会話が無いと、基本的には破綻する
飼い犬に何度もかまれたことがあった。17歳まで生きた愛犬ジョンである。生粋の紀州犬であった。荒々しい気性で、狩りにも使うようなワンコであった。基本的に、ワンコのことが大好きで、これまでシェパードを子供の時に飼った経験があって、それが忘れられない。だから、40代の終わり頃に飼ったのだ。もっとも、子育てにも役に立つということも考えたからである。
それと友情を比較したら、怒られる。けれども、友情というのは、ワンコとの関係に似ていると思う時があったのである。それは、相手に過度に期待したら裏切られるということである。つまり、友情というのは依存の関係には無いと思っていないと、手痛いしっぺ返しをくらうということである。甘え、甘えられるという関係には無いということである。相互依存の関係にあって、まるで蜜月を共に過ごすということは、夫婦関係であってもなかなか難しいことである。それを踏まえていないと、友人関係というのは長続きしないと思うのだがいかがか。
だから簡単に、もしかしたらあの人は友達になってくれるかもしれないと思っても、過度に期待してはならないのである。むしろ淡泊な人間関係の方がいいのかもしれないと、じじいになってしみじみ思うようになった。
であるからして、いわゆる親分子分関係というのがオレにはない。オレには親分もいないし、子分もいない。ナイナイづくしである。笑っちまうくらいにない。
それでいいのだと思っている。別に孤高に生きているというのではない。
相手にしてくれなければ、それだけのご縁でしかなかったというだけである。別にこちらから、お相手をしてちょーだいって手を擦りながら平身低頭して、お願いするような関係性は、とてもじゃないが友情とは言えないとオレは思っているのだ。タブンそれは当たっているだろうと思う。
いつも一緒にいたい、あるいは、いつも飯を一緒に食いたいとか、同じ仕事をしたいとか、そういうのは夫婦でもなければできない相談である。夫婦でもそんなのはなかなか無いだろう。自営業者なら可能だろうけれども。
たまぁ~に出会って、それも偶然がいい。約束をとってビジネスライクに会うというのではなくて、偶然出会って、その時にたちまち記憶が蘇り、やぁやぁ元気だったか、親は元気かというようなのがいい。それをねちねちと、30年前におめぇーに500円貸したっけなぁとかやったらいかんのである。
オレのこと、覚えている?っていうのでもいい。忘れていたら、また覚え直してもらうだけである。それでいいいのだ、それで。出会う人がすべて友人とは限らない。そんなのは所詮無理である。同級生でもそうだとオレは思っている。一時期、学舎を共にしたというだけで、なにもそれに縛られることはない。縛ってほしいというのなら話は別だが。そういうのが趣味の人もおられるだろうから。
根底にcommunicationがあるかどうかということなのであると思っている。
会話が無いと、基本的に人間関係は破綻する。そりゃそうだ。話をしてみて初めて相手のことが理解できる。それを拒否してくる相手には、友情を期待してはならない。話をしたくないのだから、それは関係性を持ちたくないということである。だったら、所詮無理である。
FBなどでのメールでの会話だって、相手を理解することは可能であろう。希薄であろうけれども。しかし、直接会っているのにもかかわらず、話もしたくないっていうのはこれは重症である。拒否されているからである。それならそれで仕方がない。そっとしておくしかない。
嫌いだというのは、生理的にもう手の施しようがない。生理的に嫌いだというのは、男女の関係に多いのだそうな。この間、ラジオの人生相談で離婚の話を聞いていたら、相談の相手をされていた弁護士のセンセがそう云われていた。そうだろうなと思った。生理的に嫌いだ、もう無理だというのは説明がつかないからである。そうなったら、もう無理である。
友情もそうだろう。
相手が男でも、女でもそうだ。生理的にもう無理、嫌いだ、あんなの顔も見たくねぇということになったら、諦めるしかない。
あああああああああああああ、オレはこういう経験を山ほど積んできたのだった。それを思い出した。特に美女たちにである。わはははっははである。このことに関しては、ピエロみたいなものである。一人相撲のオンパレードであった。
でも、そんな馬鹿なピエロの目にも涙が・・・っていう場面もあったのですぜ。
さ、今日は、また居住地の図書館に閉じ籠もる。楽しいもんだ。夜は中国語の学習会がある。居住地の学習会である。楽しみであ~る。一日充実した生活を送りたいものである。
じゃぁね~!