信濃の国主時代
貞宗―政長―長基―長秀―政康、持長―清宗―長朝―貞朝―長棟―長時―貞慶―秀政―忠脩-忠政
2006年2月, 2007年4 月
明治以降の長野県の県庁所在地は長野市だが、明治以前の信濃の国府がおかれていたのは松本市。
だから信濃守や信濃守護となった小笠原氏は当然ここと縁ができるのだが、特に「守」の頃は現地には赴かず京都に居住していた。
貞宗以降は実質的な領地経営のため現地にも居館をもった。
ただ信州には伊賀良(飯田)にも昔からの拠点があったため、伊賀良に残った一族もあった。
井川城
小笠原流礼法の開祖貞宗(7)の居館であったという井川城跡は、松本市内の小笠原氏関係では最も古い史跡。
信濃国守護となった貞宗は、建武年間(1334‐38)居館を伊賀良(飯田)の松尾から府中(松本)南郊の井川に移した。
あるいは、すでに貞宗の嫡子政長(8)は1319(元応1)年井川で生まれたという(笠系)。
現在でも、この付近は「松本市井川城」という地名になっている。
ただし城趾の場所は地図にのってないので探すのに苦労した。
「井川城」という地名に見当をつけた所まで行って、ここから先は地元の人に尋ねるしかない。

地図に載っている神社(井川城2丁目)の向いに、おいしそうなそば屋があったのでそこで昼食(おいしかった)をとり、主人に丁寧に場所を教えてもらい、畑の真ん中にある古墳のような井川城跡を見つけた(写真)。
そこには解説板などはあるが、とにかく観光名所ではないので見つけるのがわかりにくい(番地でいえば、井川城1-8 付近)。
周囲にあるまっすぐな川は当時の館の堀の跡らしく、敷地は広大だったようだ。
古墳状の丘に上がれば、そこに祠が建っている。
周囲は宅地化しているが、東に美ケ原高原を望むわれらが貞宗公の居館跡に立てば、感慨はひとしお。
深志神社
松本市の中心部「深志」にある深志神社は、信濃守護となった小笠原貞宗が、諏訪明神を勧進して建てたという。
また後に京都北野天満宮より天神菅原道真公も勧請された。
松本駅から徒歩圏内なので松本城か筑摩神社の途中に立寄ればよい。
結婚式場などがあり、社殿も塗装が新しい。
場所柄、初詣などには地元の参拝者で賑わうだろう。
社殿の左側の敷地に小笠原長幹(30)揮毫の碑があった(写真)。
それによると秀政(19)がこの神社を修復したらしい。
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深志神社
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長幹揮毫の碑
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三議一統
貞宗以降、礼書の編纂が活発になる(貞宗作とされる礼書に関しては→貞宗と赤澤氏)。
貞宗の孫長基(9)は『馬術十六匹二十八匹之書二本』と、その嫡子長秀(10)の質問に答える『弓馬之百問答』を編したという(笠系)。
だがこれらは現在伝わっていないようだ(貞宗あるいは長秀による『弓馬問答』なる書は伝わっている。
また実物は未確認だが、伊豆木小笠原資料館に『弓馬百問答』なる書が保管されているらしい)。
その長秀は1396(応永3)年『三議一統当家弓法集』12巻をまとめたという。
この書こそ小笠原惣領家にとって礼法のバイブルとなっている。
ちなみに伝書(異本)によっては『三議一統』の「議」ではなく「儀」や「義」を用いたものがあるが、小笠原・伊勢・今川の“三家が議論して一つに統べる”という意味で『三議一統』が正当(惣領家・赤澤家ともにこちら)。
ただし「弓馬の法に於ては長基独り之を撰す」(家譜)とある。
逆に言えば礼法に関しては伊勢・今川家のものも参考にしたことになるか。
貞宗と礼書との関係を蒸し返すと(→貞宗と赤澤氏「書かれる前の礼法」)、貞宗が礼法を制定し、そのひ孫の長秀がテキスト化したという、この時間差こそ納得できる。
その『三議一統』に関しては、江戸時代の伊勢貞丈を始めとして成立過程に否定論が出ているのは有名(伊勢氏の該当者が実在しない)。
ただ異説として、小笠原長秀・今川範忠・伊勢貞行(実在した)の三人が定めた(南方紀伝)、あるいは後の長時(17)が流浪中閑暇のあまり同家相伝の給法を改判したものともいう(故実拾遺)。
個人的には最後の説にも興味あるが、小笠原流礼法においての古典的価値は変わらない。
ちなみに長秀は信濃守護としては、国人たちとの争いに破れ(大塔合戦)、守護職を解かれるなどの不適任レベルだった。
また長秀の次の当主政康(11)も『当家糾法大双紙』16巻をまとめており、これは豊津の小笠原文庫に現存している(後に翻刻に取り掛かる際、偽作と断定した)。
政康はさらに甲斐の山小笠原の長清寺の隣に寺を建て、深志の筑摩神社本殿を再建するなど、小笠原流のアイデンティティの確認に意欲をみせたが、彼の死をきっかけに、小笠原一族にとって大混乱が発生する(→伊賀良の鈴岡城の項参照)。
筑摩神社( つかまじんじゃ )
