九十九里浜の最北端にある刑部岬灯台の真下にある料亭
拙ブログを秘密で書いていたつもりが、バレバレであった。それは予想していたことであったが、だからこそご迷惑をおかけしないようにしていた。細心の注意をもってである。特に、職業人であった時のことは書いていない。それは反則技である。即退場になるからだ。当たり前である。書いちゃならないことは、書いちゃならないのである。その辺りは、信義の問題である。ウソをついてもならない。大言壮語をしてもならない。さらに、若い人々の邪魔をしてもならない。これからご出世なされる方は、激励こそすれ、邪魔はいかん。「生涯学習高齢者」である。このことだけは肝に銘じている。
邪魔にされるのはいい。慣れているからである。ムシされるのも同様である。特に、美人にムシされるのはこりゃ当然である。オレは仙人に憧れておるから、なおさらである。しかし、美女の足を見て、天界から落ちてきた自称仙人とも違う。オレはそういうのは、避けてきたのではないからである。
知人友人達は、そういうオレの遊び心をよ~く知っているからである。逃げも隠れもしない。遊びもなにもやり飽きたからである。それくらいいろいろやって来た結果こうなったのだ。ま、たいしたことではない。ひからびただけである。遊んでみたいのだが、なにしろ身体が云うことをきかない。
昨日もgymで大笑いをした。知人と一緒に、ロッカールームで話をしていたのである。
パンツをはくのに、よっこいしょ、よっこいしょと云ってやっていたのである。身体が硬くなってしまったなぁと慨嘆していた。だから、オレは限界をわきまえているのだ。限界であるよ、限界。
されど、限界は打破するためにある。もういい加減に止したらっていうことは、意識しないことだ。いいんだ。限界だって。そりゃ、無理とか、無駄というのは、いかなあふぉ~でもわかっている。それでもいいのだ。若いつもりでいるというのでもない。
要するに、閉じこもっていないで、チャレンジすることである。完成はないからだ。そりゃぁ他人から見たら、オレなんか中国語やってもまったくものにならないし、論文も書けない。ごますりも嫌いだし、これからじじいの青春を一花咲かせようという気も無い。それこそ、時間と金の無駄である。それでもいいのだ。成果は、結果は求めないのである。当たり前である。
これから死ぬだけなのであるから。
されど、死ぬからどうでもいいというのではない。残された時間が何時間か、オレにもわからない。結局、「今」が大切であって、現在生きてるこの瞬間が一番大切な気がする。駄文を書いて、読書をし、古くからおつきあいいただいている先輩達とたまには美酒をいただきながら、清談をする。こういうのも実にいい。
来週、風光明媚な九十九里浜の最北端にある刑部岬灯台の真下にある料亭で呑む。そのような清談の機会を設けた。今回はオレが幹事である。
目の前は太平洋である。
波の音を聞きながら、清談をさせていただく。いささかの日本酒を含みながらである。こういうつきあいが何ともいえないほど、さわやかな気分になる。もう、40年おつきあいをいただいている。Wifeとの結婚式も出ていただいた方々である。
こういうおつきあいが、オレの栄養になってきたのだ。ありがたい話である。私立の3流大学しか出ていないオレが、最後には高校の校長にまでなれたのも、人間関係を大切にしてきたからである。これだけは言い切ることができる。退職しても同様である。
だから一時の感情で、人間関係を切ることはアカンのである。嫌いだから嫌いというのでは、いかがなものか。どんなに醜男でも、オレのようにどっかに良い点があるのである。
わかるかな?
わっかんねぇだろうなぁ~。特に自称美女たちは。
わははっははっははっは。
さ、今日も駄文を書く。
ノルマはA4で2枚。書けたら、もっと書く。英語もやらないと。ほら、私立の3流大学卒業だから勉強しないとみんなわすれっちまうから。
(;_;)/~~~