夢、想いの交錯

第58話 双璧act.5―another,side story「陽はまた昇る」
From :宮田英二
subject :四千メートルから
添付ファイル:ブライトンホルンからのマッターホルン東壁
本 文 :おはよう、周太。
いま午前10時、無事に下山しました。標高4,165mの世界を見てきたよ。
全てが青と白の世界だった、日本で見るより高い場所は空気も光もまぶしい。
富士山よりも300メートル高い場所だよ、あの瞬間は日本にいる誰より高い所に俺は居たんだ。
標高四千の境界線を越えたとき周太のことを想ってた、山頂でも想ったよ。
四千メートルの世界からも俺は、君を愛している。
From :宮田英二
subject :アルプスのりんどう
添付ファイル:リッフェルゼー湖に咲くゲンチアナ・ブラキフィラ
本 文 :こんにちは、周太。いま早めの昼飯です、リッフェルホルンを無事下山しました。
標高2,927mのてっぺんに向かって高低差200mを登り下りするテストだったよ、無事合格しました。
写真はリッフェルゼー湖の近くで咲いていた、ゲンチアナ・ブラキフィラというアルプスの竜胆です。
日本のとはだいぶ違うけど、周太が好きそうな花だと思って撮ってみたよ。いつか一緒に見に来よう。
このあと昼寝してからマッターホルンのヘンリルヒュッテに入ります。
明日は北壁です、午前4時から始めます。
一昨日と昨日、夕刻に届いたメールを読み返す。
どちらも綺麗な写真が添えらえた文面は、優しい想いを伝えてくれる。
その想いに微笑みながらも心は緊張に軋んで、交番二階の休憩室に溜息がこぼれた。
「今日、だね…英二、光一、」
“明日は北壁です”
明日は、今日になった。
左手のクライマーウォッチの表示は「0:00」に変る、だからスイスは今、午前4時。
たった今、ふたりの夢への登攀は始まった。
―お父さん、雅樹さん、ふたりを護ってください
そっと携帯を握りしめ、祈りを想う。
ゆっくり瞳を閉じ、家の書斎と青梅署診察室と、2つの写真の俤に願う。
どうか大切なふたりを護ってほしい、どうか2人の夢を叶えてあげてほしい。
―幸せに笑ってほしい、夢を叶えて、高い山のてっぺんで笑い合って?
静かな祈りを見つめ、ゆっくり瞳を披いて携帯電話をポケットにしまう。
そして制帽を被りなおすと休憩室の扉を開き、周太は階下へと降りていった。
「柏木さん、休憩ありがとうございました、」
声に先輩の柏木が振向いて、その貌がすこし驚いている。
書類を書く手を進ませながら、気さくに笑いながら言ってくれた。
「まだ10分あるよ、湯原。もう少しゆっくりして良いですよ?」
「ありがとうございます、でも食事も済みましたし。休憩、入られてください、」
笑いかけて勧めながら、周太は地図ファイルを出した。
そんな周太に柏木は微笑んで、すぐ書類を書き終え片づけると席を立った。
「じゃあ甘えさせてもらいますね、本当のこと言うと腹減ってたから、助かるよ?」
「良かった、ゆっくりして来てください、」
笑いかけて柏木の後に席へ着き、ファイルを捲っていく。
その横顔へと温かい声が笑いかけてくれた。
「あと5日で異動だね、湯原なら七機でも大丈夫だと思うけど、」
声に顔を上げると少し寂しそうに笑ってくれる。
そのまま柏木は給湯室へ入り、すぐ戻って湯呑を2つ置いてくれた。
「俺もね、七機の銃火器レンジャーだったろ?だから雰囲気とかは知ってるけど、正直なとこメンタルがきつかったな、」
話しながら柏木は斜め前に座り、湯呑を手にした。
ひとくち啜りこんで周太にも「どうぞ、」と勧めてくれる。
素直に周太も湯呑を手にすると、穏やかでも明瞭な声で話してくれた。
「湯原も射撃特練だから、よく解ってると思うけど。警察組織での射撃って特別ですよね?だから皆、ライバル意識って言うのかな。
顔に出さなくてもプライドのぶつかりがあります、それでも任務ではチームワークをこなさないといけない。その裏肚に馴れ難くてね、」
穏やかで丁寧な姿勢の柏木は、ヒューマンスキルも高い。
そういう先輩がメンタル面の困難を口にする、その意外に周太は尋ねた。
「柏木さんでも辛かったんですか?」
「うん、正直なとこ3ヶ月はきつかったよ、でも2年間ちゃんと務められました、」
明るく笑って湯呑を口にし、茶を啜る。
その笑顔に笑いかけた周太へと、温かな眼差しで柏木は言ってくれた。
「ほら、その笑顔。湯原の笑顔ってストレートで可愛いって言うのかな?そういう貌されると、先輩の立場としては面倒見たくなります。
だから湯原だったら大丈夫だと思うよ。ただ、競技大会で連続優勝してるでしょう?それが嫉妬の対象になりやすいとは正直思います、」
率直に言ってくれる言葉たちは、思い遣りが温かい。
この先輩とは卒業配置の時から同じシフトで勤務する、けれど仕事の話が多かった。
こういう話は初めてかもしれない?嬉しくて素直に耳傾ける向かい、柏木は教えてくれた。
「だけどね、湯原なら嫉妬とかも超えられるんじゃないかな?大会で会ったっていう同期が言ってました、謙虚で良いねって。
本部特練でプライドも高い男なのに、湯原の優勝には納得してたよ?もう1人の優勝者にも納得してたけど、湯原を褒めていました、」
そんなふうに言って貰えるのは嬉しい。
素直に嬉しくて、けれど面映ゆくて首筋の熱を気にしながら周太は微笑んだ。
「ありがとうございます、七機でも努力して来ます、」
「うん、湯原は努力家だから大丈夫ですよ、」
笑って湯呑を飲み干すと、柏木は席を立って行った。
その背中に周太は頭を下げて、机に向かうと地図ファイルを開いた。
この近辺の地図をメモ帳に写していく、こんなふう合間に道案内用の地図を作ってきた。
