萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

soliloquy 建申月act.2 Preuve―another,side story「陽はまた昇る」

2012-12-07 03:30:03 | soliloquy 陽はまた昇る
第58話「双璧act.4」「双壁K2act.4」の幕間です

自立、その証を託し



soliloquy 建申月act.2 Preuve―another,side story「陽はまた昇る」

助手席の扉を開いて、駐車場に降り立つ。
その視線の先、大きなドラッグストアを見て呼吸ひとつで気合いを入れた。

…平気、出来る、大人の男なんだからね?

自分に言い聞かせる隣、白いジャケット姿が立った。
きっと自分よりもっと不安だろうな?そう幼馴染を見上げて周太は笑いかけた。

「あのね、光一?俺、店で買うのって初めてだからね?いつも英二が買ってくるから…でも品物はわかるからあんしんしてね、」

言うごと首筋から熱が昇りだす、だってやっぱり、恥ずかしい。
まず「いつも」なんて言ったことが恥ずかしい。

…いつもえっちしてるってばればれだよね、へんなこといっちゃった、ね

余計な言い方をしてしまったかも?
反省と一緒に紅潮が頬も熱くして、羞んでいると光一は笑って店の入口へと踵を返した。

「ソンナに恥ずかしがんなくってイイよ、周太?どれなのか教えてくれたら、俺ひとりでもレジには行けるからね、」
「いいえ、だめです、」

きっぱり言って、並んで歩き出す。
どう見ても恥ずかしそうだよ?そう笑う幼馴染を見上げ、呼吸ひとつで周太は微笑んだ。

「俺が、英二の妻なんだからね?妻が夫のために支度したいの、だから俺が光一に買ってあげます。これくらいの意地は張らせて?」

この自分が「妻」だから、夫のことには向きあいたい。
そんな願いに笑いかけても気恥ずかしさは頬熱くする、けれど誇りが心に明るくまばゆい。
きちんと自分の肚に覚悟が据わっている?嬉しい気持ちで見つめた先、けれど幼馴染は悪戯っ子で笑った。

「ありがとね、周太。君はドリアードだけどさ、でも結構えっちなんだね?恋人の浮気えっちまで管理しちゃうなんてさ、」

ほんとにもうこんな時までなんてこというの?

言葉つまらせられて、額まで熱くなる。
だって言われたことは的を得ていると思う、その通り「管理」しているみたい?
そんな自分は本当にえっちなんだ?けれど自分らしく「妻」の意地を通してみたい。
この想いに幼馴染の視界へ振り向き、真直ぐ瞳を見つめて呼吸ひとつ、周太は毅然と言った。

「えっちじょうとうです、おとなで妻なんだからね、えっちであたりまえでしょ?あと浮気じゃなくって本気えっちしてね、」

本気でね?

そう大切なことを主張して、くるり陳列棚に向きあい周太はボトルと箱を1つずつ手にとった。
いつも夜のベッドで英二が使う、2つの消耗品。そのラベルに種類とサイズを確認して踵を返す。
そのままレジへと歩き出した視界の端、秀麗な顔は驚いたよう周太を見つめていた。

「ん、なんか良い気分?」

ひとりごと微笑んでレジの前に立ち、俯き気味のまま品物を置いて財布を出す。
そして会計を済ませ出口へ向かい、その自動ドアに映った貌は真赤だった。
いつものよう赤面して恥ずかしい、けれど自力で「大人の買物」が出来た?
それがなんだか嬉しくて、赤い貌のまま周太は微笑んだ。

「…でも、やっぱりはずかしいね?」

いつも英二はよく平気だな?そんなふう未来の夫に感心して、ほっと息吐いた。
その隣へと白いブルゾン姿が追いついて、雪白の貌が周太を覗きこんだ。

「周太、ずいぶんと強くなったよね?なんかカッコよかったよ、今」
「そう?…はい、これ、」

礼を言いながら茶色い紙袋を、潔く幼馴染に手渡した。
受けとってくれる手がためらいがちに見えて、すこし意外な一面に周太は微笑んだ。

「ちゃんとこれ使って、幸せな夜を過ごしてね?…約束だよ、光一?」
「うん、ありがとう、」

そっと受けとってくれながら、透明な瞳が微笑んだ。
ずっと遠い日の記憶と変わらない無垢の眼差しは、周太を見つめて言ってくれた。

「写真いっぱい撮ってくるね。あいつが山の天辺で笑ってる、最高の貌の写真。そんなことでしか俺、ありがとって周太に言えないけど、」

最高点で輝く英二の笑顔、それを自分は何より見たい。
本当は一緒に登って隣で見たい、けれど叶わない願いには縋りつけないと知っている。
けれど、この幼馴染は輝く夢の瞬間を「写真」で永遠に変えて自分に贈ってくれるだろう。

…だから光一に英二を託したい、どうか

どうか、愛する笑顔を夢に輝かせて、永遠に変えて?

この願いが叶うなら、自分の小さな哀しみなんてどうでもいい。
唯ひとつの想い見つめる自分の「夫」その人の笑顔を、どうか自分に贈ってほしい。
そして、あなたの笑顔も自分に見せて?この願いのプライドに祈りごと微笑んで、周太は綺麗に笑った。

「ん、英二の笑顔をいっぱい見せてね?それとね、光一の最高峰での笑顔も俺に見せて、約束だよ?」

どうぞ夢、諦めた夢であったとしても叶えられると信じさせて?





(to be continued)

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第58話 双壁side K2 act.6

2012-12-06 04:54:51 | side K2
「跡」 辿らす先、



第58話 双壁side K2 act.6

革の匂いに、ふっと森木立の香がふれる。

ゆるやかな震動が助手席に心地いい、その微睡に勤務後の疲れゆるまらす。
夜の高速道路を走るライトが瞑る瞼にゆれて、消えて、また閃いては明滅する。
なめらかなレザーシートに身を委ねる浅い眠り、ゆったり寛がす意識がほどけていく。
こんなふうに自分が助手席に微睡めることは珍しい、この16年ぶりの感覚に光一は微笑んだ。

―雅樹さんの運転だけだったのに、ね…安定した走りで落着けちゃうね、英二らしい…

いま運転席でハンドルを捌いていく雰囲気は、慣れたふう落着いている。
けれど新車の四駆は持主にとっても数日乗ったに過ぎない、それでも危なげがない。
やっぱり自分のアンザイレンパートナーは何をやらせても器用らしい?
そんな信頼に微笑んだ想いへと、カーステレオの旋律がやわらかい。

……

I'll be your dream I'll be your wish I'll be your fantasy I'll be your hope I'll be your love
Be everything that you need.  I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
I will be strong I will be faithful 
‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning
I want to stand with you on a mountain…I want to lay like this forever

Then make you want to cry The tears of joy for all the pleasure and the certainty
That we're surrounded by the comfort and protection of The highest powers In lonely hours The tears devour you
I want to stand with you on a mountain…I want to lay like this forever

Oh, can you see it baby? You don't have to close your eyes 
'Cause it's standing right before you All that you need will surely come

I love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
I want to stand with you on a mountain

……

やさしいアルトヴォイスが歌う詞に、そっと心が掴まれる。
まるで自分の願いを謳われているようで、隠したはずの秘密がほころんでしまう。
そしてまた、大切なひとが歌うようにも聴こえて、深く優しい声の記憶が微睡に微笑んだ。

―…お願い、光一。英二との夜は、ずっと幸せでいて?大好きな人に抱きしめてもらう幸せを、一瞬でも無駄にしないで幸せでいて?

もう諦めていた、大好きな人に抱きしめられる幸せなんて。
もう16年前に諦めた、けれど諦めきれなくて「山桜」に夢を見て叶わぬ願いを抱いていた。
もう眠りについた雅樹の体温と一緒に途絶えた約束、その全てを生き返らせることは出来ない。
けれど、今、隣の運転席にいる男なら、その諦めた夢の全てを繋いで叶えることが出来るかしれない。

“I'll be your dream I'll be your wish I'll be your fantasy I'll be your hope I'll be your love
  Be everything that you need.  I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do…
‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning I want to stand with you on a mountain”

僕が君の見つめる夢になろう 君が抱く祈りになって 君が諦めた願いも叶える 君の希望になり 君の愛になろう
君が必要とするもの全てになるよ 息をするごと君への愛は深まっていく 本当に心から激しく深く愛している…
君への想いは新しい始まり、生きる理由と、より深い意味を充たす引き金になる 君と一緒に山の上に立ちたい

―この歌、俺が英二に言われたいことばっか言ってくるね?…あのころ言われたみたいに、ね…

眠りに微笑んで身じろぎ、顔を運転席へと向ける。
かかる前髪に視線を隠し、そっと睫を透かせた向う白皙の貌は優しい。
フロントガラス越しのライトに照らされる端正な横顔、その眼差しを見つめながら旋律の音を採っていく。

―…この曲をピアノで弾いてよ?光一のピアノも声も好きなんだ、

そんなふう前にリクエストしてIpodにもダビングしてくれた。
もう幾度か聴いて頭脳に譜面は描いてある、その確認を今もしている。

―ピアノで弾いたら綺麗だろうね、この曲…歌もそえて

微睡ながら聴いている、そして旋律は終わり、また始めに戻る。
青梅署を出てすぐに自分は目を瞑った、それから同じ旋律はリンクしていく。
ずっとリフレインするよう流していくアルトヴォイスの旋律に、英二は何を想うのだろう?

―この曲、周太との想い出があるみたいだった…だから英二も歌詞に、想い入れあるね

自分が英二に言ってほしいと想う言葉を、鏤められた優しい旋律。
この曲になぞらえて英二は、周太に想いを告げたのかもしれない?
そう気がついた心が、ふっと傷んで吐息こぼれて、思わず瞳が披かれた。

「おはよう、光一。あと1時間くらいで空港だよ、」

すぐ気がついて、綺麗な低い声が微笑んだ。
ほら、こんなふうに気付くから期待もしたくなるってもんだ?
そんな想いに笑って、街路灯きらめく闇の向うへと光一は応えた。

「運転中も別嬪だね、眼福だよ?」



広げた山図に、光と影が明滅して筆跡を瞬かす。
明るんでは蒼い翳よぎらす紙面に描かれたメモと山、この全てをもうじき現実に見る。
あと72時間後に自分は図面が描く頂点に、生きた風と光のなかで佇むだろう。

―雅樹さん、もうじき着くよ?

そっと図面の俤に微笑んで、窓の木洩陽がトンネルの闇に変る。
昏い車窓に映る貌が視界の端に微笑む、その笑顔に俤がふっと重なって鼓動が跳ねた。

―似てる、ね…

途惑い、けれど手元は山図を畳んで専用ケースを開く。
そのケースにはもう1枚、同じ山図があわいセピア色の気配と収まっている。
この図面の持主と、今この向かいに座る男の俤が重なって、16年前の夏から深い綺麗な声が微笑んだ。

―…光一、これが僕のマッターホルン北壁だよ?こうやってデータを集めて、山をよく知ることが登山の始まりなんだ、

懐かしい声に穏かな笑顔がよみがえり、御岳の家で一緒に留守番した日へ心が戻る。
あの日、祖父母は町の懇親旅行に出掛け、両親は山岳会の講習に泊まりで長野へと行っていた。
それで大学の夏休みだった雅樹が一緒に留守番をしてくれて、3日間のふたり暮らしを家で楽しんだ。
その1日目、屋根裏部屋の床の上に広げた図面を長い指は追いながら、実際に登った時の話をしてくれた。

“Matterhorn North Face Route.Schmidt” 

そう記された登山図には、端正な綴りでメモが書きこまれている。
丁寧な筆跡はルートの特徴を掴んでポイントごとに記し、時系列の日付も記載して地形変化や天候の推移も示す。
整備された詳細データと雅樹自身が現場で気付いた点、その両方が整然と記されルートファインディングの基盤を作ってある。
こんなふうにデータを集めて山に登る術を初めて目の当たりにして、賛嘆に憧れるままねだった。

「雅樹さん、この山図を俺に頂戴?これ見ながら俺も出来るように勉強したいね、一緒に登る時も俺がちゃんと持ってくから、ね、頂戴?」

大人になったら雅樹とアンザイレンザイルを繋ぎ、世界中の名峰を一緒に登りつくす。
その約束を実現するには雅樹のように、データを集計して「山を知る」ことが必要だと思った。
大人になったら必ず約束を叶えたい意志と、雅樹の夢と努力の痕跡を欲しくてねだった自分に、きちんと雅樹は言ってくれた。

「うん、光一にならあげる。でもね、これからも僕はマッターホルンと向きあいたいから、同じように写したのをあげるよ、」
「だったらコッチを俺に頂戴?これが欲しいんだ、」

すぐに提案して見あげた向こう、切長い目がひとつ瞬いた。
そしてすぐ優しく笑って、頷いて言ってくれた。

「うん、あげる。じゃあ写してくるから、来週まで待っていてくれる?真っ新のも一緒にあげるから、」

その約束通りに雅樹は翌週末、古い山図を同じ新品とセットにして光一に贈ってくれた。
あのときの2枚が今も、この手元のケースに納められている。

―雅樹さん、約束通りに持って来たよ、今回も…ね、今も一緒にいるよね?

静かに心で呼びかけ、ケースの蓋を閉じた。
登山ザックのポケットに納める向かい、窓越しに向かいの微笑から視線を感じる。
よく似ている、けれど全く違うアンザイレンパートナーへと光一は笑いかけた。

「このトンネルを抜けるとね、いきなり見上げる感じだよ?キッチリ見ようね、」
「うん、楽しみだな、」

笑ってふたり車窓に顔を向ける。
その昏い視界が薄明るくなり、明度が急激に増していく。
そして闇は払われ広やかな青が視界を満たし、その頂に黒と白の壁が現れた。
いま見つめていた登山図の現実、その姿へと光一は愉快に笑った。

「あの黒い壁が北壁だよ、」

蒼穹に聳える黒い壁、その峻厳の翳は高みを指して聳え立つ。
アルプスの女王と謳われる山は午後の雲をまとい、淑やかに姿を隠すよう佇みながら見下ろす。
標高4,478mマッターホルン、三大北壁の1点が示す蒼穹の高みに、自分はパートナーと立ちに行く。



見覚えのある扉を開くとシックなインテリアの向こう、マッターホルンが窓から笑った。
懐かしい8年前と同じ光景に、機嫌よく光一はアンザイレンパートナーを振り向いた。

「見てよ、マッターホルン正面席だね?よかったな、」
「うん、きれいだ、」

綺麗な低い声が笑って、白皙の笑顔は山に見惚れる。
トランクと登山ザックを下し、ひろやかな背中を見せて長身は窓辺に佇んだ。
上品なチャコールグレーのジャケットと伸びやかな黒いスラックスの脚、その落着いた後姿に白昼夢を光一は見た。

―雅樹さんがマッターホルンを見てる

窓を見上げる白皙の横顔、山に魅入られる切長い目、穏やかな思慮の空気。
遠い日に見ていた人が今、懐かしい背中を見せて夢のひとつへと佇んでいる。

―…光一、僕を最高峰の夢に連れて行って?光一の夢を一緒に生きたいんだ、光一が大人になる時を僕は待っている、
   きっと光一は最高のクライマーになれる。光一は最高峰に生まれた男だって、僕は誰より知っているから信じてる

きらめく夏の声が、白昼夢に優しく笑ってくれる。
その声に共鳴するようアルトヴォイスの旋律が、見つめる背中に響きだす。

“I'll be your dream I'll be your wish I'll be your fantasy I'll be your hope I'll be your love
 Be everything that you need.  I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do…
‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning I want to stand with you on a mountain”

 光一が生まれた瞬間に立ち会って、僕の医者になりたい理由が解かったんだよ…山は人間に命を与える場所でもある…
 山を愛してる、命を生かす力を手助け出来る医者になりたい…僕にとって山と医者の夢を明るく照らしてくれた光が、光一なんだ。
 いちばん大切でいちばん信じている、待っているよ…最高峰の夢を一緒に叶えてくれることを信じている、光一は僕の希望と夢の光だから

懐かしい声が深く穏やか笑う、ずっと、ずっと聴きたかった言葉と想い。
あの言葉と想いたちを今、この約束の場所でも告げてくれる?
その背中に幼い頃のよう抱きつきたくて、一歩踏み出す。

―生き返ってくれた?

約束を叶えるために、山桜が願いを叶えてくれた?
いつも約束は必ず守ってくれた、だから今も約束を叶えに来た?
ずっと信じていたかった夢、それを諦め、終わらせてから自分はここに来た、けれど叶うの?

“I'll be your wish I'll be your fantasy” 僕は君の祈りになり、諦めた願いも叶えよう

やさしい旋律の言葉を、背中に見つめる。
もう諦めたはずの願いへと踏みだし、背中へと掌を伸ばす。
けれど、窓ふる夏の光は背中を見せて佇むその髪を、ダークブラウンに透かし艶めかせた。

―違う、

艶めいた髪の色が、雅樹じゃない。
雅樹はもっと黒い髪だった、こんなに明るいダークブラウンじゃない。

―雅樹さんじゃない、英二だね、ここに居るのは…でも、どうして?

どうして英二は、いつもこうなのだろう?

いつも山を前にした英二の貌は懐かしい俤そっくりに美しい、それが不思議でならない。
英二と雅樹に血縁関係は無い、それなのに生き写しに想える瞬間がある、それが時を経るごと増えてきた。
この春3月の槍ヶ岳北方稜線、北鎌尾根を登った雅樹の慰霊登山。あのときから尚更に英二と雅樹は重なっていく。

―どうして?雅樹さん…英二と雅樹さんになんの関係があるワケ?…ドリアードのことがあるから?

雅樹が愛した山桜の化身ドリアード「周太」は英二の血縁者だった。
お互いの祖母が従姉妹だった、この事実を周太はまだ知らない、英二も知って1ヶ月だろう。
周太と英二は性格も風貌も全く似ていない、けれど周太の父親は確かに英二と似た所があった。
まだ9歳だった周太との初対面、あのとき見た周太の父親の切長い目と笑顔は、英二と似ている。

―そういう英二と雅樹さんが似てるって、不思議だね?コレも山の不思議かね、

こんな不思議を愉快に笑って、光一はトランクを開き荷物整理を始めた。
このホテルをベースにブライトホルン、リッフェルホルンのテスト登山を経てマッターホルン北壁へ向かう。
北壁前夜にヘルンリヒュッテに入る以外、3泊5日をここに滞在する。だから窓の眺めには拘りたかった。
それで事前にホテルへ部屋の確認をしてある、お蔭で希望通りに上層フロアーを割り当ててもらえた。

―せっかく傍にいるんだ、マッターホルン見とかなきゃ損だね、

8年ぶりの山に笑って、機嫌よく着替えをクロゼットに吊るしチェストへ納める。
その隣へと長身の影さして、綺麗な低い声が笑いかけてくれた。

「光一のパッキング、巧いな。ここを発つ時は俺、真似してみようかな、」
「そ?」

笑って相槌打った隣、英二もトランクを広げ始めた。
見遣ると英二の方こそ綺麗に納められている、そこに救命救急ケースは入っていない。
あの救急用具を英二は、いつも携行するのと同様に今回も登山ザックに入れて機内に持ち込んでいた。
英二の持つセットは医師も使う仕様で金属製の器具も含まれる、だから手荷物検査でも携行する説明を英二は係員にしていた。

―アレ、吉村先生が英二に贈ったんだよね…だから雅樹さんのとお揃いなんだよね、

空港で説明する姿を見たとき、切なかった。
いつも雅樹が携行していた救命救急セット、それと同じケースを英二が持っている。
それだけでも本当は切ない時がある、けれど今、あの中に英二は分解した拳銃も納めている。

―仕方ないって解ってるね、でも雅樹さんと同じのに、雅樹さんと似ている英二がってトコが、ね

本来、人命を救う為に使われる医療器具。
そのケースに殺人道具の拳銃を入れ、救助隊員の英二が持っている。
その救急ケースも、持っている男も、雅樹の俤を映すことが本音は、やっぱり切ない。
いつも医療と山に真摯な想いで向きあう雅樹だった、そんな雅樹はどんな想いで見ているだろう?
そう廻ってしまう考えと手元を動かしていく隣、英二はもう片付け終わってトランクを閉じた。

「光一、片付け終わったら散歩する?それとも少し寝る?」

クロゼットにトランクを仕舞いながら、綺麗な低い声が笑いかけてくれる。
端正な笑顔は穏かで美しい、まさか拳銃を不法所持しているなど誰も想像できないだろう。
綺麗な穏やかな貌の英二、けれど反面するよう激しい熱情の貌がある、そんな陰翳が謎めいて惹かれる。
そして雅樹とは別人なのだと実感できる、そんな実感に安堵しながら光一は笑って応えた。

「まず俺は風呂、入りたいね。さっぱりしてから今日のコト考えたいよ、あ?」

答えた手許、紙袋が目に飛び込んで声が出た。
ごく普通の茶色い紙袋、けれど「中身」に鼓動ひとつ意識を小突かれた。

―ダメだね、今、これ考えちゃうのはまだ早いね、北壁に集中したいんだからね、

軽く頭を振り、紙袋の中身を意識から降り落とす。
こんなに動揺する初心が自分でも意外で、途惑い困りながらも可笑しい。
そんな傍らに深い森がふわり香って、切長い目が光一の瞳を覗きこんだ。

「どうした、光一?今、あ?って言ったけど、」

解ってないだろうけどオマエのせいだね?

