信濃の足場にして礼法誕生の地
長経―長忠―長政―長氏―宗長―貞宗
宗康―光康―家長―定基―貞忠―信貴―信嶺
2004年11月、2005年2月
小笠原氏は、長清の嫡子長経(2)の代に、信州伊那の伊賀良庄(現、長野県飯田市)の松尾に住んだらしい。
長経の子の長忠(3)がそこで生まれたとされているから(家譜)。
長清は信濃伴野(ともの)庄(佐久市野沢)の地頭に任じられ,そこに移住したというが(吾妻鏡)、そこは同じ信州でも飯田からは遠過ぎる。
ただ、長清が飯田の時又にある長石寺に源氏の戦勝祈願をしたという言い伝えが唯一の関連事項(久保田)。
いずれにせよこの地は、以後、小笠原氏の本拠地の1つとなる。
ただし、小笠原の惣領職は長忠・長政の代に佐久の大井氏(時長系)へ移る(→三州幡豆)。
ちなみに長忠は祖父長清から直接糾法的伝を受けている。
やがて貞宗(7)が1335(建武2)年初の信濃守護となるも、飯田を中心とする伊那は彼の子孫によって惣領職をめぐるの骨肉の争いの地となった。
長清寺
飯田市中村の中央道の脇にある(入口がわかりにくい)。
長清は1242(仁治3)年81歳で没し、京都の清水坂の下に建てた長清寺に埋められたという。
しかしその長清寺は応仁の乱で消失したので、子孫の丸毛長照(長氏(5)四男兼頼が丸毛氏となり、その5世孫)が
骨を飯田の長清寺と開善寺(将軍塚)、それに美濃赤坂の荘福寺(長照の出身地)に分祀したという(久保田、→美濃高須)。
あるいは、松尾小笠原の信嶺が天正年間に移したともいう。
この寺の開基は一応小笠原長清となっているので、小笠原氏関連でもっとも由緒ある寺の末裔になる。
現在の長清寺は、総門と本堂・庫裡だけの簡素な伽藍だが、総門から参道は面積を使って風格がある。
境内の墓地には現在の小笠原家の墓もある。
このように小笠原のアイデンティティの地には長清寺も置かれる(他に甲斐山小笠原・豊前小倉)。
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長清寺入口
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長清寺
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畳秀山開善寺
長清寺から県道233号線を南東に下った飯田市上川路にある。
もとは執権北条氏系の江間氏が鎌倉時代に創建したものだが、南北長期に貞宗(7)が当代の名僧大鑑禅師清拙正澄を招聘して、それまでの開禅寺を開善寺に改め再興した。
以来、寺紋も三階菱。
寺格もその後”十刹”(五山の直下)にまで上がった。
小笠原貞宗は、それまでの弓・馬の「弓法」(糾法)に礼法を追加したという。
すなわち貞宗こそが小笠原流礼法の開祖。
なぜ彼が礼法を加える事ができたのか。
そのヒントが当時の日本に禅の清規(作法)をもたらした清拙正澄との親交(実際のつきあいの地は鎌倉と京都)にある(→「禅と礼法」のページ)。
また大鑑禅師の法灯を嗣ぎ、後に開善寺の住持を勤めた古鏡明千は、明国に渡り、元代に作られた『勅修百丈清規』(唐代に作られた最古の清規で現存しない『百丈清規』とは別物)を日本にもたらした。
ゆえに、この開善寺こそが貞宗(小笠原流礼法)と清拙正澄(禅の作法である清規)との接点の”象徴”(あくまで象徴)なのである。
その意味でここ飯田の開善寺を”小笠原流礼法発祥の地”としたい。
そして開善寺入道と号した貞宗は「誓て曰く、我が子孫と為す者、禅師法系を承らざるは、我が子孫とせず、亦我が家緒を嗣ぐべからず。以って開善を氏寺と為すべし」(家譜)と命じ、以後開善寺は小笠原家の菩提寺となる。
だからその後、小笠原氏が各地に転出しても、その地で糾法(含む礼法)の教えを維持したように、それぞれの地に開善寺を造り菩提寺とした。
実際、開善寺と称する寺は、ここのほかに信州松本・下総古河・播州明石・武州本庄・下総関宿・美濃高須・越前勝山・豊前小倉に建てられ、そのうち小倉・本庄・勝山が現存している。
すなわち、ここ飯田の開善寺が、全国の(といっても4ヶ所)開善寺の総本山なのである。
ちなみに江戸在府の小倉藩主の菩提寺は浅草にある同じ発音の”海禅寺”。
ここ飯田の開善寺はその後戦乱で類焼したが、天文18年小笠原信貴が美濃の名僧速伝を招き、寺塔を再興した。
速伝は希菴(東陽和尚の講本百丈清規を相伝)から『勅修百丈清規』を贈られ、それが開善寺に現存している。
やはり開善寺は清規の寺なんだ。
開善寺の山門は南北長期の作りで、国の重要文化財になっている。
本堂の前にも裏にも庭園がある。
開善寺の裏山に将軍塚(しょうもんつか)があり、そこに長清が埋骨されたという伝説がある。
また貞宗の墳墓は、貞宗の遺骨を埋めた標として銀杏の大木にあるという。
寺の隣に飯田市考古資料館がある。
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開善寺山門
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開善寺前庭の大木跡
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鳩が嶺八幡宮
アップルロードからJR飯田線に沿う151号線に合流する旧伊那街道沿いにある。
