今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

あなたにも確定申告を勧める理由

2020年03月04日 | 生活

確定申告の期限が今年は1ヶ月延びたものの、事業者が同時に作成する事業税の申告が延長されないので、旧期限内に作成し提出してきた。

私は一応、個人事業者として申告しているが、普通の給与所得者にとっても確定申告すると税が還付されることがあるので、他人事と思わない方がいい。

"還付"ときいてもピンと来ないかもしれないが、要は(数万円の)”お金をもらえる”ということ。

給与所得者に対して国は、皆さんの給与から源泉徴収という名の税金の”天引き”をして、請求があったら還付するというスタンスなので、あえて請求しないと、余分に税が取られた状態を放置したことになる。
国民は、納税が義務だが、余分に納税する必要はない。
確定申告するということは、もらえるお金(実は払いすぎた納税額)をもらう手続をするということだ。

では還付の可能性を考えてみよう。
まずは、医療費。
私のように持病もち(高血圧と眼圧が高め)で定期的に通院して毎日の薬を処方されていると、3割負担であっても年で数万円になる(ほかにドラッグストアで買う医薬品や通院の交通費も入る)。
そして、高齢の親を扶養しているなら(ここでまず扶養控除が発生)、
親の医療費(後期高齢者なら1割負担だが)も合算できる。
普通、高齢になるほど医療費がかかり、母は私の倍以上の医療費を支払っている。
そうすると、毎年、医療費控除のボーダーラインである10万円を超える。
10万円を超えた額がそのまま控除額(収入から差し引かれる)になる。

さらに個人で入っている生命保険の控除、あるいは寄付をしている場合の寄付金控除もある。
「金持ちは税金対策のために寄付をする」ということを聞いたことがあるだろう。
金持ちでなくても、誰でも寄付をすれば、もらった側は喜んでくれるし、こちらも節税になるのだから、win・winだ。
この制度を利用して、災害被災地や世界中の貧しい子供たちに皆がどんどん寄付をすればいいと思っている。

昔は、確定申告は、自分で計算して書類に記入したので、慣れない人には敷居が高かったが(普通の事業者は、税理士にお願いしていた。私も実際毎年3月はこれがストレスだった)、今は国税庁のサイトで入力すれば、自動で計算し、申告書を作成してくれる。
さらに、スマホで計算・提出できるようになったので、もっと敷居が低くなった(私はパソコンで作成し、印刷して提出)。
もっとも最初はいろいろ判断に困るだろうから、初回は税務署に行って税理士による無料の納税相談を受けるといい。
給与所得者の場合は複雑でないので、翌年以降は自分で判断できる。

税務署は税を天引きしてそのままなので、確定申告していないのに税務署側がご丁寧に個々人の納税額を計算して、還付金を返すための電話をかけてくることは、絶対にない。
だから確定申告をしている者は、振込め詐欺のこの手口に引っかからない。
税務署からわざわざ電話がかかって来る時は、たいてい足りない税金の催促だ。
だから確定申告をしている者は、税務署から電話がかかってくると、ドキッとする。


信州松本:小笠原氏史跡旅8

2020年03月04日 | 小笠原氏史跡の旅

 信濃の国主時代

貞宗―政長―長基―長秀―政康、持長―清宗―長朝―貞朝―長棟―長時―貞慶―秀政―忠脩-忠政

2006年2月,  2007年4 月

明治以降の長野県の県庁所在地は長野市だが明治以前の信濃の国府がおかれていたのは松本市
だから信濃守や信濃守護となった小笠原氏は当然ここと縁ができるのだが、特に「守」の頃は現地には赴かず京都に居住していた。
貞宗以降は実質的な領地経営のため現地にも居館をもった。
ただ信州には伊賀良(飯田)にも昔からの拠点があったため、伊賀良に残った一族もあった。


