今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

テレワークの社会実験中

2020年03月05日 | 新型コロナウイルス

新型コロナウイルスの流行を受けて、私の弟が今日から在宅勤務になり、会議もパソコンを通してやるという(なので自宅に縛られる)。

そういえば、昔(20世紀の頃)、ネット化されたパソコンの普及によって、会社員は在宅勤務ですむようになると言われた。

そうなれば、通勤時間(と交通費)が不要になり、幼な子の世話や親の介護と両立でき、なにより東京一極集中がなくなり、住みたい所に住めて、地域格差がなくなる社会が実現する。

そういう夢のような社会が来るものと言われていたのに、21世紀になってもいっこうに来ない。
それどころか、地方は過疎が進み、東京一極集中(そして首都圏の通勤ラッシュ)は増すばかり。
個々の業務はデジタル化されて効率アップしたはずなのに、なぜか仕事が減らない。

結局、対面主義という旧来のコミュニケーション習慣から抜け出せないためではないか。
確かに、ネットコミュニケーションよりも対面の方が、コミュニケーションとしては”濃い”(情報の精細度が高い)。
ただ対面するための社会的コスト(時間、消費エネルギー、交通インフラ、犠牲になる家族・地域コミュニケーション)に無頓着ではないだろうか。

はっきり言って多くの会社員って、会社では、会議以外は、パソコンに向っているのでは。
パソコンに向うなら家でもいいでしょ(情報セキュリティはしっかり)。

仕事上のドライな関係なんだから、対面主義にこだわることはない、かもしれない、と皆うすうす感じていたかもしれない。
でも率先して実行する勇気がなかった。
企業の上層部(高齢者)が ITに疎いという世代的問題もあろう。

そんな中、”テレワーク”と称される在宅勤務の社会実験が思わぬ理由でスタートした。
もしからしたら、「働き方改革」になるかも。

ただ、テレ・ワーク(遠隔勤務)なら、「在宅」に縛る理由もない。
なぜなら在宅勤務は運動不足になるし、会社とは別のストレスがあるから。
タブレットにすれば、屋外でも可能(情報セキュリティはさらにしっかり)。
業務内容が情報・コミュニケーションなら、今の時代、時間・空間にしばられる必要はない。
それが真のテレワークだ。
”働き方改革”の要(かなめ)は、いろいろな自由度を増やすことにあると思う。


明野 小笠原:小笠原氏史跡旅1

2020年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅
発祥の地1
(清光―遠光)―長清?
残念ながらパソコントラブルにより、山梨の旅(明野・櫛形)では撮影したデジカメ写真をすべて消失した。
2007年2月

山梨県の北西、信州との県境に、富士山とその高さを競った伝説をもつ八ヶ岳(2899m)がそびえ、頂きから南東の甲府盆地めがけて、富士にもまさる広大な裾野を降ろしている。
その裾野が尽きた韮崎の北に、八ヶ岳を二回りほど小さくした休火山、茅(かや)ヶ岳(1704m)がある。
その茅ヶ岳の裾野、北杜(ほくと)市明野(旧北巨摩郡明野村)に小笠原という地がある。

そこは小笠原牧(まき)という古代からの牧場(まきば。官制の御牧(みまき))があった所だ。
また同県内の旧中巨摩郡櫛形町(現:南アルプス市)にもうひとつ”小笠原”がある。
これらはともに荘園となり、南北朝期以来、ここ明野の方を「山小笠原」、櫛形の方を「原小笠原」といって区別されてきた。

ここ山小笠原には、牧場だけでなく、そこの字(あざ)"小笠原"の集落には長清寺(ちょうせいじ)なる寺があり、境内に小笠原氏の始祖長清(ながきよ、1※)の墓と伝えられる五輪塔さえある。
※:この数値は総領の番号。初代が1
なので地元明野の郷土資料では、櫛形よりもこちらの方こそ小笠原氏発祥の地と主張している。


小笠原という地名

そもそも”小笠原”という地名の由来は何なのか。
『地名語源辞典』によれば、オ(接頭語)、カサ(上方)、ハラ(原)で、「上手に位置する広い原野」の意味、あるいは、オガ(丘陵)、サ(接尾語)、ハラ(原)、で「丘陵の原」を意味するとか。
あるいは『日本国語大辞典』ではオザサハラすなわち「小笹原」の転で、笹の生い茂った原を意味するとかの説がある(以上、『小笠原長清公資料集』より)。

確かに、明野の山小笠原の方は丘陵上面の原で、さらに小笠原の隣に「上手」という地名があり、
まさに上手に位置する広い原野となっている。
また小笠原内の小字に「厚芝」・「原」もある。

一方、櫛形の原小笠原の方は、山麓の平原ではあるが、地形的に特徴のある地ではない。
当然笹が群落するような山地の平原でもない。
周囲の地名には沢や水に関するもの、また集落など人工物に関する地名が多く、早くから開けていた感じがする。
といっても櫛形小笠原の南西方向の山腹側に「塚原」,「南原」が、東の釜無川沿いには「浅原」がある。
ちなみに、明野も櫛形もともに小笠原のかな表記を「おがさはら」としている。


甲斐源氏発祥の地

確かに長清以前の甲斐源氏は、むしろこちら北巨摩側(八ヶ岳・茅が岳山麓)が根拠地だった。
源氏はこの地で良質の馬(駒)の産地を支配していたからこそ、騎馬での戦いに強く(その伝統を嗣ぐのが武田騎馬軍団)、その一族小笠原氏は弓・馬術の家元になれたともいえる。
その意味で小笠原牧は小笠原流”糾法(弓馬礼法)”のアイデンティティの地といえそう。
※:小笠原氏では、小笠原氏が代々伝える兵法・弓術・馬術・礼法を総称して「糾法」という。

この地と源氏との関係のそもそもの始まりは、清和源氏の始祖経基王の孫頼信が1029(長元2)年甲斐守に任じられ、甲斐の国に下向したこと。

その孫の新羅三郎義光(頼義の嫡子八幡太郎義家の弟)も一時期甲斐に住んだと伝えられ(確証なし)、以来、この義光が甲斐源氏の祖とされる。
実質的にはその嫡子義清が常陸の武田郷から甲斐の市河に配流されていよいよ甲斐源氏が始まる。

そして義清の嫡子清光がこの北巨摩の逸見へみ:須玉町若神子)の地に住み、周囲を開拓し、本格的な領主となっていく。
清光の次世代で、逸見氏(光長)・武田氏(信義)・加賀美氏(遠光、小笠原長清の父)などが分岐して、甲斐国内に分散していく。


清光寺

JR中央線も中央高速道も八ヶ岳の裾をぐんぐん登っていく途中にある文字通りの長坂町。
中央線長坂駅と中央道長坂インターの中間にある清光寺は小笠原・武田共通の祖、甲斐源氏の清光きよみつ:長清の祖父)の菩提寺。