つい心で毒づきながらも、ゆっくり首筋が熱くなりだしていく。
こういう無意識の転がしが一番性質が悪い、独り相撲のよう恥ずかしがらされる。
こんなふう困ることは英二に逢うまで知らなかった、そんな初めてが愉快で光一は笑った。

「ワイン買いに行きたいね、って思い出したんだよ?風呂の後、散歩つきあってね、」





【歌詞引用:savage garden「Truly, madly, deeply」】


(to be continued)

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第58話 双璧act.7―another,side story「陽はまた昇る」

2012-12-06 01:30:53 | 陽はまた昇るanother,side story
この今、扉を開いて



第58話 双璧act.7―another,side story「陽はまた昇る」

明るい陽は窓からふる、その光線と輝度に季節の眩さがわかる。
ガラス越しに木洩陽が空のトレイに揺れる、その光に思い出した質問を周太は投げかけた。

「先生、光と暗闇を経験することで植物の体内時計は計られますよね?日照の長さは季節ごと変化しますけど、これと関係しますか?」
「良い所に気がつきましたね、湯原くん?そこを今度の講義で話す予定です、今話すとネタバレしますけど、どうします?」

愉しげに青木准教授が言ってくれる、その笑顔に嬉しくなる。
そして「今度の講義」に期待と少しの不安が想いだされてしまう。

…今度は異動した後なんだ、大学は続けられるって許可は貰えたけど

聴講生になるとき新宿署に届け出をだした、そして今回の異動に際しても第七機動隊へと許可申請をしてある。
この件については現在勤務する新宿東口交番所長の若林からも口添えしてくれて、今までどおり通学できると言って貰えた。
けれど実際に七機での勤務が始まらないと何とも言えない?そんな考え廻らせた途惑いに、美代が笑いかけてくれた。

「湯原くん、今度の楽しみにとっておいても良い?」

今度も一緒に受講できるよね?
そう問いかけてくれる明るい目に、まだ異動の話を出来ていない。
いつ話そうかな?考えながら周太は微笑んで頷いた。

「ん、いいよ?美代さん、さっきの質問したら?」
「ありがとう、じゃあ先生、光の識別の話ですけど、」

明朗な声が質問を始めた隣、思いついて周太は食卓のトレイをまとめ始めた。
片づけた方が資料やノートも広げやすい、そう思って4人分を2つに分けて重ねて立ち上がる。
その向かい、気さくな笑顔が一緒に立って片方のトレイに手を掛けて微笑んだ。

「湯原、半分持っていくよ、」

軽々と片手で持ち、手塚が一緒に歩き出してくれる。
青木と美代の「ありがとう」に送られて、並んで下膳口に向かう生真面目で明るい横顔へ周太は笑いかけた。

「ありがとう、手塚も質問あるよね?邪魔したみたいでごめん、」
「いや、湯原と小嶌さんが来る前にしたからさ?ノート、写してく?コピーとってもいいよ、」
「あ、嬉しいな。ありがとう、水木沢のところ写させてもらていい?」

話しながら一緒にトレイを片づけて、さっきの席に戻っていく。
その隣から楽しそうに手塚が笑いかけてくれた。

「湯原ってイラスト、上手いよな?森の雰囲気とか葉っぱをスケッチしてあったやつ。あれ、フィールドワーク中に描いたんだろ?」
「ん、そうだけど…あんなので褒められるとちょっと恥ずかしいよ?」

褒めてもらえるのは嬉しいけれど気恥ずかしくて、首筋から熱が昇ってくる。
丹沢のフィールドワーク中、青木樹医の説明を聴きながら幾つかイラストを描いた。
あとで写真と照合するために特徴だけ掴んで描いた、あれでは下書きとも言えない位に雑なのに?
もう赤くなりそうな衿元にそっと掌を当てた隣、明快な声は笑ってくれた。

「恥ずかしくないよ?特徴を把握して描くのってさ、フィールドワークの時は良いよな?俺も今度から写真だけじゃなくて、絵も描くよ、」
「手塚こそ絵、上手だと思う。あの水木沢のイラスト、きれいだね?」

さっき見せてもらった手塚のノートは、地元である木曽の水源林についてイラスト入りでまとめられていた。
きちんと彩色もされた図解は解かり易くて、なにより絵としても綺麗で良いなと思う。
そんな感想と素直に笑いかけた周太へと、愛嬌ある笑顔は照れくさそうに言ってくれた。

「ありがとな、俺、絵を褒められると嬉しいんだ。先にコピー機、行こうか?」
「ん、そうしたいな、」

笑い合って席に戻って、すぐ手塚は鞄を開いてくれる。
その横から周太は青木准教授と美代へと声をかけた。

「先生、手塚のノートをコピーさせて貰ってきたいんですけど、中座してよろしいですか?」
「はい、遠慮なくどうぞ?手塚くんのノート、いつも素晴らしいですよね、」

頷いてくれながら青木は手塚に笑いかけてくれる。
大らかな笑顔に手塚は照れくさげに笑って、軽く頭を下げた。

「ありがとうございます、小嶌さんもコピー要る?よかったら、」
「あ、貰えると嬉しいな。コピー代、渡すね、」

嬉しそうに美代も笑って、財布を出そうとする。
それを見て青木がポケットから鍵を出しながら、気さくに提案してくれた。

「大丈夫ですよ、研究室のコピー機を使って下さい。代わりにね、私にも一部頂いて良いですか?」
「うわ、先生にさしあげるのって恥ずかしいですね?俺のなんか要ります?」

提案に照れくさげに笑いながら手塚は、素直に鍵を受けとった。
そんな教え子に青木准教授は可笑しそうに微笑んだ。

「もちろん欲しいです。1つでも多くの知識を吸収していくことは、学者の端くれとして大切ですからね?」

そんなふう笑ってくれる笑顔に送りだされて、食堂から外に出た。
建物の蔭から出た視界まぶしくて目を細める、その彼方に青空は広がっていく。
よく晴れた夏のブルーに遠い遥かな山を見て、周太は左手のクライマーウォッチに目を落とした。

『PM3:34』

デジタル表示の時刻に、また空を見上げてしまう。
左手がそっとシャツの胸ポケットふれて、小さな袋の輪郭を握りこむ。
春3月に英二が雪崩に遭った後、不思議な白椿に祈りこめて縫った英二と揃いの御守袋。
この御守をいつもは鞄に入れている、けれど今日はずっと持っていたくて胸ポケットに入れてきた。
雪崩からも生還した日の白澄椿、その花の不思議な縁に祈り、大切な人たちの「今」を想ってしまう。

…もうじき頂上に着く目標時間だね?…アイガーは晴れてる?風、吹かないで…

日本時刻15時34分、マイナス8時間の時差にスイスは午前7時34分。
遥かな異郷の朝を今、大切な人たちが登っていく。

…もう白い蜘蛛は抜けたよね、今頃は頂上雪田…?

昨夜も読んだアイガー北壁の登頂記『白い蜘蛛』そのルートを辿り、緑のキャンパスを歩いて行く。
ふたりは今回もタイムアタックをしている、そのことをマッターホルン北壁後に後藤からの電話で知らされた。

「周太くん、あいつらはね?ただ北壁を登るんじゃなくって、世界記録に近づく挑戦をしてるんだ。アイガーは目標3時間だよ、」

このことは、光一も英二も教えてくれなかった。
それは二人の上司である山岳救助隊副隊長の後藤も同じだった。

「俺もね、さっきの報告電話で言われたんだよ?一昨日の夜、いきなり光一が宮田に誘いかけたらしい、2時間切るぞってな」
「いきなりですか?…あ、でも光一は元から?」

たぶん光一は元から計画していた、そう思える要素は考えれば幾らでもある。
けれど英二には急だったろうな?そんな心配をした周太に後藤は教えてくれた。

「ああ、そうだろうよ。周太くんも知っているだろう?吉村の息子の雅樹くん。彼との約束を果たすつもりなんだよ、光一のヤツ。
子供のときに光一な、雅樹くんと約束をしていたんだよ。マッターホルンは2時間、アイガーは3時間で北壁を一緒に完登してようって。
それを光一は叶えるつもりだよ?宮田をな、雅樹くんに匹敵するアンザイレンパートナーだって認めて、一緒に約束を登ろうとしてるんだ、」

話してくれた後藤の声は、慈愛と愛惜と、深い祈りが温かかった。
あの声からも解かる、雅樹がどんなに山ヤとしてクライマーとして認められ、今も惜しまれるのか?

…そういう雅樹さんに匹敵するって英二、認められているんだね?だから大丈夫だよね、お父さん?

キャンパスの木立の向こう、アルプスの青空を見つめて祈ってしまう。
どうか夢と約束を叶えてほしい、そして自分の心も一緒に喜ばせてほしい、最高峰の夢を自分も見たい。
そんな祈りと願いに空を見上げる隣から、そっと明朗な声が問いかけてくれた。

「湯原、なんか心配ごとでもある?」
「え、」

声に隣を振り向くと、生真面目な顔が微笑んでくれる。
実直で温かい笑顔にほっと心ほどかれて、素直に周太は頷いた。

「今ね、難しい山に登ってる人がいるんだ。その人たちのこと考えてた。ごめんね、ぼんやりして、」
「いや、謝んないでよ?難しい山なら心配で当たり前だろ、」

気さくに笑ってくれながら、手塚は校舎の入口を潜った。
並んで入る視界がふっと暗くなって、乾いた匂いに空気が涼しく変わる。
どこか重厚な静謐のなか一緒に階段を昇りだし、明朗な声は訊いてくれた。

「どこの山?」
「アイガーって知ってる?スイスの山なんだけど、」

何げなく応えながら、踊場の窓から空を見上げる。
今ごろは頂上かな、もう写真は撮ったかな、そんな考えに隣から驚いたよう訊いてくれた。

「アイガーって、映画とかにもなってるよな?三大北壁だろ、まさか北壁に登ってる?」
「ん、そうだよ?遠征訓練で行ってるんだ、」

北壁を手塚も知ってるんだな?
なんだか嬉しくて笑いかけた向こう、眼鏡の奥ひとつ瞬いて笑ってくれた。

「そうかあ、すごい知り合いがいるんだな、湯原?親戚とか、それとも友達?」

質問に、鼓動が一拍大きく響いた。
この質問への答えはどうしたら良いのだろう?そう考えて、けれど直ぐ素直に言葉が微笑んだ。

「ん、身内だよ?すごく大切なんだ、」

ふたりとも身近で大切な人、そう真実を答えた心が温かい。
温もり嬉しくて微笑んだ周太へと、扉に鍵を挿しながら手塚は笑ってくれた。

「じゃあ心配だよな、でも大丈夫だよ?なんか湯原の笑顔、すごく良い貌してるから。良いことが起きる時の雰囲気っていうか、」
「そう?ありがとう、」

温かい言葉へと素直に笑った視界、研究室の扉が開かれる。
ふわり古い紙の匂いとコーヒーの残り香が頬を撫で、インクの気配が懐かしい。
そういえば青木樹医も万年筆を遣っていた、その記憶に3月終わりの雪の日、特別公開講座を想いだす。
あのときが自分と美代のスタートラインだったな?微笑んだ周太に、コピー機の電源を入れながら手塚はノートを渡してくれた。

「はい、湯原。他にも読みたいページあったら、コピーして良いよ、」

その申し出は嬉しいな?
嬉しくて素直にページを捲りながら、周太は綺麗に笑った。

「ありがとう、遠慮なく見せてもらうね、」
「うん、遠慮なく見てよ。俺、この本ちょっと読んでるから、」

気さくに笑って書架から1冊を取ると、置いてあったレポート用紙片手に手塚は机に向かった。
その実直な横顔に学問への想いが見える、そんなふう自分と同じ想いを抱く空気が嬉しい。
こういう相手に会えた今の幸せに微笑んで、周太は丁寧にノートを開きコピーを始めた。

…あのときここから始まったんだ、植物学の夢を勉強することは、

特別公開講座の日、春の雪が降った。
美代と待ち合わせをして地下鉄を降り、初めてこの大学の門を潜る。
ちょうど昼時にあたる頃、職場のJAから真直ぐ来た美代が提案して学食に座った。
大学の学食に来てみたかったの、そう言って美代は内緒の夢を周太に明かしてくれた。

―…私、実は大学に行こうかな、って今、計画中なの…両親は反対だから、もう内緒で受験しようと思って

だから内緒で勉強を教えて?そう約束を求められて嬉しかった。
ふたり一緒に夢を追い笑いあえる、その幸せは温かくて楽しくて、あの日から宝物になった。
新しい繋がりに笑いあい、雪ふるキャンパスを並んで歩いて、樹医の本と期待を抱きしめて講堂の扉を開く。
高い天井ひろやかな木が香る席に着き、そして樹医の言葉たちに樹木の謎を解く学術の世界を初めて見つめた。
そのあと研究室で色んな話を青木にした、警察官の道は義務感で選んだこと、嫉妬とコンプレックス、植物学と樹医への憧れを話した。
英二達のように誇りと夢に生きたいと願う焦燥感、その全てを青木は聴いて受け留めてくれた、そして聴講生の道を示してくれた。

―…義務で立った道で誇りを見つけられた。それなら好きなことの学問で、君だけの夢が見つかるかもしれない
  私自身は無力で何も出来ません。けれど、学問の力は強く広いと私は知っています。だから君を学問に導くことは出来ます
  君は私の恩人です、私に出来る恩返しはこれが一番だと思います。私で良かったら、夢を見つける手伝いをさせてくれませんか?

青木の言葉の全てが、真剣に向き合う想いが嬉しかった。
青木と会うこと自体まだ3回目だった、それでも自分を信じて「一緒に夢を探そう」と言ってくれた。
樹医の言葉と想いは自分にとって光だった、嬉しくて、この言葉に懸けてみたいと肚の底から願っていた。
そして母と英二に相談をして、新宿署へも許可を申請してから聴講生として青木の学生になった。

…自分が夢に生きることが、英二の大切なブナを手助けできたら幸せだって、あのとき想ったね…今もそう、

あれから4ヶ月、自分は植物学の世界に親しんだ。
月2、3回の週末にふれる講義と青木樹医との会話、美代の大学受験勉強。
そうした「学問」に楽しむ時間は、4ヶ月の間にゆっくり自分の夢と心と、思考を育んできた。
幼い日から愛している植物の世界を学ぶ時間、それが今「自分の世界」を創りだし、心に背骨が入り始めている。

…きっと今、心が静かなのは自分の世界があるからだね、

今も英二を想う恋愛は深まり、光一への願いも色褪せない。
それでも以前のような「縋りたい」は消えている、そんな今、気づけることがある。
以前の自分は英二を独占したくて、いつも英二と一緒にいられる光一が羨ましい気持ちが強かった。
けれど今は「英二と光一が恋愛関係に繋がること」の肯定が出来る、この変化の理由が今ようやく見える。

…俺は依存していたんだ、英二の愛情に…英二が恋してくれることだけが、俺の支えだったから

父の殉職から13年間、ずっと孤独に生きることを選んで来た。
何も父のことを知らず、祖父達のことも解からない、その欠けたパズルを集めたくて父の軌跡を追ってきた。
その涯には「司法の闇」に居た父の姿が垣間見える、それは孤独な立場だと知って尚更に他人を遮断した。
重たい秘密に鎖される孤独の道が父の軌跡、その重荷を自分以外に背負わせたくなくて、孤独を選んだ。

けれど、英二に出逢って孤独は崩れた。無条件で受けとめられる温もりは幸せで、もう離れられなくなった。
そんな自分を英二は喜んで抱きとめてくれた、ただ英二だけを見つめて委ねれば幸せだった。
そのまま生きればいい?そう想っていた、でも、そんな生き方は出来ないと気がついた。
いつか「妻」になることを「護られ依存する」ことだと思っていた、けれど違う。

…だって俺は男なんだ、同じ「妻」でも女性と違う男としての支え方がある

自分は「男」英二と同じ1人の男性として自立した存在、だから「女の妻」とは違う。
そのことを2週間前に初めて自分が英二を抱いた、あのときから考え始めて気がついた。
確かに自分は男として英二よりずっと未熟で、肉体的にも能力的にも劣っているかもしれない。
けれど、こんな自分にも男として英二を抱くことが出来る、それは「同性」として対等だから出来た。
だから気がついた、どんなに自分の方が劣っていても「同じ男」として対等なら、依存することは違う。

…同じ男なんだ、家庭の役割も女性の妻とは同じじゃない…女性と同じには権利も義務も担えないんだ

女性の妻なら家庭に専念する役割分担の仕方もある、でもそれは「子供」を出産して育てるために必要なこと。
女性なら夫が他に恋人を持つことを拒絶するのが普通、でもそれは夫の心を家庭に向けて「子供」を護るための手段。
こんなふうに、子供を安全に養育する「母」として妻は、敢えて依存することで夫を家庭に繋ぎ留める権利と義務がある。
けれど自分は女性じゃない、子供を産み家族を広げる可能性が0%の自分が依存して家庭に籠るなら「家庭」に存在するのは自分だけ。
独りきりで家庭を創ろうとしても結局は自分だけの都合しか家庭に反映出来ない、そして心の視野を狭く閉じ込めてしまうだろう。
そうしたら自分の世界は夫だけになって脆く弱い孤独に堕ちてしまう、それでは夫を、英二を支えることなど出来はしない。

…女の人みたいには英二を支えられない、でも、俺にしか出来ない支え方があるから、ね?

自分は母になることは出来ない、だから英二が恋人を持つことを拒絶して家庭だけに留める権利も義務も、自分には無い。
むしろ英二が望むままに広い世界へ送りだして、帰ってくるごと家庭に迎えられる穏やかな、温もりの幸せを贈りたい。
外の広い世界へ出かけるほど、きっと小さくても大らかな優しさに安らげる場所が必要になる。その温かい場所で自分がありたい。
もし自分が植物学の夢を通して広く世界を見つめ、誇りを抱いて生きられたなら大きな心の人になれる、そして築いた家庭はきっと温かい。
だからこそ、広い世界に英二を連れ出してくれる光一に、アンザイレンパートナーとして恋人として英二を託したいと想えた。
こんな自分を心から大切に想ってくれる光一なら、きっと英二を幸せに笑わせて大切に護ってくれる、そう信じられるから。

…きっとアイガーの北壁をふたりは無事に登れた、そして無事に下山して…光一の願いも叶う、ね

そんな確信に微笑んだ手許、ノートを捲りコピーをとっていく。
丁寧にページを繰っていく指は落着いて、心は静穏に寛ぎ温かい。そんな自分にほっとする。
もう、英二と光一が夜を過ごす事への納得は肚に端坐して動かない、それでも取り乱すかもしれないと少し不安もある。
元が甘えん坊で泣き虫の弱虫で我儘な自分、そんな自分が今夜を無事に見つめられるのだろうか?

