠する美貌が今、深紅の登山ウェア姿で山頂に降り立った。
そんなふう想わす美しいパートナーに微笑んで、光一はシャッターを切り愉快に笑った。

「あははっ、おまえビックリ顔になっちゃったよ?撮りなおそうね、ほら、別嬪の笑顔やれよ?」
「ちょっ、待てって光一?」

驚いた貌のまま、深紅と黒のグローブの手が制止する。
なんだろうね?そう見つめた先で英二はウェアの内ポケットから、コンパクトデジタルカメラを出した。

「俺より光一の写真だろ?その為に俺、メモリーカード新しいの買ったんだけど、」

いつも証拠探しにも使うカメラを、英二は今回持ってきてくれた。
それが意外でなんだか可笑しい、愉快なまま光一は高らかに笑いだした。

「あははっ、おまえカメラ持ってきてたんだね?だったら周太の土産に写真、自分でも撮ればいいのにさ?」

笑いながら微かに心を刺して、けれど可笑しい。
大切な人への土産写真を撮れる癖に、どうして今までカメラを出さなかったのだろう?
こんな疑問も可笑しくて笑っていると、綺麗な低い声が困ったよう教えてくれた。

「だからな、おまえの記録用だから他のは撮ってないんだよ?時間もちゃんと現地時刻でセットしてあるんだ、」

俺の為だけに持って来たの?
そう言われて心が傷んでしまう、期待に疼いて泣きたくなる。
それでも今は登頂の昂揚に弾むまま、光一は綺麗に笑って問いかけた。

「へえ?いつのまにそんな準備ヤってた?」
「ツェルマットに着いてすぐ、おまえが風呂入ってる時だよ。ほら時計、こっちに向けろよ、」

説明しながら焦ったようカメラを向けてくれる、そんな様子が可笑しくて、けれど嬉しい。
きっと自分が証拠写真を撮っていないと思っているな?この予測が可笑しい、そして今は言う通りにしたい。

「おまえに写真撮ってもらうの、お初だね?ちゃんと美人にとってね、ア・ダ・ム、」

想うままを告げてレンズ越し、大好きな人へ笑いかける。
ヘルメットを脱いで髪を空気にさらす、吹きぬけるナイフリッジの微風に髪は靡いて心地いい。
写真を撮られるのは何年ぶりだろうな?そう思う向うにシャッター音が響いて、光一はザイルパートナーに一眼レフを示した。

「準備と心配ありがとね、でもさ?俺、登ってすぐ自分で撮ってあるからね。タイムレコードも『MANASLU』で計測してるしさ、」

開いた一眼レフの再生画面を、切長い目が見てくれる。
送っていく画面は山頂360度ぐるりの銀嶺を映しだし、空の明度も移ろっていく。
きちんとクライマーウォッチ『MANASLU』の文字盤を向けた写真も見せて、光一は笑いかけた。

「これ、連写で撮ったからさ。ちゃんと太陽が昇ってくるの解かるだろ?データには時間情報も入ってるしね、」
「うん、これなら解かるな、」

頷いて微笑んでくれる横顔が嬉しい。
その眼差しが光一を見、綺麗な低い声が尋ねてくれた。

「登頂してすぐの写真は?」

本当に光一の登頂を心配してくれる、その貌にビレイヤーとしての誇りが強い。
出逢った頃には無かった強靭の輝きに笑って、光一は手許を進めた。

「ちょっと待ってね、これ新しく撮ったのから表示だからさ、」

操作していく画面の映像は時間を遡らせ、登頂直後の写真が現れる。
夜に鎮まる東空の明星と黎明、そして光一の笑顔が映った画面に笑って英二は尋ねた。

「光一、星明りの頂上は綺麗だった?」
「うん、きれいだったね、」

さっき見た空を想い笑った隣、綺麗な笑顔ほころんだ。
穏やかで嬉しそうで、けれど強い眼差しが光一を見つめて綺麗な低い声が訊いてくれた。

「光一、俺にも『MANASLU』のタイムレコード見せて?」
「うん、見てよね、」

笑って頷きながらクライマーウォッチを操作していく。
そして示されたタイムレコードをパートナーに見せ、光一は朗らかに笑った。

「ちょっと世界記録には及ばなかったケドね?イロイロと条件も違うしさ、でも俺は嬉しいね、」

マッターホルン北壁、標高差1,124mシュミッドルートを完登した世界最短記録は1時間56分40秒。
その記録は2009年1月13日に単独登攀で樹立された、だから今回の登攀記録とは条件の相違も多い。
けれど、そんなことより「約束の2時間」が大切で、記録も名声も、あの「反抗」すら今はどうでも良い。
ただ幸せに笑いかけた先、綺麗な笑顔が長い腕を伸ばし惹きよせて、光一を抱きしめた。

「おめでとう、光一、」

名前を呼んで笑いかけてくれる、そのシーンに諦めた夢が共鳴してしまう。
この今の瞬間への想いごと、光一はアンザイレンパートナーに笑いかけた。

「俺ね、おまえとアンザイレンして、この時間で登れたから嬉しいんだ。ほんとに、うれしいんだ…」

ふっと瞳に熱が奔り、言葉を途切れさせ頬を伝う。
いま16年の祈りが熱に変っていく?そんな想いと笑った隣から温かな笑顔が言ってくれた。

「うん、俺も嬉しいよ。きっと雅樹さんも喜んでるよ?ずっと雅樹さん、俺と一緒に登ってたから、」

どうして?
どうして英二、そんなこと言ってくれる?

