実は、ルーズベルトから天皇に親電を送って、元首同士の友好関係から日米戦争を回避しようとする日本側の動きはあった。
日本大使館の寺崎英成はメソジスト教会のジョーンズ博士と会見し、ルーズベルト大統領から昭和天皇に「平和への願い」の内容の親電を送ってくれるよう仲介を依頼した。
また11月15日から~12月7日までの約3週間しか日米交渉に参加できなかった来栖臨時全権駐米大使もこれに参画したのは言うまでもない。
11月26日、ハル・ノートで交渉決裂が見込まれる中、唯一の打開策として、寺崎の進めていた元首の親電交換の件を、野村・来栖の両大使の連名で本国の東郷外相に実行しても良いかを問い合わせている。
天皇が聞けなくても、少なくとも木戸内大臣にはこの案の是非を上げてくれとも依頼している。この事は来栖の回想録『泡沫の三十五年』に出てくる。
既に開戦前夜においては、近衛公爵が去った後、木戸内大臣が天皇側近の実権を握っていた。
ここで、東郷外相は11月28日にこの件につき、両大使に、この際の措置として適当ではないとの意向を伝えてきた。これを東郷は「時代の一面」で書いている。
だが、グエン・テラサキの回想録『太陽にかける橋』では、11月29日に寺崎はジョーンズ博士と会見しているのである。
ということは、グエンの記憶違いなのか、それとも、寺崎は独断で「ルーズベルト親電」工作を行ったことになるのではないだろうか。
そうだとすると、寺崎一家が開戦の翌年に交換船で帰国した時に、出迎えに来ていた寺崎の兄太郎に即座に「ルーズベルト親電」のことを告げたのも、その理由がわかる。
その時に、兄の太郎(元外務省北米課長)は「軍部はそのことについて知らないだろうから素知らぬ顔をするように、・・・」と云ったと書かれていた。
その時の寺崎の軍部への懼れの一端がよく理解できる。(次回へ)
【参考文献:グエン・テラサキ『太陽にかける橋』、東郷茂徳『時代の一面』、来栖三郎『泡沫の三十五年』】
12月1日には既に真珠湾攻撃の準備は整っていた。【上図『第二次世界大戦概史』より】