今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

東京:小笠原氏史跡旅14

2020年03月06日 | 小笠原氏史跡の旅

 伯爵家として上京後

忠忱ー長幹ー忠春ー忠統、長行ー長生

明治になって旧藩主は華族に列せられ、小笠原惣領家は伯爵、また唐津・勝山・安志の各小笠原家は子爵となった。
これら華族小笠原家はいずれも東京に出てきた。

豊津藩主忠忱の子長幹(ながよし、30)は貴族院議員となり、さらに国勢院総裁となった。
また各地の小笠原氏の史跡(飯田、松本、豊津)に碑を建立した。
武家の時代は終わり、これからは小笠原流礼法の現代化と、正確な普及が課題となる。


旧小笠原邸

東京のど真ん中、新宿区河田町にあるこの建物は、 1927 (昭和2) 年に忠忱の息子小笠原長幹伯爵の邸宅として、 小倉藩の下屋敷跡に建てられた。
スペイン風の建築で、都の選定歴史的建造物に指定されている。
小笠原氏の歴史や礼法よりも、むしろ近代建築に関心ある人の間で知られている。
今はスペイン料理のレストランになっていて、建物がいいこともあり、賑わっているらしい(私の母もランチで利用)
中のレストランを利用しなくても、敷地内に入って建物の外観の見学はできる。
特に館背面のテラスの装飾がポイント(下左写真)。
建物だけでなく、門扉の装飾にも注目。
ちなみにこの地、私の本籍地の隣町なんだな。

背面
正面入口

東京大学史料編纂所 など

史料の宝庫「史料編纂所」は文京区本郷の東大キャンパス内にある。
ここには小笠原惣領家に伝わる資料、たとえば家譜笠系大成、糾方的伝系、大鑑禅師遺戒、忠真碑銘などを小笠原長幹が寄贈した。
また勝山小笠原氏の史料(小笠原家譜)もここに移っている。
ただ歴史関係の資料が多く、肝心の礼書は少ないようだ。
ここは研究者向けに公開されており、閲覧するにはそれなりの入館手続が必要。

もっと気楽に小笠原家の礼書に接したければ、『礼書七冊』と同じものが、渋谷区広尾にある都立中央図書館で閲覧できる。古文書のままの書体だが、複写は可。

また千代田区永田町にある国立国会図書館には、惣領家の礼書こそないが、『笠系大系』や『勝山小笠原家譜』などの活字版があり、おおいに重宝。
また他家に伝わっている小笠原流礼書の古文書も多数ある。
礼法ではないが、生け花の『長時花伝書』の活字版があるのはうれしい。
積極的に利用しよう。これら文献についての詳しい情報は文献リストのコーナーで。


小笠原惣領家礼法研究所

長幹の息子でそして先代宗家の忠統(ただむね)(32)は、長野県松本市図書館長、相模女子大学教授を経て、日本儀礼文化協会総裁を歴任。
1980(昭和55)年、東京で「小笠原惣領家礼法研究所」を設立し、それまで門外不出だった惣領家礼法を現代化し、一般に広める活動を始めた。
それに伴い、貞慶が編纂した「礼書七冊」を『小笠原礼書』と題して翻刻出版(1978年)したほか、自身の著による礼法の啓蒙書・解説書も多数にのぼる。
その意味で忠統氏は、小笠原惣領家礼法の歴史においても、貞慶に匹敵する存在。

その研究所は、忠統氏の没後、小笠原源文斎(阿部 速)氏が所長となって、小笠原流礼法では唯一の(国に登録した)資格発行機関として小笠原流礼法の正式のインストラクターを養成していた(2019年没)。 

不肖小生こと源松斎山根菱高もその末席を汚した次第で、勤務先の大学でも、小笠原宗家礼法の実技指導をしている。


東京の墓所

明治以降、各地の小笠原家は上京したので、近代以降の墓所も都内に集中する。

海禅寺

浅草の西隣り、かっぱ橋本通りにある臨済宗妙心寺派の大雄山海禅寺(写真)は、江戸在府中に亡くなった歴代小倉藩主の菩提寺だった。
小笠原氏の伝統的な菩提寺である”開善寺”と同じ発音のここは、平将門が創建といわれている。
小笠原家のほかに蜂須賀家の墓所でもあった。
寺は今でも健在だが、歴代藩主の墓は今は遺構らしきものしか残っていない。
墓所には「小笠原家」の新しい墓があるが、家紋が惣領家のものとは異なる。

多磨霊園

多磨霊園には、忠忱以降の惣領家の墓がある。まだきちんと訪問していない。

幸龍寺

世田谷区烏山の”寺町”の中央部にある日蓮宗幸龍寺には、長行を始めとする唐津小笠原家の墓所がある。
東京に住んだのは長行からだが、この寺の檀家になったのは子の長生から。
墓誌(写真左下)には、歴代藩主が名を連ね、さらに初代の忠知の父、秀政(19)から記されており、宗家につながる血筋であることを主張している。
また敷地内に立派な宝篋印塔があり(右写真)、どこからか移設された感じ。
隣の小笠原長隆夫妻の墓の横に、「忠犬鈴谷之墓」なるものがあり、主人に愛されたことがわかる。

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豊前豊津:小笠原氏史跡旅13

2020年03月06日 | 小笠原氏史跡の旅

 最後の藩主として迎える維新

忠忱
2007年2月

福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)は、小笠原惣領家をめぐる旅の最後の地(残りは東京なので)。
小倉の旅から1年後やっとここに来れた。

時は幕末。1866(慶応2)年、第2次長州戦争が勃発。
小倉小笠原氏にとっては時が悪く、藩主忠幹ただよし28)が先年死去したばかり。
まだ5歳の幼い後継ぎ豊千代丸をかかえた家臣たちは、高杉晋作率いる長州軍に攻められて小倉城に自ら火を放ち、その地を去る(これを小倉では「御変動」という)。

一時肥後細川藩のもとに避難していたが、藩の落ち着き先を選ぶ必要がある。
家臣らによる投票の結果、仲津郡「錦原(にしきばる)の地に藩を移すことを決め、
その地を「豊津」と名づけた(古代このあたりを「豊の国」と言っていた)。

すでに豊千代丸は小笠原忠忱ただのぶ、29)と名乗っており、
廃藩置県までの短い間、明治2年「豊津藩」の藩主となる。
ちなみに、この地域をなぜ「みやこ・京都」というのかというと、景行天皇が宮を建てたという伝説によるという。


歴史民俗資料館

豊津での小笠原氏関係の資料は”小笠原文庫”として、みやこ町歴史民俗資料館(旧「豊津歴史民俗資料館」)に保管されている。
それらは忠忱の孫にあたる忠統(32)氏が、家に伝わる伝書類を豊津高校の同窓会に寄贈したもの(福嶋)。
それらは県指定の有形文化財になっている。
つまり歴史的価値はちゃんとある。
ちなみのこの資料館の開館式には忠統氏も出席されたそうだ。

資料館が作成した『小笠原文庫目録』によると、礼法関係では、1441(嘉吉1)年の小笠原政康(11)の『当家糾法大双紙』16巻が一番貴重
(→この礼書は偽書と判断されるが、礼書としての内容は素晴らしく、一部だけだが翻刻した)。
事前に閲覧を申し込んで、白手袋持参でできるだけ多くの礼書を撮影させてもらった。
あまりに多量の撮影だったので、カメラのバッテリー切れなど顔面蒼白のトラブルになった話はブログの記事にしてある→「九州の京都

学芸員の川本英紀氏は『豊津町史』・『行橋市史』をはじめとして、小笠原氏についてもかなりの執筆がある。
氏によると、小倉城を逃れる際の忠忱公らは、まずまともに家宝を持ちだせなかったとのこと。
そして逃れ先であった熊本の細川藩にも文書類が寄贈されているという(確かに細川家永青文庫の目録には多数の小笠原流礼書がある)。
さらに豊津に落ち着いてから、東京などで礼書を集めたという。
だから、ここの資料が小倉惣領家のすべてではなく、またそれ以外の収集品もまじっている。

また川本氏から発せられた疑問として、最後の藩主忠忱公は幼く、歴代の小倉藩主は養子を迎えたりしていたので、礼法は本当に伝わっていたのかということ。
それに対して公式見解を言えば、各藩主とも適当な時期に「糾法的伝」を受けていることは『笠系大系』に記されている。
ただ忠忱公は幼くして父(先君)を亡くしており、糾法的伝は受けていない。
そのことでかえって積極的に礼書を収集したのだろう。

いずれにせよ私自身は、中世武家礼法としての小笠原流礼法の確立過程(貞宗~貞慶の間、礼書でいえば、『三議一統』から『礼書七冊』まで)に関心が集中しており、それ以降(江戸時代)の伝承問題については、ほとんど関心がない。
江戸時代になると庶民相手に“小笠原流”と称する偽書っぽい作法書が多数出てくるし、また陰陽思想の過剰な脚色(神秘化という名の俗化)がされるし。
館内の展示には小笠原流礼法に関するものはないが、私にとっては小笠原文庫だけで充分。


小笠原神社

資料館に隣接した所にある。
これは小笠原氏の先祖を祀っていたのを明治になってここに移したものという。
いままで小笠原氏ゆかりの地の神社はすべて源氏の氏神の八幡神社だっだが、
最後の地のここでは小笠原氏そのものが氏神となったわけだ。
境内には小笠原長幹ながよし、30)篆額の大正4年建立の石碑がある(写真)。
樹木が少なく明るい境内で、敷地は整備されている。
小笠原神社前のグラウンドは小笠原氏の藩邸跡だ。

小笠原神社本殿
小笠原長幹の碑

小倉城内の藩校「思永館」

小倉四代藩主忠総ただふさ、24)は1789(天明9)年に城内三の丸に「思永斎」を建てた。
それが後に「思永館」と改名し、維新後は藩とともに豊津に移り、校名も変遷を続けて、現在の豊津高校になった。
思永館では当然のこと礼法も教えていたそうだ。
その豊津高校の敷地に藩校時代の黒門があり(写真)、奥には県指定の文化財で明治建築の思永館講堂がある。
その明治期の忠忱も郷土の人材育成に努力を惜しまなかったとか。
豊津高校は豊津という鄙びた所にあるが、藩校の伝統が生きていて、今でも北九州一の名門を維持しているという。

かように、豊津は藩主として最後の地であり、小笠原文庫・小笠原神社などがあって、ここも”小笠原の郷”といえる。


行橋市立図書館

豊津にはビジネスホテルがないので、豊津行きのバス・鉄道の出発地である行橋(ゆくはし)に宿をとり、そこから豊津までに往復した。
行橋には小笠原氏の史跡はないが、街の一角には家々の前に堀川が流れて風情がある。
街の東はずれに歴史資料館と図書館が一緒になった建物がある。

細かい話だが、豊津にある「みやこ町中央図書館」はコピー代が1枚20円と高い(ここの利用者には大量に複写を申し込む人はいないようだ)
ほぼ同じ資料がある行橋なら1枚10円と半額。
あるいは小倉の北九州市立図書館でもOK。

やがて忠忱は伯爵となり、東京に転居する。

ちなみに行橋駅前から、リニューアルオープンした北九州空港へのシャトルバスが出ている。
東京からの旅なら空路が便利かも。

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豊前小倉:小笠原氏史跡旅12

2020年03月06日 | 小笠原氏史跡の旅

 15万石大名

忠真ー忠雄ー忠基ー忠総ー忠苗ー忠固ー忠徴ー忠嘉ー忠幹ー忠忱
2006年2月

九州の玄関にして本州と接する要の地小倉(福岡県北九州市)は、九州にひろがる外様大名あるいは長崎・キリシタンの抑えとして、徳川氏の信頼厚い親藩レベルの大名・小笠原氏があてがわれた。

小倉は、小笠原秀政(19)の次男忠真ただざね、20)が播磨明石から1632(寛永9)年に15万石の大名として移封された地。

また6年後に甥(秀政長男忠脩の子)の長次(播磨龍野6万石)が豊前中津に8万石で、弟の秀政三男忠知が豊後杵築に4万石で、秀政四男重直は松平家に養子として豊後竜王に3万7千石で配置され、九州北部はさしずめ計30万石の小笠原王国の観を呈した。

その後惣領家だけは移封されることなく、幕末までずっと小倉の殿様だった(杵築の忠知系は幕末に肥前唐津藩主となって九州に戻る)。
といってもこのうち幾人かは養子であるが、いずれも糾法的伝は受けている。


宗玄寺

小倉北区妙見町にある宗玄寺は、もとは信州松本にあったもので、明石を経てこの地に現存。
秀政の家臣の墓があるという。

バス停「広壽山」で降りて、バス通り沿いの宗玄寺に行く。
通りからはけっこう壮大な本堂が見えるのだが、山門(写真)もその脇の通用門も閉まっており、境内に入れない。
「不許入門参拝者」というわけか。
裏門は開いていたのでそこからこっそり入る。
境内は自家用車が止まっているものの人の気配がない。
本堂も扉が閉まってて本当に参拝すらできない。

隅の壁沿いに五輪塔などの墓が並んであり、秀政から礼法を伝えられ文書に残した家臣の小笠原主水(もんど)の墓の写真を撮って急いでそこを去った。 
小笠原主水は、秀政に仕えた重臣で、秀政が妻の死を悲しんで隠居した時、行動をともにしたという。
そのような親密性もあって、秀政から礼書七冊(慶長本)を伝授される。
小笠原の一族として扱われたわけだ。
また、忠真に馬法を直伝したという(拾聚禄)。


広壽山福聚寺

ここは小倉小笠原家の菩提寺。
なぜ開善寺ではないのか、と思ったら、開善寺は別にちゃんとあった。
小倉2代目の藩主忠雄(21)が1665(寛文5)年黄檗宗の開祖隠元の弟子即非を明国から招いて創建。
また1701(元禄14)年に広壽山境内の如意庵を「長清寺」と改号。
長清の位牌を安置したという。

この寺は道沿いに案内標識があり、山号がバス停名になっているほどで、山の斜面に広大な寺域がある。
でも総門はくぐれたものの、本堂前の門が閉まっている。
北側の墓地から入ろうとしたけど入口がみつからず、もう一度、「広壽山福聚寺」と道標のある車道を進んでみる。
こちらは正門ではないのだが、駐車場があり、そばの裏口から境内に入れた。

しかし境内に入っても小笠原家の墓所が見当たらない。
本堂も閉まっており、賽銭を入れる口だけが開いている。
三階菱のある土蔵のような建物(写真)があるのだが、たぶん文書などの保管庫で墓所ではない。
仕方なしに、インターホンで住職に墓所を尋ねる。
そしたら、小笠原氏の墓所はこの寺ではなく、「右側の山の方を行った寺にある」という。

小笠原家墓所

そこと思われる山へ上がる道をすすむと、まさに右側に「忠真公廟所」の標識があり、その中は壁に囲われ木の門があった。
しかし門は固く閉まって開かない。
更に道を進むと左側の奥にも立派な墓所が見えてきた。
まずそちらに行く。
あたりは公園(足立公園)になっていて、墓所に達する道がないがかまわず直進。
三方を低い壁に囲まれた墓所は、江戸時代の小笠原の殿様の墓らしく立派だ。
その周囲にも外戚か家臣かの墓が並んでいる。

さて忠真公の墓だが、やはり目前にしてあきらめるわけにはいかない。
はるばる名古屋からやって来たのだ。
先の門からずっと坂をあがった墓所の裏口にあたる所に鉄扉があり、しっかり閉じ棒で閉められてはいるものの幸い施錠はされてない。
つまり手で閉じ棒をいじれば門は開く。
ときたま人や車が通るが、身なりを整え、できるだけ怪しくない風情を出して、さも廟所の関係者が用事があって入るかのように堂々と事務的に鉄扉の閉じ棒をあけ、廟所の敷地内に入った。

そして高さ2m以上の四角い石柱に四面とも漢文が彫られてある忠真公の立派な墓と対面した(写真)。
白い石に彫ってあり、しかも四面分もあるのでさらっとは墓碑銘の文が読めないのが残念。
すこし下に妻永貞院の墓もあり(夫婦並んでないのは側室のため?といっても嫡子忠雄は永貞院の子)、こちらは仏像が浮き彫りになっていた。
鉄扉をきちんと閉めて、後にした。

ちなみに小倉の殿様が代々ここに葬られているわけではない。
むしろ多くは江戸在府中に亡くなり、江戸浅草の海禅寺(かいぜんじ)に葬られた(→東京)。


開善寺

小倉の開善寺は小倉南区湯川にある。
広壽山からバスで湯川バス停点前に達すると、「開善寺参道」なる看板が出ている。
そこを左折して山側を登っていくと開善寺の門柱があり(写真)、参道らしくなってくる。
小倉市街の眺めがいい高台に達して開善寺に着く。
開善寺はもとは馬借町にあって、寺域も広かったらしい。
第二次長州戦争で幕軍を指揮した唐津藩主小笠原長行(→唐津)がそこに本営を置いたという。

しかし今の開善寺は、寺という雰囲気すらない。
本堂?も閉じられ、番犬がうるさく吠える。
自家用車が置いてあるから無人ではない。
ここは賽銭箱すらないので、参拝もできず、吠える犬のために早々に帰るしかない。
看板や門柱がある割には境内のなんと素っ気ない事。
しかしなんで小倉の寺ってみんな本堂が閉まっているの? 
しかも開善寺を除いて裏側からこっそり入る所ばかり。
小倉には寺の参拝者っていないのか。

開善寺とは貞宗(7)が小笠原氏の菩提寺と命じたので(→伊賀良・開善寺)、
移封先には必ず建てられたのだが、まともに寺として機能しているのは、本山たる飯田と、埼玉県の本庄だけ。
ここはなんとか寺として存続しているが、墓地もなく行く末が心配。
福井県勝山のように境内・墓地は立派でも、無住となって荒れている所もある。
全国の開善寺よ、団結せよ!


小倉城・庭園博物館

小倉来訪の主目的は、小倉城内の「庭園博物館(小笠原会館)」にある礼法関係の資料を閲覧・撮影することだった。
事前に申込書で正式に申し込んでおいた所蔵の礼書(巻物状態になっている)を館員の人が白手袋で広げていく。
私はそれをデジカメで撮影。
その作業の繰り返し。デジカメだからこそ貴重な和書を傷めることなくその情報だけを複製できるのだからありがたい。
ただ、館内の礼法に関する説明は、分家の赤澤家(→貞宗と赤澤氏)と水島流すなわち正式な小笠原流の継承者ではない水島卜也に依っている点で、惣領家の本拠地小倉の資料館の説明としては疑問に残る。

ちなみに水島卜也は小池甚之亟(じんのじょう)貞成から礼法を学んだが、この小池甚之亟貞成は長時・貞慶の家臣であった。
子孫はこの小倉の地に「小池流礼法」を伝えているという。

幕末に城を自ら焼き払って出ていった小笠原惣領家とその後の小倉城との関係はすでに久しく薄いらしい。
なわけで、所蔵の礼書は実は、小笠原惣領家伝来のものではなく、彼らが出て行った後に、地元の篤志家から寄贈されたものという。
だから拝見した礼書自体も水島流ばかりだった訳だ(それでも巻物の絵が丁寧・鮮明で貴重な資料であることには変わりない)。

信州松本での資料(福嶋)でわかったのだが、小笠原惣領家は小倉ではなく、出ていった先の福岡県豊津に多数の文書を寄贈した。
豊津こそが小倉藩主小笠原氏の最終到達点なのだ。
ならばそこを訪れないわけにはいかない。
でも 今回は豊津にはコンタクトを取っていないので、次の機会としよう。

あと小笠原会館併設のレストランでは本膳料理を体験できるという。
これは貴重。なにしろ和食の作法はいわゆる「懐石料理」では学べないから。
ただここは要予約でしかも一人は絶対不可だと。
勝山の「板甚」(→越前勝山・板甚)のように柔軟に対応してくれないのは残念

会館の売店で記念に三階菱の家紋が入った抹茶碗を買った(本当は家紋入りの茶入れが欲しかった)。
隣接している小倉城天守閣(写真)の土産物店には『三階菱』という名の焼酎がある(他の土産物店や酒屋にはなかった)
忠真の兜のミニチュア模型も買った。
このように、この店には小笠原氏に関連するオリジナルなものが多いので、小倉の土産はここで買うことをすすめる(駅の土産店だと明太子ばかり)


自然史・歴史博物館

いわゆる自治体経営の“歴史民俗資料館”も百万都市北九州ならかなり立派になる。
小倉から鹿児島本線で「スペースワールド」で降りる。
自然史コーナーの恐竜の巨大骨格群には驚くが、訪問の主目的は歴史の方。
館内には小笠原藩主代々の肖像、戊辰戦争での小笠原藩の遺品などが展示されている。

北九州市立図書館

小倉の街中にある。『北九州市史』のほか、小倉藩に関する書籍が多数ある。
また小笠原氏・礼法について詳しい『豊津町史』もここで閲覧・複写できる。

そして翌年、小倉の南東にある豊津を訪れた。

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播州明石:小笠原氏史跡旅11

2020年03月06日 | 小笠原氏史跡の旅

 躍進の途上・宮本武蔵との出会

忠真(忠政)・長次
2008年1月

源氏物語にも登場する播磨明石(兵庫県明石市)は、淡路島との間で明石海峡を形づくっている、地勢的に重要なポイント。
今でも国重要文化財の巽・坤の2棟の櫓が残る明石城(写真)は、江戸時代初期に小笠原氏が建てた。
国史跡の城内は公園や運動場になっており、市立・県立図書館もある。


惣領父子の戦死

徳川氏の権力を最終的に確立させた大坂夏の陣において、われらが小笠原秀政(19)とその嫡子忠脩(ただなが)がなんと戦死した。
小笠原秀政は、家康の孫娘登久姫(福姫)を妻に迎え、その嫡子忠脩は将軍秀忠から諱「忠」の字を戴いた(以後小笠原惣領は「忠」の字を受け継ぐ)。
また忠脩の妻亀姫は、本多忠政の娘で、その母国姫は福姫の妹である(要するに従妹が妻)。
この父子の戦死によって、長時(17)の”どん底期”以来、勢力を回復しつつあった小笠原氏は急転直下、再び存亡の危機に見舞われた。

忠脩の嫡子幸松丸は、戦死後に生まれたばかりの新生児。
まだ家督を嗣げない。
幸い、忠脩の二歳年下の次男忠政(彼も秀忠から一字を賜る。このとき二十歳)は重傷ながら、一命を取り留めている。
主君のために討死をした功ある親藩の家を断絶させるわけにはいかない幕府は、忠政に小笠原家を継がせ、すでに子持ちの兄嫁(亀姫)を娶らせた。
忠政は忠脩の嫡子幸松丸の継父となる。
実際、忠政は幸松丸こそ正当な後継と思い、自分を彼の後見の位置に甘んじようとした
(兄の家督を継いで結局小笠原家を長い内訌に導いた政康(11)の轍を踏まないことにしたわけだ)。

もともと忠脩・忠政兄弟は仲が良かったらしく、父秀政が忠脩にだけ糾法的伝をしようとしたら、
忠脩自身が、昔長基(9)が子の長秀(10)政康(11)の2人に糾法的伝した故事を挙げ、
弟忠政にも的伝してくれるよう頼んだという(秀政年譜)。

これは忠政が糾法の系譜を受け継いだと主張するための作話の可能性もあるが、
長基まで遡らずとも、実際に戦国期には糾法が断絶するのを防ぐために一子相伝ではななく、あえて複数に相伝していた。
といっても次男坊は、しょせん他家への養子要員であることにはかわらず、忠政は2千石の部屋住みだった。
それが突然、信州松本8万石の領主に持ち上げられたのだ。
ところが、それで終わらなかった。


忠政の明石築城

1617(元和3)年幕府は、外様大名の多い西国への警備を強めるために、桑名藩主本多忠政(岳父にあたる)とともに
忠政(以降、本多忠政と区別するため後年の忠真(ただざね)と記す)を播磨に移封した。
本多忠政はあの姫路城主となり、忠真は2万石加増されて明石に10万石の大名となった。

ただ、当時の明石には大名が居住できる城がなかったため、最初は家臣らを船上(ふなげ)城と三木城に分散して住まわせ、本多忠政とともに明石城の構築にとりかかった。
また松本にある開善寺や大隆寺、宗玄寺なども明石に移し、逆に城の敷地内になる月照寺(写真)などを域外に移した。
1619(元和5)年8月に明石城が完成し、続いて城下町も整備していった。
現在の明石市の賑わいの基礎は、小笠原氏によって作られたわけである。

1624(寛永1)年 忠真は10歳になった忠脩の遺子幸松丸に領地を譲る決心で幸松丸の拝領を将軍家光に願い出た。
その願いは2年後に実現され、1626(寛永3)年幸松丸(翌年元服して長次)は、播州龍野6万石を賜った。

忠真の予想に反して、長次は忠真から独立した大名になったので、忠真自身も隠居する必要がなくなった。
その際、重臣の一族や伝来の武具・什器なども半分を長次に譲ったという
(長次は小笠原家に由緒ある「信濃守」を継承したが、忠真から「糾法的伝」は受けなかったようだ)。

1631(寛永8)年正月、長次は岸和田城主松平康重の娘との婚礼を迎え、忠真夫妻も龍野に出向いた。
その地で夫人は忠真との三人目の子岩松丸(長宣)を出産した。
ただ残念ながら、その留守中に明石の城下から出火して、明石城も焼けてしまった。

翌1632(寛永9)年、忠真は豊前小倉に5万石の加増で転封となり、復興した明石から去っていく。
同時に龍野の長次も2万石の加増で豊前中津に移っていく(幕府による小笠原一族の北部九州配置策による)。

かくして播磨から両小笠原氏はいなくなるが、やがて長次家の子孫が、お家断絶の危機に瀕して山の中の安志(姫路市安富町)に1万石の小藩主として戻ってくる。
忠真の配慮によってその安志家にも礼法が伝わったという。
機会があったら安志も訪れてみたい。

それにしても、2000石の部屋住み次男坊が、本人の野望もないまま、タナボタ式に15万石の大名にまでなったのは、長い小笠原氏の中でも最大出世であろう。


忠真の人柄

甥長次への無欲の態度だけでも忠真の人柄が伺い知れるが、そのほかにも忠真の人柄を彷彿とさせるエピソードが明石の地に残っている。
忠真は母方から織田信長と徳川家康の血を受け継いでおり、両英傑の気風をもっていたといわれる(黒田2)。
※:登久姫(福姫)の父は家康の嫡子信康(自害させられる)で、母は信長の娘徳姫
また煎茶と抹茶を好み、彼自身の点前で家来に茶をふるまった(黒田1)。
後年、煎茶にも抹茶にも「小笠原流」ができるのも、この忠真のおかげであろう(小笠原流の茶については「三州吉田」で言及)。

さらに、糾法(弓馬礼)はもちろんのこと、料理も得意だったという(小笠原流料理術など作ってくれたらよかったのに)。
鷹狩りでは自ら庖丁を捌いて、家来ばかりか番人にも料理をふるまったという。
彼こそ、形式にこだわらない、真に(=敬)の心をもった人だ。
やがて九州小倉で黄檗宗の卓袱料理に出会って、大皿を各自の箸でつつく中国風の楽しい食べ方(本来の和式は銘々膳)に感動したのもうなづける。


武蔵登場

小笠原忠真にとって明石は、たかだか15年間の居住だが、そこで特筆すべき人物との出会いがあった。
宮本武蔵玄信である。
武蔵は、この頃、すでに独自の兵法を完成させていて、本多忠政の長男忠刻(有名な千姫の夫)の客臣となっていた。
かれの兵法は、比類無き達人であった剣術に基礎づけられるが、それに限定されず、将の兵法すなわち軍略にまで達していたらしい。

その宮本武蔵が姫路から明石に来て小笠原家の客分となり、明石の城下町造りに参画して、町割りをしたというのだ。
すなわち今も残る明石の市街区画は、宮本武蔵の作なのだ。

それだけでなく、城内の「樹木屋敷」(現在は陸上競技場)に公園(茶室や蹴鞠場なども)の配置を、美術の才もある武蔵が担当した。
現在では城内の広場に武蔵の意匠を復元した「武蔵の庭園」が公開されている(写真)。

さらに武蔵自身は仕官しなかったものの、武蔵の養子・宮本伊織が15歳の若さで忠真(当時の名は忠政)に仕える事になった。
この伊織もすこぶる優秀で、弱冠20歳で小笠原家の家老に昇進した。
それ以後、小倉転封後も伊織は小笠原氏に仕え、武蔵と伊織父子は島原の乱にも従軍した。

明石の地において、当時並ぶ者がない剣豪武蔵と武家礼法宗家とが出会ったのなら、何かを期待してしまう。
だが小笠原家は弓馬の宗家であり、武蔵は剣術だから、武芸として将と兵との格差があった。
弓術に関しては、信州伊豆木の分家小笠原長巨(ながなお)が指導に来ていた(長巨が当時糾法に最も長けていたようである)。

武蔵が忠真に剣術を指南したり、互いに武芸を論じ合った形跡はないが、
気さくで好奇心の強い忠真が、家臣の伊織を交えて、武蔵と談義したり、演武させた可能性は充分ある
(惣領家に残る伝説に、忠真が宮本武蔵に桑の木の湯たんぽを作らせて、それを家光に献上した、とある)。
小笠原流礼法は弓馬の武芸をもとにしているのだから、相通じるところはあるかもしれない。
なのでせめても、小笠原流礼法と武蔵の剣術論との接点を事後的に探ってみよう。


『五輪書』と礼法の接点

武蔵が残した『五輪書』(ごりんのしょ)から小笠原流礼法と共通する部分(まさに点でしか交わらないだろうが)などを抜き出してみる。
出典は、武蔵研究では最もレベルが高そうな「播磨武蔵研究会」のサイト

「身のなり、顔は俯むかず、仰がず、傾かず、ひずまず」(水之巻)

小笠原流の教え歌に「胴は只,常に立ちたる姿にて,退かず,掛らず,反らず,屈まず」とある。
こちらは胴すなわち姿勢のことだが、体幹を垂直においておくことが、次の対応を誤らせないようである。

「總じて、兵法の身に於て、常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とすること肝要なり」(同)

平時の礼法は戦時の弓馬の法に由来し、その弓馬の法は平時の動作法に由来している。
武家礼法はまさに「兵法の身を常の身とすること」にほかならない。
武家礼法を儀式故実と同一視している歴史・民俗学者にはわかるまい。

「總じて、太刀にても手にても、いつくと云事を嫌ふ。いつくは死ぬる手なり。いつかざるは生くる手なり」(同)

赤澤家小笠原流の伝書『換骨法』に、「居(い)つく身とは、沈む身なり。あるいは物を持つによく取りしめんと思い、その心にとらわれ、身のはまりすぎたる身なり。また心のあやぶむ故に居つくべし」とある。
心身の執着は臨機応変の対応を阻害する。
作法は形で表現するが、ベストの形の追究であるから、形に執着してはならないのだ。
作法と儀礼の違いはここにある。

「足のはこびやうの事、爪先を少しうけて、踵〔きびす〕を強くふむべし」(同)

赤澤家小笠原流の伝書『体用論』に「歩くも、遅(ね)るも、進にも、くびすを先に踏み着ける事」とある。
礼法の歩行は完璧なすり足。踵(かかと)を常に着地していると躓きやスリップなどの粗相がなくなる。
実は方向転換もしやすい。ただし走ることはできない(小笠原流でも走る時だけ踵を上げる)。
逆に言えば武芸では走ることは前提されない。
武蔵は飛び足や浮足を否定し、「殊に兵法の道に於て、早きと云ふこと惡し」(風之巻)と身体運動としての”速さ”を否定さえする(対応の”早さ”は必要とされる)。
「足にかはることなし、常の道をあゆむが如し」(同)という。

「陰陽の足とは、片足ばかり動かさぬ物なり。きる時、引く時、受る時までも、陰陽とて、右左々々とふむ足なり」(水之巻)

もちろん、右=陰、左=陽であるが、神仏を頼まない合理的な武蔵がここ一ヶ所だけ陰陽論をいうのは意外だ。
といっても当然武蔵は、形式的・迷信的な陰陽思想に準拠するのではない。
陰陽思想に基づいて動作をするのではなく、動作の合理性が結果的に陰陽交互的であるのを発見すべきなのである。
片足だけを送り足で動かすことは、常に一面を向いて体捌きができない固定した態勢である。
二軸歩行する当時の日本人にとっては、一歩を踏出すたびに体を最大180度廻転することができる。
陰と陽を交互に繰り出す事は、陰にも陽にも臨機応変に対応できることである。これは下の話にも通じる。

「鼠頭午首と云ふは、敵と戰ふ中に、互に細かなる所を思ひ合て、縺(もつ)るゝ心になる時、兵法の道をつねに、鼠頭午首、鼠頭午首と思ひて、如何にも細かなる中に、俄に大きなる心にして、大を小にかゆる事、兵法一つの心だてなり」(火之巻)

鼠=小、午(馬)=大の意であることがわかる。
小笠原流礼法では酒などを盃に注ぐには「鼠尾馬尾鼠尾とつぐべし」(『食物服用之巻』)という。
これは鼠の尾のような細い流れと馬の尾のような太い流れの交互の使い分けを意味している。
この鼠と馬の組合せは、一部の史家が誤解しているように儀礼としての「陰陽の儀」(『中原高忠軍陣聞書』)では決してない。
確かに子(鼠)=陰、午(馬)=陽なので”陰陽の義(意味)”ではあり、陰と陽という正反対の局面を交えて使い分けよということなのである。
陰陽両面をもつこと、それがあらゆる動作に肝要(武蔵の文意とは離れてしまったが)。

「我、道を傳ふるに誓紙罰文抔と云事を好まず」(風之巻)

家元制的慣習を否定したこれは、情報管理を徹底した伝統的小笠原流礼法のあり方と対立する(「伊豆木」参照)。
小笠原家がそうしたのは、小笠原流であることの純粋性を保持するために、ノイズが入る状況を極力避けるためである。
実際、「小笠原流」と称した疑似小笠原流が江戸時代以降巷(ちまた)に蔓延したし、今でも作法の本質(合理性)を知らぬ者が、へんな動作を”作法・マナー”と称して強制しようとしている。
しかし、だからといって本来の正当が門を堅く閉じていては、このすばらしい礼法が誤解されたままであり、文化的損失とさえいえる。
日本人の共有財産である小笠原流礼法をもっと広く開示することが必要だと思う。
なので今の小笠原流礼法では「誓詞罰文」は存在しない。


参考文献

『史話明石城』黒田義隆 のじぎく文庫 1975 (黒田1)
『明石藩略史』黒田義隆編 明石葵会 1981 (黒田2)
『五輪書』(原文・現代語訳・註解)播磨武蔵研究会 http://www.geocities.jp/themusasi/index.html
『小笠原家弓法書』小笠原清信 1975 講談社
『食物服用之巻』続群書類従19下
『中原高忠軍陣聞書』 群書類従23

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下総古河:小笠原氏史跡旅10

2020年03月06日 | 小笠原氏史跡の旅

 苦難克服

貞慶―秀政―忠真、信之
2006年3月,2007年5月

下総古河(茨城県古河市)は、鬼怒川・渡良瀬川・利根川が合流し、茨城・栃木・埼玉・群馬の県境があつまる関東のヘソであり(さらに千葉県にも近い)、地図を見ても関東平野のど真ん中。
だからこの地を抑えれば関東中ににらみをきかす事ができる。

古河といえば歴史ファンなら足利成氏などの「古河公方」を思いだす。
公方はこの地を抑えていたから、関東管領上杉氏や小田原北条氏に対抗できた。
公方家はその後下野(栃木)の喜連川に移り、戦国の世を終える(古河城は一旦は破却される)。

1590(天正18)年公方亡き後、再建された古河城の最初の城主になったのが、信州松本からきた小笠原惣領家のわれらが秀政(19)
まさに関東のへそ抑えの役といっても故郷の地から離され、しかも大幅な減封である。
だが、秀政はくさることなく、徳川家に忠誠を尽す。


栗橋城趾

ただし、正確には、秀政はまず栗橋城(茨城県猿島郡五霞町の元栗橋)に滞在して、古河城の完成を待っていた

栗橋城は、古河公方の支城であったが小田原北条氏に接収され、古河側の重要拠点である関宿城攻略の拠点となる。
小田原北条氏滅亡後、家康の関東入りに同道した小笠原秀政は、古河城を再建する間、
1590(天正18)年から1599(慶長4)年までここ栗橋城に居住した(秀政年譜)。

その間1598(慶長3)年、長男幸松丸(後の忠脩)が栗橋城で生まれた。
そして古河城に移った後は、家臣の犬甘氏をここに入れた。
その後、栗橋城は廃城になったという。
というわけで、栗橋城趾はあとかたもなく、城があったという解説板(写真)と、空堀を残す程度。
なので、小笠原氏史跡の旅としてはあえて訪れるほどではない。

それでも行くなら、東武日光線の南栗橋駅から歩いて権現堂川の橋を渡って、キューピーの工場を過ぎた最初の交差点を右折し、道の右側にある日蓮宗宝宣寺が終わって右に入る小道の入口に、城址の解説板がある。
その小道(写真で奥にはいっている道)を入ると、空堀も確認できる。
その奥は民家だから入れない。
あと裏手にまわって、流れのない権現堂川の風情を味わうのもいい。
栗橋城はこの権現堂川をまたいであったという。

私はここから因縁浅からぬ関宿城(→関宿・国府台)まで歩いて行った(交通の便がないためであり、途中に見るものはない)
車なら栗橋と関宿の両城趾を楽に廻れ、さらに古河も近い。
ただ、古河市内の寺は道が細い。
さて、話を古河に戻そう。


礼書七冊

秀政に同道した父貞慶(18)は、この地古河で入道して「宗得」と号した。
その父長時(17)から伝授された礼法を七冊(元服之次第、万躾方之次第、通之次第、酌之次第、請取渡之次第、書礼法上、書礼法下)にまとめ上げ、1592(天正20)年秀政に伝授した(糾法的伝はこれより6年前)。
この『礼書七冊』こそが現在の惣領家に伝わる最も正当な小笠原流礼書である。
秀政からすれば、父貞慶と松尾系の長巨の二人から教えを受けたことになる。

また、1601(慶長6)年秀政が古河から信州飯田に去った後、松尾系の小笠原信之も1612(慶長17)年に本庄から2万石で移って城主になっている(子の政信の代に関宿へ移封)。

このように古河は、小笠原家とはダブルで縁がある地で、しかも小笠原流惣領家の礼書が完成された記念すべき地である。
ところが古河市側は戦国時代の古河公方と後の藩主土井氏やその家臣鷹見泉石(渡辺崋山が描いた肖像画のモデル)のゆかりの地と名乗っているだけで、小笠原氏には関心が薄い。
古河の基礎を作ったのは小笠原氏なのだが。


公方別館の跡

やっぱり古河に来たら、私も“古河公方”を無視できない。
まずは公方様へ挨拶に行く。
今はのんびりした古河総合公園になっているここは公方別館の跡だという
(写真:本館すなわち最初の古河城は渡良瀬川の河川工事の後河川敷になってしまった)。
近くの古河城出城の諏訪郭の跡地にある歴史博物館は鷹見泉石や土井氏が中心で、小笠原氏に関するモノはなかった。


隆岩寺 貞慶供養塔

隆岩寺は、秀政が妻福姫(あるいは徳姫)の父(岳父)岡崎三郎信泰(家康の長男で自害させられた)の菩提を弔うために建てた寺。
墓地の中を探すと、墓石を埋めて供養した立派な墓のような貞慶の供養塔があった(下写真)。
秀政の次男でここ古河で生まれた初代小倉藩主忠真(20)が建てたという。
石製の扉にこの供養塔の由来が彫ってある。
この供養塔は私にとって古河で一番大切な訪問先となったのだが、またもや手向ける花を持ってこなかった。
写真は帰りがけに花屋をみつけて再訪した時のもので、右側にだけ花束がある(ケチったな)。

隆岩寺本堂
貞慶供養塔

正麟寺 秀政創建

更に北にある正麟寺も秀政が父貞慶を弔うために建てた寺。
寺紋は三階菱で小笠原氏による小笠原氏のための寺(写真)。
墓地にまわると、三階菱の小笠原家の最近の墓が離れて2つあった。
無縁仏に献花していた住職の奥さんらしき女性に聞いたら、
小笠原の子孫家が檀家となっているという。
でも貞慶・秀政にまつわる遺跡は見当たらなかった。

実は、隆岩寺にあった貞慶の供養塔はここ正麟寺から発掘されたと、先の貞慶の供養塔の解説板にあった。

ちなみに貞慶を埋葬した大隆寺は秀政の移封に伴い、飯田さらに松本へ移り、さらに明石、最後は小倉に移ってその地で他の寺と合併されて現在は大正寺となっているという。

松本城を奪還し、礼書七冊を書き上げた貞慶は、小笠原家存亡の危機を救い、実質的に中世武家礼法を小笠原流礼法として集大成した、まさに「当家中興の英雄とも謂うべき」(溝口家記)と評される人物だ。

古河は他の地と違って小笠原氏との関係をほとんど謳っていないが、貞慶が眠るここ古河の地は小笠原流礼法の歴史にとって最重要地の一つである。

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新型コロナ大不況の入口?

2020年03月06日 | 新型コロナウイルス

今日、国会図書館に行ったら、入口の鉄門が締まっていた。
16日までとりあえず(ことによってはそれ以降も)休館だという。

仕方ないので、繁華街に買い物に行ったら、営業時間を短縮するという館内放送が流れている。
帰宅する駅に着いたら、隣接するショッピングビルが感染防止のために一斉休業するという。

自分の職場でも送別会や卒業パーティが軒並み中止となった。
それで予定が変わったため、自分の宿泊旅行もキャンセルした。

今後、人が集まる場所が次々閉鎖され、人々は自宅に篭る生活となる。
そうなるとサービス業(観光、娯楽、飲食等)を中心として、経済が動かなくなる。

3月前半の1,2週間だけ我慢すればいいのか。
でもその間に、それに耐えきれない業者・個人経営者も出てくるだろう。

株価も下落が続いている。
今、恐ろしい大不況の入口にさしかかっている感がする。

そもそも、安倍総理は、リーマンショック級の出来事が起きていないことを理由に、昨年10月に消費税を上げた。

消費税の増税自体が、直接景気を悪化させる原因となることは、導入時を含めた過去3回の経験で、明らかである。
なので当然、昨年第四四半期の景気が悪化した(台風の局地的影響ではない)。
そしてその後暖冬が続き、さらに今回のウイルス騒ぎによる全国的な活動自粛。

安倍総理は、経済ショックと増税のどちらか1つだけに絞ったつもりだったが、
増税後にリーマンショック級の出来事がやってきつつある現在、結果的に最悪の選択をしたことになる。

しかもその出来事を招いたのも、1月に武漢周辺からの中国人旅行者を”歓迎”したことが原因(あの無策ぶりに嫌な予感がしていた)。
その後、クルーズ下船客まで市中に解放した。
こう見ると、まるで国内の市中感染を意図したかのよう。

まぁ、日本政府の危機管理がダメなのは、今にはじまったことではないが(東日本大震災、阪神大震災の時も)

だからあえて寛大な心で言うと、
過ちは、損害が拡大しないうちに改めれば、致命的にならない。
大不況におちいれば、消費税増税で期待した税収などふっとぶマイナスとなる(そもそも消費しなくなる)。
もとより増税は、国民の生活が活性化した状況下でないと(景気対策→所得増→増税の順)。

今、止りそうな経済を動かすには、今回の景気悪化の原点に立ち返えれば、国民全体に行きわたる大規模な財政出動(消費税減税)がいいのではないか。