飯田市で一番メインの神社。
社伝によると小笠原氏が建てたという。
”鳩が嶺”は清和天皇が石清水八幡宮を移設した京の地名だから納得できる。
でも創建が鎌倉時代というと長経・長忠あたりとの関連が必要なんだが…。
境内に射礼の場があり、地元弓道家の額が掛けてあるのも小笠原氏ゆかりにふさわしい。
でも神社の人に小笠原氏ゆかりの何かないかと尋ねたが、何もない残ってないという。
それでも神社入口に建つ碑は、伯爵小笠原長幹(ながよし.30)の揮毫・子爵小笠原長生(ながなり)の撰文(明治43年)。
近代小笠原氏を代表するこの両人、小笠原氏の史跡各地に碑を残している。
鈴岡城趾
八幡宮の南西、鈴岡城と松尾城が毛賀沢川を挟んでひとつの公園になっている。
この両城は室町後期(戦国前期)に各地で一斉に起きた同族間の争いの1つである小笠原氏内訌の象徴。

鈴岡城は貞宗(7)の次男宗政の築城といわれるが、その後しばらくは判然としない。
さて、長秀(10)(→松本の井川城の項)に子がなかったので、弟の政康(11)に家督が移った。
政康は文武双方で功をなし、小笠原家をもり立てた人物だった。
しかし政康の死後、政康の子宗康がこの鈴岡に居て家督を相続しようとしたのに対し、長秀・政康の兄長将(長男)の子持長(しかも政康に育てられる)が信濃国府のある深志(府中)で家督を主張して争った(複雑!)。
ついに1446(文安3)年両者は善光寺表の漆田原で干戈を交えることとなる。
親族同士の悲しい争いで、宗康が戦死し、持長(12)の勝利となった。
でもまだ終わらない。
今度は宗康弟の光康が松尾城に居て深志と対立。
さらに光康に育てられた宗康の遺児政秀(政貞)までが、鈴岡城に居てやはり家督相続権を主張(またまた複雑!)。
ここに小笠原家は家督をめぐって深志・松尾・鈴岡の三つ巴の争いとなった。
政秀は深志を攻めて当時の城主清宗(13)を追いだすが、国人の支持を得られず清宗の子長朝(14)を形の上の養子とする。
またその際貞宗以来の伝書を鈴岡に持ち帰ったという。
しかし、政秀は隣の松尾とも干戈を交えるようになり、ついには1493(明応2)年深志・松尾連合軍に攻められ政秀が討死。鈴岡小笠原は滅びる。
南アルプスの眺めがよい鈴岡城趾は松尾城趾から深い谷ひとつ隔てた隣の丘にある。
この位置関係、まさに近親憎悪を象徴しているようだ。
松尾城趾
もとは貞宗によって築かれたとされ、ちゃんとした築城は15世紀らしいから、 いわゆる歴代小笠原氏の居館「松尾館」ではない。
とにかく、宗康の弟光康以降の松尾小笠原の居城である。
現在は跡形もなく、鈴岡城よりも公園として整備されている。 
光康の孫定基は自分に的伝を授けた政秀を鈴岡城にて攻め滅ぼし(1493年)、政秀が深志から奪った伝書類を手にするが、今度は自分が深志に攻められ、一旦は甲斐の武田のもとに逃げ、その後松尾に戻る。
このような定基だが、「達者御礼(馬術と礼法に達者)、世に曰く下伊那小笠原流」(笠系)と評された。
その孫信貴は荒れていた開善寺を再興したという。
また信貴は深志との対立のため、1554(天文23)年、信玄の伊那攻略に案内誘導し、深志の長時(17)を窮地に追いやった。
しかしその子信嶺は1582(天正10)年織田軍に降伏し、織田軍の先陣となって逆に武田の高遠城へ誘導したという。
これが戦国大名の力関係の変化に順応して生き残りをはかるしかない、中小名の悲しい、いやたくましい生き方。
そして1590(天正18)年、徳川家康についた信嶺が武州本庄に移封(1万石)となり、松尾の主はいなくなる(→武州本庄)。
飯田城趾
すでに戦国の世は終わっている1601(慶長6)年、惣領家の秀政(19)が信濃守となって、古河から、もともとあった飯田城に5万石で入封してきた。
久々に惣領家が飯田に戻ってきたわけだ。
1607(慶長12)年、妻登久姫(福姫)が疱瘡で逝去した(31歳)。
39歳の秀政は悲しんで剃髪し、私的に家督を嫡子忠脩(ただなが)に譲った。
愛妻の死がよほどショックだったようだ。
1613(慶長18)年、忠脩が松本城主(八万石:内2万石秀政)になっても、秀政は亡き妻が眠る飯田に残った。
が、1615(元和1)年、二人とも結局大坂夏の陣に出陣して帰らぬ人となった。
飯田城も今は跡形もなく、長姫神社や柳田国男の館が建っている。
飯田市立図書館
地元図書館は資料収集(と複写)の重要ポイント。
史跡の旅には外せない。
市立図書館は 飯田城趾・長姫神社・美術博物館が並ぶ通りにある。
史跡見学にも便利な場所。
『下伊那史』を始めとする多数の郷土資料がある(長野県は郷土研究が盛んな土地なのでじっくり閲覧したい)。
美術博物館でも小笠原氏に関連する特別展が催されることがある。
たとえば2005年「中世信濃の名僧」展では貞宗の木像など普段は見れない開善寺の宝物が展示された。
飯田に来たなら、南にある伊豆木にもぜひ足を運ぶべき。
開善寺から西に山一つ越えた所にある飯田市伊豆木は、小笠原家の資料館と重要文化財の建造物がある”小笠原の郷(さと)”だから。
参考文献
久保田:久保田安正『伊那谷にこんなことが』 南信州新聞社出版局
家譜:『勝山小笠原家譜』(勝山(松尾)小笠原氏の家譜)
笠系:『笠系大系』(小倉小笠原氏の家譜)
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