寝る前に、部屋のカーテンをそっと開けてガラス窓越しに富士を見る。月のある夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立っている。〈 Ⅰ私はため息をつく 〉。ああ、富士が見える。星が大きい。あしたは、お天気だな、とそれだけが、かすかに生きている喜びで、そうしてまた、そっとカーテンを閉めて、そのまま寝るのであるが、あした、天気だからとて、別段この身には、なんということもないのに、と思えば、おかしく、一人で布団の中で苦笑するのだ。苦しいのである。仕事が、――純粋に運筆することの、その苦しさよりも、いや、運筆はかえって私の楽しみでさえあるのだが、そのことではなく、私の世界観、芸術というもの、明日の文学というもの、いわば、新しさというもの、私はそれらについて、いまだぐずぐず、思い悩み、誇張ではなしに、身悶えしていた。
素朴な、自然のもの、したがって簡潔な鮮明なもの、そいつをさっと一挙動でつかまえて、そのままに紙に写し取ること、それよりほかにはないと思い、そう思うときには、眼前の富士の姿も、別な意味を持って目に映る。この姿は、この表現は、結局、私の考えている「単一表現」の美しさなのかもしれない、と少し富士に妥協しかけて、けれどもやはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口しているところもあり、これがいいなら、ほていさまの置物だっていいはずだ、ほていさまの置物は、どうにも我慢できない、あんなもの、とても、いい表現とは思えない、この富士の姿も、やはりどこか間違っている、これは違う、と再び思い惑うのである。
そのころ、私の結婚の話も、〈 a一頓挫 〉のかたちであった。私のふるさとからは、全然、助力が来ないということが、はっきりわかってきたので、私は困ってしまった。せめて百円くらいは、助力してもらえるだろうと、虫のいい、独り決めをして、それでもって、ささやかでも、厳粛な結婚式を挙げ、あとの、所帯を持つにあたっての費用は、私の仕事で稼いで、しようと思っていた。けれども、二、三の手紙の往復により、うちから助力は、全くないということが明らかになって、私は、途方に暮れていたのである。このうえは、縁談断られてもしかたがない、と覚悟を決め、とにかく先方へ、事の次第を洗いざらい言ってみよう、と私は単身、峠を下り、甲府の娘さんのお家へお伺いした。幸い娘さんも、家にいた。私は客間に通され、娘さんと母堂と二人を前にして、悉皆の事情を告白した。時々演説口調になって、〈 b閉口した 〉。けれども、わりに素直に語り尽くしたように思われた。娘さんは、落ち着いて、
「それで、おうちでは、反対なのでございましょうか。」
と、首をかしげて私に尋ねた。
「いいえ、反対というのではなく、」私は右の手のひらを、そっと卓の上に押し当て、「おまえ一人で、やれ、という具合らしく思われます。」
「結構でございます。」母堂は、品よく笑いながら、「私たちも、ごらんのとおりお金持ちではございませぬし、ことごとしい式などは、かえって当惑するようなもので、ただ、あなたお一人、愛情と、職業に対する熱意さえ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。」
私は、お辞儀するのも忘れて、しばらく呆然と庭を眺めていた。目の熱いのを意識した。〈 Ⅱこの母に、孝行しようと思った 〉。
問一 傍線部a「一頓挫」の意味として最も適当なものを選べ。
ア 途中でうまくいかなくなること
イ 予想と異なる展開になること
ウ 方法が見つからず途方にくれること
エ 周囲の協力が得られなくなること
問二 傍線部b「閉口した」の意味として最も適当なものを選べ。
ア 対応を考えあぐねた
イ 自分にがっかりした
ウ 手に負えなくて困った
エ 思い通りの言葉が出なかった
問三 傍線部Ⅰ「私はため息をつく」とあるが、なぜか。その理由を説明せよ。
問四 傍線部Ⅱ「この母に、孝行しようと思った」とあるが、なぜか。その理由を説明せよ。
〈こたえ〉
問一 ア
問二 ウ
問三 虚飾のない圧倒的な富士の美しさを目にして、
通俗を否定し新しい文学表現を生み出そうとする
自分の信条が揺るがせられたから。
問四 世間的な体裁や常識にとらわれず、
「私」個人に全幅の信頼を寄せて縁談を進めようとしてくれる母堂に
深い感謝の念を抱いたから。