「湯原、今日ってこの後、忙しい?」
「え、」

不意に声かけられて振向くと、愛嬌のある笑顔が笑ってくれる。
いま考えていた2人を全く知らない、そんな手塚の存在に何か寛いで周太は微笑んだ。

「夕方まで美代さんと勉強して、その後は特にないけど、」
「じゃあ、コピーが終わったらもう用事は無いな?」

そう言って手塚は窓を顎で示してくれる。
それに素直なまま外を見ると、空は薄紅と黄金に染まり始めていた。

「あ…もう夕方なの?」

驚いて左手首を見ると、クライマーウォッチは18時を示している。
ノートを読みながらも考えごとをして、手許は単純作業に没頭するまま時の経過に気付かなかった。
また変に集中してしまったらしい、美代の受験勉強を見る約束もあるのに時間を忘れてしまった。
どうしよう?困りながら周太は電源を落し、コピーした3束を携えるとノートを返した。

「ノートありがとう。ごめんね、すっかり待たせちゃって、」
「いや、俺もさっきまで没頭しちゃってたんだ、気付かなくってごめんな?」

可笑しそうに笑って受けとってくれる手の、もう片方には数十枚のレポート用紙を持っている。
その枚数に手塚の集中力がうかがえて、嬉しくて周太は綺麗に笑いかけた。

「よかった、同じだね?」
「ははっ、そうだな?同じタイプっぽいな、」

明るく笑って頷くと、手塚は本を書架に戻した。
戸締りを確認してから部屋を出、きちんと施錠すると明り灯る廊下を歩き出す。
その隣からレポート用紙片手に、愛嬌の温かい笑顔は気さくに提案してくれた。

「湯原、晩飯一緒しようよ?今日はバイト無いから、時間もゆっくり出来るんだ、」

自分のこと、そんなふうに誘ってくれるの?
予想外に驚いて、けれど素直に嬉しくて周太は明るく微笑んだ。

「ん、いいよ。その前に俺、5分だけ寮に戻ってもいい?外出申請書の変更を出さないと行けないんだ、」
「そっか、湯原って寮に入ってるんだ?」

相槌打ちながら、考えるよう眼鏡の奥ひとつ瞬いた。
すぐ愛嬌ある笑顔ほころんで、明朗な声が楽しそうに聴いてくれた。

「湯原、明日って用事ある?あと、酒は飲める?」
「ちょっと実家に日帰りするけど?酒は少しなら飲めるよ、」

明日は週休だから、昼前に実家へ帰って布団を干して掃除をしたいな?
それで昼食を母に作ってあげたい、そんな予定を思い微笑んだ隣から明るい顔が愉快に笑った。

「よし、湯原?外出申請じゃなくって外泊にしなよ、オールで飲もう。湯原の都合が良いエリアってある?」

ちょっと思いがけない方向になったな?
また予想外に驚かされる、そして楽しくなってしまう。
自分と同じ夢を真面目に取り組む手塚となら、夜通し話してみたい。そう自然と思うまま周太は微笑んだ。

「ん、いいよ。俺は新宿に近いと助かるけど、先生と美代さんにも声かけるんでしょ?」
「もちろん、先生の飲みって楽しいんだ。小嶌さんとも話してみたい、」

愉しい予定を話しながら階段を降り、ホールを横切って外に出る。
その視界いっぱいに、薄紅いろの黄昏がキャンパスを染めあげた。

「きれい、」

こぼれた賞賛の向こう、植込みの巨樹と校舎は夕陽きらめき影は長い。
あわい紅、黄金、白金、色彩豊かな雲がなびいて空を夜へ向かわせ輝かす。
古い建物と瑞々しい夏木立の織りなす学舎は静かな喧騒と、まばゆい光の陰影に佇んでいる。
光と影に彩られる重厚なキャンパス、この大学に祖父の晉は学問の夢と生きていた。

…お祖父さんはここに居たんだ、ここで学んで、教えて、

東京大学文学部仏文科教授 湯原晉

祖父はパリ第3大学の名誉教授も兼任し、日本とフランスを往還しながら文学を見つめていた。
父や夫としても立派な人だった、そんなふうに祖父をよく知る英二の祖母も教えてくれる。
まだ写真ですら会ったことがない俤を、数十年の時を超えて今、学舎に見つめてしまう。
この今を自分が学問の夢を見つめて学ぶ、その同じ場所に祖父は確かに生きていた。

…フランス文学と植物学で分野は全然違う、でも同じ場所で同じように学問を想っているね、お祖父さん?

見つめる「学問」に過去と現在が時を超え繋がれていく、その一すじが慕わしく、温かい。



外出と外泊の手続きを済ませ、鞄一つと寮から出て歩きだす。
店の場所を知らせるメールを開こうとして、周太はもう1件の受信に気がついた。

…来た、

鼓動ひとつノックして、心が遥か異郷の空を見つめる。
高差1,800mの蒼い翳、その頂点まばゆい稜線が残照の空に現われだす。
蒼穹に聳える大いなる壁、ナイフリッジの連なる銀嶺、その麓へ拡がらす緑の草地。
真昼の太陽きらめく空から届いた便りを、夜を迎える街路樹の下そっと周太は開封した。





(to be continued)

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深夜日記:一葉、その光

2012-12-05 23:34:53 | 雑談
時の色、



こんばんわ、12月を迎えた神奈川は急に冬な雰囲気です。
写真は長尾平@御岳山にて、ベンチに紅葉が一枚だけ落ちていました。
なんだか印象的だった、秋の点景です。

今夜UP予定の第58話「双璧7」がちょっと日付またぎそうです。
楽しみにしている方いらしたら、遅れてすみません。

ここんとこ同時連載の国村サイド「双壁K2」の反応、いかがですか?

取り急ぎ、



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第58話 双壁side K2 act.5

2012-12-05 04:44:40 | side K2
「還」 廻らす時の想い、



第58話 双壁side K2 act.5

ずっと幼い日、春の雪ふる年があった。
奥多摩の遅い春に山桜は咲いていた、けれど地上の花に白い天の花は降り、山も里も白く輝いた。
そんな土曜日の朝早く、ふたり手を繋いで雪の森を歩き、あの山桜へ逢いに行った。

「ほら、雅樹さん?ちゃんと咲いてるね、山桜。俺の言った通りだね、」

純白まばゆい光の花が、豊麗の春を拓いて満開に咲き誇る。
暁の梢から光の梯子ふる、澄明な空気は涼やかで、新雪に凍れる森は朝の瞳を覚ましていく。
ざくり、登山靴に雪を踏みわけて、明るいグレーのダッフルコート羽織った笑顔は白い息と微笑んだ。

「そうだね、雪にも負けなかったね?ドリアードが住んでいるからかな、この山桜には、」

綺麗な落着いた声が微笑んで、白い長い指の手が大きな幹にそっとふれる。
天を抱く大いなる枝に花は輝く、ゆるやかな風にそっと花は舞いおりて、綺麗な笑顔と黒髪を飾った。
山桜ふる花びらと香、艶めく黒髪、しなやかな長身に暁まばゆい白皙の、美しい笑顔の青年。
そんな姿こそ桜の神のようで、見惚れながら大好きな笑顔へと自分は尋ねた。

「雅樹さん、この山桜にはドリアードが住んでいるって、いつも言うよね?木の精霊ってコトは解かるけど、どんなヤツなの?」
「うん、森の護り神って言ったら良いのかな?」

深い綺麗な声で笑って、長い腕を伸ばしてくれた。
嬉しくて手を伸ばすと抱きあげてくれる、そして同じ目線になると優しい切長い目が微笑んだ。

「綺麗な女の子だよ、小柄で水色の服を着て、短い髪はやわらかくて緑色に輝いている。花や木が大好きで、大きな樹に住んでいるんだ、」

まるで見たことあるかのよう?
そんな語り口に嬉しくなって、雅樹の首へと腕を回しながら自分は尋ねた。

「緑って、木の葉っぱの色だね?服が水色なのは、木が水を蓄えるからなんだろ?」
「うん、きっとそうだって想うよ?木が人間の姿になっているのがドリアードだからね、木と同じ性格なんだと思う、」

頷いて笑いかけてくれる、その笑顔に時おり白い花は降る。
自分のことを話してもらって喜んでいる?そんなふう山桜に想うなか、深い声は教えてくれた。

「ドリアードは木が命なんだ。自分が住んでいる木と、生きるのも死ぬのも一緒なんだよ。だから自分の木と森を大切にして生きている。
そういうドリアードが住んでいる森は豊かだよ、きれいな水と空気を作ってくれるからね。だから僕は、この山桜と森を大切にしたいんだ。
この桜がここに生きていることは、祖父も祖母も知らない。僕だけが知っている、だから僕はこの桜の守りをする為に、毎週帰ってくるんだ、」

山桜の森は、雅樹の祖父の地所だった。
古くから吉村家が代々大切にしてきた森、そう自分も聴いている。
そのことに気がついて思い当たったことを、そのまま雅樹に質問した。

「ね、雅樹さんがこの木を見つけたのってね?もしかして、吉村のじいさんと手入れに来たとき迷子になったとか、そういうコト?」
「当たり、やっぱり光一は頭が良いね?」

なんだか恥ずかしそうに笑ってくれる、その貌が可愛いと想った。
あのとき雅樹は18歳だった、初々しい医学生の頼もしい腕は軽やかに自分を抱えてくれていた。
それでも「かわいい、」と感じてまた好きになって、一瞬前より大好きな気持ちと笑いかけると雅樹は教えてくれた。

「ドリアードはね、人間の男に恋するんだよ?好きになった相手には姿を顕わすんだ、それで両想いになれたら自分の木に連れて行く。
そうして幸せな時間を過ごしてね、永遠に恋する約束をするんだよ?それはすごく幸せでね、男は時間も忘れて帰ることを忘れちゃうんだ、」

まるで神隠しみたいだな?
そんなふう祖父の昔話を想いだしながら、さっき思ったことを訊いてみた。

「あのさ?雅樹さんの話聴いてるとね、まるでドリアードに逢ったコトあるみたいだよね?でも帰ってきているけど、やっぱり逢った?」
「うん、逢ったよ。この桜を見つけた時にね、」

素直に即答して、綺麗な笑顔ほころんだ。
その笑顔に納得できる、こんな綺麗な笑顔の男なら精霊だって惚れるだろうな?
そんな想い見惚れた切長い目は花の梢を見あげて、ふわり懐かしそうに微笑んだ。
そして光一の瞳へ少し気恥ずかしそうに笑うと、綺麗な深い声は1篇の詩を口遊んだ。

……

  牧場に見えるのは 森の精ドリアード
  花に囲まれてくつろぐ姿が美しい
  色あざやかな帽子の翳には
  緑なす乱れ髪が揺れている

  その姿を一目見てより恋に悩み
  心は騒ぎ 涙はあふれ
  わが苦悩はいやましに募り募って
  その流し目に苛まれるばかり

  わが瞳には甘き毒が注がれて
  その毒が魂の奥深く流れこみ
  私は深い痛手をこうむるのだ

  麗しき六月の百合のように
  陽差しに灼かれ 頭を垂れて
  青春の盛りをいたずらに過ごしゆく

……

花のなか佇んで、緑の髪なびかせる美しい精霊。
その光景が詩に見えて、綺麗で、光一は大好きな人に尋ねた。

「きれいな詩だね、雅樹さんが作ったの?」
「ううん、ピエール・ド・ロンサールっていうフランスの人が作ったんだ。明広さんに借りた本で読んだんだよ、」

すこし恥ずかしげに綺麗な笑顔ほころばせ教えてくれる。
そういえば父はフランス文学とやらを大学でやったと言っていた、同じ本を自分も読んでみたいな?
そんな考え廻らす隣、雅樹は山桜を見上げながら懐かしそうに語り始めた。

「僕が小学校にあがった春だったよ。あのときも春の雪が降ってね、祖父が森の見回りに行くって言うから付いてきたんだ。
そうしたら僕、野うさぎと会っちゃってね?つい追いかけて、森の奥まで来ちゃったんだよ。そして、いつのまにか山桜の前にいたんだ。
今日みたいに雪のなかだった、真白な花と緑の葉っぱが綺麗でね。すごいなって見惚れていて、気がついたら女の子が近くで桜を見ていた、」

春の雪、7歳になる雅樹が出逢った「山桜」の瞬間。
いま深い声に紡がれるシーンが綺麗で、なにか愛しかった。
この愛しい想いと見つめる綺麗な笑顔は、楽しげに教えてくれた。

「自分と同じくらいの年恰好でね、水色の服を着て、短い髪が木洩陽にきらきら光って緑いろに輝いているのが、本当に綺麗だった。
綺麗で見惚れていたら、僕に気がついて笑いかけてくれてね、この木が好きなの?って聴いてくれたよ。その笑顔が綺麗で可愛かった。
なんだか僕、すごく幸せな気分で頷いたんだ。この桜きれいだね、大好きだよって。そうしたら、同じだねって嬉しそうに笑ってくれたんだ。
それから桜を見ながらお喋りしたよ、僕が登った山の話とか、山で見た花の話とか。どの話もね、本当に楽しそうに笑顔で聴いてくれたんだ、」

水色の服を着た可愛い少女と、7歳だった雅樹。
ふたり山桜を見上げて雪のなか話すシーンは綺麗で楽しくて、けれど幾らか嫉妬しそうだった。
自分が大好きな雅樹が他の話を楽しげにする、それが妬けて少し拗ねた口調で言ってみた。

「ね、雅樹さん?ドリアードとのお喋りはね、さぞ楽しかったと思うけどさ?俺と話すのと、どっちが楽しい?」
「え?」

すこし驚いたよう切長い目が自分を見、綺麗な貌がすこし首傾げた。
明るい瞳ひとつ瞬いて、すぐ幸せに微笑んで深い声は言ってくれた。

「光一?光一だったら僕と山の神さまと、どっちとお喋りする方が楽しい?」
「そんなの比べらんないよね?だって、人間と神さまなんだから次元ってヤツが違うね、」

即答して、すぐ気がつかされた。
自分は雅樹に愚問をしたかもしれない?そんな恥ずかしい想いと訊いてみた。

「あのさ、雅樹さんも同じってコト?ドリアードって山の神さまみたいなモンで、俺とは比べらんない別次元ってコト?」
「うん、その通りだよ、」

綺麗な笑顔は楽しそうに笑って頷いてくれる。
ちゃんと自分は正解を言えた、嬉しくて微笑んだ隣から雅樹は教えてくれた。

「さっき話したけど、ドリアードに恋した男は時間も忘れて帰らないんだ。それはね、山で亡くなる人と同じかなって僕は想う
山を愛して山に登って、そのまま山で亡くなって帰らない。そういうの、木の精霊に恋したまま帰らない男と似てるなって、想うんだ。
だからね、山で遭難死することは山に恋しすぎて帰れない気持ちを、山が受け容れたっていう場合もあるかもしれないね、相思相愛で、」

山と恋しすぎて帰れなくなって、山で命を終える。
そんなふう語った雅樹の貌は、若い山ヤの憧憬が明るく輝いていた。
透けそうなほど明るい笑顔は綺麗で、けれど言葉たちの切なさに鼓動が響いて、大好きな笑顔に自分は抱きついた。

「ダメだね、雅樹さん。勝手に山で死んじゃったりしないでよね?ドリアードのトコ行かないでよ、俺の傍にいてよ、だって約束したね?
5月が来たら、俺が4歳になったら一緒に山、登ってくれるんだろ?年長組になったら富士山だって登るんだよね?もっと沢山、一緒だよね?」

まだ3歳だった、けれどもう山の約束を始めていた。
その約束をどうしても叶えてほしくて、抱きしめた笑顔を見つめて自分はねだった。

「ね、だから言ってよ?ドリアードより俺を選んでよ?ね、雅樹さん、俺だけを見てよね、いちばんを俺って言って約束を護ってよ?
俺とパートナー組んで一緒に山登ってよ、俺のことホント大好きだったら、いちばん好きなら、いつか俺だけのパートナーになってよ、ね?」

お願いだからYesと言って?
その願いに見つめて強請って、熱くなった瞳から涙こぼれた。

「俺のこと大好きなんだよね?俺がいちばんだよね、山の神さまより俺を好きって言って?山で死なないでよ、俺のトコ帰ってきて、ずっと」
「うん、」

短く応えて、綺麗な笑顔ほころんだ。
泣きだした自分の髪を大きな掌が撫でて、深い綺麗な声が言ってくれた。

「約束するよ、光一。僕は必ず光一の所に帰ってくる、今日みたいに奥多摩に帰ってきて、光一と一緒に山へ登るよ?光一が大好きだから、」

約束に微笑んでくれる頭上、ゆるやかな風に白い花は万朶と舞い降らす。
きらきら暁に花びらはきらめいて、光の梯子に森は輝き世界は白銀へと明るんだ。
まばゆい冬と優しい春の森深く、大きな山桜が蒼穹に輝く許で、美しい山ヤの医学生の笑顔は生きていた。




「…約束だよね、雅樹さん?俺のとこに帰ってきてるよね、今、一緒にいるよね?」

そっと想いこぼれた自分の聲に、頬ひとすじ熱が伝う。
手の甲で頬と目許を拭い、呼吸ひとつで落ち着くと光一はデスクライトの下に山図を広げた。

“Matterhorn North Face Route.Schmidt” 

高低差1,124m、マッターホルン北壁シュミッドルート。
標高4,478mの頂点へ向かう岩壁を辿らす垂直の道は、寮室の狭いデスク一杯に広がっている。
この道を初めて登ったのは8年前だった、けれど頭脳で幾度と登ったのか解らない、その初登は8歳の夏だった。

『俺の専属アンザイレンパートナーになってよ?俺なら2時間で登れるね、アイガーなら3時間だ。ね、だから俺だけ見てよ?』

穂高連峰を縦走した夏、梓川のキャンプ場で雅樹に告げた言葉。
あの言葉から始まったマッターホルン北壁とアイガー北壁の夢、それからグランドジョラス北壁、そして最高峰の夢。
きらめく夏の記憶と約束たち、その最初に叶えるべき1番目の約束が今、デスクライトに光っている。

―絶対に約束の記録で登れる、英二とならね。まだ経験に不安はある、それでも英二の才能に懸けたい、

英二の山岳経験は、1年にも満たない。
初めての登山が1年程前の警察学校である山岳訓練だった、それが切欠で英二は山ヤの警察官を志した。
それから外泊日にはジムでの岩壁登攀のトレーニングに通っている、けれど本チャン、山での初登攀は卒業配置後だった。
青梅署山岳救助隊で行った白妙橋での登攀訓練、初めてだと言う英二に救助隊隊長の田村がマンツーマン指導をした。
まず1本目が終わり、そして2本目になった時にはもう、英二は光一のスピードを追いかけ始めていた。

―あのとき驚いたね、初心者に俺が追われるなんてさ?

