喪失体験はゴリラにもチンパンジーにもある
ある人から、国語の資料を作成せよと依頼されたので、七月中に完成を目指して鋭意努力している。参考資料は、いろいろとオレの書庫にあるので、資料はすぐにでも出てくる。なにしろ、定年で退職したときに、段ボールで37個もの駄本を捨てたのだから、ちょっとこの書庫には駄本ででもなんでも数だけはピラミッドのようにあったのである。退職したらリーダーの心得とか、そういうビジネス書・経済書の類いは全部捨てたからである。そうなのだ。オレは学校の管理職でもあったので、ビジネス書の類いもしっかり読んでいたのである。なかには、会社経営法とかもあったのだ。ドラッカーもあったのだよん。そういうビジネスの先端を走っている方々の本はえらく参考になったからである。そして、もう二度とそういうビジネス書は読むことはないと思ったから捨てたのである。いまさら、リーダになるとか、リーダーを養成するとかという世代ではあるまい。そんなのは、後輩にゆだねたのである。用済みになっちまったのである。使ってくれる人もいねぇ~しなぁ。
当然、国語教育とか、文学、古典、教育学の本は残った。作り付けのずら~っと並んだ書庫にある書棚に天上までそびえ立っている。書棚が8つ並んでいる。それでも、まだ駄本はあるのだが。床に。捨てたい。とほほほである。
これ、オレが死んだら、wifeをはじめ、子供達は困るだろうなぁ。ゴミとして焼却されるだけであろうけれども。
そして、今日は、大学でタイトルのような資料を読んでいてはっとなったのである。むろんオレの書庫から持参したものである。そうなのだ。ゴリラだってチンパンジーだって、配偶者が死んだら胃腸を悪くしたりするのだそうだ。小此木啓吾センセの本だから、間違いない。
オスゴリラが死んだら、配偶者であるメスゴリラが、悲嘆の哀しみにくれるのだそうだ。中にはノイローゼになっていくのもいるという。
「喪失感」からである。
オレは泣いたぜよ。ゴリラですら、あるいはチンパンジーですら、こういう愛をもって生きているのである。
非常に基本的なことである。
相手を慮るこころから来ているのは間違いないのである。
それをだ。オノレの勝手な気まぐれから、自分勝手に相手を切ったり、別れたり、縁を切ったり、さしたる理由もないのに、関係性から離脱していいのかねぇと思ったのである。このことはもっと書きたいのであるが、たとえば離*とか、なんとかとかである。差し障りがあるから、遠慮して書いているのであるが。
だから、配偶者とか(愛人とか恋人ではない、彼氏でもない)のような高レベルでの関係にある人間は、大事にせにゃアカンのである。愛人とか、恋人とか、彼氏とか彼女とかは、まだまだである。レベル的に。生涯連れ添うことを誓ったのが、配偶者である。誕生日には、欧州旅行に連れていくべきである。(*´∀`*)
バイブルにもあるではないか。
やたらと誓ってはならないのである。まして、流行のキリスト教会での結婚など、神の前で誓うのである。これは恐ろしいことであって、オレなんかできない。
悲嘆の歴史ということ、そのことをずっと考えていたからこそ、修士論文が書けたのだった。
今日は、本当にいろいろと勉強になった。電車で通学していたときより、はるかに長く大学で勉強していた。自学こそが、大学院の良さである。師匠に報告しながら、直接ご指導をいただくことが、実に楽しい。もう、オレは高齢者だから、あと何年生きられるかわからねぇけど、こういう楽しみならずっとやっていきたいという気がする。
そろそろ6時である。
帰りましょう。
一回に一気にやっても、効果はない。ノルマを設定してじっくりやるしかないのである。
着るモノもなく、ぼろぼろの靴を履いて、誰ともクチをきかず、じーっとして読書する。あるいはノートをとる、さらにまたパソコンで原稿を書いている。なんの遊びもしない。パチンコすらやっている暇がない。酒も飲めなくなった。ミニスカートの悪女がいるようなスナックにも行ったことがない。あ、これだけはウソだな(^_^)。さらにさらにカラオケにも行かない。そういえば、中国語講座の最終回で打ち上げでカラオケに行ったそうだが、それにもオレは声がかからなかった。参加希望すら聞かれなかった。あたり前である。欧州に行っていたから、返事をする暇がなかったのである。それよりなにより、オレはたぶん偏屈じいーさまに見られているんだろうよん。それでぇぇけど。
わははっははっはっは。
今日は大学からの帰りに酒屋に寄って、欧州ですっかり好きになったホワイトワインを買って帰ろう。グラス?
二つ用意してである。
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