横浜の野中先生が提唱される「『味噌汁・ご飯』授業」とは、教師が年間通して行う日常のごくふつうの授業を指す。
とかく授業研究というと、ある教材について莫大な時間を割いて研究し、その成果を研究授業の形で世に問う、という形がイメージされる。
でも、それは野中先生に言わせると「ごちそう授業」であって、毎日与えることも、食べ続けることもできないものである。
毎日普通に行う授業のあり方をこそ研究して形にしていくべきだという主張がそこにある。
先生のブログを読んでなるほどと思ってはいたものの、そこまでだった。
自分もそのいったんを担いたいなどとは思わなかった。
最近の野中先生がこう書かれている。
次のような授業の「基本形」を作りたいとおっしゃられているのだ。
~ たとえば回転寿司、ファミリーレストラン、ちゃんぽん(リンガーハットなど)などのチェーン店業界は、バイトで成り立っていると聞いている。
バイトの人が、充分食べ物を作ってお客様に出していくことができるのである。
それはきちんとしたマニュアルが備わっていて、それに従って作っていけば注文のメニューができあがる。
専門店のような味のメニューを作り出すことはできないが、普通に食べようとすれば、そこそこの味である。
きちんとしたマニュアルが決め手である。
私たちが準備しようとしているのは、そのきちんとしたマニュアルである。
それを「基本型」と言っている。 ~
えー、そんなー。学校の授業ってそんなんでいいんですか? と思ったあなた。
いらっしゃいますね、きっと。
外食産業と、授業とが同じにくくられていいのか、と。
私的には、ひさしぶりに「これだ!」と思った。
しばらく前に、教育学部に在籍して教員免許をとれるようになるのを、4年ではなく6年にしようという議論が国会でも行われていたはずだ。
教員を目指す人間が、大学生活を6年間過ごすことにはものすごく賛成する。
自分もそうだったし。
4年間ふつうに勉強してサークルもやって、5年、6年では教育実習より何か別の職種の現場で実習して、それから現場に出られるぐらいの時間はあってもいいと思う。
しかし、先日の6年制の議論のときは、大学のなかでよぶんに2年過ごすだけのような話ではなかったか。
現場での教員の仕事を教えられる大学の先生は、日本全国見渡してもほとんどいらっしゃらない。
それは、経済学の先生が企業での働き方を教えられないのと同じだから、別にしょうがない。
問題点をあげるとすれば、大学の先生のなかに、ご自身の理論が子供の前でそのまま通用すると考えてらっしゃる方がおられることだろう。
通用する場合もあれば、だめな場合もある。
それは理論そのものの正当性というより、誰がやるかの問題が大きい。
そういう「誰」をつくるのが大事なのだが、簡単にはいかない。
そんなふうに、立派な「誰」かしかなれないのだとしたら、たぶん先生のなり手は不足する。
だから、立派でなくても、カリスマでなくても、ふつうに大学を出てきて、学校の先生になろうという気持ちさえあるなら、あとはこれに従えば授業は成立するよという基本形はぜったい必要だと思う。
昔みたいに、何言っているのかはよくわかんないけど、でも先生の言うことだからちゃんと聴こうという感覚でみてくれる人々はいなくなった。
親も子も、「先生」という人種に権威性を認めない状況下で、授業までへたくそだったら、言うことをきいてくれるはずがない。
こと国語の授業でいえば、国語には正解がないとか、いろんな解釈があるとかいう神話があって、一方で国語はセンスだとか、本さえ読んでれば国語力がつくという都市伝説を信じる人もたくさんいる。
一定の日本語能力のある人なら、誰が教えてもそれなりの授業ができるという型が必要だ。
考えてみると、何事もまず型を身につけるところから始まる。
授業はその型を教えられる人が大学教育学部にはほとんどいず、民間の教育団体も、TOSS(教育技術法則化)以外には、ほんとにローカルに存在しているだけだ。
~ 人間教育である私たちの仕事に、このようなマニュアルは適しないと批判されるかもしれない。
だが、私たちが基本型として考えようとするのは、授業づくりの領域でのことである。
なぜ、それを考えようとするのか。
日常に耐えられる授業を作るためである。
「日常に耐えられる」というのは、短い時間にできるという条件が必要である。
多くの時間をかけないで、どんどん作っていくことができる、そういう条件である。
しかも、その基本型を何度も実践していくうちに、自分の力量として身につき、自分から教材研究と授業づくりができるようにしていくものである。
それが大きな目標である。 ~
