萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

soliloquy 建申月act.5 Livre―another,side story「陽はまた昇る」

2012-12-12 07:09:25 | soliloquy 陽はまた昇る
活字と写真、伝える事象
第58話「双璧9」幕間です



soliloquy 建申月act.5 Livre―another,side story「陽はまた昇る」

借りたタオルで頭を拭きながら扉を開けると、低いテーブルにビールの缶が増えている。
シャワーを借りる間にも手塚は呑んでいたらしい、けれど眼鏡の瞳は素面のよう生真面目にスケッチブックを見つめる。
白い紙を奔らす鉛筆の音が聴こえそう、そんな真摯な描く姿勢に周太は静かにクッションへ座りこんだ。
何を描いているのかな?そっと覗きこもうとした時、眼鏡の横顔は振向き笑ってくれた。

「あ、湯原?いつのまに座ってた?」
「今だよ?シャワーありがとう、さっぱりした、」

やっぱり夏場だけあってシャワーを借りられたのは、ありがたい。
感謝のまま素直に微笑んだ周太に、愛嬌の笑顔ほころばせ手塚はスケッチブックを閉じた。

「なら、よかったよ。俺もざっと汗流してきちゃうな、」

言いながら立ち上がり冷蔵庫を開けると、缶酎ハイを出して渡してくれる。
そしてタオルと着替えを片手に手塚はユニットバスの扉を開いた。

「テレビつけても良いよ、本も気になるのあったら読んでくれな、」
「ん、ありがとう、」

笑って答えた先、愛嬌は明るく笑って扉を閉じた。
そっと静かになった部屋、パソコンからのBGMを聴きながらプルリングをひいて口付ける。
グレープフルーツの香が涼やかに喉おりて、ほっと息つくと周太は書架を見て微笑んだ。

「…ほんと沢山だね、本、」

ほろ酔い加減で見る部屋の壁、低めの本棚が一面を支配する。
ハードカバーも文庫も揃うけれど、全部で何冊あるのだろう?どんなジャンルがあるのかな?
そんな想いに周太はクッションから立って、端正な書架の前に座りこんだ。

「あ…俺も持ってるのだね、」

コンパクトなハンディタイプの植物図鑑を見つけて、嬉しくなる。
仲良くなったばかりの友達に「同じ」を気がつくことは、親近感が温まって嬉しい。
こうした普通のことが自分には13年間無かった、だからこそ今、与えられている幸せは温かい。
かすかな水音ひびく部屋、並んだ背表紙を見ていくのは何か楽しくて、初めて見る書名に世界の数を知る。
この本はどんなことを描いてある?そう題名から見当つけながら目次を開き、また戻して次を見ていく。

「…ん、これ面白そう。買ってみようかな、」

ひとりごと微笑みながら書名を記憶して、数冊を買う予定を決める。
そんなふう端から見ていく書棚の、背の高い段にくると大判の図録や写真集が並ぶ。
引き出してみると美しい森の写真がページひろがって、天然色織り成す光景に溜息がでた。

「…きれい、」

森閑、その熟語が現実の世界から生まれたのだと写真に教えられる。

翠ふる木洩陽は天使の梯子を架け渡し、霧たちこめる深い森に生命の息吹を感じさす。
ゆるやかに流れる樹木の鼓動が空気に伝わる、それは奥多摩の山桜の森とも似ていた。

…行ってみたいな、ここどこかな?…こっちは白神山地?

ゆっくり捲っていく木々の美しい姿に、心は初めての森で深呼吸する。
この場所は何処だろう、どうやって行けるだろう、そう見ていく想いにふと時計が目に映る。
デジタル表示はAM0:00を数秒まわる、その表示からマイナス8時間して微笑んだ。

…いま16時だね、英二と光一は…笑ってくれてると良いな

素直な祈りが心こぼれて、遠い遥かな空を祈る。
いま独りだったら、こんな想いは切なかったかもしれない?
けれど今、自分は独りじゃない。一晩中を飲み明かそうと誘ってくれる友達が傍にいる。

「ありがとう、手塚」

そっと微笑んで友達への感謝を想う、そして少し不思議になる。
本質的に自分は内向的で心開くことが難しい、けれど手塚は話すこと自体が今日で2回目なのに楽だ。
この「楽」の理由はきっと、いま手元に開いている写真集にあるだろう。

…きっとね、同じことが大切で大好きだからだね?

自分が樹木を愛するように、手塚も山や木を愛している。
それがスケッチブックに描かれた森や木の、美しい姿たちから水が湧くようあふれていた。
あの透明な美しさは手塚の樹木へ寄せる深い敬愛が生みだす、そう解ることが嬉しい。
そんな想いを抱きながら、また写真集の世界へ心は飛んで、ブナの純林に想いは歩く。
フィールドワークで行った丹沢の堂平、あの空気が意識へ映りこんで知識をめぐらす。
いつか、もっと時間を懸けて観察したいな?そんな想いにふと上げた視線が一冊の背表紙に留められた。

『CHLORIS―Chronicle of Princesse Nadeshiko』

「あ、」

よく知っているシックな表装と、題字に声が出た。
その背後で扉開く音がして、明朗な声が楽しげに笑いかけてくれた。

「お、その写真集、やっぱり気になるよな?良い森がいっぱいだろ、」

話しながら冷蔵庫を開き、缶ビール片手に隣へ座ってくれる。
横から愉しそうに写真集を覗きこみ、ページの森を手塚は指さした。

「ここ、前に行ったことあるんだ。ほんと綺麗な森だったよ、」
「ん、本当にきれいだね?」

答えながらも気になってしまう、モノクロ美しい背表紙に意識が行く。
あの写真集を手塚はどうして持っているのだろう?見て何を想うのかな?
そう思うだけで何か気恥ずかしくて、困ってしまう。

…そういえば美代さんも買ってたね、ブックカフェで

あのとき平積みにされていた。
しかも洋書と写真集で売上ランキング一位だと、添書きが置かれていた。
あの言葉通りの人気だろうと中身を知る以上、納得する。けれど手塚が持っているなんて?
そんな意外に首筋熱くなりだした隣、タオルを頭から被ったままで愛嬌の笑顔が言った。

「俺、写真集とか好きでさ。山とか森のが多いんだけど、コレはちょっと異色かな、」

笑いながら手を伸ばし、日焼けした指がモノクロの背表紙を引き出す。
その上品で豪華な装丁に頬まで熱くなりそう?困って周太はタオルを頭から被りこんだ。
けれど気にすることなく手塚はページを繰り、瑞々しい青葉の木洩陽ふる写真を指さしてくれる。
あわい霞のなか、白と青あざやかな縞の振袖姿が佇んで、白皙の横顔は梢を見上げる睫の陰翳に謎が微笑む。
きらめく緑の光に黒髪は艶めいて、ゆれる振袖に光の明滅がまばゆい。そんな写真へ愛嬌の笑顔は幸せに言った。

「この写真集、花や木がほんと綺麗なんだよ。それに彼女、マジで美少女だろ?大和撫子って感じで好きなんだ、今は絶世の美女だろな?」

ごめんなさい、それは本当は「美少年」なんです。

彼女ではなく「彼」は大和撫子じゃなくって日本男児です。
大人になった今は警察官です、絶世の美形だけど立派に男性です。
身長も183cmで山岳救助隊で、100kgの成人男性を背負って下山するほど「男」です。

…しかもおれのこんやくしゃでみらいの夫なの…ごめんね?

そっと心で謝りながらタオルの蔭、周太は額まで赤くなった。





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第58話 双壁side K2 act.8

2012-12-11 22:44:25 | side K2
「告」 いま蘇らす情熱に、



第58話 双壁side K2 act.8

カーテンを開け放った窓際、ランプを灯す。
ふわりオレンジ色の光は広がらせ、デスクの木目が艶めき光る。
その輝きの上へとケースを開いて、新しい方の山図を丁寧に広げた。

“Matterhorn North Face Route. Schmidt” 

湯上りの髪から雫こぼさぬよう、タオルを頭にかぶせ図面を眺めていく。
明日、リッフェルホルンで登攀テストを終えたら、夕方にはマッターホルン東稜ヘルンリヒュッテへ入る。
そこで警視庁遠征訓練のメンバー全員が合流して打合せ、明後日のスタート4時前に備え早い就寝に着く。
だから北壁アタック前に着実な記憶時間を取れるのは、もう今しかない。

―雅樹さん、あと33時間後にはスタートだよ?一緒に登ってくれるね

広げた山図に俤を追い、そっと古い方の山図に手を触れる。
浴室から響いてくる水音かすかに聴きながら、懐かしい筆跡の図面を光一は広げた。
鉛筆で記された端正な文字と数字は、16年の歳月を経てもなお鮮やかに青年の軌跡と夢を遺す。

氷河の段、大氷壁、大クーロアール、氷瀑サイド、そして最後の頂上岩壁。
それから欄外に復路の東稜ヘルンリルートに関する付記。

19歳だった雅樹が見つめた北壁シュミッドルートの初登が、詳細な記憶と的確な事前データで綴られていく。
そこに23歳までの4年間に調べた記録が付加されて、三次元的ルートファインディングが紙面に広がっている。
こうした「山を知る」分析能力が雅樹は優れ、この冷静で客観的な現状把握が観天望気の力にもなっていた。
そういう雅樹がザイルパートナーを務めたからこそ父の明広も、世界中の名峰で写真撮影の仕事が出来た。
そして自分も、雅樹が共に登るなら世界の名峰を踏破できると、数多の記録を樹立できると信じていた。

―でも雅樹さんはもう亡くなった、だけど俺には英二がいるね

英二は、雅樹と同等の素質と適性を持っている。
けれど経験が遥かに劣る現実が今はある、これが北壁でどう響くだろうか?

“俺の山のパートナーは宮田だろ。だから一緒に登ってもらうよ、最高峰にね”

そう自分が告げたのは11月最後の日、ツキノワグマの小十郎に逢った直後だった。
あの日は警視庁拳銃射撃大会の練習があった、その後に雲取山麓の水源林巡視路を巡回した。
そのとき小十郎に逢い、自分が雲取山頂で生まれた話をし、そして英二は綺麗な笑顔で言ってくれた。

「国村って、最高の男だよな」

その言葉に、諦めた夢が瞳を披いた。
あの輝く夏の記憶が蘇えり、大好きな人はこの心に微笑んだ。

―…光一は僕の希望と夢の光、一番大切な光だって想ったから光一なんだ…最高峰の男だから光一、そういう意味で君の名前を付けたよ

あの夏の俤が今、最高の男だと現実の声で言ってくれた。
その声に夢は眠りから目覚めて心を叩き、ずっと待ちわびていた願いは唇から声になった。

「俺の山のパートナーは宮田だろ。だから一緒に登ってもらうよ、最高峰にね」

俺のアンザイレンパートナーになってよ?
おまえなんだ、きっとそうなんだ、そう信じたい願いに声は出た。
そんな自分の祈りを静謐の情熱が見つめ、綺麗な低い声は真直ぐに告げてくれた。

「俺をトップクライマーにしてくれ。そうしたら山のパートナーを一生やるよ。俺なら大丈夫、俺が一緒に最高峰へ登るよ」

あの誓いの瞬間が、英二の山ヤとしての本当のスタートだった。
その帰り道、非番だった英二は奥多摩交番に残り後藤へと個人指導を申し出てくれた。
そして翌日には後藤のマンツーマン指導は始まり、縦走とクライミングの全てを英二に伝え出した。
その訓練内容について後藤は、光一へと真剣に笑って言った。

「光一、宮田にはな、まずビレイヤーに特化して訓練するぞ。今度の夏には北壁へと宮田を登らせたいよ、そのときリードは光一だろう?
宮田の素質だったら雅樹くんレベルの一流ビレイヤーになれるはずだ、これを全部クリア出来たらリードの技術を叩きこみたいよ。いいな?」

あの言葉たちは、英二をビレイヤー「確保者」として光一のセカンドを専属で務めるアンザイレンパートナーとして育てる意志だった。
そんな後藤の意志に、普通は卒業配置の受入れをしない青梅署に何故、山岳経験の浅い英二が配属されたのか解かった。
そして、後藤の自分に対する希望と愛情と、そして雅樹に対する深い愛惜の想いを見つめた。

―後藤のおじさんだって辛かったね、ずっと。だって吉村先生は後藤のおじさんの親友で、雅樹さん自身も大切な仲間だから

16年前、槍ヶ岳北鎌尾根で遭難死した雅樹の慰霊登山を決めたのは、後藤が中心だった。
父親の吉村医師と後藤がザイルを組み、父の明広と田中も共に四十九日の翌日から北鎌尾根の雪に踏みこんだ。
雅樹が遺した軌跡を辿り槍ヶ岳山頂へ繋いで、最期の場所へとアーモンドチョコレートとオレンジジュースを手向けてくれた。
あのとき後藤はきっと、雅樹の代わりを務めて吉村医師とザイルを組んでくれた。

―おじさんだって雅樹さんに期待していたんだ、山ヤとして、山岳レスキューの医者として頼みにしていた、ね…

慰霊登山から戻った後藤の貌は笑っていた、けれど目には腫れた痕があった。
それは父も田中も同じだった、けれど吉村医師に涙の跡は無かった。そして吉村は自身の登山靴を捨てた。
それを最後に吉村は15年間の一度も、医師の仕事以外で山に登ることは無かった。

―吉村先生は、雅樹さんが山で亡くなったことを自分の所為だって、思っちゃったんだよね…

奥多摩に生まれて山を愛し、医学を志した吉村医師だった。
そんな吉村は当時、大学附属病院のER担当教授として「神の手」を謳われていた。
こうした父親の軌跡をたどるよう山ヤの医学生となった雅樹を、吉村は宝物だと尊び愛した。
それなのに息子は山で死んだ、自分が親しませた「山」に息子を奪われたのだと吉村は自責に沈みこんだ。
その自責のままに息子の慰霊登山を終えた翌朝、大切にしていた登山靴ごと「山」を捨ててしまった。
吉村のそんな姿を後藤は黙って受けとめながら、光一に提案してくれた。

「光一も北鎌尾根に行こうな?雪が解けて春になったら、雅樹くんのアンザイレンパートナーとして慰霊登山をしよう、」

これと同じことを父の明広も言ってくれた、けれど自分はどちらに対しても黙りこんだ。
どうしても雅樹の死を認めたくなくて、雅樹は「約束」を護るため帰ってくると信じて、雅樹が愛した山桜に通い続けた。
消えた生命が蘇えるなど夢物語、そう解っていた、それでも「山」になら不可能も可能に出来ると信じて縋った。
そうして15年が過ぎ去って秋、奥多摩に「英二」は現れて、吉村医師を再び山ヤの医師へと蘇らせた。
そして3月、あのとき英二が持つ全てを懸けて光一に雅樹の慰霊登山をさせてくれた。

「…英二、あのときルートファインディングなんてまだ難しかったのに、ね?」

ひとり言そっと微笑んで、光一は古い山図を丁寧に畳んだ。
あの慰霊登山に英二は単独行でも挑もうとした、その眼差しに迷いは欠片も無かった。
そして生きる意志と山ヤの誇り高い自由が、白銀と蒼穹の世界でまばゆく輝いていた。

「雅樹さんが好きなんだ。会ったこと無いけれど、俺と同じ気持ちの人だったって解るんだよ、」

そう、はっきりと綺麗な低い声は光一に言った。
雅樹と同じ気持ちだと言ってくれた、その言葉が嬉しくて、けれど怖かった。
雅樹が死んだ場所で同じ現実が繰り返される?そんな恐怖がこみあげて必死で自分は英二を止めた。
それでも切長い目は一歩も退かないで、山ヤの誇りをこの自分に言い聞かせてくれた。

「雅樹さんが最後に歩いたところを俺も歩いてみたい、雅樹さんの想いを俺はトレースしたい。
そして受け留めたいよ。俺も山ヤだよ、国村?山ヤは自由に山を登るために努力をする、俺もその努力はしてきたつもりだよ?
この俺の努力を一番よく認めてくれているのは、国村だろ?だったら行かせて欲しい、俺は雅樹さんが見た世界に立ちたいんだ、」