この東口交番は駅前広場に建っている、そのため道案内が業務として多い。だから自分なりに工夫して地図を考えた。
…ここにコンビニ、それからポスト…本屋、
巡回で覚えた目印を書きこんで、実際に歩いたときに解かり易いようにする。
この地図を描くことは異動したら、多分もう2度と無いだろう。そんな想いと綴っていく地図は書き慣れて、何か寂しい。
こうした時間が終わっていく、そして新しい時間が始まっていく。そんな変化は警察官として「自分」という個人として今、起きる。
そんな「今」と同じ瞬間に、英二と光一も新しい時間へと向かっていく。
…2つの北壁を登ったら英二と光一も立場が変わるね、北壁で記録を作ることは特別だから、
父が遺した山岳雑誌で読んだ「三大北壁」がもつ意味と栄光の現実。
その現実に今、光一と英二はアンザイレンザイルで繋がれ登っていく。
その涯にあるものはクライマーとしての栄誉と、山ヤの警察官としての名声、それから、きっと。
―…同じ世界に生きて、援けあっていく共犯者で、体ひとつで愛し合いたい唯ひとりだ
富士山麓の森、光一に告げられた言葉たち。
あの言葉どおりに英二と光一はなっていく、それを願い光一の背中を押したのは自分。
あの言葉が現実になるのはアイガー北壁が終った夜だろう、そう想う心に傷みが全くない訳ではない、それでも後悔はしない。
…ふたりが幸せなら良いんだ、それがいちばん大切、
よぎる想いに微笑んで、手許は地図を描いていく。
ペンの筆跡を追っていく視線に遠く、遥かな異郷の山を心に想う。
一昨日と昨日と贈ってくれた銀嶺の写真たちは、父の雑誌たちで見た姿だった。
そうした雑誌は書斎に多く遺されている、そんな父はマッターホルンにも登ったのだろうか?
北壁では無くても学生時代に登ったのかもしれない?そう思いかけて、ふと周太は気がついた。
…お父さん、どこの大学に行ったのかな?
祖父が東京大学仏文科とパリ大学博士課程を卒業した事は知っている。
それはフランス文学史に記された祖父の経歴で読み、英二の祖母である顕子からも教えてもらった。
顕子には祖母と何らかの血縁がある、それは顕子の目が父と近似する事と湯原家の事情に詳しい事から解かる。
けれど父については顕子も、オックスフォード大学に招聘された祖父に付いて渡英する前の幼い姿しか知らない。
…あ、安本さんなら知ってる?警察学校の同期だし、
どうして一度も訊いてみなかったのだろう?
そんな自分の迂闊さに少し困りながら、周太はペンを奔らせ地図を描いた。
そのペン先にも心は時おり、遠くアルプスの銀嶺を見つめて今、巨大な蒼い壁を登る2人を想い、祈る。
…どうか無事に夢を叶えられますように、お父さん、雅樹さん、ふたりを護って…
繰り返し祈り、仕事の合間に銀嶺と蒼穹の空を想う。
この今どこまで登ったろう?タイムは予定通りに進んでいる?
手は凍えていないだろうか、天候は晴れとあるけれどマッターホルンはどうだろう?
あの山は午後には雲が湧くと雑誌には書かれていた、どうか午前中に下山出来たら良いのに?
…でも遭難事故は下山の時が多いんだ、あの本にも書いてあった
Edward Whymper『アルプス登攀記』には1865年のマッターホルン初登頂の真相が記録されている。
著者のエドワード・ウィンパーは7度目の挑戦で成功し、けれど下山中にパーティー4人が遭難死した。
この遭難は登頂成功後、山頂下の雪田で1人の転倒から3人が巻き込まれ、ザイルは切断され1,400mを滑落した。
その悲劇の現場になった雪田は決して難しいポイントでは無かった、けれど一瞬の油断が死を招いてしまった。
そんなふうに山は、ただ一度のミスを犯した瞬間に「死」へと誘われる。
だからどうか最後まで、下山し終えるまでずっと集中していてほしい。
そのために光一も英二に「秘密」を作った、そして自分は「あの男」の秘密も抱えている。
この秘密を無事に打ち明ける瞬間が来てほしい、そんな祈りのはざま業務に意識を集中し、けれど合間にアルプスの空を想う。
ふと見上げる窓の向うの摩天楼たち、その狭い空にも時差8時間を超えて、遥か遠くにある人の無事を見つめている。
…こんなふうに何度も心配したい、ちゃんと帰りを待たせてほしい、ずっと無事に帰ってきて?
いま警察官の制服を着て業務に体を動かし、頭脳を働かす。
けれど絶え間なく心は遠くの山を想い、登っていく人の心を体を無事であれと祈る。
こんな心配は決して楽ではない、それでも心配できるのは生きて、元気で山を登ってくれる証拠でもある。
元気に夢へと登り続けてくれるから心配も出来る。だからこんな物想いすら、自分にとって幸せだと心から微笑める。
…幾らでも心配する、何度でも祈る、だから無事に笑って夢に輝いて?
夢を叶え笑っていてほしい、大好きな笑顔を見せてほしい。
その為なら自分は何度でも心配して、幾度も祈って、不安もすべて受けとめる。
だから夢を生き続けてほしい、いつも無事に生きて帰って、また夢へと駆け出してほしい。
このリフレインする祈りと願い、そんな想いめぐらせ時は過ぎ、新宿の太陽は高度を低めていく。
そうして午後17時半を過ぎた頃、周太のポケットで携帯電話が振動した。
…英二?
そっと心に名前を呼んで、けれど今は広場に立って道案内をしている。
描き貯めておいた手書きの地図を示し、赤ペンで経路を書きこんで相手に手渡す。
そんなふう日常の仕事を進めながらも心は逸る、早く携帯電話を開きたい本音が、泣きそうでいる。
…きっと無事、大丈夫、
心に呟きながら1日の業務を片づけていく、当番勤務の担当者へと引継ぎをする。
そうして18時半過ぎて、ようやく交番を出ると周太は新宿署へと急ぎ足で戻った。
…大丈夫、きっと無事、ふたりとも夢を叶えたよね?