「どうして、そうおもう?」

問いかけ微笑んだ瞳は、ただ涙こぼれていく。
もう富士の前で終えてきた山桜の夢、16年縋り続けた叶わぬ望みたち。
あの8歳の幼く大人びた夢はもう終わらせた、その残滓が融けだす涙に英二は告げた。

「信じられないかもしれないけど、回収する時ハーケンとカラビナが冷たくなかったんだ。これって不思議だろ?
だから思ったんだ、このルートもタイムトライアルも雅樹さんとの約束なのかなって。この約束のために光一、俺と登ったろ?」

信じられない、なんて無い。
蒼い冷厳の壁にも「冷たくないハーケン」その言葉に信じたい、縋りたいと願ってしまう。
これは非科学的だと解かっている、それでも自分は信じたい。この切なる願いへと綺麗な笑顔は言ってくれた。

「光一、本当だよ?雅樹さんは約束を果たすために、俺と一緒にアンザイレンして光一をビレイしていたよ?」

ほら、約束を叶えてくれた。

雅樹は光一を大切に想うから今、約束のために来てくれた。
ずっと山を共に登りたいと言ってくれた、その為に必ず帰ると約束してくれた。
あの約束を「山」に叶えてくれる?そんな確信に心の真中、いま天辺に立つ山への誘惑が愉快に微笑んだ。

―ね、アルプスの女王さま?雅樹さんの約束を叶えてくれたね、愛してるよマッターホルン…ね、雅樹さん?

山に呼びかけ、そして約束の人を想いが呼ぶ。
いま叶っていく約束と夢の瞬間に幸せが笑い、涙の向こうで暁は輝く。
きらめいていくアルプスの夜明け、その隣に立ってくれるアンザイレンパートナーへ光一は誇らかに笑った。

「当然だね、俺のアンザイレンパートナーは絶対に約束を守る男なんだ、ふたりともね、」

ふたりとも、その言葉に約束は微笑む。
この想いに応えてよ?そう見つめた先で隣は綺麗に笑った。

「そうだよ、光一。全部の約束を叶えるよ、最高峰も奥多摩も、ずっと一緒に登ろう、」

ずっと一緒に登ろう、この約束が愛おしい。
この愛しさを告げる貌を曙光は照らし、あざやかに一閃の赤い頬傷が甦る。
熱を帯びると浮ぶ傷痕は山頂の昂揚には必ず顕われる、この赤い一すじに光一は微笑んだ。

―富士の竜の爪痕、マッターホルンでも浮んだね?なんか祝福みたいだね

冬富士の雪崩が刻印した傷痕に、母国の山からの祝福が過去と明日に微笑んでくれる。
この瞬間と16年の星霜と想いを、ひとつの涙に融かして光一は綺麗に笑った。

「うん、生涯のアンザイレンパートナーやってよね?約束、絶対に護ってもらうよ?」

今ひとつ終わる約束が生みだす新しい約束、その祝福にアルペングリューエンが足許を薔薇色に耀かす。
白銀の竜の背が連なるアルプス、その女王を謳われる山の頂に目覚める瞬間に光は充ちる。
その光輝へと共鳴するように、遥か東の蒼穹で明星は輝いた。

“Lucifer” 

夜を呼び、暁を覚ます光輝と高潔の星。
それは至高の天使かつ堕天使にして魔王、その本質は「光もたらす者」純粋に激しい耀きの華。
その名前は今、この隣で笑う竜の爪痕を持つ男にこそ相応しい。

―根暗のクセにホント、まぶしくって強くって、至高の男だね?

見惚れる想いに笑って、光一はザイルパートナーへレンズを向けた。
ファインダーの向こうで真直ぐ見つめてくれる、その強靭な意志の瞳は熱情に煌めく。
天使のよう魔王のよう輝く自分のアンザイレンパートナー、この男が好きだと笑ってシャッター押す指が、ふるえた。

―雅樹さん…雅樹さん、今、英二の写真を撮れて嬉しいよ?でも、やっぱり雅樹さんの写真だって撮りたかった、俺が自分で、

あなたの生きた笑顔を、あなたが幸福と栄光に耀く瞬間を撮って、永遠にとじこめたい。
その願い正直に光一は、今この瞬間を生きてザイルを繋ぐ男の輝きを写真に映しこんだ。
もう二度と、あの哀しみを繰りかえさない―そう誓う想いごと今、レンズは綴る。



午後、東稜ヘルンリ尾根から雲が湧きだした。

店から通りへ出ると、白雲まとわすマッターホルン東壁に視線がいく。
山肌に上昇気流となった風は雲を生み、湧き起こる水蒸気は噴煙のよう空へ昇りだす。
濛々と昇華していく純白とグレーの陰翳たち、その雄渾な水の還天から稜線の強風が思われる。
こうした光景は好きだ、けれど今あの場所にいる人々への懸念が傷んで、光一は紙袋を抱きしめた。

「やっぱり雲が湧いたね?午前で降りられて、俺たちは良かったけど、」

氷食鋭鋒を見上げる隣、紙袋を提げた英二も山を仰ぐ。
下山した6時間ほど前は晴れていた稜線、けれど今は煙幕の彼方に隠れていく。
あの雲で起きている懸念を切長い瞳に映して、落着いた低い声が言った。

「うん、高尾の2人が心配だな?」

今回の遠征訓練に参加した高尾署の2人から、まだ連絡がない。
今朝の登攀開始から10時間が過ぎて14時、いま午後の湧雲に状況を予想させてしまう。
山岳救助隊員である以上は無事に切り抜けてほしい、そう願いながら見た無線機には連絡の形跡もない。

