と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

若人よ!したたかに生きよ!

2012年09月10日 22時17分48秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 夏目漱石の「こころ」を読んだことがある。ささやかな読書体験である。10代の頃であった。早熟な文学少年というのが高校の文芸部にいて、アタシャ随分憧れたもんだった。その読書量にである。なんでも読んでいるんだ。なんでも知っているんだ。もちろん漱石なんか全部読んでいたから、驚いていた。世界の大文豪の作品も全部だ。

 後で、その男の化けの皮がはがれたが。(^0^)

 どっかの記事で書いたが、ダイジェスト版で仕入れた知識だったのである。今で言えば、マンガで読む名作シリーズというやつだ。その本の名前は、「アウトサイダー」(紀伊国屋書店)であったのだ。(こっちはマンガではないけど) 高校の文芸部の部室で見ちゃったのだ。

 否、そんなことではない。つまり、「こころ」である。愚生は、この作品をなんで思い出したか。それは、あまりにも自殺が多いからである。今日は、過労死で亡くなった若い会社員のニュースを夜のNHKでやっていたのだ。中学生のいじめ自殺もずっとマスコミで問題にされている。

 教育問題にすると、いろいろ愚生のようなモノでもコメントはできる。しかし、現役の教師だったのだからあれこれ言うのは差し控える。教員時代にいろいろと似たような問題で経験があるからである。守秘義務があるから、沈黙を守る。

 今日の行き帰りの電車の中で、良い意味での「したたかに生きる」ということを考えていたのである。漱石の「こころ」を扱った雑誌を読んでいたせいもある。だから考えてしまったのである。

 漱石はなんであんなに知的インテリの弱さと自死を書いたのか。そう思ったのである。その雑誌は、明治精神と近代的自我との葛藤というようにまとめていた。さらに、キリスト教でいうところの罪の意識というようにまとめていた。もっとも読んでいた雑誌がキリスト教専門の出版社から出ているのだけど。

 ううううううううん。

 果たしてそうであろうか。非常に疑問に思うのである。そういう近代的自我と、明治精神との葛藤というまとめかたをしたら、それでは救われないではないかと思ったのである。

 愚生は、若い方に応援をしたい。これは間違いなくそう思っている。尊い命を、近代的自我とナントカ精神の葛藤というような論理で捨て去って欲しくないのである。当たり前ではないか。近代的自我なんて言ったって、それがどうしたというくらいの強固な意志を持って欲しいのだ。明治精神と言ったって、それより偉大なのは、あなたのこころですよと申し上げたい。漱石は、これを愚生と反対の意味で使っている。だから胃病で苦しんだのだ。(ちょっとこれは言い過ぎだけど・・・)

 近代的自我を持ったおかげで、現代を生きる我々は、実にあふぉ~な現実(これも愚生は仮の姿だと思っているが)に振り回されているだけではないかと思うのである。島崎藤村の勉強を学部時代にしていたとき、師匠がよく近代的自我という視点から藤村を分析されていた。しかし、かなり疑問に思っていた。それがどうしたというように思っていたのである。それほどのものなのだろうか?ということである。

 藤村の「夜明け前」も、上野から米沢に帰る時に、夜行列車で読了したっけ。(読み始めたのは、帰省のずっと前からだけど)あの頃は、九時間かかったのだった。夜行が。ちょうど読み終えた時に、見慣れた右側の奥羽山脈から夜明け前の太陽がカオを出してきたのには笑ったっけ。洒落にもならん。しかし、これが近代的自我なのかとおおいに疑問に思っていたのだった。ちなみに夜行列車で小説なんか読んじゃ駄目でっせ。お目々が悪くなる。もっとも、夜行なんて今はないんじゃないかねぇ。夜行バスは知っているけど。今は新幹線だから二時間くらいしかかからんのだ。(*_*) マイッタな。風情もなにもあったもんじゃないですな。夜行列車っていいもんですぜ。実にいい。夜行の急行で帰省するときに、どっかのばぁちゃんと話し込んだりしたっけ。そうか東京で苦学しておるんか、エライな、がんばっぺなぁアンチャン!って言われて不覚にも涙が出た思い出もあるからである。

 あれから40年。今度はオレがじじいになっちまった。

 愚生は千葉県に住んでいる。暖かくて実に明るい。太陽がぎらぎらと輝いていて、夏涼しく、冬暖かい。だからこういう自然の中に生きていると、希望とか、前進とか、向上とか、明朗とかの単語しか浮かんでこないのである。表日本とはよくも言ったりである。(この表・裏日本という言い方は気に入らないんだけど)表しか見えないのだ。なんと言っても、九十九里浜の隣は、ハワイなのである。これは得がたいシチュエーションである。こういうのを天賦の運と言うのである。こういうところに育ったら、常に前進、たくましく生きる、どんなことがあっても「したたかに生きる」才能に恵まれる。ありがたいものではないか。

 閉じこもっていてはいけない。狭く生きてはいけない。そんな気分になったら、銚子に来てみることだ。大きな太平洋を見たら、くだらない近代的自我なんて吹っ飛んでしまう。

 他者との関係性だけで生きることはいかがなものかと思っているのだ。自己の確立を図ったほうが、もっとよろしい。だから勉強しなくてはならんのである。 

 大学受験をしようとしている高校三年生を塾のアルバイトで指導している。国語と英語と数学である。彼らに実は読書法とか、勉強法をまことに失礼ながら伝授している。ちょっとした時間を活用して、愚生が実際に国語や英語、数学の学習をどうやっているのかを見せているのである。実物教育である。ショックを受けるようである。愚生の勉強法に。なんてったって、現役の大学生でありますからなぁ・・・・・(^0^)

 愚生は出来が悪いから勉強をせざるを得ないのである。これは致し方ないのである。しょうがないのだ。天才だったら、愚生は定年後も天下りでどっかで仕事していただろうから。愚生にかぎってそんなのありえねぇですがね。アハハ!

