萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第58話 双璧act.5―another,side story「陽はまた昇る」

2012-12-01 23:01:10 | 陽はまた昇るanother,side story
夢、想いの交錯



第58話 双璧act.5―another,side story「陽はまた昇る」

From :宮田英二
subject :四千メートルから
添付ファイル:ブライトンホルンからのマッターホルン東壁
本 文 :おはよう、周太。
     いま午前10時、無事に下山しました。標高4,165mの世界を見てきたよ。
     全てが青と白の世界だった、日本で見るより高い場所は空気も光もまぶしい。
     富士山よりも300メートル高い場所だよ、あの瞬間は日本にいる誰より高い所に俺は居たんだ。
     標高四千の境界線を越えたとき周太のことを想ってた、山頂でも想ったよ。
     四千メートルの世界からも俺は、君を愛している。


From  :宮田英二
subject :アルプスのりんどう
添付ファイル:リッフェルゼー湖に咲くゲンチアナ・ブラキフィラ
本 文 :こんにちは、周太。いま早めの昼飯です、リッフェルホルンを無事下山しました。
     標高2,927mのてっぺんに向かって高低差200mを登り下りするテストだったよ、無事合格しました。
     写真はリッフェルゼー湖の近くで咲いていた、ゲンチアナ・ブラキフィラというアルプスの竜胆です。
     日本のとはだいぶ違うけど、周太が好きそうな花だと思って撮ってみたよ。いつか一緒に見に来よう。
     このあと昼寝してからマッターホルンのヘンリルヒュッテに入ります。
     明日は北壁です、午前4時から始めます。


一昨日と昨日、夕刻に届いたメールを読み返す。
どちらも綺麗な写真が添えらえた文面は、優しい想いを伝えてくれる。
その想いに微笑みながらも心は緊張に軋んで、交番二階の休憩室に溜息がこぼれた。

「今日、だね…英二、光一、」

“明日は北壁です”

明日は、今日になった。
左手のクライマーウォッチの表示は「0:00」に変る、だからスイスは今、午前4時。
たった今、ふたりの夢への登攀は始まった。

―お父さん、雅樹さん、ふたりを護ってください

そっと携帯を握りしめ、祈りを想う。
ゆっくり瞳を閉じ、家の書斎と青梅署診察室と、2つの写真の俤に願う。
どうか大切なふたりを護ってほしい、どうか2人の夢を叶えてあげてほしい。

―幸せに笑ってほしい、夢を叶えて、高い山のてっぺんで笑い合って?

静かな祈りを見つめ、ゆっくり瞳を披いて携帯電話をポケットにしまう。
そして制帽を被りなおすと休憩室の扉を開き、周太は階下へと降りていった。

「柏木さん、休憩ありがとうございました、」

声に先輩の柏木が振向いて、その貌がすこし驚いている。
書類を書く手を進ませながら、気さくに笑いながら言ってくれた。

「まだ10分あるよ、湯原。もう少しゆっくりして良いですよ?」
「ありがとうございます、でも食事も済みましたし。休憩、入られてください、」

笑いかけて勧めながら、周太は地図ファイルを出した。
そんな周太に柏木は微笑んで、すぐ書類を書き終え片づけると席を立った。

「じゃあ甘えさせてもらいますね、本当のこと言うと腹減ってたから、助かるよ?」
「良かった、ゆっくりして来てください、」

笑いかけて柏木の後に席へ着き、ファイルを捲っていく。
その横顔へと温かい声が笑いかけてくれた。

「あと5日で異動だね、湯原なら七機でも大丈夫だと思うけど、」

声に顔を上げると少し寂しそうに笑ってくれる。
そのまま柏木は給湯室へ入り、すぐ戻って湯呑を2つ置いてくれた。

「俺もね、七機の銃火器レンジャーだったろ?だから雰囲気とかは知ってるけど、正直なとこメンタルがきつかったな、」

話しながら柏木は斜め前に座り、湯呑を手にした。
ひとくち啜りこんで周太にも「どうぞ、」と勧めてくれる。
素直に周太も湯呑を手にすると、穏やかでも明瞭な声で話してくれた。

「湯原も射撃特練だから、よく解ってると思うけど。警察組織での射撃って特別ですよね?だから皆、ライバル意識って言うのかな。
顔に出さなくてもプライドのぶつかりがあります、それでも任務ではチームワークをこなさないといけない。その裏肚に馴れ難くてね、」

穏やかで丁寧な姿勢の柏木は、ヒューマンスキルも高い。
そういう先輩がメンタル面の困難を口にする、その意外に周太は尋ねた。

「柏木さんでも辛かったんですか?」
「うん、正直なとこ3ヶ月はきつかったよ、でも2年間ちゃんと務められました、」

明るく笑って湯呑を口にし、茶を啜る。
その笑顔に笑いかけた周太へと、温かな眼差しで柏木は言ってくれた。

「ほら、その笑顔。湯原の笑顔ってストレートで可愛いって言うのかな?そういう貌されると、先輩の立場としては面倒見たくなります。
だから湯原だったら大丈夫だと思うよ。ただ、競技大会で連続優勝してるでしょう?それが嫉妬の対象になりやすいとは正直思います、」

