と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

自己の人生の充実のために大学院に入学してくるアメリカの高齢者

2014年07月08日 23時56分04秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

大学院は、就職するために行くのか?

 

 

「高学歴ワーキングプア」という新書をさっきまでフロの中で読んでいた。90分も入っていた。おかげで読了した。その程度の新書である。あ、許されよ。作者にはなんの魂胆もないからである。(^0^)

就職するために、いかに大学院の博士課程に在学している若者たちが苦労しているかという報告書みたいなものである。確かに、大学院の博士課程まで入ってくるのは、将来研究職につきたい、学者になりたい、大学のセンセになりたいからというのが殆どであろう。

そのために、いかに苦労しているか、非常勤の講師とか、塾の講師とかやりながら、結婚もできず苦心惨憺勉強をしているという姿を書いていたのである。まるで中島敦の「山月記」のようなおどろおどろしい話である。

博士をとっても就職できず、中にはパチプロとかなって、あるいはコンビニのアルバイト店員になって糊口を凌いでいる方もいると報告があった。

そもそも大学院重点化政策が原因であるとも書いてあった。あるいは少子化の影響で、学校法人の危機を救うために編み出された文科省のアイディアであるとも書かれていた。それはそれで認める。さらに云えば、特定の研究大学院大学(旧制帝大以外にはありえない話だ)が、学歴ロンダリングの院生も入学させて、特定行政法人としての経営基盤を確立させるための政策でもあるとあった。学歴ロンダリングは、確かに魅力的であろう。オレも、旧制帝大にはオオイニ魅力を感じるからである。

しかしである。

この新書は、アメリカにいるような、リタイアしてから自己の人生の充実のために、大学院に入学してくる高齢者のことをあまりにも簡単に書きすぎである。

つまり、大学院は、キャリアの養成のためだけではないだろうにと思ったからである。オレのようにである。オレは、充実した思考経路を確立したくて大学院に入れていただいたのであって、なにも石にかじりついてでも大学のセンセになりたいと思ったことはこれっぽっちもないからである。生活のために入学したのではないのである。

そんなんだったら、オレは再雇用をしていただいたのである。カネのためにはである。しかし、オレはこれまであまりにも不勉強であったから、もう一回、自己の人生の充実のために勉強したくなったのである。それがいけないというなら、オレと直接対決をしていただきたいくらいである。

リタイアしたから、引っ込んでいろっていうのは理不尽である。

オレのような懶惰なじじいでも、学ぶ権利はある。考え方を深めたい、これからの後半生を考えてみたいという人文科学系の学問をやってもいいではないか。

就職するためではないのである。

学部生の時には、そこまで思い至らなかったから、大学院で学ぶのである。

それでいいではないか。

学校法人が、プラチナ高齢者として、大学院に入れたがるという経済の論理からはちょっと外れているけれども。

だから、ドクターは憧れであっても、収入の道には該当しないのである。アメリカでは、固有名詞の前にドクターをとったら、ドクター*****とやる。そういうのに憧れているだけである。オレの場合は。取れないかもしれないけど。それでも、それを目指して年限を区切って、3年なら3年で、脇目もふらず努力することが、後半生で役にたつと思っているからである。

世間的なキャリアアップとか、ステップアップとかという話には無縁である。

 

そういうことである。そういうこと。

 

 

(^_-)-☆

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ミセハラの逆はなにか・・美というのは「思い」の中にある

2014年07月08日 14時52分42秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

この記事の前に「ミセハラ」というオレの造語かもしれない語で、見たくもないハラスメントにあっているということを書いてみた。世の中、あちら向いてもこちら向いても、ハラスメントの横行であるからである。男だけがやっているのではないと思っているからである。だから、オレのようなじじいの前には、見せたがりや症候群の「ミセハラ」女性は、現れないでほしいということなんである。マジに。

だったら、オレの見たいのはなにかということになる。それは、FBにも書いているが、芸者さんである。和服の似合うような女性である。女優の吉永小百合のような和服の女性である。これは実にいいものがある。まず、露出度が実にしとやかである。否、露出度なんてどこにもない。長い和服でその身体は被われている。美もそっと陰に隠されている。そういった方々が、しとやかな起居動作を行うのだから、これはたまらんのである。民俗芸能をもっぱらにしているオレの役得でもある。

つまり、美というのは「思い」の中にあるのである。絵を見てもそうではないか。モナリザをルーブルで見てきたが、あれもまた露出していない。実に隠された微笑をたたえている。それをである。これでもか、これでもかと自称「美」を見せつけられたら困っちまうのだ。見せつけられる美というのは実に辟易する。ゲップが出る。映画でもそうだ。次から次へと、美人の女優が濡れ場を演じているのは、げんなりである。あれは本当に演技なのだろうかと疑問に思っているからでもある。

だから、見ているオレというか観客側に、美というものを伝えるのではなくて、観客側からイメージとしての美を喚起させるものが、すぐれた芸能だと思うのである。その点、原節子という女優の美は見せる。こちら側に、豊かな美のイメージを持たせてくれる。さらに、いろいろと文学のことも想像させてくれる。原節子の映画「東京物語」などは、笠智衆の息子の嫁の役をやっていたが、ほんとうにほろりとさせられる。ドストエフスキーまで、オレの心の中に蘇ってくるのだから、これは相当にレベルの高い演技である。素のママではないからである。素でできるのだったら、俳優とはいえないだろうからねぇ。

