多くの人が初詣に寺社に行くが、果たしてそのうち何割の人が礼拝しているか。
多くの人は、礼拝ではなく、祈願をしているのではないか。
祈願とは、神仏に対して、何らかの願い事の実現を祈ること。
絵馬や護摩木に書かれる内容であり、おみくじに書かれていることである。
実際、多くの寺社は”ご利益”を謳って参詣者を呼び込んでいるので、ご利益の祈願目当てに詣でるのも致し方ない。
ところが私は、寺社に足を運んだ時はもっぱら礼拝だけをし、よほどの事でない限り祈願はしない(ブログで寺社を訪問した時は全て礼拝)。
礼拝とは、神仏を礼の心で拝すること。
すなわち、神仏に対する敬の想念※を心に満たし、それを所作(合掌)として表現すること。
※:礼とは、敬の想いを形に表すこと(礼記)
なのでその瞬間は、想い(情)に満ちて思考は停止し、意識はほぼ無心になっている(ここが言語を要する祈願と異なる)。
礼拝することで、御神体や御本尊に対して敬の念(エネルギー)が放射される(という)。
このような参詣者たちの礼拝(エネルギー放射)によって、御神体や御本尊はさらにパワーが増す(という)。
そのようにしてパワーを高めた結果、人々の祈願を受け入れることが可能となる(という)※。
※こういう論理は、永久保貴一画・秋月慈童語り『密教僧秋月慈童の秘儀 霊験修法曼荼羅』第4巻にも載っている。
祈願だけの人は、自分の少ない賽銭だけで、神仏のパワーを過分にもらおうとする。
しかも祈願の内容は自己利益(欲の充足)そのものだったりする※。
※:ご利益が有名で参詣者が全国レベルで多い神社が、ばけたんで霊を探知すると”何もいない”と出たりする。祈願者のエゴの念が境内に充満しているためだろう。そもそも安易な欲の充足を謳うことは人の心を正しい方向に導かず、宗教としては悪手である。一方、山中の素朴な祠は、少人数ながらも純粋な礼拝対象のため霊は捕捉される。
私が礼拝だけをするのは、こういう場ではまずは礼拝(敬の念の放射)をすべきものだから。
祈願を滅多にしないのは、たいていの願い事は、人間の努力で達成すべき(できる)ものだから。
特に自己の利益に関する事は自分で何とかする(たとえば”健康”は生活習慣と医療によって祈らずとも実現している)。
唯一、姪の大手術の時は、自分は手術に関与できないため、護摩木に書いて成功を祈願した(手術は大成功)。
かように祈願で期待するパワーはそれまでの礼拝の念の集積が前提とされる。
なので、まずは(祈ることがなくても)礼拝しよう。