二度あることは三度あると、また、我々は彼らに試されているのである。
森友を、加計を、記憶の彼方にしまい込んだように、「桜を見る会」が同じように、我々の記憶が薄れて、また内閣支持率が回復するのを、彼らは、まるでお百姓さんが作物の生育を毎日眺めるように、じっと上の方から見ているのである。
お百姓さんは収穫した作物を我々に供給してくれるが、彼らは、この作物をどうするのだろうか?決して刈り取るわけではない。
時間がたてば、何事もなかったように、すました顔で、これ幸いと権力の座に舞い戻って、常に腹をすかしている家畜のように、また我々の税金をむさぼるのである。
そして、またやることは、OBLIVION〈忘却〉という名の種をまき続けるのであろう。その種の別名は〈沈黙のメディア〉という名でもある。
湘南の大地から