夏目漱石の「こころ」を読んだことがある。ささやかな読書体験である。10代の頃であった。早熟な文学少年というのが高校の文芸部にいて、アタシャ随分憧れたもんだった。その読書量にである。なんでも読んでいるんだ。なんでも知っているんだ。もちろん漱石なんか全部読んでいたから、驚いていた。世界の大文豪の作品も全部だ。
後で、その男の化けの皮がはがれたが。(^0^)
どっかの記事で書いたが、ダイジェスト版で仕入れた知識だったのである。今で言えば、マンガで読む名作シリーズというやつだ。その本の名前は、「アウトサイダー」(紀伊国屋書店)であったのだ。(こっちはマンガではないけど) 高校の文芸部の部室で見ちゃったのだ。
否、そんなことではない。つまり、「こころ」である。愚生は、この作品をなんで思い出したか。それは、あまりにも自殺が多いからである。今日は、過労死で亡くなった若い会社員のニュースを夜のNHKでやっていたのだ。中学生のいじめ自殺もずっとマスコミで問題にされている。
教育問題にすると、いろいろ愚生のようなモノでもコメントはできる。しかし、現役の教師だったのだからあれこれ言うのは差し控える。教員時代にいろいろと似たような問題で経験があるからである。守秘義務があるから、沈黙を守る。
今日の行き帰りの電車の中で、良い意味での「したたかに生きる」ということを考えていたのである。漱石の「こころ」を扱った雑誌を読んでいたせいもある。だから考えてしまったのである。
漱石はなんであんなに知的インテリの弱さと自死を書いたのか。そう思ったのである。その雑誌は、明治精神と近代的自我との葛藤というようにまとめていた。さらに、キリスト教でいうところの罪の意識というようにまとめていた。もっとも読んでいた雑誌がキリスト教専門の出版社から出ているのだけど。
ううううううううん。
果たしてそうであろうか。非常に疑問に思うのである。そういう近代的自我と、明治精神との葛藤というまとめかたをしたら、それでは救われないではないかと思ったのである。
愚生は、若い方に応援をしたい。これは間違いなくそう思っている。尊い命を、近代的自我とナントカ精神の葛藤というような論理で捨て去って欲しくないのである。当たり前ではないか。近代的自我なんて言ったって、それがどうしたというくらいの強固な意志を持って欲しいのだ。明治精神と言ったって、それより偉大なのは、あなたのこころですよと申し上げたい。漱石は、これを愚生と反対の意味で使っている。だから胃病で苦しんだのだ。(ちょっとこれは言い過ぎだけど・・・)
近代的自我を持ったおかげで、現代を生きる我々は、実にあふぉ~な現実(これも愚生は仮の姿だと思っているが)に振り回されているだけではないかと思うのである。島崎藤村の勉強を学部時代にしていたとき、師匠がよく近代的自我という視点から藤村を分析されていた。しかし、かなり疑問に思っていた。それがどうしたというように思っていたのである。それほどのものなのだろうか?ということである。
藤村の「夜明け前」も、上野から米沢に帰る時に、夜行列車で読了したっけ。(読み始めたのは、帰省のずっと前からだけど)あの頃は、九時間かかったのだった。夜行が。ちょうど読み終えた時に、見慣れた右側の奥羽山脈から夜明け前の太陽がカオを出してきたのには笑ったっけ。洒落にもならん。しかし、これが近代的自我なのかとおおいに疑問に思っていたのだった。ちなみに夜行列車で小説なんか読んじゃ駄目でっせ。お目々が悪くなる。もっとも、夜行なんて今はないんじゃないかねぇ。夜行バスは知っているけど。今は新幹線だから二時間くらいしかかからんのだ。(*_*) マイッタな。風情もなにもあったもんじゃないですな。夜行列車っていいもんですぜ。実にいい。夜行の急行で帰省するときに、どっかのばぁちゃんと話し込んだりしたっけ。そうか東京で苦学しておるんか、エライな、がんばっぺなぁアンチャン!って言われて不覚にも涙が出た思い出もあるからである。
あれから40年。今度はオレがじじいになっちまった。
愚生は千葉県に住んでいる。暖かくて実に明るい。太陽がぎらぎらと輝いていて、夏涼しく、冬暖かい。だからこういう自然の中に生きていると、希望とか、前進とか、向上とか、明朗とかの単語しか浮かんでこないのである。表日本とはよくも言ったりである。(この表・裏日本という言い方は気に入らないんだけど)表しか見えないのだ。なんと言っても、九十九里浜の隣は、ハワイなのである。これは得がたいシチュエーションである。こういうのを天賦の運と言うのである。こういうところに育ったら、常に前進、たくましく生きる、どんなことがあっても「したたかに生きる」才能に恵まれる。ありがたいものではないか。
閉じこもっていてはいけない。狭く生きてはいけない。そんな気分になったら、銚子に来てみることだ。大きな太平洋を見たら、くだらない近代的自我なんて吹っ飛んでしまう。
他者との関係性だけで生きることはいかがなものかと思っているのだ。自己の確立を図ったほうが、もっとよろしい。だから勉強しなくてはならんのである。
大学受験をしようとしている高校三年生を塾のアルバイトで指導している。国語と英語と数学である。彼らに実は読書法とか、勉強法をまことに失礼ながら伝授している。ちょっとした時間を活用して、愚生が実際に国語や英語、数学の学習をどうやっているのかを見せているのである。実物教育である。ショックを受けるようである。愚生の勉強法に。なんてったって、現役の大学生でありますからなぁ・・・・・(^0^)
愚生は出来が悪いから勉強をせざるを得ないのである。これは致し方ないのである。しょうがないのだ。天才だったら、愚生は定年後も天下りでどっかで仕事していただろうから。愚生にかぎってそんなのありえねぇですがね。アハハ!
明日も登校しようっと。
夜は柔道の稽古だけれども。まったく収入はないんですがね。(^0^)