民俗芸能として、芸者さんについてもこれから追求していきたい。なにしろ我々の世界は、何でも屋である。芸能ならば、何でもできる。なにもいかめしく畏まっている必要も無い。エライ学者さんで、ストリップの研究までしているセンセもおられるくらいの民俗芸能の世界である。だったら、いろんな可能性があるのである。対象は広く深い。

オレは、まだ60代である。そして亡父が、60歳、亡母が64歳で亡くなった。オレは両親の死んだ年齢を上回りたい。オヤジの死んだ年齢は上回った。お袋の死んだ年齢はもうすぐ超すはずである。そして、まだまだ長生きしたい。好きな民俗芸能を見て、写して、駄文を書いてまだ死なないのか?と言われるくらいに。それがオレの使命である。

生涯学習者として、である。

それには、きれいな芸能を見て生きていきたい。能もそうである。再来週の土曜日には、千駄ヶ谷の国立能楽堂に行く。高速バスに乗ってである。昔から昔から見たかった「百萬」である。興福寺からチケットを買った。やっとの思いであった。能と唯識学ということが、オレのベースにあるからである。百萬の女性主人公を見たら、オレはたぶん泣くだろうなぁ。我が子と生き別れになった若い白拍子の女性が、「思い」として伝わってくるだろうからである。

そしてその白拍子は、ミニスカートなんかはいていない。足も、腕も、うなじも見せない。隠されているのである。

「秘すれば花」なのである。

 

わかるかなぁ~、わっかんねぇだろうなぁ。見せたがりやのミニスカおね~ちゃんには。

どうでもいいことだけど。

 

じゃぁね~。

 

(^_-)-☆

 

 

 

 

 

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世の中はミセハラすらあるようです

2014年07月08日 13時06分52秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

ミセハラとは、見たくも無いものを・・・

 

 

時々というか、しょっちゅうというか、見たくもない光景にうんざりしている。欧州旅行に行って、ますます見たくもない光景にでくわしてきた。なんだか知らないが、うんざりを通り越して怒りまでこみ上げてきたのだった。それは、女性の格好にである。「秘すれば花」と書いたのは我が日本の能楽の大成者である世阿弥であるが、そんな精神性はまったく感じてこなかったからである。つまり、アピール度が非常に高いのである。あちら系の方々は。男性も女性も、露出度が高い。男の足など見たくもねぇが、女性の目も当てられないミニスカートや、半裸のシャツなどあれはいかがなものかと思って帰国した。

香水などの臭いのも、嫌悪感を持つけれども(これはクサハラである)、見たくもねぇ足を、あるいは半裸状態のタンクトップとか、あれは何なのだねぇと感じている。

セクハラというものが、受け身の形で当人が不快と思うからそうなのだと随分指導されてきたが、オレのようなじじいでも不快に思う現象がたくさんあるのだから、これはじじいに対するセクハラと一緒ですなぁと思っている。なんか勘違いしていないのかね。セックスアピールだと思ってやっているんだったら、オレはそれは違うと申しあげたい。

こんなことを書いていると、禁欲主義者とか云われてしまうが、そうではない。ちなみに禁欲主義者というのは、中国語で金魚というのだそうだが、勘違いの文化を持っていると国が滅ぶと思っているからである。ヴェルサイユ宮殿で、これと真逆の文化を見せていただいてきたが、アレじゃぁフランスは革命の洗礼を受けると感じてきたからである。細かくは書かない。日本の貴族文化に憧憬しておられる方々も多くいるだろうからである。源氏物語を専攻されている方もおられるからだ。

部分でもって、美的アピールをしていると思っておられるのであろうか。それとも、全体的な調和の美をもって美的アピールとしているのだろうかと、現代の若い女性を見ているとどっちなのだ?と思うことがある。目玉になんだか知らないが、でかいまつげをつけてそれでアピールになっていると思っておられるのだろうか。あるいは、できるだけ短いスカートでもって、部分としての美的アピールをしておられるのであろうか。チャイナドレスも感心しない。足を見せてそれでなんなんだと思うからである。もっとも、チャイナドレスというのは、満州族の衣装であって、中国伝統の服装ではないと聞いたこともある。清代以前の漢服の方が、中国らしくてなかなかいい。

だから、部分的なものを見させるという考え方が不思議でならないのである。

部分的なもので、アピールできるのだとしたら、オレは、ピクピク動くオレの胸筋をもってしてアピールできるってわけである。わらっちまうなぁ。

確かに、オレはTシャツを着て、gymに行っている。そして、トレーニングをした後は、胸筋を動かしてその日の体調を確認している。しかしである。オレは、オレ自身が胸筋でできているとは思っていない。あたりまえである。オレは、全体としてのオレであって、調和のとれた個を目指しているだけであるからである。

長いこと女子教育にも関わってきたから、世阿弥の「秘すれば花」という考え方には非常に納得がいくし、教育の基本であると思うからである。

あ、こんなことを書いているとますます孤独になっちまうなぁ~。どうでもいいけど。

 

(^_^)ノ””””

 

 

 

 

 

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7月7日(月)のつぶやき

2014年07月08日 06時46分52秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

長女のところに孫を見に行って、日帰りであったので疲れてしまった。朝、8時過ぎに起きてしまった。もっとも、真夜中は駄文を書いていたのであるが。駄文書きは、これから大学に行って図書館や、院生室でやっ... goo.gl/Ibm8ma


喪失体験はゴリラにもチンパンジーにもある

ある人から、国語の資料を作成せよと依頼されたので、七月中に完成を目指して鋭意努力している。参考資料は、いろいろとオレ... goo.gl/4ADGTj


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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/