「無線にも連絡、まだ無いね、」

手に持った無線機を英二に示し溜息が零れた。
第七機動隊と五日市署は今頃ホテルに戻っただろう、けれど高尾署の連絡だけが無い。
それでも遭難という事は無い、そんなふう信じて歩く隣から穏やかなトーンが言ってくれた。

「エアー・ツェルマットのヘリコプター、遭難救助の動きはまだ見せてないな?きっと遭難はしてない、高尾の2人も同じ救助隊だろ?
きっと北壁の途中でビバークしているか、ソルベイヒュッテの辺りにいるんじゃないかな?きっと落ち着いたらさ、ちゃんと連絡くれるよ、」

英二の言う通りだろう、おそらく高尾署コンビは無線機も故障している。
それでも本人たちが無傷なら構わない、きっと大丈夫だろうと願いながら光一は微笑んだ。

「だね、緊急措置くらいキッチリ出来る人たちだしね?杞憂なんざ失礼ってモンだよね、」
「そうだな、」

笑って頷き歩いていく街は高い陽光に明るくて、スイスの夏らしい日の長さを感じさす。
いま7月のスイスは日没21時、それまで暗さに迷わされる心配は無い。それでも眼前のヘルンリ稜に雲は起こっていく。
マッターホルンの午後は岩肌の地熱が氷を溶かして、岩同士の結合を解いて落石を起こしながら大量の雲を吐く。
あの雲のなかは霧と雷電に阻まれ降雪の可能性も高い、それに填まったポイント次第では今日中の下山も難しい。
そんなマッターホルンでは登攀に時間が懸るほど疲労と冷気に体力は奪われ、天候悪化と落石に巻き込まれやすくなる。

―無事に下山できるはずだね、今朝は誰にも翳りは無かった、大丈夫

言い聞かせるよう考え廻らせながらホテルに戻ると、明るい午後の光に日章旗の純白がまぶしい。
マッターホルン北壁登頂者へ敬意を示す国旗掲揚に、翻っている馴染みの旗が面映ゆく素直に嬉しい。
この旗には第七機動隊と五日市署のパーティーも当然ふくまれる、それに高尾署も加わってほしい。
そんな想いと見上げた隣から、きれいな低い声が笑いかけてくれた。

「光一の旗だな、」

純白に深紅の太陽を象る旗。
見なれた母国のシンプルな旗に、アンザイレンパートナーは綺麗な笑顔ほころばす。
こんなふうに自分のために笑ってくれるのが嬉しくて、大好きな笑顔の頬を小突いた。

「おまえの旗でもあるね?俺が登れたのは、おまえの支えあってこそだよ、」

小突いた指に、なめらかな温もりふれてくれる。
温度、感触、そして笑顔が「生きている」と知らせて温かい、そして愛しい。

―生きてる、英二は。俺の隣で生きて笑って、一緒に山から帰って来れたね…ありがとう、雅樹さん、

英二は、一緒にいてくれる。
きっと雅樹も一緒にいる、けれど雅樹の体温には触れられない。
でも英二は生きて温かで、次も共に山を登って自分をビレイしてくれる。
それが嬉しくて幸せで、自分がどれだけ待っていたのか改めて気づかされて、我ながら可笑しい。
どうも自覚以上に自分は甘ったれかね?そんな思いめぐらせながら入ったエントランス、見知った顔が振向いた。

「国村さん、宮田くん。おめでとう、」

ぱっと気さくな笑顔が明るんで、頼もしい掌を握手に差し出してくれる。
第七機動隊山岳レンジャー第1小隊のコンビが、無事に戻ってきた。
また無事に再会できた、その幸運に光一は微笑んだ。

「加藤さんと村木さんも、おめでとうございます。前より記録を短縮したんですよね?」
「まあな、でも国村さん達の記録には敵わないよ、」

すこし日焼けした笑顔と握手し合う、その雰囲気は温かい。
加藤の隣から村木も英二に掌を差しだし、握手に笑いかけた。

「おめでとう、宮田さん。すごい記録ですね、本当に山は1年なんですか?」

やっぱり皆そう想うよね?
そんな納得に笑った前から、加藤が教えてくれた。

「国村さん達が登るのを、下から途中まで見ていたよ。二つのヘッドライトが互角のスピードで登ってた、速くて驚いたよ?さすがの記録です、」

今回も英二は、自分に着いて来てくれた。
それを加藤たちも見て確かめた、この誇らしさに光一は明るく笑った。

「宮田がビレイしてくれるから私も集中して登れました、あいつのお蔭です、」

優秀なビレイが確保してくれる、この安定感は大きく登攀に影響する。
それを的確に務めた実績が英二に1つ築かれた、この事は英二のバックアップになるだろう。
同じよう明後日のアイガーでも叶えたい、そう思案しながら加藤たちと夕食の同席を約束し、英二と部屋に戻った。

ぱたん、

扉の閉じる音を背後に聴いて、紙袋をチェストの上に置く。
すぐ開いて一昨日と同じワインボトルを1本出して、冷蔵庫へと仕舞う。
いま買物はとりあえず済ませてきた、この後はアイガー北壁の打ち合わせを英二としたい。

―明後日のアイガーは天気も良い、あとはルートがキッチリ頭に入っているか確認だね

この後すぐの予定にアイガー北壁を見つめながら、冷蔵庫の扉を閉じる。
早速に山図を確認して打ち合わせたい、必ず明後日も成功させて「約束」を叶えたい。
そしてまた1つ新しい約束を結びたい、そんな想いと振向いた視線の先、切長い目が真直ぐ光一を見つめてくれる。

―なんだろ?

