ジャンルには完成する時期というものがあるのではないかと、GOGOカレーを食べながら(またですか)考えた。
昨日は、午前に指揮のレッスンを受けてぼろぼろになりながら、終わってすぐグリーン車を奮発して都内へ。
久喜から上野まで、日曜だと550円で王侯の気分にひたれて、快適だった。
乗り換えて御茶ノ水の駿台で入試問題の研究会に参加する。
御茶ノ水のGOGOカレーはのっとられてなかったので、いつもどおりロースカツヘルシーサイズ600円を食すが、やっぱこれだよなという濃さである。
はじめて金沢カレーを食べたのは、大学入学直前に入寮した日で、千成亭という寮生がみんな行く定食屋さんにでかけて、何を食べていいやらわからなかったので、とりあえずカレー330円を注文した。
銀の平皿にカレーと付け合わせの野菜。フォークがついてくる。ルーはこってりしている。
その後6年間の学生時代、いったい何皿食べただろう。
たしかに金沢市内で食べるカレーは、ある程度の共通点はあったと、今は思う。
それから十数年後、ご当地なんとかとか、B級グルメというムードにも支えられ、金沢カレーと称しておかしくないものを作り上げたのは、GOGOカレーさんであろう。
おそらく現在の姿が完成形で、だからこそ二匹目のどじょうを狙う人もでてくるが、二匹目以降が本家を超えるのは難しい。
本家をマネする形で勝負しようとする、その志のレベルで戦う前から勝負はついている。
そこから新しいメニューが創造されることはない。
ふと落語の世界を思うとき、古典落語とよばれるネタがほぼ完成して以来、新作とよばれるネタは山ほど作られているが、そのほとんどは作者である噺家さん一人のレパートリーにとどまっている。
たぶん落語というジャンルは、明治から大正、せいぜい昭和初期にかけてジャンルとしては完成してしまったのだ。
すぐれたプレーヤーはたくさん生まれているが、完成した時代の作品が常にメインであり、見た目も、興業形態も本質的にはそのころと何も変わっていない。
談志師匠が、このままの落語じゃだめだといくら語ったところで、実際にやっていることは、その才能あふれる弟子達も含めて、数十年前に完成した落語というジャンルそのものに変化を与えるようなものにはなっていない。
それが悪いというのではなく、完成してしまったジャンルとはそういうものだと思う。
だからこそ好きで聴きにいくのだし、喬太郎師匠の新作には心ひかれるけれど、じゃ文七元結やる?って言われたら絶対にそっちを聞きたいと思うだろう。
クラッシック音楽も同じだ。
こちらは、ネタは落語より少ないくらいだ。
演奏会にお客さんをよぼうと思ったら、プロもアマチュアも、ベートーベンやチャイコフスキー、せいぜいモーツァルト、ブラームスで、ちょっとひねったプログラムとか現代音楽をいれたら、しかも国内のオケの場合、ほんとに好きな人しか来なくて、経営的に苦しくなるだろう。
つまり、それほど19世紀に完成してしまったジャンルなのだろう。
吹奏楽はどうだろう。
うまく言えないが、ジャンルとしての完成を拒み続けているジャンルという気がする。