石牟礼道子さんの新作能「不知火」
作家の石牟礼道子さんのことを知らない人はいないだろう。水俣病を扱った「苦海浄土」で有名な方でもある。
愚生は、若いころにこの作家の作品を読んで、かなりのショックを受けたことを記憶している。遠い記憶である。環境というものにまだまだ理解が及ばない時代でもあったし、事実愚生もそんなに意識の中に環境問題というものの重みがなかった時代でもあった。
しかし、あれから40年もたって突然愚生の問題意識に重要なポジュションを占めるようになったのが、石牟礼道子さんである。
それはこの作家が能楽にも堪能だと知ったからである。知ったというより教えていただいたというべきであろう。在籍校のクラスメイトに教えていただいたからである。新作能「不知火」である。
実際に新作能「不知火」を見たわけではない。あくまで文字情報としてである。石牟礼道子全集によってである。しかし、文章だけでも得るものはある。非常に優れた文章表現から学ぶものはたくさんあるからである。
前置きが長くなった。新作能「不知火」は、姉と弟が死ぬ能である。しかも、その姉と弟は死んでから、来世で再び男と女の関係になる。いわば近親相姦の物語でもある。おどろおどろした物語でもある。しかもこの物語は静寂な雰囲気にも包まれている。内容は、姉神不知火と弟の常若の物語であって、陸と海の毒を身命にかけてさらえてもらうという物語である。むろん二人は死ぬ。より美しく死ぬ。
そして、末期の時に観音菩薩が現れて古代中国の音曲の怪神を呼び、水俣の浜辺で石を使った始原の音曲が奏でられる。美しいのだ。物語自体が。
しかし、ちょっと違う。新作能「不知火」から得たものは。
結論から言おう。愚生が感じたのは、「呪詛」である。水俣病という非常に厳しい環境から、命を失った方もたくさんおられることから、この能は作られたからである。当然そこには、作者石牟礼道子の思いがある。企業による公害からしいたげられてきた常民たちの思いが込められている。呪いである。呪詛である。恨みである。恐ろしいまでの。
しかしながら、この新作能「不知火」は美しい。なぜか。
愚生も含めて、私たちはこの世には存在し得ない色や花の風姿を求め続けるからでもある。あまつさえ、それはあり得ない世界でもある。こころの美しさを軸として、端正で美しいこの世の中を見ることは、永遠にできないからということを「不知火」は訴えているからである。それを見る事ができないから、呪詛をするのである。
そういう世界は誰だって持っているのだろう。できない世界、不可能な世界、やりたくても拒否された世界というものは、ちまたに幾千万と転がっている。幸福になりたいと思ってもできなかったこと、挫折の連続であった前半生、恨み多い時期を過ごした経験等々、我々人間はたくさんの呪詛の対象になるものに取り囲まれている。
そういうものが、無意識の世界にこびりついている。無意識の世界の混沌と云ってもいい。言葉に著そうとしても言葉にならないもの。それが我々人間はあるからである。そういうことに気がついた時には、我々は沈黙の世界に佇むしかない。黙るしかない。言葉にならない世界を意識し始めるからである。
最近の愚生は、音の、あるいは声のコスモロジーということをよく思う。論文にもよく書く。つまり、言葉自体が重々しいのではなく、音声というのは言葉とイコールの関係ではあり得ないのではないかと思うからである。つまり、言葉は意味それ自体をなすから貴重なのではなく、むしろ言葉の背景にある世界からの発信であるような気がしてならないからである。
死後の世界からのメッセージでもあるような気がしてならないのである。それが愚生の追求している能楽でもあるからである。したがって、能楽は恨みの物語でもある。呪いの世界でもある。だから静寂なのである。緩慢な動きから、何を思うべきか。
それを考えると、水俣病にかかってしまった、あるいは被害にあった方々の呪詛は、非常に深刻である。
いいことを教えていただいたものである。クラスメイトにである。むろん愚生などと違って将来を嘱望されている方でもある。こういう事を教えていただける、あるいはそういうことに視点が向くということが、俊秀の俊秀たる所以でもある。
感謝である。
ホントウに感謝である。