あれは11月初めだった、だから10ケ月も経っていない。
そして英二と初めて一緒に山を登ったのは10月、川苔山で藤岡も一緒に自主トレーニングした時だった。
あのときも最初の歩きだしは上手くなかった、けれど10分もすると英二は光一の呼吸に合わせるよう登っていた。
そんな英二の様子に本当は驚いた、驚きながら英二が自分のザイルパートナーとして御岳駐在に配属された理由に気がついた。
本来、駐在員が山岳救助隊を兼務する青梅署には卒業配置での配属は無い。それなのに山は素人の英二が配属されて疑問だった。
その疑問の解答は、寮と山で英二と過ごして知った才能と性格、そして体格と身体能力に明解だった。

―後藤のおじさん、最初っから俺のアンザイレンパートナー候補として、受け入れを決めたね

ずっと後藤は、光一が単独行であることを心配してくれていた。
雅樹が亡くなった後は両親がザイルパートナーを交替で務めてくれた、両親の死後は親戚で山ヤの田中老人がザイルを組んだ。
けれど高齢の田中と大柄な自分がザイルを組める時間は短くて、高校生になると両親の友人である後藤がパートナーになってくれた。
ただ、山岳救助隊副隊長を務め警視庁随一の山ヤである後藤は多忙で、ザイルを組んで登れるのは海外遠征か近場の練習の時だけだった。

身長180cmを超える体は日本人では大柄で、アンザイレンザイルを組む相手は体格だけで既に選択が狭められる。
そのうえ自分の登攀スピードに追い付ける相手はまずいなくて、身長179cmでトップクライマーの後藤しか身近にいなかった。
そんな現実に仕方なく単独行で山を廻っていた、それでも田中老人がザイルを組まなくても一緒に登るときもあった。
日本中の山を知る田中とは同行するだけでも楽しくて、田中の人柄も大好きだった。けれど、幾度も想っていた。

『雅樹さんが生きていたら、もっと難しい山でもザイルを組んで、もっと速く自由に登れるのに』

雅樹は身長181cm、細身筋肉質だった。その体格バランスは大人になった光一の体と釣合った。
なにより雅樹はクライマーの素質が高い、マッターホルン北壁を雅樹は19歳のとき6時間48分で完登している。
それは大学の山岳会で行った遠征訓練での記録で、ベテランの先輩とザイルを組み、雅樹がリードを務め登攀した。
マッターホルン北壁は現在ですら3日懸るケースもある、下山時にはヘルンリルートのソルベイヒュッテで1泊するのも普通だ。
けれど雅樹は下山も2時間かけていない、垂壁を7時間ずっと登り続けた後にこのタイムは持久力の充実度も窺える。
今から20年前に完登7時間弱と下山2時間弱、これは当時の装備や条件を考えたら遅い記録ではない。

―きっと雅樹さん、今の装備なら、今の俺と組んでいたら全く違う記録だった、

もしも雅樹が生きていたら、クライマーとして沢山の記録を作っただろう。
そして救命救急のERで医師になって、山間部の医療に取り組み多くの生命を救う道に生きていた。
父親の吉村医師が言うように「山と医学の男」として雅樹は夢を叶え、輝いて生きられるはずだった。
そんな雅樹の志を繋ぐかのように、英二は山岳救助隊で応急処置を主担当しながら警察医助手まで務めている。

―クライマーと医療と、両方で似ているんだ、英二は

どうしてだろう?
どうして英二は、会ったことがない雅樹と同じように生きる?
そんな相似が不思議になる、それは性格や言動にも感じる時がある。
けれど英二は哲学的思考が強くて考えすぎる為に根暗な性分がある、そこが雅樹と全く違う。

―雅樹さんは論理的でロマンチストだったね、だから考え方も明快で明るかったんだ、

雅樹は聡明で物静か、けれど根が底抜けに明るい。
何事も的確に分析した上で良い方向に判断する、そんな怜悧な明るさがあった。
その分析力がルートファインディングの巧みさになって、的確で迅速な登攀に繋がっていた。
そういう技術力と知識の全てを、雅樹は惜しみなく自分に教えてくれた。その一部が今、広げる山図になっている。

マッターホルン北壁シュミッドルートを描く図面、そこにはメモの書込みが多い。
これらのメモは半分が雅樹から教わったもの、残り半分は16年間に自分が調べたデータになる。
そのデータには父と母が登った記録も反映されている、そんなふうに大切な人たちの想いが山図に温かい。

―絶対に出来るね、俺には。そうだよね、マッターホルン?

いま見つめる図面の山に笑いかけて、傍らのアルバムをそっと開く。
丁寧に開かれたページには、懐かしい青いウェア姿の笑顔が綺麗に咲いている。
この笑顔は青梅署診察室のデスクでも、綺麗な写真立てから父親の仕事を見つめて暮らす。
雪山の頂上で笑っている美しい山ヤの医学生、この写真を撮影したのは自分の父、明広だった。

― K2に登った時だよね、オヤジの仕事につきあってさ、

父の明広は家業の農家を祖父と営みながら、山岳専門の写真家だった。
この仕事のために世界中で名峰を登った結果として、父の記録は積まれている。
国内ファイナリストクライマーと言われていた父、けれど本人はそんな意図もなかった。

「単に山が好きなだけだね、佳い貌の山を撮りたいから登るんだ、」

そう言って笑いながら父は、いつも国内外の名峰へとカメラを背負って登っていた。
うまく都合が合えば親しい蒔田とザイルを組んでいた、けれど蒔田は後藤と同様に山岳救助隊員として忙しい。
だから海外や難度の高い山の時は、医学生で救命救急士資格を持つ雅樹をパートナーに登ることも多かった。

「イザって時に体の面倒も見てもらえるしさ、雅樹くんと俺なら技術はモチロン、体格や体力のバランスも悪くないからね、」

そんなふうに言う父は身長178cm、細身でも農業と山で鍛えた筋骨が強健な体躯だった。
年齢的にも父と雅樹は10歳違いで、自分と雅樹の15歳差よりも近い。だから確かに父の言う通りだと思った。
けれど雅樹は自分だけのパートナーにしたいのに?そう思ってはいつも、ふたりの山行が決るたびに父と雅樹に訴えていた。

「イイかい、オヤジ?俺はね、オヤジに雅樹さんを貸してあげてるだけだからね?ホントは俺のパートナーなんだからね、」
「解かってるよ、光一。ほんとオマエって生意気で可愛いね、」

言いながら節くれた指で息子の額を小突き、からり父は笑ってくれた。
そんな父の笑顔が嬉しくて、けれど雅樹を連れて行かれることに自分は拗ねた。

「オヤジに可愛いって言われても嬉しくないね。ね、雅樹さん?ちゃんと俺のトコ帰ってきてね?約束だよ?」
「大丈夫、ちゃんと帰ってくるよ。光一と、約束したからね、」

そう言って笑ってくれる笑顔が綺麗で、独り占めしたくて仕方なかった。
そんな気持ち正直に笑って、ひろやかな背中に抱きついて笑顔に頬よせた。

「そうだよ、約束だよ?俺のこと可愛いかったら帰ってきてよね、雅樹さん、いちばん俺が可愛いでしょ?」
「うん、いちばん可愛いよ。光一は生意気に可愛いくって、いちばん好きだよ、」

生意気に可愛い、そんな表現を雅樹もしては笑っておんぶしてくれた。
大らかな背中は温かくて幸せで、伝わる鼓動は頼もしくて、自分を一番だと想ってくれる事が嬉しかった。

「ねっ、俺がいちばん可愛いね?雅樹さん、生意気ってイイでしょ?」

この背中がいちばん好き。
その想い素直にしがみついている自分のことを、いつも父は呆れ半分と和やかに笑ってくれた。

「こら、光一?俺が生意気可愛いって言っても悪タレた癖にね、雅樹くんだと大喜びってなんだい?俺が父親だっていうのにさ、」

そんな会話を毎回のよう交わして、それから父と雅樹はふたりザイルを組んで多くの高峰を登っていた。
こうした機会を生かして雅樹は、自身と父を被験体にして「緯度と標高の変化に対する人体の馴化」を研究テーマにしていた。
そのため講義を休む事も許可され易くて、トップクライマーである父との山行を雅樹は医学と山の両面で楽しみにしていた。
そうやって雅樹とアンザイレンを組める父が羨ましくて、雅樹との山行から帰ってきた父をいつも悪戯の餌食にしていた。

「ま、オヤジのお蔭で雅樹さん、いろんな山に登れたんだけどね?でも、今だって俺は拗ねちゃってるね、俺は我儘なんだ、」

ひとりごと写真に笑いかけ、そっとアルバムを閉じた。








【引用詩文:Pierre de Ronsard「カサンドラへのソネット」第51番「森の精ドリアード」Dedans des Prez je vis une Dryade】


(to be continued)

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第58話 双壁side K2 act.4

2012-12-04 23:01:59 | side K2
「恋」 しのぶれど、永遠に 



第58話 双壁side K2 act.4

―…ドリアードに恋した男は、時間も忘れて帰らないんだ。それはね、山で亡くなる人と同じかなって僕は想う
   山を愛して山に登って、そのまま山で亡くなって帰らない。そういうの、木の精霊に恋したまま帰らない男と似てるなって
   だからね、山で遭難死することは、山に恋しすぎて帰れない気持ちを、山が受け容れたっていう場合もあるかもしれないね…

遠い幼い春、山桜を見上げながら雅樹が語ってくれた言葉たち。
この言葉が16年を信じさせて縋らせてくれた、だから自分は絶望から救われた。
雅樹は幼い日にドリアードと出逢っている、けれど生きて人間の世界に帰ってきた。だから山からも帰ると信じたかった。
出逢いながらも雅樹を帰してくれた「山桜」なら、山に眠った雅樹を目覚めさせ生き返らせる力がある、そう信じて待っていた。

―雅樹さんのドリアードなら、山の死からでも雅樹さんを帰せるって…生き返らせることも出来るって信じてた、本気で

けれど3月、慰霊登山で向きあった槍ヶ岳山頂に「雅樹」は現れ、永訣を自分に告げた。
ナイフリッジの風に駈けあがり、風花を降らせて雅樹は、あの山から蒼穹に逝ってしまった。
それからだった、ふっと山桜の香を感じることが、懐かしい温もりに充たされる瞬間が日々にある。
だから悟った、もう雅樹が生き返ることは、無い。

―死んだ人は2度と生き返れない、そんなこと「山」の力でも出来ない…もう雅樹さんは死んだんだ、生きて帰ってきてくれない

ゆっくり浸していく現実に今、富士山麓の風ゆるやかに吹いていく。
風ゆれる森の梢は木洩陽やさしくて、緑きらめく光に黒髪やわらかな人は佇んでいる。
あわい水色のパーカーを着た小柄な笑顔は穏やかで、深い優しい声が自分へと祝福に微笑んだ。

「お願い、光一。英二との夜は、ずっと幸せでいて?大好きな人に抱きしめてもらう幸せを、一瞬でも無駄にしないで幸せでいて?」

どうか幸せでいて?

そう願ってくれる祈りが眼差しから響いて、心に温度が生まれだす。
もう砕いた16年の叶わぬ夢、その涙で凍えた心に祈りがふれて温かい。
この温もりを信じて肯えばいい?そんな想い見つめる真中で周太が綺麗に笑った。

「最初の時はね、確かに怖くて不安で、痛いかもしれない…それでも幸せだけを見つめて?痛くても大好きな人を見て、信じて?
大好きな人に体ごと愛してもらう幸せ、少しも逃さないように、ずっと見つめて感じてほしい…お願い、光一。その夜はずっと幸せでいて?」

最初の時、その言葉に不安を想う。
この体ごと英二に愛される、そのリスクと不安が傷みに変る。
けれど、その痛みが何だと言うのだろう?今この自分に幸せを願ってくれる人の傷み、その方がずっと痛い。

―辛くないはずない、それなのに英二に愛される幸せをくれようとして…そうやって俺の夢を、叶えようとしてくれるの?

自分が別の人間に恋すれば良かった、けれど英二しかいない。
雅樹と叶えたかった夢、雅樹と見つめたかった想い、その全てを共に現実に出来るのは唯ひとり。
そんな唯ひとりが「雅樹の山桜」が恋した相手であることは当然だ、そんな納得がある。
ならば納得に殉じて罪も痛みも涙ごと潔く背負えば良い、その涙に光一は微笑んだ。

「うん、ありがとう周太…ごめんね、ゆるしてとか言えない、でも俺、どうしても英二が良い…ごめん、ね…っ、周太」

微笑んでも言葉が泣いてしまう、16年の終わりに愛惜が胸を噛みながら温かい。
終っていく今あふれる想いをこめて、まだ握りしめたままの周太の掌へ唇よせる。
そっと口づけて、長い想いの全てに微笑んで光一は優しい掌へキスをした。

―さよなら、16年ずっと信じて支えてもらってた…ありがとう、ずっと

別れと感謝を籠めて、愛しい掌にキスをする。
ゆっくりキスを離していく、そして唇に想いを言葉へ変えた。

「惚れた相手と見つめ合って、ふれあって、この体と心だけで繋がりたい…そういうこと本気で想えたの、あいつが初めてなんだ。
肩書も立場も無い、性別だって関係ない、生きた人間同士ってだけで愛し合ってみたい。ただお互いの体温を知りたい、融け合いたい。
本当はされるのって怖い、体のこと不安で…だけど英二が北壁で実績つけたら、そしたら俺の体すこし壊れても大丈夫って想って…だから、ね」

男同士で愛し合う事は、受身の方のリスクが大きい。
この身体的リスクはトップクライマーを目指す夢にとって、大きな障害になる。
それを超えても英二に愛されたいと望んでしまった、その覚悟へと周太は穏やかに笑いかけてくれた。

「大丈夫、光一の体は壊れたりしない。英二は優しいよ、ちゃんと体も大切にしてくれるから、怖がらないで、ね?」
「うん…わかった、不安にならないようにする、」

応えながら気づかされる、周太がどれほど英二を信じているのか、その強さに見惚れてしまう。
こんなふう強く想える人、その涙を自分は無駄に出来ない、だから不安より信じることをしたい。
そうしてまた新しい約束に勇気見つめながら、この16年の告白へと口を開いた。

「それでね周太、…聴いて?…っ、」

言って、涙こぼれて声がつまってしまう。
その涙と声に周太は歩み寄って、すこし背伸びして抱きしめてくれた。

「ん、聴くよ?ちゃんと全部聴くから、安心して話して?」
「うん…ね、信じて、ね…ぅっ、」

涙と笑いかけた向こう、黒目がちの瞳が優しく微笑んでくれる。
ひとつ息吐いて、そして光一は15年の想いを告げ始めた。

「初めて逢ったときからずっと、君を愛してる、今もだよ…ずっと君を待ってた、だから俺、えっちだって本当は一回しかしてない、
その一回はね、初めて同士じゃ君を傷付けるって思って、それで初体験を済ませただけなんだ…俺、君と結婚したかったんだ、本気で、」

告げる言葉には真実と「秘密」ひとつ隠される。
この秘密は生涯ひとり抱いていく、誰にも言う必要は無い。
その秘密の他は本当のこと、女性との初体験は「雅樹の山桜」と一緒にいる為だけの目的だった。
だから相手の顔も忘れてしまった、けれど「秘密」は永遠に忘れない、この想いのまま光一は言葉を続けた。

「でも君は女の子じゃない、それでも君への想いは変わらない。だけど、男の君とは結婚できない、悔しいけど俺にはそれが赦されない。
だから、君の相手が英二で良かった、本当にそう心から想ってる…でも君が女だったら俺は、何をしたって君のこと取り戻してた、絶対、」

ドリアードが女性なら、生涯を懸けて傍に留めたかった。
そして一生ずっと信じ続けていたかった「雅樹の山桜」を妻にして、夢を手離さず見つめていたかった。
雅樹のドリアードなら、いつか雅樹を生きて帰らせることが出来るかもしれない。そんな夢を信じて待っていたかった。
けれど夢はもう終わる、その涙に濡れるまま周太へと微笑んで光一は真実を語った。

「君の山桜はね、雅樹さんが見つけて俺に教えてくれたんだ…小さい頃に雅樹さん、あの森で迷ってね。そのとき君に出逢ったんだ。
雅樹さん、あの山桜はドリアードが住んでるって本気で信じてたよ。その話をしながら赤ん坊の頃から俺を、一緒に連れて行ってくれた。
あの場所は俺と雅樹さんの秘密の場所なんだ。君の山桜を雅樹さんは本当に愛してた、あの木に逢う為にいつも奥多摩に来てたんだ。
だからね、雅樹さんが死んで、哀しくて逢いたくて、あの森に毎日通ってたんだ…あそこに行けば雅樹さん、来てくれるって想ったから」

告げていく真実を、黒目がちの瞳は静かに見つめてくれる。
初めてアンザイレンパートナーに選んだ、美しい山ヤの医学生が恋した山桜の化身。
そう信じているひとの瞳へと、尽きることない想いを抱ける幸福を見つめて、光一は笑いかけた。

「雅樹さんに逢えなくても、雅樹さんが恋した山桜のドリアードに逢えるかも?そう思って俺、毎日いつも山桜に逢いに行ってたんだ。
下草を刈ったり、幹の蔓を外したりしてね、山桜を手入れして可愛がって。そうしたらドリアードが俺に逢ってくれるって信じてたよ?
そして1年が過ぎて冬が来て、山桜に花芽がついた時だった、君があの山桜の下にいたのは。雅樹さんが教えてくれた通りの姿で、ね」

人間が生き返ることなんて、出来るわけがない。
そう解っている、けれど信じていたかった、雅樹が「約束」と自分を遺して死ぬと信じられなかった。
だから雅樹のドリアードに逢いたかった、逢って恋して、妻にして大切にしたら雅樹を蘇らせてくれる、そう信じたかった。
そう信じたくて山桜に毎日を通い続けて守りをした、そして雪のなか出逢ったのが周太だった。

「俺ね、雅樹さんが亡くなって哀しくて苦しくて、もう人間のこと好きになり過ぎないって決めてたんだ。だから君に逢えて嬉しかった。
山桜の精霊なら、山の神さまなら、雅樹さんみたいに死んでいなくならない。たとえ普段は見えなくても生きてる、いつか逢ってくれる、
そう信じられるから俺は、君に恋したんだ。君は生身の人間だって解ってる、でも本当は山桜のドリアードだ、死んで離れることは無い。
だから離れている14年間も信じられたんだ、山桜が元気に花を咲かせるたびに君は生きてるって、いつか逢いに来るって信じられた、」

まだ9歳だった、自分も周太も。そして14年を経て再会したとき、23歳の大人になっていた。
いま24歳を迎える自分たちの人生で半分以上を占める歳月を「いつか」を信じて待つことが自分を支えてくれた。
ひたすら毎日を信じ待ち続けた「雅樹の蘇生」が、自分を別離の絶望から救って支えた、だから両親の死も超えられた。
大切な両親は亡くなった、けれど自分には雅樹のドリアードと再会の約束がある、その約束と夢の温もりに縋って生きられた。

―こんなことは弱虫だね、でも俺には必要だったんだ、でも、もう終わらせて解放しないとね、君のこと

いつか雅樹を生きて帰してくれる、そんな叶わぬ夢を懸けた人。その人を自分の願いから自由にして、ただ大切に護りたい。
もう雅樹は生き返らない、その現実へと慰霊登山で英二が向きあわせてくれた、だから潔く夢を諦めて「明日」に懸けられる。
この「明日」に現実を英二と生きて、今度は自分が周太を運命から救いたい。その意志に見つめた周太は微笑んでくれた。

「雅樹さんのお蔭で俺は、光一と逢えたんだね?」
「だね…だからね、俺にとって君は救いなんだ、」

問いかけに応えて、笑いかける。
9歳の冬、雪の森で見つめた幸せの瞬間に、ありたっけの感謝で光一は綺麗に微笑んだ。

「出逢った日も君は、本当に楽しそうに俺の話を聴いてくれた。あの綺麗な笑顔が嬉しかった、純粋で温かで本気で好きになった。
見つめてくれる目が優しくて、寛げて。短い時間だったけど俺は救われたんだよ…だから俺、本当に精霊で神さまだって信じてる、今も。
君は山桜の化身ってヤツだ、ドリアードだけど人間の姿で今は生きている。いつか人間の命を終えても君は、あの山桜に還るだけ。そうだよね?」

雅樹は生きて帰ってこない、けれど山桜は生きて咲き続ける。
そんな樹木の生命力に永遠を信じていたい、体は滅んで逢えなくても心だけは逢えると信じたい。
この願いに祈るよう笑いかけて、ゆっくり熱のこぼれる頬に困りながら光一は本音を言った。

「だから俺、英二が周太のこと愛しちゃってるの、納得なんだよね?だって英二はね、雅樹さんと全然違うくせに同じなんだよ。
英二って根暗だけど、雅樹さんは物静かでも明るかったんだ。でもね、真面目で思慮深くって優しくて、絶世の別嬪ってとこ同じでさ。
ふたりとも山を愛して、人の命を援けることに誇りを懸けてさ?同じように俺のこと支えて傍にいて、きれいな貌で笑ってくれるんだ。
そういう英二だからね、雅樹さんが恋した山桜のドリアードに恋して、惚れぬいちゃうの当然なんだ。相思相愛なのも当たり前だね、」

英二と雅樹、ふたりは相似形で正反対。
それは自分が誰より知っている、この「相似」である部分で自分に言い聞かせられる。
ふたりは似ている、けれど違う。この事実に想い重ねて正直に告白を続けた。

「雅樹さんのファーストキスは俺だよ、寝てる雅樹さんに俺が勝手にしちゃたんだ。でね、雅樹さん山の神さまとキスした夢見たんだよ?
それが俺にとって初めてのキスだ、その次は君だよ?今年の1月、あのときなんだ。初体験は済ませてもキスはとっておいたんだよ。
それくらい俺、本気で君を待ってたんだ。でも、もう終わらせるよ?…それでも、ずっと君を好きで、ずっと君を護ることは変わらない、」

想いを告げながら腕を伸ばし、抱きしめてくれる小柄な背中に回す。
かすかに香るオレンジがあまい、この香に夏の幸福を想いながら永遠の約束を告げた。

「だから信じてよ?俺は英二に抱かれても、ずっと君を想い続ける。山の神と同じに山桜のドリアードを愛して、護り続けるよ?
人間としての恋愛は俺にとって英二だ、でも君は特別だよ。俺にとって君は救いで、いちばん綺麗で、いちばん護りたい大切な存在だ、」