境内の高台、北巨摩の風景の主役・甲斐駒ケ岳(2969m)を望む林の中に清光の墓がある。
寺の向い側には清光が勧進した源氏の氏神八幡大神社もある。
つまり、山小笠原に隣接する八ヶ岳側の裾野(清里高原から釜無川まで)一帯が一族の支配地で、
長清の父遠光(とおみつ)の代になって原小笠原(加賀美)に移住し、その子長清がそちらで小笠原と名乗った。

ただし清光自身は糾方的伝(源家総領の証としての武芸のノウハウの伝授)を受けていない
(『小笠原系図』。ちなみに”糾法的伝”は清和天皇の皇子で経基王の父貞純親王から始まるという)。
なので遠光は清光の父義清から的伝されたとあるが(同)、小笠原惣領家の家譜である『笠系大系』では、義清は遠光が七歳の時に卒したからこれはおかしいとしている。

源平の戦いや承久の変で実際に武功のあった長清ならば、甲斐源氏の一族として馬の飼育は当然していたはず。
だから先祖伝来のこの地に小笠原氏の牧場があってもおかしくない。

なら、山小笠原と原小笠原の間に関係はあるのか。
あるいは、どちらが先に地名として「小笠原」だったのか。
これらの問いをかかえて先に進もう。
長坂から明野の小笠原へ行く途中には逸見の地があり、須玉町には甲斐源氏の故郷をアピールする看板もある。


明野民俗資料館

須玉町にある北杜市役所を通り過ぎ、増富ラジウム鉱泉から流れる塩川を渡ると、今度は茅ヶ岳の裾野に入る。
県道23号線に合流する地点が茅ヶ岳斜面の旧明野村の中心部。
そこに民俗資料館がある。
ただ振替休日の月曜に訪れたら休館だった。
民間だったら休日こそ開館するのだが、町村レベルの役場が直接管理している小さな民俗資料館は役場の休みと一致してしまう所が多い。
ここの資料館では、少なくとも『明野村誌』が参考になったはず。
ここから23号線で走り抜ける台地一帯がかつての小笠原牧だ。


長清禅寺

県道23号線の厚芝の交差点を谷側に入り、牧のある平原から釜無川の谷に降りた小笠原集落をめざす
(私は実際にはナビの最短ルートに従って”原”という所からの農作業用道から入ったのだが、道幅が極端に狭く、軽自動車並みの我が愛車oldミニでなんとか通れる道)。
集落奥の高台に大きな本堂がある(北杜市明野町小笠原1205)。
それが長清禅寺。
無住であるが荒れてはおらず、扉は施錠されており、時たま管理者が入る様子。

本堂の左奥には長清の墓と伝えられる五輪塔がある。
その製作年代は死後(没年は1242年)百年ほどたっているらしいが、
長清の号である「栄曾」と刻まれており、最低限、長清の供養塔のようだ。
なぜ長清と関係する寺と石塔がここにあるのか。

近くに長清居館跡といわれている遺構もあるらしい。
ここ山小笠原と長清との関係はいかに。
寺の下に、発掘された古寺跡の史跡がある。
現在の長清寺以前に寺があったようだが元の長清寺なのかは不明とのこと。

笠原山福性院

長清寺の南側の集落内にあるこの寺は、室町時代の信濃守護小笠原政康(11)が建立したという。
※:11代目総領を示す。以下同。
政康は小笠原流糾法のアイデンティティにこだわった人。
しかも彼は関東にも甲斐にも活躍の場を残している。
寺の山号はまさに小笠原を示している。

寺の入口に「小笠原牡丹(松本牡丹)」なるものが植えられていた。
小笠原牡丹といえば、信玄に信濃を追われた小笠原長時(17)の好み(→松本・小笠原牡丹の項)だったから、開基の政康とは関係なさそう。
でもまさか長時が植えたわけでもなかろう。
長時はこのあたりまで進攻したことはあるが。kaikoma

長坂から明野小笠原までの間ずっと、釜無川を隔てた甲斐駒ヶ岳(2969m)の威容が風景の中心となる(写真)。
甲斐源氏・小笠原氏はこの牧で甲斐の黒駒に股がって、この甲斐駒を見上げていただろう。


駒牽(こまびき)の歌碑

ここから塩川沿いの駒井に降りる最後の集落三之蔵の道沿いに、ここ小笠原牧を歌った紀貫之(?―945)の歌碑がある。
   「みやこまで てなづけてひくは小笠原 逸見の御牧の駒にやあらん」
 駒牽という平安時代の宮中行事での歌で、ここ小笠原の馬が平安時代から有名であったことが確認できる。
貫之の歌からも、小笠原氏発生以前からこの小笠原牧があったことは確かだ(貫之没年頃、ここの牧は冷泉院領)。

とすると、山小笠原を拠点に小笠原と名乗った長清が、加賀美の隣の地(原小笠原)を得たのでそこも小笠原と称したということか
(普通は地名が名字になるもので、逆に名字が地名になるパターンはあまりない)。
それとも原小笠原にいて小笠原氏となった長清系が、山小笠原と後から関係し、長清を祀ったのか(なんで?)。
甲斐源氏の故郷にある山小笠原と小笠原氏との関係がイマイチつかめない。

駒井から韮崎に出て釜無川を渡れば、武田氏発祥の地”武田八幡神社”へ行ける。
しかし小笠原氏の旅ならさらに南へ行こう。
櫛形の原小笠原に。

トップに戻る|櫛形小笠原


櫛形 小笠原:小笠原氏史跡旅2

2020年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅

 発祥の地2

(遠光)―長清

2007年2月

甲府盆地の西端に鎮座する、和櫛を伏せたような平らかな櫛形山(2052m)の麓、山梨県南アルプス市の旧櫛形町に小笠原というひらけた町があり(写真)、今では新しい市の中心部となっている。

ここが明野の山小笠原に対する「原小笠原」で、
山小笠原が山腹の牧場だったのに対し、こちらは山麓の田園地帯で、牧ではなく最初から荘園だったらしい(ただし北側には領主不明の八田牧が広がっていた)。
両小笠原は直線距離で南北に15.5km離れ、間に暴れ川の御勅使(みだい)川と釜無川に隔てられて、あきらかに別の土地だ(標高では約200m櫛形が低い)。

1174(承安4)年、加賀美遠光(とおみつ)の次男・加賀美(小)次郎が元服の時、高倉天皇から小笠原姓を賜り(確証なし)、小笠原長清と名乗ったのは、彼がこの地小笠原を拠点としていたためという(笠系)。
いわばここが(もっとも有力な)小笠原氏発祥の地
市内の史跡めぐりをするには、市発行の観光地図を入手しよう。


