今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

『玉成寮のサムライたち』

2015年03月06日 | 作品・作家評

『都立秋川高校 玉成寮のサムライたち』岩崎充益著(パピルスあい)。
本書は、「都立秋川高校」という、1965年から2001年までの36年間、5715名の卒業生を出した、都立でありながらユニークな全寮制男子高の話。
「玉成寮」とはその寮の名。

私の母校だ。

著者は、秋川高校廃校時に舎監長(寮の管理担当の長)だった。
ちなみに出版元の「パピルスあい」の取締役も同校の3期生。

開校から廃校までの軌跡が、教師側の視点で語られている点が、生徒だった私にとって新鮮。

なぜわが母校が廃校になったのかも当然語られている。
それは端的に言って「費用対効果」が得られなかったためだ。
都立高だから都民の税金が運営に充てられている。
広大な敷地に生活施設も含むため、費用は他校の比ではない(それでいて授業料は同額)。

効果を出せなかった側の1人として、この指摘は心苦しいが、他に替える事の出来ないすばらしい思い出を得られたことは感謝している。

経営ではなく教育の問題に言い換えると、
イギリスのパブリック・スクールを範とした”エリート教育”の挫折(ここでいうエリートは、単なる偏差値だけのエリートのことではない)。
そして、厳しい規律による”鍛える教育”の挫折だ。
著者の指摘によれば、これらの理念が、戦後民主主義と個人主義とは相容れなかったということ。
言い換えれば、建学の理念は特定の時代精神を超えたもっと幅広い視野に立っていた。
秋川高校の廃校はかような教育理念の挫折を意味するが、
本書があえて今書かれたのは、日本の教育はそれでいいのだろうか、という問いかけでもある。

それに対して「ダメでしょ!」という証人として、われら卒業生が名乗り上げれば話はうまくいくのだが、そう自信たっぷりに出られない所が心苦しい。

ただ中学3年の時には成績が悪くて、私立・国立の進学校は最初から選択肢外で、地元の都立高も無理だった私が、はるか50km離れたこの高校に入って少なくとも学力的には変貌できたことは、すばらしい青春の思い出に追加できる”効果”だ。

生徒だった1人として本書で目が開かれたのは、実質24時間勤務で私生活を犠牲にした先生方の労苦の事。
全寮制は例外だったので法的裏付けがないため、教職員に特別な手当てが出ず、運用の無理が、教員・職員の犠牲の上に放置されていた。
在学当時、ほとんどの先生が日教組に入っていたが、日教組がストを指令しても、我が校だけは、授業も寮の監督もしっかり通常通りだった。
一人一人の先生が”労働者”である以上に”教師”であった。

私が卒業後の話だが、生徒側から卒業式で「仰げば尊し」を歌わせてくれと要望があり、実現されたという。
高校の卒業式でこれが歌われていたのは他にないらしい。
秋川高校の生徒たち(だけ?)は、「我が師の恩」を身にしみていたのだ。

本書にも登場する米山先生は、毎年われらの同期会を楽しみにしてくれていたが、今年急逝された。

3年間ずっと寮生活でテレビもろくに見れず、空腹を抱えながらも、毎日が修学旅行の宿のような集団生活をさせてもらったのは、本当に”贅沢”だったと、つくづく思っている。


滝山城跡から秋川校跡へ

2015年03月04日 | 城巡り

実質的に春休みとなり、帰京しているので、平日ながら、山城を訪問する(先週の水曜は清洲城に行った)。
さて今回は「滝山城」(八王子市)。

実は、ここは高校1年の時、入学した近くの全寮制の高校から自転車で訪れた所。
その頃は城=天守閣というイメージだったので、堀や曲輪を見ても「何もない」という印象だった。
だが、ここを訪れたことで、この地域の中世戦国史に興味をもち始め、高校の「地歴部」に入った。
同じ東京でも区部にいると、太田道灌と徳川家康の存在感が強すぎ、その両者の間が抜け落ちてしまう。

それが西多摩になると、滝山城の大石氏と北条氏照を経由して、後北条氏中心の関東の戦国戦乱史に目が開かれる。

高校の時と異なり、滝山城跡の曲輪群をくまなく歩く。
本丸や中の丸からは、多摩川と秋川の合流点が眼下にひろがり、城攻めに武田軍が布陣した対岸の拝島大師も見下ろせる。
それどころか、狭山丘陵の西武ドームや、はるか上越国境の谷川岳(謙信の越山ルートあたり)まで望め、優れた城であることが今でも納得できる。
ただこの名城も、戦略的理由からか、氏照の代に八王子城に引越し、廃城となる。 

滝山城の次は、我が高校の跡(廃校)に足を運ぶ。
バスの便が悪いので、戸吹までバスで行き、そこから先は徒歩で峠を越えて、秋川(アキガワ)を渡り、青春の3年間を過した秋留台地に入る。

まず、道沿いの中村酒造(ここの黒い板塀は昔のまま)で「千代鶴」という地酒を(初めて)買う。
高校時代はもちろん飲まなかったが、私にとって大事な土地の酒として味わいたい。

