憧憬の温度、それぞれの夢に今、
第58話 双璧act.6―another,side story「陽はまた昇る」
今日、光一と北壁を登ったのは本当は俺じゃない、雅樹さんだよ。
あの山の点に立つべきは雅樹さんだ、俺じゃない。
そう告げた綺麗な低い声は黙りこんで、電話に繋がれた沈黙が静かに響く。
この沈黙に英二の心が映りだし、懐かしい憧憬の瞬間が起きあがる。
―…湯原、見てよ。これが警視庁の山岳救助隊なんだ、
湯原、そう英二は自分を呼んでいた。
まだ初任科教養だった時、警察学校の図書室で資料を一緒に見せてくれた。
「青梅署の救助隊だって書いてあるけど、雪の山だろ?ちょっと東京っだって思えないよな、」
「ん…奥多摩は結構、雪が降るよ…八王子とか立川とか、第八、九方面は」
相槌を打ちながら一緒に眺めた資料には、真白な雪の尾根と真青な空が映っていた。
空には救助ヘリコプターの姿、そして雪の上には青いウィンドブレーカーの背中が真直ぐに立っていた。
青地に白く染め抜いた「警視庁」を背負い雪に立つ背中は、誇らかに自由で、大らかな頼もしい雰囲気があった。
その背中を長い指は示して、綺麗な低い声が楽しげに笑って教えてくれた。
「この人の背中、かっこいいだろ?俺、こういう背中になりたいから、山ヤの警察官になろうって思うんだ。厳しいだろうけど諦めない、」
山ヤの警察官、その言葉に記憶が微かに揺らされた。
あのときはそれが不思議で、けれど今にしたら理由がよく解かる。だって自分は子供の頃に後藤と会っている。
初めて会った当時の後藤は40歳前、警視庁山岳救助隊のエースであり、山岳界では模範とするべき山ヤとして認められていた。
そんな後藤の背中を意識の深くでは憶えていたのだろう、まだ記憶喪失のままでも「山ヤの警察官」のイメージはすぐ出来た。
そして、英二が山ヤの警察官の背中に憧れたことが至極当然に想えて、きっと英二には似合うだろうと感じていた。
そんな英二の憧憬「背中の写真」を撮影したのは後藤で、撮影されたのは後藤の秘蔵っ子である光一だった。
…あの背中は光一だった、光一だから英二は憧れて山ヤの警察官になったんだ、
あのとき純粋な憧れだけが英二の笑顔に輝いていた。
ただ背中の写真しか知らない相手への素直な賞賛、そして夢が明るく笑っていた。
けれど今の英二は泣きそうな気配に唇噛むよう微笑んで、電話の向こう溜息の気配が伝わらす。
ただ哀しくて悔しい、そんな溜息には山ヤとして男としての誇りと、焦燥感を生む向上心が輝いている。
そして、あのときと変わらない純粋な憧憬と、その憧憬があでやかに花ひらいた「恋愛」の情熱まばゆい。
この純粋な想い達があるなら大丈夫、そんな想いに周太は婚約者へと静かに微笑んだ。
「そうかもしれないね、でも英二…光一は本当に英二のこと大好きだよ、そんなこと言ったら哀しむよ?…光一を傷つけないで?」
ごくシンプルなことだけ伝えて、何が大切かを想いださせたい。
どうか独り決めしないで?この願いとベッドの上に座りこみ携帯電話に頬よせる。
けれど電話の向こうは遠い青空の下、涙ひとつの気配と一緒に哀しげな声が微笑んだ。
「ありがとう、周太。だけど光一はもう、俺のこと愛想尽かしたかもしれない。そしたらごめんな、」
そんなことあるわけがないのに?
