ツェルマットの教会近くの墓
花に囲まれた墓です。
うらやましいですなぁ~
死んでも
花に囲まれて・・・・・・・・・・・・・・
絵はがきのようだけど、これ、本当にオレのデジカメで写したのです。
孤高の山ですな。
実に美しいですよん。
ツェルマットの教会近くの墓
花に囲まれた墓です。
うらやましいですなぁ~
死んでも
花に囲まれて・・・・・・・・・・・・・・
絵はがきのようだけど、これ、本当にオレのデジカメで写したのです。
孤高の山ですな。
実に美しいですよん。
6月27日(金)
宿泊したツェルマットのホテルです。
さすがにスイスはメルヘンチックでなかなかのもの。
花と自然が実に美しいですなぁ~
ホテルの窓から見えたマッターホルンです。
これは、これは。
なんといういいホテルでありましょうや。
ウキペディアより引用
マッターホルン(独: Matterhorn、伊: Cervino チェルヴィーノ、仏: Mont Cervin モン・セルヴァン または Le Cervin ル・セルヴァン)は、アルプス山脈に属する標高4,478mの山である。
山頂にはスイスとイタリアの国境が通り、麓の町はスイス側にツェルマット、イタリア側にチェルヴィニア がある。マッターホルンという名称は、ドイツ語で牧草地を表す「matt」と、山頂を表す「horn」に由来している。
これで夜の九時ころでおます。
参ったですな。
参った。
ウキペディアより引用
ツェルマット(標準ドイツ語:Zermatt、スイス方言(アレマン語):Zärmat)は、スイス、ヴァレー州のマッターホルン山麓にある基礎自治体(アインヴォーナー・ゲマインデ)。
町は、スイス最高峰の麓にある、標高1,620 m (5,310 ft)のマッタータルの端に位置する。イタリアとの国境である高さ10,800 ft (3,291.84 m)のテオドール峠からは約10 km (6.2 mi)である。
ツェルマットは、スイス・アルプスの登山やスキー場でよく知られている。19世紀中頃まで、町は農村であった。多くの観光施設の建設に結びつくことになった村を取り囲む山々への登山ブームは、1865年の、悲劇を生んだ最初のマッターホルン登山である。ツェルマットには、2010年12月年現在、5,720[1]の人口がある。地域経済のほとんどは、観光業に依存しており、町の職業の約半数は、ホテルまたはレストラン[2]で、全てのアパートのほぼ半数は、休暇アパートである[3]。常住人口の3分の1は、町の出身だが、スイス国外からツェルマットへ移住する者もいる[4]。
「ツェルマット」は舞台ドイツ語式発音に基づく仮名転写で、現代の標準ドイツ語の発音では「ツェアマット」に近い。
シャモニーのレストランで呑んだ、喰った。
モンブランが見えたけど、上に行ったら
駄目でした。
酒ばっかり呑んでいたような気もするけど。
(=´∀`)
ウキペディアより
シャモニーはモンブランから続くモンブラン山群のふもとの渓谷の町であり、世界でも有数のスキーリゾートとして観光客を集めている。
1786年8月8日にモンブランが初登頂されてから、現在の登山というスポーツが始まったとされているため、登山発祥の地として登山家の聖地とも呼ばれている。
1924年に開催された冬季オリンピックの記念すべき第1回大会、シャモニーオリンピックがここで開催された。これにより冬季五輪・発祥の地と呼ばれる。
モンブランが西ヨーロッパ最高峰であるため、多くの登山家がここから山頂を目指した。各種クライミング、エクストリームスキー、パラグライダー、ラフティング、キャニオニング、マウンテンバイク、ウルトラトレイル(UTMB)など、その他の厳しい山岳スポーツの中心地でもある。
6月26日(木)
フランスの新幹線「TGV」でスイスジュネーブへ。
Busでさらにシャモニーへ。
オレの最も好きな、ある意味源氏物語に通じる魅力を持っているにょしょうである。
(^0^)
ウキペディアより引用
マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ(フランス語: Marie Antoinette Josepha Jeanne de Lorraine d'Autriche, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)は、フランス国王ルイ16世の王妃。
フランス革命中の1793年に刑死した。
1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンとオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身につけたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。
当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、アントーニアとフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。
1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。
1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。
結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーら に焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に 宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・ バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[1]
ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7 月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さ あ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。
2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。
マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、趣味・気質などの不一致や、ルイの性的不能もあって(後日、その治療を受けるまで子どもは生まれなかった)、思わしくなかったと言われる。彼女はその寂しさや慣れないフランス王室での生活を紛らわすため奢侈に没頭していたという説があり、夜ごと仮面舞踏会で踊り明かしたという。また彼女は大変に移り気かつ享楽的な性格で、読書も嫌いであったという。