加賀美の法善寺

まず訪れるべきなのが、その小笠原から東へ2km、旧若草町(南アルプス市内)の加賀美という所にある真言宗の 加賀美山法善寺。
ここは長清の父・加賀美遠光の館だった。
長清はここで生まれたともいう説があり、それならここが小笠原発祥の中の発祥の地となる。
その後、遠光の孫・加賀美遠経が館の跡地にこの寺を創建したという。

遠光は1143(康治2)年若神子逸見(山小笠原の隣)で生まれ、やがてこの加賀美に住んだ。
糾法的伝は『小笠原系図』では祖父義清からとしているが、『笠系大系』によれば伝者不明としている(理由は「明野小笠原・清光寺」の項)。
1195(文治5)年、平家追討の功で源頼朝の推挙により「源氏六人受領」の一人として信濃守に補任された。
つまり遠光は、武家で最初に”国司”になった(は)えある六人の一人なのである。

「 加賀美遠光館跡」として市指定史跡になっている法善寺は、今でも水をたたえた堀でかこまれ、当時の武家館(やかた)の雰囲気を残している。
脇門には新しく遠光と長清の絵(勝山開善寺のもの)が描かれ、「礼法で有名な小笠原氏発祥の地」をアピールしている。

ここも櫛形山の麓で、その反対側には御坂の前山の上に白化粧の富士がぬっと顔を出している。
櫛形山の北にはそこだけ雪で白い肌の南アルプスの薬師岳(2780m、鳳凰三山の1つ)が見える。
南方には、南アルプスと富士山塊との間の広い富士川の谷が駿河方面に明るく開いている。
甲府の街をはさんだ北東は大菩薩から秩父の山塊。
それらの向こうは坂東武蔵の国。
北には先祖の地がある茅ヶ岳と八ヶ岳(甲斐駒は見えない)

この広大な景色の中で遠光・長清親子は暮していたんだな。
ここの本堂も庫裡も立派な作りで一見に値する。
また近代建築の不動堂があり、いつでも巨大な不動尊を拝観できる。
でも遠光の木像は公開されていない。


遠光廟所

市の観光地図によると、遠光の廟所が法善寺のすぐ南にある。
せっかくだから歩いて行こう。
古代の条里制が残る区画を通り抜けていくと、木に囲まれた遠光廟所が野っ原の真ん中にあり、やはり周囲の眺めがいい。
敷地に入ると、ペルシャ猫のようなふさふさした毛のトラネコが昼寝の邪魔をされたと私をにらむ。
敷地の中央に大きな祠が建っている。ちなみに遠光の墓は甲府の遠光寺にあるという。
ついでに宝永年間の名主宅である安藤家住宅(国指定重要文化財)へも車で足をのばした。
座敷の床の間に小笠原流に則った節句飾りがしてあった。


小笠原長清公館跡

長清の館の跡は、まさに小笠原の中央・御所庭という地にあり、現在は”小笠原小学校”になっている。
長清(1)は1162(応保2)年ここ小笠原館で生まれた(笠系)というなら、父遠光も加賀美からこちらに居館を移していたことになる。
やはり長清は(次男だから加賀美姓は継がず)独立して加賀美からここに居を構えたとみるのが妥当だろう。
いずれにせよ、ここ小笠原庄は、小笠原氏の名字の地として長清以降惣領が相伝することになる。

長清は1179(治承三)年、曽祖父義清と父遠光から”躾方相伝”され、「弓馬に達し、給法に長ず」という(家譜。書・人によって相伝名がまちまち)。

そして信濃の伴野(ともの)庄(佐久市)の地頭に任じられ、そこに移住したという(吾妻鏡:伴野系については「三洲幡豆」でも言及)。
後に、承久の乱の功により阿波国守護に任じられ,子長経(2)を守護代として派遣し、長経は阿波小笠原(後の三好氏)の祖となる(家譜)。

公館跡には、今ではその場所を示す碑だけが建っているとのことで、探してみると校庭の中にあった(しかも碑は校庭側を向いている)。
小学校の校庭には普段は部外者は入れないが、幸い休日なので校庭では大人もまじったサッカー教室の最中。
だから無関係の私が校庭の隅を歩き、写真を撮っても怪しむ人はいなかった(でもその写真はパソコントラブルで消滅)。


笠屋神社

小笠原一帯の鎮守であるここは、小笠原の北側にあり、長清の館内にあった天神社が併設してある。
それに笠屋神社の紋が三階菱。
祭りの時は、ここの 神輿が小笠原内を巡幸するという。


長清公祠堂

小笠原の南側、山寺八幡神社(八幡だからやはり清和源氏小笠原氏に関係あるはず)に車を停めて、付近を探す。
町を縦断する桜橋通りの東のちょっとはいった所に(道路脇ではない)、大きな祠堂が見えた。
畑の中の畦道を通って近づくと堂の扉は硬く閉まっている。
これは小笠原発祥の地を記念するもの。
祠堂は最初、明治になって地元の有志が建設した。

近くにある碑は、最後の 勝山藩主小笠原長守の長男長育(ながなり)子爵の撰文のもの。
長育は東宮侍従で、東宮=皇太子(後の大正天皇)の礼法教育を担当していたとか。

祠堂には長育が贈った長清佩用の甲冑・太刀を収納したという(櫛形町誌)。
ところが長清は承久の乱で幕府方として活躍したものだから、設置当時は逆徒という認識があり、反対運動が起きたという。
今の祠堂の建物は他所から移築したもの。

近くに寺が見えたので行ってみたら山号が”小笠原山”興隆院
しかも三階菱の紋。
だが、小笠原氏との関係を示す説明板などは見当たらなかった。


南アルプス市立図書館

郷土資料など地元ならではの文献情報を得るには、まずは地元の図書館へ。
かならず郷土資料コーナーがある。
真新しい図書館は小笠原から川を渡った北側にある。
郷土資料コーナーには『櫛形町誌』、『若草町誌』のほか、長清に関する郷土史家の本もある。
それの中では、旧櫛形町が”ふるさと創生資金”を使って研究した結果を出版した『小笠原長清公資料集』が基本資料となる(これは後に古書店から購入した)。
あと誰かから寄贈された礼書『小笠原流躾方』(古文書コピーとその翻刻版)もあったのはうれしい。

市をあげて長清を応援しているようで、小笠原長清公顕彰会の会報『長清公』もおいてある。
コピーするには、利用者登録が必要だが、県外者でもOK。
南アルプス北岳(富士に次ぐ日本第二の高峰)の写真入りカードをもらえる。

さて、小笠原氏は鎌倉時代になって早々に甲斐を出て、隣の信濃の国へ移住したようだ。
櫛形の真西、重厚な南アルプス山塊の向こう側、反対側から南アルプスを眺める伊那谷の伊賀良(飯田)へ。