けれど今の英二は自信を失くして、沈んでいく心は盲になっている。
その視野を広げて気付かせてあげたい、その願いに周太は笑いかけた。
「そんなこと言わないで、謝らなくて良いから…その代り英二、約束して?」
「約束?」
言葉に微笑んで、訊き返してくれる。
いま少し笑ってくれた、その分だけ少し心に余裕が空いただろう。
そう感じて周太は一番伝えたい想いを祈り、言葉に変えて恋人へと笑いかけた。
「光一の言いたいこと、ちゃんと全部を聴いて?光一の気持ちを素直に受けとめて、心も体も全部、ね…そう約束して?」
告げた声はいつも通りでいる、それが嬉しい。
この言葉の意味を真直ぐ理解してくれるだろうか?そんな期待の向こうから綺麗な低い声が問いかけた。
「周太、教えて?周太がいま言ったことって、光一が望んだらセックスしてってこと?」
「はい、そうです、」
問いかけに答える声は、ちゃんと微笑んだ。
その微笑に電話の向こうが和んでくれる、その素直な反応が嬉しいまま周太は笑いかけた。
「でもね、しても俺に何も言わなくて良いからね?…ふたりが幸せだったら、それで良いから…ね、約束してくれる?
光一の話を聴いて受けとめて?本当の気持ちで向きあって、ふたりで夢を追いかけて?そう約束して英二、俺のお願いを聴いて?」
お願いを聴いて?
そう自分に言われたら、きっと英二には断れない。
この「お願い」が英二の背中を押してくれる、そう願っている。
大切なふたりには、どうか想い支えあって夢を叶えてほしい、その為なら自分はどうでもいい。
…もう俺はどうでもいい、もう大丈夫だから、ふたりには沢山もらったから大丈夫だから
ただ素直に感謝が心で呟いて、もう充分に想いは充たされ温かい。
弱虫で泣き虫の我儘な自分、けれど光一も英二も自分を想ってくれる、いつも沢山の約束で愛してくれる。
いつも変わらない2人の率直な真心と温もり、それが自分は独りで生きているのではないと気付かせてくれた。
ふたりが贈ってくれる優しい記憶と信頼感、その全てが、この自分を支え相手も受け留める強さを育んだ。
だからもう大丈夫、ふたりが互いを見つめ合う瞬間にも自分は、孤独に泣かない。
…もう俺は、いつも独りじゃないって心から信じられる、だから大丈夫、だから…お願い、英二?
だからお願い、英二?今度は自分から、想いを贈らせて。
どうか光一を受け留めて幸せにして欲しい、自分が出来ない分も。
そして英二にもっと幸せになってほしい、自分には出来ないことが光一には出来るから。
この自分を支えてくれるほど強く美しい二人なら、お互い支え合う時きっと不可能も可能に出来る。
だから見つめ合ってほしい、そして夢の全てを叶えてもっと輝いてほしい、本当に大切な2人には幸せでいてほしいから。
そんな想いに心深く見つめる俤は、はるか遠い国からも大好きな声で自分を求めねだってくれた。
「周太、お願い聴いたら俺のこと、もっと好きになってくれる?ずっと傍にいてくれる?」
もっと好きになってほしい、ずっと傍にいて待っていてほしい。
そんなシンプルで単純な幸せを求めてくれる、こんな時にまで自分を乞うてくれる。
その願いがただ嬉しくて、想い寄せてくれる温もり信じて周太は笑いかけた。
「ん、すきになる…だから言うこと聴いて?それで無事に帰ってきて?家も掃除して、おふとん干しておくから、」
日曜日の週休は、日帰りでも実家に帰ろう。
異動を控えて慌ただしい時だけど、だからこそ今、掃除をしてふとんを干したい。
そうして英二が帰ってきても居心地良いようしてあげたい、そんな普通の願いへと英二はねだってくれた。
「周太の作ってくれた飯、食べたい。約束してよ、周太?また俺に飯、作るって約束して?そうしたら言うこと聴くよ、」
「ん、…約束する、だから光一と話してね?この電話を切ったらすぐに、ね?」
喜んでもらえる食事を、心ゆくまで食べさせてあげたいな?