井川城

小笠原流礼法の開祖貞宗(7)の居館であったという井川城跡は、松本市内の小笠原氏関係では最も古い史跡。
信濃国守護となった貞宗は、建武年間(1334‐38)居館を伊賀良(飯田)の松尾から府中(松本)南郊の井川に移した。
あるいは、すでに貞宗の嫡子政長(8)は1319(元応1)年井川で生まれたという(笠系)。

現在でも、この付近は「松本市井川城」という地名になっている。
ただし城趾の場所は地図にのってないので探すのに苦労した。
「井川城」という地名に見当をつけた所まで行って、ここから先は地元の人に尋ねるしかない。

地図に載っている神社(井川城2丁目)の向いに、おいしそうなそば屋があったのでそこで昼食(おいしかった)をとり、主人に丁寧に場所を教えてもらい、畑の真ん中にある古墳のような井川城跡を見つけた(写真)。
そこには解説板などはあるが、とにかく観光名所ではないので見つけるのがわかりにくい(番地でいえば、井川城1-8 付近)。

周囲にあるまっすぐな川は当時の館の堀の跡らしく、敷地は広大だったようだ。
古墳状の丘に上がれば、そこに祠が建っている。
周囲は宅地化しているが、東に美ケ原高原を望むわれらが貞宗公の居館跡に立てば、感慨はひとしお。


深志神社

松本市の中心部「深志」にある深志神社は、信濃守護となった小笠原貞宗が、諏訪明神を勧進して建てたという。
また後に京都北野天満宮より天神菅原道真公も勧請された。

松本駅から徒歩圏内なので松本城か筑摩神社の途中に立寄ればよい。
結婚式場などがあり、社殿も塗装が新しい。
場所柄、初詣などには地元の参拝者で賑わうだろう。
社殿の左側の敷地に小笠原長幹(30)揮毫の碑があった(写真)。
それによると秀政(19)がこの神社を修復したらしい。

深志神社
長幹揮毫の碑

三議一統

貞宗以降、礼書の編纂が活発になる(貞宗作とされる礼書に関しては→貞宗と赤澤氏)。
貞宗の孫長基(9)は『馬術十六匹二十八匹之書二本』と、その嫡子長秀(10)の質問に答える『弓馬之百問答』を編したという(笠系)。
だがこれらは現在伝わっていないようだ(貞宗あるいは長秀による『弓馬問答』なる書は伝わっている。
また実物は未確認だが、伊豆木小笠原資料館に『弓馬百問答』なる書が保管されているらしい)。

その長秀は1396(応永3)年『三議一統当家弓法集』12巻をまとめたという。
この書こそ小笠原惣領家にとって礼法のバイブルとなっている。

ちなみに伝書(異本)によっては『三議一統』の「議」ではなく「儀」や「義」を用いたものがあるが、小笠原・伊勢・今川の“家が論してつにべる”という意味で『三議一統』が正当(惣領家・赤澤家ともにこちら)。

ただし「弓馬の法に於ては長基独り之を撰す」(家譜)とある。
逆に言えば礼法に関しては伊勢・今川家のものも参考にしたことになるか。

貞宗と礼書との関係を蒸し返すと(→貞宗と赤澤氏「書かれる前の礼法」)、貞宗が礼法を制定し、そのひ孫の長秀がテキスト化したという、この時間差こそ納得できる。

その『三議一統』に関しては、江戸時代の伊勢貞丈を始めとして成立過程に否定論が出ているのは有名(伊勢氏の該当者が実在しない)。
ただ異説として、小笠原長秀・今川範忠・伊勢貞行(実在した)の三人が定めた(南方紀伝)、あるいは後の長時(17)が流浪中閑暇のあまり同家相伝の給法を改判したものともいう(故実拾遺)。
個人的には最後の説にも興味あるが、小笠原流礼法においての古典的価値は変わらない。

