玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

日米戦争 ―来栖全権大使派遣は欺騙外交なのか?―⒂

2022-10-27 10:19:05 | 近現代史

たった3週間しか交渉の時間がなかったのに、来栖を全権大使として派遣した東郷外相は此の危局を救うためにあらゆる方法を尽くしたい、と言ったが、来栖が寺崎と共にルーズベルト親電を実現させたいと本省にお伺いを立てたら、東郷は「木乃伊取りが木乃伊になった」と評した。

彼は日米交渉決裂即開戦の場合に備えて、軍人上がりの野村大使ではなく、プロの外交官である来栖大使を現地に派遣して置きたかったではないかと思っている。

敗戦後の東京裁判では来栖大使の派遣は「欺騙外交」と疑われた。

史料によれば、11月3日に来栖派遣が決まる前の11月1日に、東条首相兼陸相と杉山参謀本部総長との会談があり、そこで東條は「御上は正々堂々とやることをお好みになることを考えると、今開戦を決意しその後欺騙外交をやることはお聞き届けにならぬと思う」と述べている。しかし成功するならば、やむを得ないとも述べている。

だから東條首相は、東郷外相の来栖派遣に賛成したのではないか。

それは最後迄外交に手を尽くすために、来栖を全権大使として送るのだという絶好のポーズになるからだろう。アメリカは来栖の派遣を疑っていたが、一応受け入れた。天皇は外交を尽くすという建前から来栖の派遣を当然と思った。

此処に、外交交渉の成果が見込めない来栖の派遣は、天皇とアメリカの両方を騙す二重の意味を持っていたことが分る。

11月29日海軍の永野総長が東郷外相に奇襲の日を教えた時に、「戦に勝つために外交を犠牲的にやれ」「我が企図を秘匿するように外交をやれ」「国民全体が此の際は大石藏之助をやるのだ」と言ったとか。

これらの史料は『杉山メモ』として昭和42年に刊行されているが、この文書の出処は参謀本部の作戦参謀たちが、仮令至上命令と雖も燃やせなかった、そして装丁を変えて遺した公文書であった。

これが東京裁判時に発見されていたら、どうであったか?と思う。

現代に置き換え、今の民主主義憲法下において、国家官僚が一人の内閣総理大臣に忖度して、公文書を改竄したという行政府の劣化は如何ともし難いという認識の上に、政治と行政の両側の人品の劣化に愕然とする。(次回へ続く)

【参考文献:東郷茂徳『時代の一面』、参謀本部騙『杉山メモ』】

 

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