母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存する[何処に?])。さらに賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。
また、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させるなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だった離宮(小トリアノン宮殿)を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
登場作品
仏国の歴史を知るべし。
まだまだですなぁ。
オレなんか。
ウキペディアより引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A414%E4%B8%96_%28%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B%29
ヴェルサイユ宮殿(ヴェルサイユきゅうでん、フランス語:Château de Versailles)は、1682年にフランス王ルイ14世(1638年 - 1715年、在位1643年 - 1715年)が建てたフランスの宮殿(建設当初は離宮)である。ベルサイユ宮殿とも表記される。
ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世が建造した宮殿である。そのため、フランス絶対王政の象徴的建造物ともいわれる。ルイ14世をはじめとした王族と、その臣下が共に住むヴェルサイユ宮殿においては、生活のすべてが絶対王政の実現のために利用され、その結果さまざまなルール、エチケット、マナーが生まれた。
宮殿よりも噴水庭園のほうが建設にかかった労力は上で、宮殿建設の25,000人に対し、36,000人が投入されている。噴水にはルイ14世の三つの意図が込められている。
マンサールによる増築、鏡の間を造る(天井画はル・ブランによる)
儀式や外国の賓客を謁見するために使われた鏡の間は、1871年にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の即位式が行われ、また第一次世界大戦後の対ドイツとの講和条約であるヴェルサイユ条約が調印された場所でもある。鏡の間にはたくさんの銀製品が飾られていたというが、ルイ14世は晩年になって、スペインとの王位継承争いが続いて戦費の捻出に困り、破産を免れるためにこれらを売って戦費に充てたという。
パリの南西22キロに位置する、イヴリーヌ県ヴェルサイユにある。主な部分の設計はマンサールとル・ブランによっておこなわれ、庭園はアンドレ・ル・ノートルによって造営された。バロック建築の代表作で、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名である。
オルセー美術館
ウキペディアより引用
オルセー美術館の建物はもともと1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルであった。設計者はヴィクトール・ラルー(1850年 - 1937年)である。もともとオルセー駅はオルレアンやフランス南西部へ向かう長距離列車のターミナルであり、かまぼこ状の大屋根(トレイン・シェッド)の下の地下に10線以上のホームを備えていた。狭くて不便だったことから、1939年に近距離列車専用駅となり、駅施設を大幅に縮小した。その後、この建物はさまざまな用途に用いられ、一時は取り壊しの話もあったが、1970年代からフランス政府によって保存活用策が検討されはじめ、イタリアの女性建築家ガエ・アウレンティの改修により19世紀美術を展示する美術館として生まれ変わることとなった。こうして1986年、オルセー美術館が開館した。美術館の中央ホールは、地下ホームのトレイン・シェッドによる吹き抜け構造をそのまま活用している。建物内部には鉄道駅であった面影が随所に残る。現在ではパリの観光名所としてすっかり定着した感がある。なお、旧印象派美術館(ジュ・ド・ポーム)の収蔵品はすべてオルセーに引き継がれている。
館の方針としては、原則として2月革命のあった1848年から、第一次世界大戦が勃発した1914年までの作品を展示することになっており、それ以前の作品はルーヴル美術館、以降の作品はポンピドゥー・センターという役割分担がなされている(むろん、多少の例外はある)。絵画、彫刻だけでなく、写真、グラフィック・アート、家具、工芸品など19世紀の幅広い視覚芸術作品も収集・展示の対象になっている。
オルセーでは、印象派やポスト印象派など19世紀末パリの前衛芸術のコレクションが世界的に有名だが、19世紀の主流派美術で後に忘却されたアカデミズム絵画(アール・ポンピエ)を多数収蔵・展覧し、その再評価につなげていることもこの美術館の重要な活動の側面である。
なかなか風情あり。
また来年あたりに、来てみたいですなぁ~。
一人で。
(^0^)
不可能じゃな。
野口裕子氏の紹介から引用
http://allabout.co.jp/gm/gc/373344/
ルーブル美術館やエッフェル塔、ベルサイユ宮殿など、パリに来たら是非行ってみたいマストスポットは数多くありますが、ガイドが最もおすすめしたいスポットが、船でパリを巡るセーヌ川クルーズです。最初のパリ観光ではもちろんのこと、リピーターにも人気です。
セーヌ川は、川とその周辺の建築物を含めた一帯が、1991年に世界遺産として登録されています。その景色を1~2時間かけて船上から眺めることができるのは、パリの景色を最も堪能できる贅沢で貴重な体験。パリの忘れられない思い出となること間違いなしです。
セーヌ川クルーズと一口にいえど、プランの内容はさまざま。シンプルに観覧のみできるクルーズは各船必ずありますが、食事つきや軽食がつくプランも揃っています。フランス料理のコースを味わいながら、ゆっくりと景色を楽しむのもまたロマンチック。
夕暮れ時の時間帯がベスト(c) Paris Tourist Office - Photographe : David Lefranc
それからクルーズする時間もけっこう大事。セーヌ川クルーズは、どの時間帯に乗るかによってもかなり印象が違ってきます。天気の良い日のクルーズなら、屋 外で風に吹かれながら景色を眺めるのも気持ち良いですが、一番おすすめの時間帯は、夏期の夕暮れ時から日没、夜にかけてのころ。昼間、夕暮れ、そして夜と パリの3つの表情が楽しめるこの時間帯にクルーズに出るには、日没時間の30分~1時間前くらいに出港する便に乗るのがベストです。
日没時間は日々変わります。パリの天気・日没時間はこちらでチェックを!
