『都立秋川高校 玉成寮のサムライたち』岩崎充益著(パピルスあい)。
本書は、「都立秋川高校」という、1965年から2001年までの36年間、5715名の卒業生を出した、都立でありながらユニークな全寮制男子高の話。
「玉成寮」とはその寮の名。
私の母校だ。
著者は、秋川高校廃校時に舎監長(寮の管理担当の長)だった。
ちなみに出版元の「パピルスあい」の取締役も同校の3期生。
開校から廃校までの軌跡が、教師側の視点で語られている点が、生徒だった私にとって新鮮。
なぜわが母校が廃校になったのかも当然語られている。
それは端的に言って「費用対効果」が得られなかったためだ。
都立高だから都民の税金が運営に充てられている。
広大な敷地に生活施設も含むため、費用は他校の比ではない(それでいて授業料は同額)。
効果を出せなかった側の1人として、この指摘は心苦しいが、他に替える事の出来ないすばらしい思い出を得られたことは感謝している。
経営ではなく教育の問題に言い換えると、
イギリスのパブリック・スクールを範とした”エリート教育”の挫折(ここでいうエリートは、単なる偏差値だけのエリートのことではない)。
そして、厳しい規律による”鍛える教育”の挫折だ。
著者の指摘によれば、これらの理念が、戦後民主主義と個人主義とは相容れなかったということ。
言い換えれば、建学の理念は特定の時代精神を超えたもっと幅広い視野に立っていた。
秋川高校の廃校はかような教育理念の挫折を意味するが、
本書があえて今書かれたのは、日本の教育はそれでいいのだろうか、という問いかけでもある。
それに対して「ダメでしょ!」という証人として、われら卒業生が名乗り上げれば話はうまくいくのだが、そう自信たっぷりに出られない所が心苦しい。
ただ中学3年の時には成績が悪くて、私立・国立の進学校は最初から選択肢外で、地元の都立高も無理だった私が、はるか50km離れたこの高校に入って少なくとも学力的には変貌できたことは、すばらしい青春の思い出に追加できる”効果”だ。
生徒だった1人として本書で目が開かれたのは、実質24時間勤務で私生活を犠牲にした先生方の労苦の事。
全寮制は例外だったので法的裏付けがないため、教職員に特別な手当てが出ず、運用の無理が、教員・職員の犠牲の上に放置されていた。
在学当時、ほとんどの先生が日教組に入っていたが、日教組がストを指令しても、我が校だけは、授業も寮の監督もしっかり通常通りだった。
一人一人の先生が”労働者”である以上に”教師”であった。
私が卒業後の話だが、生徒側から卒業式で「仰げば尊し」を歌わせてくれと要望があり、実現されたという。
高校の卒業式でこれが歌われていたのは他にないらしい。
秋川高校の生徒たち(だけ?)は、「我が師の恩」を身にしみていたのだ。
本書にも登場する米山先生は、毎年われらの同期会を楽しみにしてくれていたが、今年急逝された。
3年間ずっと寮生活でテレビもろくに見れず、空腹を抱えながらも、毎日が修学旅行の宿のような集団生活をさせてもらったのは、本当に”贅沢”だったと、つくづく思っている。