ちなみに長秀は信濃守護としては、国人たちとの争いに破れ(大塔合戦)、守護職を解かれるなどの不適任レベルだった。

また長秀の次の当主政康(11)も『当家糾法大双紙』16巻をまとめており、これは豊津の小笠原文庫に現存している(後に翻刻に取り掛かる際、偽作と断定した)。
政康はさらに甲斐の山小笠原の長清寺の隣に寺を建て、深志の筑摩神社本殿を再建するなど、小笠原流のアイデンティティの確認に意欲をみせたが、彼の死をきっかけに、小笠原一族にとって大混乱が発生する(→伊賀良の鈴岡城の項参照)。


筑摩神社( つかまじんじゃ )

同じ神社でも小笠原氏にとっては、東方の県(あがた)の森にあるこの神社の方が大切。
筑摩神社は794(延暦13)年、石清水八幡宮より勧請を受けて創建したというから、小笠原氏どころか清和源氏よりも古い。

信濃国府の松本遷府以後は「国府八幡宮」と称し、信濃守護として入ってきた小笠原氏は当然、氏神として崇敬した。
本殿は1436(永享8)年に焼失した後、1439(同11)年に小笠原政康(11)により再建された。
その室町時代の本殿が現存してあり、国の重要文化財(旧国宝)になっている。

それにしても政康って小笠原家のアイデンティティを大切にした人だ(史跡の旅を通じて、私の中では歴代惣領の中で政康の株が一番上昇した)。
政康の活躍は小笠原氏の枠を越え、関東で起きた関東管領上杉禅秀の乱(1423-24)、鎌倉公方足利持氏の永享の乱(1438-41)の平定に活躍し、従三位・中将となった。

本殿の正面には左右に2体の神像が置かれている。
木の塀に囲まれているため本殿には近づけないが、カメラのズームで見るとこれらもけっこう精巧。
八幡宮だから像は神功皇后と武内宿禰だとか。
また神社の境内になぜか銅鐘があるのだが、これは既に廃寺となった筑摩神社別当寺の安養寺の梵鐘で、1514(永正11)年「小笠原長棟の寄贈」と陰刻にあり、市の重要文化財となっている(鐘楼は金網に覆われて鐘に近づく事はできない)。

広い境内には、社務所はあるが人の気配はなく、訪れる人が少なそうなやや荒れた雰囲気。
松本市民にとっては小笠原氏は「おらが殿様」ではないんだろうな(むしろ武田信玄を歓迎しているようだ)。

重文の本殿
本殿扉前の神像
銅鐘(右手前)と本殿(左奥)

林城趾

美ケ原温泉と広沢寺の間にある大規模な山城で小笠原城ともいう。
貞宗(7)から長時(17)まで使っていたというが、実際には伊那(松尾・鈴岡)勢との抗争が激しかった清宗(13)の頃から入城したらしい。
林城には、宿にした美ケ原温泉から歩いて広沢寺に向う途中にたまたま行き当たった(訪れる予定はなかった)。
山の上まで行く登山道があるが、遠そうだし冬で寒いので、中途まで登って周囲の展望を満喫して引き返した(写真)。
どうせ、何も残ってないし、ここは礼法とは無関係だし。

長棟(16)の代になって伊那勢との抗争を収束し、小笠原家の分裂に終止符を打つ。
貞朝(15)と2代にわたり、伝書を取り戻したという(すべてではないようだ)。


松本城

もとは1504(永正1)年貞朝(15)が一族の島立貞永に命じて築城させたもので、以後小笠原氏の居城となり「深志城」と呼ばれていた。
ただ島立氏を城代に置いて、小笠原氏自身は林城にいた。
合戦のための砦としてよりも領国経営の拠点が必要なった長時(17)から深志城にはいったという(1534年)。
長時は翌年幕府より「大膳大夫」(殿中で膳を運ぶ係)に任じられる。
まさに礼法の「通い(配膳)」作法実演の役。
といっても大膳大夫は長清のひ孫長政(4)から幾人も任じられている。