なんかひさしぶりに、授業のあり方を考えてみたいと思う文章にであった。
とかく授業研究というと、ある教材について莫大な時間を割いて研究し、その成果を研究授業の形で世に問う、という形がイメージされる。
でも、それは野中先生に言わせると「ごちそう授業」であって、毎日与えることも、食べ続けることもできないものである。
毎日普通に行う授業のあり方をこそ研究して形にしていくべきだという主張がそこにある。
先生のブログを読んでなるほどと思ってはいたものの、そこまでだった。
自分もそのいったんを担いたいなどとは思わなかった。
最近の野中先生がこう書かれている。
次のような授業の「基本形」を作りたいとおっしゃられているのだ。
~ たとえば回転寿司、ファミリーレストラン、ちゃんぽん(リンガーハットなど)などのチェーン店業界は、バイトで成り立っていると聞いている。
バイトの人が、充分食べ物を作ってお客様に出していくことができるのである。
それはきちんとしたマニュアルが備わっていて、それに従って作っていけば注文のメニューができあがる。
専門店のような味のメニューを作り出すことはできないが、普通に食べようとすれば、そこそこの味である。
きちんとしたマニュアルが決め手である。
私たちが準備しようとしているのは、そのきちんとしたマニュアルである。
それを「基本型」と言っている。 ~
えー、そんなー。学校の授業ってそんなんでいいんですか? と思ったあなた。
いらっしゃいますね、きっと。
外食産業と、授業とが同じにくくられていいのか、と。
私的には、ひさしぶりに「これだ!」と思った。
しばらく前に、教育学部に在籍して教員免許をとれるようになるのを、4年ではなく6年にしようという議論が国会でも行われていたはずだ。
教員を目指す人間が、大学生活を6年間過ごすことにはものすごく賛成する。
自分もそうだったし。
4年間ふつうに勉強してサークルもやって、5年、6年では教育実習より何か別の職種の現場で実習して、それから現場に出られるぐらいの時間はあってもいいと思う。
しかし、先日の6年制の議論のときは、大学のなかでよぶんに2年過ごすだけのような話ではなかったか。
現場での教員の仕事を教えられる大学の先生は、日本全国見渡してもほとんどいらっしゃらない。
それは、経済学の先生が企業での働き方を教えられないのと同じだから、別にしょうがない。
問題点をあげるとすれば、大学の先生のなかに、ご自身の理論が子供の前でそのまま通用すると考えてらっしゃる方がおられることだろう。
通用する場合もあれば、だめな場合もある。
それは理論そのものの正当性というより、誰がやるかの問題が大きい。
そういう「誰」をつくるのが大事なのだが、簡単にはいかない。
そんなふうに、立派な「誰」かしかなれないのだとしたら、たぶん先生のなり手は不足する。
だから、立派でなくても、カリスマでなくても、ふつうに大学を出てきて、学校の先生になろうという気持ちさえあるなら、あとはこれに従えば授業は成立するよという基本形はぜったい必要だと思う。
昔みたいに、何言っているのかはよくわかんないけど、でも先生の言うことだからちゃんと聴こうという感覚でみてくれる人々はいなくなった。
親も子も、「先生」という人種に権威性を認めない状況下で、授業までへたくそだったら、言うことをきいてくれるはずがない。
こと国語の授業でいえば、国語には正解がないとか、いろんな解釈があるとかいう神話があって、一方で国語はセンスだとか、本さえ読んでれば国語力がつくという都市伝説を信じる人もたくさんいる。
一定の日本語能力のある人なら、誰が教えてもそれなりの授業ができるという型が必要だ。
考えてみると、何事もまず型を身につけるところから始まる。
授業はその型を教えられる人が大学教育学部にはほとんどいず、民間の教育団体も、TOSS(教育技術法則化)以外には、ほんとにローカルに存在しているだけだ。
~ 人間教育である私たちの仕事に、このようなマニュアルは適しないと批判されるかもしれない。
だが、私たちが基本型として考えようとするのは、授業づくりの領域でのことである。
なぜ、それを考えようとするのか。
日常に耐えられる授業を作るためである。
「日常に耐えられる」というのは、短い時間にできるという条件が必要である。
多くの時間をかけないで、どんどん作っていくことができる、そういう条件である。
しかも、その基本型を何度も実践していくうちに、自分の力量として身につき、自分から教材研究と授業づくりができるようにしていくものである。
それが大きな目標である。 ~
なんかひさしぶりに、授業のあり方を考えてみたいと思う文章にであった。