―…光一、僕を行かせてくれる?あの山の世界に立ちたいんだ、いつか一緒に登りに行こう?だから僕はね、必ず光一の所に帰ってくるよ

いつもそう言って雅樹は自分を置いて、国内外の名峰へ登りに行った。
あのとき英二の低い声に、懐かしい綺麗な深い声が共鳴して自分の心を揺さぶった。
ずっと目を背け続けてきた「雅樹の死」もう二度と生きては逢えないと認める、永訣の覚悟が姿を顕わした。
あの大好きな香と温もりは二度と自分を抱きしめない、そう認めることが怖くて、涙こぼれた自分に英二は言ってくれた。

「俺と一緒に行こう、雅樹さんと一緒に北鎌尾根から槍の天辺に登ろう?15年前に雅樹さんが途中になったルートの、最後を終わらせよう」

雅樹の途中になったルートを「最後」を終わらせる。
この「最後」という言葉に気がつかされた、終らなければ次は始められない、そう気づいた。
終えて諦めることの意味と、諦めた後に向かう先への希望を見つめて、自分は英二の言葉に肯った。
そして今、この窓から16年の夢を超える頂を見上げている。

「俺を行かせてくれるね、雅樹さん?約束通り一緒に北壁、2時間で登ってよね、」

見上げる氷食鋭鋒は、黄昏の始まりに佇んで氷雪を輝かす。
夏7月の遅い日暮にアルプスの女王は聳え、アルペングリューエンの時を待っている。
あの頂点に35時間後、自分はアンザイレンパートナーと立ってアルプスの暁に笑っているだろう。
そんな想いに被ったタオルの蔭から山を見、山図へと視線を戻した向うで扉の開く音が立った。

「光一、ちゃんと湯冷めしないようにしてる?」

ふわり石鹸と森の香が頬撫でて、綺麗な低い声が笑いかける。
香と声に鼓動ひとつ跳ね、タオルの蔭で耳の裏が熱をそめだし吐息がこぼれた。
その隣から長い指がデスクに置かれ、湯上りの熱る体温が背中から近づいて楽しげな声が微笑んだ。

「この山図、本当にすごいよな。こういう技術も俺、ちゃんと1人で出来るようになるよ、」
「ん、よろしくね?ア・ダ・ム、」

さらり冗談で応えながら、けれどタオルの蔭は頬も熱い。
近い体温の熱りと香は記憶を映し、遠い幸福な瞬間を想わせて体が反応してしまう。
ほんの1秒前まで山図の記憶と想いに意識は集中していた、それなのに今もう心も体も乱されている。

―ほんと調子狂わされっぱなしだね?やっぱり惚れちゃってるんだね、オトナの初心ってカンジでさ?

そっと溜息を吐きながら山図を畳み、ケースに戻す。
そのまま立ち上がり登山ザックへと仕舞うと、光一は冷蔵庫の扉を開いた。
掴んだワインボトルの冷気が掌から凍みて、意識の熱りを少しずつ収めてくれる。
こんな自分が気恥ずかしくて、困惑とグラスも一緒に携えながら窓を開いてベランダへ出た。

―雅樹さんにはコンナに困らなかったけどさ、ませていても体はやっぱりガキだった、ってコトだね?どきどきはしてたけど、

心裡ひとりごと笑いながら、グラスとワインボトルをテラステーブルに並べる。
冷たいガラスの感触に「落着けよね?」と自分に言い聞かせて、けれどタオルは頭に被ったまんま椅子へと座りこむ。
その肩に、ふっと温もりふれて目をあげると、長い指がパーカーを着せかけながら白皙の貌が微笑んだ。

「これから冷えこむだろ?肩、冷やしたら拙いから着てて、」

綺麗な低い声は穏かで、笑いかけてくれる切長い目は心遣いに優しい。
いつもどおり自分を気遣ってくれるパートナーが嬉しくて、素直に光一は笑いかけた。

「ありがとね、英二、」
「どういたしまして、これ開けるよ、」

綺麗な笑顔が隣の椅子に座り、ワインボトルを長い指に取ってくれる。
慣れた手つきでコルクを開きグラスへ傾け、ゆるやかに酒と香を注ぐ。
あわい金いろグラス揺れて光きらめく、その色に薄紅が射しこんだ。

「夕焼けが始まるね、」

これから始まる天空の瞬間に、光一は視線を上げた。
見上げた空はブルーから淡紅に色を変え、藤の花いろに黄金の雲ひるがえり、ゆっくり夜が降りてくる。
時計は午後8時前、今7月のスイスは太陽の時間が長い。この明るい夜に、白と黒の壁は屹立して目の前にある。
もうじきアルペングリューエンは始まるだろう、そんな予想に光一は席を立ち、部屋に戻るとカメラを取りだした。
使い慣れたデジタル一眼レフは自分で選んだ、けれどレンズは11年前に父の明広が買ったものでいる。
このレンズが映した愛しさに微笑んで、そっと宝物を抱くよう光一はベランダへ戻った。

「狙うのは夕焼けのマッターホルン?」

綺麗な低い声が笑いかけてくれる、その笑顔に薔薇色の光まばゆい。
なめらかな白皙の肌理に落陽は映えてゆく、綺麗で見つめて光一は明るく笑った。

「きれいなモン全てだね、」

答えながらテーブルをまわりこみ、片膝をつきホールドを決める。
迎角に構えたレンズの向こう鋭鋒は輝きだす、その瞬間へとシャッターを切っていく。
古いレンズに添えた手を回しズームを変える、そして広角に合せたフレームに薔薇色の横顔が映りこんだ。

―綺麗だね…

奪われた心が溜息こぼし、指はシャッターボタンを押す。
レンズ越しの美貌は黄昏に輝く、艶めくダークブラウンの髪は風ゆらす。
濃やかな睫の瞳に陰翳は謎めき、けれど強靭な意志は夢を現に捉えて山頂を見据える。
真直ぐに山を射る熱情の眼差し、その耀きの彼方に宵の明星は光を顕わした。

―あ… “Lucifer” が英二に輝いたね?

“Lucifer”

天体では夕星とよばれる“Venus”美の司星。
光輝と高潔の星は、至高の天使かつ堕天使にして魔王の名前を冠する。
そして、その名の根源的な意味は「光もたらす者」と謂う。

―高潔で天使で魔王で、光もたらすなんてね、ほんと英二みたいだ?

雅樹が消えた15年目に現れた英二は、いったい幾人の「時」を動かしたのだろう?
あの笑顔が吉村医師に再び登山靴を履かせ、後藤にクライマーを育てる情熱を起こし、美代にすら恋愛を覚まさせた。
そして自分に「光」をくれた。雅樹が死んだ瞬間に眠りについた夢と約束、その全てを英二の言動が照らし目覚めさせた。
その耀きに誘われてこの唇からあふれた約束が今、この場所へ自分を連れてきた。
だからこそベースにする部屋は、約束の頂が見える窓に拘りたかった。

―解ってないんだろうけどね、おまえが俺を、ここに連れてきたんだよ?英二、

レンズ越しのアンザイレンパートナーに微笑んで、もうワンシーンのシャッターを切る。
落日まばゆい瞳は夢と現のはざま、山頂を見つめる貌は天の炎に薔薇いろ輝き陰翳の謎に縁どらす。
宵の明星に譬えられる至高の存在 “Lucifer” を光と闇に象らせた、そんな男が自分の傍にいる。
そんな想いに雅樹と全くの別人と知らされて、明るい諦念から面映ゆく恋慕が募っていく。
こんな自分に途惑いながらも幸せは切なくて、甘い傷みにも雅樹との違いが分かる。

―どうしてこんなに苦しいかね、この俺が…人間の、オトナの恋愛ってやつかね?

雅樹と生きた時間には、幸福だけがあった。
だからこそ喪った幸福の分だけ傷は大きくて、尚更に「恋愛」から心は遠のいた。
けれど今は自分のアンザイレンパートナーに恋愛している、恋愛するなら最も面倒が多い相手なのに?
それでも求めたいほど惹かれて自分でも止められない、そんな自覚が何だか可笑しくて嬉しい。
それも愉しい?タオルの蔭に笑って椅子に戻り、カメラを膝に置くとグラスに口付けた。
ガラスのなか黄昏ゆれる酒、その8年前と同じ香と味に光一は機嫌よく微笑んだ。

「良かったよね、マッターホルン見える部屋でさ?ココ泊まっても見えない部屋あるんだよね、」
「うん、本当によく見えるな、手配とかありがとうな、」

嬉しそうに笑ってくれる、その笑顔に鼓動が跳ねる。
そんな幸せそうな貌は期待に困る、また耳元の熱をタオルの蔭に隠して光一は微笑んだ。

「大したことないね、ちょっと電話しただけだしさ、」

それ位お安い御用、そう言えるのは父のお蔭だろう。
父の明広はフランス文学を愛して大学も仏文科を卒業した、そのお蔭で自分もフランス語の日常会話に支障ない。
けれど「お蔭」の影響は本当は他にもある、そのことが雅樹を困らせて、けれど自分には幸福を与えてくれた。
そう思うとオヤジには感謝しないといけないな?そんな想い笑った隣で、穏やかに英二が微笑んだ。

「七機の人は今日、着いたんだろ?そっちも見える部屋だと良いけど、」
「あの人たちはどうだろね?ま、明日の夜はヘルンリヒュッテだから、存分に見れるけど、」

もう明日の夜は、マッターホルン東稜に居る。
あと20時間後には佇んでいる瞬間を想う、そして計画が頭を廻りだす。
明日はリッフェルホルンから戻り次第に手続きをし、ヘルンリヒュッテに入り北壁の偵察に行く。
取りつきに広がる氷河の段を明るいうちに観察し、登攀スタート時の地形変化を予測しておきたい。
出来れば16時半には着きたいかな?そう考えまとめてたとき、英二が笑いかけてくれた。

「光一、今日の写真はどれがお奨め?」
「うん?ちょっと待ってね、」

笑って光一はグラスをテーブルに置き、カメラを両掌で抱えこんだ。
いつものよう操作して画像を送り、そして気に入りの再生画面を本人へ向けた。

「いちばんのオススメは、やっぱコレだね、」

笑いかけて指で画像を示す、その隣から肩が寄せられ鼓動ひとつ跳ねた。
こんなことだけで乱れる自分の心と体に途惑い、けれど愉快な気持の至近距離で綺麗な低い声が笑った。

「なに、俺の写真かよ?」

可笑しそうな笑顔が見てくれる画面を、一緒にのぞきこむ。
白銀と蒼穹に佇んだ横顔の高潔な輝きは、液晶画面の中でも目映く美しい。
やっぱりこれは良い貌だろうな?満足に光一は飄々と笑って答えた。

「イイ貌だろ?ブライトンホルンの天辺から、マッターホルンを振り向いて見上げた瞬間だよ、」
「あ、写メ撮った後か?」

数時間前の記憶と微笑んだ貌に、かすかな痛みが鼓動に奔る。
英二が写メールを撮ってあげたい相手の、優しい声と笑顔は記憶で温かく切ない。
あのひとに背中を押されて今「覚悟」を本当は見つめている、その緊張に微笑んで光一は青い花の写真を画像に呼んだ。
ブライトンホルンから此処ツェルマットまで歩いた途次に咲いていた花、その凛々しく可憐な姿に笑いかけた。

「下山してツェルマットまで歩いた時のだよ、ゲンチアナ・ブラキフィラって言ってさ、竜胆の仲間なんだ、」
「光一、この写真は田中さんにあげるんだろ?」

すぐ気がついて綺麗な低い声が言ってくれる、それが嬉しい。
親戚でもある田中老人が最後に撮ったのは、御岳山の竜胆だった。
あの花の撮影中に氷雨に降られた田中は、持病の心臓発作を起こし倒れ込んだ。
そして救助に来た英二と光一に看取られたまま、故郷の御岳山に抱かれて永い眠りについた。
あれから9ヶ月が過ぎる今、英二と光一は三大北壁の一峰を前にアルプスの竜胆を見ている。

「田中のじいさん、昔っから竜胆が好きなんだよね。帰ったら、仏壇に持って行ってやろうと思ってさ、」

答えながら頷く想いに、アマチュア写真家だった横顔が記憶に温かい。
田中は両親亡き後、光一に山ヤとしての基礎を磨かせアルパインクライミングを特に教えてくれた。
岩質を見極めて掴み蹴る強度を調整して崩落を防ぎ、氷や岩の目を読んでハーケンを素早く撃ちこみ、かつ抜く。
こうした経験則になる独特の技術を多く田中老人は熟知し、それを受け継いだお蔭で自分の登攀スピードは速い。
農業を営みながら国内の山を登りつくした田中の、土が香るような高潔が雅樹とは違う想いで大好きだった。
そんな田中は1ヶ月に満たない短期間でも、英二を心から可愛がって奥多摩の山をよく教えていた。
その記憶に田中の意志と想いへ微笑んだ隣から、穏やかな笑顔は言ってくれた。

「きっと田中さん、喜ぶよ。プリントする時、俺にも1枚くれる?周太にあげたいんだ、田中さんのこと周太も大好きだから、」
「うん、俺もそのつもりだよ?じいさんの竜胆の写真、いつも周太って持ち歩いてるし、花好きだしね、」

あのひとへ、約束の場所で咲く花を見せてあげたい。
そんな願いごと隣に笑いかける、その想いの真中で端正な笑顔は告げた。

「光一、好きだよ」

心臓が、止められる。

ほら、こんなにも自分は愛されたがっている?
名前を呼んで「好きだ」と言われる、それだけで心ごと体も奪われる感覚が熱い。
見つめ合う眼差しに切長い目は静謐と熱情まばゆい、この熱に攫われかけながらも呼吸ひとつで光一は笑った。

「ありがとね、英二。俺の別嬪パートナーは憎たらしいね?」
「どうして憎たらしいんだ?」
「いま、周太のコト話してたろ?可愛い奥さんネタの直後に口説くなんてね、浮気男の常套手段みたいだろ?嫌だねえ、」

語尾の「ねえ?」にご不満を現わしてしまう。
だって今の自分は北壁に集中したい、それなのに惑わさないで?
そう思うことは自分の勝手な都合と解かっている、けれど無意識の誘惑は強くて、本当は怖い。

―本当に惚れているから怖い、ね…溺れて、全てを忘れそうで怖い

ずっと探し求めてきた唯ひとりのアンザイレンパートナー、そして最愛と呼べるだろう相手。
そんな相手だと期待したい隣に心も体も乱される、この想いをまだ知りもしない英二が少し憎たらしい。
だから余計に困らせてやりたくなる、この我儘と見つめた真中で少し困ったよう英二は言ってくれた。

「嫌な思いさせたんなら、ごめん。周太も田中さんも気遣える光一のこと、優しくて好きだなって思ったから言ったんだ、ごめんな?」

本当にそれだけで他意は無い。
そう目でも伝えてくれる、けれど言葉ごと今は憎たらしい。
本当に天使で悪魔だね?可笑しくて笑いながら光一は指を伸ばし英二の額を小突いた。

「ありがとね、英二。でもね、状況を考えて口説いてよね?まだ訓練控えてんだからさ、俺を変な気にさせるんじゃないよ、」

本当に変な気にさせないでよ?
本音は変になってしまいたい、あのトランクにある紙袋を開けてしまいたい。
けれど今は大切な約束に全神経を集中させていたいのに?そんな想いに笑いかけた先で端正な微笑は訊いてくる。

「ごめん、だけど俺の言った事いつもと変わらないし、奥多摩でも訓練の前とか言ってると思うけど?」
「あのね?いつもは寮か車の中、後は山小屋か雪洞やテントで言ってるだろ?どこも変な気だろうが、不可能だからイイんだよ、」
「不可能?」