率直に言ってくれる言葉たちは、思い遣りが温かい。
この先輩とは卒業配置の時から同じシフトで勤務する、けれど仕事の話が多かった。
こういう話は初めてかもしれない?嬉しくて素直に耳傾ける向かい、柏木は教えてくれた。

「だけどね、湯原なら嫉妬とかも超えられるんじゃないかな?大会で会ったっていう同期が言ってました、謙虚で良いねって。
本部特練でプライドも高い男なのに、湯原の優勝には納得してたよ?もう1人の優勝者にも納得してたけど、湯原を褒めていました、」

そんなふうに言って貰えるのは嬉しい。
素直に嬉しくて、けれど面映ゆくて首筋の熱を気にしながら周太は微笑んだ。

「ありがとうございます、七機でも努力して来ます、」
「うん、湯原は努力家だから大丈夫ですよ、」

笑って湯呑を飲み干すと、柏木は席を立って行った。
その背中に周太は頭を下げて、机に向かうと地図ファイルを開いた。
この近辺の地図をメモ帳に写していく、こんなふう合間に道案内用の地図を作ってきた。
この東口交番は駅前広場に建っている、そのため道案内が業務として多い。だから自分なりに工夫して地図を考えた。

…ここにコンビニ、それからポスト…本屋、

巡回で覚えた目印を書きこんで、実際に歩いたときに解かり易いようにする。
この地図を描くことは異動したら、多分もう2度と無いだろう。そんな想いと綴っていく地図は書き慣れて、何か寂しい。
こうした時間が終わっていく、そして新しい時間が始まっていく。そんな変化は警察官として「自分」という個人として今、起きる。
そんな「今」と同じ瞬間に、英二と光一も新しい時間へと向かっていく。

…2つの北壁を登ったら英二と光一も立場が変わるね、北壁で記録を作ることは特別だから、

父が遺した山岳雑誌で読んだ「三大北壁」がもつ意味と栄光の現実。
その現実に今、光一と英二はアンザイレンザイルで繋がれ登っていく。
その涯にあるものはクライマーとしての栄誉と、山ヤの警察官としての名声、それから、きっと。

―…同じ世界に生きて、援けあっていく共犯者で、体ひとつで愛し合いたい唯ひとりだ

富士山麓の森、光一に告げられた言葉たち。
あの言葉どおりに英二と光一はなっていく、それを願い光一の背中を押したのは自分。
あの言葉が現実になるのはアイガー北壁が終った夜だろう、そう想う心に傷みが全くない訳ではない、それでも後悔はしない。

…ふたりが幸せなら良いんだ、それがいちばん大切、

よぎる想いに微笑んで、手許は地図を描いていく。
ペンの筆跡を追っていく視線に遠く、遥かな異郷の山を心に想う。
一昨日と昨日と贈ってくれた銀嶺の写真たちは、父の雑誌たちで見た姿だった。
そうした雑誌は書斎に多く遺されている、そんな父はマッターホルンにも登ったのだろうか?
北壁では無くても学生時代に登ったのかもしれない?そう思いかけて、ふと周太は気がついた。

…お父さん、どこの大学に行ったのかな?

祖父が東京大学仏文科とパリ大学博士課程を卒業した事は知っている。
それはフランス文学史に記された祖父の経歴で読み、英二の祖母である顕子からも教えてもらった。
顕子には祖母と何らかの血縁がある、それは顕子の目が父と近似する事と湯原家の事情に詳しい事から解かる。
けれど父については顕子も、オックスフォード大学に招聘された祖父に付いて渡英する前の幼い姿しか知らない。

…あ、安本さんなら知ってる?警察学校の同期だし、

どうして一度も訊いてみなかったのだろう?
そんな自分の迂闊さに少し困りながら、周太はペンを奔らせ地図を描いた。
そのペン先にも心は時おり、遠くアルプスの銀嶺を見つめて今、巨大な蒼い壁を登る2人を想い、祈る。

…どうか無事に夢を叶えられますように、お父さん、雅樹さん、ふたりを護って…

繰り返し祈り、仕事の合間に銀嶺と蒼穹の空を想う。
この今どこまで登ったろう?タイムは予定通りに進んでいる?
手は凍えていないだろうか、天候は晴れとあるけれどマッターホルンはどうだろう?
あの山は午後には雲が湧くと雑誌には書かれていた、どうか午前中に下山出来たら良いのに?

…でも遭難事故は下山の時が多いんだ、あの本にも書いてあった

Edward Whymper『アルプス登攀記』には1865年のマッターホルン初登頂の真相が記録されている。
著者のエドワード・ウィンパーは7度目の挑戦で成功し、けれど下山中にパーティー4人が遭難死した。
この遭難は登頂成功後、山頂下の雪田で1人の転倒から3人が巻き込まれ、ザイルは切断され1,400mを滑落した。
その悲劇の現場になった雪田は決して難しいポイントでは無かった、けれど一瞬の油断が死を招いてしまった。
そんなふうに山は、ただ一度のミスを犯した瞬間に「死」へと誘われる。

だからどうか最後まで、下山し終えるまでずっと集中していてほしい。
そのために光一も英二に「秘密」を作った、そして自分は「あの男」の秘密も抱えている。
この秘密を無事に打ち明ける瞬間が来てほしい、そんな祈りのはざま業務に意識を集中し、けれど合間にアルプスの空を想う。
ふと見上げる窓の向うの摩天楼たち、その狭い空にも時差8時間を超えて、遥か遠くにある人の無事を見つめている。

…こんなふうに何度も心配したい、ちゃんと帰りを待たせてほしい、ずっと無事に帰ってきて?