君は特別、自分と雅樹を繋ぐ絆を贈ってくれた。
あの山桜と夏の記憶を見せてくれる君、幸福の名残に安らぎをくれる。
その全ては君の意図じゃない、自分が勝手に想うこと。それでも、受けとめてくれる真実に変りは無い。

―あのとき雪の森で周太が受けとめてくれた、ドリアードと呼ばれることも拒絶しないでくれる、それが嬉しいんだ

いつも変わらず受け留めてくれる、15年前と同じに今も笑ってくれる。
その全ての感謝に見つめた黒目がちの瞳は微笑んで、受けとめ尋ねてくれた。

「ありがとう、光一。俺にとっても光一は大切だよ、だから英二を任せたいって想えるんだ…でも、1つ訊かせて?」
「なに、周太?」

素直に笑いかけた頬に、優しい掌が伸ばされる。
そっと涙を拭ってくれる感触が幸せで、微笑んで見つめる人は穏やかに笑って尋ねた。

「光一にとって、英二と雅樹さんは、同じ存在なの?」

ふたりは似ている、けれど全く別の存在だ。
この事実に光一は綺麗に笑いかけた。

「全然違うね。雅樹さんは俺の最初のアンザイレンパートナーだ。そして英二は、俺の最愛で最後のアンザイレンパートナーだよ、」

ふたりは全く別だよ?
そう告げた真実が心から響いて、明るんでいく。それが嬉しくて光一は笑った。

「雅樹さんは俺に山の夢を最初にくれた人なんだ。先生で、保護者でもあってね?憧れで大好きで、誰よりも尊敬して愛してるよ。
だけど英二は逆だね、俺があいつの先生だ。同じ世界に生きて、援けあっていく共犯者で…体ひとつで愛し合いたい、唯ひとりだ」

体ひとつで愛し合いたい、そう告げた言葉に「秘密」が響く。
静かで優しい温もりが玉響す、密やかな夢と現が心充たして温かい。
その温もり微笑んだ想いごと、そっと周太は抱きしめてくれた。

「ありがとう、光一。それならきっと大丈夫、英二と幸せになれるよ?…でね、ちょっと教えてくれる?」

嬉しそうに見上げてくれる笑顔が、すこし困ったよう訊いてくれる。
なんだろうな?そう訊いた眼差しへと周太は率直に言ってくれた。

「あのね、光一は男同士でするのに何が必要とか、ちゃんと解かってる?買ったりして揃えてあるの?」
「え、ないけど、ね?」

短く正直に答えながら、なんだか困ってしまう。
こんな質問を周太でもするんだな?そんな意外に途惑った腕を、優しく掴んで周太は笑ってくれた

「光一、お願い。薬局に連れて行って?ちょっと大きいお店の方が良いと思う、行こう?」

笑いながら四駆に引っ張って、ポケットから鍵を出して持たせてくれる。
促されるよう運転席の扉を開錠して、乗り込むと助手席はカーナビで検索していく。
画面に「薬局」と表示されるのを見ながらクラッチとギアを操作し、走りだすと光一は率直に質問した。

「あのさ?薬局って…もしかしてえっち用品を買いに行くワケ?」
「だって光一だけで行っても、英二の好みとか解からないでしょ?」

そんなこと君でも言うんだね?

言われたこっちが恥ずかしくなる、そんな純粋な瞳で言われると面映ゆくて。
けれど、こんな現実が「大人になった」と教えてくれる、この時の経過と大人になった実感が優しい。
こういうのは嬉しいな?そう見たフロントガラスに映る恥ずかしげな笑顔が、ストレートに訊いてくれた。

「ね、光一ってえっちな話が好きだけどえっちじゃないんだね?」
「ばれちゃったね、俺は耳年増なダケだよ?体は綺麗なモンだ、」

質問に困りながら笑って、白状する。
本当に自分は耳年増、それは16年前の夏も同じ、だから「秘密」を結べた。
大切な愛しい「秘密」の幸福に笑いかけ、話せることだけに光一は口を開いた。

「山と畑で暇も無いしね?さっきも言った通り、俺は君にえっちすること楽しみにしてたけど、他は興味無かったんだ。
今だから言っちゃうけどね、君が男でも本当はえっちしたかったよ?周太だったらタチもネコもしたいなって、思ってたんだからね、
だから俺、一応は男同士でもナニするって解ってるし、前も言ったけど自分の指でちょっとしてみたしさ。周太のだったら平気だと思うよ、」

男同士で愛しあう、その全てを自分は知っている。
その誇らしい「秘密」密やかに笑って、もう眠りにつく16年の夢の相手をフロントガラスに見つめる。
見つめた薄紅いろの笑顔は困りながらも、思い切ったよう訊いてくれた。

「そんなに想ってくれてありがとね?…でも、だったらなんで英二とするのは、そんなに考え込んでたの?」
「そりゃ決ってるよね、あいつがデカいからだね、」

さらっと答えたトーンに、いつもの悪戯っ子が起きあがる。
ちょっと転がしてしまおうかな?この愉快な気分に今は一緒に笑いたい、その気持ち正直に光一は訊いてみた。

「いつも風呂で見るだろ、でね、あんなデカいの入れられたらキツイだろって思ってさ。周太よく平気だなって思ってたんだよね。
あんなの入れるコツってある?あったら教えてよ、ほんと俺ちょっと自信なくって怖いんだよね。あのサイズでヤられるのは想定外だしさ、」

転がしながらも聴きたいことを訊いてみる。
本当に自信ないし怖い、そう率直に告げて回答を求めたい。
そんな質問とフロントガラス越しに笑いかけた隣り、周太はすこし拗ねた。

「あのね、光一?ほんとうに訊きたいのもあるっておもうけど、半分以上は俺のこと転がして面白がってない?」
「違うね、真剣が2/3で悪ふざけが1/3ってトコだよね、」

正直に訂正して隣を見遣り、見つめ合った黒目がちの瞳に心が止まる。
もう終わった夢、もう感じられない「雅樹の体温」その名残を見つめて心が泣きだす。
それでも終わりを認めて笑いかける、その想いの真中で周太は綺麗に笑って教えてくれた。

「今はふざけて良いよ?でもね、英二と抱きあう時は100%真剣になって?英二を大好きって想って、いっぱい幸せを感じたら大丈夫、
英二のこと信じて、愛されたいって想えたら自然と体が緊張しなくなるから、ちゃんと英二のこと受容れられるよ?それがコツだと想う、」

告げられた言葉に、愛しい「秘密」が密やかに微笑んだ。
その微笑に笑いかけて涙こぼれる、ゆっくり頬伝う熱に幸せを感じながら光一は微笑んだ。

「いっぱい幸せを感じるね、俺。周太、やっぱり君のこと大好きだよ?俺のドリアード、」
「ん、俺も光一のこと大好きだよ?」

綺麗な笑顔で即答して、応えてくれる。
その明るい笑顔が嬉しい、嬉しくて笑った隣で周太は心遣いと笑いかけてくれた

「見て、富士山すごく綺麗だね。あれより高い所に行くんでしょ?気を付けてね、」

言葉と一緒に見上げた秀峰は、蒼穹に白雲を靡かせて優雅に佇む。
フロントガラス拡がらす雄渾な蒼い山、あの頂点には二人のアンザイレンパートナーとの記憶が佇む。
この冬と春、そして6歳の夏に笑いあえた約束と秘密を見つめて、光一は綺麗に笑った。

「うん、気を付けて登るよ。心配しないでね、俺が英二のこと絶対に無事に登らせて、連れて帰ってくるから。信じて待っててね、」

今度こそ、無事に登らせ共に生きる。

必ず英二の無事を自分が護る、そして夢を共に見る。
もう自分はアンザイレンパートナーを死なせない、その力が今はある。
もう自分は8歳の子供ではない、もう大人として責任と義務と権利を背負う事が出来る。

―雅樹さん、約束を叶えるよ?そして英二の夢も叶えたいんだ、だから約束を護ってよ?

どうか約束を護って?あの夏に結んだ真実に懸けて、想いを叶えてほしい。
この願いと見上げる最高峰は今、夏の陽光に万年雪がきらめいて、永遠の光を投げかける。

―…あの雪ってさ、鳥に似てるね、雅樹さん?

幼い自分の声が記憶で笑う、富士山の夏が懐かしい。
保育園の年長組、6歳の自分を連れて雅樹は夏富士に登ってくれた。
あのときも楽しかったな?そんな想い佇んだ隣から優しい声と指が道を示し微笑んだ

「あ、光一。次の信号のとこ曲がってね?」
「そこの店だね?」

答えながら指示通りに四駆を走らせて、大型ドラッグストアの駐車場に停める。
すぐにシートベルトを外すと助手席の扉を開き、降りた笑顔がすこし羞んだ。

「あのね、光一?俺、店で買うのって初めてだからね?いつも英二が買ってくるから…でも品物はわかるからあんしんしてね、」

言ってくれるごと水色の衿元から紅潮が昇りだす。
こんなに恥ずかしがられると、こっちも困ってくるのにね?
そんな困惑も愉快で可笑しい、愉しい気分に笑って光一は潔く入口へ踵を返した。

「ソンナに恥ずかしがんなくってイイよ、周太?どれなのか教えてくれたら、俺ひとりでもレジには行けるからね、」
「いいえ、だめです、」

歩き出しながら、真赤な貌できっぱり言ってくれる。
どう見ても恥ずかしそうな紅潮、けれど黒目がちの瞳は毅然と光一を見上げ、率直に言ってくれた。

「俺が、英二の妻なんだからね?妻が夫のために支度したいの、だから俺が光一に買ってあげます。これくらいの意地は張らせて?」

そう言って笑ってくれた貌は恥ずかしがって真赤、けれど誇りが充ちて明るくまばゆい。
こんなふう笑ってくれるから、やっぱり信じてしまう、好きだなと想ってしまう。
この想い嬉しくて、すこし転がしたくなるまま光一は悪戯っ子で笑った。

「ありがとね、周太。君はドリアードだけどさ、でも結構えっちなんだね?恋人の浮気えっちまで管理しちゃうなんてさ、」
「…っ、」

言葉つまらせ、額まで赤くなる。
こういう初心なとこ可愛いよね?つい転がしたくなっちゃうな?このネタは長く使えそう?
そんな想い愉しく店内を歩いて陳列棚を覗く、その視界へと不意に周太が振り向き、毅然と言った。

「えっちじょうとうです、おとなで妻なんだからね、えっちであたりまえでしょ?あと浮気じゃなくって本気えっちしてね、」

いつもの可愛いトーンで言い放って、くるり棚に向きあい周太はボトルと箱を1つずつ手にとった。
そのまま真直ぐレジへと歩いていく、その背中に光一は呆気にとられて首傾げこんだ。

「…やっぱ君って、最強かもね?」









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第58話 双壁side K2 act.3

2012-12-03 23:49:24 | side K2
「涙」 哀切、愛惜、それから



第58話 双壁side K2 act.3

フロントガラス煌く木洩陽に、単独峰は蒼い。
森の樹間、梢のむこうに富士は緑の額縁から姿を顕わす。
大らかな裾野をひき白雲を靡かせ聳える、この雄渾な夏富士へと綺麗な笑顔ほころんだ。

「富士山、きれいだね、」

シートベルトを外す隣、嬉しそうに微笑んでくれる。
その笑顔が嬉しい、けれど今から話す緊張と自責が喉を詰まらせ返事が出ない。
それでも笑いかけて扉を開くと、森の濃やかな空気が頬ふれて鼓動ひとつ心を敲いた。

―英二の香、

ふっと心よぎらす香が、夜の時を想わせる。
いつもの狭い寮のベッド、お互い180cmを超える体ふれあわせ眠りにつく。
窮屈だと英二はいつも笑う、けれど狭いことが本当は自分は嬉しい。
狭ければ、自然と寄添いあえるから。

―今頃は御岳駐在に戻ったよね、それとも神社の駐屯所かな

いまどうしている?
そんなふう気がつけば考えてしまう、こんな相手はずっといなかった。
こうして離れている時間すら想うのは、こんなにも切なく感じるのは、なぜ?

―苦しい、こんなに物欲しげな自分が…でも離れられない

遠い16年前の夏、穂高連峰を縦走したのは今頃だった。
あのとき雅樹にキスした瞬間から、前以上に雅樹を想う時間は多く温かくなっていた。
奥多摩の山を見るたび穂高の夢を想い、多摩川の流れに梓川の約束が微笑んで、山桜の下で雅樹に逢える週末を待っていた。
それは楽しい時間だった、心待ちに訪れる週末は幸せだった、再会を約束して別れる瞬間は寂しくても「次」を信じられた。
それなのに、こうして英二と離れている只ひと時が、苦しい。

―なぜ苦しい?今日だって夜には逢えるのに…すぐ逢えるのに

ほんの数時間を離れるだけ、それなのに苦しい。
今すぐ逢いたいと思ってしまう、こんな依存するような自分に途惑う、そして不安になる。
そんな想いに溜息を見つめて振り返る、その視線の先、やわらかな黒髪が木洩陽へと緑に輝いた。

「…ドリアード、」

秘密の名前こぼれた向う、長めの前髪に緑の光ゆれる。
あわいブルーのパーカーを風にそよがせて、黒目がちの瞳が梢に微笑む。
きらきら明るい綺麗な瞳、木洩陽ふるなめらかな頬、穏やかで綺麗な優しい笑顔。
懐かしい冬、少年の日に見つめた桜の精霊が大人の姿になって、夏の木洩陽と幸せに笑っている。

―やっぱり君はドリアードだね…雅樹さんが恋したのは、君なの?

もう15年ずっと見つめた想いが今、最高峰の森でまばゆい。
見つめる横顔は、ただ幸せそうに森へ呼吸して最高峰を仰ぎ見る、その貌に驚きはない。
さっき新宿で車に乗せて、行先も告げぬまま眠りこんだ周太を連れてきた。それでも驚いた風もなく周太はいる。

―ここに連れてくること、予想していたのかね?

それもドリアードなら不思議は無いかもしれない?
そんな考えに微笑んだ心は緊張ゆるめられて、楽しげな横顔へと笑いかけた。

「もしかして周太、富士山に来るって解かってた?」
「ん…なんとなく、ね、」

穏やかな声が応えてくれる、その言葉が何だか嬉しい。
嬉しくて笑いかけた自分へと優しい笑顔も笑って、それが幸せに温かい。
けれど、こんなふう笑いあえるのも今が最期かもしれない。その覚悟ひとつ見つめて光一は口を開いた。

「周太。俺たち異動するんだ、第七機動隊の山岳レンジャーにね。俺は8月一日で、英二は9月一日だよ、」

告げた言葉に、黒目がちの瞳が驚いたよう瞬いた。
その話は初めて聴くな?そう見つめてくれる瞳に光一は話した。

「すこし前に決まったばかりなんだ、で、あいつはね?周太に伝えるタイミングは、結局のトコ俺に丸投げちゃってるんだよね。
あいつ忙しいんだ、俺が異動した後1ヶ月間は俺の代わりと後任者の育成をするからね、その準備もあるのに、北壁の遠征訓練もだろ?
しかも吉村先生の手伝いもある、青免も取らなきゃダメだしでね。英二が周太にちゃんと話せるのは、異動した後になるかもしれないね、」

英二は初任総合が終わったばかりの2年目、けれど既に多くの仕事を担当する。
御岳駐在所駐在員、山岳救助隊員、青梅署警察医の助手、そんな立場を生真面目に笑顔でこなす。
そこに引継ぎとパトカー運転免許の取得も加わって、遠征訓練も控える今は込み入った話をする余裕がない。
そして訓練から帰国すればすぐ8月一日は訪れて、自分は第七機動隊へ次期小隊長として異動し、英二は後任育成の忙しい時が始まる。
その後1ヵ月間はお互い時間も精神的にも余裕が無いだろう、そして1ヵ月が終った時、自分たちは部下と上司になっている。

―もう、とことん英二と向き合うんなら北壁の直後しかない、俺には…だから今、終らせないといけないね

ずっと考えて覚悟してきたこと。
この覚悟を今、目の前にいるひとへ聴いてほしい、そして終らせたい。
ふたつの北壁が終れば新しい時間を始める、それには「待つ」ことを終らせないといけない。
本当は甘えていたい、それでも新しい約束に自分は生きたい。この覚悟のままに15年の支えを断ち切るよう、光一は微笑んだ。

「俺、異動前に…北壁が終わったら抱かれたいんだ、英二に…上司と部下になる前に、対等なうちに抱かれたい、」

自分の言葉に、心の一部が命を消す。

ずっと大切にしてきた夢のひとつが今、息を止めて砕けてゆく。
もう告げてしまった「明日」への意志、それが15年の恋を終わらせる。その為にも怒られたい。
いま告げた言葉に怒ってほしい、罵ってほしい、そして16年を縋り続けた夢に諦めさせてほしい。
その想い見つめる真中、黒目がちの瞳に涙の翳が深く顕われ、けれど瞬きひとつで温もりが微笑んだ。

「ん、良かった…きっとね、すごく幸せだよ、」

温かい、優しい声の言祝ぎが、心を引っ叩いた。

―どうして?

どうして、そんな優しい言葉を言うの?
どうして君は微笑んでくれる?どうして温かく見つめてくれるの?
確かに君は前にも言ってくれた、英二に恋愛して良いと認めてくれた、けれど。

―プラトニックなら赦してくれるって想ってたけど、体は別じゃないの?

心が恋することは、誰にも止められない。だから赦してくれるとは想った。
けれど肉体関係は止めようとすれば出来る、だから自分も拒み続けていたのに?
それなのに今、自分は踏み越えてしまおうと言った、そんな身勝手を君は祝福するの?
こんなこと言う自分にどうして笑ってくれる?途惑い心が軋みあげ痛くて、光一は問いかけた。

「周太、どうして…?」

どうして君はそんなに綺麗?

問いかけながら、息絶えたばかりの夢に泉が生まれる。
いま砕いたはずの夢、それなのに欠片すら綺麗で心が泣き出していく。
綺麗で、心は奪われたまま喘ぐ傷みが喉つまらせる、それでも優しい笑顔に「告白」を訴えた。

「どうして罵らないんだよ…俺は、君の婚約者を浮気させるって言ってるんだよ?こんなこと言う俺のこと、もっと怒ってよ?
俺、自分が嘘つきになるの嫌で、泣きつきに来たんだ。こんなの卑怯だよ?解かってるだろ、俺は君を、秘密に巻き込もうってしてるね。
君のコト裏切る真似して、面倒な秘密まで押しつけるんだよ?…君の恋人を俺の体で、惑わせて…恋愛をねだろうって…なのに、どうして」

どうして?

どうして君は罵らない?
どんなに責められても良いと覚悟してきたのに?
純潔な君にとってこの選択は辛くないはずがない、それなのにどうして笑えるの?
そう見つめて問いかける自分を純粋な瞳が見つめてくれる、その眼差しの温もりが今は哀しいまま光一は告げた。

「あいつと俺が恋愛関係になるなんてね、本当は赦されない事だ。これから上司と部下として警察の世界を生きるんだ、俺たちは。
司法の番人ってヤツが役職超えて恋愛沙汰なんざ、今の日本警察じゃ問題沙汰だね、こんな秘密バレたら俺もあいつも終わりだよ?
それに君も巻き込むんだ、君に嘘吐くの嫌だって、君にまで秘密を押しつけて…それでも俺、あいつが好き、で…あいつだけ、で…っぅ、っ」

告げていく現実が、この心を抉る。
自分の選択が惹きこむ秘密と危険、それを英二が共に背負う事は構わない。
英二は全てを背負っても自分を抱きたいと願ってくれる、だからこそ自分も応えたいと願い覚悟を見つめてきた。
こんなふうに互いが背負う事は「恋愛」なら当然だろう、そんな危険の共有すら幸せだと想っている、後悔なんて欠片も無い。
けれど、いちばん護りたい存在をも巻き込んでいく自分が哀しい、このひとの婚約者に「唯ひとり」を見つめた自分が、苦しい。
哀しくて、苦しいまま見つめる視界が熱と滲みだし、頬伝う雫と言葉がこぼれた。

「もう、あいつと離れたくない…でも1ヶ月離れるんだ、そのあとはもう…上司と部下だ、もう全部が対等じゃなくなる、だから…
今度、北壁を2つ俺と一緒に登ったら、俺とあいつは対等になれるよ?だけど…異動する前までだけだ、どこも対等って言えるのは。だから、
あいつが嫌だって言えるうちに知りたい、本気で抱くほど俺を好きなのか知りたい、でも…君を傷付けるんだ…ね、罵ってよ…俺を怒ってよ?」

どうかお願い、俺を罵って怒って、傷つけて?
君を傷付けるのに自分が赦されるなんて思っていない、山の化身を傷付ける自分が赦せない。
雅樹が恋した山桜のドリアード、君がいるから雅樹は奥多摩に通い、そして自分のことも愛してくれた。
あの大切な人に出逢わせてくれた存在を自分は傷つける、それが雅樹への裏切りとも想えるまま赦せない。
雅樹にも自分にも大切な君、それなのに自分の願いが傷付けてしまう、その自責と熱情のはざまで光一は泣いた。

「周太が本当に大事で、なのに…あいつに愛されたいよ、一瞬でもいいから俺だけ見てほしいって想ってる…でも君を泣かせるのは嫌だ」

あの輝いた夏の幸福をもう一度だけ、一瞬でも良いから自分に与えて?