短く単語を反復して、英二はすこし考えこんだ。
何を言っているのか気づいたのかな?そう見た向こうで納得したよう英二は微笑んだ。

「そういえば俺、光一とホテルに泊まるの初めてだな?ホテルだと自由に風呂が使えるから、ってこと?」

いつもの登山では山小屋やテント等か四駆の車中泊、だからホテルや旅館に泊まったことはない。
そのため風呂は日帰り温泉などで済ます、そして寮では共同の大浴場だから大抵は誰か一緒になる。
いずれも風呂を自由なプライバシーの中では使えない、その為に「不可能」なことは何なのか?
その答えを言ってくれそうな唇の動きを封じたくて、光一は英二の頬を小突いた。

「解かったんならね、今は言葉にしないでくれる?今、俺は北壁の踏破に集中したいんだよね。明後日は特にスピード勝負だよ?
予定タイムで登りきるんなら集中力が必要だ、それには雑念になるモンは今、入れたくないんだよね。全部、終わってからにしてくんない?」

今日のブライトホルンはスタートに過ぎない、まだ終わりじゃない。
この自覚に欠けたら遭難に繋がって、一瞬の落ち度も赦されないまま「死」へ誘われる。
だから今この心が抱いている恋慕すら、自分自身が無視していたい。そう微笑んだ隣で綺麗な笑顔が訊いてくれた。

「解かった、しばらく自重するよ。でも光一、頂上のキスが出来ないってこと?」
「それは良いよ、でも人がいるとこは禁止ね、」

さらっと笑って答える意識は、いつもより鎮まっている。
もう感覚から登頂へと意識を集中させたい、この意志のまま明日からの予定へと微笑んだ。

「明日のロッククライミングが終ったらね、アルパインセンター行って手続したらヘルンリヒュッテ行こうね。で、明後日の朝には天辺だ」

明後日、もう32時間後には約束の場所に立っている。
そのパートナーは冷静な熱情の瞳を微笑ませ、穏やかなトーンで言ってくれた。

「おう、明日は1回で合格するよう集中するな。五日市署と高尾署の人もヘルンリヒュッテで集合だよな?」
「だよ。もし明日が不合格でも、ヘルンリヒュッテに全員集合だからね?ま、今回の面子なら合格するだろうけど、落ちたらモロばれだね?」

もし不合格なんてコトになったら、大いに恥だよね?
そう言外にふくませた笑顔に、潔く英二は笑いかけてくれた。

「俺の明日と明後日の結果は、七機と五日市、高尾でも話題になるってことだよな?」

青梅署、五日市署、高尾署、第七機動隊山岳レンジャー。この4部署で警視庁の山岳救助隊は構成される。
今回のマッターホルン北壁登攀は、この警視庁山岳救助隊における合同訓練として各部署からパートナーごとに選出された。
だから英二の言動と登山記録は、警視庁山岳救助隊の全てに知られることになる。この現実に光一は軽やかに笑った。

「だよ?おまえにとったら今回は、俺のパートナーと次期セカンドの力試しをされる、公認テストってトコだね、」

今回の合同訓練は英二にとって、その実力を公認させるためのテストでもある。
既に自分は警視庁山岳会でも実績と実力を認められ、バックが後藤と蒔田であることも納得されている。
けれど英二は違う、元は一般枠で採用された上に山の経験すらなかった、この置かれる立場を英二は改めて口にした。

「警視庁でも全国警察でも、日本の山岳会でも光一の実力は認められている。そのアンザイレンパートナーに俺が相応しいかどうか?
それを本当は、皆が危ぶんでるって解かるってるよ。三スラや滝谷とかも完登出来たけど、まだ俺は山の経験がやっと1年ってとこだ。
それに光一とふたりで登ってるから、どれも非公式な記録だよな?だから今回、他の部署の人に俺の完登を見せて公認される必要があるな?」

経験年数は無くても実力は有る、それを英二が示す場として後藤副隊長と蒔田地域部長は遠征訓練の参加を決めた。
警視庁山岳会の2トップであり両親の友人が決めた意図に、光一は愉しい気分と答えた。

「だね、今回は俺たちだけマッターホルンとアイガーの北壁を連登する。他のヤツは北壁アタックは片方だけだ、北壁はキツイからね?
だから宮田の連続アタックは無謀だ、そう皆は言ってるらしいけどさ。でも、後藤のおじさんも蒔田さんも無謀だなんざ思っちゃいない、
青梅署の皆も宮田なら出来るって信じてるよ、おまえの実力と努力を知ってるやつは皆そう思ってる。たぶん富士吉田署も思ってるだろね?」

まだ山岳経験1年に満たない英二、それでも信望は厚くなり始めている。
この事実が嬉しくて笑った隣から、本人は不思議そうに訊いてきた。

「富士吉田署も?どうして?」

どうして山梨県警の所轄が自分を認めてくれるのだろう?
そんな貌が可笑しくて、笑って光一は英二の額を小突いた。

「おまえ、冬富士で遭難救助したよね?あの学生のこと忘れてんの?」
「あ、それか、」

もう半年前の記憶に笑った英二の貌は、本質の恬淡とした無欲が明るい。
こういう面も好きだと見つめながら光一は、明確なトーンで信頼を告げた。

「おまえの山の姿をいちばん見てるのは、俺だ。英二の実力と運は誰より俺がよく知ってるよ?だから世界で一番に俺がおまえを信じてる、
信じているから明日も明後日も、俺は本気を出させてもらうよ?英二にはお初の山だけどね、だからこそ、本気の俺についてきて欲しいね、」

初めての山、それも三大北壁に数えられるマッターホルン北壁。
そこで本気で登攀する自分のペースに着いていくことは、簡単な事じゃない。
その「簡単な事じゃない」を要求する意図へと英二は微笑んでくれた。

「光一のペースに着いて北壁を登れたら、簡単じゃないアタックを俺が出来たことになるな?そうしたら公認せざるを得ない、その為だろ?」
「そ、このテストに完勝するんならね、いちばん手っ取り早い方法だろ?」

これが一番に影響力が大きく、英二のバックアップになるだろう。
その決断への真摯を真直ぐ見つめて光一は、はっきりアンザイレンパートナーへ告げた。

「でも約束してよね?無理だと思ったら必ず、すぐ俺に言え、」

この事だけは約束してほしい、無理は山でのリスクを肥大化させるから。
どうか無事に共に完登したい、瞬間をずっと共に歩き続けたい、この願いに光一は口を開いた。

「無理は事故に繋がる、それは却ってマイナスだ。絶対に無理するな、必ず自己申告しろ。それが出来ないなら俺は、最初から手加減する。
英二は正確に自分の調子を把握して、無理のないクライミングが出来る。そう信じているから俺は、本気だして登ろうって決められるね、
だから約束してよね?少しでも無理があったら、ヤバいって判断したら、必ず自己申告しろ。その判断を信じて俺は、挑戦したいからね、」

英二の判断を信じている、だから本気で挑戦をすることが出来る。
この信頼を告げたザイルパートナーは、嬉しそうに微笑んでくれた。

「うん、無理って思ったら必ず言うよ。必ず無事に帰るって周太とも約束してるから、信じて大丈夫。光一との約束だってあるだろ?」
「だね、俺との約束キッチリ果たしてもらうからね?そのためには自己申告の約束も、ずっと守り続けろよ?」

これなら大丈夫かな?嬉しく笑って光一はグラスに口付けた。
ゆれる白ワインに黄昏きらめき朱がとけて、あわい赤に酒は色彩を変える。
酒も空気も染める最後の陽光に、岩壁は黒と赤に耀いて深紅の薔薇を想わす。
壮麗な山に咲き誇る落陽の華、その儚く眩しい瞬間を見つめる隣から綺麗な低い声が尋ねた。

「明後日の北壁、目標タイムは?」
「それ、言っちゃってイイ?」

笑って振向いた隣、切長い目は真直ぐ受けとめてくれる。
大好きな懐かしい俤と似て安らぐ、けれど熱情まばゆい眼差しに鼓動が舞う。
この昂揚は待ち続けた約束たちの喜び、その幸せを見つめた先でアンザイレンパートナーは静かに微笑んだ。

「うん、言っちゃって良いよ?その方が俺も心構えが出来るから、」
「よし、別嬪パートナーのお許しが出たね?」

この答えを待っていた、幸せで笑って光一は英二を見た。
そして呼吸ひとつ微笑んで、ずっと待ち続けた約束の夢を明後日に懸ける現実に変えた。

「シュミッドルートを2時間だ。ヘルンリヒュッテを4時に出て、俺をトップにコンティニュアスでいく。ヤってイイ?」

マッターホルン北壁・シュミッドルートは標高差1124m、完登の世界最短記録は1時間56分40秒。
そこへの近似値へ挑戦しようという誘いは、本当は未だ英二には厳しいかもしれない。
それでも今この時に登っておきたい、この今「23歳」である英二に夢を駈けさせたい。
この申し出への信頼と祈りの向こうから、英二は綺麗に笑って応えてくれた。

「いいよ。速く登った方がマッターホルンは安全だし、とにかく着いていくよ、」

本当に片道2時間で登攀すれば頂上に6時、日の出の頃に到達できる。
それならヘルンリヒュッテに午前中に充分戻れる、この「午前中」がマッターホルンでは安全に繋がらす。
後は天候さえ恵まれたら大丈夫だろう、そんな考えの正確さも嬉しくて光一は愉快に笑った。

「よし、決まりだね、」







(to be continued)

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soliloquy 建申月act.4 Venus―another,side story「陽はまた昇る」

2012-12-11 04:17:57 | soliloquy 陽はまた昇る
夕星、道しるべに輝いて
第58話「双璧」7と8の幕間です



soliloquy 建申月act.4 Venus―another,side story「陽はまた昇る」

From :宮田英二
subject:北壁2
添付ファイル:アイガー山頂とメンヒの銀嶺
本 文 :アイガー北壁、3時間かからず登れました。無事にクライネシャデックのBCまで戻ったよ。
     今11時前、ふたりとも元気です。これからBCを回収してグリンデルワルトに戻ります。
     そしたら風呂入って昼飯だよ。スイスの食事も旨いけど、周太の飯が恋しい。


開いたメールの文面は、アルプスの光映す青と白がまばゆい。
薄暮に沈む街路樹の木蔭、輝かしい写真と文章に周太は微笑んだ。

「…よかった、」

そっとこぼれた想いに、瞳の底から熱あふれ零れる。
ひとすじ頬伝う涙に笑顔ひろがって、指先は「返信」を押した。
携帯電話のボタンを操作しながら考え、まとめた想いを言葉に変えていく。


T o  :宮田英二
subject :ありがとう
本 文 :アイガー北壁おめでとう、そしてお疲れさまでした。ご飯ちゃんと食べてね。
     俺もこれから飲みに行ってきます、手塚が誘ってくれたんだ。美代さんと先生も一緒です。
    

書いて読み直し、すこし考えてしまう。
英二の「周太の飯が恋しい」が嬉しい、けれど作ってあげるタイミングがあるのか解らない。
それでも、求めてくれるのなら応えたくて考えて、まとめた答えを付け加えた。

T o  :宮田英二
subject :ありがとう
本 文 :アイガー北壁おめでとう、そしてお疲れさまでした。ご飯ちゃんと食べてね。
     俺もこれから飲みに行ってきます、手塚が誘ってくれたんだ。美代さんと先生も一緒です。
     明日は家に帰るね、御惣菜の作り置きもしておきます。

出来上がった短い便りに微笑んで、そっと送信ボタンを押す。
送信されていく画面を見つめながら遠い名峰を想い、8時間の時差を心は超えていく。
いま真昼の光にある婚約者の横顔は、どんなふうに笑ってくれているだろう?

…どうか幸せでいてね、昼も夜も、朝も

スイスの日没は今21時、あと10時間で夜は英二の許に訪れる。
そして恋人達に初めての瞬間が微笑むだろう、その幸せを自分はここから祈りたい。
この心は泣けない涙に濡れても良い、だからどうか今宵ふたり、幸せであってほしい。
そんな祈りに微笑んで携帯を閉じ、ポケットにしまうと街路樹の下から通りへ歩き出す。
梢の香から排気ガスの匂いへ変る空気を歩く、その道にふと上げた視線へと一点の輝きが映りこんだ。

「あ、…宵の明星?」

きらめく一番星が、残照の空に光る。
あの星は10時間後にアルプスへ輝くだろう、それを恋人は見るだろうか?
もし見るのなら幸せな笑顔で見つめてほしい、そんな祈りに夕星へと周太は微笑んだ。


夕星“Venus” 金星または“Lucifer”
光輝と高潔の星は唯一神に仕える至高の天使、かつ堕天使の総帥たる魔王。
そして、光もたらす者。





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告知日記:秋の名残

2012-12-10 20:54:04 | 雑談
色彩の豊穣、冬向かう前に



おつかれさまです、こんばんわ。
画像は10月の三頭山です、前にUPした写真と同じ場所を別カットにて。
紅葉は赤と黄色のイメージが強いですけど、白い葉もあるんですね。

第58話「双璧」8と9の加筆校正が終わりました、手塚と湯原の飲み会シーンです。
今回の「双璧」は宮田と国村の北壁に向きあい、第4の男・手塚賢弥とのターンになっています。

朝一UPの第58話「双壁K2・7」をこのあと加筆校正します。
そのあとに短編を一本UPの予定です、湯原ターンにて。

取り急ぎ、





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第58話 双壁side K2 act.7

2012-12-10 07:26:59 | side K2
「輝」そして、より高みへ



第58話 双壁side K2 act.7

高度四千、その境界をブライトホルンに超えた。

―英二は?

視線は前を見ながら、意識1/4に背後の呼気を窺わす。
その背中へと規則正しい呼吸は頼もしい、リズミカルな雪踏むアイゼンも響く。
いま聴こえる2つの音と見つめる銀嶺の輝きに、明るい安堵の吐息が白く笑った。

「よし、大丈夫だね、」

機嫌良く笑ってサングラス越し、光一は先を見た。
登りゆく痩せ尾根は頂点に向かう、その先に広がらすのは遥かなる蒼穹の世界。
そんな高き青へ至ろうと延びる白銀の稜線、この雄渾まばゆい天の道に懐かしい声が響く。

―…銀色の竜の背中だよ、光一?僕たちは今、山の神さまの背中を歩かせてもらっているんだ、

冬、山の神は白銀の竜となって雪陵に眠る。

そう雅樹が教えてくれたのは4歳の晩秋、初雪の夜だった。
いつもどおり金曜の夜、雅樹は奥多摩に帰ってくると光一を迎えに来てくれた。
吉村の実家に着くころ雪は降りだして、夕食は白銀ふる窓に会話が咲いた。
そして風呂の時間は雅樹とふたり、湯に浸かりながら窓を開けて雪を見た。

「ね、雅樹さん。初雪だね、明日は新雪だよ?雪山に登れるね、」
「うん、雪崩の心配が無かったら良いよ、」

そう約束して笑ってくれた貌は、湯の紅潮まばゆかった。
濡れた黒髪かきあげる長い指は桜いろ映えて、綺麗で嬉しくて、その指に指を絡め笑いかけた。

「明日は雪崩は無いね、今夜の冷え込みは明日も続くよ?きっと登れるね、」
「じゃあ大丈夫かな?光一の観天望気は当たるからね、」

絡めた指を長い指に受け留めてくれながら、薄紅あざやぐ笑顔は優しく美しい。
その貌が嬉しくて大好きで、豊かな湯のなか抱きついて頬よせた。

「そうだよ、俺のは絶対に当るね?ね、雅樹さんっ、明日はきっと石尾根が綺麗だよ、雲取山に行こ?天辺から富士山も見えるね、」
「うん、きっと綺麗だね。富士山も真白だろうし、雲取でピークハントする?」
「する!三角点タッチしようね、雅樹さん、」

笑いあい抱きとめてくれる腕は、頼もしかった。
温かな湯を透かしてふれる肌、伝わる鼓動、深い声、湯気に清々しい石鹸の香。
山と雪の話に笑いあい、大好きな人を独占めにふれあう風呂の時間は幸せだった。

「山桜も雪化粧だね、登る前と後、ドッチで逢いに行く?」
「そうだね、後の方が良いかもしれないね?もし雲取で時間が掛かったらいけないから、」
「だね?雅樹さん、雪合戦もしよ?俺、きっと雪団子つくるの上手くなってるよ、立派な泥団子が作れるようになったからね、」
「うん、きっと上手になってるよ。光一、逆上せてないかな?そろそろ出ようか、」

訊いてくれながら長い指が前髪かきあげて、額くっつけてくれる。
その感触が嬉しく微笑んで、大好きな気持ちと雅樹に抱きついた。

「うん、出る。ね、抱っこしてってよ?」

抱っこして?