参考文献
家譜:『勝山小笠原家譜』(勝山(松尾)小笠原氏の家譜)
笠系:『笠系大系』(小倉小笠原氏の家譜)

トップに戻る伊賀良へ


伊賀良;小笠原氏史跡旅3

2020年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅

 信濃の足場にして礼法誕生の地

長経―長忠―長政―長氏―宗長―貞宗
宗康―光康―家長―定基―貞忠―信貴―信嶺

2004年11月、2005年2月

小笠原氏は、長清の嫡子長経(2)の代に、信州伊那の伊賀良庄(現、長野県飯田市)の松尾に住んだらしい。
長経の子の長忠(3)がそこで生まれたとされているから(家譜)。

長清は信濃伴野(ともの)庄(佐久市野沢)の地頭に任じられ,そこに移住したというが(吾妻鏡)、そこは同じ信州でも飯田からは遠過ぎる。
ただ、長清が飯田の時又にある長石寺に源氏の戦勝祈願をしたという言い伝えが唯一の関連事項(久保田)。

いずれにせよこの地は、以後、小笠原氏の本拠地の1つとなる。
ただし、小笠原の惣領職は長忠・長政の代に佐久の大井氏(時長系)へ移る(→三州幡豆)。
ちなみに長忠は祖父長清から直接糾法的伝を受けている。

やがて貞宗(7)が1335(建武2)年初の信濃守護となるも、飯田を中心とする伊那は彼の子孫によって惣領職をめぐるの骨肉の争いの地となった。


長清寺

飯田市中村の中央道の脇にある(入口がわかりにくい)
長清は1242(仁治3)年81歳で没し、京都の清水坂の下に建てた長清寺に埋められたという。
しかしその長清寺は応仁の乱で消失したので、子孫の丸毛長照(長氏(5)四男兼頼が丸毛氏となり、その5世孫)
骨を飯田の長清寺と開善寺(将軍塚)、それに美濃赤坂の荘福寺(長照の出身地)に分祀したという(久保田、→美濃高須)。
あるいは、松尾小笠原の信嶺が天正年間に移したともいう。

この寺の開基は一応小笠原長清となっているので、小笠原氏関連でもっとも由緒ある寺の末裔になる。

現在の長清寺は、総門と本堂・庫裡だけの簡素な伽藍だが、総門から参道は面積を使って風格がある。
境内の墓地には現在の小笠原家の墓もある。
このように小笠原のアイデンティティの地には長清寺も置かれる(他に甲斐山小笠原・豊前小倉)。

長清寺入口
長清寺

畳秀山開善寺

長清寺から県道233号線を南東に下った飯田市上川路にある。
もとは執権北条氏系の江間氏が鎌倉時代に創建したものだが、南北長期に貞宗(7)が当代の名僧大鑑禅師清拙正澄を招聘して、それまでの開禅寺を開善寺に改め再興した。
以来、寺紋も三階菱。
寺格もその後”十刹”(五山の直下)にまで上がった。

小笠原貞宗は、それまでの弓・馬の「弓法」(糾法)に礼法を追加したという。
すなわち貞宗こそが小笠原流礼法の開祖

なぜ彼が礼法を加える事ができたのか。
そのヒントが当時の日本に禅の清規(作法)をもたらした清拙正澄との親交(実際のつきあいの地は鎌倉と京都)にある(→「禅と礼法」のページ)。
また大鑑禅師の法灯を嗣ぎ、後に開善寺の住持を勤めた古鏡明千は、明国に渡り、元代に作られた『勅修百丈清規』(唐代に作られた最古の清規で現存しない『百丈清規』とは別物)を日本にもたらした。
ゆえに、この開善寺こそが貞宗(小笠原流礼法)と清拙正澄(禅の作法である清規)との接点の”象徴”(あくまで象徴)なのである。
その意味でここ飯田の開善寺を”小笠原流礼法発祥の地”としたい。

そして開善寺入道と号した貞宗は「誓て曰く、我が子孫と為す者、禅師法系を承らざるは、我が子孫とせず、亦我が家緒を嗣ぐべからず。以って開善を氏寺と為すべし」(家譜)と命じ、以後開善寺は小笠原家の菩提寺となる。
だからその後、小笠原氏が各地に転出しても、その地で糾法(含む礼法)の教えを維持したように、それぞれの地に開善寺を造り菩提寺とした。
実際、開善寺と称する寺は、ここのほかに信州松本・下総古河・播州明石・武州本庄・下総関宿・美濃高須・越前勝山・豊前小倉に建てられ、そのうち小倉・本庄・勝山が現存している。
すなわち、ここ飯田の開善寺が、全国の(といっても4ヶ所)開善寺の総本山なのである。
ちなみに江戸在府の小倉藩主の菩提寺は浅草にある同じ発音の”海禅寺”。

ここ飯田の開善寺はその後戦乱で類焼したが、天文18年小笠原信貴が美濃の名僧速伝を招き、寺塔を再興した。
速伝は希菴(東陽和尚の講本百丈清規を相伝)から『勅修百丈清規』を贈られ、それが開善寺に現存している。
やはり開善寺は清規の寺なんだ。

開善寺の山門は南北長期の作りで、国の重要文化財になっている。

本堂の前にも裏にも庭園がある。
開善寺の裏山に将軍塚(しょうもんつか)があり、そこに長清が埋骨されたという伝説がある。
また貞宗の墳墓は、貞宗の遺骨を埋めた標として銀杏の大木にあるという。
寺の隣に飯田市考古資料館がある。

開善寺山門
開善寺前庭の大木跡

鳩が嶺八幡宮

アップルロードからJR飯田線に沿う151号線に合流する旧伊那街道沿いにある。
飯田市で一番メインの神社。
社伝によると小笠原氏が建てたという。
”鳩が嶺”は清和天皇が石清水八幡宮を移設した京の地名だから納得できる。
でも創建が鎌倉時代というと長経・長忠あたりとの関連が必要なんだが…。

境内に射礼の場があり、地元弓道家の額が掛けてあるのも小笠原氏ゆかりにふさわしい。
でも神社の人に小笠原氏ゆかりの何かないかと尋ねたが、何もない残ってないという。
それでも神社入口に建つ碑は、伯爵小笠原長幹ながよし.30)の揮毫・子爵小笠原長生(ながなり)の撰文(明治43年)。
近代小笠原氏を代表するこの両人、小笠原氏の史跡各地に碑を残している。

鳩嶺八幡本殿
鳩嶺八幡弓道場
長幹揮毫の碑

鈴岡城趾

八幡宮の南西、鈴岡城松尾城が毛賀沢川を挟んでひとつの公園になっている。
この両城は室町後期(戦国前期)に各地で一斉に起きた同族間の争いの1つである小笠原氏内訌の象徴。