そんな素直な願いに微笑んで約束を結びながら、そっと婚約者の背中を押している。
…この電話を切ったらすぐに、って言ったら英二は、すぐに行動してくれる
時間を区切られたら英二は言われた通り、きちんと電話の後すぐ光一と話すだろう。
本質が生真面目で物堅い英二は時間感覚も鋭敏、だから朝に水を浴びながら時間割を決める習慣がある。
きっと今も時間を決めたから大丈夫だろうな?そんな考え微笑んだ向こうから、綺麗な低い声は明るく笑ってくれた。
「うん、すぐ話すよ。ありがとう周太、大好きだよ?ここから今、周太にキスしたい、」
キスしたい、そう大好きな大切な婚約者が言ってくれる。
この言葉こそ信じて受けとめたい、本当はずっと声を聴いていたい。
そんな本音にすこし困りながら微笑んで、周太は気恥ずかしさと一緒に婚約者へ笑いかけた。
「ん、俺も大好きだよ?…またきすしてね、おやすみなさい」
「うん、キスするよ。おやすみ周太、夢で逢ったらキスさせてね?」
電話と8時間の時差越しに笑い合って、そっと通話を切った。
ほっと息吐いて携帯電話を閉じ、ゆっくり部屋は静謐に浸されだす。
部屋の明りをデスクライトに絞り、ほの明るい優しい夜にベッドへ座りこむ。
その耳元にIpodのイヤホンを繋いで、スイッチを押すと手元の本を開いて灯りへ向ける。
栞を挟んだページを捲ると雪山がそこに広がらす、そしてイヤホンから穏やかな旋律があふれた。
……
I'll be your dream I'll be your wish I'll be your fantasy I'll be your hope I'll be your love
Be everything that you need. I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
I will be strong I will be faithful
‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning
I want to stand with you on a mountain…I want to lay like this forever
…
Then make you want to cry The tears of joy for all the pleasure and the certainty
That we're surrounded by the comfort and protection of The highest powers In lonely hours The tears devour you
I want to stand with you on a mountain…I want to lay like this forever
…
Oh, can you see it baby? You don't have to close your eyes
'Cause it's standing right before you All that you need will surely come
…
I love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
I want to stand with you on a mountain
……
やさしいアルトヴォイスが歌う、夢を見つめ寄添いあう恋愛。
この英語の曲を初めて聴いた、青梅署単身寮の一室を記憶に想いだす。
あの部屋に香っていた深い森と似た恋しい気配、泣きながら微睡んだ白いシーツのベッド。
そして、抱きしめた山岳救助隊服に染みついた山の土と、愛しい汗の匂いが今、そっと懐かしく慕わしい。
…大好きだよ、英二?だから幸せになって、誰よりも夢に輝いて生きて?
心に想う祈りへと、想い出の曲は優しく歌ってくれる。
この歌詞に想いこめてくれた優しい婚約者、その人が幸福を得られるのなら自分は嬉しい。
そのためなら幾度でも涙を呑みこむ、幾らでも強くなれる、そう自分を信じられるだけ充分愛してもらった。
この大らかな勇気ひとつに心温めて、大切なふたりが明後日に向かう「壁」アイガー北壁の困難と栄光を今、ページに捲る。
そこに描かれていく高峰の現実には自分は立てないと実感が傷む、本当は、この目で頂点の世界を見たい想いが心で叫ぶ。
…きっとお父さんも見ていた世界なんだ、これが…でも、俺には行けない