心に言い聞かせながら道を急ぐ、すぐに新宿署へ着いて保管に携行品預りの手続きをする。
すぐ済ませて寮へと向かい、擦違う先輩たちに笑顔で挨拶をし、ひたすら廊下を歩いて自室の扉を開く。
扉に鍵をかけて、制帽を脱いで壁に掛けると、携帯電話を取出し画面を開いて、受信ボックスを開封する。
そして、待っていた送信人名のメールを、呼吸ひとつで周太は開いた。
From :宮田英二
subject :北壁
添付ファイル:マッターホルン山頂スイス側
本 文 :おつかれさま、周太。無事にツェルマットまで下山しました、今、10時です。
北壁はジャスト2時間だったよ、光一は2時間を切ったんだ。世界記録には少し及ばなかったけどね。
「…よかった、」
ぽつん、言葉こぼれて熱が瞳の奥から起きる。
ゆっくり視界が滲んで熱は、すっと頬を伝いおちた。
「…よかった、よかった無事だね…?よかった、」
言葉に涙こぼれて、メールの写真がまばゆい。
白銀かがやく山頂と銀嶺の波うねるアルプスの稜線、蒼穹の輝き。
標高4,000mを超えたナイフリッジの頂点で、夢を叶えて今、自分にも喜びを贈ってくれた。
その想いが嬉しくて、なにより無事が嬉しくて、青と白の画面を見つめて周太は笑いかけた。
「お母さんにも連絡、しないとね。おばあさまと、お姉さんにも…」
独り言に微笑んで、すぐ周太は転送メールを作り始めた。

新宿署単身寮の部屋、ベッドの上に本を開きながらクライマーウォッチの文字盤に時を計る。
読み古された本のページは深く甘い香が懐かしい、この香は書斎に名残る父の気配の匂い。
その優しい香に微笑んで、周太は携帯電話を開き着信履歴からナンバーを表示した。
「…今日は、贅沢しても良いよね?」
画面に笑いかけて、クライマーウォッチの時刻表示を見つめる。
デジタルが変って22時を示す、今スイスは14時で昼食も済んだはず、そんな時間に思い切って通話を繋ぐ。
コールが鳴って3つ、ちいさな音に開かれた回線に、遥か遠くから大好きな気配へと周太は笑いかけた。
「英二、マッターホルンの北壁、おめでとう…お昼ごはん、ちゃんと食べられた?」
「ありがとう、周太。昼飯ちゃんと食ったよ、体調も良いから安心して?」
綺麗な低い声が応えてくれる、この声を聴けることが嬉しい。
疲れているけれど元気そうかな?そう声のトーンを気にしながら周太は微笑んだ。
「良かった…メールありがとうね、写真きれいだった。あ、今、電話していて大丈夫?」
「うん、大丈夫。今、外で風に当ってるとこだから。久しぶりだね、周太の声。嬉しいよ、」
きれいな声の向こう側、風の音が微かに聞こえる。
いま氷河を吹く風が草地を吹きぬける?そんな想像と周太は羞みながら4日ぶりの声に笑いかけた。
「ん、おれもうれしいよ?…あのね、後藤さんと吉村先生からも電話頂いたよ。あと美代さんからも、」
母たちにメールを送ってすぐ、青梅署山岳救助隊副隊長の後藤が電話をくれた。
安堵に笑った声は誇らしげで嬉しそうだった、それから吉村医師が同じよう電話を架けてくれた。
きっと吉村医師は息子の姿に英二を重ねただろう、そんな切ない懐旧の喜びが医師の声に感じられた。
そして美代は、光一の無事と英二の無事に、少し泣いた。
―…泣いたなんて絶対に、ふたりには言わないでね?私と湯原くんの内緒よ、
そんなふう笑って泣いていた、電話の向こうで美代は。
すこし意地っ張りな美代は涙を簡単に見せない、だから光一も英二も美代の想いは解かっていない。
そういう美代の強さが切なくて、けれど大好きだと改めて想えて、土曜日の公開講座で会えることが楽しみでいる。
きっと話題に北壁は出るだろうな?そんな予想と微笑んだ向こうから、綺麗な低い声が笑ってくれた。
「副隊長には下山して、すぐに報告の電話したんだ。吉村先生はメールしてさ、美代さんには光一が、」
名前を言いかけた低い声は、息を止める。
その気配が固い嗚咽を呑みこんだ、もしかして英二は泣いていた?
それは富士で聴いた光一の覚悟と関係あるだろうか、なにか誤解が生まれているだろうか?
この数日を見つめていた気懸りを想い、率直に周太は婚約者へと尋ねた。
「英二、光一と喧嘩でもしたの?」
「え、…」
どうして解かるのだろう?
そんな気配が電話を透して、8時間の時差を超え伝わらす。
その時間ごと距離を超えて、素直に英二は笑ってくれた。
「うん、喧嘩したんだ。もう俺、光一に嫌われたかもしれない、」
どうして、そんなことを言うの?
そう心で問いかけながら雪白の貌を想いだす、光一が英二を嫌うはずなんてない。
それなのに何故こんなことを英二は言うのだろう?今、英二が抱える想いを受けとめたくて、そっと周太は微笑んだ。
「ん…そうなの?」
よかったら話して?そう空気だけに伝えてみる。
話したくないならそれでも良い、けれど話すと楽になれることもある。
そんな想いの向こう側、電話越しにも涙堪える気配が、少し笑う英二の声に伝わった。
「天才の光一には俺なんか釣り合わない、俺は大した才能も無い。こんな俺は光一のパートナーには相応しくない、そう言ったんだ、俺、」
そんなこと言ったら、光一は傷ついてしまうのに?
