今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

一人で行ける限界

2016年02月04日 | お仕事

学部の仕上げと入試、そして大学院の入試と修論試験が連続する、一年で一番忙しい中、一番のヤマである後期授業の成績つけが終った。
こうして着々を仕事を仕上げて次の仕事に臨む。

帰宅して、余った野菜を片づける目的で、ひとり鍋を囲む。
野菜だから、どんどん食べてもカロリーオーバーにならない。
鍋だと飯は不要で、鍋に麺も入れない。
すなわち炭水化物はほとんど不要。

こうして一人で居ることなんら苦痛もないが、それができない人もいるらしい。

「人間は一人では生きていけない」 という言葉は嫌いで、単独でも生きていけるのが生き物の本来の在り方だと思っている。
だから『鳥島物語』のような、江戸時代の無人島漂着譚こそ、生きる勇気が与えられる。

もちろん他者は人生を豊かにする。
それは恩恵を意味する。

何割かの人は、一人で外食できないらしい。
一人でどこまで行けるか、という問題にはもともと興味があり、今年度の卒論にもこのテーマの学生を指導した。
こういう私でも、一人で行けない所がある。
温泉も山も外国も、フランス料理のレストランも一人で行けるが、大衆居酒屋は行けない。
名鉄リトルワールドは一人で行けるが、明治村は行けない。
食べ物でいえば、鳥の唐揚げは嫌いでも焼き鳥はOKなように、微妙な境界線があるようだ。  


冬を追う行事…

2016年02月03日 | 歳時

立春の前日の”節分”は、文字通り”季節の分かれ目”を意味し、つらい冬に別れをつげ、待ち焦がれた新しい春を祝う行事だ。
すなわち立春が正月元日であった大昔の名残りであり、”新春”を迎える前日の大晦日の追儺(ツイナ)・鬼遣い(オニヤライ)の行事だった。

この日家の入口に備える柊は、正月の門松そしてクリスマスツリーの柊と同じく冬にも緑をたたえる常緑樹の生命力に魔除けを頼んだもの。

そういう意味では、冬を追い払うという意匠こそ、この日の行事にふさわしい。
いいかえれば、その意匠にそぐわないもの、すなわち時を実感する”歳時”の喜びや敬意の表現でないものは、文化としての価値を見いだせない。

鬼を豆で追い払う行事は、まさに”追儺・鬼遣い”に由来しており、鬼=冬をみなせば納得はできるが、鬼が最後はいつもやっつけられるという出来レースがイベントとしてつまらない
もっとも、大きな寺社でやる(有名人を招いての)豪勢な豆まきは、参拝者の些細な物欲を刺激してそれなりに盛り上がるが、その物欲に翻弄された自分に後味が悪い。

正月は、かつては恵方参りをしたものだから、”恵方巻き”はそれと関連するとはいえるが、そもそも恵方など六曜と同じく現代人が考慮する必要がない迷信(迷信は存在への敬意ではない)。
それに大阪の花柳界が発祥というその振る舞いに品がない(お座敷の戯れ事のよう)。
少なくとも武家礼法とは無縁だから私はマネしない。

夕方、スーパーに行き、大量廃棄が目に見えている”恵方巻き”狂騒曲に辟易しながら素通りし(太巻きは嫌いでないのだが、今日だけは意地でも買わない)、せめて福豆だけでも買おうかと思ったが、売っている袋は私には多すぎる袋ばかり。
そもそも自分の歳の数だけでも多すぎて食べきれず、ましてや家の中から外に向って、大声を上げながら盛大に豆を投げる人など私を含めて近所には誰もおらず、また明日以降は福豆には一切関心がなくなることも目に見えているので、何も買わずに帰宅した。

春を迎える重要な日なのに、”旧正月”に匹敵する日なのに、 子どもじみた豆まきとインチキ臭い恵方巻きしかないのが哀しい。


私立中学進学

2016年02月02日 | 身内

甥っ子が私立中学に合格したという報せが入った。
私の母校の区立小学校に通っており、その小学校では大半が私立受験をするという。
別に親が奨めた訳ではなく、本人自らが私立を希望して、遠い塾に通っていた。 

公立(区立)が親だけでなく子ども自身から拒否されているようだ。
教育の主体である子どもに対する基本的態度が違うようであることは、私もうすうす感じていた。
実際、甥っ子は小学校で担任教師に拒否感をもち、スクールカウンセラーのカウンセリングを受けた。 

もっとも私自身は小学校~大学院まで公立で通し、特に高校には感謝しているが…

現在は、幼稚園から大学院まである私立学園に勤務している者として、教育のありかたが、上から頭ごなしに指図するやり方から、生徒(児童、学生)の主体的成長をサポートするやり方にシフトする動きの中にいる。
大学においても、昔のような一方通行の講義形式から脱しようともがいている。

私立学校こそ、それを先に実現しなくてはならない位置にある。