しかし、1550(天文19)年同族の武田信玄によって長時は城を追われ、以後哀れな流浪の旅を余儀なくされる(その当りの事情は「会津」で)。

その後、長時の嫡子貞慶さだよし、18)が1582(天正10)年の本能寺の変後の混乱に乗じて深志城を奪還し(この間の経緯はけっこう複雑)、それを記念して深志を「松本」と改めた(つまり貞慶が「松本」の生みの親)。

32年ぶりに故郷に帰った貞慶は、会津の芦名氏のもとにいる父長時にさっそく帰還の使いを出した。
だが長時は夢にまで見た故郷帰還の直前(1583年2月)、異境の地で逆臣に殺されてしまう。

1590(天正18)年豊臣秀吉が天下統一し、徳川家康が関東に移封されるに伴い、すでに家康に帰属していた貞慶とその嫡男秀政(19)も下総の古河へ移ることとなり、せっかくの旧領安堵も8年で終わる。
ちなみに同年、飯田の松尾小笠原氏も本庄へ移封になったので、小笠原氏の故郷ともいえる信濃の国から小笠原の領袖が突如いなくなってしまう。

しかし1613(慶長18)年、秀政の嫡子忠脩ただなが、19-2の代になり、松本城主(8万石:内2万石秀政)に返り咲く。
  忠脩は秀政(19)から家督を継いだものの、公式ではなかったため、歴代惣領には数えられていない。なので惣領ナンバーも19-2と表記する。彼はすこぶる美男だったという。

徳川の世になって、小笠原氏は本来の松本城の主としてこのまますごせるかと思いきや、1615(元和1)年、大坂夏の陣で秀政・忠脩父子がともに戦死して、2代にわたる主がいなくなってしまった!

なんでこんなことになったのか。
実は小笠原氏には大阪城主20万石の手形を家康から(間接的に)渡されていたという(笠系・年譜)。
それで張り切り過ぎたのか、軍令を無視して出陣してしまった(その後の小笠原氏への厚遇をみると、あながち空手形ではなかったかも)。
いずれにせよ、またしても小笠原家は危機を迎えたわけだが、さいわい忠脩の弟忠政が重傷であるものの生命に別状はない。
でも忠政には移封の命令が…。

これで小笠原氏は松本から去っていく。
ただし戦死した秀政・忠脩の両君は松本市内の広沢寺の墓に埋葬される。

国宝となっている現代の天守閣(写真)はその後の改築によるものだが、小笠原氏がその礎を築いたことには変わりない。
この天守閣に登って信濃守護小笠原氏の苦難の歴史を想ってみよう。


小笠原牡丹

松本城内、天守閣の入口近くに、「小笠原牡丹」の札があり、牡丹の木が植えられている(写真)。
その説明によると、1550(天文19)年、甲斐の信玄に攻められた長時は、林城にあった白牡丹が敵に踏み荒らされるのを憂えて、
これを近くの兎川寺(美ケ原温泉と林城の間にあり、私も立寄った)に託して去った。
その後同所の久根下家は、この牡丹を守り、昭和になってその株を松本城に移したという。
この話は私が習っていた頃の礼法教室のテキストに載っていた。

この話にみられるように長時は花を愛でる心が強く、花の活け方を記した『長時花伝書』なるものが残っている。
床の間飾りとしての花の飾り方は本来、武家礼法の一部であった(芸道としての華道の前身)。
この伝書を元に“小笠原流華道”が構築されるのを期待している。


竜雲山広沢寺

松本市の南東端、鉢伏山の麓にある広沢寺は、持長(12)が先代当主政康の位牌を安置した竜雲寺が前身で、
それを長棟(広沢寺殿,16)が広沢寺に改名し、林城近くから現在地に移したものである。
広い寺域の最上段に、大坂夏の陣で戦死した小笠原秀政忠脩父子(19,19-2)の墓がある(写真)。
小倉第三代藩主忠基(22)がそれぞれ別の所にあった墓をここに集めたという(1743年)。
祀堂には先代宗家忠統ただむね、32)筆の額がある(写真)。