そう自分からねだる相手は雅樹だけだった。
よく「可愛い」と抱きたがる大人は多かった、けれど自分から手を伸ばしたいのは唯ひとり。
そんな自分に雅樹は微笑んで、いつも大らかに懐を広げ抱きとめてくれた。

「甘えん坊だね、光一は、」

あのときもそう笑って、雅樹は抱っこしたまま風呂から上がってくれた。
温まった体を拭いパジャマに着替え、雅樹の祖父母におやすみを言って布団に入る。
いつものよう包んでくれる懐は温かくて、居心地よくて幸せで、嬉しくて眠るのが勿体ない。
もう少し起きていたい、そんな気持に笑って自分は雅樹にねだった。

「雅樹さん、お伽話して?なんか雪山の話とかない?」
「雪山の話か、そうだね…」

すこし考えるよう首傾げ、切長い目が微笑んでくれる。
嬉しく見つめかえす先、穏やかな美しい瞳ひとつ瞬いて深い声が教えてくれた。

「冬、山に雪が降るだろ?そういう時はね、山の神さまが銀色の竜になって眠る時なんだ、」
「神さまが、雪で竜になるワケ?」

聴き返しながら頬よせた懐、パジャマを透かし清雅な香が華やぐ。
湯上りの濃やかな香は山桜を想わせて、その馥郁にゆるやかな鼓動が優しい。
大好きな香と愛しい音に温められる幸せに、深い声は「山の秘密」を語ってくれた。

「そうだよ、神さまは雪が降ると竜になるんだ。きれいな銀色の竜になって雪と眠りながら、空の夢を見て力を蓄えているんだよ。
そうして雪から力を貰ったら竜は空に昇るんだ。だからね、山から雪が溶けてなくなった時は、山の神さまが空に昇った時なんだよ。
雪はね、空が山の神さまにプレゼントする元気の素なんだ。そして溶けた雪は山の木に抱っこされて春を待つ、それが川の水になるんだよ、」

綺麗な穏やかな声が語る物語は、冬山の秘密がきらめく。
天からふる雪と山と川、その3つに廻らす「元気の素」に自分は訊いてみた。

「ね、空の元気が川の水になるってコトはね、いつも飲んでる水にソレが入ってる?」
「そうだよ、入ってるよ。そしてね、川の水は海に流れこむから、海の塩にも入ってる。だから水と塩は人間の体にも大切なんだよ、」

優しい笑顔と声は雪を語り、空と山と海に水が繋がれる理と、塩と水の意味を解かりやすく教えてくれた。
雪ふる夜の物語に白銀の壮麗を想う時間は静かで、布団と体温に包まれる温もりは幸せだった。
そうして教わったことを想いながら懐に安らいで、大好きな切長い目を見つめ尋ねた。

「じゃあ雅樹さん、雪が降ってる今って、山の神さまが竜になる真っ最中ってコト?」
「そうだよ、きっと奥多摩の山は今、神さま達が竜になっている。雪の山を歩く時は、竜になった神さまの背中を歩いてるんだよ、」

問いかけに応える声も眼差しも穏やかで、優しく髪を撫でてくれる掌は大きく温かかった。
静かな温もりは幸せで、微笑んで頬よせるまま眠りについて朝、唐松谷から雲取山へと登った。
そして見た新雪きらめく石尾根の稜線、あざやかに延びゆく白銀の上でまばゆい笑顔が教えてくれた。

「これが銀色の竜の背中だよ、光一?僕たちは今、山の神さまの背中を歩かせてもらっているんだ、ありがとうって気持ちで登ろうね、」

綺麗な深い声は白い吐息に微笑んで、十九歳の青年は蒼穹へ向かう銀竜の背を見つめていた。
その横顔は紅潮あわく輝いて、真直ぐな眼差しに山への深い愛は穏やかに熱く、透けるよう明るい。
あの美しい眼差しも声も抱きしめて今、登っていく雪稜は標高4,000mを超えた頂点に繋がっている。
あのとき並んで見つめた雲取山頂2,017m、その倍の高みへと今、白銀まばゆい神の背を英二と辿っていく。

―雅樹さん、英二も高度に強いよ、やっぱり山の神に愛される男だね。英二しか俺のパートナーは出来ない、だから護ってよ?

懐かしい愛しい俤に今、共に登っていくパートナーを祈る。
この自分とアンザイレンザイルを繋ぎ夢へ駈けていく、それが出来る唯一の相手。
この相手を今度こそ離したくない、ずっと共に登って生きたい、そんな願いと白銀の道を辿っていく。
そうして登る背後をアイゼンの音が続いてくれる、その気配が時おり揺らぐようで懸念が傷んだ。

―英二、実家と葉山に行った後から変だよね?

2週間ほど前、英二は自車を取りに実家へ顔を出している。
そのまま周太を連れて葉山に住む祖母の許へ行き、川崎の家で1泊して帰ってきた。
その帰路に周太を新宿まで送り、その直後に「亡霊」騒ぎを新宿署で起こしている。

―…ココアをぶっかけてやったんだよ、古い血液みたいで…あの署長、いま夢のなかで土下座してると思う?

そんなふうに「亡霊」の真相を告白した英二の貌は、凄艶だった。
周太の父親を殉職に追いこんだ復讐、その目的に向かう端正な美貌は冷たい酷薄、けれど底は深い熱情が優しい。
本来は生真面目で穏やかに優しい英二、だからこそ敬愛する馨を死なせた「あの男」が赦せなくて灼熱の冷酷をまとう。
そんな英二の一面を見るたびに、雅樹と英二の違いに気がつかされて「別人」なのだと安堵する自分がいる。

―すごく優しいのに残酷で、別嬪で賢くてさ、ほんとに天使と悪魔ってカンジだよね…そういう英二なのに何を悩んでる?

元から哲学的思考の英二は、考え込みすぎては何かと悩んでいる。
けれど賢明だから大概は回答を見つけ出す、それなのに今、この揺れるような雰囲気は何だろう?
まるで見えない迷路でも彷徨うように、時おり意識が目を瞑るような瞬間がアンザイレンのザイルに伝わらす。
こんなふうでは危ない、その注意を喚起したくて光一は背後へと声を透した。

「ここからスノーブリッジだよ、両側がクレバスだけど、落っこちないでね?」
「ああ、落ちないよ、」

綺麗な低い声が笑って応える、その瞬時にザイルの向こう意識が鋭利になった。
こういう切替スピードが英二は器用と言えるほど反応速度に優れている。

―この切替の速さがあるから英二、考え込んで歩いても無事なんだよね、

集中力を器用に使い分けられる、そんな才能が自分のアンザイレンパートナーにはある。
この才能も雅樹とは違う点で、集中力と客観視点を同時並行させる意識の分割が雅樹は巧かった。

―よく似てるけど、ホントに全然違うね?ふたりはさ、

想いながら微笑んで登っていく、その視界は雪稜と空を観察し、聴覚は雪と氷と風の音を聞いている。
肌の体感温度と氷雪の融解スピードを計り、クレバスの罅割れる聲を聴き分け、観天望気の感覚は奔っていく。
そんな意識野と並行して思考は廻る、そういう自分は雅樹と同タイプで、だから英二の感覚は面白い。

―ホント英二って面白いよね、別嬪で賢いのにちょっとドジでさ、その癖に計算高い悪魔だね?

ほんと面白い、そして惹かれる。
天使より悪魔の方が美しい、だから人間は悪の誘惑に堕ちやすい。
そんな文章があるけれど、両方を兼備する存在が居たら惹き込まれて当然だろう。
善と悪、明と闇、光には陰翳、冷静と情熱。そんな対照が同居する様相は「山」と似ている。

―…山は楽しいね?でも危険も多くて遭難する方もある、山の危険を利用して自殺する人もいる
   山と人間を廻る『死』の関係に反抗したくて、僕は山ヤの医者になるって夢を決めたよ…
   山はね、人間に命を与える場所でもある…生まれた光一を抱っこして体温を感じた瞬間、自然とそう想って涙が出た
   山は人間を生かす力もある…山を愛してる、命を生かす力を手助け出来る医者になりたい

生と死、誕生と終焉の「生命」が見せる対照の姿を山に見つめて、雅樹は山ヤの医師を夢に懸けた。
あの深く美しい声の言葉たちは時おり心響き、懐かしく慕わしくて、尚更に愛しくなる。
そして今、標高4,165mの頂点を見つめる輝きに、逝きし想い人の俤と微笑んだ。

「ほら、頂上だよ?」

振向き笑いかけて、アンザイレンザイルを手繰り寄せていく。
ザイルの向こう綺麗に笑ってくれる、その笑顔が嬉しくて右掌を差しだし大好きな人の右掌を掴んだ。
そして見渡した山頂は横長に狭く、そのライン伸びやかな白銀に朝陽が輝いた。

Breithornブライトホルン、標高4,165m。

スイス、イタリア国境のヴァリスアルプスに聳える4,000m峰。
蒼穹に抱かれた氷雪の世界は遥かへと連なり、360度の視界へと高峰は白銀の海をなす。
母国のどこより高い銀嶺は朝陽きらめいて、光ふる冷気に氷河の風は吹いていく。
まばゆい白銀の風にダークブラウンの髪きらめかせ、英二は綺麗に笑ってくれた。

「きれいだ、すごい世界だな?」
「だろ?あれがモンテローザ、リスカム、で、マッターホルンの東壁だよ、」

並んで指さす高峰に、隣はサングラスを透かし真直ぐ見つめる。
ここに初めて登った8年前は後藤と二人だった、けれど今はアンザイレンパートナーが隣に居てくれる。

―あのひとの婚約者だけど、でも、俺だけのアンザイレンパートナーって想って良い、よね…

自分だけのアンザイレンパートナー、その存在が嬉しい。
ずっと自分と一緒に山を登ってくれる相手、山では自分を最優先してくれる相手。
自分が生きる世界「山」で共に生きてくれる、その綺麗な笑顔が言ってくれた。

「俺、自分がここに来れるって思ってなかった、光一に逢うまで、」

綺麗な低い声が微笑んで、見つめてくれる眼差しに遠い愛しい言葉が重なる。
いま隣に佇む深紅のウェア姿はダークブラウンの髪、その姿は懐かしい人の色とは違う。
それでも同じような言葉を言い、サングラス透かす眼差しの穏かな愛情が似ていて、泣きたい。

―俺のほうこそ来れるって思ってなかった、こうして二人並んで笑える時には…英二に逢うまでね、

自分が生きるのは遥かな蒼穹に近い世界、そこは希薄な空気と凍える冷厳が支配する。
誰でも生きられる訳ではない世界、その光輝く白銀と広やかな青が自分は愛しくて離れられない。
だから単独行でも生きたかった、けれど本当は誰かと一緒に生きたかった、幼い日のよう「山」で笑いあえる相手に逢いたかった。
それでも相手は見つからなかった、山を愛し山を知り、山に愛される誇り高い力を持ちながら自分と同等になれる相手は居なかった。
それでも諦められなくて本当はずっと探していた、そして去年の秋初め「英二」は自分の前に現われた。

―…お話し中に失礼します、国村さんですね?

青梅署単身寮の談話スペース、先輩たちと話す合間をはかって長身は微笑んだ。
ずいぶんと綺麗な低い声だな?そう思って振向いた視界の真中で、端正な白皙の貌は穏やかな微笑ほころんだ。

「この度、御岳駐在所へ卒配になりました宮田英二です、よろしくお願いします、」

名乗って、ダークブラウンの髪ゆらせ頭を下げ、上げる。
そして真直ぐ見つめてくれた穏やかな切長い目に、心臓が止まった。

「…ま、」

雅樹さん?

そう呼びかけようとして、声は止まった。
いま周囲には同僚たちが居る、そう意識が止めて呼びかけは停まり冷静が戻る。
ひとつ瞬いて見た長身の姿は似ていた、けれど髪の色も声も違う、なにより陰翳の存在が違っていた。
似ている、けれど全くの別人。そう気がついて落胆と安堵へと笑って、自分は立ちあがった。

「また背が高いね、何センチですか?」
「はい、183cmです、」

ほら、雅樹より身長が2cm高い。けれど184cmの自分と1cm差になる。
身長的には自分とバランス良いかな?そんな同じ目の高さの後輩に笑いかけた背後、先輩たちが笑った。

「国村と宮田くん、背格好がなんか似ているな?」

その言葉に、諦めかけた夢が瞳を披いた。
自分と背格好が似ているのなら、ザイルパートナーとして釣合うだろうか?
そう想い、けれどすぐ危ぶんだ。英二の山岳経験が乏しいことは御岳駐在所長の岩崎に聴いていたから。
そんな男がこの自分と組んだら「殺す気か?」って感じだよね?そう想った自分に英二は微笑んで、真直ぐ告げてくれた。

「国村さん、私は山の経験が1年もありません。それでも山岳救助隊を希望しました、だから、どんな訓練も絶対に弱音は言いません。
最初は不甲斐ないことも多いと思います、ご迷惑も沢山かけると思います。それでも私は自分を諦めません、よろしくお願いします、」

よく自分自身を解かってるんだね?
そう想って見直した切長い目は、強靭な意志が真直ぐ光一を見ていた。
その視線が懐かしい人とそっくりで、かすかな希望と願いをそこに見つめ始めていた。

『もし、この男に素質があるのなら、自分のアンザイレンパートナーになるかもしれない?』

確かに経験年数は0に等しい、けれど雅樹のような高い素質の持主なら?
もしも雅樹と同等の適性と能力を持ち、雅樹のように地道な努力が出来る男なら可能性がある?
そんな期待に想ってしまった、この男が自分と似た体格を持ち、雅樹の俤と似ているのは「雅樹の意志」の証かもしれない?

『雅樹が約束を果たすために、この男を自分の前に連れてきた?』

こんなこと夢のようだね?そう想いながらも、もう信じ始めていた。
そんな願いに縋るよう英二を見つめ、英二の訓練に真向から付きあって「証」なのか確かめた。
その全てに英二は応えてくれた、そして冬富士の雪崩に呑まれた光一の体を救い、槍ヶ岳北鎌尾根で光一の心を救ってくれた。
だから想ってしまう、やっぱり英二は雅樹が遣わした唯ひとりの相手だと信じたい。

自分の唯ひとりの“Messiah”かもしれない?

きっとそうだともう信じている、だって英二は雅樹が愛した「山桜」ドリアードに再会させてくれた。
雅樹の俤を宿し、雅樹の恋した精霊に愛され、雅樹のように山と医療へ意志を抱き夢を懸けて生きている。
その全てに相似しながら英二と雅樹は正反対、だからこそ雅樹は、雅樹に遺された光一と「約束」の為に英二と逢わせてくれた。
そう信じている、こんなにも雅樹を信じたがって生と死に別れて尚、ずっと愛されたがっている。

―雅樹さん、こんなにも俺は信じたがってるね?約束を護るために英二を連れてきてくれたって…俺を大切に想ってくれるからだって、ね?

