かの有名な「虎穴いらずんば虎児を得ず」と昭和天皇に木戸内大臣が誉められた10月16日の東條内閣成立は、第六回御前会議(9月6日開催)の「帝国国策遂行要領」を一旦は白紙に戻したが、結局は、11月5日の御前会議に於てほぼ元に戻り、期限定めて外交交渉し、期限が過ぎれば12月初旬に攻撃する方向に決定される。
この御前会議の準備として、11月1日連絡会議で方針を協議した後、11月2日、東郷は廣田弘毅元外相を訪ねる。「米国の態度が予想外に強硬」「戦争の危険性大」によって外相を辞職したいと言う。
廣田に「もし辞職すれば、すぐに戦争を支持する外相を任命する」と言われた。そして、同じ文官の賀屋興宣蔵相の意向を確認すると、多数者に同調する姿勢と知る。
此処で勝負あった。東郷外相はこの日の正午に連絡会議の方針に同調すると東條首相に告げる。
その翌日の11月3日に、東郷は来栖の全権大使派遣を思い立つ。その意味は外交交渉に期待するよりか、本国の意向に確実に対応し、交渉決裂、即開戦に対応できる人材として送り込んだと思える。
東郷は外交交渉を半ば諦めていたのではないか。その悔恨があって、終戦時の外務大臣を引き受けたのだろう。
日米戦争を避ける外交交渉というのは、果たして可能だったのか?
最後に、東郷外相が全権駐米大使に送り出した来栖三郎は、12月8日の真珠湾奇襲から逆算すると11月15日にワシントンに着いていることから、実質三週間しかなかった。
という事は、既に日本政府という名の軍部政権は日米開戦不可避としていた。それを東郷外相が知らないはずはない。無論、東京裁判においては白ばくれただろうが。
能く能く考えれば、東郷外相の就任は10月18日でこれも真珠湾奇襲まで50日しかなかった。果たして、50日間で1931年満州事変以来の10年間の軍部の慢心と暴力をどこまで抑え、変えることができようか?
現在の政治に場面を移し替えた時に、人間は50日間で何ができるのであろうか?(次回へ)
【参考文献:東郷茂徳『時代の一面』、参謀本部騙『杉山メモ』、来栖三郎『泡沫の三十五年』】