卒業式などが中止になって、勤務先の大学も実質的にほぼ春休みながら、日曜は雨天で家の中にこもっていた。
晴天になった月曜、気晴らしに出かけたい。
でも今の時世、公共施設は軒並み閉鎖。
そして不特定の他者と狭い空間を共有する公共交通機関もできるだけ使いたくない。
となると、徒歩での外出になり、行き先は必然的に徒歩圏内となる。
これならマスクもいらない。
どうせなら、市中、いや国中、いや世界中の病魔退散を祈りに行きたい。
それなら薬師様が最適だが、あいにく近場に見当たらない。
次に頭に浮かんだのは、文京区小石川にある「こんにゃく閻魔」。
たしか病気平癒の御利益があるはず。
閻魔様の威力に期待しよう。
ちなみに、文京区は、武蔵野台地の末端と江戸城外郭の旧下町(神田・お茶の水)の間にあるため、坂が多いことで有名。
なので文京区の散歩は必然的に斜面歩きが加わり、それだけ負荷がかかって運動効果も高まる。
まずは動坂を登りきり、白山の坂(名称不明)をくだって、地下鉄2駅分を歩いて、こんにゃく閻魔前の交差点に達する。
ここは文京区でも珍しい下町商店街的な門前町が残っている。
こんにゃく閻魔は、源覚寺という浄土宗の寺の閻魔堂に鎮座している。
門前町を形成している源覚寺は、私が勝手に”文京の三名刹”としている護国寺・伝通院・吉祥寺に次ぐ、4番目の寺と言っていい。
前三者が、公的に格の高い寺なのに対し、この寺は庶民の人気で勝っている。
まずは本堂の阿弥陀様を拝み、そして閻魔堂に向う。
堂内の中央に構える閻魔様は、左目(向って右側)は肉眼と見まがう玉眼だが、右目は玉眼になっていない(右写真)。
伝説では、おのれの右目を犠牲にして、平癒を祈る老婆の眼病を治したのだという(客観的には、左目だけ後から玉眼にした感じ。でも片目だけそうする理由がわからない)。
そして目が治った老婆は、お礼に自分の好物であったこんにゃくを捧げ、それ以来、閻魔堂にはお礼のこんにゃくが積まれるようになった。
また、境内奥には、「塩地蔵」といって、自分の悪い部位と同じ部位に塩をかける地蔵の石仏?があるのだが、長年の塩が山積みになり、またその塩で石像が溶けて、塩の塔にしかみえない姿になっている。
かように、ここには2つもの平癒祈願対象があるのだ。
ところで、塩地蔵前の空間に灰皿が置いてあって、近所の会社員たちがここにやってきて、昼休みの喫煙場にしている
(最近は職場内にも喫煙スペースがなくなっているので、灰皿が置いてある場所は、喫煙者には貴重らしい)。
なので平日の12時台に塩地蔵を拝むには、息を止めて紫煙・副流煙の中を通らねばならない。
ここから、北西の台地側に進み、善光寺のある善光寺坂を上がって、隣接する慈眼院という寺に入ると、石仏より狐の石像が目につく。
寺の奥には稲荷の真っ赤な鳥居が並んで、一番奥に稲荷社がある。
そこは澤蔵司(たくぞうす)稲荷といい、隣の大寺・伝通院の学僧・澤蔵司が実は浄土教学を学びにきた稲荷の化身であったという伝説にもとづいている。
なので浄土宗の寺と稲荷神社が1つの境内に仲良く並ぶ”神仏習合”を実現している。
神仏習合こそ日本人の自然な宗教心を表した状態だと思っているので、こういう所があることを嬉しく思う
(稲荷社は神社本庁に属していないので、明治以降続いている神仏分離から自由でいられる)。
善光寺坂を上がった道路上に、大きなムクノキがある(右写真)。
「善光寺坂のムクノキ」というその木は、車道拡張の邪魔になったが、道の方がこの木で二つ(歩道と車道)に別れて、木が守られている。
でも、この木、半分は枯れている。
といっても米軍の空襲による被害だというから、半分枯れた状態で70年も生きている。
体の半分焼かれれば死んでしまうわれわれ動物からすれば、樹木の生命力に驚嘆する。
当然、このムクノキは神木としてしめ縄が巻かれている。
木に近寄って、気の交流をした。
さらに伝通院に達したので、一応本堂に参拝し(徳川家康の生母や秀忠の子千姫の墓、幕末の志士・清川八郎の墓などは過去に見学済み)、門前の向こうにある「萬盛」という蕎麦屋に入った。
江戸時代から続くこの蕎麦屋は、先の伝説の澤蔵司が好んで通ったという話があり、それを縁に、澤蔵司稲荷に蕎麦を朱塗りの箱に入れて奉納し、それが380年も続いているという。
その”箱蕎麦”がメニューにあるので、それを注文した(800円)。
稲荷の鳥居と同じ朱色の箱に蕎麦と猪口、つゆが納まっていて、蕎麦の左脇に切った油揚げが添えてある(右写真)。
蕎麦は、細身で、色はやや薄め。
もりやざるより高めな価格設定もあって、量はそれらより多めか。
周囲の地元客は、そばと丼がセットになったランチを注文しているが、私は昼は抑え目にするのでこれで充分。
ここから中央大学理工学部の脇を進む途中、牛天神といわれる、天神社(貧乏神を祀る太田神社、高木神社を併設)に寄り道する。
ここは牛坂の上の高台にあって、西の神田川(新宿区)方面を見下ろせる位置にあり、葛飾北斎が富嶽三十六景の1つ「礫川雪ノ旦」を描いた場所でもある(今日は富士は見えない)。
その途中、常泉院という真言宗の寺に寄ったら、「小島烏水永住の地」という石碑があった。
小島烏水(こじまうすい)とは、日本の近代登山の幕開けをした人で、たとえば新田次郎原作の映画「劒岳 点の記」にも登場する(演じたのは中村トオル)。
中央大学から富坂を降りきって、後楽園の東京ドームを脇に見て、文京区役所のあるシビックセンターに達した。
ここらは文京区の一番の低地で、同時に一番の繁華街。
区境を画す神田川(江戸城外濠)の向こうは千代田区。
充分歩いたので、ここからは地下鉄を使って帰った。
地下鉄では車内の窓の上端部分が開けられていた。