玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

木戸幸一の日記 -その1-

2021-09-08 10:39:04 | 近現代史

寺崎英成「御用掛日記」の1948・1・27の件には、寺崎が昭和天皇に拝謁すると、「原田日記は個々の事実に誤りあれど、全体の流れは正し、木戸はその反対なり」と天皇が言った、と書かれている。

そして寺崎は「木戸日記は人に見られる事を予想して書いたものに非ず」と書き添えている。(なお、この件は2021・03・05付の「本」のブログ記事にも書いている。)

日記というものは毎日書き足していくので、後から挿入したり、削除しづらいので、歴史的史料価値が高いとされている。しかし「日記」と言っても、人に見られる事を予定して書いたものもあるのではないか。

古典の中には、紀貫之「土佐日記」なんかは一種の女性の使うかな文字による日記という表現形式であり、一つの文学である。

近現代史においては、例えば、宇垣一成陸軍大将の日記を読むと、明らかに人に見られる事を過剰に意識して書いているのが読んでいてすぐ解る。

ある特殊な撰ばれた地位や身分の方々は、当然他者の目を意識しながら、何れ公表されることも予想して日記をつけていたと思われる。

それで「木戸日記」はどうかというと、多分、木戸も内大臣つまり天皇の第一側近という重職になってからは、当然に他者の目を気にして書いていたと想像できる。

とすると、寺崎が擁護したように、「木戸は人から見られる事を予想していなかったのだろうか?」。また、天皇の「全体の流れ」というのは何を意味するのか?これが、この先のテーマでもある。

木戸の日記は、周りの人間は彼が精緻な日記を付けていたことをよく知っていて、その記録としての活用価値を認められていたのである。

実際、侍従次長の木下道雄は、自らの日誌の中で1945年12月4日にこう書いてある。

「…戦争責任者について色々お話あり、…ご記憶に加えて内大臣日記、侍従長記録を参考に一つの記録を作り置くを可と思い、右許可を得たり」とある。

この日記にある「内大臣日記」とは、後年に刊行された「木戸幸一日記」のことである。

余談であるが、この木戸の日記がどこにあるかも周囲の侍従たちは皆知っていた。二日後の12月6日に木戸の文書カバンを探すのであるが、これが所定の場所に無いので大騒ぎとなっている。

実はこの日に木戸幸一には戦犯の逮捕命令が出ていた。さて「木戸日記」はどこに行ったやら?また、それは次回に・・・。


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