問1の漢字は、例年よりやさしめ。難関中学入試レベルかな。
(ア)丹念 ①一旦 ②鍛錬 ③丹精 ④担架 ⑤破綻
(イ)漠然 ①麦芽 ②砂漠 ③呪縛 ④爆笑 ⑤幕末
(ウ)響く ①供給 ②逆境 ③協定 ④影響 ⑤歩道橋
(エ)頻出 ①品質 ②海浜 ③頻繁 ④来賓 ⑤貧弱
(オ)圧倒 ①逃避 ②傾倒 ③唐突 ④周到 ⑤糖分
第一段落(1~4)
1 僕は普段からあまり一貫した思想とか定見を持たない、いい加減な人間なので、翻訳について考える場合にも、そのときの気分によって二つの対極的な考え方の間を揺れ動くことになる。楽天的な気分のときは、翻訳なんて簡単さ、たいていのものは翻訳できる、と思うのだが、悲観的な気分に落ち込んだりすると、翻訳なんてものは原理的に不可能なのだ、何かを翻訳できると考えることじたい、言語とか文学の本質を弁えていない愚かな人間の迷妄ではないか、といった考えに傾いてしまう。
2 まず楽天的な考え方についてだが、翻訳書が溢れかえっている世の中を見渡すだけでいい。現実にはたいていのものが――それこそ、翻訳などとうてい不可能のように思えるフランソワ・ラブレーからジェイムズ・ジョイスに至るまで――見事に翻訳されていて、日本語でおおよそのところは読み取れるという現実がある。質についてうるさいことを言いさえしなければ、確かにたいていのものは翻訳されている、という確固とした現実がある。
3 しかし、それは本当に翻訳されていると言えるのだろうか。フランス語でラブレーを読むのと、渡辺一男訳でラブレーを読むのとでは――渡辺訳が大変な名訳であることは、言うまでもないが――はたして、同じ体験と言えるのだろうか。いや、そもそもそこで「同じ」などという指標を出すことが間違いなのかも知れない。翻訳とはもともと近似的なものでしかなく、その前提を甘受したうえで始めて成り立つ作業ではないのだろうか。などと考え始めると、やはりどうしても悲観的な翻訳観のほうに向かわざるを得なくなる。
4 しかし、こう考えたらどうだろうか。まったく違った文化的背景の中で、まったく違った言語によって書かれた文学作品を、別の言語に訳して、それがまがりなりにも理解されるということじたい、よく考えてみると、何か奇跡のようなことではないのか、と。翻訳をするということ、いや〈 翻訳を試みる 〉ということは、この奇跡を目指して、奇跡と不可能性の間で揺れ動くことだと思う。もちろん、心の中のどこかで奇跡を信じているような楽天家でなければ、奇跡を目指すことなどできないだろう。「翻訳家という楽天家たち」とは、青山南さんの名著のタイトルだが、〈 A翻訳家とはみなその意味では楽天家なのだ 〉。
1~3
僕 → 翻訳
A 楽天的気分 たいてい翻訳できる
現実にある
↑
↓
B 悲観的気分 原理的に不可能
近似的なものでしかない
4まったく違った文化的背景・言語
↓ 翻訳
理解されること
∥
奇跡のようなこと
翻訳をする(A1)
↑
↓
翻訳を試みる(A2) A2=A1+B
∥
奇跡を目指して、奇跡と不可能性の間で揺れ動くこと
↓
翻訳者……奇跡を信じる楽天家
∥
翻訳家とはみなその意味では楽天家なのだ。
Q「翻訳を試みる」とは、この場合どうすることか。50字以内で記せ。
A 本来翻訳は原理的に不可能かもしれないと思いながらも、
理解してもらえる可能性を信じ試行してみること。
いきなり選択肢を解くのではなく、自分で正解を記述してみてから選択肢を見る勉強法は、より実力をつけることが可能だ。
高校1年が受験する新テストで、評論を用いて記述が出題される可能性があること考えれば、積極的に、というかむしろこっちをちゃんとやるべきかもしれない。
記述で解かせてみたあとに選択肢をみるなら、より正しく選べるはずだ。
問2 傍線部A「翻訳家とはみなその意味では楽天家なのだ」とあるが、どういうことか。
① 難しい文学作品を数多く翻訳することによって、いつかは誰でも優れた翻訳家になれると信じているということ。
② どんな言葉で書かれた文学作品であっても、たいていのものはたやすく翻訳できると信じているということ。1だけ
③ どんなに翻訳が難しい文学作品でも、質を問わなければおおよそのところは翻訳できると信じているということ。A1だけ
④ 言語や文化的背景がどれほど異なる文学作品でも、読者に何とか理解される翻訳が可能だと信じているということ。A2
⑤ 文学作品を原語で読んだとしても翻訳で読んだとしても、ほぼ同じ読書体験が可能だと信じているということ。 ナシ
①・⑤は話題がずれている。
②・③はA1の純粋に楽天的な要素のみ。
「奇跡を信じるのが翻訳家」という内容がふまえられているのは、④だけ。