いま警察官の制服を着て業務に体を動かし、頭脳を働かす。
けれど絶え間なく心は遠くの山を想い、登っていく人の心を体を無事であれと祈る。
こんな心配は決して楽ではない、それでも心配できるのは生きて、元気で山を登ってくれる証拠でもある。
元気に夢へと登り続けてくれるから心配も出来る。だからこんな物想いすら、自分にとって幸せだと心から微笑める。

…幾らでも心配する、何度でも祈る、だから無事に笑って夢に輝いて?

夢を叶え笑っていてほしい、大好きな笑顔を見せてほしい。
その為なら自分は何度でも心配して、幾度も祈って、不安もすべて受けとめる。
だから夢を生き続けてほしい、いつも無事に生きて帰って、また夢へと駆け出してほしい。
このリフレインする祈りと願い、そんな想いめぐらせ時は過ぎ、新宿の太陽は高度を低めていく。
そうして午後17時半を過ぎた頃、周太のポケットで携帯電話が振動した。

…英二?

そっと心に名前を呼んで、けれど今は広場に立って道案内をしている。
描き貯めておいた手書きの地図を示し、赤ペンで経路を書きこんで相手に手渡す。
そんなふう日常の仕事を進めながらも心は逸る、早く携帯電話を開きたい本音が、泣きそうでいる。

…きっと無事、大丈夫、

心に呟きながら1日の業務を片づけていく、当番勤務の担当者へと引継ぎをする。
そうして18時半過ぎて、ようやく交番を出ると周太は新宿署へと急ぎ足で戻った。

…大丈夫、きっと無事、ふたりとも夢を叶えたよね?

心に言い聞かせながら道を急ぐ、すぐに新宿署へ着いて保管に携行品預りの手続きをする。
すぐ済ませて寮へと向かい、擦違う先輩たちに笑顔で挨拶をし、ひたすら廊下を歩いて自室の扉を開く。
扉に鍵をかけて、制帽を脱いで壁に掛けると、携帯電話を取出し画面を開いて、受信ボックスを開封する。
そして、待っていた送信人名のメールを、呼吸ひとつで周太は開いた。

From  :宮田英二
subject :北壁
添付ファイル:マッターホルン山頂スイス側
本 文 :おつかれさま、周太。無事にツェルマットまで下山しました、今、10時です。
     北壁はジャスト2時間だったよ、光一は2時間を切ったんだ。世界記録には少し及ばなかったけどね。

「…よかった、」

ぽつん、言葉こぼれて熱が瞳の奥から起きる。
ゆっくり視界が滲んで熱は、すっと頬を伝いおちた。

「…よかった、よかった無事だね…?よかった、」

言葉に涙こぼれて、メールの写真がまばゆい。
白銀かがやく山頂と銀嶺の波うねるアルプスの稜線、蒼穹の輝き。
標高4,000mを超えたナイフリッジの頂点で、夢を叶えて今、自分にも喜びを贈ってくれた。
その想いが嬉しくて、なにより無事が嬉しくて、青と白の画面を見つめて周太は笑いかけた。

「お母さんにも連絡、しないとね。おばあさまと、お姉さんにも…」

独り言に微笑んで、すぐ周太は転送メールを作り始めた。



新宿署単身寮の部屋、ベッドの上に本を開きながらクライマーウォッチの文字盤に時を計る。
読み古された本のページは深く甘い香が懐かしい、この香は書斎に名残る父の気配の匂い。
その優しい香に微笑んで、周太は携帯電話を開き着信履歴からナンバーを表示した。

「…今日は、贅沢しても良いよね?」

画面に笑いかけて、クライマーウォッチの時刻表示を見つめる。
デジタルが変って22時を示す、今スイスは14時で昼食も済んだはず、そんな時間に思い切って通話を繋ぐ。
コールが鳴って3つ、ちいさな音に開かれた回線に、遥か遠くから大好きな気配へと周太は笑いかけた。

「英二、マッターホルンの北壁、おめでとう…お昼ごはん、ちゃんと食べられた?」
「ありがとう、周太。昼飯ちゃんと食ったよ、体調も良いから安心して?」

綺麗な低い声が応えてくれる、この声を聴けることが嬉しい。
疲れているけれど元気そうかな?そう声のトーンを気にしながら周太は微笑んだ。

「良かった…メールありがとうね、写真きれいだった。あ、今、電話していて大丈夫?」
「うん、大丈夫。今、外で風に当ってるとこだから。久しぶりだね、周太の声。嬉しいよ、」

きれいな声の向こう側、風の音が微かに聞こえる。
いま氷河を吹く風が草地を吹きぬける?そんな想像と周太は羞みながら4日ぶりの声に笑いかけた。

「ん、おれもうれしいよ?…あのね、後藤さんと吉村先生からも電話頂いたよ。あと美代さんからも、」

母たちにメールを送ってすぐ、青梅署山岳救助隊副隊長の後藤が電話をくれた。
安堵に笑った声は誇らしげで嬉しそうだった、それから吉村医師が同じよう電話を架けてくれた。
きっと吉村医師は息子の姿に英二を重ねただろう、そんな切ない懐旧の喜びが医師の声に感じられた。
そして美代は、光一の無事と英二の無事に、少し泣いた。

