昔の湯治場
宮本常一せんせの著作集の31巻「旅に学ぶ」を読んでいたら、昔の湯治場のことが出ていた。(p.67)それで思い出したことがあった。亡くなった愚生の両親のことである。山形に...
昔の湯治場
宮本常一せんせの著作集の31巻「旅に学ぶ」を読んでいたら、昔の湯治場のことが出ていた。(p.67)それで思い出したことがあった。亡くなった愚生の両親のことである。山形に...
道徳教育の現状と課題
11月の2日に本学とは別の大学で道徳教育の現状と課題という講義を行わせていただく。90分の単発である。昨日正式に依頼状をいただいた。 当日は午前中本学の師匠から講義をいただき...
人文科学は訊問科学
昨日の修士論文計画発表を聞いていてしみじみ思った。 人文科学は訊問科学だなぁということを。むろんいい意味でつかっているが。いろいろと会場の方々と対話をしながら、自分の力をつけ...
供養塔と祈り 豪雨の中で
慢心という言葉がある。オレの最も自戒している言葉である。この言葉は自信と裏腹であって、自信の無い人間の言い訳にしか聞こえないと云われたこともあったっけなぁ。慢心していると云われるくらい自信を持って生きろよということを、真剣に云ってくれたのだった。かつて、友人が。数少ない友人であるから、えらくオレのことを心配してくれて云っているのだということはよく分かった。
そういうのが親友というのであろう。ありがたいものである。
我々は評価されて生きている。あるいは他人を評価して生きている。あいつはたいしたことのねぇ奴だとか、能力もねぇのに、なにを血迷ってあふぉ~なことをやっているんだとか。なぜ人は、他人を貶めることが好きなんだろうかと考えたことがある。
それは、だいたいにおいて、人間というものは、自分を実力より上だと自分で評価しているからである。他人にもそう思ってほしいから、かっこうのええことを云うし、やるわけである。
化粧だってそうだ。化けるというではないか。素顔を見られたくないから化ける。
あるいは、会話の中で、さも知ったかぶりをして、自分の実力以上に見せたがる。ボクはねぇ~~~とか気取って話をするやつはたいていそうだ。自分の実力を何枚もの化けの皮を着せて、何段も上に評価してほしいのである。そういう傾向は誰にでもあるだろうから、あえて批判はしない。しかたないではないか。そういう傾向を持っているのが人間なんだもの。
だから人間は褒められると弱いのだ。褒める教育というものもあって、それはそれなりに効果的なときもある。注意すべきは、褒める教育がどんな場合でも効果的だとは限らないということなのだ。オレのようなひねくれたガキはあんまりいないだろうが、褒めるということは、ある意味、褒める側からの「評価」であって、あんたにそんなことを云う資格があるのかね?と云われたら、オレはぎゃふんである。参ったとなる。オレはとてもとても、他者の悪口を云ったり、評価することなんかできない。
問題をたくさん抱えているし、清廉潔白なのか、ほんとうに神仏に誓って、なんの罪もないのか?と云われたらもうダメだ。オレはカオを真っ赤にシテうつむいているしかにゃーですよ。
妄想をいだいただけで、罪になるのなら、もうオレなんかダメだ。姦淫というのだっけ?ありゃぁ、不可能という字句と同じ意味を持っているとシカ思えないのだけど。
美人は美人に見えるのだ。どうしてもなのだ。困ったもんだ。しかも、そこにはレベルがある。オレの好みが出てくるのだ。参ったな。話をしてみたいと思っても、オレのことだ、クチがきけない。緊張してしまって、身体が硬直するのだ。(ウソだけど=(^0^))
泥棒をしたことはまったくないけど、カネはいくらでも欲しいし。
美味いモノもたらふく食ってみたい。
美酒も死ぬほど飲んでみたい。あ、死んだら呑めねぇケドね。
つまんねぇことを書いていないで、今日の本題。
(なんだか前半部分が本題みたいだが)
それはねぇ、けふはこの基地外みたいな豪雨の中を、房総の津波供養塔を見たくて、あるいは写真に撮したくて、合羽きて、傘をさして、タオルを首に巻いて、ゴム長靴をはいて、あちこちと歩いていたのだ。配偶者が呆れていたけど、オレもオレ自身に呆れていた。
ま、原稿を書かなくてはならないから、今日も行ったし、明日も、明後日も行く。なにしろ在籍校の周辺にいっぱいあるのだから、こんな便利な話はない。普段は50%割引の学生定期で大学には通学しているが、今週はクルマであちこちと行くつもりだ。弁当をクルマの中で食って、供養塔にお参りさせていただくのだ。