そして今この瞬間も約束は護られ、願いは叶っていく?
その瞬間をありのまま見つめたくて、光一はサングラスを外した。
そして見た隣の眼差しは穏やかな愛情に静かで、その静謐の底から激しい熱情が真直ぐ見つめ返す。
この激しさが雅樹とは違う「英二」として惹かれている、そんな想いのまま光一は正直に笑った。

「きっとね、最初から決ってたよ、おまえがココに立つことはね。そして明後日には北壁を登って、あそこに立っているよ、」
「明日、ガイドからテストを受けて合格したら登れるな、」

綺麗な低い声で答えながらサングラスの横顔は、真直ぐに氷食鋭鋒の頂点を見つめる。
アルプスの女王マッターホルン、三大北壁の1つを初登する英二は光一のビレイヤーとして挑む。
その初登に向けて明日、リッフェルホルンで行われるロッククライミングのテストを受けに行く。
この合格を得られないならマッターホルンは、北壁どころかノーマルルートで登る資格もない。
けれど英二ならきっと大丈夫、この信頼へと光一は綺麗に笑いかけた。

「大丈夫だね、おまえなら」

三大北壁の一峰マッターホルン、その頂点に続く道は今、眼前にある。
16年を幾度も山図で辿ったルート、もう8年前の初登で得た現場感覚をデータにも反映させた。
きらめく夏の約束を叶えるアンザイレンパートナーは今、この隣で鋭鋒を見つめ穏やかに微笑んだ。

「ありがとう、光一がそう言ってくれるから俺は、自分を信じられるよ?明後日は北壁を登ろうな、」

応えてくれる低い声は穏やかに明るんで、けれど激しく勁い。
綺麗な微笑は静かに情熱はらみ、標高四千の白銀と青に深紅のウェア姿は風に輝く。
誇らかに高潔まばゆい紅蓮の花、そんなパートナーに心ごと眼差し奪われながら光一は微笑んだ。

「信じてるよ、俺のアンザイレンパートナー、」

信じてる、自分のアンザイレンパートナーと生きる明日を信じ続けたい。
そんな想い16年の星霜を笑って光一は、ブライトホルン山頂から約束の場所を見つめた。

―あの場所へ2時間だね、

標高4,478mマッターホルン、その蒼穹を示す約束に光は輝く。








(to be continued)

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soliloquy 建申月act.3 Attente―another,side story「陽はまた昇る」

2012-12-09 17:47:16 | soliloquy 陽はまた昇る
待合わせ、この想いは遺して
第58話「双璧9」その後のワンシーンです



soliloquy 建申月act.3 Attente―another,side story「陽はまた昇る」

この風は、樹幹から香をまとい吹きぬける。
ふる光は梢の木洩陽、遥かな季の輝きに心を明るます。
ちょうど一年前の朝、このベンチに並んで腰かけた隣は綺麗な笑顔ほころんだ。

「きれいだな、どの木も。森みたいな庭だな、」

まぶしそうに細める切長い目の、濃やかな睫に陰翳は蒼い。
穏やかに深い翳りから微笑んだ眼差し、それが綺麗で優しくて見惚れそうだった。
綺麗な横顔が自分の隣、父のベンチに寛ぎ遺愛の庭を褒めてくれる、それが嬉しいのに伝え方も解からない。
ただ素直に笑いかけられない頑な、そんな凍えた心がもどかしくて、それでも精一杯に言葉を口にした。

「ありがとう…」

ただ一言だけ、それでも隣は笑ってくれた。
幸せに笑って常緑樹の梢を仰ぎ、庭を吹く森の風へと瞳細めて和やいだ。

「俺の方こそ、ありがとな。この庭、湯原とお母さんが大切にしてるんだろ?そこに座らせてくれて嬉しいよ、すごく居心地いい、」

居心地いい、そう言われて嬉しかった。
自分が大切にする場所を好んでくれる、それが幸せに想えた。
嬉しくて、けれど何て答えて良いのか解からなくて、少しでもと言ってみた。

「また来たらいい、」

そう言った本音は、本当は「また来てほしい」だった。
そんな言い方も解からなかった一年前の夏、それでも想いは通じ合えたと思う。
だってベンチに並んだ隣の笑顔は、幸せに喜びほころんでくれたから。

「うん、また来させてほしいよ?この家ってなんか寛げるよ、どこよりもね、」

どこよりも寛げる。
そう言ってくれた想いを、まだ自分は全てに気付いていなかった。
もう今は解かる、英二が何を求めていたのか、この自分に求めてくれるのか?
けれどまだ解からなくて、それでも嬉しいままに少ない言葉から自分は応えた。

「ん、良かった…また来たら良い、」
「ありがとう、」

短いけれど大切な言葉で、綺麗な低い声は笑ってくれた。
穏やかな切長い目で真直ぐ見つめてくれながら、眼差しに自分だけを映して微笑んで。
ただ微笑んだ言葉少ない静かな朝、けれど満ちたりた瞬間に自分の孤独はそっと抱きとめられていた。
けれど今、自分は独りベンチに座り、常緑樹の空を見上げている。
見上げる空は青く澄んで、その遠い夜への祈りを想う。

…お願い、今は夢でもお互いだけ見つめて?…どうか俺のこと、忘れていて?

今、アルプスの山麓は深い夜の時間。
アイガーを見上げる部屋に大切な人は、初めての瞬間に見つめ合う。
その瞬間への傷みを自分の心に知りながら、それでも幸福を祈る温もりを贈りたい。
もう泣かないと決めた自分の涙、この涙の分も幸せに泣いて、ふたり深い絆に微笑み合って?

…どうか幸せでいて、ふたりの初めての夜は

祈る想いにそっと、百日紅の紅と白が風に降る。
謎の華やぐ深紅、高潔まばゆい純白、ふたつ色彩のコントラストが俤を映す。
いつも深紅と黒の登山ウェアで山を駆ける英二、そして白と青のウェアに輝く光一の背中。
赤と白、ふたつの色の記憶を映して今、佇んだベンチに花は舞い降り「今」抱きあう二人を想わす。

誰より大切で、誰より綺麗な人。その人たちに幸せの瞬間をと祈り、けれど心は泣く。
いま見つめる花への想いと共に、遠く遥か8時間を隔てた夜への祈りを、そっと抱きしめる。
泣けない涙に生まれる泉の深く、祈りの真実は密やかに瞬きがら、勁い優しい想いに変っていく。

「英二?ちゃんと待ってるから…掃除して、布団干して待ってるよ?この庭で、」

想い声にこぼれて、ひとりごと木洩陽にきらめき融ける。
この想い、声を消して届けてほしい。ただ幸せを祈る想いだけを大切な人へ、名も知られず贈りたい。
あの夏に孤独を抱きとめてくれた瞬間たち、その喜びを今あの人の幸福へと変えて、密かに叶えて?
この心だけで生まれる涙に祈り温めて、紅と白の花ふる庭に独り周太は遥かな夜へ微笑んだ。

…どうか今、ふたりのいる時間は幸せでいて?

もう過ぎ去ってしまった夏、移ろった秋に冬、そして春の雪から変転した夏は今。





(to be continued)

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深夜日記:黄金の秋刻

2012-12-08 22:53:42 | 雑談
秋、光刻む



あわい金も黄金も、一木に魅せる黒い幹。
御岳山の楓は紅もあり、黄の色相も見せて山に季節を齎します。

昨日は第58話「双壁K2」もUP予定でしたが出来ず、楽しみにして下さる方いたらすみません。
いま第58話「双璧9」加筆校正中です、今夜中には終わらせたい所ですね。
日付変わる頃or明朝に「双壁K2」続編をUPするつもりでいます。
予定通り進まず、まあコンナ事もあるんですかね?笑

取り急ぎ、





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第58話 双璧act.9―another,side story「陽はまた昇る」

2012-12-08 04:25:31 | 陽はまた昇るanother,side story
希望、自らで立つこと



第58話 双璧act.9―another,side story「陽はまた昇る」

20時30分、ことんとグラスを置いて隣が財布を開く。
その向かいで青木樹医は財布を開くと、伝票の金額を置いてくれた。

「今日はご馳走しますよ、4人だけですしね。手塚くん、ゼミ生には内緒ですよ?」
「良いんですか?ありがとうございます、」

遠慮なく手塚が笑い、美代と周太も素直に礼を述べた。
そんな教え子たちに照れくさそうに微笑んで、靴を履きながら青木は笑ってくれた。

「じゃあ、お先に失礼しますね?のんびりオールして、男同士とっくり語り合っちゃってください、」
「はい、語り合っちゃいますよ。先生、小嶌さん、おやすみなさい、」

愛嬌ある笑顔が笑って、二人を見送る。
けれど周太は席を立ちながら、手塚へと笑いかけた。

「俺、出口まで美代さん送りたいんだ。ちょっと行ってきて良い?」
「うん、いいよ、」

気楽に頷いて眼鏡の奥、生真面目でも温かい目が笑ってくれる。
その温もりになにか寛いで、微笑んで周太は靴を履き二人と廊下へ出た。
少し歩いて出口の近く、立ち止まると周太は青木准教授を真直ぐ見て微笑んだ。

「先生、僕、8月一日の異動が決ったんです。大学は続けられると言われました、でも講義中に職場へ急に戻る時もあるかもしれません、
そのときは大変失礼ですが、途中で退席して宜しいですか?こんな我儘をすみません、けれど万が一があり得るので今、先にお詫びします、」

告げて周太は端正に頭を下げた。
その隣から美代が、息を詰めるよう尋ねてくれた。

「湯原くん、その異動って難しい部署に行くのね?」

綺麗な明るい目が哀しそうなってくれる。
警察官ならどの部署でも難しい、そんな現実に周太は笑いかけた。

「どこの部署も同じだよ?でもね、今よりは緊急のことが多い部署なんだ、だからお伺いしているんだよ、」
「そう…じゃあ、光ちゃん達と同じ感じなのね、」

ほっと溜息ひとつで美代は微笑んでくれた。
奥多摩で生まれ育った美代は、そこに立つ警視庁山岳救助隊の現実を肌で知っている。
それと重ねた理解に覚悟をしてくれた、そんな聡明で頼もしい親友に周太は頷いた。

「ん、同じ感じだよ?だから心配しないで、美代さんとの約束は守るから」
「そうよ、約束よ?大学受験の面倒見てね、森林学もずっと一緒に勉強する約束よ?ちゃんと守ってね、」

応えて笑ってくれる、けれど綺麗な明るい目に涙ひとつ零してくれた。
ほら、こんなに自分を心配してくれる友達がいる。この幸せに微笑んで周太はハンカチを美代に手渡しながら、准教授に向きあった。

「先生とも約束させて下さい、いつか中座しても僕は必ず帰ってきます。きっと先生から教えて戴くことを活かす道を探します。
だから申し訳ありません、中座する可能性があっても講義を受けることを認めて頂けませんか?少しでも多く、講義を伺いたいんです、」

8月になれば第七機動隊銃器対策レンジャーとして務めれば、緊急出動が任務になる。
こうした緊急性は警察官ならどの部署も同じ、けれど自分が向かう先は「死線」だと覚悟があるからこそ学びたい。
本当は中座したら帰って来られるか解からない、だからこそ一瞬でも多く好きな学問に夢を見つめ、生きたい。
そんな覚悟と願いと、希望に微笑んだ向かい青木樹医は静かに微笑んだ。

「私からも約束します、たとえ1分でも出席したら良かったと想える、そういう講義を出来るように私も頑張ります。
湯原くんは本当に時間が厳しいなか学んでくれるんですから、そういう君に学問の力を少しでも多く受け取って貰えるように。
中座するときも無断で退出して下さって構いません、だから安心して講義に出席してくださいね?1分でも1秒でも多く学んでください」

そんなふうに自分に言ってくれる、この想いが真直ぐ心響いてしまう。
嬉しくて、嬉しくて幸せで、温かい涙ひとつ呼吸に隠して周太は微笑んだ。

「ありがとうございます、」
「こちらこそ、ありがとう。君の言葉は私にとって最高の賛辞です、」

心うれしくて笑いかけた先、篤実な樹医は若々しい笑顔ほころばせてくれる。
この笑顔を信じて学んでみたいと想い、自分は植物学に飛び込んだ。その夢がまだ続けられる。

…嬉しい、こんなにも…本当にありがとうござます

どこまでも温かい喜びに微笑んだ隣、美代がハンカチで涙拭きながら笑いかけてくれる。
こんなふうに美代が泣くことは少ない、そんな涙を贈ってくれる親友に笑いかけ周太は准教授に確認した。

「それで先生、フランス文学の先生のお手伝いですが、期間はどのくらいですか?」
「はい、9月末までに終わらせたいと言っていました、秋からの講義で遣うテキストらしいので。大丈夫ですか?」

9月末までなら次の異動前だろう、それなら「緊急」もまだ少ない時期になる。
ほっとして周太は微笑んで頷いた。

「はい、9月末までなら時間も自由になりやすいと思います。よろしくお願いします、」
「よかった、では話を進めさせて貰いますね、」

そんなふう近い未来の予定を約束して、二人を見送った。
すぐに戻って個室の扉を開くと、グラスと本を手にする愛嬌の笑顔がほころんだ。

「お帰り、湯原。ちゃんと恋人との別れ、惜しんできた?」

やっぱり美代との仲を誤解されているらしい。
こういうのは面映ゆくて困ってしまう、気恥ずかしさに首筋の熱が昇りだす。
もう真赤になっているだろう衿元を気にしながら、周太は席に座ると微笑んだ。

「そういうのとも、ちょっと違うんだ。でも別れは惜しんできたよ?」
「あ?恋人じゃないんだ、じゃあ小嶌さんの謎かけの答えも違うんだな、」

意外だな?そんなふう眼鏡の奥が笑ってくれる。
その篤実な笑顔は明るく温かで、素直に好きだなと思えて周太は正直に笑いかけた。

「うん、美代さんは恋人じゃないよ?でもね、いちばん大好きで大切な、特別な友達だよ、」

美代は特別、それは生涯きっと変らない。
同じ夢を追う約束を初めてして、同じ人に初めて恋愛している。
二つの大切な「同じ初めて」の相手同士、それが美代と自分の関係だろう。
そんな大切な繋がりに微笑んだ向かい、愉しそうに手塚は笑ってくれた。

「それって恋人未満友達以上、ってヤツだな?」

恋人未満、友達以上。
そんな言葉に懐かしくなって、胸が痛む。
ちょうど一年前、もう過ぎた夏に見つめていた笑顔への想いが懐かしい、そして今少し、辛い。

…英二、いま光一と笑ってくれている?

懐かしい笑顔への想いに泣けない涙が傷む、この同じ瞬間を8時間に隔てられる人を想う。
それでも「隔て」の覚悟はとっくにしている、そう呼吸ひとつで周太は微笑んだ。

「ん、そうかもしれないね?親友って俺たちは呼びあうけど、」
「いいな、男女の親友って言うのもさ、」

頷いてグラスに口付けながら、明朗な声が笑ってくれる。
その愛嬌ある笑顔へと、今度は周太が質問してみた。

「手塚は彼女とか、いるの?」
「ははっ、湯原でもそういう質問するんだな?今はフリーだよ、俺」

何げなく訊いた質問に、生真面目な顔が可笑しそうに笑ってくれる。
そんなに自分が訊くのは変かな?そう首傾げた向かいで手塚が提案してくれた。

「この皿のもん片づけたらさ、俺たちも場所移ろうよ、」
「ん、どこに行くの?」

いわゆる「ハシゴ」というやつをするのかな?
そんな理解と箸を取った向かい、眼鏡の奥で明るい目は愉快に笑った。

「俺んちだよ、オールするんなら家飲みの方が安いし、のんびり喋れるだろ?疲れてたら寝ちゃってもいいよ、」
「え、いいの?」

家に泊めてくれるの?まだ話すの2回目なのに。
疲れてたらって気遣ってくれるの?今日は当番勤務明けだなんて知らない筈なのに。
色々と聴いてみたい想いと訊き返した向う、手塚は気楽に笑ってくれた。

「ダメだったら俺から言わないよ?ま、雑魚寝で申し訳ないんだけどさ、独り暮らしだから遠慮は要らないよ、」

そう言って笑ってくれる貌は明るく気さくで、愉しげでいる。
こんなふう学生なら気軽に泊まり話しこむ事は珍しくない、けれど自分にはそういう友達はいなかった。
でも今、目の前で誘ってくれる友達が笑っている、この「普通」が嬉しくて周太は素直に笑った。

「じゃあ、おじゃまさせて?家ってどこなの?」
「新宿からすぐだよ、頑張ると歩きで帰れるんだ。まだ9時前だから近所のスーパー開いてるし、食うもんと飲むもん買ってこ?」

食卓の皿を空にして、けれどまだ腹は余裕と言ったふう笑ってくれる。
昼時も手塚はカレーとうどんの両方を食べていた、きっと健啖な性質なのだろう。
なんだか自分の周りは食欲旺盛に囲まれているな?そう楽しい気持ちに周太は席を立ち、提案した。

「よかったら俺、なんか作るよ?台所、貸してくれるんなら、」
「それ良いな、俺も何か作ろ、」

笑いながら一緒に廊下へ出て、会計を済ませて外に出る。
誇りっぽい匂いに街路樹の緑が香って、ふっと周太は微笑んだ。

「ん、街中でも木の匂いするね?」
「お、ほんとだ。湯原、よく気づいたな、」

他愛ない会話に歩いて行く道は、摩天楼の光とネオンに排気ガスの匂い。
見上げる夜空はビル風に狭められ、それでも遥か遠い蒼穹へと繋がっている。
夜と昼、8時間という流れに繋がり隔てられた都会の真中で今、自分は「山」を夢見て歩く。
ここで感じるのは塵埃ほろ苦いような匂い、それでも街路樹が呼吸する夜の吐息は深く香って慕わしい。

…夜の木の匂い、英二の香と似てるね

心こぼれた独り言に微笑んで、夜を見上げる。
この夜が8時間経てばアイガーの麓に降る、そして英二と光一の瞬間が訪うだろう。
この今ここで自分が呼吸する夏の夜、その吐息は夜と共に移ろい8時間を経て、ふたりの夜へ降るだろうか?