スイスに発つ直前、新宿まで光一は告白をしに来てくれた、英二を心から望んでいると言ってくれた。
それなのに「相応しくない」だなんて?言われた瞬間の光一の傷を想い、そう言わざるを得ない英二の気持ちへと静かに尋ねた。
「どうして、そんなこと言ったの?…光一のパートナーは俺だけって、英二言ってたのに、」
「うん…そう思いたかっただけなんだ、」
哀しげな声が微笑んで、涙の気配が伝いおちる。
電話のむこう風が聴こえる、草原を踏んでいく足音がそっと響く。
きっと涼やかに晴れた夏の午後、そんな豊かな空から英二は哀しげに微笑んだ。
「俺は何でも出来るって皆、思ってるけど。俺は真似っこする要領が良いだけなんだ、何でも巧い人の物真似しているだけ。
周太や光一みたいなオリジナルは、俺には何も無い。誰かの力を借りなきゃ俺は、なんにも出来ないんだ。今日もそうだったよ、」
今日も、そうだった。
そう告げる言葉に贈ってくれた写メールを想う。
アルプスの女王と謳われる山、そこで見つめた想いを英二は話しはじめた。
「今日はね、周太。朝の4時から登りはじめたんだ。まだ昏くて、ヘッドライトの明りだけの岩の壁は真っ黒で、雪のところは蒼く見えた。
俺には全部、同じ壁だったよ。でも光一は迷わずに登って、すごいスピードで綺麗にハーケンを撃っていくんだ。これって難しいんだよ。
ハーケンは下手に急いで撃ちこめば岩が割れるんだ、でも光一が撃ったハーケンには岩の罅割れが無いんだ。岩の目ってポイントがある、
そう光一は教えてくれるけど、光一みたいには中々出来ない。それに光一って、登るとき絶対に岩を蹴り落とさないんだ、小石も落とさないよ」
夜間のルートファインディング、ハーケンを撃ちこむ的確なポイントとスピード、的確な足と岩の使い方。
いつもセカンドとして登るからこそ知れる光一の才能と技術を、英二は誰より知っている。
そのことが誇らしい時と悔しい時とある?そう気がついた意識へと綺麗な低い声が言った。
「光一は本当にすごいクライマーだって思う。今日、2時間ずっと一緒に壁を登っていて、俺との差が本当によく解かったんだ。
今日も本当は光一、ソロで登った方が速かったかもしれない。だけど光一は雅樹さんとの約束を叶えたくて、代りに俺と登ってくれたんだ。
それで…俺、気付いたんだ。雅樹さんは、クライマーの才能が本当にあった人だ。きっと光一にとって、一番のザイルパートナーだよ、」
数日前に見つめた、光一の雅樹への想い。
最初にアイザイレンパートナーに望んだ、それだけではない濃やかな繋がりを感じた。
その想いは恋愛にも近くて、あざやかに深く不可欠な存在として光一の心に息づいて温かい。
―…雅樹さん、あの山桜はドリアードが住んでるって本気で信じてたよ…君の山桜を雅樹さんは本当に愛してた、
あの木に逢う為にいつも奥多摩に来てたんだ。だからね、雅樹さんが死んで、哀しくて逢いたくて、あの森に毎日通ってたんだ
あそこに行けば雅樹さん、来てくれるって想ったから…雅樹さんに逢えなくても、雅樹さんが恋した山桜のドリアードに逢える
山桜を手入れして可愛がって…そして1年が過ぎて冬が来て、山桜に花芽がついた時だった、君があの山桜の下にいたのは
光一が「山桜のドリアード」と自分を呼んで大切にしてくれる理由は「雅樹」だった。
だから自分には解る、光一が雅樹を想う深い純粋が、求める痛切が、ドリアードと呼ばれる自分こそ誰より解かる。
きっと光一は英二が言うように雅樹との約束を叶える為、今日もマッターホルン北壁を登っていただろう。
けれど、それだけの理由で光一は「英二」と共に登ったのではない。
…確かに雅樹さんとの約束は大切、それでも光一は英二と一緒に登りたいのに?
雅樹への想いはもう光一の一部になっている、だから消えることなど無い。
ずっと雅樹との約束を抱いて光一は生きる、そして「英二」だからこそ共に夢へ生きたいと光一は望んでいる。
それなのに英二は「身代わりだけ」と感じて自信を失くした?その想いに溜息こぼれた向こう、英二の声は涙隠すよう続けた。
「俺はね、周太。雅樹さんの身代わりも出来ることが誇らしかった、でも身代わりなんて出来ないよ?俺と雅樹さんじゃ才能が違うんだ、
確かに顔とか背格好は似てるかもしれない、でも…俺は、雅樹さんみたいには登れない、性格だって雅樹さんみたいに綺麗じゃないんだ」
―…雅樹さんは俺に山の夢を最初にくれた人なんだ。先生で、保護者でもあってね?憧れで大好きで、誰よりも尊敬して愛してるよ
数日前の富士山麓、透明なテノールの声を想いだす。
この言葉どおり雅樹のように、光一の先生にも保護者にも英二は成れない。
だから英二が言っている事は外れてはいない、けれど大切なことが抜けている。
その「大切」を教えてあげたい、そう想う電話越しに綺麗な低い声は哀しげに告げた。
「周太。今日、光一と北壁を登ったのは本当は俺じゃない、雅樹さんだよ。あの山の点に立つべきは雅樹さんだ、俺じゃない、」
そんなこと、言わないであげて?
そんなことじゃない、求められているのは「英二」あなたなのに?
もう光一は覚悟を決めている、だから自分のところに告白をしに来てくれた。
確かに雅樹の想いを抱いて今日も登ったろう、けれど光一が誰と登り、誰と生きたいのかは別。
だからこそ光一は、幼い日から待ち続けた夢から明日へ駈けだしていく為に「英二」を望むと宣言してくれた。
…英二、そうじゃない、光一の想いは違う、雅樹さんの願いだってそうじゃない
光一と雅樹、ふたりの真実をどうしたら英二に気付いてもらえる?
どうしたら英二が光一の想いを、素直に全てを受けとめられる?
ふたりが幸せに笑ってくれる為に、何を伝えたら良いの?
大切な人の笑顔、そのために自分は今、何を出来る?
