約三十年前の昭和天皇崩御の時の世情を思い出した。毎日、下血報道が新聞の一面に載って、いつの間にか自粛と言う名の御上や組織からの締め付けがそこら中に張り巡らされた。或る日、盛り場の灯は消えて、日本国中が真っ暗な都市となり、社会のお偉い方々はこぞって喪服のような黒いスーツを着始めた。むろん、アナウンサーは礼服を着て、お笑い番組は影をひそめた。
その時、戦争を知らない世代にある者は、昭和天皇の死によって、平和ボケのこの国に、「欲しがりません、勝つまでは!」「贅沢は敵!」という標語が席捲していたことが、容易に想像できるようになった。そして、上からの有無を言わせぬ断乎とした統制という軍國主義の真っ黒な断面が妖怪のように地中から大きな壁のように眼前にせり上がってきた。
振り返って、戦後生まれの世代にとって、あの無意味で恐ろしく長い時間の堆積は、戦前の日本國の姿を知ることができた唯一貴重な体験であった。
自分の死による社会の暗黒化への気遣い、皇族の殯(もがり)への配慮、そうした細かい処へのやさしい気遣いが感じられた平成天皇の言葉だった。そして、繰り返し何度も言われた「私(わたくし)」という言葉の清々しさであった。戦後生まれにとっては、かつて聞いたことがある昭和天皇の「朕(ちん)」という言葉は、噛み砕けない硬さ、重さ、違う世界の言葉としか受けとれなかった。しかし、あの昭和時代にせよ、その言葉を普通に聞いていた世代が、実は戦後の平和憲法下の社会の大勢を占めていたことも事実であった。
今、また、改憲派の一部には、「朕」と言う天皇制を希求している匂いが感じられる。象徴天皇制と何度も言われた平成天皇の言葉の強さを感じ取ってもらいたいものだ。
しかし、現在の平成天皇が皇太子の時代に、この観念の浅さを思い知ることがあった。それは皇太子時代のご夫婦の在り方だった。年数回まじかに接する機会を得ていたが、昭和天皇の容体がいよいよ公表される直前に、皇居以外で最後になるであろうテニスのその最後のゲームに、パートナーの指名を受けた。侍従のT氏にお断りを告げると、T 氏の顔は一瞬で曇り、「陛下はここ数年、あなたがテニスクラブへの案内と警護の為に尽くされたことをよくよくご存じで、最後のゲームは是非あなたにと指名されました。そのお気持ちをどうぞ受けて下さい」とのことでした。テニスのプレー中、私は自分の観念的な不明さを恥じました。
何度も何度も私を励まし、強敵に対抗しました。自分など、何度生を受けて修練を積んでも到底たどり着けない存在を知り、世界観が変わりました。
何かにつけ、その方に注視を払うこと、それが敬意だと思います。良き皇室を得て私たちは幸せだと思います。
ゲームは負けました。相手はアメリカ人の会長とイタリア系の副会長で、全力勝負でしたから。