まただらだらと書いてしまったすケド
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今後四年の内ということで、四巻から成る主著の完成が予告されて います。その表題だけでも人を怖れさすに足るもので、『権力への意志-あらゆる価値転倒の試み』というのです。そのために、私には何もかもが必要です。健康も孤独も好気分も、もしかしたら一人の妻も。(86/9/2 母と妹宛の手紙)
今朝のお題である。
ニーチェさんでも『もしかしたら一人の妻も。』と思うことがあったのだと感じた。へぇぇぇ!と思った。しかもだ。『(86/9/2 母と妹宛の手紙)』とも書いてある。ほほえましいではないか。あのニーチェが言っているのだ。あのニーチェですぜ。(ちょっとしつこいか)
ニーチェも妻が欲しかったのかねぇ。
へぇぇなのだ。
このTwitterの場合、要注意は『私には何もかもが必要です。健康も孤独も好気分も』という部分である。特に、「健康と孤独と好気分」が並べられていることに。やはりニーチェ先生は病んでいたのである。残念ながら。
アタシャ、人生終わっちゃっているので、若い方々に「勉強頑張ってねぇ」とよく激励するのが得意技である。しかしながら、一点だけ気になっている部分がある。殆どの若い方が「頑張ります!」と雄々しく返事をするからだ。
頑張るっていう言葉には、ある種の無理があるからである。気になる。非常に気になる。根性論というか、努力論というか、そういう精神文化最優先というものが見えてくるからである。
つまり、オレは必ずしも、根性とか努力というものだけで、成果を残すことができるとは云えないのではないかと密かに思ってきたからである。まったくないとは云わない。
それよりも、自分を見失う程に努力して、根性を使い果たして、心身共にぼろぼろになるまでやっても、いかがなものかと思うからである。早い話が、健康を損ねてまでやって何になるのかねぇと思っている。成果なんて、そんなのは、他者との比較で成り立っているだけで、真の価値はとるにたらないものだったりしているのが真実である。
オレの方が優秀だとか、あいつはバカだとか、あるいは、国公立大学***名進学とか、そんなのは比較の話だということに早く気がつくべきだ。進学率だって、***名の高校の上には上がいくらでもある。その程度では、進学校とは云えないとぼろくそに云う人だっているのだ。そんな現象面のつまらぬ数値であっちふらふら、こっちメソメソと右往左往しちゃいかんでっせ。
病気になっちまう。
つまり、他者からどう見られているかということしか、関心がないからそうなるのだ。
どう見られたっていいじゃないですか?と申しあげたい。特に、それで病気になっておられる方々へ。励ますってことはそういうことでもあるからである。特に、オイラはそうやって励ますことを職業にしてきたからである。天職であったとすら思っているから。
あまり勉強しすぎると健康に良くない。
ただし、全くやらないというのは、「もっと健康に良くない」と云いたい。特に頭脳のためには良くない。オレのようにじじいになると、こいつは深刻である。ボケるからである。わはははははははははである。
そう、ボケないために生涯学習をやっちょるのだ。ニーチェ先生のように、全てを犠牲にしてまでという覚悟はまったくございませんということなのだ。情け無いけど。
それにオレには、「配偶者」がいる。ありがたいことに。わはははは。だから、オレには成功という文字は無いのだ(>_<)ゞ。
「健康」はお裾分けしたいほどあるし、毎日が「好気分」である。この二つだけは、まったくバカみたいにたっぷりあるのだ、オレには。「孤独」というのは、オレも欲しいねぇ。好きなだけ、一日中読書する思索にふけるっていうのは憧れである。されど、できない。当たり前である。町内の役員もやらせていただいているし、ボランティア柔道もやらせていただいている。それに、趣味で塾講師もやらせていただいている。数学と英語と国語をやらせていただいているのは、まったく趣味だ。
あ、教わっている大学もそうだ。趣味で通学しているんだっけな。行ってもなにもならない!って家族に叱られてばかりだから。それはそうだ。就職するためとか、資格取得のために行っているのではないから。もうこのトシで雇ってくれる会社もないしねぇ。定年でやっと自由になったんだから、もういいんである。就職は。ま、趣味というと誤解があるから、「生涯学習」のために行っているのだと主張することにしているケド。マジに。
そういえば、この間、日本には大学院文化というのが無いという話になった。外国の大学出身者とである。日本人は学部を卒業してすぐ就職する文化である、だから大学のランクが非常に重要であるというようなことを外国の大学の先生と話をしていた。お互い非常に納得した。
会社の人事担当者も大学のGPAというのを信用していないから、独自に入社試験をやるということにも言及された。そうかもしれない。大学間にランク競争があるのなら、必然的にそうなるしかないだろうとオレも思う。
アメリカとか、中国というのは、教育バブルという状態である。上へ上へと進学している。博士の資格がないと、大学教授にはゼッタイなれないのだそうだ。日本は逆だ。博士は就職先が無い。博士になると食う手段に困るのだそうだ。NHKでもやっていたっけ。東大の博士を出て、築地の魚仲買人をやっている人を。オレはそういう人の方が好きだけどね。会ってみたい。一度でいいから。地位も名誉も要らない。好きな勉強していればいい、って人に会いたい。
ほら、いたっしょ?
ディオゲネスだっけ?ウィキペディアに以下のように書いてあるから引用しよう。
紀元前336年、アレクサンドロス大王がコリントスに将軍として訪れたとき、ディオゲネスが挨拶に来なかったので、大王の方から会いに行った。ディオゲネスは体育場の隅にいて日向ぼっこをしていた。大勢の供を連れたアレクサンドロス大王が挨拶をして、何か希望はないかと聞くと、「あなたにそこに立たれると日陰になるからどいてください」とだけ言った。帰途、大王は「私がもしアレクサンドロスでなかったらディオゲネスになりたい」と言った。
これが有名であるがもっと面白いのがその死に方である。
死が迫ってきたとき、「私が死んだら、その辺に投げ捨てておくれ」と言った。一説には「河に投げ込んでおくれ」と言った。ディオゲネスはアレクサンドロス大王と同じ頃死んだ。死因はタコを食べて当たったためとも、犬に足を噛みつかれたためとも、自分で息を止める修行をしたためとも言われている。
どうです?
なかなかのもんでしょ。わはははははである。
思想的にも面白うてならない。
ディオゲネスは「徳」が人生の目的であり、欲望から解放されて自足すること、動じない心を持つことが重要だと考えた。そのため肉体的・精神的な鍛錬を重んじた。知識や教養を無用のものとし、音楽・天文学・論理学をさげすんだ。プラトンのイデア論に反対し、「僕には『机そのもの』というのは見えないね」と言った。プラトンは「それは君に見る目がないからだ」と言い返した。プラトンは、ディオゲネスはどういう人かと聞かれて「狂ったソクラテスだ」と評した。運動の不可能(おそらくゼノンのパラドックス)を論じている哲学者の前で、歩き回ってその論のおかしいことを示した。また「人間とは二本足で身体に毛の無い動物である」と定義したプラトンに、ディオゲネスが羽根をむしった雄鶏をつきつけて「これがプラトンの言う人間だ」といった「プラトンの雄鶏」の故事でも知られる。唯一の正しい政府は世界政府であるといい、「自分はコスモポリタンだ」と言い、史上初めてコスモポリタニズムという語を作った。
はれ~~~~5000字を越している。もう止めます。けふも学校行って原稿を書かなくちゃならんので。
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