(to be continued)
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第58話 双璧act.5―another,side story「陽はまた昇る」
From :宮田英二
subject :四千メートルから
添付ファイル:ブライトンホルンからのマッターホルン東壁
本 文 :おはよう、周太。
いま午前10時、無事に下山しました。標高4,165mの世界を見てきたよ。
全てが青と白の世界だった、日本で見るより高い場所は空気も光もまぶしい。
富士山よりも300メートル高い場所だよ、あの瞬間は日本にいる誰より高い所に俺は居たんだ。
標高四千の境界線を越えたとき周太のことを想ってた、山頂でも想ったよ。
四千メートルの世界からも俺は、君を愛している。
From :宮田英二
subject :アルプスのりんどう
添付ファイル:リッフェルゼー湖に咲くゲンチアナ・ブラキフィラ
本 文 :こんにちは、周太。いま早めの昼飯です、リッフェルホルンを無事下山しました。
標高2,927mのてっぺんに向かって高低差200mを登り下りするテストだったよ、無事合格しました。
写真はリッフェルゼー湖の近くで咲いていた、ゲンチアナ・ブラキフィラというアルプスの竜胆です。
日本のとはだいぶ違うけど、周太が好きそうな花だと思って撮ってみたよ。いつか一緒に見に来よう。
このあと昼寝してからマッターホルンのヘンリルヒュッテに入ります。
明日は北壁です、午前4時から始めます。
一昨日と昨日、夕刻に届いたメールを読み返す。
どちらも綺麗な写真が添えらえた文面は、優しい想いを伝えてくれる。
その想いに微笑みながらも心は緊張に軋んで、交番二階の休憩室に溜息がこぼれた。
「今日、だね…英二、光一、」
“明日は北壁です”
明日は、今日になった。
左手のクライマーウォッチの表示は「0:00」に変る、だからスイスは今、午前4時。
たった今、ふたりの夢への登攀は始まった。
―お父さん、雅樹さん、ふたりを護ってください
そっと携帯を握りしめ、祈りを想う。
ゆっくり瞳を閉じ、家の書斎と青梅署診察室と、2つの写真の俤に願う。
どうか大切なふたりを護ってほしい、どうか2人の夢を叶えてあげてほしい。
―幸せに笑ってほしい、夢を叶えて、高い山のてっぺんで笑い合って?
静かな祈りを見つめ、ゆっくり瞳を披いて携帯電話をポケットにしまう。
そして制帽を被りなおすと休憩室の扉を開き、周太は階下へと降りていった。
「柏木さん、休憩ありがとうございました、」
声に先輩の柏木が振向いて、その貌がすこし驚いている。
書類を書く手を進ませながら、気さくに笑いながら言ってくれた。
「まだ10分あるよ、湯原。もう少しゆっくりして良いですよ?」
「ありがとうございます、でも食事も済みましたし。休憩、入られてください、」
笑いかけて勧めながら、周太は地図ファイルを出した。
そんな周太に柏木は微笑んで、すぐ書類を書き終え片づけると席を立った。
「じゃあ甘えさせてもらいますね、本当のこと言うと腹減ってたから、助かるよ?」
「良かった、ゆっくりして来てください、」
笑いかけて柏木の後に席へ着き、ファイルを捲っていく。
その横顔へと温かい声が笑いかけてくれた。
「あと5日で異動だね、湯原なら七機でも大丈夫だと思うけど、」
声に顔を上げると少し寂しそうに笑ってくれる。
そのまま柏木は給湯室へ入り、すぐ戻って湯呑を2つ置いてくれた。
「俺もね、七機の銃火器レンジャーだったろ?だから雰囲気とかは知ってるけど、正直なとこメンタルがきつかったな、」
話しながら柏木は斜め前に座り、湯呑を手にした。
ひとくち啜りこんで周太にも「どうぞ、」と勧めてくれる。
素直に周太も湯呑を手にすると、穏やかでも明瞭な声で話してくれた。
「湯原も射撃特練だから、よく解ってると思うけど。警察組織での射撃って特別ですよね?だから皆、ライバル意識って言うのかな。
顔に出さなくてもプライドのぶつかりがあります、それでも任務ではチームワークをこなさないといけない。その裏肚に馴れ難くてね、」
穏やかで丁寧な姿勢の柏木は、ヒューマンスキルも高い。
そういう先輩がメンタル面の困難を口にする、その意外に周太は尋ねた。
「柏木さんでも辛かったんですか?」
「うん、正直なとこ3ヶ月はきつかったよ、でも2年間ちゃんと務められました、」
明るく笑って湯呑を口にし、茶を啜る。
その笑顔に笑いかけた周太へと、温かな眼差しで柏木は言ってくれた。
「ほら、その笑顔。湯原の笑顔ってストレートで可愛いって言うのかな?そういう貌されると、先輩の立場としては面倒見たくなります。
だから湯原だったら大丈夫だと思うよ。ただ、競技大会で連続優勝してるでしょう?それが嫉妬の対象になりやすいとは正直思います、」
率直に言ってくれる言葉たちは、思い遣りが温かい。
この先輩とは卒業配置の時から同じシフトで勤務する、けれど仕事の話が多かった。
こういう話は初めてかもしれない?嬉しくて素直に耳傾ける向かい、柏木は教えてくれた。
「だけどね、湯原なら嫉妬とかも超えられるんじゃないかな?大会で会ったっていう同期が言ってました、謙虚で良いねって。
本部特練でプライドも高い男なのに、湯原の優勝には納得してたよ?もう1人の優勝者にも納得してたけど、湯原を褒めていました、」
そんなふうに言って貰えるのは嬉しい。
素直に嬉しくて、けれど面映ゆくて首筋の熱を気にしながら周太は微笑んだ。
「ありがとうございます、七機でも努力して来ます、」
「うん、湯原は努力家だから大丈夫ですよ、」
笑って湯呑を飲み干すと、柏木は席を立って行った。
その背中に周太は頭を下げて、机に向かうと地図ファイルを開いた。