どこか哀しげな視線に怪訝を感じ、見つめ返す。
何を英二は哀しんでいる?不思議で問いかけようとした光一に、透らす低い声が告げた。

「光一、アイガーの北壁は今回、見送ることも考えよう、」

いま、なんて言った?







(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

soliloquy 建申月act.6 Porte―another,side story「陽はまた昇る」

2012-12-13 09:11:45 | soliloquy 陽はまた昇る
扉、明日への約束を 
第58話「双璧9」幕間です



soliloquy 建申月act.6 Porte―another,side story「陽はまた昇る」

ページをめくるのは、扉を開く瞬間と似ている。

紙1枚、それを捲るだけで世界は広がらす。
文字で、絵で、写真で、世界は語られて自分の心に何かが映る。
そんな瞬間を繰りかえしていく時、心はページの描く場所へと旅をしだす。

「わ…この木すごく大きい、苔も立派だね、暖かい島かな?」

巨樹が織りなす深い森、その世界に周太は微笑んだ。
いまワンルームマンションの一室で都心の夜に居る、けれど心は森の島を見る。その視界へ友達が笑った。

「当たり、屋久島の千年杉の森だよ。雨が降ると川が出来るんだ、で、行けなくなる場所もあるんだよな」

缶酎ハイを傍らにページを繰る隣、笑って明朗な声がガイドしてくれる。
その説明に愉しくて嬉しい、嬉しくて周太は笑いかけた。

「樹齢が1,000年過ぎていないと小杉、って言うんだよね?奥多摩の1,000歳の木は神代杉って言われて、長老なんだよ、」
「だよな?普通は長生きで500歳だろ、俺んちの山の長老だって700歳位だよ。でも屋久島だと2,000歳もザラで1,000歳はガキ扱いなんだよな、」

まるで人間のように樹木の事を手塚は話してくれる。
そんな友達が嬉しいままに、周太は訊いてみた。

「島の地質が花崗岩で栄養が少ないから、屋久杉は成長が遅くなって樹齢が長くなるよね?雨も多くて湿度も高いせいで樹脂も多くなって。
この樹脂で枝とか腐り難くなるから長生きって言うけど、手塚の家の700歳の杉って、やっぱり湿度が高くてやせた土地の辺りに生えてる?」

この推論は当たるかな?
そう見た先で眼鏡の奥、明眸が愉快に笑ってくれた。

「当たり。俺んちの山ってさ、自然林のとこに水源の池があるんだよ。そこから水蒸気が立つんだけど、湧水って温度が一定だろ?
だから冬はすごいよ、朝とか寒い時間は水と空気の温度差デカいだろ?煙幕かってくらい霧が立ってる時があってさ、そこに長老はいるよ」

霧の森、その光景が友達の声で語られる。
水墨画やパステル画を想わす光景に、周太は微笑んだ。

「霧の森、すてきだね?道迷いは怖いけど、でも霧が立っている時の山や森って好きだな、」

水の紗に籠る森は、謎を隠すよう。

幼い日に父と見た、空気から白く優しい森。
緑なす樹林の陰翳は水の粒子に安らいで、深い息吹が馥郁と香る。
お伽話の挿絵のよう美しかった遠い森の記憶、懐かしく微笑んだ隣で愛嬌の笑顔が応えてくれた。

「だったらさ、遊びに来いよ?」

さらっと誘って、明朗な声が笑っている。
その提案に周太は瞳ひとつ瞬いた。

「え、?」

今、なんて言ってくれたの?
そう見つめた先で友達は、軽やかな笑顔で言ってくれた。

「俺んちに泊まれば朝、霧の森を見に行けるよ。雪山とか湯原、歩ける?」
「あ、…ん、奥多摩の山なら、少し歩いたことあるけど、」

驚いたまま答える先、眼鏡の奥から瞳が楽しそうに笑う。
軽く頷いて、鞄を引寄せ手帳を出しながら手塚は提案してくれた。

「だったら大丈夫だな、途中まで車で登るしさ。俺が帰省するとき一緒に来たらいいよ、冬休みと春休み、どっちでもイイよ?」

本当に提案してくれている?
まだ今日で話すのも2回目なのに、実家にまで迎えてくれるの?

「ありがとう、…でも、ご迷惑じゃないの?」
「ははっ、迷惑なら誘わないって、」

からっと笑いながら手帳を広げ、カレンダーを見せてくれる。
少し癖のある字が予定を綴るページを、ペンで示しながら手塚は言ってくれた。

「俺、院に進むから就職活動とかも無いし、予定の調整は出来るよ?ま、家庭教のバイトが冬休みは混むから、2月や3月はどう?」

本気で誘ってくれてるんだ?

どうやら手塚は大らかで積極的な性質らしい。
元々が内向的な自分は途惑ってしまう、けれど嬉しい。

…でも秋が来たら俺、予定とか解からなくなってる、ね

2月、3月、そのころ自分はどこにいるのだろう?
もうじき開かれる現実への不安と覚悟が目を披く、けれど希望を見つめたい。
本当は約束なんて出来ないと解かっている、それでも夢を共に見る朋友へ周太は笑いかけた。

「ん、3月かな、美代さんの受験が終わってからが良いな。仕事の予定とかちょっと解からないけど、約束の予約させてくれる?」





blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第58話 双壁side K2 act.9

2012-12-12 23:17:22 | side K2
「経」 時を積むなら、君は 



第58話 双壁side K2 act.9

夕凪の風が、そっと髪を冷やして吹きぬける。
眼前に広がらすマッターホルン氷河、その凍れる水は遥か遠い時間を閉じこめる。
蒼い銀色にうずくまる太古の水、そこに20年前の記憶は遺されているだろうか?

