一昨日一日練習しても、まだ休みが残っているなんて、週休二日の学校さんはこんなに余裕のある暮らしをしているのかと感じた昨日は、指揮のレッスンをうけ、辛味噌ラーメンをいただき、映画を一本観るという優雅な一日をすごさせていただいた。
ちなみに久喜総合文化会館の近くにある味噌ラーメン専門店「北の国もっけい」さんは、ハイレベルな一杯を供する。もやしと挽肉を炒める作り方も、西山製麺のちぢれ麺も、自分の好みの一杯となる要素をほとんどクリアしている。アンコンの帰りに寄って、ここも美味しいなあと思いながら、心のどこかで「みかみ」を求めている自分がいる。あの辛さが、あの悪魔的な濃さがほしいと思ってしまう。どこかでラーメンを食べるほど「みかみ」に行きたくなるなんて、もはや恋愛感情にも似たとらわれ方をしてしまっているのかもしれない。
満腹と満足とはちがう。それも恋愛と同じかもしれない。
夕方、「清洲会議」へ。
さすがに日曜だけあって、南古谷ウニクスにもそれなりにお客さんが入り、笑い声もおこっていた。
三谷幸喜さんらしい作品だ。
登場人物のすべてが色濃くキャラづけされ、誰もが人として愛おしい存在として描かれている。
結果的にやや冗漫に見える部分もあるが、それは自分にとっては必然に見えた。
小説でいえば宮部みゆき作品のような必然的冗漫さだ。
自分にちって羽柴秀吉と言えば火野正平であり、明智光秀と言えば近藤正臣である。
ふるいよねぇ。どんだけってかんじでしょ。「黄金の日々」の緒形拳も味わい深かったが。
小学校時代に大河ドラマですりこまれたイメージはそれほど強烈だ。
そのイメージを揺るがすぐらい、大泉洋の秀吉はキャラ立ちしていた。
ものすごく目新しい秀吉像とは感じない人も多いと思うが、自分の才能を存分に発揮するためにどうすれば最善なのか、それを徹底的に考え実行した人物に見えた。
自分の才能に正直であり、誠実な姿だ。
ほんとにそんな人だったかどうかはわからないし、たぶん違うと思うけど、こういう人物を造形したいという思いをぶつけるのが作品なのだから、それでいいのだ。
そんな秀吉を見て、佐藤浩市が小日向文也に語るセリフがある。
「天はわれわれに天下人になる器量を与えなかったが、天下人になる人物を見極める目を与えてくれたのだ」
人には分がある。
その分を自覚することも、自分の能力をいかした人生を送ることができるかどうかとい点で大事だ。
役者の道をあゆもうとして、自分にその天分はない、でも本を書く方なら … と若いころ考えたに違いない(と思うんだけどなあ)三谷氏の思いも重なる。
役者さんの天賦の才能を大切にしようとした結果の脚本という意味で、充実した作品だった。