たぶん小学校1年生の頃だろう、父と一緒に高い山へ登った記憶がある。
晴れた初夏の日和は涼やかだった、高山植物の花々を嬉しく観察しながら登って、けれど森林限界を超えた途端に歩けなくなった。
ついさっきは元気だったのに?もどかしい想いごと父に背負われ下り始め、けれど灌木が生える所まで来ると呼吸が楽になった。
そんな自分の様子に父は病院で検査を受けさせてくれた、それ以来のど飴をいつもポケットに入れてくれるようになった。
そして、標高2,500mを超える山に行く時は、いつも途中までしか登らなかった。
…あのときの検査、たぶん英二が受けたテストと同じなんだ
スイスに発つ前、英二は高地の適性テストを幾つか被験している。
この検査項目の全てが英二は優良だった、これらのテストを受ける度に英二は電話で話してくれた。
その話を聴くごと幼い記憶が呼び戻されて、自分の体は高地の適性が低いことに気付かされた。
…だから、お父さんと穂高に登ったときも涸沢までだったんだね…きっと、お母さんなら検査結果を知ってるんだろうな
検査を受けた当時は深く考えなかった、単純に、好きな蜂蜜オレンジのど飴をいつも持てる事が嬉しかった。
標高の高い山に連れて行ってもらえる時も、頂上まで登らず灌木が生える所で引き返しても不満や疑問は無かった。
元から自分が山登りを好きな理由は植物観察だったから、大きな木や珍しい高山の植物を見られるなら満足だった。
けれど、今は違う。父の軌跡を追いかけたい今は、英二と光一の夢に出逢った今は「山」に別の願いを持ってしまった。
…俺も高い山の天辺に登りたい、お父さんたちの夢の世界を見てみたい…だから山での応急処置も勉強したのに
たとえ北壁のような難しいルートは無理でもノーマル・ルートで頂上に行ける、そう思っていた。
6,000m峰などの難関は無理だろう、それでもアルプスの4,000m級までなら登れるだろうから、いつか行きたいと想った。
愛する人達が夢見る「高峰」その世界を少しでも見てみたい、厳寒期は無理でも夏なら行ける、そう信じていた。
たぶん検査を受けた頃よりは体力も格段に高くなっている、それでも体質はそう簡単には変わらない。
…だから英二と約束した北岳も、頂上は行けないかもしれない…約束ごめんね、英二
おそらく自分が高峰の頂点に立つことは、難しい。
そんなふうに、真剣な努力にも限界がある「体」の現実に気づかされた。
だからこそ光一に英二を託したかった、光一なら英二の夢と努力に応えられるから。
この叶わぬ夢への想いも託せる大切なふたり、いま夢に登らす祈りをIpodのアルトヴォイスが歌う。
“Oh, can you see it baby? You don't have to close your eyes
'Cause it's standing right before you All that you need will surely come…
I love you more with every breath… I want to stand with you on a mountain ”
どうか愛しい人、ちゃんと見つめて?目を瞑っては駄目。
あなたに必要なもの全てに辿りつく未来が、あなたの目の前にあるのだから…
息をするごともっと愛するから…山の上にあなたと立ちたい
…だいすき、光一も英二も。お願いだから無事に夢を叶えて?信じて待ってるから…心だけでも俺を、最高峰に連れて行って
優しい記憶の旋律、明後日の夢と栄光を描く文章、ふたつに包まれながら周太は温かい眠りに微睡んだ。
正午の鐘が鳴り、講堂はざわめきが生まれだす。
テキストを仕舞う音、話す声、感想用紙を回す気配。
講義が終わった空気が起きていく片隅で、そっと周太はクライマーウォッチを見た。
…そろそろ起きたかな?あと1時間でスタートだね…体調はどうかな、
午前5時、英二と光一はアイガー北壁の登攀をスタートする。
時差8時間のスイスだから日本時間13時に、ふたりは巨大な凍れる壁を登りだす。
“Eeger” アイガー北壁は「死の壁」と呼ばれる。
標高3,975m、北壁の標高差1,800mは東京タワー5個分相当の垂直な壁。
自分には想像できないような高い壁、そこを2人は3時間で登ろうとしている。
1時間につき600m、1分で10mを標高2,000mを超えた希薄な空気のなか登攀していく。
それは誰にでも出来ることではない、選ばれた体と能力と努力が揃って初めて叶う。その挑戦権を2人は持っている。
…俺には出来ない、その世界に行くことは。だけど時計が一緒に登ってくれるね?