―雅樹さん、あと11時間後にスタートするからね、

心裡に呼びかけ悠久の氷に微笑んで、光一は大氷壁を見上げた。
マッターホルン北壁の下部3分の1を占める氷雪の壁、その取付点はどこからでも登れそうに見える。
けれど実際のルートは限定的で、右手のツムット氷河寄りに登れば傾斜は急で上部から落石の直撃を受ける位置となる。
だからと言って早めに左側を登ってしまえば氷壁上方での、不安定なトラバースを右へとる事態となってしまう。
こんなふうにマッターホルン北壁は、取付位置の判断から登頂の明暗は別れていく。

「英二、雪田に入ってからココまで何分?」

笑いかけて隣の左手首を掴み、クライマーウォッチの文字盤を隠す。
いつもカップ麺を作る時と同じよう隠した時計、そんな光一に微笑んで英二は応えてくれた。

「ちょうど10分じゃないかな?」
「よし、」

笑って掌を開くと文字盤はPM4:40を示している。
スタートからジャスト10分、そのタイムを記憶に入れて光一はからり笑った。

「おまえの体内時計、アルプスでも精度はバッチリだね?この感覚を憶えておいてよ、スタートのときは真っ暗だからね、」

限定された取付ポイントの判断、それをスタート時には夜明け前の闇中で行わねばならない。
だから事前の偵察でタイムと方向感覚を計っておき、登攀時の判断ミスによるタイムロスを防ぐ。
この意図への理解にアンザイレンパートナーは頷いて、白い息と綺麗に笑った。

「うん、地形と高度と時間、この感覚を暗い所でも同じ判断をするんだな、」

確認しながら英二は、そっと濃やかな睫を閉じた。
静かな氷河の風のなか、白皙の貌は鎮まって意識を研ぎ澄ませていく。
いつもどおり穏やかな貌のまま鋭利になっていく気配に、光一は機嫌よく微笑んだ。

―英二、夜明け前の闇をイメージして、感覚を記憶してるね?

こういう事を自発的に英二は気がつき実行していく、そこに素質とセンスが解かる。
きっと後藤も個人指導する折々に英二のこうした様子を見、能力と努力への信頼を不動にした。

『宮田の素質だったら、雅樹くんレベルの一流ビレイヤーになれるはずだ』

英二の個人指導を初めて2週間後、後藤はそう言ってくれた。
この「雅樹レベルで一流ビレイヤー」という意味は「最高のビレイヤー」と謂うに等しい。
雅樹がビレイヤーを務めていた相手は、光一と、国内ファイナリストクライマーを謳われた父の明広だけだった。
38歳を前に早逝した父は世界ファイナリストになれたと惜しまれている、そんな父のビレイヤーを雅樹は務めた。
そして雅樹自身も単独行で多くのバリエーションルートを踏破し、大学の山岳会では必ずリードを務めていた。

―そういう雅樹さんレベルだって、後藤のおじさんに言わせたんだよね、こいつはさ?

質朴な性質の後藤は、簡単には賛辞を言わない。
それでも経験1年に満たない英二に「雅樹レベル」と言ったのは、余程の事だろう。
その後藤の想いに共鳴するように、懐かしい声が梓川の夏に笑って約束を告げる。

―…光一は最高のクライマーになる、だから僕は最高のビレイヤーになりたい。医者として光一の安全を護りながら一緒に夢を見たい

16年前の夏に贈ってくれた「最高のビレイヤー」の約束は今、隣に佇むアンザイレンパートナーが叶えようとしている。
あと11時間後にスタートするマッターホルン北壁シュミッドルートの登頂、そこに英二が共に登っていく。
この近づいてくる瞬間への昂揚と祈りは、鎮まりかえる意識の底でも止むことは無い。

―雅樹さん、英二のコト護ってくれるね?俺のコト本気で大好きなら約束ごと守ってよ、

祈りに呼びかけて見上げる蒼い壁、そこに16年を見つめた山図のルートが描かれる。
あの軌跡を自分は辿るだけ、そんな想い微笑んで光一は英二を振り向いた。

「英二、山図のルートと現場の照合は出来た?」
「ああ、最初の300mはダブルピッケルで登りあげるんだよな?」
「だね。で、あのミックス帯だ。氷が白から蒼く変わってるだろ?あの蒼から硬くなるね、力加減も変るから気を付けてよ、」
「おう、ハーケン抜くとき、割らないようにするよ」

高低差1,124mの岩壁を見上げ、ルートの確認を語り合う。
日常の自主訓練で登る越沢バットレスは80m、そして北岳バットレスは600m、谷川岳一ノ倉沢は1,000m。
どれも英二は着実に踏破し、一ノ倉沢や穂高の滝谷ではビレイヤーを務めて経験を積んできた。
今朝のリッフェルホルンで受けた岩壁登攀テストでも、ガイドに褒められ無事に合格している。
どこの岩壁でも目標タイム通りに英二は登攀している、だから今回も大丈夫だと信じたい。

―誰よりも俺が、英二を信じているね。だって俺がアンザイレンパートナーで、先生で先輩なんだ

英二と話しながらも覚悟を肚に見つめている。
雅樹と自分の関係と同じように、自分が英二を教えてパートナーに育てていく。
そう決めた11月最後の日からずっと「責任」の覚悟に立って英二と登ってきた、そして今回の責任は今まで以上に大きい。
そして、責任の大きさだけ喜びも、きっと大きい。その希望を見つめながら光一はアンザイレンパートナーに笑いかけた。

