『二人静』にあまりに感動したので、複数回に分けて感想を書こうとした。
前の記事を読み直してびっくり。
主人公の周吾が好きになった看護士さんの名前を「中野あけみ」と書いている。
誰?
しかも次の行では「あかね」とよび、さらにその後は「あかり」と書く。
関係者がごらんになったなら、なぐられそうな記事だ。
続きを書こうとして、2回目の読みに入ったらまたやめられなくなっているけど、やっとヒロインの名前を覚えました。
川越市郊外にある介護老人施設に勤務し、小学4年生の娘さんと新河岸の団地に住む「乾あかり」さん32歳バツイチ独身(まじツボだ!)です。
周吾とあかりが文中ででかけるファミレスは、川越街道沿いのジョナサン新河岸店と思われます。
続けて2回読むという、『1Q84』でもしなかった読み方をして思ったのは、この小説には事件はないということだ。
ドラマ性がないということではない。
老人介護施設への入所をいやがる父の説得、入所している老人たちとのいざこざ。トラブルがあれば、仕事をやりくりして川越にもどってこなければならない周吾。32歳は、やっと責任ある仕事を任され始める年齢だろうし、一方でもっとも自由に時間を融通できなくなる時期だと思う。そんななかで、休日には父を実家に連れて帰る大変さは想像するにあまりある。
夜11時半過ぎにバイトを終えた長女をお迎えにいき、翌朝、朝練の次女の弁当を5時起きでつくるなんて、なんでもないことだ。
あかりの、介護老人施設での仕事ぶりにはまた頭が下がる。
いろんなわがままをいう入所者たち。「便汚染」が続いたときの夜勤の様子。
他人とコミュニケーションがとるのが難しい娘と暮らし、そしてそんな二人の暮らしの背景には、元の夫が、いつか自分たちの居場所をつきとめて尋ねて来るのではないかというおそれがある。
そして、後半では実際にそのおそれていたことが起きる。
それでも、ここにあるのは、二組の親子の、たんたんとした日々の暮らしの積み重ねでもあるとも言える。
スーパーマンが現れて、トラブルを一気に全部解決してくれるなんて展開にはならない。
そういう意味で、リアルな現実が460頁積み重ねられれている。
周吾と父の恭三。
あかりと娘の志歩。
二組の二人暮らし。
周吾にとっての父、あかりにとっての娘は、古典で教える「ほだし」だと言える。通常「ほだし」は、「出家する願いを阻む存在」「自由を束縛するもの」とその意味を教える。
この説明だと言葉の「マイナスイメージ」が強調されてしまうのだが、「ほだし」は決してマイナスだけではない。その「ほだし」となる存在をもてない人たち、失ってしまった人たちの方が多い娑婆という存在があるから。
父も娘も、二人にとってはかけがえのない支えでもあるのだ。