学年だより「声かけ力(2)」
ユニバーサルマナー研修の講師である岸田ひろ実氏が、車椅子での生活を余儀なくされるようになったのは、40歳の時だった。
2008年1月、勤務する整骨院の新年会にでかけようと身支度していたとき、突然胸に衝撃がはしった。苦しさというより、怖くて身動きがとれなくなる。子ども達の前では平静を装って救急車をよび、病院で検査を受ける。心臓の太い血管が破裂してはがれていく、大動脈解離の疑いが強いと言われた。発症からの致死率は50%、搬送中に亡くなることも覚悟してほしいと言われ、手術のできる病院に向かう。
「手術をしても命が助かる確率は2割あるかないかですが、手術を同意いただけますか」
高齢の母親と、高校2年生の娘、奈美さんは、別室で医師の説明を受けていた。
「ママを助けてください。お願いします」
7時間超の手術は成功して一命をとりとめたものの、下半身の機能は全く失われた。
術後一週間経っても身動きできない状態で、岸田さんは、自分のこと以上に子ども達のことを考えていた。
年ごろを迎えた長女。障害をもつ長男。
奈美さんに続いて誕生した長男の良太くんは、ダウン症だった。
家族4人で支え合い、同じ障害をもつこどもを育てる家族とのつながりをもちながら、明るく暮らしてきた。会社をやめて独立した夫の事業も軌道に乗り始める。
ところが、そんな夫が2005年、心筋梗塞で急死する。
茫然としながら、いつまでも悲しんではいられない、何より食べていかねばと働き続け、家事を行い、長男の世話をし、毎日の睡眠時間は4時間程度だった。
そんな暮らしがよくなかったのかと反省しても、どうにもならない。
「これからどう生きていけばいいのか」と思い悩む母を、娘が連れ出す。
「車椅子に乗ればどこでも行けるから」と。
そうして街に出て驚いたのは、あまりにも動きがとれないことだった。ほんの少しの段差で目の前にある店に入れない。気がつくと「すいません、すいません」と周囲に謝ってばかりいる。
~ 「車いすがあればなんとかなるって言ったって、現実はなんともならないじゃない……」
込み上げる感情を押し殺して、私は俯(うつむ)きました。
ようやく車いすで入れるレストランを見つけて席につくと同時に、「もう無理」と初めて奈美の前で泣き崩れました。
「こんな状態で生きていくなんて無理だし、母親としてあなたにしてあげられることは何もない。 もう死にたい。お願いだから、私が死んでも許して」(岸田ひろ実『ママ、死にたいなら死んでもいいよ』致知出版社) ~
感情のままに言葉をぶつけてしまい、しまったと思う。父親を亡くし、母親が倒れ、一番つらいはずの娘に向かって、自分はなんてことを言ってしまったのか、と。