忠統氏は松本市立図書館長を歴任したというので、300年以上たっての松本返り咲きというわけだ。
墓所は高台の上、寺域の最上部なので、冬でも達するのに汗をかいた。
二人の五輪塔は松本の街を見守るように建っている。

秀政・忠脩の墓
忠統筆の額

松本文書館

広沢寺所蔵の文書が松本文書館に複写保管されていて閲覧できるという
(下記参考文献(福嶋)で知った)。
それを知って新たに訪問予定に加えるが市街地から遠い。
上高地方面へ向う松本電鉄の「松本大学前」で降りて、南に15分ほど歩く(物ぐさ太郎発祥の地を通りすぎる)。
文書館を利用するには閲覧手続きをする(利用カードを発行してくれる)。
広沢寺文書の中に『弓馬躾の書』があった。
これは昭和の忠統氏(32)が同寺に寄贈したもので(福嶋)、内容は礼法教室で講読した『仕付方萬聞書』と同じもの(一部字句が異なっており、かつては意味不明の箇所がこちらを参考に理解できた)。
自分のデジカメで撮影させてくれた。
駅までの帰り道は常念岳(2857m)の眺めがいい。

松本市立中央図書館

開智小学校裏にある市立中央図書館は忠統宗家が館長をやっていた。
ここの郷土資料コーナーでまず『松本市史』などを閲覧しよう。
あと『松本市史研究』にもたいへん参考になる論文があった。


参考文献

福嶋紀子「竜雲山広沢寺の文書と文書整理」(『松本市史研究』14号)2004

トップに戻る|奥州会津へ


貞宗と赤澤氏:小笠原氏史跡旅7

2020年03月04日 | 小笠原氏史跡の旅

 礼法誕生秘話2

貞宗は礼書を書いたか

小笠原貞宗(7)が礼法の始祖というなら、貞宗は実際に礼書をしたためたのか。
彼の礼書があれば貞宗と礼法の関係は明確になるのだが。
以前は「小笠原宗家」と称していた小笠原清信氏系の赤澤家では、貞宗と赤澤常興が共同で『神伝糾法修身論』と『体用論』を著したと主張している。


赤澤氏

そもそも赤澤氏とは、小笠原長経(2)の次男清経が伊豆国守護となり、伊豆の赤澤(現伊東市、伊豆高原の南)に住んだのが始まりという、かなり初期の分家。
南北朝時代となると、小笠原惣領家から時間的にも空間的にも離れて久しいが、常興の父長興は惣領家からの養子であり、また貞宗の母が赤沢家の娘との説もあり、それなら両者に交流があってもおかしくない。

その後、長時(17)と同時期に赤澤氏から経直または貞経が出て、赤澤氏側の伝承によれば、惣領家および京都家から礼法一切を相伝され、これより礼法の本家となったという
(当然、惣領家側にはそのような言い伝えはない。その頃は実際には松尾系や伊豆木系にも相伝されている)。
また、これら中世の赤澤氏については、歴史の第一線に登場しない事もあって、子孫が主張している系譜は歴史学的には疑問が多い(検討対象になっていない)。

その後赤澤家は徳川将軍に仕えて、小笠原姓に戻り、江戸府内で流鏑馬を担当したという。
明治以降も小笠原清務が道場を開き、あちこちの学校で礼法を講じた。
それゆえ小笠原流礼法といえば最近まで赤澤氏の礼法が代表していた(江戸時代に庶民に「小笠原流」として広がった水島流は別として)。