―…泣いたなんて絶対に、ふたりには言わないでね?私と湯原くんの内緒よ、

そんなふう笑って泣いていた、電話の向こうで美代は。
すこし意地っ張りな美代は涙を簡単に見せない、だから光一も英二も美代の想いは解かっていない。
そういう美代の強さが切なくて、けれど大好きだと改めて想えて、土曜日の公開講座で会えることが楽しみでいる。
きっと話題に北壁は出るだろうな?そんな予想と微笑んだ向こうから、綺麗な低い声が笑ってくれた。

「副隊長には下山して、すぐに報告の電話したんだ。吉村先生はメールしてさ、美代さんには光一が、」

名前を言いかけた低い声は、息を止める。
その気配が固い嗚咽を呑みこんだ、もしかして英二は泣いていた?
それは富士で聴いた光一の覚悟と関係あるだろうか、なにか誤解が生まれているだろうか?
この数日を見つめていた気懸りを想い、率直に周太は婚約者へと尋ねた。

「英二、光一と喧嘩でもしたの?」
「え、…」

どうして解かるのだろう?
そんな気配が電話を透して、8時間の時差を超え伝わらす。
その時間ごと距離を超えて、素直に英二は笑ってくれた。

「うん、喧嘩したんだ。もう俺、光一に嫌われたかもしれない、」

どうして、そんなことを言うの?
そう心で問いかけながら雪白の貌を想いだす、光一が英二を嫌うはずなんてない。
それなのに何故こんなことを英二は言うのだろう?今、英二が抱える想いを受けとめたくて、そっと周太は微笑んだ。

「ん…そうなの?」

よかったら話して?そう空気だけに伝えてみる。
話したくないならそれでも良い、けれど話すと楽になれることもある。
そんな想いの向こう側、電話越しにも涙堪える気配が、少し笑う英二の声に伝わった。

「天才の光一には俺なんか釣り合わない、俺は大した才能も無い。こんな俺は光一のパートナーには相応しくない、そう言ったんだ、俺、」

そんなこと言ったら、光一は傷ついてしまうのに?
スイスに発つ直前、新宿まで光一は告白をしに来てくれた、英二を心から望んでいると言ってくれた。
それなのに「相応しくない」だなんて?言われた瞬間の光一の傷を想い、そう言わざるを得ない英二の気持ちへと静かに尋ねた。

「どうして、そんなこと言ったの?…光一のパートナーは俺だけって、英二言ってたのに、」
「うん…そう思いたかっただけなんだ、」

哀しげな声が微笑んで、涙の気配が伝いおちる。
電話のむこう風が聴こえる、草原を踏んでいく足音がそっと響く。
きっと涼やかに晴れた夏の午後、そんな豊かな空から英二は哀しげに微笑んだ。

「俺は何でも出来るって皆、思ってるけど。俺は真似っこする要領が良いだけなんだ、何でも巧い人の物真似しているだけ。
周太や光一みたいなオリジナルは、俺には何も無い。誰かの力を借りなきゃ俺は、なんにも出来ないんだ。今日もそうだったよ、」

今日も、そうだった。
そう告げる言葉に贈ってくれた写メールを想う。
アルプスの女王と謳われる山、そこで見つめた想いを英二は話しはじめた。

「今日はね、周太。朝の4時から登りはじめたんだ。まだ昏くて、ヘッドライトの明りだけの岩の壁は真っ黒で、雪のところは蒼く見えた。
俺には全部、同じ壁だったよ。でも光一は迷わずに登って、すごいスピードで綺麗にハーケンを撃っていくんだ。これって難しいんだよ。
ハーケンは下手に急いで撃ちこめば岩が割れるんだ、でも光一が撃ったハーケンには岩の罅割れが無いんだ。岩の目ってポイントがある、
そう光一は教えてくれるけど、光一みたいには中々出来ない。それに光一って、登るとき絶対に岩を蹴り落とさないんだ、小石も落とさないよ」

夜間のルートファインディング、ハーケンを撃ちこむ的確なポイントとスピード、的確な足と岩の使い方。
いつもセカンドとして登るからこそ知れる光一の才能と技術を、英二は誰より知っている。
そのことが誇らしい時と悔しい時とある?そう気がついた意識へと綺麗な低い声が言った。

「光一は本当にすごいクライマーだって思う。今日、2時間ずっと一緒に壁を登っていて、俺との差が本当によく解かったんだ。
今日も本当は光一、ソロで登った方が速かったかもしれない。だけど光一は雅樹さんとの約束を叶えたくて、代りに俺と登ってくれたんだ。
それで…俺、気付いたんだ。雅樹さんは、クライマーの才能が本当にあった人だ。きっと光一にとって、一番のザイルパートナーだよ、」

数日前に見つめた、光一の雅樹への想い。
最初にアイザイレンパートナーに望んだ、それだけではない濃やかな繋がりを感じた。
その想いは恋愛にも近くて、あざやかに深く不可欠な存在として光一の心に息づいて温かい。

