水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

君が代

2011年05月20日 | 日々のあれこれ

 「君が代斉唱時に起立しない教員は免職にする」法案を出した(出す?)大阪の橋下知事の話題は、一教員としてみると、意外と大きな騒ぎにはなってないように見える。
 学校の先生のささいなことなど話題にしていられる世の情勢ではないのが、一番の理由だろうか。
 むかしは、こんな話が出たら、蜂の巣をつついたように日本中の先生方が騒いだのではなかっただろうか。
 「勤評闘争」とまではいかなくても、国歌国旗法案が国会に出された十数年前、組合の先生方を中心に大きな反対の動きはたぶんあったと思うのだが。
 しかし、内面ではもう先生方のあつい思いはその時点でもうなかったのかもしれない。
 現実的に、政治的、思想的な問題にかかわっている余裕のない先生が多くなっていたから。
 目の前の生徒達が、「教師・生徒関係」を成立させる生徒でなくなっていく動きと、組合活動が下火になっていく流れとは重なっている。

 本校で禄をはむようになってすぐ、職員会議の場で「体育祭の国旗掲揚はやめてもいいんじゃないでしょうか」と発言したことがある。
 民主的な教師をきどったわけではないが、私立高校であえてやる必要があるのかという疑問を若き日のみずもち青年は抱いたのだ。
 「それは話し合って決めることじゃない、学園が決めることだ」と言われたと記憶してるが、なるほど、正しい手順である。
 その方針に心から賛同できないなら職場を去ればいいだけのことだ。
 心から納得できないものの、職を賭すほど重くは考えないなら、たとえ表面だけでも快く従うべきだ。
 だとしたら、法律で決められ、法にしたがった教育活動が求められている公立の学校では、決められたとおりにやるのが先生の仕事であるに決まっている。
 知識人とよばれる人のなかには、国歌国旗問題は懲戒権をふりかざして従わせるものではないと、橋下知事を批判する方もいらっしゃるだろう。
 でも橋下知事をそこまで強硬にさせている大阪の先生方の現状というのが想像されて、どちらかというと知事がかわいそうに思える。
 ちょうど、校則のきびしい学校ほど荒れてる学校であるのと同じ図式で。
 みずもち青年は、完全には納得できない気持ちを残しながらも、公立学校に採用してもらえなくてお世話になったこの学校の方針に当然従うことになる。
 歌唱指導の係にもなったから、「君が代」の指導もきちんとやった。
 ちなみに本校の校歌を自信をもって三番まで歌いきれるのは、世界中でおれ一人ではないだろうか。

 所沢高校での国旗国歌問題をめぐる対立は、国旗国歌法案が通ったころと同じ時期だ。
 所沢高校では、長年生徒会を主催とする自主的な入学式が行われていた。
 生徒の自主性を尊重する、伝統校ならではのありようだった。
 そこへ、新しく赴任してきた校長が、学習指導要領にしたがって、入学式では国旗掲揚、国歌斉唱を行うむね宣言する。
 学習指導要領自体に法的拘束力があることは、ずっと前から判例でもあきらかになっていた。
 だから、校長がそう言い出さなくても、本当は先生方がきちんとしたセレモニーを行うべきだったのだ。
 生徒会は当然反対する。所沢高校では、職員会も反対した。
 「校長VS生徒・先生」という図式になったこの問題は、地理的に近いこともあり、身近な事件として注目していた。
 「朝まで生テレビ」でも取り上げられる全国的な話題となり、新聞や雑誌にもしばしば記事が載った。
 生徒指導の研究会にでかけて、内情にくわしい先生にお話を聞いたりもした。

 けっきょくどう収束したんだっけ? この問題は。
 いま思うと、いやその時もうすうす気づいていたが、国歌国旗に反対する先生がたは、けっして生徒のためを思って反対していたのではなかった。
 ご本人の「つもり」はそうではなかったかもしれないが、第三者として彼らがとった行動を見るならば、生徒の自治を守るためよりも、思想信条の自由を守ることよりも、民主主義を守ることよりも、ご自身の対面を守るためのものであった。
 そういうことに反対できる自分、反対することで教師としての存在感を得、生徒からも民主的教師として扱われる、そういう自分を守る行動であった。
 だいたい「子ども達のために」とか「教育的に」という枕詞のつく議論は、そのほとんどがうさんくさい。
 コンクールの抽選のときに「生徒のことを考えて便宜をはかってほしい」とぬかす輩と同じと見ていい。

 公教育の場では、ほぼ同じ役割を担う私立の教員もふくめて、生徒の前に大人の代表として立ちはだからなくてはならないのは基本だ。
 自分の思想信条がどうあれ、従うべきことには従わなくてはならないと教えるのが仕事だ。
 それで個性が失われるとかいうなら、そんな程度の個性など本物ではない。
 それで失われる程度の「自分」なら、その程度のものだったのだと悲しめばいい。
 もっと大きなストレスは世の中に出れば日常茶飯時なのだから。

 ~ 刻下の国旗国歌論を徴する限り、ほとんどすべての論者は「法律で決められたことなんだから守れ」といったレベルの議論に居着いており、「国民国家の成熟したフルメンバーをどうやって形成するか」という教育的論件に言及することはまずない。by内田樹先生  ~

 法律問題にしないといけないのだと思う。
 学習指導要領の中から、こと国歌国旗の件だけを、別枠にしないといけないのはおかしい。
 まして一教員レベルが。
 問題があるなら、お上に言うべきではないか。
 われわれは指導要領に従ってやれと言われた内容を粛々と行うのみ。
 生徒のことを思って、ちょっと自主的に指導要領を逸脱してみたことがあったけど、さんざんな目にあった。
 知識人、評論家先生は誰も守ってくれなかった。

 ほんとうは橋下知事が言うような法律をつくらなくても、現行法の下で、教員は起立しなければならないのだ。
 なのにそれをしない先生がいる、しなくても税金から給料をもらい続けられるシステムがある。
 こういうシステムの弊害は、今回に震災で明らかになったお役所の論理とも重なる。
 今回の震災で、皇室と自衛隊がもしなかったならば、日本はいったいどんな悲惨な状況に陥っていただろうかと思うとき、若き日の疑問も氷解し、心から日の丸に頭を垂れたいと思いがわいてくるのである。

コメント (1)
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