いま見つめている自分の左手首のクライマーウォッチは、元は英二の宝物だった。
これを英二が買い求めたのはちょうど1年前、初任科教養在籍中の外泊日に新宿で見つけた。
―…山では便利でほしかったんだ…俺、出来れば青梅署に行きたいんだ…湯原。俺はね、山岳救助隊員になりたいんだ
買いたての山時計をつけた笑顔は、自由な誇りが輝いていた。
この時計を英二は大切にしながら青梅署に卒業配置され、山ヤの警察官として生きる道に立った。
そんな英二の夢と努力を刻んだ時計が欲しくて、交換してもらおうとクリスマスにクライマーウォッチを贈った。
そして今、自分の腕に英二の初めてのクライマーウォッチは時を刻んで、元の持主が見つめる瞬間を夢見ている。
…いまごろ英二の時計は午前4時を過ぎたね?光一の時計も、
光一のクライマーウォッチ『MANASUL』は、英二と周太とで誕生日に贈った。
あの腕時計は特別仕様で標高8,000mでも耐えられる造りになっている、そして名前が光一にとって意味深い。
光一の両親はトップクライマーだった、けれど11年前4月、世界第8峰マナスルでふたりとも遭難死した。
光一の両親を眠らせた山、マナスル。その名を冠したクライマーウォッチに時を見つめ光一は北壁を登る。
…光一、きっとご両親も一緒にいるよ?田中さんも、雅樹さんも一緒だよ?…どうか無事に夢を叶えて
明るい光ふる大学の講堂で、蒼い巨壁の時を見つめる。
あと1時間で大切な人たちは夢へ登っていく、その涯にある蒼穹の点が輝くことを祈る。
山を愛した父が遺した古い本、そこに描かれていたアイガー北壁の現実を想い、今この瞬間にある1,800mの壁に願う。
どうか山、若い二人の山ヤを受け容れてほしい。
ふたりは山の静穏のために日々を懸け、泥と血に塗れることも厭わず生命と尊厳を救う。
そして山への敬愛を抱いて高みを目指し、登り、遥か遠く高い点から世界を見て空に笑っている。
そんな二人をどうか山、その大きな悠久の体を登らせてあげてほしい、風にも低温にも掴まえず「山」で生かせてほしい。
…お父さん、もうじき英二たちが登るよ?護って、お願い
そっと心に祈りを見つめ、傍らのブックバンドを見てしまう。
いつものテキストと蒼い表装の専門書、それからカバーをした古い本を挟んである。
Heinrich Harrer『白い蜘蛛』
アイガー北壁を初登頂した、オーストリア人の学者ハラーが遺した登攀記録。
このタイトルの「白い蜘蛛」はアイガー北壁にある雪田、大きな氷壁が蜘蛛の形と似ていることに由来する。
その氷壁は危険個所だとハラーは記していた、この「蜘蛛のよう危険」だと言う意味も兼ねた題名になっている。
別名に「人を食う壁」とも言われるアイガー北壁、その数多と死んでいったクライマー達の悲劇と、完登の栄光がそこにある。
…どうか栄光がふたりを、英二と光一を迎えますように
名誉とかは知らない、けれど夢に光輝く幸せを願いたい。
そんな想いに佇んだ隣から、優しい手が感想用紙を渡してくれた。
「湯原くん、今、心はアイガーに行ってたね?」
可愛い声が微笑んで、きれいな明るい目が笑いかけてくれる。
いつもの明るい笑顔、けれど綺麗な瞳の奥には緊張が泣きそうでいる。
この気持ちは自分と同じ、そんなふう同じ想いを共有できる友達に周太は綺麗に微笑んだ。
「ん、一緒に冒険する気持ちだよ?美代さんも一緒に行くでしょ?」
「うん、心は冒険に行くよ?湯原くんと一緒なら楽しいね、」
きれいな明るい目が楽しげに笑ってくれる。
すこし緊張を解いた笑顔が嬉しい、嬉しくて周太はペンを取りながら笑いかけた。
「ん、きっと楽しいね…でもね、俺と美代さんは植物学でも冒険に行かないとね?」
「ね、私たちにも冒険があります。今日の感想はポイント、どこにしようかな、」
明るい目は愉しげに笑い美代もペンを取った。
お互い感想用紙に向きあって、夏の光ふる窓辺に講義の感想を綴っていく。
今日は葉と光線の関係が面白かったな?オジギソウの体内時計の実験をしてみたいな?そんな考えめぐらせペンは綴る。
そうして書いていく感想に「実験して確かめたい」と記されていることが前より増えた。
…俺、本当にこの勉強が好きなんだ、
記していく感想に本音を見て、そっと心から微笑こぼれる。
こんなふう自分にも見つめたい夢がある、そんな現実が幸せで温かい。
そして「いつか」夢を歩く現実に辿り着きたい、スイスに発つ直前に英二がくれた約束を叶えたい。
―…大学のこと話す時とか、本を読んでいる時の周太って幸せそうでさ。きっと周太の向いている道なんだろうって俺は思うよ?