シンプルな扉を開くと、青いカーテンと白い壁が目に映る。
本棚と低いテーブル、クッションとベッドが並んだ部屋は簡素でも清々しい。
警察署の寮とは違うワンルームマンションの雰囲気に、なにか楽しい気持ちと周太は微笑んだ。

「おじゃまします、すっきりした良い部屋だね、」
「物が少ないだけだよ、本は多いけどさ。鞄とか適当に置いてよ、」

照れくさげに笑いながら手塚は小さなキッチンに買物袋を置いた。
言われたようクロゼットの脇へ鞄をおろす、そして上げた視線にイーゼルとスケッチブックが映りこんだ。
木製の樋に立てられたダークブラウンの布張り表紙は大切そうで、周太は尋ねてみた。

「このスケッチブック、手塚が描いたもの?」
「あ、そうだけど、」

答えてくれる声がどこか気恥ずかしげに笑う。
その笑顔の隣に立って、買ってきたトマトを手に周太は微笑んだ。

「学校で手塚、絵を褒められると嬉しいって言ってたね?あとでスケッチブック、見せてもらって良い?」
「あー、恥ずかしいな?でも湯原なら良っか、」

困ったようでも楽しげに答えながら、まな板や包丁を貸してくれる。
洗ったトマトを切りながら、照れ屋らしい友達に尋ねてみた。

「ありがとう、なんで俺なら良いの?」
「湯原の絵が巧いから、かな、」

さらっと褒めて笑ってくれる、その貌が愛嬌に温かい。
この笑顔が手塚は懐っこくて話しやすいな?そんな友達へ周太は微笑んだ。

「ありがとう、褒めてくれて…でも、巧いと見せてくれるの?」
「うん、絵を描くヤツには見てもらうのも良いかな、って想うんだよな、」

頷き笑いながらも手塚の手は動き、トースターの天板にホイルを敷いていく。
その上へと慣れたふうに茸を裂いて並べると、丸ごとのピーマンも一緒に納めた。
すぐ着火して、卵黄と味噌を手早く混ぜ合せていく手許あざやかで、感心してしまう。
いま手塚は学部3年生で21歳、この年頃の男子としては珍しいだろうな?そんな感想に周太は尋ねた。

「手塚、料理って好き?」
「うん、好きだよ。ガキの頃から俺、結構やってるんだ。ウチは家族総出の林業でさ、ガキの手も欲しいんだ、」

愉しげに答えてくれながら卵味噌をトレイに乗せ、焼いた茸とピーマンも皿に移してくれる。
手早く簡単に作っていく、そんな手並みに料理が日常的に好きだと解かって何か嬉しい。
周太もトマトにモッツァレラチーズを挟み、軽く塩を振りながら微笑んだ。

「俺も料理、小さい頃から好きだよ。楽しいよね、」

小さい頃、料理好きだと言って「男のくせに」とからかわれた事がある。
あのとき哀しくて他人には言い難くなった、けれど今は素直に言って微笑める。
こういうのは嬉しいな?微笑んでトマトたちに蜂蜜をかける隣、手塚が言ってくれた。

「へえ、同じだな。でも湯原の皿はお洒落だよな、俺のって田舎料理なんだよ、」

笑ってくれながらトレイに肴を載せ、座卓へと運んでくれる。
二つの皿と箸にビールと酎ハイの缶を並べ、向かい合わせに周太も座った。
そんな周太にクッションひとつ勧めると、手塚は缶ビールのプルリングを引いた。

「よし、じゃあ2次会スタートな?今夜はトコトン飲んで喋ろう、」
「ん、よろしくね、」

笑って周太もオレンジ酎ハイのプルリングを外し、こつんと軽く缶をぶつけ合う。
それぞれ口つけ啜りこんで、ほっと息つくと互いに料理の皿へ箸をつけた。

「あ、旨い。蜂蜜ってどうかと思ったけど、旨いな?」

愛嬌の笑顔ほころんで、周太の料理にまた箸をつけてくれる。
その笑顔が素直に嬉しくて、笑って周太は口を開いた。

「カプレーゼっていうイタリアの料理なんだ、本当はバジルってハーブも使うんだけどね。蜂蜜を使うのは俺のオリジナルだよ、」
「これ良いよ、こんど実家でも作って家族に食わせるよ。その焼野菜、卵味噌は大目に付けて食ってみて?」

言われた通り素直に卵味噌を付け、丸ごと焼いたピーマンを齧ってみる。
その口許に自然な甘さ瑞々しい、焼ピーマンの味に周太は驚いた。

「おいしい、これってスーパーで買ったピーマンだよね?」
「な、旨いだろ?ピーマンって丸ごと焼くと全然味が違うんだよ、家の畑のだともっと旨いんだ。あと隠し味のニンニクと黒胡椒な、」

缶ビール片手に愉快な笑顔は教えてくれる、その質朴な明るさにほっとする。
眼鏡を掛けた生真面目な風貌、けれど愛嬌ある笑顔と大らかな目は明朗で清々しく温かい。
まだ話す機会も2度めの相手、それでも寛いだ気分と微笑んだ周太に手塚はスケッチブックを渡してくれた。

「好きなように見て良いよ?で、率直な評価を聴かせてよ、」
「ん、ありがとう、」

素直に笑って表紙を開く、そこに雄渾な樹幹が現れた。
きらめく木洩陽ふらす葉は萌黄から翡翠へと緑輝かす、その光輝まばゆい。
空を抱く梢からふる輝かしい陽光、その全てを見事な筆致に描いた樹木へ周太は微笑んだ。

「きれい…すごいね手塚?これは木曽に生えている木なの?」
「うん、俺んちの山にいる木なんだ、なかなか美人だろ?」

照れくさげに笑い、懐かしそうに眼鏡の奥が微笑む。
そんな笑顔にスケッチブックの樹木は、描いた掌の望郷なのだと気付かされる。
きっと手塚は故郷を愛しているだろうな?そう感じたままに周太は綺麗に笑いかけた。

「手塚、木曽が大好きなんだね?…この絵、木への愛情が温かい。本当に素敵な木だね、」

樹木は、物言わない。
けれど描かれた梢の幹も葉も、その光と陰翳に笑っている。
木は何も言わない、けれど想い煌めくよう樹木の姿はスケッチブックに聳え立つ。
こんなふうに絵が描けたら愉しいだろな?楽しく微笑んだ隣へと手塚は席をずらし一緒に絵を眺めてくれた。

「ありがとな。俺さ、絵と森のことはガキの頃から小さいプライドがあるんだよ。だから木の絵を褒められるの嬉しいんだ、」

巧みな絵、森への想い。
この2つが活かせる仕事を想い、周太は訊いてみた。

「手塚って、もしかして植物図鑑の制作とか、仕事にしたい?」
「うん、いつかはって思ってる、」

問いかけに眼鏡の奥、明朗な微笑が見つめてくれる。
缶ビールに口付けながら、手塚は口を開いてくれた。

「俺んちって林業やってるだろ?だから俺、卒業したら木曽に戻って家の仕事をやるつもりだったんだ。でも、親たちに言われてさ、
せっかく東大に入って勉強しているんだから、もっと広く世の中を見て来い。その後に家へ戻っても構わない、何か好きな道を探してみろ。
そう言われてさ、それで俺、好きな絵で森林学を描いてみたいって想って、植物図鑑の仕事も考えたんだ。それで練習した最初がその木だよ、」

絵で森林学を描く、その言葉が想い響かす。
植物学の世界では絵や写真の技術を用い、植生の詳細を解かり易く示して残す。
こうしたアプローチも大切だと、考え廻らす隣から日焼けした指がページを繰った。

「でな、これが奥多摩の水源林。この春に先生の調査を手伝わせてもらってさ、その時に撮った写真から描いたんだ、」

スケッチブックの四角い世界、そこに奥多摩のブナ林は広がった。
あわい緑まとう梢の幹はモノトーン、春浅い森のまばゆい白銀に木洩陽は温かい。
やわらかな緑たちの優しい空間、その世界への記憶と想いがスケッチブックに呼び覚まされた。

―…周太、あの雪崩の姿を想い出すと不思議な気持ちになるんだ

雲取山麓に抱かれたブナの森、その深奥に佇むブナの巨樹。
美しい大樹の元で、綺麗な低い声が穏やかに微笑んだ。

―…たしかに、あの雪崩で俺も国村も危険に晒された。けれどそれ以上に俺は、山の神様に会えたんだって想えるんだ。
   あのとき本物の竜に会えた、そんなふうに想えてしかたない。だから俺は、やっぱり雪山に立ちたいって想ってしまうんだ

あのときの言葉どおり英二は雪山を登り続け、三大北壁の2つを完登した。
そして今夜、あと8時間後にアルプスへ夜が訪れたなら、美しい山っ子を英二は抱きしめる。
唯ひとりのアンザイレンパートナーとして敬愛し、唯ひとり夢を追える相手と素肌で抱きあい、「恋人」として見つめ合う。
その現実への覚悟と祈りと、そして、どうしようもない寂寥が一瞬で瞳の奥を灼熱に濡らした。

「…っ、」

そっと嗚咽を密やかに呑みこむ。
静かに息吐いて微笑んで、いつものよう笑おうとする。
けれど隣から手塚は、大らかに笑って言ってくれた。

「湯原、今夜は俺のこと、郵便ポストって思って良いよ?」
「え、」

郵便ポストだと思うなんて?
どういう意味か分からなくて見つめた、その先で明朗な声は微笑んだ。

「前に見たんだよ、酔っ払いのオッサンが郵便ポストに縋って泣いてるとこ。その人、何でも言いたいこと言って泣いてたよ。
ああいう何でも言えるのってさ、相手が詳しく知らないことが気楽で言えるんだと思うんだよ?だから俺のこと、ポストで良いよ?
ここなら俺しか見ていないし聴いていない、ここで胸に溜ってること吐き出して、泣きたかったら遠慮なく泣いていいよ、好きにしな?」

自分の今の気持ちを察してくれた?
そんなふう気遣わせ途惑う隣、笑って立ち上がってくれる。
本棚からパソコンを引っ張り出し、テーブルの端に開いて操作すると周太に示してくれた。

「湯原、この中に好きな曲ある?選んでいいよ、好きな曲でも聴きながらぼーっとしてさ、寛いでよ?俺も好きにするから、」

別に理由は言わなくても良いよ?
ただ寛いでいたら良い、泣きたかったら泣けば良いよ?
そんなふう自然体の提案が温かで、この優しい温もりへ周太は素直に微笑んだ。

「ん…ありがとう、手塚」

礼を言いながらパソコンを覗きこみ、音楽リストを眺めてみる。
どうせなら知らない曲が良いだろう、それでも題名に今の想い映して決める。
その曲に合わせ操作して、そして優しいピアノの旋律からギターが合さり歌いだす。

……

If you try to fly
I will catch you if you fall I wouldn't let you go
Could I hold your hand
So we could fly together somewhere just me and you
We'd Be floating by
The sea together way up high
What's it really like?
And our time will past
And we will be together
But our paths may change and we could be together…

……

切ないトーン、けれど底が明るい旋律と声。
どこか切ない声が詠う英語の詞たちに、泣けない涙が溜まっていく。
その言葉たちは心で母国語になって、今、この瞬間の想いを映しだす。

 もし君が飛ぼうとするなら
 君が落ちそうになれば僕が受け留めてあげる
 君を離したりしないよ
 君と手をつなげるなら
 僕たちは何処へも一緒に飛んでゆける
 君と僕だけで
 僕たちは浮かんでいるだろう
 海のすぐ側を空高く
 それが本当ならどんな感じがするかな?
 そして僕らの時間は過ぎて
 それでも僕らは一緒にいるだろう
 けれど、僕らの行先は変わって、もう一緒にはいられない

…本当にそうだ、もう行先は違う、ずっと一緒にはいられないね?でも、受け留めたい…待っていたい、

歌に心は廻らせ想いはマイナス8時間の真昼へ祈る。
心から願う、どうか幸あれと祈る、それでもこの涙はどうしたら止むの?
もう泣かないと決めているまま涙こぼれない、それでも心は泣いて我儘な自分が嗚咽を咳き上げた。

「…っ、」

密やかに嗚咽を飲んで、静かに微笑む。
もう泣かないと決めたから今も泣かない、この今こそ微笑みたい。
もう強い優しさを心に抱きしめている、英二が愛してくれた記憶が自分を支えてくれる。
必ず自分の隣に帰る、そう約束してくれた心を信じて泣かないで「今夜」の全てを見つめていたい。

…大丈夫、俺はもう充分愛してもらってる、英二にも光一にも…だから迷ったら、泣いたら駄目、英二が帰る場所でいるなら…笑って

ふたりは今夜「分岐点」を見つめるだろう、ならば自分も共に見ていたい。
そう望む想いは心に動かない、それでも弱虫で泣き虫な自分は寂しがり、独りでいたくないと泣く。
だから今夜は誘ってもらえて本当に良かった、この素直な感謝に周太は友人へ綺麗に笑いかけた。

「手塚、飲みに誘ってくれてありがとうね。ね、誘ってくれたのって、俺が郵便ポスト必要そうだったから?」
「それもあるかな?でも、それ以上に、湯原とちゃんと話してみたかったから誘ったんだ、」

眼鏡の奥に愛嬌ある眼差し笑って、温かい。
ベッドに背凭れながら床に胡坐をかく、その笑顔は率直に言ってくれた。

「社会人で忙しそうなのに湯原、先生の講義も受けてるだろ?そういうのカッコいいなって想ってさ、色々と話してみたかったんだ。
だけど高卒かと思って年下だと勘違いしてたよ?ごめんな、本当は湯原の方が俺より2つ3つ年上なんだよな、でもタメ口でいい?」