「英二、明日はきっとイイ日だね?」
「そうだな、きっと良い日だな?」

綺麗な低い声が笑ってくれる、その笑顔はいつも通り美しい。
見つめる貌に不安な欠片は無い、昨日のブライトホルンでは揺れていた「迷い」も今は消えている。
もう北壁を前にして意識も心も集中に入った、そんな貌に安堵して光一はヘルンリ小屋へと踵を返した。

「さ、戻ろっかね。そろそろ他のメンツも揃う頃だね、」
「うん、」

頷いてくれる笑顔と一緒に、氷河のなかを戻っていく。
7月の午後17時過ぎ、マッターホルンは真昼の青空に聳え立つ。
けれど北壁は陽光の蔭に氷雪の冷厳が支配する、この涼やかな空気が自分は好きだ。
いま凍土の風を8年ぶり2度目に感じて嬉しくなる、その隣から綺麗な低い声が穏やかに明るんだ。

「風が気持ち良いな、頭がクリアになる、」
「だね?雪や氷の風はさ、冷たさが優しいね、」

自分と同じだ、それが嬉しく笑った隣も一緒に笑ってくれる。
こんなふう英二は呼吸を自分に合せてくれる、それは登攀中も日常も変わらない。
その「合せる」ことが英二にとっても自然らしいことが、いつも嬉しい。そして唯ひとりのパートナーだと確信してしまう。
こうしてずっと一緒に山を話して、登って、共に生きていけたら良い。そんな想い微笑んで光一は小屋の扉を開いた。
ふわり温かな匂いが頬を撫でて靴の下は感触が変る、その向こうから快活な笑顔が笑ってくれた。

「お久しぶりです、国村さん、」

声にふり向くと第七機動隊第一小隊の加藤と村木が椅子に座っている。
久しぶりに会う笑顔へ頷いて、登山グローブを外しながら歩み寄ると2人は立ちあがった。
そんな様子に笑いかけ、いつも山でするよう光一は右手をだし握手を結んだ。

「お久しぶりです、加藤さん、村木さん。春の合同訓練以来ですね?」
「あのとき以来だな、第2小隊長就任おめでとうございます、」

ふたり笑って順次に握手して、祝辞を言ってくれる。
その言葉に帰国後の現実が迫って心裡、そっと溜息が微笑んだ。

―そうだ、俺、昇進するんだっけね?…英二と同僚じゃなくなるんだ

いま隣で穏やかに微笑んでいる、大好きなアンザイレンパートナー。
そんな英二とは既に階級2つの差がある、そして8月の異動で役席にまで差が開く。
もうじき英二と1ヶ月は離れて、後から英二が異動してきた時にはもう、上司と部下になっている。
こんなふうに組織での立場が変ることなんて最初から解かっていた、それでも寂しさが込みあげる子供が、もう心に拗ねている。

―こんなの8歳のガキと変わらないね、俺って進歩がないねえ?

そっと心に自嘲しながらも、傍らの英二を少し前に押す。
そして七機第1小隊の2人へと自分のアンザイレンパートナーで補佐官の男を紹介した。

「青梅署山岳救助隊の宮田です。合同訓練で見かけていると思いますが、私のザイルパートナーを務めています、」

公式の場と相手に、自分のパートナーを公認として紹介する。
この今の瞬間が誇らしい、その幸せだけ見つめ微笑んだ隣は端正な礼をした。

「御岳駐在所所属の宮田です、今回はよろしくお願い致します、」
「こちらこそよろしく、宮田くん。第一小隊の加藤だ、」

笑って加藤が手を差し出して英二と握手する。
同じよう村木とも握手した英二の笑顔に、加藤が笑いかけた。

「訓練でも見かけて思ったけど、宮田くんは本当にイケメンだな。背も高いけど、何センチ?」
「183cmです、」

必要なことだけ答えて端正に微笑んでいる、その笑顔は確かに「イケメン」だな?
そんな感想に眺めながら光一は小屋番に声をかけ、打合せスペースの場所を確認した。
短いフランス語の会話で食堂テーブルの片隅に許可を得て、振向くと加藤が微笑んだ。

「国村さん、打合せの前にちょっと、」
「はい、じゃあ2人に場所のこと伝えてきますね、」

多分アレかな?
そう見当をつけながら光一は、英二たちに場所の指示をした。
そのまま外のテラスへ出ると、真剣な目で加藤は尋ねてきた。

「国村さん、明日の北壁はスタカットとコンテ、どちらで登るつもりだ?」

この危惧はされるだろうと思っていた。
予想通りの展開に笑って光一は、正直に答えた。

「練習のとき以外は宮田、コンティニュアスでしか登った事がありません、」

スタカットとコティニュアス、いずれもザイルを繋留し合うアンザイレンでの複数登攀の方式を指す。
スタカットは複数隔時登攀のことで、常に1人だけが移動し他方は安全確保「ビレイ」を停止状態で務めて交互に登る。
コンティニュアスは「コンテ」とも略す複数同時登攀を謂い、アンザイレンして同時に歩行・登攀するためスピードが速い。
但し、コンテはリーダーとビレイヤーが同時に動くため、停止したビレイヤーの体重で固定し支えるスタカットより確保が難しい。
そのため片方が滑落等を起こせば他方も巻添いになりやすく、アンザイレンパートナーの双方に高度な技術が要求される。