先の2書の話に戻ると、惣領家側の資料ではそれらの書の存在自体認められてこなかった。
小笠原家の公式家譜である『小笠原系図』・『勝山小笠原家譜』・『笠系大系』のいずれも、後醍醐帝に貞宗が家伝奥義を奉ったとあるが、常興とともに礼書を著したとはまったく書いておらず、これら家譜は共通して長秀(10)あたりの『三議一統』を当家礼書の嚆矢としている。
それゆえ現在の惣領家(宗家)でも『三議一統』を最初の礼書としている
(正確にいうと、現在の惣領家側では貞宗が『修身論』を書いたと言及してはいるが、その内容にはまったく触れてない。
たぶん赤澤家の伝承を借用しているのだと思う)。


神伝糾法修身論

その1335(建武2)年に書かれたという『神伝糾法修身論』64巻は、260年後の1597(慶長2)年に(当然ながら)別人によって書かれた序文によると、欽命といいながら直接命じたのは足利尊氏であり、貞宗に頼まれた常興がほとんど中心となって編纂したとある。
その64巻の綱目内容の目録(言語令・換骨令・陶器令など)も慶長2年になって書かれた。
その中の『言語令』はすでに貞宗の著でないと主張する研究者がいる(島田勇雄)。
もし貞宗が関与したなら、彼の思想的影響関係からみて、禅的価値観(表現)が前面に出てしかるべきだが、序文を読む限り、儒教色一色でそのような雰囲気はなさそう(「修身」は儒教用語)。

そもそも、『神伝糾法修身論』はなんで260年後の16世紀末になってから序文と目録が書かれたのか。
赤澤家においても1614(慶長19)年の将軍秀忠、そして1635(寛永12)年の将軍家光の命によってこれらを閲覧させた時に、なぜか慶長2年の序文と目録だけで本体を披露していない。
1678(延宝6)年将軍家綱に家伝書を提出したリストにも『三議一統』はあっても、この書はない。

一方尾張徳川家の蓬左文庫(現在は名古屋市所轄)に『神伝糾法』なる書があるが(「糾法」だから小笠原流)、そこには「此の七巻の神伝糾法」と記され、巻数がだいぶ違う。

私自身この書の本体に接してないのでこれ以上は何とも言えない。


体用論

一方『体用論』は糾法における修行論ともいうべき書で、始祖の書というより、総合的体系化段階の書という観がある(体・用の用語も剣術書によく見られ、江戸時代的であると指摘されている)。
実際、小笠原流を含む室町時代の武家礼書と比べると記述が異質すぎ、後続するはずの『三議一統』・『礼書七冊』との連続性がまったくない。

さらに当時の貞宗の武将としての東奔西走の活躍から、そのような書をしたためる時間的余裕はありえないという意見もある(二木謙一氏は『犬追物目安』など他の書も貞宗でないとしている)。
やはり学者らがいうように、これらは江戸時代近くの赤澤家の作ではないか。

尤も、作法の家元にとって作法書を認(したた)めるのは、頭の中を文字化するだけなので、たいした労苦はない(しかも口述筆記させるし)。
実際、室町期の作法書は、構成が思いつきの羅列になっていて、体系的・構造的体裁になっていない。

といっても『体用論』および修身論の一部とされる『換骨法』は、作法素を列挙した一般的な礼書でははく、糾法(弓法)修行の奥義書といえるものであり、異質な書・後代の書だからといって小笠原流礼法の理論書としての価値は失われない。

これを読めば、糾法としての小笠原流”礼法”とは、考え抜かれた動作法のことであって、(歴史学者を含めて)通俗的に思われているような、単なる故実儀礼(冠婚葬祭)の細かな知識でないことがはっきりとわかる。