お父さんのことが終ったら、周太は大学院に入ったら良いって俺は考えてる。学費とか俺が出すから…
辞職したらすぐ、俺の嫁さんになって下さい。そして大学院に入って樹医になってください
結婚と進学、ふたつの夢を周太に贈って英二は、高峰の夢へと出立した。
その夢に今このとき英二は登りだす、光一と共に危険と夢を超えて遠い異郷の山を行く。
その同じ瞬間を自分は美代と共にキャンパスで、植物学と大学受験の勉強をしているだろう。
こんなふうに自分たち四人は道が違う、これからまた変化もするだろう、それでも互いに想いあっていける。
…幸せだな、今、本当に
ほっと心に想い、ペンをシャツの胸ポケットに挿した。
ぐるり首回して隣を見ると、美代はもう机を片づけて笑ってくれた。
「はい、僅差で湯原くんがラストよ?私の方が書き終るの、早かったね、」
「あ、ごめんね?お待たせしちゃって、」
謝りながら机を片づけて席を立ち、扉の方へと歩き出す。
そして開いた扉の向こう、まばゆい木洩陽に青空はきらめいた。
「先生と手塚、待たせちゃってるね?急いだつもりだったけど、」
「いつもより早かったわよ、でも、待たせてるのは変わらないね?」
「ん、そうだね?あ、模試はどうしたの?」
「申し込めたの、8月と9月と。今から緊張しそう、」
笑いあいながら大きな緑陰を歩いていく、その足元は影が濃い。
もう夏は陽射しを強めて季節はうつろう、そんな光のいろに遠いふたりの俤を見てしまう。
あと40分で、英二と光一はアイガー北壁「死の壁」へと登りだす。その緊張を想い周太は空を見上げた。
…どうか今日は、アイガーに風を吹かせないで?
祈り見つめる空は青い、夏の太陽まばゆく目を細めさす。
この空は遥か8時間の時差を繋いで、ふたりの立つ山へと続いていく。
この空に繋がれて祈りを届かせたい、そう願う隣でも空を見上げて明朗な声が笑ってくれた。
「大丈夫、光ちゃんのお天気予報は200%の正解率だから。きっとアイガーも良い天気よ?宮田くんも晴れ男だって言うし、ね?」
「ん、そうだね…大丈夫だね、ありがとう、」
隣の笑顔に笑いかけ、いつもの入口を降りて学食へと向かう。
温かい食事の匂いが近づいて、食卓の並ぶ風景へ入ると愛嬌のある笑顔が手を挙げてくれた。
「湯原、小嶌さん、」
よく透る声が呼んでくれる、その前から楽しげな笑顔も振向いてくれた。
夢を追う友達と尊敬する樹医が自分達を待っている、嬉しくて周太は隣に笑いかけた。
「美代さん、先に鞄とか置いてから、ご飯とりに行こうよ?」
「そうね、まずは先生に感想、渡しちゃうほうが良いしね?」
笑い合いながら、ふたり一緒に席へ向かった。
【歌詞引用:savage garden「Truly, madly, deeply」】
(to be continued)
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