ささやかな・・しあわせ
22:17である。ずっと孫と遊んでいた。本当になにもしないで遊んでいた。居住地にある池にも行った。こどもの日だから、鯉のぼりがたくさん池の上を泳いでいた。壮観である。行政の配慮をいただいて、見ることができる。思えば粋なはからいをしていただける居住地の行政である。感謝である。こんなささやかな生活を送っている年金生活者の老人を楽しませてくださるのだから、こころから感謝である。
日本の国家は、思うにすぐれた国である。このことへの感謝なしに、のんべんだらりと過ごしておってはならないと思うのである。ピンチになっても必ずよみがえった国でもある。隆盛を誇った時期もあったが、その後のバブル崩壊でも自省のこころは忘れなかった国でもある。
あ、そうだ。けふは、ジムに行く前に、例の古本チェーンに寄った。GW中は、全品20%引きだからである。いいものを見つけた。岩波講座の日本通史第一巻古代史を速攻で買ったのである。普通なら2800円する。それが、200円で買えた。はははである。ジムで自転車をこぎながら斜め読みをしていた。家に帰ったら、マーカーでいろいろチェックしようと思っていたから。
日本の国は、通史上もすぐれた国家であることがよくわかる。愚生は、旧石器時代から文化的にもすぐれたものを持っていたのが、我が日本の古代の祖先たちであると思っているのだ。そういうことを根底にしているから、読書がおもしろくなるのだ。これを否定的に、古代の人間は野蛮で、無知で、獣を追っかけて、言葉も発しないで、きゃーきゃー猿のごとき生活をしていたんだろうっていう人がいるが、そういう議論は間違っていると思うのだ。
古い時代ほど、文化的に低レベルであったとする方がいるが、ほんとうなのかねぇと思う。現代だって、動物的なのはたくさんいるではないか。渡辺淳一的不倫だって、そうである。ありゃ、そこらへんの動物たちとかわらんではないか。やってることはわんこと一緒で、屁理屈を言うだけ、わんこよりも手に負えないと愚生は感じるのである。だから、恋愛至上主義というのはなんともはやである。愚生とは関係のねぇ話だが。
そうだ。けふは、今月に発刊される郷土史研究誌の全体校正だけやったっけ。今、思い出した。それだけはやったのだ。大先輩たちの原稿を、校正段階でチェックするのが、定年後の愚生の仕事になったからである。
読んでいて、いろいろと勉強になった。拙ブログのような文体で書かれている論文はひとつもない。さすがである。こういう文章を書かないと、論文にはならないということを勉強させていただいた。「である」調だと、自分が出る。これでは小説の文章になってしまう。「・・・た」というのが、論文調なんだろうなぁ。そこが愚生の欠点であるのだと気がついてはいたが、あるいはいろいろな方からご指導をいただいていた。だから、こういう校正をさせていただくと、さらに反省させられる。
メール便で午後から送ったのだが、原稿の量が大量である。最終編集者には、責任をもってお送りしないと、愚生の役割を果たしたことにはならないから慎重にやった。専門家の集団である。こんな愚生でも、そして会員にさせていただいただけでも、しあわせである。定年後の居場所をいただいたからである。
さっきまで、孫が来てからずっと動画を撮影していたので、編集をしていない生の動画を鑑賞していた。動画はいいものである。動きがあるから、かわゆいものが、ず~んとかわゆくなる。1歳1ヶ月なので、言葉にならない「うううう」とか「おおお」としか発声できない孫が画面に出て来る。これがまたいいものである。へたくそだが、愚生は動画の編集も楽しみでやっているので、最後はDVDにして、帰るときに孫にもたせてやることにしている。しかも、それは愚生のHDに永久保存である。
ささやかな「し・あ・わ・せ」である。
愚生の顔にはしわが寄っているが。
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