オレは、どーも恋愛小説というのが大嫌いである。
なぜかと思うことがある。物語に酔うことができないからだろう。いい気なものだと思うことがしばしばである。さらに、現実としても恋愛している連中を見ると、背中がかゆくなってきてしまう。これはこれはなんともどうしようもない現象である。このことは文学愛好家としては欠陥である。つまり、それほど文学には、恋愛のことが多いからである。それを嫌っているとなると、オレの読む小説の範囲は狭まる。だからである。
つまりそれだけ、人間が固いというか、半端というかそういう程度の人間になっちまったのだなぁと慨嘆しているのだ。固い仕事をしていたからであろう。40年近く。これでは、人間性が偏向するのも無理はなかったと思う。
幅広く生きていきたいものである。だって、もう後は死ぬしかないのである。今、63歳である。この二倍は生きられないではないか。126歳? 無理である。絶対に。
ところで、そんなオレでも好きな恋愛小説がある。
なんだ?
と云われるかもしれない。ふっふふふである。それは「野菊の墓」である。伊藤左千夫のである。オレ、これを13歳くらいで読んだ。感動した。ガキのくせして、あるいは悪童のくせして、なんと泣いたのである。2歳年上の従姉で、民子という女性に淡い恋を感じてしまうという小説である。
そして伊藤左千夫が生まれた成東のある九十九里海岸に住んでいる。これまた不思議なご縁である。
淡い片思いというか、恋ごころというのは、少年時代のオレの感受性をエラく刺激した。オレはそういう少年のことを、なんと自分で書いてしまって、小説みたいにして、夏休みの宿題として担任に提出してしまったのである。そして国語教師であったベテランの女教師に褒められてしまったのである。全国コンクールに出させてもらったのだった。結果は良かった。入選した。
冗談半分みたいに云っているが、本当のことである。
思えばそれがオレの人生放浪記の始まりなのかもしれない。
だから、そういう弱々しい少年期のオレの性向というものから離れたくて恋愛小説を否定したくなるのかもしれないと思うのだ。
病弱で、病気ばかりしていたから柔道をやって鍛えようとして、事実やった。それと一緒である。三島由紀夫が嫌いなのも、ある意味弱さの克服という意味で、同じ傾向を感じるからであろう。
自己否定から入るというオレの姿勢もなんだかそんなところから来ているのかもしれない。
嫌な自分をみていたくないということからである。
つまらないことですが、ね。