そんな願いにずっと泣いてきた、唯ひとりのアンザイレンパートナーを「雅樹」を探し求めて苦しんだ。
夢を懸けた名前を自分にくれた人、いちばん信じて愛して山の夢を贈ってくれた、あの美しい人を求め泣いていた。
その涙は君に出逢い救われた、ただ一瞬のような一度の出逢いでも山桜の時は永遠だった、この「永遠」に縋って生きられた。
あの雪の森に笑いあった穏やかな時、白銀まばゆい山桜の約束、この優しい記憶に癒されながら15年を生きてきた。
そんな支えをくれた君を裏切ろうとする、そんな自分をどうか責めてほしい、罵って罰してほしい。

―愛されたい、だから、その前に君から嫌われて自分を罰したいんだ…こんな俺を責めてよ?

英二が告白してくれた夜、あのとき英二はこの恋愛を「裏切りではない」と言ってくれた。
英二と自分が恋愛することで周太を護っていける、そう言ってくれた通りなのかもしれない。
けれど無傷のまま幸福を掴めるなんて、そんなに都合の良いこと想えない。だって今すでに心痛むのに?
それでも諦められない英二への想いが涙こぼれさす、その哀しい痛みへと優しい掌が伸ばされ涙ぬぐい、きれいな聲が微笑んだ。

「光一は俺のこと、信じて待っていてくれたでしょ?あの森でずっと…それで俺の罪まで肩代わりしてくれて。それに比べたら、ね?」

この冬1月の森、周太が犯した威嚇発砲の罪を自分は肩代わりした。
けれどそんなことが何だと言うのだろう?元はと言えば自分が原因で、周太に罪を犯させたのに?

―違う、周太。俺が元から全部、悪いんだよ?俺のワガママが君を追い詰めたんだ、

あのとき冬富士の雪崩で自分は怪我を負った、それが発端だった。
それが山っ子のプライドに障って秘密にしたかった、その秘密を護るため英二を脅迫した。
その脅迫が「英二を強姦すること」だった、それが周太を哀しませ追い詰めて、自分に銃口を向けさせてしまった。

―俺のプライドと、嫉妬が君を追い詰めただけ…だから威嚇発砲は、元から俺の罪なんだ、

あのとき既に「周太が山桜のドリアード」だと確信していた、あとは周太の記憶次第で確定だと思っていた。
だから英二が羨ましかった、男同士でも周太との結婚を真剣に考える笑顔がまぶしくて、そう出来ない自分が悔しかった。
そんな嫉妬と羨望が英二へのセクシャルな悪ふざけにもなっていた、ドリアードと想い交せる体に憧れて触れたかった。
そうして触れるうちに懐かしくなった、もう消えてしまった夏の温もりと空気を英二に見つけて、触れることが好きになった。
そんなスキンシップに英二は困りながらも一緒に笑ってくれた、いつも穏やかで綺麗な笑顔で見つめて受け留めてくれた。
周太のことで脅迫したときも真剣に受けとめて約束をくれた。そんな全てが深い信頼になって、本当に好きだと想い始めた。

―あの威嚇発砲があったから、本気で英二を信じられるって想えたんだ…それで好きになっちゃって、ごめんね…

どれも自分が発端だった、それなのに周太は「待っていてくれた」「肩代わりしてくれた」と感謝してくれる。
こんなふうに純粋な周太、強い優しさを抱いている穏やかな強靭は懐かしい人に似ていて、だからこそ信じてしまう。
雅樹が愛した山桜のドリアード、そう信じることで癒される時間をくれた人。この想い見つめる15年の夢は綺麗に笑ってくれた。

「秘密を背負わせてくれて、嬉しいよ?俺も一緒に秘密を背負えるんだって信じてもらえて、認めてもらえて本当に嬉しいんだよ?
なによりね、光一が幸せになろうって思ってくれたことが嬉しいよ?大好きな人と幸せな時間を過ごしてくれることが、嬉しいんだ。
しかもね、その相手が俺の大切な人で、光一がその人を幸せにしてくれるんだよ?ふたりがお互い幸せに出来るのなら、俺は幸せだよ」

どうして君は、そんなに綺麗?

ただ自分と英二の幸せだけを願ってくれる、その眼差しがまばゆい。
こんなふうに言われるなんて想わなかった、けれど納得もしている、だからこそ哀しい。

―俺の幸せを本気で願ってくれるなんて、雅樹さんと同じだね…やっぱり君は雅樹さんのドリアードだね

同じ願いを、同じよう穏やかな温もりに包んで贈ってくれる、それが嬉しくて哀しい。
あんまり優しくて強さが眩しくて、綺麗で、砕いたはずの夢が綺麗すぎて哀しくなってしまう。
優しい言葉くるまれるほどに哀しい、この愛惜に見つめるうち気がついてしまう、今なにがあるのか?
この「今」に周太が抱く願いと覚悟を見つめて、15年を懸けた我儘と一緒に光一は真直ぐ問いかけた。

「周太…俺はね、周太が幸せじゃなかったら嫌なんだ。だから本当のこと言ってよ、俺のこと罵ってもいい…本音を聴かせてよ?
何か周太は覚悟してるよね?それって俺が英二とえっちすることだけじゃない、もっと他にあるね?だからそんなふうに言って…教えてよ、」

なにか周太は覚悟している、そんな決意が黒目がちの瞳に映っている。
この決意が不安にさせる、見つめる笑顔の透けるよう明るい気配が鼓動ひとつ、大きく打つ。
この決意があるからこそ、尚更に英二を自分に託そうとする?そんな想い見つめた先で綺麗な笑顔ほころんだ。

「覚悟なら警察官になるって決めた時してるよ?それよりも光一、俺のお願いをちゃんと聴いて?英二を幸せにする約束をして?」

どうか約束を今、聴かせて?
そう笑いかけてくれる笑顔は純粋なまま優しくて、15年前と変わらない。
ずっと記憶で見つめ続けた大好きな笑顔、その笑顔への色褪せない想いに光一は微笑んだ。

「うん…君のお願いも約束も、聴かないなんて俺には出来ないよ?だって君は、俺の山桜のドリアードなんだ、唯ひとりの、」
「ん、俺は光一のドリアードだね?だから言う事きちんと聴いて、」

大好きな笑顔が笑いかけて、黒目がちの瞳は無垢な眼差しでいる。
こんな瞳をしながら周太の運命は、あまりに苛酷な現実が多すぎて涯に待つ分岐が解からない。
この現実の全てを周太は知らない、それでも無意識に気がついているから英二を託すのだろうか?
たぶん周太なら「無意識」を裏付ける理由も見つけている、そんな考えの視界で綺麗な笑顔が願ってくれた。

「光一はね、どこでも英二と一緒に行けるでしょう?でも、俺には出来ないんだ。俺ね、ちょっと気管支が弱いみたいなの。
だから英二が夢見ている高い山とか雪の深い所は、俺が一緒に行くことは出来ない。そういうの英二は寂しがるところあるでしょ?
だから光一に英二と一緒にいてほしいよ?英二が孤独にならないように、ずっと笑ってくれているように、いつも一緒にいてあげてほしい、」

本気でそんなこと、言うの?
君は運命を知っているの?だからそんなこと言うの?

「お願い、光一。英二を幸せにしてあげて?山でも、それ以外でも、英二が望む通り受けとめて?夜も独りにしないで抱きとめて?
光一も幸せに笑ってほしい。本当に大好きな人と抱きあって体温を感じ合うのはね、すごく幸せなことだよ?だから光一も幸せになって、」

どうか、あなたも幸せでいて?
そうシンプルに願ってくれる眼差しは綺麗で、透明なほど綺麗で不安になる。
不安で、けれど願ってくれる想いが温かくて優しくて、瞳に生まれた熱が頬へこぼれた。

「…周太、それが君のお願いだって信じていいの?」

本当に、信じればいいの?
信じて英二と抱きあえば、君は本当に喜ぶの?
もし自分が英二と抱きあうのなら君を待つ時間も終わる、それを君は望むと言うの?

―もし英二に抱かれるんなら本当に終る、信じて待っていた時間を諦めることになる

16年前の晩秋の記憶、独り見つめた絶望と山桜に懸けた夢の真実。
その全てを終わらせて「新しい約束」を結ぶことを、雅樹の山桜は望むのだろうか?
大切な伴侶を自分に差し出しても夢終わらせる事を願い、そして自分の幸福を祈ってくれる?

「周太、聴かせてよ?俺が英二とえっちすること、本気で君は喜んでくれるってコト?…それが君の幸せになるって、本気で言えるの?」
「ん、幸せだよ?」

穏やかな声が応えて、黒目がちの瞳は真直ぐ見上げ微笑んだ。
その優しい掌が静かに頬へ伸ばされる、そして涙を指で拭ってくれる。
どこまでも優しい温もりが頬ふれる、この温もり愛しいまま掌に頬に指くるんで笑いかけた。

「ほんとうに君は綺麗だね?強くて眩しい…なにも変わってないんだね、初めて逢ったときから君は…本当にドリアードなんだね…」

また零れる涙に微笑んで、掌に包んだ優しい指にキスをする。
唇ふれる温もりは優しくて「生きた人間」なのだと教えて、夢が終わると心に響く。
それでも変らない想い見つめる笑顔は優しくて、穏やかなトーンで周太は言ってくれた。

「ん、そうだね…きっと光一の山桜のドリアードだよ?だから言うこと聴いて、俺のこと大切だったら言うこと聴いて?」
「何でも聴く、君と山と、あいつから離れること以外なら何でも…だから言って、ドリアード?」

ドリアード、こんな「山の秘密」に名前を呼んで、涙あふれだす。
この名を教えてくれた懐かしい俤、大好きな俤を待ち続けた16年の夢が今、涙に融けていく。
ずっと待ち続け信じていたかった夢がもうじき終わる、その愛惜が、縋りたい想いが涙になって墜ちていく。
本当に信じていた、夢のようでも馬鹿だと思っても信じていた、山桜のドリアードなら、山の神なら叶えてくれると待っていた。

―ずっと君を待っていた、君になら出来るって想ってた…生き返らせることが出来るって、信じて待っていたんだ、

あの夏の幸せを、雅樹を生き返らせることが「山」になら出来る、そう信じて自分は待っていた。







(to be continued)

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第58話 双璧act.6―another,side story「陽はまた昇る」

2012-12-03 04:36:48 | 陽はまた昇るanother,side story
憧憬の温度、それぞれの夢に今、



第58話 双璧act.6―another,side story「陽はまた昇る」

今日、光一と北壁を登ったのは本当は俺じゃない、雅樹さんだよ。
あの山の点に立つべきは雅樹さんだ、俺じゃない。

そう告げた綺麗な低い声は黙りこんで、電話に繋がれた沈黙が静かに響く。
この沈黙に英二の心が映りだし、懐かしい憧憬の瞬間が起きあがる。

―…湯原、見てよ。これが警視庁の山岳救助隊なんだ、

湯原、そう英二は自分を呼んでいた。
まだ初任科教養だった時、警察学校の図書室で資料を一緒に見せてくれた。

「青梅署の救助隊だって書いてあるけど、雪の山だろ?ちょっと東京っだって思えないよな、」
「ん…奥多摩は結構、雪が降るよ…八王子とか立川とか、第八、九方面は」

相槌を打ちながら一緒に眺めた資料には、真白な雪の尾根と真青な空が映っていた。
空には救助ヘリコプターの姿、そして雪の上には青いウィンドブレーカーの背中が真直ぐに立っていた。
青地に白く染め抜いた「警視庁」を背負い雪に立つ背中は、誇らかに自由で、大らかな頼もしい雰囲気があった。
その背中を長い指は示して、綺麗な低い声が楽しげに笑って教えてくれた。

「この人の背中、かっこいいだろ?俺、こういう背中になりたいから、山ヤの警察官になろうって思うんだ。厳しいだろうけど諦めない、」

山ヤの警察官、その言葉に記憶が微かに揺らされた。
あのときはそれが不思議で、けれど今にしたら理由がよく解かる。だって自分は子供の頃に後藤と会っている。
初めて会った当時の後藤は40歳前、警視庁山岳救助隊のエースであり、山岳界では模範とするべき山ヤとして認められていた。
そんな後藤の背中を意識の深くでは憶えていたのだろう、まだ記憶喪失のままでも「山ヤの警察官」のイメージはすぐ出来た。
そして、英二が山ヤの警察官の背中に憧れたことが至極当然に想えて、きっと英二には似合うだろうと感じていた。
そんな英二の憧憬「背中の写真」を撮影したのは後藤で、撮影されたのは後藤の秘蔵っ子である光一だった。

…あの背中は光一だった、光一だから英二は憧れて山ヤの警察官になったんだ、

あのとき純粋な憧れだけが英二の笑顔に輝いていた。
ただ背中の写真しか知らない相手への素直な賞賛、そして夢が明るく笑っていた。
けれど今の英二は泣きそうな気配に唇噛むよう微笑んで、電話の向こう溜息の気配が伝わらす。
ただ哀しくて悔しい、そんな溜息には山ヤとして男としての誇りと、焦燥感を生む向上心が輝いている。
そして、あのときと変わらない純粋な憧憬と、その憧憬があでやかに花ひらいた「恋愛」の情熱まばゆい。
この純粋な想い達があるなら大丈夫、そんな想いに周太は婚約者へと静かに微笑んだ。

「そうかもしれないね、でも英二…光一は本当に英二のこと大好きだよ、そんなこと言ったら哀しむよ?…光一を傷つけないで?」

ごくシンプルなことだけ伝えて、何が大切かを想いださせたい。
どうか独り決めしないで?この願いとベッドの上に座りこみ携帯電話に頬よせる。
けれど電話の向こうは遠い青空の下、涙ひとつの気配と一緒に哀しげな声が微笑んだ。

「ありがとう、周太。だけど光一はもう、俺のこと愛想尽かしたかもしれない。そしたらごめんな、」

そんなことあるわけがないのに?
けれど今の英二は自信を失くして、沈んでいく心は盲になっている。
その視野を広げて気付かせてあげたい、その願いに周太は笑いかけた。

「そんなこと言わないで、謝らなくて良いから…その代り英二、約束して?」
「約束?」

言葉に微笑んで、訊き返してくれる。
いま少し笑ってくれた、その分だけ少し心に余裕が空いただろう。
そう感じて周太は一番伝えたい想いを祈り、言葉に変えて恋人へと笑いかけた。

「光一の言いたいこと、ちゃんと全部を聴いて?光一の気持ちを素直に受けとめて、心も体も全部、ね…そう約束して?」

告げた声はいつも通りでいる、それが嬉しい。
この言葉の意味を真直ぐ理解してくれるだろうか?そんな期待の向こうから綺麗な低い声が問いかけた。

「周太、教えて?周太がいま言ったことって、光一が望んだらセックスしてってこと?」
「はい、そうです、」

問いかけに答える声は、ちゃんと微笑んだ。
その微笑に電話の向こうが和んでくれる、その素直な反応が嬉しいまま周太は笑いかけた。

「でもね、しても俺に何も言わなくて良いからね?…ふたりが幸せだったら、それで良いから…ね、約束してくれる?
光一の話を聴いて受けとめて?本当の気持ちで向きあって、ふたりで夢を追いかけて?そう約束して英二、俺のお願いを聴いて?」

お願いを聴いて?
そう自分に言われたら、きっと英二には断れない。
この「お願い」が英二の背中を押してくれる、そう願っている。
大切なふたりには、どうか想い支えあって夢を叶えてほしい、その為なら自分はどうでもいい。

…もう俺はどうでもいい、もう大丈夫だから、ふたりには沢山もらったから大丈夫だから

ただ素直に感謝が心で呟いて、もう充分に想いは充たされ温かい。
弱虫で泣き虫の我儘な自分、けれど光一も英二も自分を想ってくれる、いつも沢山の約束で愛してくれる。
いつも変わらない2人の率直な真心と温もり、それが自分は独りで生きているのではないと気付かせてくれた。
ふたりが贈ってくれる優しい記憶と信頼感、その全てが、この自分を支え相手も受け留める強さを育んだ。
だからもう大丈夫、ふたりが互いを見つめ合う瞬間にも自分は、孤独に泣かない。

…もう俺は、いつも独りじゃないって心から信じられる、だから大丈夫、だから…お願い、英二?

だからお願い、英二?今度は自分から、想いを贈らせて。

どうか光一を受け留めて幸せにして欲しい、自分が出来ない分も。
そして英二にもっと幸せになってほしい、自分には出来ないことが光一には出来るから。
この自分を支えてくれるほど強く美しい二人なら、お互い支え合う時きっと不可能も可能に出来る。
だから見つめ合ってほしい、そして夢の全てを叶えてもっと輝いてほしい、本当に大切な2人には幸せでいてほしいから。
そんな想いに心深く見つめる俤は、はるか遠い国からも大好きな声で自分を求めねだってくれた。

「周太、お願い聴いたら俺のこと、もっと好きになってくれる?ずっと傍にいてくれる?」

もっと好きになってほしい、ずっと傍にいて待っていてほしい。
そんなシンプルで単純な幸せを求めてくれる、こんな時にまで自分を乞うてくれる。
その願いがただ嬉しくて、想い寄せてくれる温もり信じて周太は笑いかけた。

「ん、すきになる…だから言うこと聴いて?それで無事に帰ってきて?家も掃除して、おふとん干しておくから、」

日曜日の週休は、日帰りでも実家に帰ろう。
異動を控えて慌ただしい時だけど、だからこそ今、掃除をしてふとんを干したい。
そうして英二が帰ってきても居心地良いようしてあげたい、そんな普通の願いへと英二はねだってくれた。

「周太の作ってくれた飯、食べたい。約束してよ、周太?また俺に飯、作るって約束して?そうしたら言うこと聴くよ、」
「ん、…約束する、だから光一と話してね?この電話を切ったらすぐに、ね?」

喜んでもらえる食事を、心ゆくまで食べさせてあげたいな?
そんな素直な願いに微笑んで約束を結びながら、そっと婚約者の背中を押している。

…この電話を切ったらすぐに、って言ったら英二は、すぐに行動してくれる

時間を区切られたら英二は言われた通り、きちんと電話の後すぐ光一と話すだろう。
本質が生真面目で物堅い英二は時間感覚も鋭敏、だから朝に水を浴びながら時間割を決める習慣がある。
きっと今も時間を決めたから大丈夫だろうな?そんな考え微笑んだ向こうから、綺麗な低い声は明るく笑ってくれた。

「うん、すぐ話すよ。ありがとう周太、大好きだよ?ここから今、周太にキスしたい、」

キスしたい、そう大好きな大切な婚約者が言ってくれる。
この言葉こそ信じて受けとめたい、本当はずっと声を聴いていたい。
そんな本音にすこし困りながら微笑んで、周太は気恥ずかしさと一緒に婚約者へ笑いかけた。

「ん、俺も大好きだよ?…またきすしてね、おやすみなさい」
「うん、キスするよ。おやすみ周太、夢で逢ったらキスさせてね?」

電話と8時間の時差越しに笑い合って、そっと通話を切った。
ほっと息吐いて携帯電話を閉じ、ゆっくり部屋は静謐に浸されだす。
部屋の明りをデスクライトに絞り、ほの明るい優しい夜にベッドへ座りこむ。
その耳元にIpodのイヤホンを繋いで、スイッチを押すと手元の本を開いて灯りへ向ける。
栞を挟んだページを捲ると雪山がそこに広がらす、そしてイヤホンから穏やかな旋律があふれた。

……

I'll be your dream I'll be your wish I'll be your fantasy I'll be your hope I'll be your love
Be everything that you need.  I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
I will be strong I will be faithful 
‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning
I want to stand with you on a mountain…I want to lay like this forever

Then make you want to cry The tears of joy for all the pleasure and the certainty
That we're surrounded by the comfort and protection of The highest powers In lonely hours The tears devour you
I want to stand with you on a mountain…I want to lay like this forever

Oh, can you see it baby? You don't have to close your eyes 
'Cause it's standing right before you All that you need will surely come

I love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
I want to stand with you on a mountain

……

やさしいアルトヴォイスが歌う、夢を見つめ寄添いあう恋愛。
この英語の曲を初めて聴いた、青梅署単身寮の一室を記憶に想いだす。
あの部屋に香っていた深い森と似た恋しい気配、泣きながら微睡んだ白いシーツのベッド。
そして、抱きしめた山岳救助隊服に染みついた山の土と、愛しい汗の匂いが今、そっと懐かしく慕わしい。

…大好きだよ、英二?だから幸せになって、誰よりも夢に輝いて生きて?

