玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

日米戦争 ―東郷茂徳はなぜ泥舟に乗ったのか―⒇

2022-12-16 13:31:20 | 近現代史

外交官にとって戦争することが目的である内閣の外相に就任するのは泥舟に乗るに等しいと見ます。

支那の日本軍駐兵を止めないと突張った東条のお陰で近衛内閣が瓦解した。つまりは駐兵をやめない限り日米交渉は成立しないと分かっていただろうが、東郷は何故だか、交渉成立の方向に持っていけるという自信を得て、外相就任を受諾した。

そして「由来自分は自分よりある地位を求めたことは無い」と語る。こういう事を自ら言う人は、私はあまり信用はしていませんが。

東郷は終戦後「予の失策は東條との約束を信頼した…」と述懐している。実は、東郷と東條はドイツにおいて、三等書記官と駐在武官として同じ職場にいたのである。そうした若い頃からの人間関係もあった訳である。

彼は「相手国も既に戦争を決意していたほどの事態であったことを知らなかった」と戦後に失策を打ち明ける。ということは、「相手国も」という以上、日本は戦争する気であったのであろう、ということは十分解っていた筈だろう。

開戦前の空気を、法政大の山口二郎は「(1940年)9月になると、日米開戦も必死かという認識が一般の人にも広がる。」と永井荷風の『断腸亭日乗』から引用した。

となれば、東郷が外相に就任する1年前から、一般人でさえ日米戦争の可能性を感じていたのに、東郷は外交交渉が成立すると考えたのだから、かなり呑気な外交官、或いは自信過剰な外交官ということになる。

いや、東郷は1940年8月に松岡洋右外相によって呼び返されて、枢軸外交に合わないという理由で辞職を勧められていた。その意趣返しの意味もあって、外相を引き受けたのかもしれないと、ふと思ったりしています。

結局は、日米戦争は長い坂道を転がるようにして、最後は真珠湾奇襲を日本がやらなければならなかったように追い込まれた。

この長い筋道は、極東の小国が大国ロシアに勝利し、第一次世界大戦で旧ドイツ領をタナボタ式に取得し、俄かに五大国に成り上がった日本を、アメリカが1920年のワシントン会議以来、ずっと抑えつけようと虎視眈々と狙っていたような気がしてならないです。

その頃から、じわじわと日本も戦うことを意識していたのではないだろうか、とも思います。

保坂正康は「今改めて私は、太平洋戦争そのものは日本の国策を追う限り不可避なものだったと思いに至っている」という。

孫崎亨は「私は日本がアメリカとの戦争に突入したのはアメリカの謀略だと考えている」という。

秦郁彦は「ルーズベルトが真珠湾攻撃を事前に知っていたことを示す第1次史料は存在しない」とも言う。

私は、今の日本が属国化の更なる深みに落とされていく姿をみると、アメリカの太平洋戦略において、日本という軍事基地は、必要な時に必要なだけ使う出城として遇しているのだと思うのです。

自ら不沈空母と云った愚か者もいたようで、この国にはその程度の政治家しかいないようです。

(一応、今回で区切ります。次回はまた別の角度から、…)

【参照文献:東郷茂徳『時代の一面』、戸川猪佐武『東條英機と軍部独裁』、赤松貞雄『東条秘書官機密日誌』、山口二郎『民主主義をどうしますか』、保坂正康『あの戦争は何だったのか』、孫崎享『アメリカに潰された政治家たち』、秦郁彦『検証・真珠湾の謎と真実』】

 


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