今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

冬を追う行事…

2016年02月03日 | 歳時

立春の前日の”節分”は、文字通り”季節の分かれ目”を意味し、つらい冬に別れをつげ、待ち焦がれた新しい春を祝う行事だ。
すなわち立春が正月元日であった大昔の名残りであり、”新春”を迎える前日の大晦日の追儺(ツイナ)・鬼遣い(オニヤライ)の行事だった。

この日家の入口に備える柊は、正月の門松そしてクリスマスツリーの柊と同じく冬にも緑をたたえる常緑樹の生命力に魔除けを頼んだもの。

そういう意味では、冬を追い払うという意匠こそ、この日の行事にふさわしい。
いいかえれば、その意匠にそぐわないもの、すなわち時を実感する”歳時”の喜びや敬意の表現でないものは、文化としての価値を見いだせない。

鬼を豆で追い払う行事は、まさに”追儺・鬼遣い”に由来しており、鬼=冬をみなせば納得はできるが、鬼が最後はいつもやっつけられるという出来レースがイベントとしてつまらない
もっとも、大きな寺社でやる(有名人を招いての)豪勢な豆まきは、参拝者の些細な物欲を刺激してそれなりに盛り上がるが、その物欲に翻弄された自分に後味が悪い。

正月は、かつては恵方参りをしたものだから、”恵方巻き”はそれと関連するとはいえるが、そもそも恵方など六曜と同じく現代人が考慮する必要がない迷信(迷信は存在への敬意ではない)。
それに大阪の花柳界が発祥というその振る舞いに品がない(お座敷の戯れ事のよう)。
少なくとも武家礼法とは無縁だから私はマネしない。

夕方、スーパーに行き、大量廃棄が目に見えている”恵方巻き”狂騒曲に辟易しながら素通りし(太巻きは嫌いでないのだが、今日だけは意地でも買わない)、せめて福豆だけでも買おうかと思ったが、売っている袋は私には多すぎる袋ばかり。
そもそも自分の歳の数だけでも多すぎて食べきれず、ましてや家の中から外に向って、大声を上げながら盛大に豆を投げる人など私を含めて近所には誰もおらず、また明日以降は福豆には一切関心がなくなることも目に見えているので、何も買わずに帰宅した。

春を迎える重要な日なのに、”旧正月”に匹敵する日なのに、 子どもじみた豆まきとインチキ臭い恵方巻きしかないのが哀しい。