今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

和食作法は変わるべきかなぁ

2013年11月23日 | 作法

和食の作法が危機を迎えている。
和食の作法は、室町時代に本膳料理をベースにして完成し、今に至っている。
それは、ご飯を中心に、汁物とおかずたちとの往復運動をする。
最初に箸をつけるのも、本当は「ご飯」なのだ(私はやらないけど)。

この作法の思想は、「ご飯中心主義」である。
米に対する特別な敬意が根拠になっている。
米(稲)は食物の中で別格で、神にもっとも近いのだ。
神事にあるように、米の飯を食べ、米の酒を飲むのは神との”饗”(あえ)を意味する。
いいかえると、数々のおかず(菜)は、ご飯を進めるための添え物でしかない。

和食の危機とは、ご飯食の危機のこと。
すなわち、ご飯中心主義的食べ方が、栄養学的見地から否定されはじめている。

健康によい食べ方とは、
まず、生野菜などで繊維質をとり、
つぎに肉などのたんぱく質をとり、
最後にご飯などの糖質をとる。
大切なのは、これらの順序と、それらを”別々”に摂ること。
決して、交互に食べてはいけないという。

この食べ方は、和食の作法の否定にほかならない。

いいかえれば、和食の作法は栄養学的には根拠がない。
むしろ、それに反する。

食事作法の根拠は、栄養学と稲作信仰のどちらに置かれるべきか。
作法家は重大な問題に直面している。

実を言うと、この私(小笠原宗家礼法総師範)も、今では栄養学的な食べ方を実践している。
ひとりの人間として、米への敬意より自らの健康を重視するからだ。

価値観の変遷に対応しなくてはならない。
それならば、まずは和食自体が、ご飯中心主義から脱する必要がある。
和食自体が、脱・ご飯中心主義を具現する内容に変化する必要がある。
そうすれば、その”食べ方”も追随せざるをえない。
まずは、おかずはご飯と一緒に食べるものでなくなるので、
味付け(塩分)を薄くしていい。

服装が変われば、それに追随してあるべき所作も変わったように、
作法とは、より上位に位置する”生活スタイルの変化”に対応するものなのだ。