鈴岡城は貞宗(7)の次男宗政の築城といわれるが、その後しばらくは判然としない。
さて、長秀(10)(→松本の井川城の項)に子がなかったので、弟の政康(11)に家督が移った。
政康は文武双方で功をなし、小笠原家をもり立てた人物だった。
しかし政康の死後、政康の子宗康がこの鈴岡に居て家督を相続しようとしたのに対し、長秀・政康の兄長将(長男)の子持長(しかも政康に育てられる)が信濃国府のある深志(府中)で家督を主張して争った(複雑!)。
ついに1446(文安3)年両者は善光寺表の漆田原で干戈を交えることとなる。
親族同士の悲しい争いで、宗康が戦死し、持長(12)の勝利となった。

でもまだ終わらない。
今度は宗康弟の光康が松尾城に居て深志と対立。
さらに光康に育てられた宗康の遺児政秀(政貞)までが、鈴岡城に居てやはり家督相続権を主張(またまた複雑!)。

ここに小笠原家は家督をめぐって深志・松尾・鈴岡の三つ巴の争いとなった。

政秀は深志を攻めて当時の城主清宗(13)を追いだすが、国人の支持を得られず清宗の子長朝(14)を形の上の養子とする。
またその際貞宗以来の伝書を鈴岡に持ち帰ったという。

しかし、政秀は隣の松尾とも干戈を交えるようになり、ついには1493(明応2)年深志・松尾連合軍に攻められ政秀が討死。鈴岡小笠原は滅びる。
南アルプスの眺めがよい鈴岡城趾は松尾城趾から深い谷ひとつ隔てた隣の丘にある。
この位置関係、まさに近親憎悪を象徴しているようだ。


松尾城趾

もとは貞宗によって築かれたとされ、ちゃんとした築城は15世紀らしいから、 いわゆる歴代小笠原氏の居館「松尾館」ではない。
とにかく、宗康の弟光康以降の松尾小笠原の居城である。
現在は跡形もなく、鈴岡城よりも公園として整備されている。

光康の孫定基は自分に的伝を授けた政秀を鈴岡城にて攻め滅ぼし(1493年)、政秀が深志から奪った伝書類を手にするが、今度は自分が深志に攻められ、一旦は甲斐の武田のもとに逃げ、その後松尾に戻る。
このような定基だが、「達者御礼(馬術と礼法に達者)、世に曰く下伊那小笠原流」(笠系)と評された。

その孫信貴は荒れていた開善寺を再興したという。
また信貴は深志との対立のため、1554(天文23)年、信玄の伊那攻略に案内誘導し、深志の長時(17)を窮地に追いやった。

しかしその子信嶺は1582(天正10)年織田軍に降伏し、織田軍の先陣となって逆に武田の高遠城へ誘導したという。

これが戦国大名の力関係の変化に順応して生き残りをはかるしかない、中小名の悲しい、いやたくましい生き方。
そして1590(天正18)年、徳川家康についた信嶺が武州本庄に移封(1万石)となり、松尾の主はいなくなる(→武州本庄)。


飯田城趾

すでに戦国の世は終わっている1601(慶長6)年、惣領家の秀政(19)が信濃守となって、古河から、もともとあった飯田城に5万石で入封してきた。
久々に惣領家が飯田に戻ってきたわけだ。

1607(慶長12)年、妻登久姫(福姫)が疱瘡で逝去した(31歳)。
39歳の秀政は悲しんで剃髪し、私的に家督を嫡子忠脩(ただなが)に譲った。
愛妻の死がよほどショックだったようだ。
1613(慶長18)年、忠脩が松本城主(八万石:内2万石秀政)になっても、秀政は亡き妻が眠る飯田に残った。
が、1615(元和1)年、二人とも結局大坂夏の陣に出陣して帰らぬ人となった。
飯田城も今は跡形もなく、長姫神社や柳田国男の館が建っている。


飯田市立図書館

地元図書館は資料収集(と複写)の重要ポイント。
史跡の旅には外せない。
市立図書館は 飯田城趾・長姫神社・美術博物館が並ぶ通りにある。
史跡見学にも便利な場所。
『下伊那史』を始めとする多数の郷土資料がある(長野県は郷土研究が盛んな土地なのでじっくり閲覧したい)。

美術博物館でも小笠原氏に関連する特別展が催されることがある。
たとえば2005年「中世信濃の名僧」展では貞宗の木像など普段は見れない開善寺の宝物が展示された。

飯田に来たなら、南にある伊豆木にもぜひ足を運ぶべき。
開善寺から西に山一つ越えた所にある飯田市伊豆木は、小笠原家の資料館と重要文化財の建造物がある”小笠原の郷(さと)”だから。


参考文献
久保田:久保田安正『伊那谷にこんなことが』 南信州新聞社出版局
家譜:『勝山小笠原家譜』(勝山(松尾)小笠原氏の家譜)
笠系:『笠系大系』(小倉小笠原氏の家譜)

トップに戻る伊豆木 へ 庄へ


伊豆木:小笠原氏史跡旅4

2020年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅

 今も残る”小笠原の郷”

長巨―長泰―長輝―長孝―長熈―長著―長計―長厚―長裕

2004年11月、2005年2月
惣領家ではないが、同じ飯田の地で礼法がきちんと伝わっている分家があるのでここに紹介する 。

1590(天正18)年、松尾の小笠原信嶺が家康の命令で本庄に移封後(→本庄)、飯田から小笠原家の灯火が消えた。
しかし信嶺の弟長巨(ながなお)本庄からここ飯田の地に戻ってきた。


小笠原長巨

長巨は傍系でありながら、惣領家からも「糾方的受之人」(笠系)と認められていた。
実はこの時代、惣領家が存亡の危機だっただけに、糾方的伝の一子相伝以外に、才能のある分家にも伝えたという。
長巨はその一人であり、そのため彼の子孫にも礼法が伝わっていく(情報的にであって相伝としてではない)。

たとえば、1590(天正18)年、惣領家の秀政(19)が、豊臣秀吉の仲介で、徳川家康の長男信康の娘登久姫(福姫)を娶る時、長巨の妻が介添役(花嫁の所作指導)を勤めた。
それを機に、長巨は松本に通って秀政からの糾法の質問に答えたという(秀政年譜)。

長巨は一旦は兄信嶺とともに本庄に移るが、1600(慶長5)年、旗本格千石取りで伊豆木(現在長野県飯田市の南部、三穂地区)の地(写真)に着任した。

長臣はまた当時の播磨明石城主の忠真20,秀政次男)に招かれ、城内に小笠原流弓術の矢場を作った。
その後も伊豆木系の男子の多くが小倉惣領家の家臣となった。

長臣はこのように、戦国時代に混乱した小笠原家と礼法の再編にとって貴重な存在となった。
後、隠居して「以鉄」と号し、飯田近在における礼法の顧問的存在となったという(下伊那史)。