この近辺の地図をメモ帳に写していく、こんなふう合間に道案内用の地図を作ってきた。
この東口交番は駅前広場に建っている、そのため道案内が業務として多い。だから自分なりに工夫して地図を考えた。
…ここにコンビニ、それからポスト…本屋、
巡回で覚えた目印を書きこんで、実際に歩いたときに解かり易いようにする。
この地図を描くことは異動したら、多分もう2度と無いだろう。そんな想いと綴っていく地図は書き慣れて、何か寂しい。
こうした時間が終わっていく、そして新しい時間が始まっていく。そんな変化は警察官として「自分」という個人として今、起きる。
そんな「今」と同じ瞬間に、英二と光一も新しい時間へと向かっていく。
…2つの北壁を登ったら英二と光一も立場が変わるね、北壁で記録を作ることは特別だから、
父が遺した山岳雑誌で読んだ「三大北壁」がもつ意味と栄光の現実。
その現実に今、光一と英二はアンザイレンザイルで繋がれ登っていく。
その涯にあるものはクライマーとしての栄誉と、山ヤの警察官としての名声、それから、きっと。
―…同じ世界に生きて、援けあっていく共犯者で、体ひとつで愛し合いたい唯ひとりだ
富士山麓の森、光一に告げられた言葉たち。
あの言葉どおりに英二と光一はなっていく、それを願い光一の背中を押したのは自分。
あの言葉が現実になるのはアイガー北壁が終った夜だろう、そう想う心に傷みが全くない訳ではない、それでも後悔はしない。
…ふたりが幸せなら良いんだ、それがいちばん大切、
よぎる想いに微笑んで、手許は地図を描いていく。
ペンの筆跡を追っていく視線に遠く、遥かな異郷の山を心に想う。
一昨日と昨日と贈ってくれた銀嶺の写真たちは、父の雑誌たちで見た姿だった。
そうした雑誌は書斎に多く遺されている、そんな父はマッターホルンにも登ったのだろうか?
北壁では無くても学生時代に登ったのかもしれない?そう思いかけて、ふと周太は気がついた。
…お父さん、どこの大学に行ったのかな?
祖父が東京大学仏文科とパリ大学博士課程を卒業した事は知っている。
それはフランス文学史に記された祖父の経歴で読み、英二の祖母である顕子からも教えてもらった。
顕子には祖母と何らかの血縁がある、それは顕子の目が父と近似する事と湯原家の事情に詳しい事から解かる。
けれど父については顕子も、オックスフォード大学に招聘された祖父に付いて渡英する前の幼い姿しか知らない。
…あ、安本さんなら知ってる?警察学校の同期だし、
どうして一度も訊いてみなかったのだろう?
そんな自分の迂闊さに少し困りながら、周太はペンを奔らせ地図を描いた。
そのペン先にも心は時おり、遠くアルプスの銀嶺を見つめて今、巨大な蒼い壁を登る2人を想い、祈る。
…どうか無事に夢を叶えられますように、お父さん、雅樹さん、ふたりを護って…
繰り返し祈り、仕事の合間に銀嶺と蒼穹の空を想う。
この今どこまで登ったろう?タイムは予定通りに進んでいる?
手は凍えていないだろうか、天候は晴れとあるけれどマッターホルンはどうだろう?
あの山は午後には雲が湧くと雑誌には書かれていた、どうか午前中に下山出来たら良いのに?
…でも遭難事故は下山の時が多いんだ、あの本にも書いてあった
Edward Whymper『アルプス登攀記』には1865年のマッターホルン初登頂の真相が記録されている。
著者のエドワード・ウィンパーは7度目の挑戦で成功し、けれど下山中にパーティー4人が遭難死した。
この遭難は登頂成功後、山頂下の雪田で1人の転倒から3人が巻き込まれ、ザイルは切断され1,400mを滑落した。
その悲劇の現場になった雪田は決して難しいポイントでは無かった、けれど一瞬の油断が死を招いてしまった。
そんなふうに山は、ただ一度のミスを犯した瞬間に「死」へと誘われる。
だからどうか最後まで、下山し終えるまでずっと集中していてほしい。
そのために光一も英二に「秘密」を作った、そして自分は「あの男」の秘密も抱えている。
この秘密を無事に打ち明ける瞬間が来てほしい、そんな祈りのはざま業務に意識を集中し、けれど合間にアルプスの空を想う。
ふと見上げる窓の向うの摩天楼たち、その狭い空にも時差8時間を超えて、遥か遠くにある人の無事を見つめている。
…こんなふうに何度も心配したい、ちゃんと帰りを待たせてほしい、ずっと無事に帰ってきて?
いま警察官の制服を着て業務に体を動かし、頭脳を働かす。
けれど絶え間なく心は遠くの山を想い、登っていく人の心を体を無事であれと祈る。
こんな心配は決して楽ではない、それでも心配できるのは生きて、元気で山を登ってくれる証拠でもある。
元気に夢へと登り続けてくれるから心配も出来る。だからこんな物想いすら、自分にとって幸せだと心から微笑める。
…幾らでも心配する、何度でも祈る、だから無事に笑って夢に輝いて?
夢を叶え笑っていてほしい、大好きな笑顔を見せてほしい。
その為なら自分は何度でも心配して、幾度も祈って、不安もすべて受けとめる。
だから夢を生き続けてほしい、いつも無事に生きて帰って、また夢へと駆け出してほしい。
このリフレインする祈りと願い、そんな想いめぐらせ時は過ぎ、新宿の太陽は高度を低めていく。
そうして午後17時半を過ぎた頃、周太のポケットで携帯電話が振動した。
…英二?
そっと心に名前を呼んで、けれど今は広場に立って道案内をしている。
描き貯めておいた手書きの地図を示し、赤ペンで経路を書きこんで相手に手渡す。
そんなふう日常の仕事を進めながらも心は逸る、早く携帯電話を開きたい本音が、泣きそうでいる。
…きっと無事、大丈夫、
心に呟きながら1日の業務を片づけていく、当番勤務の担当者へと引継ぎをする。
そうして18時半過ぎて、ようやく交番を出ると周太は新宿署へと急ぎ足で戻った。
…大丈夫、きっと無事、ふたりとも夢を叶えたよね?