―…雅樹さん、あの山桜はドリアードが住んでるって本気で信じてたよ…君の山桜を雅樹さんは本当に愛してた、
   あの木に逢う為にいつも奥多摩に来てたんだ。だからね、雅樹さんが死んで、哀しくて逢いたくて、あの森に毎日通ってたんだ
   あそこに行けば雅樹さん、来てくれるって想ったから…雅樹さんに逢えなくても、雅樹さんが恋した山桜のドリアードに逢える
   山桜を手入れして可愛がって…そして1年が過ぎて冬が来て、山桜に花芽がついた時だった、君があの山桜の下にいたのは

光一が「山桜のドリアード」と自分を呼んで大切にしてくれる理由は「雅樹」だった。
だから自分には解る、光一が雅樹を想う深い純粋が、求める痛切が、ドリアードと呼ばれる自分こそ誰より解かる。
きっと光一は英二が言うように雅樹との約束を叶える為、今日もマッターホルン北壁を登っていただろう。
けれど、それだけの理由で光一は「英二」と共に登ったのではない。

…確かに雅樹さんとの約束は大切、それでも光一は英二と一緒に登りたいのに?

雅樹への想いはもう光一の一部になっている、だから消えることなど無い。
ずっと雅樹との約束を抱いて光一は生きる、そして「英二」だからこそ共に夢へ生きたいと光一は望んでいる。
それなのに英二は「身代わりだけ」と感じて自信を失くした?その想いに溜息こぼれた向こう、英二の声は涙隠すよう続けた。

「俺はね、周太。雅樹さんの身代わりも出来ることが誇らしかった、でも身代わりなんて出来ないよ?俺と雅樹さんじゃ才能が違うんだ、
確かに顔とか背格好は似てるかもしれない、でも…俺は、雅樹さんみたいには登れない、性格だって雅樹さんみたいに綺麗じゃないんだ」

―…雅樹さんは俺に山の夢を最初にくれた人なんだ。先生で、保護者でもあってね?憧れで大好きで、誰よりも尊敬して愛してるよ

数日前の富士山麓、透明なテノールの声を想いだす。
この言葉どおり雅樹のように、光一の先生にも保護者にも英二は成れない。
だから英二が言っている事は外れてはいない、けれど大切なことが抜けている。
その「大切」を教えてあげたい、そう想う電話越しに綺麗な低い声は哀しげに告げた。

「周太。今日、光一と北壁を登ったのは本当は俺じゃない、雅樹さんだよ。あの山の点に立つべきは雅樹さんだ、俺じゃない、」

そんなこと、言わないであげて?

そんなことじゃない、求められているのは「英二」あなたなのに?
もう光一は覚悟を決めている、だから自分のところに告白をしに来てくれた。
確かに雅樹の想いを抱いて今日も登ったろう、けれど光一が誰と登り、誰と生きたいのかは別。
だからこそ光一は、幼い日から待ち続けた夢から明日へ駈けだしていく為に「英二」を望むと宣言してくれた。

…英二、そうじゃない、光一の想いは違う、雅樹さんの願いだってそうじゃない

光一と雅樹、ふたりの真実をどうしたら英二に気付いてもらえる?
どうしたら英二が光一の想いを、素直に全てを受けとめられる?
ふたりが幸せに笑ってくれる為に、何を伝えたら良いの?

大切な人の笑顔、そのために自分は今、何を出来る?





(to be continued)

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第58話 双壁side K2 act.1

2012-12-01 09:17:39 | side K2
「誓」 終わり、始まる



第58話 双壁side K2 act.1

木洩陽ふる風が頬を撫で、ひとつ息を吐く。

見上げる巨樹は豊麗に梢を繁らせ、うすい浅緑の葉は馥郁と香をふらす。
あまく品の佳い香に、懐かしい人の俤を見つめて光一は微笑んだ。

「雅樹さん、やっぱりこの山桜のこと、好きなんだね?」

懐かしいひとの名前を呼んで、問いかける。
けれど応えてくれる声は無い、それでも記憶の深くから大好きな声は笑ってくれる。
その声に今、見上げる梢の馥郁はやわらかに香らせて、幼い日の温もりを想いだす。

―雅樹さんの匂いって、桜の香と似てるね、

23歳だった、最期に逢ったのは。
医学部5回生の青年だった雅樹は当然、成人男性だった。それでも不思議と佳い香がしていた。
そんなところも雅樹は他の大人たちと違っていて、森と似た懐の香が大好きだった。
そして、この場所に一緒に来る時間には、穏やかな幸せがあった。

「光一、この山桜にはね、ドリアードが住んでいるんだ。だから大切にしてあげたいんだよ、」

綺麗な落着いた声が微笑んで、白い長い指の手は草刈鎌を器用に遣う。
大きな山桜の根元から生える蔦を払い、実生の芽には周りを空かせるよう草を抜く。
そんなふう山桜の守をするために、雅樹は週末になると奥多摩の祖父母の家に帰ってきていた。
そのたびごと光一を誘ってくれて、いつも一緒に寝泊まりしては桜の守をして、それから山で遊んだ。

「光一は山登りも得意だけど、川で泳ぐのも巧いな。魚とりも僕よりずっと上手だね、」

そう言って褒めてくれながら、食べる分だけ獲った魚を器用に串を打ち、焼いて食べさせてくれた。
その串だっていつも自分で削ってくれた、そういうことが雅樹は都会育ちでも器用で、上手だった。
こんな想い出は、ふとした時にあふれだして心を占めて、懐かしい温もりと生々しい傷みを奔らせる。