 

 明日も登校しようっと。

 夜は柔道の稽古だけれども。まったく収入はないんですがね。(^0^)

 

 

 

 

 

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HP雑考

2012年09月10日 09時57分51秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 ブログのアクセス数というのがあって、その推移も楽しみである。しかし、あまりそれにこだわるとよくない。学校のHPで、そのアクセス数を気にされる方も多く、一喜一憂されている学校も多い。ほほえましい限りである。中には、アクセス数を自慢される方もおられて、これまたほほえましい。

 そんなことから書き始めたのは、ちょっと記事の更新を怠ると即座にアクセス数に影響があるからである。おもしろいほどである。愚生のやっているブログにもう一つあって、柔道教室の広報用である。そちらは逆にあまり更新しない。ほとんどやっていない。ま、入門されてくる方があればいいというくらいの気楽にやっていることであるから、あまりマメに更新していると、勝敗結果を出さなくてはならなくなる。それは本来の趣旨に反する。勝負だけを扱うと、いたいけな少年少女を成果主義に導くことになってしまう。それは本来の目的ではないからである。

 だから、指導者として書いているのではない。勝手に応援しているというだけである。不思議なじじいが書いているというスタンスをとっているのである。

 それでいいだろう、それで。

 今日取り上げたいのは、動画である。学校の広報用に動画を活用して、学校の様子を知らせるのは実に効果的であったからである。情報公開として最適であった。それも授業を公開していくことである。県立銚子の先生方には本当に感謝している。先生方にご協力いただいて、どしどし授業を公開していったのだった。まだまだこの面では学校の公式HPは、発展途上であろう。

 学校の広報用HPというのは、情報が多すぎてなにから見たらよいのかわかりにくい。HP内の検索ができればいいだろうと思う関係者も多いだろうが、まったく様子がわからない人間には若干の不親切を感じる。どこへどう行ったらよいかわからないからである。作っているご自分はよくわかっているのだろうけれども。

 これは最近流行のパワーポイントもそうだろう。ごちゃごちゃと情報過多では、見る気がしなくなってしまう。ポイントを押さえていかなくてはならん。
 
 昨日、Youtubeやニコニコ動画を録画できるソフトを買ってきて、茅屋のパソコンにインストールした。早速、昨日の晩から、能楽研究で有名である「表 章先生」の法政大学の時の特別講義を録画してみた。非常にいい。都合6時間くらい分割してアップしてくださているから、これから私的に繰り返しみて、ノートをとるつもりである。DVDにもしたので、大学にも持参できる。

 司馬遼太郎のNHKスペシャル「空海の風景」も7回分録画できた。よかった。これもまた場所を問わず、視聴できる。

 そこで、思ったのが、こういう動画サイトって、大きなデータベースであるということだ。これを活用しない手はない。ただ見ているだけではもったいない。いろいろな場所で視聴して、メモをノートにして、暗記していくことである。

 どうしてこんないいことに早く気がつかなかったのだろうか。

 参ったね。参った。愚生には、固定観念がある。だから新しいことにチャレンジしていこうとしないのだった。書物からだけが勉強だと思っているところがあるからである。

 改めなくちゃならんですなぁ。

 もっともこんなのコンピュータに詳しい方なら、だれでもやっているんだろうけど。あ、愚生の場合、ちょっと検索用語が特殊であるから、無料版のYoutubeからのダウンロードソフトでは、なかなかひっかけてくれなくて、実は困っていたのである。

 しかし、法政大学もそうだけど、いろいろな学校でインターネット上に公開してくださる情報がある。実に勉強になる。ありがたいものである。本当に。

 そのトップにいるのが放送大学である。愚生はここの大学院にも選科生で在籍させていただいたので、そのありがたみはよくわかっている。むろんここは仕事をしながら学ぶのである。社会人には非常にありがたい大学である。しかも、インターネットを実に効果的に使っている。試験も多くあって、単位認定試験は幕張まで出かける。筆記試験であった。けっこうハードでありましたなぁ。おもしろかったけど。

 生涯学習というのは、ぼ~っとやっているだけでいいというようなものでもない。しかし、したたかな打算の上にあるものでもない。興味と関心だけである。ただし、いつも思っているのは大学やそういう学びの場でじゃまをしないことであろう。理解してくださる方々も多くはなったが、まだ不思議な生き物を見るように邪険にする方もおられるからである。理想と実践の違いであろう。なんでそんなところに行っているんだ?と直接いわれると、ひらすら笑うしかないからである。

 



 謙虚に生きるしかないようである。










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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/