いろいろな意味で誤解をしていたのが、ブッダである。民俗学的にずっと周辺部分から追求してきたが、かなり愚生はこの方を誤解していた。インド思想的には、何人かいる哲人の一人であろうし、信仰として彼を意識していないので、分析的に読む習性がついていたからである。それはそれでいいんだろうと思っている。あくまで分析的に接しているのだから。もっとも熱狂的な信者からは叱られてしまうのは覚悟の上である。
確かに彼が説いたところの、いろいろな苦しみからの解脱という観点からは、窮屈な印象を持ってしまう。そしてなかなか愚生のような凡人にはできない相談ばかりである。だから易行と言われる宗派も出てきたのであろうと思っている。全てを縁起説で説くのは、非常に魅力的であるから、それはそれでいい。問題は、解脱できないでうろうろしている愚生のような一般ピープルをどうするかである。
今日は、大震災の時に鴨長明がどう考えたかということをずっと書いていた。彼も大震災を経験しているからである。
院生室に個人としてTabletを持ちこんで最初はすらすらと書いていたのである。だいたい資料についてはわかっているから、ノートを見ながら打鍵していた。ちなみに、このTabletは便利である。キーボードがコードでつながっていないから、ちょっと離しても書けるのだ。膝の上でもOKである。なんて言ったけかな?あ、Bluetoothとかいうのだったかな。最初トラブルがあって、なかなか使えない機能だったけど、なんどかやっているうちにできるようになって、重宝しているけど。
ところがである。長明の宗教的な役割という視点から書いていたら、あ、ちょっと待てよとなってしまった。これは今週中には、ある方にメールで送るものであるから、デタラメは書けない。それでそこでストップしてしまったのである。
で、冒頭の仏陀のことになってしまったのである。修士の時は、いろいろと勉強させていただいたから資料も結構持っている。それで、考えこんでしまった。つまり顕教としての仏陀教という観点からしか見ていなかったことに気がついたからである。最近、空海を勉強していて、視点が違っているのにちょっと不安になったからである。
空海は明るい。欲望も否定しない。あるいは、煩悩とか空虚さからも自由自在である。さらに、山岳修験道で選択したのは、どこまでも明るい四国の地であった。故郷だからということもあるだろう。
司馬遼太郎の「空海の風景」という中公文庫がある。これも105円で買っていて、読んでいなかった文庫である。否、ちょっと読んだのだが、その時点では愚生の問題意識があまりにも低かった。つまらんから捨てておいたのである。空海について興味が無いと、いかに司馬遼太郎さんと言えども、読者を引き込むことは不可能である。司馬さんの他の小説のように、伝記文学みたいな傾向も全くないのが「空海の風景」であるからだ。この文庫に「龍馬がゆく」を想定されたらがっかりする。全く違うからである。実際、愚生はこの「空海の風景」はまったく面白くなかったからである。これまでは、である。司馬ファンであるから余計にそう思ったのかもしれないが。
怖いものである。それほど自分のよってきたるところの問題意識というものは、自分に影響をするのである。
この「空海の風景」は、司馬さんによって書かれた空海論であると思う。それほど、司馬さんらしくないのである。まるで論文を拝読しているような気分になる。もっとも、かなり柔らかい小説風の論文、あるいはエッセーというものであろうか。
NHKスペシャル「空海の風景」も見た。かなり以前のものであった。Youtubeにあった。分散してあったが、二時間近い。もっとも、この夏に高野山に実際に行っているからという体験上のものも大きい。高野山は二度目であったが、問題意識を持って行くのと、そうでないのとではまったく違う印象であった。
それにしても顕教と密教の相違点に気がついたということは、これからの愚生にとっては大きい課題である。これまでもインド思想を中心として、模索ばかりしてきた。素人ながら、知らないことばかりであった。これからもっと勉強をしていかなくてはならないことばかりである。だから、くだらない駄文を書いて喜んでいる場合ではなかろう?って言われてしまうのである。すっこんでオレ!というわけだ。(^0^)
でもすっこんでいたら、理解ができなくなる。愚生は書きながら勉強しているんだから。都合のいい凡才である。(もっとも、このBLOGは日記ですからなぁ・・)
そんなわけで、昼ご飯を食べるのも忘れて没頭していた。あっと気がついたのが2時頃であった。急いで学食に行った。そして、例のミニ丼をいただきたいのですがと申し上げたら、売り切れごめん。天ぷらソバをいただいた。300円なり。おいしかった。食堂の片隅で、ひっそりと食べていた。そしたら、県立銚子の卒業生(看護学部一年)からお声をかけていただいた。お久しぶりです!ということであった。元気に過ごしておられる。安心した。すっかり大学生らしくなってきた。ある意味感心したのである。こんなつまらない愚生にもお声をかけてくださることに感謝である。人間嫌いでは看護師という尊い仕事はできない。そして、こういふ優しい心根の看護師さんに、お世話になるときはお世話になりたいものであると思った。できるだけ先がいいが。具合が悪くなるのは。憎まれっ子世に憚るではないが、まだまだ愚生は元気で生きられるような気がするから、そんな機会は来ないであろうし、来て欲しくないんだケド。(^0^)
もっとも、卒業生看護師ではかえってこちらが恐縮しちゃうかな。居住地にある大病院にもたくさんかつての生徒さんが働いておられる。偶然出会うとほんとうに恐縮しちゃう。こまっちゃうなという心境である。
世迷い言ばっかり書いているから、世間が狭くなるばかりである。そろそろ世間一般なみに、おとなしくしていればいいものをとは思う。思うだけで、一切行動にむすびつかないのが、愚生の最大の欠点である。
わかっちゃいるんだけどねぇ。