「逢って話せたら良いのにね…ガキの頃みたいに話したい、ね…雅樹さん」

心の聲ごと溜息こぼれて、ふと目をおとした先に薄紫の花がゆれる。
一叢の野菊へと、指を伸ばしそっと手折り、携えてきた庭の花たちに加えた。
そしてもう一度だけ山桜を見上げて、切ない想いと笑いかけると光一は森の出口へ歩き出した。

―俺は身勝手だね、でも嘘は吐きたくない…泣かせるかもしれないのに、でも、

森の中を歩きながら、考えは廻っていく。
今日、このあとに自分が動いていく予定は、もう何度も考えてきた。
幾度も考えて、覚悟して、それでもまた考え込んで今日だと決めた。

「…後悔はしないね、もう」

そっと声に出してみる、それでも本音は「怖い」と泣きたい。
そんなに臆病になる自分だという現実に、自分で予想外で途惑ってしまう。
こんなふう自分が途惑うだなんて、自分がいちばん意外で、けれど納得もしている。

―とにかく、覚悟をキッチリしに行こっかね?

心に笑って森を出ると、視界に広がらす青空がまぶしい。
目を細め見上げる空は白雲がゆっくり動いていく、その雲も光を籠らせ輝いている。
今日はすこし暑くなりそうだな?そんな観天望気を想いながら傍らの寺の門を潜る。
濃やかな緑陰のなか誰もいない境内を横切り、本堂に頭ひとつ下げると水場へ向かう。
水桶にたっぷり閼伽水を汲み柄杓を添えて、苔むす道の石畳を独り、記憶を辿り歩いて行く。

―この道を歩くこと、ずっと怖かった…あいつに逢うまでは

そっと独り言が心ふるわせ、鼓動がひとつ打つ。
ゆっくり自分の内から響きだす心拍の音、この音にも懐かしい俤は微笑んでしまう。
待ち遠しかった週末の夜、布団のなか抱きしめてくれる懐に心拍を聴いて眠る、それが好きだった。
やさしい桜の木と似た香、大らかで温かな懐、規則正しい心臓の鼓動、お伽話をしてくれる落着いた綺麗な声。
どれもが自分の宝物で、全てを自分だけに向けてくれることが嬉しくて、誇らしくて、それは永遠に自分のものだと信じていた。

―信じていた、けれど消えたんだ全部…だから怖かった、

雅樹の死を、認めることが怖かった。

16年前の秋、不思議な気配に目が覚めた暗闇に自分は悟っていた。
まだ夜明け前の真暗な屋根裏部屋、けれど桜の森にいるような馥郁が優しい。
そんな香と気配とに、前の日の早朝に感じていた「違和感」の理由を悟り、独りきり泣いた。
涙が流れる理由なんて解かっていた、あのとき自分の部屋に居るはずのない気配がある、その理由なんて1つしかない。

―それでも、解かっていても認めたくなかった、生きて帰ってくると信じたくて…約束をしているから、

雅樹との約束、それを信じていたかった。

たくさんの山に登る約束、登攀時間で記録を作る約束、そして八千峰を踏破する約束。
もう幾つの山に約束を懸けたのだろう?その全ては叶えられると信じていた。

そして、自分は幾度、消えた約束の名残に泣いた夢を見たのだろう?

「雅樹さん、来たよ?」

立ち止まり、一基の墓碑へと光一は笑いかけた。
この墓に来るのは葬儀のとき以来になる、それくらい16年間ずっと逃げていた。

「雅樹さん、ずっと来ないでごめんね?俺、雅樹さんが…死んだことから逃げてたんだ、」

本音と微笑んだ頬を、熱い雫が奔った。
ぽとん、石畳に雫は落ちて紺青色の小さな水溜りが出来る。
それを見る視界が曇っていく、それでも光一はジャケットのポケットからサラシを出した。
墓碑の花活を濯いで水を充たし、持って来た庭と森の花を活け込んでいく。
それから新品のサラシを柄杓の水で濯ぎ、ゆっくりと墓碑を磨き始めた。

「雅樹さん、聴いて?俺ね…好きなヤツが出来たんだ。一緒に北鎌尾根を歩いてくれた、あいつだよ?」

磨いていく手許、ふれる墓石へと静かに語り掛ける。
誰が応えてくれるわけじゃない、そう解っていても聴いてほしい。
そんな願いのまま触れる墓石は、夏の陽光に温まり懐かしい体温を思わせて、涙ひとつ零れた。

「俺ね…雅樹さんだけだった、あんなに人間で好きになったのって…だから怖くなったんだ、誰かを好きになって失うの。
だから俺ね、ドリアードに恋したんだよ?雅樹さんが恋した、あの山桜のドリアードだよ…でも男だったんだ、だから結婚出来ない、
でね…北鎌尾根のあいつって、ドリアードの婚約者なんだ。男同士だけど恋愛してるよ、本当に籍も入れて結婚するんだ、ふたりは。
それって俺には出来ない、祖父さんと祖母ちゃんと、家を護らないといけない…俺は誰か女と結婚しないとダメだね、だから諦めるんだ、」

初めて逢った14年、ずっと想っていた夢。
初めて山桜のドリア―ドに逢って、あのときから妻にしようと思っていた。
けれど、その夢は叶わない。この夢の終わりへと光一は綺麗に微笑んだ。