その伊豆木小笠原氏の居館が現在も「小笠原屋敷」として残っている。
長巨系の伊豆木小笠原氏は、明治までこの屋敷に居た。
このような理由で、伊豆木小笠原は小さいながらも小笠原流礼法を守った家系であり、室町から明治までの数々の礼書を残している(小笠原資料館所蔵)。
なので伊豆木は小笠原氏の歴史の表舞台には華々しく登場はしないが、小笠原流礼法の旅としては絶対に外せない場所である。

伊豆木へは飯田の市街地から県道491号を南に行く。
湯元久米川温泉(伊豆木の旅で泊るならここがいい)を過ぎ、正面彼方に秋葉街道の偉峰熊伏山(1653m)が見えてくると、右手に風情のある和風建築、左手に砂利敷の駐車場が現われる。
ここが伊豆木。
あらかじめ飯田市内で伊豆木を含む「三穂」地区の観光案内図を入手しておくといい(下の資料館内でも可)。


小笠原屋敷・資料館

伊豆木でまず訪れるべきなのが小笠原屋敷
さきの駐車場がここの専用。
そこから、徒歩で右に折れてミニ城下町風情の集落内を進むと、右手の高台に半分はみ出た(清水の舞台状の)武家屋敷が見えてくる(写真)。
それが小笠原屋敷。
高台にあるせいか、小さな城の雰囲気で、そこめざして”登城”する。

小笠原屋敷自体が「旧小笠原書院」の名で国の重要文化財であり、有料で屋敷内の見学ができる。

屋敷の敷地内には、あまりに対照的な現代建築の市営の小笠原資料館が隣接している。
資料館には展示物のほかに小笠原家から寄贈された礼法・弓法関係の古文書も多数所蔵されている。
ただしそれらを閲覧するには、市教育委員会に事前に申し込む。

資料館の展示物もさることながら、受付け・管理をしている郷土史家久保田安正氏の郷土についてのわかりやすい著作群もたいへん参考になる(資料館で販売)。
氏の著作『伊那谷にこんなことが』(南信州新聞社)から本サイトでもいくつか引用させてもらっている(「久保田」)。
さらに小笠原屋敷と伊豆木小笠原氏に絞った伝説集である同氏の『小笠原屋敷ものがたり』(南信州新聞社)もおすすめ。


秘伝を学ぶ際の起請文

資料館の展示物の中で、礼法を学ぶ者にとって最も重要なのはこの起請文。
これは小笠原流礼法の礼書を外部の者が閲覧する際に用いた誓書である。
弓法躾判紙 
一、御相伝之儀疎略存間敷事 (御相伝の儀、粗略に存じまじき事)
一、失念之節私之儀仕間敷事 (失念の節は私の儀仕うまじき事)
一、他流誹間敷事 (他流を誹(そし)るまじき事)
一、無御免大事他伝申間敷事 (御免なく大事他に伝え申すまじき事)
一、自余之儀雑間敷事 (自ら余の儀、雑(ま)ぜるまじき事)

これは世代を重ねて合理的に考え抜かれてきた「小笠原流礼法」に、勝手なノイズを入れない、すなわち聞きかじった者が勝手に自己流「小笠原流礼法」を名乗らせないためにとられた措置である。
伊豆木小笠原氏は山村の旗本格ながら、正当な小笠原流礼法を伝承しているという自負と責任感がうかがえる。
この起請文は現代に小笠原流礼法を学ぶ人にも共有してほしい。


興徳寺

伊豆木小笠原家の菩提寺。
正門から入るには駐車場に戻る必要があるが、資料館の裏手から、この寺の上にある墓地に行ける。
そこには長巨らの墓があり(写真)、長巨の埋葬地は写真右の松の木が墓標となっている。
小さいが風情のある山門を降りると駐車場に出る。
伊豆木小笠原が創建した真照庵も同地区内にある。

伊豆木八幡宮

長巨が飯田の鳩嶺八幡から勧進したという伊豆木小笠原の守護神。
もちろん源氏一族の小笠原氏の氏神が武の神八幡神だから。
屋敷からちょっと離れた所にある。
本殿は石段の上の高台にあり、格式を感じさせる(写真)。


小さな山里伊豆木は、南アルプス(赤石山脈)の盟主赤石岳(3120m)を望む風光明媚な地で(写真)、
旗本格ながら小笠原氏の居館・古文書・菩提寺・氏神社すべてがきちんと現存している夢のような「小笠原の郷(さと)」である(ただし小笠原家は東京に移住)。

伊豆木から細い道路で背後の水晶山を超えると、伊那谷の民俗文化のテーマパーク”伊那谷道中”(温泉つき)がある。ここで一休みしても、中央道園原インターは近い。


参考文献
『下伊那史』:この地域のいわゆる市町村史。これが基本資料。
久保田安正 『伊那谷にこんなことが』 南信州新聞社
家譜:『勝山小笠原家譜 』
『秀政年譜』:『笠系大系』の一部

トップに戻る京都へ


京都:小笠原氏史跡旅5

2020年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅

 京都での小笠原氏

2006年4月

小笠原氏は京の都にも足跡を残している。
初代小笠原の長清(1)は、元服後は京に居て、当時権勢だった平家一門の平知盛に仕えていた。
また後年、清水坂の下に長清寺を建てた(自分の名前の寺を建てるのか?)
嫡子長経(2)は六波羅で生まれ(つまり長清が六波羅に居住)、六波羅探題の評定衆となった。
その子長房は長清の養子となって阿波国守護となり、三好氏の祖となった(つまり小笠原家最初の守護は阿波国)。


小笠原貞宗

しかし京に現存する足跡を残しているのは貞宗(7)である。
伊賀良・開善寺の項で触れたように、小笠原流礼法の創始者といえばこの小笠原貞宗(写真この肖像は唐津の小笠原記念館在)。
貞宗は鎌倉幕府滅亡から室町幕府成立までの戦乱を、同じ清和源氏の足利尊氏とともに行動した。
その結果、貞宗は小笠原家初の“信濃守護”となり、信州府中(深志)の井川を居館としたが(→松本・井川城の項)、 1344(康永3)年に信濃守護などの家督を政長(8)に譲った後は隠居して、京の四条高倉に住んでいた。

1347(貞和3)年、居館において死す。
法名「開善寺入道泰山正宗大居士」という。
伝辞世の歌:「地獄にて大笠懸を射つくして 虚空に馬を乗はなつかな」
後の家譜では「 射・御・礼の三道に達し、殊に弓馬の妙術を得、世を挙げて奇異達人と称す」(笠系)と評価されている。
墓も京都の建仁寺の塔頭・禅居庵にある。