心に言い聞かせながら道を急ぐ、すぐに新宿署へ着いて保管に携行品預りの手続きをする。
すぐ済ませて寮へと向かい、擦違う先輩たちに笑顔で挨拶をし、ひたすら廊下を歩いて自室の扉を開く。
扉に鍵をかけて、制帽を脱いで壁に掛けると、携帯電話を取出し画面を開いて、受信ボックスを開封する。
そして、待っていた送信人名のメールを、呼吸ひとつで周太は開いた。
From :宮田英二
subject :北壁
添付ファイル:マッターホルン山頂スイス側
本 文 :おつかれさま、周太。無事にツェルマットまで下山しました、今、10時です。
北壁はジャスト2時間だったよ、光一は2時間を切ったんだ。世界記録には少し及ばなかったけどね。
「…よかった、」
ぽつん、言葉こぼれて熱が瞳の奥から起きる。
ゆっくり視界が滲んで熱は、すっと頬を伝いおちた。
「…よかった、よかった無事だね…?よかった、」
言葉に涙こぼれて、メールの写真がまばゆい。
白銀かがやく山頂と銀嶺の波うねるアルプスの稜線、蒼穹の輝き。
標高4,000mを超えたナイフリッジの頂点で、夢を叶えて今、自分にも喜びを贈ってくれた。
その想いが嬉しくて、なにより無事が嬉しくて、青と白の画面を見つめて周太は笑いかけた。
「お母さんにも連絡、しないとね。おばあさまと、お姉さんにも…」
独り言に微笑んで、すぐ周太は転送メールを作り始めた。

新宿署単身寮の部屋、ベッドの上に本を開きながらクライマーウォッチの文字盤に時を計る。
読み古された本のページは深く甘い香が懐かしい、この香は書斎に名残る父の気配の匂い。
その優しい香に微笑んで、周太は携帯電話を開き着信履歴からナンバーを表示した。
「…今日は、贅沢しても良いよね?」
画面に笑いかけて、クライマーウォッチの時刻表示を見つめる。
デジタルが変って22時を示す、今スイスは14時で昼食も済んだはず、そんな時間に思い切って通話を繋ぐ。
コールが鳴って3つ、ちいさな音に開かれた回線に、遥か遠くから大好きな気配へと周太は笑いかけた。
「英二、マッターホルンの北壁、おめでとう…お昼ごはん、ちゃんと食べられた?」
「ありがとう、周太。昼飯ちゃんと食ったよ、体調も良いから安心して?」
綺麗な低い声が応えてくれる、この声を聴けることが嬉しい。
疲れているけれど元気そうかな?そう声のトーンを気にしながら周太は微笑んだ。
「良かった…メールありがとうね、写真きれいだった。あ、今、電話していて大丈夫?」
「うん、大丈夫。今、外で風に当ってるとこだから。久しぶりだね、周太の声。嬉しいよ、」
きれいな声の向こう側、風の音が微かに聞こえる。
いま氷河を吹く風が草地を吹きぬける?そんな想像と周太は羞みながら4日ぶりの声に笑いかけた。
「ん、おれもうれしいよ?…あのね、後藤さんと吉村先生からも電話頂いたよ。あと美代さんからも、」
母たちにメールを送ってすぐ、青梅署山岳救助隊副隊長の後藤が電話をくれた。
安堵に笑った声は誇らしげで嬉しそうだった、それから吉村医師が同じよう電話を架けてくれた。
きっと吉村医師は息子の姿に英二を重ねただろう、そんな切ない懐旧の喜びが医師の声に感じられた。
そして美代は、光一の無事と英二の無事に、少し泣いた。
―…泣いたなんて絶対に、ふたりには言わないでね?私と湯原くんの内緒よ、
そんなふう笑って泣いていた、電話の向こうで美代は。
すこし意地っ張りな美代は涙を簡単に見せない、だから光一も英二も美代の想いは解かっていない。
そういう美代の強さが切なくて、けれど大好きだと改めて想えて、土曜日の公開講座で会えることが楽しみでいる。
きっと話題に北壁は出るだろうな?そんな予想と微笑んだ向こうから、綺麗な低い声が笑ってくれた。
「副隊長には下山して、すぐに報告の電話したんだ。吉村先生はメールしてさ、美代さんには光一が、」
名前を言いかけた低い声は、息を止める。
その気配が固い嗚咽を呑みこんだ、もしかして英二は泣いていた?
それは富士で聴いた光一の覚悟と関係あるだろうか、なにか誤解が生まれているだろうか?
この数日を見つめていた気懸りを想い、率直に周太は婚約者へと尋ねた。
「英二、光一と喧嘩でもしたの?」
「え、…」
どうして解かるのだろう?
そんな気配が電話を透して、8時間の時差を超え伝わらす。
その時間ごと距離を超えて、素直に英二は笑ってくれた。
「うん、喧嘩したんだ。もう俺、光一に嫌われたかもしれない、」
どうして、そんなことを言うの?
そう心で問いかけながら雪白の貌を想いだす、光一が英二を嫌うはずなんてない。
それなのに何故こんなことを英二は言うのだろう?今、英二が抱える想いを受けとめたくて、そっと周太は微笑んだ。
「ん…そうなの?」
よかったら話して?そう空気だけに伝えてみる。
話したくないならそれでも良い、けれど話すと楽になれることもある。
そんな想いの向こう側、電話越しにも涙堪える気配が、少し笑う英二の声に伝わった。
「天才の光一には俺なんか釣り合わない、俺は大した才能も無い。こんな俺は光一のパートナーには相応しくない、そう言ったんだ、俺、」
そんなこと言ったら、光一は傷ついてしまうのに?