「俺ね、雅樹さんが居なくて寂しかったから、だから雅樹さんが恋したドリアードに逢いたかったんだ。それで一緒に居たかった。
だから結婚してもらおうって思ってたけど、もう諦めるんだ。今日ね、フラれに行こうって思ってるんだ。で、嫌われるかもしれない。
だってね、ドリアードの婚約者に俺、惚れちゃっただろ?そいつにね…抱かれたいって言いに行くんだ、俺。馬鹿みたいだけど、言うんだ」

サラシで磨き上げていく墓碑の、戒名の並ぶ面の前に立つ。
その名前たちを見つめながら磨いて、そして愛する名前に手が止まった。

「ね、雅樹さん?…俺ね、あいつに抱かれたいんだ…好きなんだ、惚れてるんだ…こんなこと想ったこと無かったよ、ずっと。
あいつのベッドに俺、たまに邪魔して一緒に寝るんだけどさ、森みたいな匂いするんだ…雅樹さんとは全然違う匂いなんだよ?
ほろ苦くって甘い、深い感じ…あの匂いが好きなんだ、心臓の音もね、雅樹さんと違うよ?でも好きなんだ、あいつの鼓動を聴くの、好き…っ、」

頬を熱い雫こぼれて、そっと額を墓碑につく。
愛する名前の戒名に頬ふれて、温かい石と肌の間を涙が流れ落ちた。

「雅樹さん、まさきさんっ…だいすきだよ、今も、ずっと好きだ…おれ、ほんとに雅樹さんに惚れてたよ?ガキだったけど、ね…
なんにも解かっていないガキだったけど、でも本気なんだ、ずっと…だから、キスしたんだ。ね、憶えてるよね?夏の穂高の、梓川だよ?
俺、眠ってる雅樹さんにキスしただろ?あのキス、ずっと大切にしてたんだ…ドリアードにキスするまで誰にもキスしなかったよ?でも、」

涙のみこんで、けれど石と頬のはざまを熱はあふれていく。
石に刻まれた愛しい名前と涙で繋がれながら、光一は俤へと想いを告げた。

「あいつ、春先に雪崩遭ったろ?あのとき俺、あいつにキスしたんだ、初めて。あのとき怖かったんだ…雅樹さんみたいになるの、
だからキスしたんだ、生きて温かい唇とキスしたかったから…それで、北鎌尾根で…っ、惚れたんだ本気で…ね、抱かれたいよ、俺。
あのとき英二、まだバリエーションルートを単独なんて無茶だった…でも俺の山ヤの誇りを護りたいからって、あいつ本気で命も懸けて…」

積雪期の槍ヶ岳北方稜線・北鎌尾根を、英二は光一と共に歩いてくれた。
あの場所で遭難死した雅樹の慰霊登山から、ずっと自分は逃げ続けていた、雅樹の死を受容れられなくて。
アンザイレンパートナーとして本当は行うべき慰霊登山、その誇りを知りながら出来なかった、逃げていたかった。
けれど英二が向きあわせてくれた、命懸けで諭して、光一の誇りを護ってくれた。あのときから募っていく想いを光一は言葉に変えた。

「雅樹さん、あいつ言ってくれたよ?俺に憧れて山ヤの夢を見るようになったって、ずっと恋してたって…俺、うれしくて、大好きで…
雅樹さんと出来なかったこと全部、英二として生きたい、ずっと山に登って、ずっと愛し合って信じあって…結婚出来なくても一緒にいる、」

そっと頬を墓碑から離し、名前を見つめる。
大好きな名前は幼い日、少し難しい漢字だと思ったけれど書けるよう何度も練習した。
そんなにも自分は「雅樹」が特別だった、その想いは今も枯れることなく心で咲き続けて今、新しい花を咲かせようとしている。

「雅樹さん、あいつが俺のアンザイレンパートナーなんだ、結婚しなくても俺たちは山で繋がって、一緒に生きられるんだ。
だから護ってよ?あいつのこと…あいつはね、雅樹さんの夢を一緒に叶えられる唯ひとりだ…雅樹さんと似てるのに全然違う男だよ。
あいつを連れて俺、北壁をヤりに行くよ?マッターホルンとアイガー、約束したタイムで登ってみせる。だから護ってよ、あいつのこと」

どうか護ってほしい、今の英二には厳しいトライアルだと解かっているから。
それでも今、夢を叶えたい想いに我儘を言いたくて、願いを聴いてほしくてここに来た。
そんな想いと墓碑を磨き上げ、水入れに冷たい水を満たすと線香をあげ、光一は微笑んだ。

「雅樹さん、これからドリアードに告白しに行くよ、今話した事をね。狡いかもしれないけど俺、あのひとには嘘吐きたくないんだ。
きちんと全部を話して、それから雅樹さんとの約束を叶えに行ってくる。ふたつ今回、やってくる。だから一緒に登ってよ?護ってよ、」

笑いかけながら立ち上げり、水桶を手にもう一度だけ向かい合う。
物言わぬ墓碑、けれどこの下に愛しい人の名残は埋められている、その現実へと光一は潔く微笑んだ。

「雅樹さん、俺のアンザイレンパートナーとして約束を護ってよね?俺たちは生と死に別れても、約束と山で繋がってるはずだね。
だって俺は知ってるよ、北鎌尾根から槍の天辺に着いたとき『僕』って言ったよね?三角点タッチするまで英二は、雅樹さんだったね、」