同じ神社でも小笠原氏にとっては、東方の県(あがた)の森にあるこの神社の方が大切。
筑摩神社は794(延暦13)年、石清水八幡宮より勧請を受けて創建したというから、小笠原氏どころか清和源氏よりも古い。
信濃国府の松本遷府以後は「国府八幡宮」と称し、信濃守護として入ってきた小笠原氏は当然、氏神として崇敬した。
本殿は1436(永享8)年に焼失した後、1439(同11)年に小笠原政康(11)により再建された。
その室町時代の本殿が現存してあり、国の重要文化財(旧国宝)になっている。
それにしても政康って小笠原家のアイデンティティを大切にした人だ(史跡の旅を通じて、私の中では歴代惣領の中で政康の株が一番上昇した)。
政康の活躍は小笠原氏の枠を越え、関東で起きた関東管領上杉禅秀の乱(1423-24)、鎌倉公方足利持氏の永享の乱(1438-41)の平定に活躍し、従三位・中将となった。
本殿の正面には左右に2体の神像が置かれている。
木の塀に囲まれているため本殿には近づけないが、カメラのズームで見るとこれらもけっこう精巧。
八幡宮だから像は神功皇后と武内宿禰だとか。
また神社の境内になぜか銅鐘があるのだが、これは既に廃寺となった筑摩神社別当寺の安養寺の梵鐘で、1514(永正11)年「小笠原長棟の寄贈」と陰刻にあり、市の重要文化財となっている(鐘楼は金網に覆われて鐘に近づく事はできない)。
広い境内には、社務所はあるが人の気配はなく、訪れる人が少なそうなやや荒れた雰囲気。
松本市民にとっては小笠原氏は「おらが殿様」ではないんだろうな(むしろ武田信玄を歓迎しているようだ)。
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重文の本殿
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本殿扉前の神像
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銅鐘(右手前)と本殿(左奥)
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林城趾
美ケ原温泉と広沢寺の間にある大規模な山城で小笠原城ともいう。
貞宗(7)から長時(17)まで使っていたというが、実際には伊那(松尾・鈴岡)勢との抗争が激しかった清宗(13)の頃から入城したらしい。
林城には、宿にした美ケ原温泉から歩いて広沢寺に向う途中にたまたま行き当たった(訪れる予定はなかった)。
山の上まで行く登山道があるが、遠そうだし冬で寒いので、中途まで登って周囲の展望を満喫して引き返した(写真)。
どうせ、何も残ってないし、ここは礼法とは無関係だし。
長棟(16)の代になって伊那勢との抗争を収束し、小笠原家の分裂に終止符を打つ。
父貞朝(15)と2代にわたり、伝書を取り戻したという(すべてではないようだ)。
松本城
もとは1504(永正1)年貞朝(15)が一族の島立貞永に命じて築城させたもので、以後小笠原氏の居城となり「深志城」と呼ばれていた。
ただ島立氏を城代に置いて、小笠原氏自身は林城にいた。
合戦のための砦としてよりも領国経営の拠点が必要なった長時(17)から深志城にはいったという(1534年)。
長時は翌年幕府より「大膳大夫」(殿中で膳を運ぶ係)に任じられる。
まさに礼法の「通い(配膳)」作法実演の役。
といっても大膳大夫は長清のひ孫長政(4)から幾人も任じられている。
しかし、1550(天文19)年同族の武田信玄によって長時は城を追われ、以後哀れな流浪の旅を余儀なくされる(その当りの事情は「会津」で)。
その後、長時の嫡子貞慶(さだよし、18)が1582(天正10)年の本能寺の変後の混乱に乗じて深志城を奪還し(この間の経緯はけっこう複雑)、それを記念して深志を「松本」と改めた(つまり貞慶が「松本」の生みの親)。
32年ぶりに故郷に帰った貞慶は、会津の芦名氏のもとにいる父長時にさっそく帰還の使いを出した。
だが長時は夢にまで見た故郷帰還の直前(1583年2月)、異境の地で逆臣に殺されてしまう。
1590(天正18)年豊臣秀吉が天下統一し、徳川家康が関東に移封されるに伴い、すでに家康に帰属していた貞慶とその嫡男秀政(19)も下総の古河へ移ることとなり、せっかくの旧領安堵も8年で終わる。
ちなみに同年、飯田の松尾小笠原氏も本庄へ移封になったので、小笠原氏の故郷ともいえる信濃の国から小笠原の領袖が突如いなくなってしまう。
しかし1613(慶長18)年、秀政の嫡子忠脩(ただなが、19-2)※の代になり、松本城主(8万石:内2万石秀政)に返り咲く。
※ 忠脩は秀政(19)から家督を継いだものの、公式ではなかったため、歴代惣領には数えられていない。なので惣領ナンバーも19-2と表記する。彼はすこぶる美男だったという。
徳川の世になって、小笠原氏は本来の松本城の主としてこのまますごせるかと思いきや、1615(元和1)年、大坂夏の陣で秀政・忠脩父子がともに戦死して、2代にわたる主がいなくなってしまった!