心に想う祈りへと、想い出の曲は優しく歌ってくれる。
この歌詞に想いこめてくれた優しい婚約者、その人が幸福を得られるのなら自分は嬉しい。
そのためなら幾度でも涙を呑みこむ、幾らでも強くなれる、そう自分を信じられるだけ充分愛してもらった。
この大らかな勇気ひとつに心温めて、大切なふたりが明後日に向かう「壁」アイガー北壁の困難と栄光を今、ページに捲る。
そこに描かれていく高峰の現実には自分は立てないと実感が傷む、本当は、この目で頂点の世界を見たい想いが心で叫ぶ。

…きっとお父さんも見ていた世界なんだ、これが…でも、俺には行けない

たぶん小学校1年生の頃だろう、父と一緒に高い山へ登った記憶がある。
晴れた初夏の日和は涼やかだった、高山植物の花々を嬉しく観察しながら登って、けれど森林限界を超えた途端に歩けなくなった。
ついさっきは元気だったのに?もどかしい想いごと父に背負われ下り始め、けれど灌木が生える所まで来ると呼吸が楽になった。
そんな自分の様子に父は病院で検査を受けさせてくれた、それ以来のど飴をいつもポケットに入れてくれるようになった。
そして、標高2,500mを超える山に行く時は、いつも途中までしか登らなかった。

…あのときの検査、たぶん英二が受けたテストと同じなんだ

スイスに発つ前、英二は高地の適性テストを幾つか被験している。
この検査項目の全てが英二は優良だった、これらのテストを受ける度に英二は電話で話してくれた。
その話を聴くごと幼い記憶が呼び戻されて、自分の体は高地の適性が低いことに気付かされた。

…だから、お父さんと穂高に登ったときも涸沢までだったんだね…きっと、お母さんなら検査結果を知ってるんだろうな

検査を受けた当時は深く考えなかった、単純に、好きな蜂蜜オレンジのど飴をいつも持てる事が嬉しかった。
標高の高い山に連れて行ってもらえる時も、頂上まで登らず灌木が生える所で引き返しても不満や疑問は無かった。
元から自分が山登りを好きな理由は植物観察だったから、大きな木や珍しい高山の植物を見られるなら満足だった。
けれど、今は違う。父の軌跡を追いかけたい今は、英二と光一の夢に出逢った今は「山」に別の願いを持ってしまった。

…俺も高い山の天辺に登りたい、お父さんたちの夢の世界を見てみたい…だから山での応急処置も勉強したのに

たとえ北壁のような難しいルートは無理でもノーマル・ルートで頂上に行ける、そう思っていた。
6,000m峰などの難関は無理だろう、それでもアルプスの4,000m級までなら登れるだろうから、いつか行きたいと想った。
愛する人達が夢見る「高峰」その世界を少しでも見てみたい、厳寒期は無理でも夏なら行ける、そう信じていた。
たぶん検査を受けた頃よりは体力も格段に高くなっている、それでも体質はそう簡単には変わらない。

…だから英二と約束した北岳も、頂上は行けないかもしれない…約束ごめんね、英二

おそらく自分が高峰の頂点に立つことは、難しい。
そんなふうに、真剣な努力にも限界がある「体」の現実に気づかされた。
だからこそ光一に英二を託したかった、光一なら英二の夢と努力に応えられるから。
この叶わぬ夢への想いも託せる大切なふたり、いま夢に登らす祈りをIpodのアルトヴォイスが歌う。

“Oh, can you see it baby? You don't have to close your eyes 
 'Cause it's standing right before you All that you need will surely come…
  I love you more with every breath… I want to stand with you on a mountain ”

どうか愛しい人、ちゃんと見つめて?目を瞑っては駄目。
あなたに必要なもの全てに辿りつく未来が、あなたの目の前にあるのだから…
息をするごともっと愛するから…山の上にあなたと立ちたい

…だいすき、光一も英二も。お願いだから無事に夢を叶えて?信じて待ってるから…心だけでも俺を、最高峰に連れて行って

優しい記憶の旋律、明後日の夢と栄光を描く文章、ふたつに包まれながら周太は温かい眠りに微睡んだ。




正午の鐘が鳴り、講堂はざわめきが生まれだす。
テキストを仕舞う音、話す声、感想用紙を回す気配。
講義が終わった空気が起きていく片隅で、そっと周太はクライマーウォッチを見た。

…そろそろ起きたかな?あと1時間でスタートだね…体調はどうかな、

午前5時、英二と光一はアイガー北壁の登攀をスタートする。
時差8時間のスイスだから日本時間13時に、ふたりは巨大な凍れる壁を登りだす。

“Eeger” アイガー北壁は「死の壁」と呼ばれる。

標高3,975m、北壁の標高差1,800mは東京タワー5個分相当の垂直な壁。
自分には想像できないような高い壁、そこを2人は3時間で登ろうとしている。
1時間につき600m、1分で10mを標高2,000mを超えた希薄な空気のなか登攀していく。
それは誰にでも出来ることではない、選ばれた体と能力と努力が揃って初めて叶う。その挑戦権を2人は持っている。

…俺には出来ない、その世界に行くことは。だけど時計が一緒に登ってくれるね?

いま見つめている自分の左手首のクライマーウォッチは、元は英二の宝物だった。
これを英二が買い求めたのはちょうど1年前、初任科教養在籍中の外泊日に新宿で見つけた。

―…山では便利でほしかったんだ…俺、出来れば青梅署に行きたいんだ…湯原。俺はね、山岳救助隊員になりたいんだ

買いたての山時計をつけた笑顔は、自由な誇りが輝いていた。
この時計を英二は大切にしながら青梅署に卒業配置され、山ヤの警察官として生きる道に立った。
そんな英二の夢と努力を刻んだ時計が欲しくて、交換してもらおうとクリスマスにクライマーウォッチを贈った。
そして今、自分の腕に英二の初めてのクライマーウォッチは時を刻んで、元の持主が見つめる瞬間を夢見ている。

…いまごろ英二の時計は午前4時を過ぎたね?光一の時計も、

光一のクライマーウォッチ『MANASUL』は、英二と周太とで誕生日に贈った。
あの腕時計は特別仕様で標高8,000mでも耐えられる造りになっている、そして名前が光一にとって意味深い。
光一の両親はトップクライマーだった、けれど11年前4月、世界第8峰マナスルでふたりとも遭難死した。
光一の両親を眠らせた山、マナスル。その名を冠したクライマーウォッチに時を見つめ光一は北壁を登る。

…光一、きっとご両親も一緒にいるよ?田中さんも、雅樹さんも一緒だよ?…どうか無事に夢を叶えて

明るい光ふる大学の講堂で、蒼い巨壁の時を見つめる。
あと1時間で大切な人たちは夢へ登っていく、その涯にある蒼穹の点が輝くことを祈る。
山を愛した父が遺した古い本、そこに描かれていたアイガー北壁の現実を想い、今この瞬間にある1,800mの壁に願う。

どうか山、若い二人の山ヤを受け容れてほしい。
ふたりは山の静穏のために日々を懸け、泥と血に塗れることも厭わず生命と尊厳を救う。
そして山への敬愛を抱いて高みを目指し、登り、遥か遠く高い点から世界を見て空に笑っている。
そんな二人をどうか山、その大きな悠久の体を登らせてあげてほしい、風にも低温にも掴まえず「山」で生かせてほしい。

…お父さん、もうじき英二たちが登るよ?護って、お願い

そっと心に祈りを見つめ、傍らのブックバンドを見てしまう。
いつものテキストと蒼い表装の専門書、それからカバーをした古い本を挟んである。

Heinrich Harrer『白い蜘蛛』

アイガー北壁を初登頂した、オーストリア人の学者ハラーが遺した登攀記録。
このタイトルの「白い蜘蛛」はアイガー北壁にある雪田、大きな氷壁が蜘蛛の形と似ていることに由来する。
その氷壁は危険個所だとハラーは記していた、この「蜘蛛のよう危険」だと言う意味も兼ねた題名になっている。
別名に「人を食う壁」とも言われるアイガー北壁、その数多と死んでいったクライマー達の悲劇と、完登の栄光がそこにある。

…どうか栄光がふたりを、英二と光一を迎えますように

名誉とかは知らない、けれど夢に光輝く幸せを願いたい。
そんな想いに佇んだ隣から、優しい手が感想用紙を渡してくれた。

「湯原くん、今、心はアイガーに行ってたね?」

可愛い声が微笑んで、きれいな明るい目が笑いかけてくれる。
いつもの明るい笑顔、けれど綺麗な瞳の奥には緊張が泣きそうでいる。
この気持ちは自分と同じ、そんなふう同じ想いを共有できる友達に周太は綺麗に微笑んだ。

「ん、一緒に冒険する気持ちだよ?美代さんも一緒に行くでしょ?」
「うん、心は冒険に行くよ?湯原くんと一緒なら楽しいね、」

きれいな明るい目が楽しげに笑ってくれる。
すこし緊張を解いた笑顔が嬉しい、嬉しくて周太はペンを取りながら笑いかけた。

「ん、きっと楽しいね…でもね、俺と美代さんは植物学でも冒険に行かないとね?」
「ね、私たちにも冒険があります。今日の感想はポイント、どこにしようかな、」

明るい目は愉しげに笑い美代もペンを取った。
お互い感想用紙に向きあって、夏の光ふる窓辺に講義の感想を綴っていく。
今日は葉と光線の関係が面白かったな?オジギソウの体内時計の実験をしてみたいな?そんな考えめぐらせペンは綴る。
そうして書いていく感想に「実験して確かめたい」と記されていることが前より増えた。

…俺、本当にこの勉強が好きなんだ、

記していく感想に本音を見て、そっと心から微笑こぼれる。
こんなふう自分にも見つめたい夢がある、そんな現実が幸せで温かい。
そして「いつか」夢を歩く現実に辿り着きたい、スイスに発つ直前に英二がくれた約束を叶えたい。

―…大学のこと話す時とか、本を読んでいる時の周太って幸せそうでさ。きっと周太の向いている道なんだろうって俺は思うよ?
   お父さんのことが終ったら、周太は大学院に入ったら良いって俺は考えてる。学費とか俺が出すから…
   辞職したらすぐ、俺の嫁さんになって下さい。そして大学院に入って樹医になってください

結婚と進学、ふたつの夢を周太に贈って英二は、高峰の夢へと出立した。
その夢に今このとき英二は登りだす、光一と共に危険と夢を超えて遠い異郷の山を行く。
その同じ瞬間を自分は美代と共にキャンパスで、植物学と大学受験の勉強をしているだろう。
こんなふうに自分たち四人は道が違う、これからまた変化もするだろう、それでも互いに想いあっていける。

…幸せだな、今、本当に

ほっと心に想い、ペンをシャツの胸ポケットに挿した。
ぐるり首回して隣を見ると、美代はもう机を片づけて笑ってくれた。

「はい、僅差で湯原くんがラストよ?私の方が書き終るの、早かったね、」
「あ、ごめんね?お待たせしちゃって、」

謝りながら机を片づけて席を立ち、扉の方へと歩き出す。
そして開いた扉の向こう、まばゆい木洩陽に青空はきらめいた。

「先生と手塚、待たせちゃってるね?急いだつもりだったけど、」
「いつもより早かったわよ、でも、待たせてるのは変わらないね?」
「ん、そうだね?あ、模試はどうしたの?」
「申し込めたの、8月と9月と。今から緊張しそう、」

笑いあいながら大きな緑陰を歩いていく、その足元は影が濃い。
もう夏は陽射しを強めて季節はうつろう、そんな光のいろに遠いふたりの俤を見てしまう。
あと40分で、英二と光一はアイガー北壁「死の壁」へと登りだす。その緊張を想い周太は空を見上げた。

…どうか今日は、アイガーに風を吹かせないで?

祈り見つめる空は青い、夏の太陽まばゆく目を細めさす。
この空は遥か8時間の時差を繋いで、ふたりの立つ山へと続いていく。
この空に繋がれて祈りを届かせたい、そう願う隣でも空を見上げて明朗な声が笑ってくれた。

「大丈夫、光ちゃんのお天気予報は200%の正解率だから。きっとアイガーも良い天気よ?宮田くんも晴れ男だって言うし、ね?」
「ん、そうだね…大丈夫だね、ありがとう、」

隣の笑顔に笑いかけ、いつもの入口を降りて学食へと向かう。
温かい食事の匂いが近づいて、食卓の並ぶ風景へ入ると愛嬌のある笑顔が手を挙げてくれた。

「湯原、小嶌さん、」

よく透る声が呼んでくれる、その前から楽しげな笑顔も振向いてくれた。
夢を追う友達と尊敬する樹医が自分達を待っている、嬉しくて周太は隣に笑いかけた。

「美代さん、先に鞄とか置いてから、ご飯とりに行こうよ?」
「そうね、まずは先生に感想、渡しちゃうほうが良いしね?」

笑い合いながら、ふたり一緒に席へ向かった。








【歌詞引用:savage garden「Truly, madly, deeply」】



(to be continued)

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深夜日記:草紅葉、雫

2012-12-02 23:25:55 | 雑談
霜、ほどけて色づき



師走、雪の便りもある関東です。
写真は草紅葉@御岳山、雨あがりの朝を霧たち昇る時でした。
草木の秋は見上げるだけじゃなく、足元にも鮮やかです。

いま第58話「双璧5」と「双壁sideK2・2」の加筆校正がほぼ終わった所です。
もう一回見直して校正したら、「双璧6」UPを予定しています。

取り急ぎ、経過報告と予告まで。

下記、両方とも加筆校正は終わりました(2012.12.03AM1:00) 
第58話「双璧5」マッターホルン北壁当日の湯原@新宿
第58話「双壁sideK2・2」スイス出立2日前の国村@富士山麓














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第58話 双壁side K2 act.2

2012-12-02 18:42:45 | side K2
「光」 歩みだす道標



第58話 双壁side K2 act.2

旋律の余韻が、エンジン音に融けて消える。

フロントガラスに映る助手席、安らかな寝息がやわらかい。
あまいオレンジの香、やさしい鼓動の気配、そっと身じろぐ体温の温もり。
その全てが今、生きて傍にいるのだと教えてくれる。そんな感覚が嬉しくて、切ない。

「…護るよ、ずっとね」

そっと笑いかけて指を伸ばし、カーステレオのスイッチを押す。
ボリュームをすこし低める傍ら小さな機械音が鳴り、カウントの表示が戻る。
そして鼓動のような旋律が、静かに響きだす。

……

 満たした水辺に響く 誰かの 呼んでる声
 静かな眠りの途中 闇を裂く天の雫 
 手招く光のらせん その向こうにも 穏やかな未来があるの?

 Come into the light その言葉を信じてもいいの?
 Come into the light きっと夢のような世界…

……

『その言葉を信じてもいいの?』

そう問いかけたい相手の俤を、フロントガラスの寝顔に見つめてしまう。
今頃は巡回も後半だろう、大岳山から折り返して綾広の滝あたりだろうか?

―英二、おまえの言ったこと…信じていい?

また心に繰りかえすのは、縋るような願い。
この願いをもう幾度リフレインさせているだろう?
もう2週間以上ずっと想ってしまう、あの瞬間たちの言葉がまた今、高速道路のフロントガラスに蘇える。

―…写真から憧れて追いかけてる、おまえに恋してるよ?唯ひとりのアンザイレンパートナーで血の契で、恋人だ…両想いだよ

英二と周太と、ふたりの同期たちと8人で飲んだ翌日の夜、英二に告げられた言葉。
飲み会は北岳のバットレスで岩壁登攀の訓練をした日だった、だから山の昂揚感が言わせた言葉かもしれない。
それとも、飲み会で「テスト」を光一にさせた贖罪と嫉妬が、あんな言葉を英二に言わせたのかもしれない。

―東大くんを誘惑したときから、あいつ…すこし変わったよね

あのとき内山を自分は「テスト」目的で転がした、それは誘惑ゴッコの悪ふざけだった。
いつも英二にしては遊んできた悪ふざけ、それを初心で真面目そうな内山仕様でしてみせた。
けれど、英二にとっても刺激が強すぎた?そんなふう感じてしまう度に、あの夜の言葉を信じていいか解からない。

―…両想いだよ、恋人だ

本当に?

―…こんな俺だけど恋人になってよ、秘密を背負わせることになるけど、俺と恋愛してよ、最高峰で、この世の天辺で恋愛しよう?

英二、本当に?

そう何度も心で問いかける、あの夜の俤を想い毎日に見つめる。
いつもの朝、いつもの自主トレ、いつもの夕食に風呂、そして夜に眠るとき。
どの瞬間も今まで通りに英二は笑ってくれる、そんな今まで通りに解からない、本気なのか解からない。

―だって英二はね、周太を誰より想っているんだ…あのときも正直に言ってくれた、周太の為に俺と恋愛したいって…でも、

周太を護るために俺の恋人でいてよ?
もし俺が周太に狂っても、光一が傍にいたら止められる。
俺が周太を閉じ籠めそうになっても、光一なら俺を世界に連れ出せる。
こんなの俺の身勝手だよ、でも俺は光一じゃなきゃダメなんだ、憧れて追いかけてる光一の言うことしか俺は聴けない、他に誰もいない

―言ってくれた、憧れて追いかけてるって…俺だけだって言ってくれた、でも、

あなたが言った「両想いの恋人だ」その言葉を、信じてもいいの?

そう何度も心で問いかけて、あの夜の俤といつもの笑顔に見つめてしまう。
いつもの綺麗な笑顔に見つめている、あの夜の言葉と想いと、匂いと温もりに願いを見てしまう。
ずっと自分が探してきた願いを、本当に叶えてくれるのか?そんな期待と願いに縋るようにアンザイレンパートナーを見つめている。

「…っ、」

かすかな嗚咽が喉こみあげて、そっと飲み下す。
フロントガラス見つめる目の奥かすかに熱い、けれど真直ぐ前を見つめたままカーステレオが一巡りして、旋律が消えた。
静謐の戻った車内、やさしい寝息と鼓動と、オレンジの香が懐かしい幼い日の瞬間を蘇らせて、山桜の木洩陽が夏の陽に映りだす。

「…周太?あいつの言うこと、信じたら…君のためになるかな…」

そっと想いこぼれて、ため息が墜ちる。
もう何度も覚悟してきたこと、その覚悟を現実にしようと決めて雅樹の墓に逢ってきた。
あのとき雅樹は聴いてくれていた、そんな確信を抱きしめて見つめる想いに、再び旋律が流れだす。
どこか水の湧くような音の連なり、ヴォーカルの綴る詞たち、その織り成す歌にそっと光一は口ずさんだ。

……

 手招く光のらせん その向こうにも 穏やかな未来があるの?
 Come into the light その言葉を信じてもいいの?
 Come into the light きっと夢のような世界…

 こぼれる涙も知らず 鼓動に守られてる
 優しい調べの中を このまま泳いでたい 
 冷たい光の扉 その向こうにも 悲しくない未来があるの?