書かれる前の礼法

そうなると、貞宗の礼書は存在しないことになる。
だが、それによって「貞宗が礼法を制定したというのは嘘」、ということにはならない。
武芸としての礼法は(単なる儀礼故実とは違って)弓術や剣術と同じくその本質は動作法であるから、本来的にテキストによって成立するものではない
(たとえば、ある剣術の完成は、その剣術書の出版を要件とはしないはず。だからたとえテキスト化しても肝心の所は口伝となる)。
そもそも作法書が世に出る動機は、世の中の作法が乱れだした時に、通俗の所作と正しい作法との混同を世間に糾(ただ)すためである(まさに糾法)。
つまり作法書の成立は、その作法の成立から時間的なずれを前提とする。
たとえば『三議一統』が書かれた理由も、複数の礼法が並立している混乱を収拾するためであるというから、書かれていないが存在する礼法が前提となっている。

いずれにせよ、物的証拠はないため、貞宗が礼法を制定したというのは立証も反証も困難だろう(論理的には、所与の命題が立証不可能なら判断保留となる)。
なので私としても、小笠原流礼法と禅清規をともに作法学的に分析することによって、両者の関連性を作法素単位で論理的に示唆することしかできそうもない。

さて、その貞宗は、その『修身論』が書かれたという建武2年に信濃守護となり、信州深志、今の松本に居を構えた。

いよいよ小笠原氏の最盛期というべき信濃守護時代が始まる。
小笠原惣領家は、礼法だけやってれば済むような立場ではない。


参考文献 
小笠原清信『小笠原家弓法書』講談社 (神伝糾法修身論序文・目録と換骨法抄・体用論抄を所収)
『神伝糾法』 名古屋市蓬左文庫所蔵
『体用論』 名古屋市蓬左文庫所蔵
二木謙一『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館
島田勇雄『小笠原流諸派の言語関係書についての試論』(島田勇雄先生退官記念ことば論文集)前田書院

トップに戻る|信州松本


花崗岩が新型コロナウイルスに効く?!

2020年03月04日 | 新型コロナウイルス

トイレットペーパーから、米やカップ麺に買い占めが進行している中、今度はなんと花崗岩が新型コロナウイルスに効くという話が拡がっているらしい。

ここまでくると笑ってしまう。
いっそのこと、私も参加したい。

「花崗岩はそれを構成している雲母から微量な放射線が出ていて、それがウイルスの DNAを損傷させることで、増殖を防げるのだ!
だから、花崗岩を入手して、常時部屋に置き、ときたま口や鼻に当てて吸込もう!」

どう? どなたかひろめてくれるかな。

この読者だけにそっと教えると、黒雲母を含んだ花崗岩が放射線を出すのは事実。
そして放射線が DNAの分裂時に複製を損傷させる可能性があるのも確か。
ただ、コロナウイルスの繁殖は DNAではなくRNAによるから、上の話には”誤り”があえて挿入されている。
でも体内のウイルスに作用するなら、人間の細胞にも影響するよね。

現実には、部屋に置いた花崗岩のごくごく微量の放射線(nSv/hレベル)が、肺の奥に入ったウイルスに影響するとは考えられない(黒雲母の粉末を吸入して、内部被曝するならいざしらず)。
体外での強い曝露(mSv/hレベル)が必要なはず。
ちなみに、nSvはmSvの100万分の1の単位。

いずれにせよ、コロナウイルスは怖いけど、放射線は怖くないという人ならどうぞ(この記事を読んで、身近にある花崗岩の放射線が気になった人もいるかな。私のブログ記事にも、「恵那の太鼓岩を測る」などで花崗岩の放射線を計っている)。

追記:さらに花崗岩より玄武岩の方がいいという噂も出ているらしい。
玄武岩の方は磁気が出ている。
ただし微量な直流磁気で、生体に与える力は放射線よりぐっと弱いので、なおさら信じられない。
少なくとも、磁気の効果を期待するなら、玄武岩より学習教材の磁石の方がよほど強力。

ネット空間には、”あることないこと”がランダムに出回っていると思っていい。
その中から、受取るのに値するのは、常識と論理とソースの信頼性というフィルタを通してからにしよう。