―日本はシベリア出兵には固執した―
日本が欧州に派兵しなかった理由は、遠く欧州に兵を派遣することの国家利益を算段した結果であろう。
不思議にも、翌1918年7月、米国がソヴィエト内のチェコ軍5万人救護の為、日米共同でウラジオストック出兵を提議すると、8月には日本は兵を派遣し、9月にはバイカル湖以東のアムール鉄道前線制圧し治安と交通の維持にあたった。
この時の日本は、シベリア出兵で秘かに極東ロシアに親日政権の樹立、満洲全域の勢力拡張を企図していた、と言われている。そして、1919年末~1920年初めには、米英軍は撤兵した。
ところが日本は1922年になってやっと撤兵する。この時の日本の姿勢が、同盟国としての協力は怠るが、自国の領土の拡大に関わるものには積極的であるという国家の方向性が、米英に悟られ、更に不信を高める結果となったのではないか。
秦郁彦は「シベリアに居座り、国際世論を悪くし、…シベリア出兵の失敗は反省されず、結局、太平洋戦争まで行き着くわけです。」と言う。
これらのことが日英同盟の破棄、そしてワシントン条約の戦艦製造制限という日本への風当たりにつながっていったと思うのが筋道であろう。
とすれば、その頃にあって、この國はどのような国家の意思形成を行っていたのだろうか。
【引用文献:黒野耐『参謀本部と陸軍大学校』講談社現代新書、秦郁彦・半藤一利ほか『昭和史の論点』文春新書】
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