 Come into the light その言葉を信じてもいいの?
 Come into the light きっと夢のような世界…

 Come into the light 遥かな優しさに出会えるの?
 Come into the light 喜びに抱かれて眠れるの?
 Come into the light 争いの炎は消えたよね?
 Come into the light きっと夢のような世界…

……

低く歌う隣、やわらかな寝息と鼓動が静かに息づく。
少年だった冬の日、出逢った瞬間に見つめた純粋な気配が今、運転する隣で安心して眠ってくれる。
フロントガラスに映る寝顔は優しく微笑んで、幸せな夢みるよう安らぎが温かい。この静かな温もりが自分にとって、ずっと救いだった。

「…よろこびに抱かれて、眠れるの?…」

そっと歌詞を唇リフレインさせて、15年を待ち続けた想いを見つめる。
この隣に眠る人がもし、14年間ずっと信じたよう「女性」なら、このまま攫ってしまえばいい。
すべてを懸けて誘惑すればいい、女性なら結婚して自分の妻に迎え護り続けることを、自分にも許されるから。
けれど今フロントガラスに映った喉元には微かでも喉仏がある、その現実に夢を終わらせる意志が心をノックする。
そして、新しい夢と現実への瞬間が今、この走っていく道の向こうに姿を現しだす。

霊峰、富士。

生まれた祖国の最高峰が今、大きく窓の向こうへ現れる。
その頂に見つめるのは母の俤と父の夢、そして雅樹との約束が輝いている。
あの山を母は愛して故郷の山頂から見つめ、その瞬間に自分はこの世に生を受けた。
そして父が駈けた高峰への夢を知り、雅樹と共に山への夢を約束して今、もう明後日には夢の場所の1つへと自分は向かう。
その夢の連れは今、この隣で眠るひとを誰より愛しながら、自分に憧れ恋していると告げてくれた。

「その言葉を信じても…いいの?」

そっと呟き零れだす願いに、すがりたい。
あの夜に告げてくれた言葉たちに、すがって信じてしまいたい。
信じて、願い続けた想いを叶えてしまいたいと心は泣いて、幼い頃のよう我儘を言う。

『俺の専属アンザイレンパートナーになってよ?俺なら2時間で登れるね、アイガーなら3時間だ。ね、だから俺だけ見てよ?』

幼い日の声が笑い、懐かしい俤が幸せに微笑んでくれる。
優しい透けるよう綺麗な笑顔、細身でも広やかな肩は筋肉がTシャツを透かせ頼もしい。
その肩に抱きついて、すこし日焼けした頬に頬を寄せて、心からの敬愛と甘えに自分はねだった。

「雅樹さん、俺と生涯のアンザイレンパートナーになってよ?ね、きっと俺は天才だから、一緒に登ったらイイ夢いっぱい見られるよ?」

明るい夏の光ふる木洩陽、綺麗な優しい青年は微笑んだ。
長い睫の切長い目、明るい瞳が自分を見つめて、白い長い指がそっと伸ばされる。
やわらかな大きな温もりが髪ふれて頭を撫で、深く綺麗な声が穏やかなトーンで「願い」に微笑んだ。

「光一、僕もお願いしたいよ?光一が大人になったら、僕をアンザイレンパートナーにしてくれる?ずっと一緒に山に登りたいんだ、」

雅樹からも約束を望んでくれた、それが嬉しかった。
嬉しくて見つめて笑いかける、その想いの真中で山ヤの医学生は言ってくれた。

「僕だったら医者としても光一を支えられる、どんな高い山でも一緒に登って光一の体を護ってあげる、だから僕をパートナーに選んで?
きっと光一は最高のクライマーになる、だから僕は最高のビレイヤーになりたい。医者として光一の安全を護りながら一緒に夢を見たい、」

きらめく梓川の流れ、木洩陽ゆれる明るい木蔭で笑顔は輝く。
いつも大好きだった優しい笑顔は、真直ぐ自分を見つめて約束をねだってくれた。

「光一、僕を最高峰の夢に連れて行って?光一の夢を一緒に生きたいんだ、光一が大人になる時を僕は待っている、」

僕は待っている、そう雅樹は言ってくれた。それが誇らしくて嬉しかった。
あのとき23歳だった雅樹は医学部5回生、けれど既にダブルスクールで救命救急士資格も取得していた。
そしてクライマーの実績も積み始めていた雅樹は、山に人々に愛されながら医者とクライマーの将来を嘱望されていた。
そういう雅樹に憧れて愛していた、その人が本気で8歳の自分を信じて約束を求めてくれる、それが誇らしくて幸せだった。

「ほんと?雅樹さん、本当に俺と約束してくれるんだね?俺のアンザイレンパートナーとして、俺を待っていてくれるんだね?」
「うん、待っているよ。僕はね、光一は最高のクライマーになる男だって本当に想ってる、だから待っていたいんだ、」

確かめる約束への想いに、深い綺麗な声は微笑んだ。
綺麗な笑顔で笑いかけ、明るい眼差しが真直ぐ光一の瞳を見つめて、大好きな声は言ってくれた。

「僕は光一を信じている、きっと光一は最高のクライマーになれる。光一は最高峰に生まれた男だって、僕は誰より知っているから信じてる。
光一を抱っこして産湯をしたのは僕だ、あのとき山と命の関係と、自分が医者になる意味を僕は知ったんだ。だから僕は光一を信じるんだよ?」

雲取山、この国の首都最高峰で自分は生まれた。
その日は良く晴れて、日中南時の太陽が最高点に輝いた時、自分は生まれた。
あのとき雲取山頂からは日本最高峰が明瞭に見えて、青い富士山をバックにした出生の写真が今もある。
生まれたばかりの自分を抱きあげるその腕は、明るい涙に笑ってくれる優しい少年の頼もしい腕。
あの写真の笑顔はそのまま大人になって、夏の光ふる木蔭に光一を見つめ、問いかけてくれた。

「僕が医者になろうって決めたきっかけ、前に話したと思うけど。光一は憶えてる?」
「当然だね、本仁田山で話してくれたコトだよね?あの山で自殺した人に会ったからだ、」

即答しながら8歳の自分は、青年への敬愛を想っていた。
雅樹は小学校6年生のとき、父の吉村医師と共に本仁田山に登った現場で自殺遺体の回収に立ち会った。
この経験から医者になろうと決めたのだと、その運命の現場を一緒に見ながら話してくれた。そんな雅樹を自分は心から尊敬している。
ほんとうに尊敬している、大好きだ、そんな想い真直ぐ見つめて笑いかけた先、綺麗な笑顔ひとつ頷くと雅樹は教えてくれた。

「山で自殺された方を見た、あの時から山の世界が違って見えるようになったよ。山を死場所に選んだ気持も、病気の存在も哀しかった。
山は楽しいね?でも危険も多くて遭難する方もある、山の危険を利用して自殺する人もいる。そういう方が奥多摩でも多いのが哀しいよ。
僕はね、山が人を死なせる現実が哀しくて、医者になるって決めたんだ。だから山でも通用する、父と同じ救命救急の専門医を目指したんだ」

山は時に人を死なせる。
低温、滑落、転落、落石、野生獣との遭遇、天候変化による体調悪化。
そうした不慮は時に山を行く人を掴み、死に誘っていく。その現実を雅樹は悼んで医者を志した。
この意志を語りながら梓川のほとり、夏の光に微笑んで雅樹は想いを言葉にしてくれた。

「山と人間を廻る『死』の関係に反抗したくて、僕は山ヤの医者になるって夢を決めたよ。だけど、この夢は傲慢かもしれない。
だって僕はただの人間なんだ、それなのに『山の死』っていう自然の意志が決めるようなことに反抗しようって、なんだか偉そうだよね?
だから僕は少し迷ってもいたんだ、だけど光一が生まれた瞬間に立ち会って、僕の医者になりたい理由が解かったんだよ?あのときにね、」

透明な碧い梓川のせせらぎに、綺麗な深い声が響く。
涼やかに梢ゆらす山風は青年の髪をきらめかせ、輝かしい夏の陽に雅樹はまばゆく笑ってくれた。

「山はね、人間に命を与える場所でもある。そう想えたんだ、生まれた光一を抱っこして体温を感じた瞬間、自然とそう想って涙が出たよ。
山は人間を生かす力もある、だから山に登る人って元気なんだなって気がついたんだ。そしてね、心から山を愛しているって想っていたんだ。
山を愛してる、命を生かす力を手助け出来る医者になりたい。そう想って僕は遭難救助の勉強も本気で始めたんだ、光一に逢えたからね、」

まばゆい夏の木洩陽のなか、告げてくれる夢と意志は、まぶしかった。
そして誇らしくて嬉しかった、嬉しくて自分は大好きな人へと訊いてみた。

「じゃあさ、俺が生まれたから雅樹さん、山ヤの医者に夢が持てるってコト?山を愛してるって想えるってワケ?」
「そうだよ、光一。だから光一のこと僕は、すごく大切なんだ、」

綺麗な笑顔ほころばせて、応えてくれる。
その優しい明るい眼差しは光一を見つめ、深い声は約束してくれた。

「僕にとってね、山と医者の夢を明るく照らしてくれた光が、光一なんだ。いちばん大切でいちばん信じている、だから待っているよ?
光一が最高のクライマーになることを僕は知っている、最高峰の夢を一緒に叶えてくれることを信じている、光一は僕の希望と夢の光だから、」

君は光、いちばん大切でいちばん信じている、待っている。

どの言葉も輝いて響いた、嬉しくて、誇らしくて、幸せだった。
この言葉たちに気がついて、大好きな人を抱きしめ瞳を見つめて、自分は訊いた。

「俺の名前、光一って考えたのって雅樹さんだけどね、それって今、言ってくれたコトが俺の名前の意味?」

自分が生まれたとき、吉村医師と居合わせた助産師を手伝ってくれたのは、当時中学生の雅樹だった。
そのことから両親は雅樹に名づけを依頼したと聴いている、けれど名前の意味をきちんと聴いたことは無い。
もし今の話の通りだったら嬉しい、そう見つめる想いの真中で大好きな人は、すこし気恥ずかしげに笑ってくれた。

「うん、そうだよ。生まれたのが日中南時の瞬間で太陽が一番高い時だったのと、僕には一番大切な光だって想ったから光一なんだ。
生まれた国の首都の最高峰で、生まれた国の最高峰の山を見て生まれた、最高峰の男だから光一。そういう意味で僕、君の名前を付けたよ、」

最高峰と光、その2つの意味を贈ってくれた。
こめてくれた意味も想いも誇らしくて、嬉しくて幸せで、自分は大切なひとに抱きついた。

「ありがとう、雅樹さんっ。俺ね、最高峰の男になるからね?雅樹さんの光になって、雅樹さんを夢に連れて行ってあげるからね?
約束だよ、俺は雅樹さんをアンザイレンパートナーにして世界中の山に行くよ?最高のクライマーになって、最高の山に連れて行くね、」

約束、そう告げて笑いかけた自分を、微笑んで雅樹は抱きとめてくれた。
すこし日に焼けた笑顔は眩しそうに見つめてくれる、そして白い長い小指を光一に差し出してくれた。

「ありがとう、光一。僕は信じて待ってるよ、僕と光一の男同士で山ヤ同士の約束だ、」
「うん、男で山ヤの約束だね?俺が大人になったら、一生、ずっと専属のアンザイレンパートナーだね、」

見つめた笑顔は綺麗で、その笑顔を独り占め出来る約束が誇らしかった。
その誇らしい気持ちごと小指を絡めて、指切りげんまんして約束を結んだ。

「絶対だよ、雅樹さん?俺、信じちゃったからね、絶対に約束を護ってよ?」
「うん、僕も信じてるよ、光一、」

約束に微笑んでくれる眼差しは、優しく穏やかで、真剣だった。
まだ8歳の子供である自分に生涯の夢を託してくれた、その想いが誇らしい。
この誇りを抱ける幸せに笑って、名付け親で先生で、保護者でもあるアンザイレンパートナーにねだった。

「ね、雅樹さん、喉かわいちゃったよ?さっき川に浸けたオレンジジュース、そろそろ飲めるんじゃない?」
「そうだね、もう冷えたと思うよ?」

そんな会話の後、オレンジジュースを飲みながら「いつか」登りに行く計画と雅樹が登った山の話をした。
綺麗な笑顔が語ってくれる山の物語は楽しくて、時に厳しく険しくて、少しも飽きなかった。
どの話も山と人間への愛情がまぶしかった、それを語る笑顔は輝いて生きていた。
その笑顔が大好きで、大好きで大好きで、もう離れたくないと願っていた。

―このひとが大好き、ずっと一緒にいたい、もっと近づきたい

深く響いていく光と想いに、雅樹の笑顔を見つめていた。
そして昼の微睡に安らいだ寝顔へと、その唇に自分の唇を重ねて、願いを祈った。

『ずっと一緒に山へ登れますように、ずっと一緒に生きていけますように、ふたり夢を叶えられますように』

眠る雅樹にくちづけて、ふれる温もりと優しい香に祈っていた。
いつも雅樹をくるむ山桜と似た馥郁はキスにも香って、オレンジジュースの香ごとあまやかだった。
あまくて温かで、幸せで、もっと幸せを味わいたくて、少しだけ唇を舌で舐めたとき鼓動が跳ねた。

―大好き、大好き、このひとが大好き、

心に何度も呟いていく想いに、瞳の奥が熱くなった。
その熱に途惑って、けれど幸せな気持で静かに離れた瞬間、長い睫の瞳が披いた。
夢見るよう自分を見上げて、すこし眩しそうに見つめてくれながら、きれいな声が静かに零れた。

「僕、寝ちゃってたんだね…夢だったんだ、」

覗きこんでいる自分に微笑んで、すこし残念そうに雅樹はため息を吐いた。
その眼差しに鼓動が響きだして、少し息苦しくなりそうな想いのまま自分は訊いてみた。

「どんな夢、見た?」
「うん、ちょっと恥ずかしいな、」

気恥ずかしそうに白皙の貌は笑ってくれる、その笑顔にまた鼓動が心をノックする。
自分の心臓に途惑いながら、けれど大好きな笑顔が嬉しくて見つめる想いの真中で、雅樹は幸せに微笑んだ。

「山の神さまが僕に、キスしてくれた夢を見たよ?あまくて、花の香がするキスだった、」

告げられた言葉と眼差しに、鼓動ひとつで心が微笑んだ。
なにか嬉しくて幸せで、その想い正直に自分は大好きな人へと笑いかけた。

「俺が雅樹さんにキスしたんだよ?」

言葉に、明るい切長い目が大きくなった。
長い睫ひとつ瞬いて、白皙の頬は薄紅ほころんで額まで染めあがる。
端正な眉が困ったよう顰められ、けれどすぐ羞んだ笑顔が幸せに咲いた。

「僕、キスって初めてだよ?僕のファーストキスは光一になっちゃったね、」

綺麗な笑顔ほころばせ、あわい日焼けの腕を伸ばしてくれる。
そっと肩をくるんで抱きよせて、宝物のよう大切に自分を抱え込んでいく。
優しい深い馥郁が頬を撫でて、Tシャツを透かす体温ふれあい幸せが微笑んだ。

「やったね、雅樹さんの初めてを俺が貰っちゃったね?ね、俺もファーストキスなんだから、」
「そうじゃなかったら僕、びっくりするよ?」

可笑しそうに言って、笑ってくれる貌が嬉しい。
嬉しいまま至近距離の笑顔に笑いかけて、大好きな人の頬に掌ふれて、おねだりに笑いかけた。

「ね、雅樹さん、キスして?今度は雅樹さんから俺にキスしてよ、」
「え、」

困ったよう声を零して、切長い目ひとつ瞬いた。
桜いろの紅潮まばゆい笑顔は、またすこし鮮やかに色を魅せていく。
途惑っていく笑顔、それでも優しい笑顔は抱きしめたまま起きあがって、座らせてくれる。
どうしたのだろう?そう見上げる自分に雅樹は視線の高さを合わせるよう向きあって、言ってくれた。

「光一、キスって大事にするものだって僕は想うよ?だから、そんなに簡単にはしちゃダメなんだ、それを解かってくれる?」

優しい穏やかな笑顔、けれど揺るがない強い信念を持つ心が明るい瞳に笑っている。
こういう眼差しが大好きで憧れて、けれど今の言葉に少し哀しくなって、想ったまま謝った。

「解かってるよ?キスは本当に好きな人とだけって、オヤジとおふくろにも聴いてる、だからしたんだ、でも嫌だったなら、ごめん…っ、」

ごめんね、そう言った途端に熱が瞳こぼれた。
自分はしたかった、でも雅樹は嫌だった?そう想った途端に心が傷みだす。
痛くて苦しくて、喉の奥ふさがれていく痛みを呑みこんだ時、頬を掌の温もりがくるんだ。

「嫌じゃないよ、光一。だから泣かないで大丈夫、」

大好きな声の言葉に、ひとつ瞬いて涙を頬へ落とす。
滲んでしまう視界に優しい笑顔が映ってくれる、その涙を長い指は拭いながら雅樹は言ってくれた。

「僕も本当に光一が好きだから、嫌だなんて少しも思えないよ?だけど光一はまだ子供で、まだ恋愛って解らないよね、だからキスも」
「だったらキスしてよ?」

大好きな声を遮って、大好きな瞳を真直ぐ見つめる。
確かに恋愛なんてよく解からない、けれどキスしたい気持ちは本物なのに?
その想いのままに見つめて、我儘な心のまま正直にアンザイレンパートナーに訴えた。

「男と山ヤの約束って言ってくれたよね、俺のことガキ扱いしないで本気で約束してくれたんだよね?だったらキスも同じだね、
本気で約束するならキスしてよ、俺を本気で待ってるんなら、アンザイレンパートナーにしくれるんなら、俺が一番大切ならキスしてよ?
俺は雅樹さんの光で一番なんだよね?だったら俺以外に大好きな人なんていないよね?だったら俺にだけキスしてよ、ガキ扱いしないでよ、」

言葉と見つめる涙の向う、端正な貌から笑顔が消えていく。
いつも穏やかな笑顔の雅樹、けれど今はただ真剣な眼差しだけが見つめかえす。
今までに見たことのない貌が少し怖くなる、それでも信じたい想いに見つめて、真直ぐ想いを告げた。

「俺だって本気だ、本気で雅樹さんが大好きだからアンザイレンパートナーになりたい、大好きで独り占めしたいから専属って言ったね。
ね、解かってよ?まだガキでも俺は本気だ、本気で大好きだからキスしたんだ、ずっと雅樹さんと一緒に山登ってたい、大好きだ、大好きなんだ、」

お願いだから解かってよ?

そう見つめた涙を、長い指がそっと拭ってくれる。
その指に鼓動ふるえて心を敲く、それでも見上げる端正な貌が、静かに微笑んだ。

「光一。大好きだよ、本気で、」

綺麗な深い声が告げて、綺麗な笑顔がゆっくり近づいてくる。
見つめる眼差しに切長い目が微笑んで、長い睫やわらかに閉じながら吐息ふれあう。
そっと瞳を閉じた瞬間に、唇へ山桜の香と温もりがキスをした。

「…大好きだよ、」

そっと想いこぼれたフロントガラスに、夏の光と富士の頂点がまばゆい。
まばゆい8歳の夏、あの日に見つめた光も風も、香も温度も、想い全てに色褪せない。
あのとき見つめた夢、幸福、大好きな笑顔とキス、その全ては今も心あざやかに生きている。

―この想いは一生消せない、消せる訳がないね、だって俺の夢の全てだ

心映る想いに、涙ひとすじ頬伝っていく。
その想いに見つめるフロントガラス、助手席に眠るひとの気配は優しい。
この想いと名前を贈ってくれた雅樹、それを喪った傷は深くて痛くて、苦しすぎた。
心から笑えなくなりかけた深い傷、それを癒してくれた雅樹の「山桜」その化身が今、隣で眠っている。
このまま傍にいてほしい、けれど、雅樹との約束を叶えさす「新しい約束」を結ぶ今、もう終わらせて夢に向かう。

「さよならだね、ドリアード?…君を待つ時間はもう、さよならだね、」

静かな想いに微笑んで、ゆっくり森へと景色は変わる。
そして富士を見上げる木洩陽に、四駆を停めると光一は隣に笑いかけた。

「周太、ちょっと起きて、降りて見ない?」








【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「TRUST」】


(to be continued)

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