「独白録」では開戦時の重臣意見の中で、「玄洋社の関係か、…戦争した方がいいという意見で…外交官出身として…思いもかけぬ意見を述べた」と広田が描かれている。
『木戸幸一日記』では、11月29日の条に「…今回の危機に直面して直に戦争に突入するは如何なものにや。…仮令打ち合いたる後と雖も…機会を捉えて外交交渉にて解決の途をとるべき」と広田の意見が記されている。
いかにも城山が描いた広田弘毅らしい外交交渉一筋の意見ではないか。
「独白録」では、近衛文麿、広田弘毅、松岡洋右、平沼騏一郎が、天皇の評価が低い。
しかし、松岡は1946年6月26日に巣鴨拘置所で病死した。
既に近衛は1945年11月に自殺している。
残る文官で大物は平沼と広田の二人になってしまったのだ。
妻が既に先を察して自死した広田は、敢えて自ら死を選んだのではないだろうか。
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