話してみたかった、タメ口で対等に話したい。
そんなふう言って貰えるのは嬉しい、嬉しくて周太は素直に頷いた。

「ん、もちろん良いよ。ありがとう、」
「そっか、良かった、」

気さくな笑顔ほころんで、明るんだ。
立って冷蔵庫から缶酎ハイ2つだすと、周太と向き合い手塚は座ってくれた。

「じゃ、まず聴きたいのはさ?湯原は植物学の勉強して、何をしたいって希望とかある?」

植物学の勉強をして、何をしたいか?
それは決まっている、この答えに周太は酒を受けとり微笑んだ。

「大切にしたいブナと山桜があるんだ、だから樹医になりたい、」

父と約束した「植物の魔法使い」それに自分が成りたいと願う。
遠い幼い日に笑顔と約束した自分の夢、その想い綺麗に周太は笑った。

「小さい頃から植物が好きって前に話したけど、俺ね、木とか花に触るとなんか元気が出るんだ。それで大きい木とか好きなんだ。
それで俺、小学生のとき父と母と約束したんだ…いつも自分は木に元気を貰っているから、いつか樹医になって木の命を手助けしたい。
そう約束したんだけどね、色んなことがあって今は他の仕事に就いているんだ…だけど、いつか必ず樹医になるよ、俺は諦めないから、」

もう自分は諦めない、この夢を抱いて生きて強くなる。
その強さを育むためにも今夜、英二と光一の現実を受留めようと覚悟した。

…決めたんだ、だからもう逃げないで見つめるだけ、この掌に与えられた全てを、ね

今この掌に与えられたなら、哀しみも喜びも受け留めたい。
それがどんなに辛く想えても、いつか「良かった」と心底から微笑む日が来ると信じている。
この「いつか」を信じ微笑んだ向かいから、明るく温かい笑顔は言ってくれた。

「諦めないって良い言葉だな。湯原、かっこいいよ?俺もね、諦めないって言いたい夢っていうか、進路希望があるよ、」
「ん、植物図鑑を作る他にも?」

どんな夢だろうな?
そう笑いかけた先、すこし悪戯っ子な顔で手塚は微笑んだ。

「うん、植物図鑑をきちんと作るために俺、考えている進路があるんだ、」

愛嬌の笑顔ほころばせ、東大理科で首席の男は夢の航路を話し始めた。






【歌詞引用:Monkey Majik 「I Miss You」】

(to be continued)

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第58話 双璧act.8―another,side story「陽はまた昇る」

2012-12-07 23:07:50 | 陽はまた昇るanother,side story
「言語」その軌跡への道標



第58話 双璧act.8―another,side story「陽はまた昇る」

扉を開くと、テーブルにはテキストとノートが広がっていた。

グラスと料理の皿を隅に寄せ、オレンジいろ照らす食卓へと3人で頭を寄せあっている。
どうやら美代の受験勉強を皆で取り組んでいるらしい、その明るい真剣に周太は笑いかけた。

「遅れてすみません、」
「あ、湯原くん、援けて?」

すぐ美代が顔をあげて隣の座布団をポン、と叩いてくれる。
個室の扉を閉じて靴を脱ぎ、素直に周太は美代指定の席に座りこんだ。

「どうしたの、美代さん?」
「あのね、この長文なんだけど、意味がよく解からなくって、」

話しながら示してくれる問題は、英語の長文読解だった。
それは意訳と直訳が入り乱れ、言い回しに慣れていないと解かり難い。
幾らか英語が苦手らしい美代にとって、こういう出題は見た瞬間に固まってしまうだろう。

…でも美代さん、本が好きだから国語は得意なんだよね?

美代の読解力は高い、それが学力の高さにも直結している。
それを活かした解法を身につけたら良いだろうな?考えながら周太は隣に微笑んだ。

「美代さん、そのルーズリーフを一枚くれる?」
「うん、お願いします、」

素直に手渡してくれる紙を受けとり、テキストを傍に寄せる。
胸ポケットのペンを取ると、周太は英文の綴りを2行ごと空けながら写し始めた。
写したアルファベットの一行に合わせ和訳を書きこみ、熟語ごと意訳に赤、直訳に青のラインを引く。
そうして読み進むうち、引用された詩の一節に心止められた。

When,in a blessed season
With those two dear ones-to my heart so dear-
When in the blessd time of early love,
Long afterward I roamed about In daily presence of this very scene,
Upon the naked pool and dreary crags,
And on the melancholy beacon, fell
The spirit of pleasure and youth’s golden gleam-
And think ye not with radiance more divine
From these remembrances, and from the power They left behind?

自然の情景に心を重ねた一篇の詩、これを自分は知っている。
陽だまりふるテラス、ラタンの安楽椅子で父が読み聞かせてくれた。
そして父に遺された歳月を、喪った幸せの瞬間たどらせ幾度も読んだ、英国の詩。

…ワーズワスだね、お父さん?

ひとりごと心に呟いて、記憶の声が笑ってくれる。
明瞭なcut glassの発音が詩を読みあげ、次には母国の言葉に変えて語りゆく。
懐かしい深いテノールが詠う母語の訳、その記憶を追いかけ周太は綴った。

祝福された季節に
愛しい私の想い人ふたりと連れ立った―心より愛する人と
若き愛の祝福された季節、
あの同じ場所を、歳月を経て毎日のよう歩く時、
底も露わな池と、荒涼たる岩山と、
そして切なき山頂の道しるべに、
あふれる喜びの心と、若き黄金の輝きとがふり注いだ。
あれよりも神秘なる光輝を得られると、
数多の記憶と遺された力から 考えられるだろうか?

…祝福された季節、ふたりと連れ立った…切なき、山頂の道しるべ

綴った言葉に、届いたばかりの一文がふれてくる。
夜の街路樹の下に読んだ、スイスの空から贈られた言葉が今、切ない。
あの言葉に輝きを綴ってくれた英二の心は光一と共に、この自分の心も山頂へ連れ立ってくれたろうか?

From :宮田英二
subject:北壁2
添付ファイル:アイガー山頂とメンヒの銀嶺
本 文 :アイガー北壁、3時間かからず登れました。無事にクライネシャデックのBCまで戻ったよ。
     今11時前、ふたりとも元気です。これからBCを回収してグリンデルワルトに戻ります。
     そしたら風呂入って昼飯だよ。スイスの食事も旨いけど、周太の飯が恋しい。

ふたりはマッターホルンに続いてアイガーでも北壁登頂を成し遂げた。
世界記録に迫るタイムで北壁を登り、ふたり共に頂点に立った瞬間がメールの画像にまばゆい。
贈られた添付ファイル、ベルニーズアルプスの銀嶺は白銀の祝福に輝き、ひろやかな蒼穹は輝く。
きっと光一は愛用のカメラを背負って登り、父親の遺愛したレンズに夢と英二を映して笑ってくれた。

…きっと幸せな笑顔だね?ふたり一緒に登って、写真を撮って

ふたり山頂の雪へアイゼンの足跡を記し、祝福の瞬間に輝いた笑顔を写真の永遠に綴じこめた。
その栄光がふたりをクライマーとして、山岳救助隊員としての評価と立場を変えていく。
けれど、そんなことよりも夢を叶えて山頂で笑ってくれた、それが素直に嬉しい。

…よかったね、本当に

そっと心に微笑んで試験問題を和訳していく、その心は温かく静まっている。
それでも、やっぱり心かすかな痛みがある。この傷みが幼い子のよう我儘に泣いて、切ない。
ふたりが2つの北壁を終えた今、この後にふたりが見つめ合う瞬間が訪れるだろう。
その瞬間には英二の心から自分は消える、その覚悟が穏やかに傷み、泣く。

…でも笑っていたい、男の妻だからこそ出来るって笑っていたい、それが俺の誇りだから

女性の妻ならば、子供の「母」として夫を家庭に繋ぎ留める為に、嫉妬する権利と義務がある。
けれど自分は「男」母に成ることは出来ない、嫉妬して夫を留めるたらそれは自分勝手な我儘でしかない。
だって同じ男だからこそ英二の想いも解かってしまう、もし夢を懸け憧れた相手に恋されたなら何を想うか?
この理解をこそ自分の誇りにしたい、他の誰も英二の想いを解からなくても「同性の妻」として、自分だけは理解したい。 

…英二の想いを理解していたい、同性の妻だからこそ出来る理解だって、誇りに胸を張っていたい

どんなに鍛えても華奢な骨格は変わらず小柄な自分、幼い日は女の子と間違われていた。
今も子供じみて成年とも認めてもらえ難い、そんな自分でも「男」の誇りがある。
だから、同じ「男」として今、恋する人の想いを理解して微笑んでいたい。
その勇気を見つめて周太はペンを止め、ルーズリーフを差し出した。

「はい、お待たせ…これね、意訳と直訳を使い分けることがコツなんだ、」
「ありがとう、あ、すごい解かり易いね?こういうふうに読むのね、」

嬉しそうに受け取って、楽しげに目を通してくれる笑顔が嬉しい。
その向かいから手塚も覗きこみながら、笑ってメニューのタッチパネルを渡してくれた。

「すごいな、きれいな文章になってる。湯原って英語も得意なんだ?」
「ん…父がね、外国の本を好きだから、」

メニューを開き答えながらも首筋を熱が昇りだす。
また赤くなりそう?いつもながら困っていると、青木准教授が笑いかけてくれた。

「辞書も使わずに訳しましたね、英語を使い慣れている感じで驚きました。入試のとき、センター試験も二次も高得点だったでしょう?」
「センターは英語でしたけど、二次はフランス語だったんです。選択者が少ないので、」

素直に答え微笑んで、パネルに並ぶカクテルから甘そうなものを探していく。
オレンジブロッサムって前に飲んで美味しかったな?決めてパネルから注文する前から明朗な声が訊いた。

「センターって、もしかして湯原って、大卒?」

すこし驚いたよう眼鏡の奥から見つめてくれる。
そういえば年齢の話も何もまだしていない、なんだか気恥ずかしくなりながら周太は頷いた。

「ん、そうだけど…」
「そうだったんだ、ごめん湯原?俺、高卒の社会人で年下だって思ってた、」

素直に謝って、照れくさげに愛嬌の笑顔ほころんだ。
年齢を解かっても話し方や呼び方は変わらない、そんな態度が嬉しくて周太は微笑んだ。

「謝らなくて良いよ?俺、職場でも高卒だって間違われてるから。童顔だし、背も高くないからね、」

素直に事実を言って、けれど少しも嫌じゃない。
そんな自分にコンプレックスが消え始めたと解かって嬉しい、微笑んだ周太に手塚は明るく笑ってくれた。

「そっか、でも勘違いごめんな?フランス語も英語も出来るなんてすごいな、トリリンガルってカッコいいよ、」

トリリンガルってほどでも無いのに?
言われた言葉にすこし驚いて、傍らの枝豆を摘みながら周太は正直に言った。

「そんなでも…聴くのと読み書きだけだよ?話すのはしたことないし、」
「聴けて書けるなら話せるんじゃない?湯原、こんど仏文の先生のとこ一緒に行ってみようよ?隣のキャンパスだしさ、」

楽しげに笑って提案してくれる、その言葉に心ことんと響く。
この提案通りにしたら、自分が知りたいことが解るかもしれない?

…仏文の先生なら、お祖父さんのこと何か知っているかもしれない?

東京大学文学部言語文化学科フランス語フランス文学研究室

この研究室が現在の東京大学におけるフランス文学専攻になる。
祖父の晉は東京大学第3類仏文専攻の教授だった、だから研究室の教員は祖父の後輩にあたる。
もしかしたら祖父の教え子である可能性も高い、そんな期待に周太は鼓動ひとつと頷いた。

「ん、行ってみたいな。手塚は第二外国語、フランス語を取ったの?」
「そうだよ、でも成績ボッコボコでさ?それで先生に、顔を憶えられちゃってるんだ、俺」

悪びれず応える笑顔はすっきり明るく聡明で「成績ボッコボコ」だと思えない。
なんだか意外な一面だな?可笑しくて笑った隣から美代が教えてくれた。

「あのね、手塚くんは理科全体での首席入学なのよ?それで受験のこと相談したの、」

東京大学の入学試験の枠は文科と理科で各一類から三類の計6類に区分され、二次試験は前期と後期の2回に試験日が設けられる。
その理科で首席ならセンター試験も二次試験も満点近いだろう、そんな秀才でも気さくで自然体の手塚が嬉しくて周太は笑いかけた。

「すごいね、手塚。本当に優秀なんだね。教えてもらって良かったね、美代さん、」
「大したこと無いって、俺は。その問題も上手く教えられないだろ?」

素直な賞賛に笑いかけた向こう、困ったよう眼鏡の奥で明るい目が笑ってくれる。
東大理系でトップに立つ男、そんな一面があるのに手塚の笑顔は実直に素朴で温かい。
飾ること無い自然体の笑顔のまま、秀才は気恥ずかしそうにも明るく笑ってくれた。

「きちんと教えられる湯原や、社会人しながら大学受験する小嶌さんの方が、ずっと優秀だろ?なのに褒められると困るよ、」

本当に照れくさくって困るな?
そんな貌で笑う教え子に微笑んで、青木准教授は可笑しそうに教えてくれた。

「普通、理科でトップなら医学部に行くでしょう?なのに手塚くん、農学部に来ちゃったんです。それで有名なんですよ、」

東京大学は入学当初、入試枠と同様に文科と理科で計6類に区分されて1年半の前期課程教育を受ける。
これを修了すると各学部へと分かれ、理科最難関と言われる医学部は理科三類、農学部は理科二類からの進学者が多い。
こうした学部の学内ランクがある、それなのに首席の手塚が医学部を選ばず農学部へ進学した。そんな事実へと本人は衒いなく笑った。

「だって俺、人間の解剖とか無理ですって。もう鹿の解体とかでアウト、最初っから森林生物科学がターゲットだし、」

明るく笑って言ってくれる、その笑顔は質朴なまま底抜けに明るい。
同じ東大生でも同期の内山とは雰囲気が違う、こう気さくな手塚が愉しくて嬉しくなる。
いろんな話をしてみたいな?そんな想い微笑んだとき、扉が開いてグラスが運ばれてきた。
それを受けとる隣、美代は机の上を片づけると、隅によせた料理を並べながら明るく微笑んだ。

「勉強会、ありがとうございました。こういう訳で私、8時半で帰らせてもらいますね?でも、あと1時間半は楽しんじゃいます、」
「たまには気分転換も必要ですよ、勉強は。私も8時半で帰りますね、」

気さくに笑って青木も取り皿を配ってくれる。
そんな席で割り箸を銘々に渡しながら、周太は訊いてみた。

「青木先生は、フランス文学の先生でお知り合いはいらっしゃいますか?」
「はい、ワンゲルOB会の先輩が教授をしています。そうだ、ご紹介させて下さいますか?」

言って、青木准教授はひとくちビールを飲んだ。
それから愉しそうに笑って、周太へと提案をしてくれた。

「彼は今、講義のテキストに使うフランスの原書を、日本語と英語に訳す助手を探しているんです。でも中々ちょうど良い方が居なくて。
きっと湯原くんなら適任だと思うんです、少ないけどバイト代も出すから心当たりがあれば、と言われているのですが、いかがでしょう?」

愉しげな笑顔から言われた提案に、鼓動がまた響く。
とくん、裡から響いた音に考えがうかんで、顕われる希望が微笑んだ。
この与えてもらった提案が「パズル」のピースを与えるかもしれない?この考え素直に周太は応えた。

「あの、僕は職場の決まりでバイト代は受け取れないんです。でも、フランス語の勉強をさせて頂くという理由ならお手伝い出来ます。
ただ仕事の関係で、お手伝いできる時間の都合が限られると思うんです。講義の後とか仕事の合間になりますが、よろしいでしょうか?」

警察官は公務員、当然のようアルバイトは出来ない。
けれど勉強目的での無償なら問題は無い、そう条件を出した向うから准教授は頷いてくれた。

「ええ、大丈夫だと思いますよ?勉強目的って聴いたら先輩も喜ぶと思います、また確認してお知らせしますね、」

祖父と父を辿る「パズル」のピースが与えられる?
その希望を青木の言葉に聴いて、周太は微笑んで頭を下げた。

「はい、よろしくお願いします、」

フランス文学専攻の教員と、直接知り合う機会が与えられるかもしれない。
この幸運なチャンスに希望を見つめて、心裡ひとりごとが微笑んだ。

…大学の繋がりから解かるかもしれない、お祖父さんとお父さんのこと…警察の世界だけじゃなくて、学問の世界から、

警察組織で父のことを調べる時、父が所属した部署の特殊性から機密に抵触しやすい。
そのリスクが不透明で、警察内部での自由な調査はあまり望めそうにない。
けれど、大学関係者から祖父の軌跡を辿るならリスクは少なくて済む。

…そう、お祖父さんから調べたら良いよね?大学の知り合いとかから…お祖父さんの小説を持っている人にも会えるかもしれない、

『La chronique de la maison』

大学の記念出版として刊行された、祖父が著したミステリー小説。
パリ郊外の屋敷を舞台に描き、仏文学者らしくフランス語で全文を記述してある。
もう絶版になり発行部数自体も少なくて、どれも個人所有か図書館の貴重書扱いにされ入手は難しい。
それでも祖父が記したものを読んでみたくて、東京大学の図書館で寄贈された一冊を一度閲覧した。
その寄贈本には父とも似た流麗な文体で、アルファベットのサインと詞書が肉筆で添えられている。

“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る

祖父は「何」を探し物と言い、誰を「君」と呼んでいる?