―この技術力を育てる「経験値」のコト、英二は言われちゃうんだよね、

山岳救助隊は迅速な遭難救助が求められるため、現場ではコンティニュアスも当然使う。
そして英二の場合、救助隊員の業務上とプライベートの両方で光一と登攀し、ほぼ毎日コンティニュアスの訓練を積んでいる。
だから回数で言えば決して英二の経験は少なくない、それでも年数で考えてしまえば当然のよう危ぶまれるだろう。
そんな予想と微笑んだ先で、加藤の表情は険しくなった。

「確かに宮田くんは一年未満の経験でも三スラや滝谷を登ってきた、タイムも良いと聴いている。でも今回はマッターホルン北壁なんだぞ?
高低差1km以上のビッグウォールだ。標高も四千を超えている、日本の山とは高度も気圧も違う。宮田くんとコンテは無謀じゃないのか?」

ほら、やっぱり言われると思った。
こんな懸念があるから吉村医師と後藤副隊長に相談して策を講じてある。
この8ヶ月で綿密に描いてきた予防線に、笑って光一は飄々と答えた。

「標高四千については冬富士の気圧で2回、試してあります。高低差1kmは三スラとかで経験させました、身体適性もテスト済みです。
持久力なら宮田は三スラも滝谷も剱岳でも、重量100kg近くを背負って登っているんですよ。後藤副隊長の個人指導や自主トレでもね、」

いつも英二は救命救急用具一式を持ち歩いている、その中には洗浄用の水も通常の倍を携行するため重たい。
加えて訓練のときは他にも、折畳式スコップなど救助用の装備も生真面目に背負いこんで歩いている。
こうした荷重で体力を鍛えることを日常的に行い、その一環で光一の事も抱えてしまう。

『俺は光一の専属レスキューだからさ、光一を運ぶことに慣れた方が良いだろ?」

そう言って訓練以外でも、背負って寮の階段や廊下を移動する時がある。
そんなとき光一がバンド式の重りを腕や足に装着していることを、英二は気がついていない。
それは三スラや滝谷でも同じで、2本目を登る時には英二のザックに重りを幾分か足してしまう。
そうして少しずつ英二の荷重を増やさせて、ビレイヤーとして必要な筋力と瞬発力を鍛えさせてある。

―お蔭で体力馬鹿になったよね?自分が何キロ背負ってるか解んないまんま、ね

いつも英二は荷重が増えても気がつかいない、ごく自然に100kgを背負って歩いている。
それが英二の「ヌケている」可愛い所だろうな?そんな感想と笑った前、加藤が溜息を吐いた。

「三スラとかで100kg背負って、それで国村さんに付いて登るなんてな?よく一年未満でそんなこと出来る、」
「ですよね?しかも宮田、一度もフォールしたことないんですよ?ダイナミックビレイの練習の時は、ワザとしますけどね、」

事実のまま笑った先、加藤の目が大きくなる。
アルパインクライミングなら「フォール」墜落する経験をしているだろう。
けれど英二は初めて白妙橋で訓練したときから、制動確保の練習以外では一度もフォールしていない。
真似て覚えるのが巧く器用な上に努力家の英二は、失敗というものをし難いのだろう。そこも好きで笑った向かい、加藤が微笑んだ。

「俺が口出しするのは余計だな?何かあればチームリーダーの俺が責任とります、良い記録で登ってくれ、」
「ありがとうございます、」

素直に礼を言って光一は軽く頭を下げた。
加藤は年次も年齢も先輩だけれど、階級は巡査部長で警部補の自分より下になる。
だから過剰な礼をとることは出来ない、そういう規律に笑って光一は加藤に宣言した。

「でもね、宮田に関する責任を負うのは俺の権利です。加藤さんでも手出しはさせませんよ?」

英二は自分だけのアンザイレンパートナー、だから誰にも触れさせないよ?
この想い率直に笑った光一に、1つ瞬くと加藤は愉快に笑ってくれた。

「なるほどな?そういうとこ国村さんはカッコいいよ、岩崎さんにも聴いてはいるけど、」
「あ、ウチの所長が何か告げ口しています?恥ずかしいですね、」

笑いながら小屋の入口へ踵返し、テラスを歩き出す。
その足取りをゆっくりにしながら、すこし声を低めて加藤は教えてくれた。

「岩崎さんは心底から褒めてますよ、だから第一小隊の印象は良いけど、第二は違うと思う。それ以上に宮田くんへの評価は不安定です。
俺と同じように『経験』のことで宮田くんの実力と立場に疑問を感じているのが、七機の現状なんだ。五日市署と高尾署は解からないが、」

それも仕方の無いことだろう、自分も英二が青梅署に卒配された当初は「なんで?」と思った。
みんな考えるコトは同じなのだな?そんな感想に笑って光一は、宣言した。

「その辺の疑問についてはね、ふたつの北壁で応えますよ?宮田自身がね、」

答えに笑って小屋の扉を開くと、五日市と高尾のメンバーも席に付いている。
そこへ加藤と加わり席に着き、いつものよう指を組んで光一は思案と打ち合わせを見つめた。



マッターホルンの闇に、ハーケンの歌が響く。
銀の星ふる紺碧の夜、はるかな虚空と鋭鋒の壁に金属音の歌が笑う。
その誇らかな歌声に今、偉大な岩壁へとメインザイルを繋ぐ点が刻まれていく。

コンコン、カンッ、キンキン、キンッ。

音と手ごたえが変って、ハーケンが利いたと伝わらす。
カラビナをセットして確保支点を作り、そしてザイルを軽く引く。
赤いザイルの向こう動きが止まり、ハーケンの叩かれる聲が明るく響きだす。

