NHK大河「真田丸」の後、そのままテレビをつけていたら始まったNHK特集「終わらない人、宮崎駿」に思わず見入ってしまった。
短編の試作に見せた氏の生命(毛虫)の動きに対するこだわりがすごかった。
論文原稿の締め切りを前にした私自身が、その妥協しない姿勢に叱咤されたようで、思わず襟を正した。
そして、人工知能による CGアニメのプレゼン(身体の一部が欠落した人体の不気味な移動)に対して、身障者の知人の例を挙げての批判が心にしみた(ただし身障者差別だとかいう通俗的正義感によるものではない)。
氏のこだわりの根底にあるのが、そして人工知能技術に完全に欠落しているのが、”存在”という奇跡的な現象に対する敬意だとわかったからだ。
存在に対する敬意が、その表現が、われわれに感動を与えるのだ。
人工知能が使えるとしたら、どうでもいいつなぎの部分だけだろうが、作品の全てに妥協しないアーティストにとってはそういう部分は存在しない。
宮崎氏の目指すアニメは一瞬一瞬において”存在”が具現されている。
その具現があればこそ、ピクサーのフルCGに負けない感動をもたらしている。
というわけで、宮崎氏は彼なりに”存在”の探究をしているのだなと、私自身のこだわり(ハイデガーによって開かれた存在論)にかこつけて解釈した。
ちなみに、その存在論は、古東哲明氏の『在ることの不思議』『瞬間を生きる哲学』 に敷延されている。
特に後者の書はアニメ作品に通じる(ただし前者を先に読まないと、軽い内容と思われてしまう)。