なんでこんなことになったのか。
実は小笠原氏には大阪城主20万石の手形を家康から(間接的に)渡されていたという(笠系・年譜)。
それで張り切り過ぎたのか、軍令を無視して出陣してしまった(その後の小笠原氏への厚遇をみると、あながち空手形ではなかったかも)。
いずれにせよ、またしても小笠原家は危機を迎えたわけだが、さいわい忠脩の弟忠政が重傷であるものの生命に別状はない。
でも忠政には移封の命令が…。
これで小笠原氏は松本から去っていく。
ただし戦死した秀政・忠脩の両君は松本市内の広沢寺の墓に埋葬される。 
国宝となっている現代の天守閣(写真)はその後の改築によるものだが、小笠原氏がその礎を築いたことには変わりない。
この天守閣に登って信濃守護小笠原氏の苦難の歴史を想ってみよう。
小笠原牡丹
松本城内、天守閣の入口近くに、「小笠原牡丹」の札があり、牡丹の木が植えられている(写真)。 
その説明によると、1550(天文19)年、甲斐の信玄に攻められた長時は、林城にあった白牡丹が敵に踏み荒らされるのを憂えて、
これを近くの兎川寺(美ケ原温泉と林城の間にあり、私も立寄った)に託して去った。
その後同所の久根下家は、この牡丹を守り、昭和になってその株を松本城に移したという。
この話は私が習っていた頃の礼法教室のテキストに載っていた。
この話にみられるように長時は花を愛でる心が強く、花の活け方を記した『長時花伝書』なるものが残っている。
床の間飾りとしての花の飾り方は本来、武家礼法の一部であった(芸道としての華道の前身)。
この伝書を元に“小笠原流華道”が構築されるのを期待している。
竜雲山広沢寺
松本市の南東端、鉢伏山の麓にある広沢寺は、持長(12)が先代当主政康の位牌を安置した竜雲寺が前身で、
それを長棟(広沢寺殿,16)が広沢寺に改名し、林城近くから現在地に移したものである。
広い寺域の最上段に、大坂夏の陣で戦死した小笠原秀政・忠脩父子(19,19-2)の墓がある(写真)。
小倉第三代藩主忠基(22)がそれぞれ別の所にあった墓をここに集めたという(1743年)。
祀堂には先代宗家忠統氏(ただむね、32)筆の額がある(写真)。
忠統氏は松本市立図書館長を歴任したというので、300年以上たっての松本返り咲きというわけだ。
墓所は高台の上、寺域の最上部なので、冬でも達するのに汗をかいた。
二人の五輪塔は松本の街を見守るように建っている。
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秀政・忠脩の墓
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忠統筆の額
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松本文書館
広沢寺所蔵の文書が松本文書館に複写保管されていて閲覧できるという
(下記参考文献(福嶋)で知った)。
それを知って新たに訪問予定に加えるが市街地から遠い。
上高地方面へ向う松本電鉄の「松本大学前」で降りて、南に15分ほど歩く(物ぐさ太郎発祥の地を通りすぎる)。
文書館を利用するには閲覧手続きをする(利用カードを発行してくれる)。
広沢寺文書の中に『弓馬躾の書』があった。
これは昭和の忠統氏(32)が同寺に寄贈したもので(福嶋)、内容は礼法教室で講読した『仕付方萬聞書』と同じもの(一部字句が異なっており、かつては意味不明の箇所がこちらを参考に理解できた)。
自分のデジカメで撮影させてくれた。
駅までの帰り道は常念岳(2857m)の眺めがいい。
松本市立中央図書館
開智小学校裏にある市立中央図書館は忠統宗家が館長をやっていた。
ここの郷土資料コーナーでまず『松本市史』などを閲覧しよう。
あと『松本市史研究』にもたいへん参考になる論文があった。
参考文献
福嶋紀子「竜雲山広沢寺の文書と文書整理」(『松本市史研究』14号)2004
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