学年だより「y=f(x)」(2)
やると決めたことはやるのだ。じゃ、いつやるの? 今でしょ。
誰がやるの? 君でしょ! じゃ、どれくらいやるの? 100でしょ!!
基本の単位は100である。
昔から「裁縫を覚えたければ雑巾を100枚縫え」とか、「読書百編、義自ずから通ず」とか言う。 何かを身につけようとする時には、「100」が最低の単位であることを私たちの先祖は感覚的に知っていた。
英語の長文読解力をつけようと決めたら、とにかく100題解いてみる。
シュート練習を一日100本、100日続ける。
思ったとおりの結果が出ない時に、すぐにやり方を変えたり、ちがうものに手を出したりせずに、最低100単位の積み重ねをしなければならない。
100の単位をクリアした時には、新しい世界がかすかに見えてくる。
100の単位をクリアしないと、それが正しいのかそうでないのかも実はわからないのである。
たとえば、部活をイメージしてみてほしい。
練習を積むことによって、筋力がつき、技が身に付き、上達していく。
しかし、しばらくするとスランプかなと思われる状態になる。
そこを、ふんばって練習し続ける。苦しくてもがんばって乗り切っていこうとする。
すると、ある時にふと、できなかったことができるようになっている自分に気づく。
それどころか、試合の中で、まったく想像もしてなかったようなプレーができてしまう。
こういう時、「fそのもの」が変化してるのだ。
「x」を入れ続けることによって、それにふさわしい容れ物になるように人は変わる。
内田樹先生の次の表現も、この「f」の変化のことを述べている。
~ 知的パフォーマンスの向上というのは、「容器の中に詰め込むコンテンツを増やすこと」ではないからである。
容器の形態を変えることである。
変えるといっても「大きくする」わけではない(それだとまた一次方程式的思考である)。
そうではなくて、容器の機能を高度化するのである。
問題なのは「情報」の増量ではなく、「情報化」プロセスの高度化なのである。 (内田樹『邪悪なものの鎮め方』木星叢書)
「fそのもの」が根本的に変化した場合、予想もしなかったパフォーマンス「y」がうまれる。
身体の関数が変わるのだ。
勉強でも、部活でも、高校生活の途中で突然変化をとげる生徒を、これまで何人も見てきた。
共通していたのは、素直にやる続ける子たちだったということだ。