※表の一番下の「Coucher」がその日の日没時間。
セーヌ川クルーズは今のところ5社が手がけており、スケジュールから値段まで幅広い選択が可能となっています。それぞれの特徴を把握し、最も自分に合った、ベストなクルーズを選びましょう。
wifeと記念撮影をしてきた。
とほほ。
?
ナニガ・・・・・・・(^0^)
ウキペディアより引用
エッフェル塔(エッフェルとう、仏: La tour Eiffel)は、フランスの首都パリの象徴的な名所となっている塔である。パリ7区、シャン・ド・マルス公園の北西に位置する。
フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造されるべくコンペティションが開かれた。ここで、ギュスターヴ・エッフェルほか2者の案が採用になった。設計者がステファン・ソーヴェストル、モーリス・ケクランとされたり、エッフェルは工事を請け負ったにすぎないとされたりするが、当時ソーヴェストルとケクランは、2者ともエッフェル社の社員で、エッフェルとともにコンペに参加していた。最終的にはエッフェルが著作権者となり、この塔の名前の由来になった。
1886年6月3日、コンペティション最優秀作品として委員会が選んだのは3案あり、フェルディナン・デュテルとジャン・カミーユ・ルミジュの作品(美術館など)と、エッフェル、ソーヴエストル、ケクランらの設計図であった。満場一致の採択であり、講評は「1889年の万国博覧会用に建てられる塔は決定的な特徴をもち、金属産業の独創的傑作として出現しなければならない。この目的に十分適うのはエッフェル塔のみと思われる」であった。こうしてエッフェル塔建設が始まる。
建設は万博に間に合わせるため、2年2か月という驚異的な速さで行われ、1人の死者も出さなかった。総工費は650万フランであった[1]。
建設当時の高さは312.3m(旗部を含む)で、1930年にニューヨークにクライスラービルが完成するまでは世界一高い建造物であった。現在は放送用アンテナが設置されたため、324mとなっている。展望台は3つあり、高さは57.6m、115.7m、276.1mである。第2展望台までは階段でも昇ることが可能。水圧エレベーターなど、当時の基本構造は今でも現役で稼動している。鋼製ではなく錬鉄製の塔である[2]。塔の支点の下には、水平に保つためのジャッキがある。
あまりに奇抜な外見のため、建設当時は賛否両論に分かれた。1887年2月には、建設反対派の芸術家たちが連名で陳情書を提出している[3]。反対派の文学者ギ・ド・モーパッサンは、エッフェル塔1階のレストランによく通ったが[4]、その理由として「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と言っている。ここから、「エッフェル塔の嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざも生まれた。
なお万博後には来訪者も減ったことや、当初の契約から1909年には解体されようとしていたが、のちに、軍事用の無線電波をエッフェル塔から送信することになり、そのため国防上重要な建築物ということで、現在に至るまで残っている。
現在では、パリを代表するシンボルとなっている。1991年世界遺産になった。
6月25日(水)
仏国のミッテラン図書館。
本の形をしている。
行ってみたいが、読めない。
わはっははっはは。
1980年代、ミッテラン元大統領によるパリ大改造計画(グラン・プロジェ)によって計画され、1994年に竣工、当時パリの2区にあった国立図書 館のほとんどの機能、資料がこの場所に移されました。建物内では定期的に展示会も開かれています。この図書館やベルシー総合体育館の建設により、ここら辺 一帯、ベルシー地区にはモダンなショッピングモールや新しいお店が次々と出来て、そのイメージを一新させました。(パリナビより引用)
乗り継ぎで使ったインチョン空港。
初めて韓国に行きました。
あ、どこも初めてですかな。
わはははっはは。
ウキペディアより引用
仁川国際空港(インチョンこくさいくうこう、朝鮮語:인천국제공항)は、大韓民国仁川広域市中区にある国際空港である。永宗島と龍遊島の間にあった干潟を埋め立て、2001年3月29日開港した。大韓航空及びアシアナ航空のハブ空港である。
当空港開港と同時に、金浦国際空港の国際線が全て当空港に移転し、同空港は事実上国内線専用空港となった(ただし、現在でも金浦国際空港発着の近距離国際線は存在する)。ソウルへの国際線空港として機能していることから、前述した通りソウル市外の仁川市内に所在しながら飛行機の行き先では単に「ソウル」と案内されることが多い。現在、3本の滑走路が供用中である。
詳しい内容は後述するが、日本行き国際線は成田国際空港・東京国際空港・関西国際空港・中部国際空港だけではなく、日本各地の地方空港と当空港を結ぶ便が多数就航している。このため、日本からは国際線の乗り継ぎ地としてよく利用されている。また、韓国国内線は釜山・済州・大邱の各路線がある。