建仁寺

京都五山第三位の建仁寺は、日本に臨済宗を開いた明庵栄西が建立した最初期の禅寺である。
後に曹洞禅を伝えた道元もここで修行した。

この両者によって鎌倉時代に日本に伝えられた禅は、室町時代になって、禅僧が最新の知識人として公家に代わるブレーンとして将軍家をはじめとして武家と深くつながった。

そのことにより、禅は礼法をはじめとする室町武家文化に決定的な影響を与える。
政治的に公家と決別した側の糾法の宗家小笠原貞宗にとっても、禅は新しい時代の新しい発想をもたらしてくれた。
貞宗にとってその禅僧とは清拙正澄(大鑑禅師)である(くわしくは次の「禅と礼法」で)。
そしてその禅師が住持を務めたのがここ建仁寺。


摩利支尊天堂

その建仁寺の塔頭・禅居庵は非公開だが、実際に墓があるのは、禅居庵の中で唯一公開されている摩利支(尊)天堂という、そこだけ入口が別で参詣者が自由に(フリーで)出入りできる所(写真)。
ここ摩利支天堂は、禅の修行場とは別の、民間信仰の場となっている。

実は貞宗も摩利支天を信仰していた。
摩利支天とは、観音菩薩が人々を救うために姿を変えた応化身の一つであるが、武家の間で武の神とされていた。
貞宗は、鎌倉幕府滅亡・南北朝の動乱で活躍する武将の一人であり、さまざまな戦さに参戦している。
だから武の神の守護を期待して験を担ぐという気持ちも強かったろう。

小笠原家の礼書『仕付方萬聞書』には、「十月のいのこを祝ふ事…中略…猪は猛獣なり。摩利支天の使者と云。其上、子を繁昌するもの也。武家に祝うべきもの也」とあり、
摩利支天自体より猪の方が信仰の対象になっていた観がある(稲荷信仰の狐と同じ)。

ちなみに、小笠原氏の故郷甲斐の巨摩(こま)郡にそびえる甲斐駒ケ岳は、その南面に「摩利支天」という怪峰を従えている(木曽御嶽の摩利支天山も、最高峰剣が峰に次ぐ高さの衛星峰である。これら摩利支天は本峰の守護神という意味だろうか)

そしてこの建仁寺に入った歴代渡来僧のうちで最高格の清拙正澄(大鑑禅師)も、偶然摩利支天を自身の守護神としていた。
まずはこの摩利支天が貞宗と清拙正澄の縁を取り結んだようだ。
ここ建仁寺禅居庵の摩利支尊天堂こそ、まさに両者の結縁の場であり、貞宗が開基・清拙正澄が開山となっている(1329年)。


貞宗の墓

その摩利支尊天堂に貞宗が眠っているという(故郷信州にも供養塔らしき墓があるが)。
ただし案内板などはない。

受付けのおじさんに尋ねたら、裏手の墓地にあるというので行ってみた。
墓地といっても1部屋くらいの狭さ。
しかもほとんどが歴代住職の卵塔。
でも奥に石鳥居のついたやけに立派な五輪塔がある。
これぞわれらが貞宗公の墓。

ここの墓参りが目的で京都に来たので、途中の縄手通りで仏花を2束購入してきた。
墓の左右に花を献じて合掌し、膝まづいた姿勢で目の前の大きな五輪塔を見上げる(写真)。

塔は650年を経て摩耗はしているが今でも風格があり、小笠原貞宗という存在の歴史的な重みをにじみ出している。
日本最古級の禅寺にこうも厚く葬られている貞宗公はやはり相等な人物であったはず(摩利支尊天堂だけでいえば小笠原貞宗が開基だから当然)。
合掌しながら「あなたの価値をもう一度世間に広めます」と心に誓う。

貞宗の墓の隣に、同じ材質の石で形の変わった塔状の墓がある。
気になったので受付けに戻っておじさんに尋ねると、ここの開山の墓だという(写真)。
ならば貞宗が厚く崇敬し禅を学んだ清拙正澄(大鑑禅師)の墓ではないか!
二人の墓が仲良くならんでいることは、やはり言い伝えのとおり二人の生前の深い親交の証しだろう。

貞宗が新たに武家礼法を構想できたきっかけは(弓法を知っていたからでもあるが)、禅の作法である清規(しんぎ)を日本に伝えた清拙正澄の影響があったからだ。
この関係を否定する(公的証拠がないと、保留ではなく否定してしまう)学者もいるが、いずれ私が作法(礼法と清規)の内側から実証してみせる。

公の三十三回忌は建仁寺禅居庵で清拙の弟子天境霊致を拝請して営まれたという。
また貞宗は建仁寺禅居庵に長清碑を建てたという(未確認)。
堂にもどって本尊の(正澄も貞宗もともに信仰していた)摩利支天を拝み、貞宗公にあやかるつもりで、摩利支天の使いである猪の置物と御影札とお守りを買った。
小笠原流礼法にとって最重要者の墓参ができて大満足。


以降の小笠原氏と京都

ちなみに貞宗公以降も小笠原氏との京都との関係は続く。
貞宗の後では、長秀(10)が1392(明徳3)年、義満創建の相国寺落慶供養で先陣隋兵の一番を勤めた。
また長秀の兄長將の子持長(12)は深志で惣領職を主張する(→伊賀良)前は、京にいて将軍の奉公衆だったともいう。

持長だけでなく、小笠原氏には足利将軍の近習の家系がいた。
それを便宜上、「京都小笠原氏」といい、貞宗の弟貞長が祖である。
この家系は長高を経て孫の氏長から備前守となる。
その子満長を経て持長の時、1430(永享2)将軍義教の"的始め"で剣を下賜される
(この持長民部少輔は惣領家の持長民部太夫(12)と同時代の同名人物なので、事跡など混同されがち。
『射礼私記』はこちら持長の著。あるいは同一人物?)。
この時将軍の弓術師範となっていたらしい(満済准后日記)。
その子持清は1442(嘉吉2)年将軍義勝の弓術師範となる。

以上のことから、研究者の二木謙一氏は“小笠原流礼法”の本家は京都小笠原氏だという。
そして元長、元清と続いて応仁の乱を迎える。
乱後、幕府が衰微すると、元続は小田原北条氏に仕えるようになる。

その小田原北条氏だが、初代北条早雲(伊勢宗瑞)は小笠原元長(元続の祖父)の娘を妻に迎え、彼女は北条2代目氏綱の母となる。
そして早雲自身、伊勢氏の出であり(彼自身は備中の伊勢分家出らしいが、京都で幕府の申継衆(取次役)をやっていた)、妹を駿河の今川家にやり、自分も一時期今川に仕えた(また今川義元の子氏真は3代北条氏康の娘を妻にし、後氏康を頼る)。

