私自身のスピリチュアル志向には論理的必然性があるものの、世の”スビリチュアルブーム”には全く関心ないし、危険だとすら思っている
(それだったら”超能力ブーム”の方が、超心理学という実証的心理学に準拠しているので、まだマシ)。
最もストレートな危惧は、自称”霊能者”に騙されること(詐欺やセクハラの被害を受け、果ては人生を狂わされる)。
なぜなら、システム2が心の最上位レベル(=システム3に達していない)の常人には、霊能者の真偽の区別がつかないため
(尤も、大抵の偽者は、システム2の科学的・論理的思考で見破れる)。
私自身のスピリチュアル志向は、人間の心を構成しているシステム2(思考・想像する心)の欠点に達し、その欠点に対処するためで、
その結果、より超越的なシステム3(瞑想)、そしてシステム4(スピリチュアリティ)の扉を開けた(仏教もこれに対応している)。
すなわち、知性(システム2)が十全に作動していることが前提となっている。
システム2をきちんと鍛えない人は、システム2を超越するどころか、システム2の欠点である神話的思考(想像と現実の混同)の罠に嵌(はま)っていく。
自称霊能者の頭(システム2)が捏造した神話(お話)を、”スピリチュアルな世界”と思いこまされる。
素朴なシステム2だと”辻褄が合う”だけで納得してしまうから。
実はそれこそがシステム2の限界(欠点)なのだが、本人はそれを超越したと思い込んでしまう(その結果、その人の霊的成長はそのレベルで停止する)。
スピリチュアリティ(霊性)の世界は、確かに”念”の力が発揮されるが、それはシステム2の単なる頭の中での念(妄想)とは異なるもので、
心がシステム4に達していない常人ではその違いがわからない。
そういう危険性があるから、「正しい師につけ」(正しくない師につくな)という教えがあるのだが、
上述したようにそもそもこのレベルの人は師の正邪を判断する眼を持っていない。
あえて「師を求めるな」と語ったクリシュナムルティ※は、安易に師を求めることは、自分の願望を投影した”師”に嵌ってしまうことを危惧した。
まさに、麻原彰晃を師(グル)としたオウム真理教の信者たちがそうだった。
※:子供時代に神智学のトップに見出され、やがて自身が神智学協会のトップに立った途端それを解散した。教団という社会集団自体が反・霊的であることを痛感していたのだ。
ちなみに、ゴータマ・シッダールタ(釈尊)も満足する師に出会えず、結局一人で悟りを開いた。その後の釈尊はサンガ(出家集団)を組織したが、そのサンガこそ仏教史上最も”正しい師”の元にあったといえる。
現世レベルでの正邪を見極める眼は、システム2(思考能力)を正しく鍛えることで達成できる。
正しいスピリチュアリティに達するのに抜け道はない(能力差はある)。
システム2をきちんと鍛え(「正見」=正しく見る努力)、システム3(「正定」=正しい瞑想による正見の実現)でシステム2の妄想支配から脱し、
そしてやっと真正のシステム4の扉を開けられる。
こう言ってもいい。
思考している自分から脱するシステム3に達しないと、すなわち通常のシステム2レベルだと、システム4(霊性)とシステム2(妄念)との区別がつかない。
真っ当な霊性に達したいなら、まずはシステム2を十全に作動させ、さらにきちんと手順を踏んでシステム3を作動させて、システム2の限界を乗り越えること。