昔と比べて道路と住宅がやたら立派になったものの、高校時代の運動部で筋トレ場だった通称”蛇神社”(白瀧神社)は昔のままだった。

そして、金網で周囲が閉ざされた都立秋川(アキカワ)高校の跡地に達する。
わが3年間を見守ってくれていたメタセコイアの並木がずいぶん成長して立派だ(写真)。
だが、そこに達する入口はない。
こうして柵の外から眺めるだけ。
懐かしさとやるせなさで心の中で涕泣している自分がいる。 

小学校には6年、大学には院も含めて9年通ったが、ここの高校3年間ほど濃い思い出はない。
廃校になってしまったということもあろうか。
ただ、全寮制だったことで、地域の人たちとはほとんど接触がもてなかった。
だから風景には締めつけられるほどの懐かしさを覚えても、道行く人たちへはその思いは広がらない。
”懐かしい人”がこの地にいないのだ。

道行く人たちにとっても、わが母校などとっくに消滅してしまっているわけだし。 
私にとってこの特別な懐かしさを、この地に対する自分なりの愛を、
地元の人たちと共有できないのがなんとも歯がゆい。


『死の体験』

2015年03月01日 | 作品・作家評

「人を殺してみたかった」という事件が目につくようになって思ったことは、
人にとって最も関心があっておかしくない「死」が、ひたすら隠蔽されている逆説的な現状について何か言いたいということ。

未成年が殺人事件を起こすと、学校は判で押したように、”命の大切さを教える”ことをアピールするが、死を直視せずにそれが可能なのか疑問だ。

私個人は、小学校の時、自ずから勝手に死について考えてしまい、あらゆる誤魔化しがきかない絶望をどうしても覆すことができず、1人恐怖におののくしかなかった。
それ以来、アリ一匹殺すことも避けるようになった。

死の理解は、他者の死の現実を自分の死の想像に置き換え、その自分の死の想像を他者の死の現実に置き換えることによってしか進みようがない。
死んだことがないわれわれにとって、死とはまずは他者の死だ。

中学の時、学年全員が体育館に集められ、警察署主催による悲惨な交通事故の遺体や事故に遭った幼児が死にゆく映像を見せられた時(今ではやらないだろう)、それはショックで見るのも苦痛だったが(失神した女子生徒が出た)、死を直視させられた経験として記憶に残る(トラウマにはならず)。

「イスラム国」によって殺された人質の遺体を学校で見せた教員に非難が浴びせられたが、私はそれをあえて見せた教員の教育的意図は理解できる。

さて、そういう私だから、昔から死を直視するための本を探すでもなく探し続けてきた。

まず、臨死体験関係は、死の手前からの生還者の脳内幻覚の話なので、除外。
『チベット死者の書』はひじょうに生々しい見てきたような死の体験記で、仏教の初七日や49日の意味は分るが、科学的評価には値しない(ただ仏教的死の疑似体験として、一読に値する)。
『死ぬ瞬間』(キューブラー・ロス)は、心理学的には参考になったが、題名から期待される内容ではなかった。 

以前書評の記事を書いた『意識障害の現象学』の著者安芸都司雄氏(脳外科医)による『死の体験』(世界書院)を先日読み、これを紹介したい。

といっても氏が記述する死は、他者(患者)の死を医師の立場から体験するものだ。
目の前の患者が死んでいく過程を、前著の詳細な過程の延長として、具体的には、3大死因である脳と心臓の血管障害、そして末期ガンで死んでいく時の過程を患者側の体験として記述している。

これらをまとめて、著者は死の体験を以下の2つの段階に分けている。
第1段階:死そのものの体験。これは死に直面して苦痛と苦しみで我を忘れる状態。
どんな死の体験も苦痛と苦しみから始まるという。
第2段階:意識がない状態(昏睡状態)

すなわち、死にゆくことは人生最大で後がない絶望的な”苦痛”を伴なうのだ。

その後、客観的な死がおとずれる(ここでいう「客観」は私の表現で、著書では「慣習的」な死。現象学をやる人は”客観”を自明視しない)。

その”客観的な”死の判定として、心臓死と脳死の問題にも触れている。
そこを読んで、自分が脳死を正しく理解していなかったことが分った。
脳死は心臓死よりは若干「生」に近い状態と思っていたが、それは昏睡(植物)状態との混同で、脳死こそ不可逆的な現象であり、心停止はそれによって必然的に脳死に至るから死の判定となるのだ。

脳死であれば心臓を動かす神経指令がいかないのだから、人工呼吸器をはずせば心臓も停まる。自然状態では脳死(≠植物状態)で心臓が生き続けることはない。
ただ判定が心臓死に比べると専門的になり、それなりの設備が必要となる。
もちろん、脳死も心臓死も「死の体験」の終了として、第三者が判定する出来事だ(その意味で客観的)。 

著者は、目の前で死んでいく他者に結果的になすすべがない現実を通して、死者の向こうの別の他者(イエス、仏陀)との出会いを論じる。
それは安直な”来世”への期待の話ではなく、真に死を見つめる者との出会い、すなわち死を見つめるからこそ生の意味がわかるという視点(孔子がこれを拒否したのは残念)の獲得を意味する。
現象学的視点の書なら、出会う他者はハイデガーであってほしかったが、これはむしろ私自身の課題としたい。 

死を自分の死の問題として、誤魔化さず直視すること(恐怖をはじめとするさまざまな不快感情を伴なう)。ここから他人を殺すことの意味(罪)が実感できる思う。