ふうう・・疲れた
なんということだ。ゼミのレベルが高くてついていけない。ははははと力なく笑っているしかない。けふの近代文学もまた高次元の講義であった。若手の研究者に囲まれて、(*_*) マイッタとしか言うことが無い。
文学の研究というのは、こういうことなのだなぁと思ったのである。近代文学はなかなか難しいものである。むろん、理論ばかりでできるような分野では無い。なんだか、教育現場で国語教育を一応37年もやってきたわりには、実力がついていなかったなぁと思う。反省である。反省。
そして気がついたら、もうじじぃではないか。おしめぇだ(^0^)
だからサボっちゃいけないんだなぁと思う。? 別にサボっていたわけではないか。分野が違うのだったな。オレのやってきたことは、学校経営であったから。でも、オレには憧れの分野であった。文学研究というのが。こうやって文学について議論し合うということが。
知らないから、知ろうとするんであって、師の思考スタイルについて、及びもつかないということを自覚したときから、学ぶことが始まるのだ。
けふは「難解ということはどういうことか」ということから、始めたい。ある作家とか哲学者とか、彼ら彼女らについてなんの予備知識もない人間が、作品を思想書を読み始めても、ダメである。
つまり、「何が書いてあるかまるでわからない」ってやつだ。わかるはずがない。何故なら、作者達はわざとわからないように書いているからである。
ずいぶん断定的に書くなぁと馬鹿にされるかもしれない。しかし、日本を代表するような思想家、研究者、文学者であっても、別段愚生のような素人にもわかるように書いてくださっているわけではないということを、まず最初に自明のこととしてあげておく。
教科書に書いてあるからエライのだとありがたがっていたってダメである。もしかしたら、書いているご本尊だってよくわかっていないで書いている場合もあるからである。(そりゃオレのこった)
問題は意図的に・・・という人たちである。ラカンや、レヴィナスである。わざとわかりにくく書いてあるモノを読んですらすらとわかる方がおかしいのだ。
なぜそんなことをするのか。
一つは、難しいことを言うのが知的威信であると思っている場合である。博覧強記を自慢するだけである。あるいは、「オレは賢いだろう?」というメッセージしか内部に持ち合わせていない場合である。
ラカンや、レビナスは違う。彼らは、読者である愚生に「伝えたいことがある」のではなくて、「と~ま君!わかるならこれをやってみたまえ」と愚生に行動を迫るのである。あんたは作者である私に何を言いたいのか、それを明らかにしたまえというものである。
ラカンの言うところの、「子どものディスクール」である。
このことについて、前回、愚生はラカンまで出てきたのでたまげたと拙ブログで書いたのだ。だから、クラスメイトとそのことについて議論をしたかったのだが、できなかった。つまり不完全燃焼である。
(^_^)3 フムフム。
誰にも相手にされなかったときの寂寥である。恋愛のときがそうだ。あははははである。いつもそうだったからなぁ。もっとも、こんな人相の悪いおとこでは、ムリでありんすなぁ。
現在は文学と全く関係のない大学で教育について、しゃべっている。城西国際で学んでいると、もっともっとしゃべってみたいと思うが、そりゃできない。学生だからだ。一介の老年学生である。なんにも知らない出来損ないである。
こういう時は、あれだ。太平洋まで走っていって、海に向かって、と~まの馬鹿野郎って吠えるしかないっすねぇ。
後悔の多い半生でしたよん。
馬鹿みたいに。
23:20になりました。
夜の柔道教室に行って、おさなごたちと一緒に柔道をやってきました。かわいいですなぁ。実にかわいい。彼らと一緒に柔道をやっているときだけが、オレの生きがいなんだ。
それにしても、けふはちょっと膝が痛くて、やっぱりオレはじじぃだと自覚させられましたよん。
でも、めげずにやるんだ。
何を?
ハハハハハハハ。
お勉強だ。
(^_-)-☆