そして、今日最初に行った寺院にあった供養塔(蓮沼)にどぎもを抜かれた。たくさんあって、千人塚とも云われているらしいのだが、なんともなんとも、元禄時代に津波で亡くなった方々の怨霊がそこら中におられるような気がして、「祈って」きたのだ。浄土宗の寺院だったから、南無阿弥陀仏と唱えてきた。こういうのが、日本人の素直な気持ちなのだろうなぁと思った。オレですら、合掌して、亡くなった方々のことを思ったからである。普段はふざけたことばかり拙ブログに書いているが、まじめに祈った。横殴りの豪雨が、オレをあざ笑っているように、たたいてきたけどね。それでも、オレは祈らざるを得なかった。
なんだか、とても哀しい体験をしてしまったような気がした。
そして原稿を書くために、供養塔を撮し、探し回っているっていうことが、とてつもなく無意味なような気がしてしまった。そんなことをしていてなにになるんじゃ?って祖霊たちが、笑っているような気がしてならなかったからである。
こんなことをやっていていいのかね?とは思う。しかし、オレもまた東日本大震災の経験者である。亡くなった方々が、九十九里海岸の北部にある旭市だけで15名(2名は行方不明)である。当時勤務していた学校の生徒で家が流されてしまったということもあったのだ。だから、語り伝えて行かなくちゃならんことは山ほどあるのだ。安全教育の面でもそうである。あるいはフォークロア的なことを語って、後世に生きる人たちに贈与をしていかなくてはならない。そして、日本文学の中に記録されているいろいろなことを、受験勉強としてではなくて伝えていかなくてはならない。
マジにそう思ったのである。
びしょ濡れになったので、風邪をひかないようにしようっと。
じゃぁねぇ~
(^_-)-☆
酒井雄哉阿闍梨のビデオを、師匠に見せて頂いてちょっと精神的に打撃を・・・・オレの生き方ってこれでいいのかねぇってことを、思ったから。もっと人のためになることをしてぇなぁ。このままじゃ、ただの亡者だよん。バカ丸出し。
けふの社会人講座での西行の講義をいただいていてのワンシーンでございました。一生忘れられない講義でしたなぁ。まだオレにも涙が残っていたんだ。ホンマに。
意識は、たんにある存在が外からの作用を受けて一種の反応を示すということではなく、その反応に際して新たに何かを内的に体験する、ということを特徴としている。たとえば、ある存在が熱せられとき、内部に痛みを感じたとすれば、その時初めて、意識の存在を語ることができる。
犠牲における外部の暴力が暴き出すものは、血の流出と器官の噴出という形のもとに眺められた、存在内部の暴力である。この生命に満ちた血や器官は、解剖学がそこに見るものとは何の関係もない。科学ではなくて、内的体験のみが、古代人の感情を再び取り戻すことを可能にするだろう。『エロティシズム』
CiNii 論文?-? 御伽草子『月林草』にみる室町期の食文化(上) : 擬人表現に嵌め込まれた食の実際 ci.nii.ac.jp/naid/110009320… #CiNii
★魚も「うつ」になる!★@nhk_n_sp アメリカでは、魚をある方法で「うつ状態」にして研究が行われています。Nスペ「病の起源 第3集うつ病 防衛本能がもたらす宿命」明日夜9時00分~nhk.jp/special
祈れないときもあります。その時は単純になればいいのです。わたしの心の内におられるキリストに祈っていただくのです。キリストが御父に語りかける、その祈りに心の沈黙の中でまかせきるのです。わたしが語ることができないそのときキリストが語ります。わたしが祈れないそのときキリストが祈ります。
ただ生命のあるところにのみ、意志がある。さあれ、そは生命への意志にあらずして、かく我は汝らに教える、権力への意志である!生ける者によって、多くのものが生命そのものより高く評価せられる。即ちこの評価するということそれ自体から語っているではないか、権力への意志が!-ツァラトゥストラ-
我々の内なる思考は、我々の特殊存在を覆い、我々を宇宙の普遍存在に結びつける。その結果我々の中には認識衝動が生み出される。思考を持たぬ存在はこのような衝動を持たない。そのような存在に別の事物が相対する時にも、そこにどんな問いも生じず、別の事物は外的なものであり続ける。-自由の哲学-