スイスに発つ直前、新宿まで光一は告白をしに来てくれた、英二を心から望んでいると言ってくれた。
それなのに「相応しくない」だなんて?言われた瞬間の光一の傷を想い、そう言わざるを得ない英二の気持ちへと静かに尋ねた。
「どうして、そんなこと言ったの?…光一のパートナーは俺だけって、英二言ってたのに、」
「うん…そう思いたかっただけなんだ、」
哀しげな声が微笑んで、涙の気配が伝いおちる。
電話のむこう風が聴こえる、草原を踏んでいく足音がそっと響く。
きっと涼やかに晴れた夏の午後、そんな豊かな空から英二は哀しげに微笑んだ。
「俺は何でも出来るって皆、思ってるけど。俺は真似っこする要領が良いだけなんだ、何でも巧い人の物真似しているだけ。
周太や光一みたいなオリジナルは、俺には何も無い。誰かの力を借りなきゃ俺は、なんにも出来ないんだ。今日もそうだったよ、」
今日も、そうだった。
そう告げる言葉に贈ってくれた写メールを想う。
アルプスの女王と謳われる山、そこで見つめた想いを英二は話しはじめた。
「今日はね、周太。朝の4時から登りはじめたんだ。まだ昏くて、ヘッドライトの明りだけの岩の壁は真っ黒で、雪のところは蒼く見えた。
俺には全部、同じ壁だったよ。でも光一は迷わずに登って、すごいスピードで綺麗にハーケンを撃っていくんだ。これって難しいんだよ。
ハーケンは下手に急いで撃ちこめば岩が割れるんだ、でも光一が撃ったハーケンには岩の罅割れが無いんだ。岩の目ってポイントがある、
そう光一は教えてくれるけど、光一みたいには中々出来ない。それに光一って、登るとき絶対に岩を蹴り落とさないんだ、小石も落とさないよ」
夜間のルートファインディング、ハーケンを撃ちこむ的確なポイントとスピード、的確な足と岩の使い方。
いつもセカンドとして登るからこそ知れる光一の才能と技術を、英二は誰より知っている。
そのことが誇らしい時と悔しい時とある?そう気がついた意識へと綺麗な低い声が言った。
「光一は本当にすごいクライマーだって思う。今日、2時間ずっと一緒に壁を登っていて、俺との差が本当によく解かったんだ。
今日も本当は光一、ソロで登った方が速かったかもしれない。だけど光一は雅樹さんとの約束を叶えたくて、代りに俺と登ってくれたんだ。
それで…俺、気付いたんだ。雅樹さんは、クライマーの才能が本当にあった人だ。きっと光一にとって、一番のザイルパートナーだよ、」
数日前に見つめた、光一の雅樹への想い。
最初にアイザイレンパートナーに望んだ、それだけではない濃やかな繋がりを感じた。
その想いは恋愛にも近くて、あざやかに深く不可欠な存在として光一の心に息づいて温かい。
―…雅樹さん、あの山桜はドリアードが住んでるって本気で信じてたよ…君の山桜を雅樹さんは本当に愛してた、
あの木に逢う為にいつも奥多摩に来てたんだ。だからね、雅樹さんが死んで、哀しくて逢いたくて、あの森に毎日通ってたんだ
あそこに行けば雅樹さん、来てくれるって想ったから…雅樹さんに逢えなくても、雅樹さんが恋した山桜のドリアードに逢える
山桜を手入れして可愛がって…そして1年が過ぎて冬が来て、山桜に花芽がついた時だった、君があの山桜の下にいたのは
光一が「山桜のドリアード」と自分を呼んで大切にしてくれる理由は「雅樹」だった。
だから自分には解る、光一が雅樹を想う深い純粋が、求める痛切が、ドリアードと呼ばれる自分こそ誰より解かる。
きっと光一は英二が言うように雅樹との約束を叶える為、今日もマッターホルン北壁を登っていただろう。
けれど、それだけの理由で光一は「英二」と共に登ったのではない。
…確かに雅樹さんとの約束は大切、それでも光一は英二と一緒に登りたいのに?
雅樹への想いはもう光一の一部になっている、だから消えることなど無い。
ずっと雅樹との約束を抱いて光一は生きる、そして「英二」だからこそ共に夢へ生きたいと光一は望んでいる。
それなのに英二は「身代わりだけ」と感じて自信を失くした?その想いに溜息こぼれた向こう、英二の声は涙隠すよう続けた。
「俺はね、周太。雅樹さんの身代わりも出来ることが誇らしかった、でも身代わりなんて出来ないよ?俺と雅樹さんじゃ才能が違うんだ、
確かに顔とか背格好は似てるかもしれない、でも…俺は、雅樹さんみたいには登れない、性格だって雅樹さんみたいに綺麗じゃないんだ」
―…雅樹さんは俺に山の夢を最初にくれた人なんだ。先生で、保護者でもあってね?憧れで大好きで、誰よりも尊敬して愛してるよ
数日前の富士山麓、透明なテノールの声を想いだす。
この言葉どおり雅樹のように、光一の先生にも保護者にも英二は成れない。
だから英二が言っている事は外れてはいない、けれど大切なことが抜けている。
その「大切」を教えてあげたい、そう想う電話越しに綺麗な低い声は哀しげに告げた。
「周太。今日、光一と北壁を登ったのは本当は俺じゃない、雅樹さんだよ。あの山の点に立つべきは雅樹さんだ、俺じゃない、」
そんなこと、言わないであげて?
そんなことじゃない、求められているのは「英二」あなたなのに?
もう光一は覚悟を決めている、だから自分のところに告白をしに来てくれた。
確かに雅樹の想いを抱いて今日も登ったろう、けれど光一が誰と登り、誰と生きたいのかは別。
だからこそ光一は、幼い日から待ち続けた夢から明日へ駈けだしていく為に「英二」を望むと宣言してくれた。
…英二、そうじゃない、光一の想いは違う、雅樹さんの願いだってそうじゃない
光一と雅樹、ふたりの真実をどうしたら英二に気付いてもらえる?
どうしたら英二が光一の想いを、素直に全てを受けとめられる?
ふたりが幸せに笑ってくれる為に、何を伝えたら良いの?
大切な人の笑顔、そのために自分は今、何を出来る?
(to be continued)
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