キンキン、カンッ

ハーケンが抜かれる音が足元の闇から謳う、そしてザイルが動きだす。
繋がれたアンザイレンザイルに伝わらす鼓動、吐息、そして生きている意志が温かい。
この今の瞬間を共に「山」で生きている、その喜びがハーケンの歌になって響いていく。

―英二、俺は信じてる、おまえは俺の全力でも絶対に付いてくる、ずっと俺と山で生きられる

心の真中から、願いが叫ぶ。

その叫びに応えるよう足許ひろがる闇の彼方、気配は温かい。
今日は英二の登山ザックも軽量化させた、普段より体は軽く動きやすいだろう。
その推測に添うようアンザイレンザイルの向こうは、リズミカルな動きでビレイしながら登ってくる。

―英二なら大丈夫だね、必ず俺と約束の天辺に行ける、

願うまま三点確保に登りあげ、この体はいつも通りに軽く岩壁を行く。
願いを叫ぶ心、けれど故郷の山々を登るのと同じに想いは謳う、そして山を感じる体は肌から笑う。
希薄な大気、冷厳の風と凍える山肌、そして秘める闇まとう「山」の意志。その全てが今、心地良い。

―ね、マッターホルン?アルプスの女王さまなら、教えてよ?

岩壁に意識を添わせながら、想うまま山に笑う。
この山にずっと聴きたかった問いかけに、喜びと心は微笑んだ。

―俺のアンザイレンパートナーが20年前、女王さまにキスしたね?とびっきり別嬪の山ヤの医学生だよ、覚えてるよね?
  同じキスを俺にも教えてよ?女王さまのてっぺんに着いたら俺にキスして、約束を叶えさせてよ?雅樹さんの約束を俺に祝福して?

“Tu es un amant de montagne” 山の恋人

そうリッフェルホルンのガイドは自分に言祝いだ。
このアルプスで生まれた山ヤが「山の恋人」と認めるのなら、アルプスの女王も応えてくれる。
この両想いは愉しくて、いま登らす凍れる岩壁に女王の冷たい黒髪を視、その向こうに気高い吐息がふれる。
故郷の山から遠く離れた名峰連なるアルプス、その女王と謳われる山を今、登って口説いて恋愛に誘う。

―マッターホルン、20年前は雅樹さんと恋したね?その雅樹さんが唯ひとり恋した人間は俺なんだ、だから今、俺と恋してよ?

雅樹が恋した山の1つ、マッターホルンへ「秘密」と誘う。
あの夏に贈ってもらった山図には、雅樹の夢と憧憬がデータになって端正に綴られる。
この山を記した筆跡の努力が愛しい、あの努力も夢も憧憬も、全てを自分に贈ってくれた雅樹を今も想う。
あの美しい山ヤの医学生が自分に贈ってくれた、その全てを抱く心の真中から光一は「山」の恋愛に笑った。

―どうして女王さまが恋した山ヤが俺と惚れあったのか、今、登ってて解かるよね?ほら、俺のザイルと繋がってる男を感じてよ?
  雅樹さんとソックリで全然違うだろ?雅樹さんは真っ新で天使みたいに純粋だったね、でも英二の純粋は激しくってLuciferみたいだ。
  アルペングリューエンみたいに眩しくて、冷たくて熱くって、怖くて優しい。そんな山ヤは女王さま好きだろ?あいつも俺と惚れあってるよ、
  そういう俺のコト気になるだろ?だからマッターホルン、俺とキスして恋してよ?8年前より本気のキスして、俺とあいつを祝福して?

呼びかけながらハーケンを撃ちこみ、ランニングビレイをとる。
ポイントごとの性格に合せて振るうハンマーに、マッターホルンはハーケンを受容れていく。
素直な岩壁へと微笑んで、その頬を優しく撫でる冷気を感じ、山懐の闇を抱きながら蒼い垂壁を登りあげる。
視界の後方180度、太陽の目覚めは遠く黎明の星は銀いろ降らす。この輝ける紺碧に聳える点に向かい、ヘッドライトの彼方へ駈ける。

―英二、おまえを信じてる。俺が奔っても離れないね、ほら天辺に行くよ?おまえを最高峰へ連れていく、約束を叶えさせてよ

こんなスピードで登攀することは、ずっと単独行だけだった。
滝沢第三スラブ、滝谷、北岳、他にも数々の岩壁を独り、約束を信じて登ってきた。
いつか雅樹が帰ってきてくれる、いつかアンザイレンを組んで一緒に約束を叶えてくれる。
そう信じて、その約束を叶えるために最高のクライマーになりたくて、ずっと独りきり登って訓練した。
そうして16年を自分は「約束」に縋るよう生きた、あの山桜に願いを懸けて叶わぬ夢を諦めきれずに、時を止めていた。

―16年だ、俺は8歳のガキのまんまだったね、雅樹さん?でも今は24歳だよ、大人になった俺を見てよ、大人の俺と約束を叶えてよ?

いまハンマーをふるう掌は、あの頃の倍に大きい。
いま登っていく身長もずっと高い、あの頃の雅樹より3cmも大きい。
もう今なら自分は「雅樹」とアンザイレンを組める、もう心の時間も8歳から動きだした。
この春3月の北鎌尾根、今この赤いアンザイレンザイルに繋がれる男が自分に「光」をくれて、臆病な眠りを覚ましてくれた。
そして時間は目覚めて時は動き、今、永く新しい約束に向かって登っていく。

『光一が大人になったら、僕をアンザイレンパートナーにしてくれる?ずっと一緒に山に登りたいんだ』

あの夏の約束へ今、24歳の自分は最高のパートナーと共に、16年を超えて辿り着く。






(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする