今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

新型ウイルスを正しく怖がるには

2020年03月29日 | 新型コロナウイルス

東日本大震災の時に言われていた「正しく怖がる」ことの大切さ、その難しさを今回も痛感している。
元は明治時代の物理学者で漱石の弟子・寺田寅彦の言。
寺田の言を正しく引用すると、「ものを怖がらな過ぎたり、怖がり過ぎたりするのはやさしいが、正当に怖がることはなかなかむつかしい」ということ。
すなわち、われわれはどうしても「怖がらなさすぎ」か「怖がりすぎ」のどちらか一方の端に走ってしまうのだ。

「怖がらなさすぎ」は、誤った安心によって、密閉・密集・密接を避けることをせず、感染のリスクを高め、被害にあう。
一方、「怖がり過ぎ」は、誤った不安・恐怖によって、パニック行動に走り、新たな社会不安を引き起こし、自分だけでなく他人を別の危機に巻きこむ。
しかも、この両者は互いに相手をバカにし合っている。
なぜ、両端のどちらかになりがちかというと、人は、感情の赴くままに思考を合わせた方が、頭も気持ちが整合して、”楽”だから(迷わなくていい)。

一方向ではなく、両方向のバランスを取る位置(中道)にいる事は確かに難しい。
それができる人間になることが、一段ハイレベルな人類になる事に等しく、現人類の目標といってもいい。
現人類は、直立二足歩行によって、バランスを取り続けることが運命づけられているわけだから、バランスをとろうとすることなら、誰でもできる(しなくてならない)。

どうすればいいか。
感情(安心)ではなく、理性的判断(安全)を求めること。
無根拠で主観的な安心・不安ではなく、客観的根拠のある安全を基準にする。
こう言ってもいい。すでに固定した感情に思考を合せるのではなく、揺れ動く(柔軟な)思考に感情を合せること。

安全の根拠は、確かな(信頼できる)情報にある。
それは最も合理的な知性の営為である科学的情報を意味する。
ただし今回は、新型なので、信頼できるデータ(エビデンス)はない。
それでも、ここ数ヶ月でのデータは蓄積されており、またウイルス一般の知見からも、ある程度信頼できる情報は導出できる。
まずは、(新型でなくても)コロナウイルス(従来の風邪の原因と共通)の感染について、あるいは死をもたらすウイルス性肺炎について、基本的な事項(情報)を学ぶべきだ。
ネット(素人の塊)やテレビ(素人コメンテーター)ではなく、専門家が書いた書籍レベルで(できたら複数の著者)。
専門書でなく、新書レベルでいい。
”科学”的情報なら講談社のブルーバックスあたりがいい(宮坂昌之『免疫力を強くする』など)。
家にいる時間があるのだから、しかも今は本はネットで注文して宅配してくるのだから、入手はたやすい。

ただ、学問の先端に行けば行くほど、不確実性が増すので、安全についても不確実性が高まるのは、やむをえない。
すなわち、いくら信頼できる情報を得ても、”安心”に達することはなく、われわれは、怖がることから逃れられない。
ただ、そのレベルの怖がりこそが、最も安全度が高い。
それが「正しく怖がる」ということである。