あのとき英二は雅樹の身代わりとしてザイルを繋ぎ、共に北鎌尾根を歩いてくれた。
あのとき雅樹だと思って自分も話し、英二も雅樹のよう答えて本当に身代わりをしてくれた。
けれど、最期に槍ヶ岳山頂に辿り着いたとき、ずっと「俺」と言っていた声が「僕」に変った。その事実へ光一は綺麗に笑いかけた。

「あのとき雅樹さんは俺との約束を叶えてくれたね、だから俺も約束を叶えに行くよ?あいつと一緒に北壁2つ、一発で貫いてみせる、」

誓い告げて、手の甲に涙を拭い笑いかけると静かに踵を返す。
その視界の先、門の向こうを真直ぐに見つめて光一は、木洩陽ふる石畳を歩き出した。



摩天楼の空は狭い、それでも青い虚空から夏の陽は街路樹きらめかす。
フロントガラスの向こう人間達の街を見る、けれど心はふるさとの山を見つめている。
その山の麓には愛する人たちが静かな眠りに微睡む、そこの1つで1時間前に見つめた想いに、ピアノの旋律が甘い。
母が遺したアップライトピアノの音、その優しい透明な旋律に、低く合わせて唇から歌がこぼれだす。

……

季節は 色を変えて 幾度廻ろうとも
この季節は枯れない花のように 揺らめいて 君を想う

奏であう言葉は心地よい旋律 君が傍に居るだけでいい
微笑んだ瞳を失さない為なら たとえ星の瞬きが見えない夜も
降り注ぐ木洩陽のように君を包む それは僕の強く変わらぬ誓い
夢なら夢のままでかまわない 愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは 真実だから…

残された哀しい記憶さえ そっと君はやわらげてくれるよ
はしゃぐように懐いた やわらかな風に吹かれて靡く あざやかな君が僕を奪う

季節は色を変えて幾度廻ろうとも この気持ちは枯れない花のように
夢なら夢のままでかまわない 愛する輝きにあふれ胸を染める
いつまでも君を想い…

……

この歌のように、季節はもう変わっていく。
もう自分は8歳の子供でもなく9歳の少年でもない、2ヶ月半前に24歳になった。
もう雅樹が亡くなった齢を超えた、もう大人になって幼い日の約束を叶えられる齢になった。
もう「山っ子」なだけではない自分、そんなふう時は変わっても、それでも想いは枯れることなく深まって、もう永遠に終らない。

「…でも、終らせないと始まらないってヤツもあるよね、」

そっと、決意が唇こぼれて小さく笑う。

想い続けるだけが相手への真実じゃない、そんなふうに、もう思い知らされている。
だから今から「諦める」それは終りから始めるために、新しい瞬間のために諦める。
そんな想いにカーステレオのスイッチを押し、CDを出すと他をセットしてボリュームを絞った。
新しい旋律を聴き流し、ビル風にひるがえる梢を見ながら運転席で携帯を開き、その発信履歴から電話を架ける。

―出てくれるよね、君ならきっと

きっと応えて電話を繋いでくれる、このコールに出てくれる。
そんな想いにコール呼んでいくごと鼓動は詰まっていく、緊張していく心が解かる。
そっと溜息を吐いて5コール目、繋がった電話に光一は呼吸ひとつ微笑んだ。

「おはよう、周太。急にごめんね、」
「おはよう光一、どうしたの?」

優しい声が応えてくれる、そのトーンが少し緊張している?
そう感じて今の時間に気がつかされて、光一は申し訳なさに溜息と微笑んだ。

「アクシデントとかじゃないから安心してね?」

告げた言葉に電話の向こう、ふわり緊張が寛いだ。
ほら、やっぱり周太は英二の心配をすぐにした、今は登山道巡回の時間だからと遭難事故の心配をしたのだろう。
そんな反射運動のような心の動きに周太の愛情が解かる、そんな心ごと愛しくて逢いたくて、素直に光一は誘いに笑いかけた。

「でね、今から周太、外に出れる?ドライブに付きあってよ、」
「光一、今、新宿にいるの?」

ほら、すぐ気がついて聴いてくれる。 こんな細やかな優しさが自分を救ってくれる。
けれど、こんな優しい相手を今から自分は傷つけるだろう、その途惑いと哀しみに相槌は沈んだ。

「うん…」

頷いて、想った以上に声が重たい。
こんなふうに自分を沈ませる人は稀だ、それくらい大切な相手なのに?
愛惜に微笑んだフロントガラスの向こう、街路樹の光を見る想いへと優しい声は言ってくれた。

「光一、10分待っててくれる?すぐ寮から出るね、どこに行けばいい?」
「新宿署の裏で待ってる、」

即答した声がすこし明るんだ、そんな自分に困りそうになる。
こんなにまだ「待っている」と言いたい自分、それでも今日、終らせて始めたい。

―もう終わりにするんだ、そうしなかったら始められない

心に独り言で覚悟を見つめる。
そして光一は電話の向こうへと綺麗に笑いかけた。

「ありがとうね、周太、」

ありがとう、15年間ずっと ― この15年間の想い全てへ微笑んで、そっと光一は電話を切った。






【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」】


(to be continued)

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