【④いにしえの街道(歴史国道)①】(桜町から矢立)
➀倶利伽羅への道(木曽義仲) ベース
②埴生護国八幡宮とその周辺 ③ふるさと歩道(義仲進軍の道) ④いにしえの街道(歴史国道)① ⑤いにしえの街道(歴史国道)② ⑥いにしえの街道(歴史国道)③ ⑦源平ライン
⑧倶利伽羅古道とその周辺 ⑨猿ヶ馬場とその周辺 ⑩倶利伽羅不動寺とその周辺 ⑪弓の清水・般若野古戦場 ⑫越後より砺波山へ ⑬葵塚・巴塚古墳群 ⑭巴御前終焉の地
◎2024年10月15日編集 富山県にて 写真40枚
道の駅メルヘンおやべ交差点、砂川橋一里塚、埴生口、長坂道登り口、中たるみの茶屋跡、峠(天池)茶屋跡、矢立
いにしえの街道(歴史国道)・・・富山県小矢部市桜町~石川県津幡町竹橋までの約12.8kmが建設省(現・国土交通省)の「歴史国道」に選定されました。
★道の駅メルヘンおやべ交差点(桜町(東)交差点)・・・小矢部市側の歴史国道のスタート地点です。
桜町から竹橋までの歴史国道(12.8km)を3つに分けて掲載しています。①(桜町~矢立)②(矢立~倶利伽羅峠)③(俱利伽羅峠~竹橋)
★砂川橋一里塚・・・「砂川橋」を渡ると、 すぐ右に「砂川橋一里塚跡」がある。12:14 公園になっていて、「砂川地蔵尊」が三体祀られている。
★埴生口・・・埴生八幡宮により戦勝を祈願しました。
詳しくは ②埴生護国八幡宮とその周辺 と ③ふるさと歩道(義仲進軍の道) をご覧ください
★埴生の古い町並み
★力石、盤持ち石・・・聖徳太子堂、谷嵐関の碑、石坂諏訪神社の石碑と谷嵐関の碑の後の2つの大きな石は谷嵐関が肩まで担いだ石と言われています。右端にくりから越えいにしえの道の碑
★いにしえの街道(歴史国道)長坂登口の登り口に着きました。駐車場の向かい小屋に木彫の牛の像、そして源平砺波山古戦場の絵図があります。
★歴史国道(倶利伽羅越えいにしえの街道)緑色のコース、破線は徒歩のコースです・・・隣に駐車場とトイレがあります。
★長坂登口・・・いにしえの街道(歴史国道)の徒歩での登り口です。
★東宮殿下行啓御野立所の石碑の前にある案内板。
★東宮殿下行啓御野立所の石標 と「青松亭々 櫻花爛漫」の石碑
★中たるみの茶屋跡・・・古来より北陸道を通る人が砺波平野を見渡し、中休みをしたところ。
★中たるみの茶屋の石標と尊如の歌碑
たるみの茶屋跡
★堀川院御時百首の歌碑・・・「いもがいへに くものふるまい しるからん 砺波の関をけふこえくれば」
★歴史国道(倶利伽羅越えいにしえの街道)・・・一番狭いところ
★宝治二年百首の歌碑・・・「あけわたるとなみの関のまさしくは かつわかれ行くせなをとどめよ」
★隣にあった塢粉砂採掘跡の碑
★六帖題(衣笠内大臣)の歌碑・・・「いづくにかわがやどりせん やきたちの砺波の関にこえぞくれぬる」
★峠(天池)茶屋跡・・・倶利伽羅の源平の郷埴生口と倶利伽羅古戦場のはぼ中間地点にあたり、明洽時代中頃まで茶屋が二軒(天池家と森井家)あった場所。
★十辺舎一九の歌碑
★峠(天池)茶屋跡にある小屋・・・北陸道・天池峠茶屋 の標識
小屋の中に展示されていた 「天池家」と「森井家」の峠の茶屋の写真(昭和12年(1937)撮影)
茶屋跡地は資料室のあずまやが立っていて今は木彫の牛が置いていました。そして林の中にももう1頭
火牛の牛はここに集められたそうです。
★天池(尼池)・・・池を管理していたのは天池家。江戸時代から天池の苗字が許されたのは、水源である池と峠道の管理を託されていたからだろう。
今はうっそうと茂った場所ににあります。峠の茶屋跡の向かい側です。右側は昔の写真(展示写真)です・・・手前にシシ威しがあります。
★殿様井戸・・・天池より高い位置の峠道沿いにある井戸。所有する天池氏によると「殿様井戸」と呼ばれていたという。
★左:チェンソーアートの「松尾芭蕉像」が置いてあります・・・句は「木曽の情、雪や生えぬく、春の草」 芭蕉 を添えてある。
★右:巴御前の像も置いてありました・・・「まぼろしよ 夢よと変る 世の中に など涙しも つきせざるらん」 巴御前辞世の句。
耳石・根台石?と茶屋跡の大黒柱の石台
芋穴・・・さつま芋や里芋などを貯蔵したところ。
★矢立堂の石碑・・・この辺りが木曽義仲率いる源氏軍の最前線があった所らしい。右側は 石碑の裏側です。
★倶利伽羅峠三十三観音の一つ「矢立観音」。
★矢立山・・・矢立山周辺は、義仲軍の最前線であった所。幅約200ⅿ程の谷を隔てた塔の橋より、平家が矢を放ち、ここに多くの矢が立ったことが「矢立山」の名の由来です。
歩道部分の終わり・・・長坂登口から1390ⅿの歩道部分です。
倶利伽羅県定公園観光案内図・・・長坂登口から矢立の碑まで(破線部分)の徒歩コースです。