普通“recherche”は「研究」と訳す。
けれど推理小説であることを考えれば、意訳して「探し物」の方が通りやすい。
そう考えてきたけれど、祖父が研究者だったなら「研究」の意味もあるのかもしれない。
いったい探し物とは、研究とは、何を示すのだろう?あの詞書を誰に問いかけるのだろう?

…いちばん身近な相手は、息子であるお父さんだけど

詞書たちを記す古典的ブルーブラック・インクも、実家の書斎にある万年筆と同じ色だった。
あの本が発行された三十数年前、家の書斎でインクを補充した万年筆で祖父は綴ったのだろう。
その当時に祖父が「探し物」と呼ぶ何か事情がある、その事情を祖父の知人から得る証言で遡及したい。

…きっと事実を辿れるはず、だって「証拠」の小説がある「現場」の大学は、俺が通っている学校なんだから

祖父の遺作小説「証拠」は東京大学附属図書館にある、この「現場」である大学で自分は学んでいる。
このことは、祖父を知り「証拠」の意味を探す恰好のチャンスを得ている事だろう、この幸運を活かしたい。
その初動として学内のフランス文学関係者から知己を得たい、そう考え廻らせながらも周太は隣の友達へと謝った。

「美代さん、いま勝手にお手伝いのこと決めちゃったけど、ごめんね?でも受験勉強の手伝いも俺、ちゃんとするから、」
「謝らないで?ちゃんと手伝ってもらうつもりで聴いてたもの、私、」

本当に気にしないで?
そう綺麗な明るい目が笑ってくれる、その向かいから手塚も言ってくれた。

「もし良かったらさ、俺も小嶌さんの勉強手伝うよ?土曜ならバイト無いから講義の後は時間あるよ、湯原が忙しい時とか声かけて?」
「ほんと?そう言ってくれると心強いな、ありがとう。でも受験のこと、他の人には内緒にしてね?」

美代は家族の反対を押して、内緒で大学受験に挑もうとしている。
その為にも内緒にして欲しいのだろう、そんな美代に手塚は篤実な笑顔で応えてくれた。

「誰にも言わないよ、だってな?小嶌さんと仲良くすると俺、他のヤツらに嫉妬されて大変だろうしさ。小嶌さんって人気なんだよ?」
「あら、私なんかに恐縮しちゃうね?でも私は本命がちゃんといますから、ね?」

そうでしょ?そんなふう明るい目が周太に笑いかけてくれる。
その笑顔の意味が今は少し傷みながら、それでも笑って頷いた周太を見て手塚が笑った。

「やっぱり小嶌さんって湯原が本命なんだ?お似合いだよ、おふたりさん、」
「はい、ある意味で本命です。でも手塚くんの言う意味とは、ちょっと違うかも?」

明るい目が悪戯っ子に笑い、率直に答えてくれる。
その言葉たちに眼鏡の奥ひとつ瞬いて、素直に手塚は訊いてきた。

「あれ、違うんだ?ふたりは付合ってるんじゃないわけ?」
「ずっと付きあう予定よ?もっと大切な意味でね、」

可笑しくて堪らない、そんなふう明るく笑って可愛い声が応える。
いま言ってくれる「大切な意味」が今夜は尚更に嬉しくて、独りじゃない実感が温かい。
もう縋ることは出来ない「恋愛」それ以外で繋がり合える相手が傍にいてくれる、この幸せに周太は微笑んだ。

…今、美代さんが隣に居てくれて嬉しい、先生まで居る…今夜、手塚に誘って貰えて良かった

もう何度も覚悟してきた「今夜」なのに、本音は泣きたくて仕方ない。
それでも泣きたくない意地がある、この想い支えてくれる友達の存在が素直に嬉しい。
こんな自分の今が嬉しくて微笑んだ隣から、愉しそうに美代は笑いかけてくれた。

「ね、宮田くんからメールあったでしょ?なんて返事したの、」
「…あ、美代さんにも光一から連絡あった?」

携帯を開きながら言った名前に、ほっと心で溜息こぼれる。
あと9時間もすればスイスは夜を迎える、そのとき自分は何を想うのだろう?
この来るべき現実と想いを見つめる視界へと、楽しそうに美代はメールを見せてくれた。

「見て?光ちゃんってね、いつもこうなのよ?」

From  :国村光一
subject:無題
本 文 :アイガーとも相思相愛だよ、

たった1行のメール本文、けれど光一らしくて愉しい。
こういう光一だから自分は好きだ、だから「今夜」の覚悟も祈りも温かい。
もう決めた想いの寂しさと幸せのまま笑って、周太は自分のメールを美代に披露した。

「英二からのは恥ずかしいから見せれないけど、ごめんね、」
「あ、憎たらしいね?でも納得よ、」

笑ってくれながら画面を覗きこんでくれる。
その横顔に、ちくんと心が刺されて「秘密」に小さく溜息こぼれた。

…美代さんは知らない方が良いことだね、英二と光一のこと

美代は光一の幼馴染で姉代わり、そして英二に恋をしている。
そんな美代から見れば、憧れ恋する相手が幼馴染と恋愛関係を持つことになる。
ショックが無いとは決して言えない、それに美代の性格なら周太を気遣い光一に反発する可能性もある。
何よりも、英二と光一が担う立場に懸る「秘密」を、誰に言うことも出来るわけがない。この秘匿に周太は微笑んだ。

「憎たらしくても納得してね、これも俺の特権だから、」

この秘密を抱えることは「妻」である自分の特権、だから大切に守りたい。
この特権の重みと切ない幸福に微笑んだ隣、可笑しそうに笑ってくれた。

「ほんと特権って感じよね?こればっかりは仕方ないね?」
「ん、仕方ないよ?」

笑って答えながら携帯を閉じて、ポケットに仕舞いこむ。
その向かいから手塚が笑いかけた。

「ふたりの内緒話、終った?」

内緒話って言われると何か恥ずかしいな?
そんな感想に首筋が熱くなりそうでいると、美代が楽しげに答えてくれた。

「はい、終了です。青木先生、付属の演習林のこと教えて戴けますか?」
「良いですよ、」

気さくに青木樹医は笑って頷き、話しだしてくれる。
それを聴きながら左手首のクライマーウォッチを見、時刻を気にしてしまう。
デジタル表示は19時57分、あと9時間後には生まれるだろう「秘密」を密やかに周太は見つめた。

…いまスイスの夜は21時すぎ…夜になったら光一は告白して、ふたりは本当に恋人になる、ね

スイスから帰国後すぐ8月一日、警視庁山岳救助隊のエースとして光一は第七機動隊第二小隊長に着任する。
英二も9月には第二小隊へ異動する、そして光一のザイルパートナー且つ補佐役として公認され、二人は上司と部下になる。
この人事異動に対しても、三大北壁の二つをトップクラスの記録で完登した実績が信頼となって、二人の立場を強化していくだろう。
その全ては「若く実力と実績を伴うクリーンな新指導者」であることに起因する、そこに二人の恋愛関係という要素はリスクが高い。
警察組織の指導的立場を担うと嘱望される二人、そのパートナーシップに恋愛関係は「公人」として認められ難すぎて、言えない。

…これを知ることは責任が大きいんだ、だから美代さんは知るべきじゃない…だって美代さんは部外者でいられるから

確かに美代は英二に恋している、けれどまだ憧憬に近い片恋で何の責任も無い。
光一も幼馴染としては深い付合いがある、けれど恋愛という側面での絆は何も無い。
だから美代は「恋愛」という意味では、英二と光一に対して責任が何もない、だから知る理由も無い。
けれど自分は違う、英二の婚約者として「妻」としての連帯責任がある、その自覚のもとに自分は光一の背中を押した。

英二と光一、ふたりの恋愛は公認されない「リスク」が高い恋愛だろう。
けれど二人は互いに唯一の夢を追うパートナー、より深い絆を求めるのは必然かもしれない。
その必然と自分の願いを懸けて光一の背中を押した、ふたりが心から幸せに笑うなら構わないと信じたから。
そして、この「秘密」を自分だけは英二の「妻」である責任と権利で共に背負える、それが誇らしく嬉しい。

…お母さんにも話せない、このことだけは

そっと「秘密」に微笑んで、オレンジの香をグラスから呑みこむ。
ふわり甘い香とアルコールの香に、ただ幸せだった瞬間の綺麗な笑顔が懐かしい。
ただ英二だけを見つめていた時間、まだ英二を独り占めしていた浅い春までの優しい時間たち。
あの頃を名残らす柑橘の香は甘くて、かすかな酒の気配ほろ苦くて、ほろ苦い甘い香の記憶が心を掴む。

『周太、俺の幸せは周太の隣だけでしか見つけられない…愛してる、ずっと』

いつも言ってくれた言葉、けれど次は聴かせて貰えるの?

この今も言葉の記憶は甘くて、けれど苦く切ないのは我儘だろうか。
いつも告げながら眼差しは自分だけを映し熱かった、けれど独り占めの時は終わる。
もう何度も、幾度も考えて見つめて、いちばんだと考え出した答えと現実。それでも今、オレンジが苦い。
そんな想いを隠して笑いあう食卓は、大学付属の森について話題が飛び交っていく。

「田無にもありますけど秩父演習林の方が合うと思いますよ?奥多摩に近いですしね。あとは北海道に千葉、伊豆、愛知、」
「富士の研究所も良いですよね、山中湖のところ、」
「あそこは宿泊施設もあるんだよ?先生、今度のフィールドワークにどうですか?」

付属演習林の話題は楽しくて今の心を温めてくれる。
笑って聴きながら箸を動かして、けれど口にした厚焼き玉子に記憶の声が笑った。

『周太の甘い玉子焼きって好きだな、なんか幸せな気分になれて。また作ってくれる?』

朝の光ふるダイニング、懐かしい家の日常の風景。
そこに座って笑う笑顔のダークブラウン綺麗な髪は、すこし濡れている。
起きて朝のシャワーを使った名残の濡れ髪、ふっと香る石鹸に夜と暁に抱きしめあえた幸福が面映ゆい。

…でも、もう俺だけのものじゃない、あの幸せは

穏やかな白皙の寝顔、長い睫は頬に翳落として端正な唇は微睡む。
朝、目覚めて見つめ合う笑顔、夜の幸福を惜しむように抱きしめてくれる腕の温もり。
ふれる鼓動の頼もしい響き、抱きあげてくれる腕に甘え委ねる安堵と幸福、その全てが大切な自分の世界。

けれどもう、自分だけの世界じゃない。

もう英二は自分ひとりの恋人じゃない、もうあの幸せは独り占めじゃない。
あの全てを次にいつ与えられるのか?それすらも今の自分は解からない、だからこそ自分は英二を光一に託したかった。

…こんなふうに想うことを英二にさせたくないから、英二を絶対に独りにしたくない…だからお願い光一、英二を離さないで?

英二は、孤独に弱い。

初任科総合の2ヶ月間、英二は少しずつ壊れていった。
警察学校で共に過ごす時間は楽しくて、けれど終わりが近づくごと英二の眼差しが変っていく。
いつも穏やかで優しい切長の目、けれど夜に眠る衿元へと長い指は掛けられボタンを外し、規則違反を犯しても肌を求める。
その指と眼差しが哀しくて、愛しくて切なくて拒みたくなかった、そうして受容れる夜のなか「瞬間」が来てしまった。

『俺は今…君を殺そうとした、…君を、離したくなくて』

ずっと傍にいたくて、どこにも行かせたくなくて
ずっと見つめていたくて離れたくないから、だから首に手を掛けて君を殺そうとしたんだ

そう言って泣いてくれた貌が哀しくて愛しくて、それでも離れねばならない未来に考えるようになった。
どうしたら英二を孤独にしないで済むのか?そう考えれば必ず光一の俤がうかんでくれた。
だから今夜、光一に英二を託したくて自分は夜の支度まで光一に持たせた。
それが意地で決意で、愛情の証だと信じたから。

…だからこれでいいんだ、でも哀しいのは仕方ない、かな?

もう独り占めの幸福は終わる、それでも英二が笑って幸せでいるなら、光一が幸せならそれで良い。
けれど想ってしまう、我儘な願いと小さなプライドと、心の深くから叫ぶよう恋い慕う。
あの笑顔を、寝顔を、いつ自分は次に見られるの?

「ごめんね、ちょっと中座します、」

微笑んでグラスを置いて、立ち上がる。
すぐ気がついた美代の眼差しは明るくて、楽しげに笑いかけてくれた。

「いってらっしゃい、でも帰りまでには戻ってきてね?」

いつもと変わらない明るい目、明るい声。
その普段どおりの温もりに今、支えられるよう周太は綺麗に笑った。

「うん、すぐ戻るよ?」

笑って頷いて、扉を開いて個室を出る。
そっと閉めた扉の向こう、青木樹医の声が楽しげに続けた。

「夜間の作業訓練もあるんです。林道には民家や釣場にキャンプ場もあります、そのために緊急の場合は夜間でも出動があるので、」

そういう仕事もあるんだな?
そんな感想と微笑んで廊下を歩き奥の窓に立つ、その眼下に夜は広がった。

…いま、スイスは真昼だね?

ふっと8時間の時差を想い、涙ひとつ頬伝う。
いま自分は夜に佇んで、けれど真昼の明るい世界がこの瞬間にある。
夜と昼に隔てられた8時間、この夜空の彼方へ続く場所の幸福を祈りながら、けれど涙は頬こぼれる。

…かっこわるいね…やっぱり泣き虫ワガママだね、俺

自分に少し笑って涙を指で拭う、その目線に夜は月を見せる。
白銀まばゆい遠い光、その輝きに遥かな銀嶺の遠さを感じて今、独りが切ない。
こんな想いのときに飲もうと誘ってもらって良かった、もし寮で独りきりなら辛すぎるから。
そんな想いと涙を拭い、呼吸ひとつで微笑むと周太は踵を返した。







【引用詩文:William Wordsworth『The Prelude Books XI,257-388 [Spots of Time]』】

(to be continued)

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告知日記:秋霧、紗の彼方

2012-12-07 12:23:39 | 雑談
夢現と虚実、その真実は、



こんにちは、晩秋の快晴まぶしい神奈川です。
写真は朝霧@御岳山、楓の向こう杉林は紗の彼方にシルエットだけ見せています。
今、連載中の第58話「双壁K2」はこんな感じでしょうかね?

朝一短編「soliloquy 建申月act.2」UPしてあります、第58話「双璧act.4」「双壁K2act.4」の幕間です。
湯原と国村の掛け合いのワンシーン、また少し加筆するかもしれません。

第58話「双壁K2・6」と第58話「双璧7」加筆校正が終わっています。
第58話「双壁K2・6」宮田とふたりスイスへ向かう国村の、宮田と雅樹への想いです。
第58話「双璧7」宮田と国村への祈り、同性婚への覚悟とプライド、そして祖父・晉への邂逅を見つめる湯原です。
今夜、両方の続編を21時頃と0時頃にUP予定しています。

取り急ぎ、




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