『三議一統』が記すように、小笠原・伊勢・今川が当時の三大礼式家であったなら、小田原北条氏はその三家の礼法を統合できる位置にあったといえるのでは…(司馬遼太郎も早雲を主人公にした『箱根の坂』で同様な事を述べている)。
尤も、戦国時代の当主は小笠原総領家がそうであったように、戦乱を生き残るのに必死で、礼法どころではなかったろう。

戦国の世になると、まず長時(17)が1552(天文21)年、建仁寺禅居庵の摩利支天に戦勝を祈願した。
しかし願いかなわず信濃を追われた長時は1555(弘治1)年、同族三好長慶を摂津に頼り、将軍義輝の糾法指南をしたという(→会津)。

その子貞慶(18)も父とともに京そして越後に同道したが、1580(天正8)年から父と離れて京都に戻り、「洛陽に家を為し、公武の儀ともに相改む」(溝口家記)という(私は、貞慶はこの期間に最新の儀礼故実を吸収したとふんでいる)。

その嫡子秀政はすでに1569(永禄12)年宇治山田で生まれ、1576(天正4)年、京都五条の本国寺で手習い読書を学び、豊臣秀吉と懇意になり、聚楽第に5年住んだという(秀政の秀は秀吉からもらう)。


引用文献
二木謙一『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館

トップに戻る禅と礼法へ


禅と礼法:小笠原氏史跡旅6

2020年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅

 礼法誕生秘話

1.清拙正澄

貞宗が出たついでに、小笠原流礼法の間接的立役者というべき渡来僧大鑑禅師清拙正澄(1274-1339)の足跡を追ってみよう。
彼は元の時代の儒家の出であるという。
この出自が清規という礼式に親しんだポイントかもしれない。

1326(嘉暦1)年招聘を受けて来日し、博多の聖福寺に入る。
まずそこで会ったのが同じ貞宗でも九州の武将大友貞宗。

翌年、時の執権北条高時に迎えられ鎌倉建長寺(禅居庵)に住す。
この頃小笠原貞宗(幕府方御家人だった)が帰依したという。

鎌倉円覚寺に三年いて、1333(正慶2)年、幕府滅亡時に後醍醐帝により建仁寺の禅居庵へ招かれる。

そして1335(建武2)年貞宗の招きで信州伊賀良の開善寺へ。
開善寺には清拙正澄の肖像(頂相)がある。
1338(延元3)年京都に帰る。
建仁寺禅居庵を退院するも南禅寺へ再任。
1339(暦応2)年1月17日、奇しくも百丈忌(最初の清規を制定したという百丈慧海の忌日)の日に遷化。
この時の貞宗との親交の深さを物語る伝説もあるが略す。
彼は我が国最初の清規となる『大艦清規』を著した(1332年)。
まさに小笠原流礼法の貞宗に対応する。

聖福寺

栄西が建てた博多にあるこの寺こそ日本最初の禅寺。
来日した清拙正澄がまず入った寺がこの由緒ある聖福寺という。
また唐津の近松寺(→豊前唐津)の開祖となった湖心禅師もここの出身という。
このように小笠原氏とゆかりのある寺なので、「唐津の旅」の帰りに立寄った。
といっても修行道場なので広い寺域の各塔頭(たっちゅう)には入れない。

建長寺・禅居庵

鎌倉五山第一位の建長寺は、1253(建長5)年渡来僧蘭渓道隆の開山による、臨済宗建長寺派の総本山。
いまでも広い寺域に多くの塔頭をもっている。
といっても塔頭は修行道場だから原則非公開。

伝説であるが、建長寺の禅居庵に清拙正澄大鑑禅師が住んでいた時、貞宗は禅師に帰依して、摩利支天の尊像を作って、側の一堂に置いて礼拝したという。
そして出陣前(この頃は幕府側)に禅師に請うてこの像を拝受し、小さな厨子に入れて陣中に携えたという。
現在ここは、その摩利支天を本尊とし、貞宗の木像もあるという(非公開)。

建長寺の禅居庵は建長寺本体とは道路をはさんだ反対側にある。
しかしここも修行場のため立ち入り禁止で、門しか拝めない(写真:秋の宝物風通しの時でも)。
建仁寺の禅居庵も非公開だし、清規を学ぶ所は観光客を入れないのだろう。


2.禅と礼法 との関係

貞宗と清拙正澄は摩利支天信仰によって縁ができたが、長年続いた両者の親交によって、二人とも深いレベルでの触れ合いも可能だったはず。
歴史家は(当時の無教養な武士の)貞宗が清規を参考にして礼法を作れるわけがないと、無下に否定するが、
幕府の招聘で清拙正澄が来日した目的は、日本に清規を伝えることにあるわけだから、彼に帰依する大名クラスの武士(しかも所作の法の家元)に「威儀(作法)即仏法」という清規の精神を語らない方がおかしい。
貞宗が禅師ゆかりの清規の寺・開善寺を、子孫に未来永劫にわたり菩提寺とさせたのも、清規を礼法の思想的根拠としたからこそだろう。

貞宗公と禅師との次の対話が伊賀良の開善寺に残っている(『開善寺史』)。
「公、禅師に問いて云く、宇宙騒乱心王いまだ安からず、いずれの所にか安心立命し去らん。
師払子を竪起す。公云く、不会。師叉云く、一張の弓射乾坤を倒す。公言下に会う所有り」

「一張の弓射乾坤を倒す」とは、「お前の弓法(糾法)こそが、社会的にも心理的にも平安をもたらすものではないのか」という禅師からのメッセージであり、貞宗は師の言でそれを感得したというわけだ。
「威儀即仏法」という視点に立てば、糾法、すなわち戈(ほこ)を止めるという意味の”武”術およびその日常での応用としての礼法(威儀)の存在意義は当然納得できたであろう。

後世の『笠系大系』では、 貞宗は常に大鑑禅師の室に入り、弟子の礼を執って深く禅に帰依し、禅の妙理に達して、打切・桜狩・手綱潅頂の鞭等の馬術を工夫したと記してある。

一方、元禄時代の『大鑑禅師小清規』に、「小笠原家礼というは、想うに禅規の俗所を掩(おお)うと為す」とあり、禅側でも小笠原流礼法との関係を認めている。

実際、和食の作法には禅の清規が強く反映されているし、そればかりか、禅の”茶礼”が茶の湯(茶道)に発展するなど、禅寺での所作は(小笠原流以外にも)幅広く作法の根拠として広がっていった
(禅僧がもたした朱子学も、婚姻の儀式などを中心に武家礼法に影響していく)。
禅は馬術よりも日常の礼法にこそ影響を与えやすいのは容易に理解できよう。

中世武家礼法における禅清規の影響(もちろん禅だけが礼法の影響源ではないが)については、清規の作法学的分析を通して、いずれ明らかにする予定。

では貞宗は礼書を書いたのか。
小笠原氏の分家の赤澤氏にはその言い伝えがある。


トップに戻る|貞宗と赤澤氏